オレの愛しい王子様【プロローグ?第8話】
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プロローグ

 

「まだそんなズボンはいて僕とか言ってんのかよ」

 創真がなかよしの翼をさそって園庭のすべり台に向かっていたところ、やんちゃな男子三人組がとおせんぼをするように立ちふさがり、いじわるな言葉をぶつけてきた。創真ではなくその後ろにいる翼に。

 彼らはいつもそうやって翼をいじめるのだ。

 しかしながら翼は何を言われても決して言い返そうとしない。いまも困ったような顔をしてただじっと下を向くだけである。代わりにというわけではないけれど創真がカッとして啖呵を切る。

「おまえらにはカンケーないだろっ!」

「気持ちわりーんだから関係あるぜ」

「なにぃ?!」

 思わずこぶしを握りしめて突っかかろうとしたが、翼に後ろから腕を掴まれた。その手は非力だったものの無理には振りほどけない。なすがまま園庭のすみっこのほうに連れていかれてしまう。

「逃げんのかよ、よわむしー!」

「タマついてねーもんな」

 背後からはそんな嘲笑の声が聞こえてきた。

 創真は耐えきれずに振り返ったものの、そのときには三人ともこちらのことなど見てもおらず、何事もなかったかのようにジャングルジムへ駆けていく。

「なんだよ……」

 消化不良のまま、創真は微妙な面持ちで翼に向きなおった。

「なあ、おまえもイヤならちゃんと言い返せよな」

 どんなに嫌なことを言われてもただじっと我慢しているだけなのが、創真にはもどかしい。しかしながら翼はまるで当然だとばかりにさらりと答える。

「ケンカは悪いことだからやっちゃダメなんだ」

「だけど、あいつらがさきに言ってきたんだぞ」

「それでもぼくは西園寺の後継者だから……」

「コウケイシャ?」

 聞き慣れない言葉に創真が首を傾げると、翼はふわっと笑う。

「うん、おとなになったら会社のいちばんえらいひとになるんだって。だからいい子でいないといけないんだ。勉強もいっぱいして、かしこい立派なおとなになれって母上にいつも言われてる」

「ふーん……」

 いじわるされても我慢するのがいい子だなんてなんだか納得できない。えらいひとになるためにいい子でいるというのも窮屈に感じる。それでも翼自身ががんばろうとしているのなら??。

「じゃあ、オレがそばについててやるよ」

「ついて……?」

 きょとんとした翼を見つめて、力強くうなずく。

「うん、さっきみたいにいじめられてたら助けるし、えらい人になれるように手伝う。勉強もいっしょにしよう。おとなになってもずっと翼のそばにいる」

 自分で言いながらとてもいい考えだと思った。

 翼といっしょにいられたらうれしいし、翼の力になれたらもっとうれしい。きっと翼もとなりで笑顔を見せてくれるはずだ。

「約束する、ほら」

 創真のよりもひとまわり小さな手を取り、小指と小指を絡める。

 大事な約束はこうやって指切りするのだと聞いた。ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら??軽く手を振りながらそう歌うと、翼はだんだんと顔をほころばせて幸せそうに笑ってくれた。

 

 

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第1話 オレの愛しい王子様

 

「僕を待たせるとはいい度胸だな」

 夏休みが終わり、二学期が始まるその日の朝。

 諫早創真(いさはやそうま)がいつものように西園寺の邸宅へ迎えに行くと、すっかり準備を整えて待ち構えていた西園寺翼(さいおんじつばさ)が、うっすらと笑みを浮かべてそんなことを言った。

 迎えの時間は決めてあるもののそう厳密なものではない。腕時計を見てみると、確かに二分ほど過ぎているがおおよそ時間どおりである。このくらいの遅れならいままでにもときどきあった。

「おまえといれば度胸もつくさ」

 どうせ気まぐれでからかっているだけだろうと思い、軽くそう返したが、予想に反して翼の反応は怖いくらい真面目なものだった。

「なら罰を受ける覚悟もできてるな?」

「え、マジで言ってんのか?」

「何かしらのペナルティは必要だ」

「ペナルティって……」

 困惑する創真のまえで、翼は目を伏せてじっと思案するような素振りを見せる。やがてふいとわずかに視線だけを上げたかと思うと、ニッといたずらっぽく笑った。

「冗談に決まってるだろう。度胸がついたというわりにはビビりすぎだぞ」

「おまえなぁ」

 創真は大きく安堵の息を吐きながらそう言って、じとりと睨んだ。

 

「あまりからかっていると創真くんに愛想を尽かされるぞ」

 笑いを含んだ声が、天井の高い広々とした玄関ホールに響く。

 振り向くと、仕立てのいいチャコールグレーのスーツを身につけ、悠然とした足取りで階段を降りてくる壮年の男性がそこにいた。翼の父親で、由緒正しい西園寺家の次期当主に指名されている征也(せいや)である。

 ただ立っているだけでカリスマ性を感じさせる美丈夫でありながら、身のこなしも洗練されており、また仕事ぶりも素晴らしく、後継者として非の打ちどころがないと評価されているようだ。

 そんな彼に、翼は幼いころからずっと憧憬と尊敬の念を抱いていた。創真は本人から飽きるくらい何度もそのことを聞かされてきたし、実際、父親といるときの表情を見れば一目瞭然である。

「父上、創真とは仲良くやってますから大丈夫です」

「幼なじみというのは得難いものだ。大切になさい」

「はい」

 いまも尊敬のまなざしを隠さない。

 こんな目を向けられてはくすぐったくなりそうなものだが、征也はいつもながら照れた様子もなく鷹揚に受け止めて、再び足を進める。

「あ、おはようございます」

「おはよう創真くん」

 目が合って思い出したようにあたふたと挨拶をした創真にも、やわらかく微笑み返してくれた。用意された革靴を履き、後ろに控えていた妻の瞳子(とうこ)からビジネスバッグを受け取る。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

「父上、お気をつけて」

 瞳子と翼がそれぞれ声をかけるが、創真は何と言えばいいかわからず無言のまま頭を下げた。普段、征也はもっと早い時間に家を出ているので、こんなふうに見送ることになったのは初めてなのだ。

 しかしながら彼は気にする素振りもなく軽く頷き、颯爽と玄関をあとにした。

「さあ、翼もそろそろ行かないと遅刻しますよ。あなたは西園寺の後継者になるのですからね。常にその名に恥じないように行動しなさい」

「はい、母上」

 西園寺の後継者になるのだから??瞳子のその言葉は、創真でさえいいかげん耳にタコができそうなくらい聞いているが、翼はうんざりする様子もなくいつも真面目に受け止めている。むしろ期待されていることをうれしく思っているようだ。

「行くぞ、創真」

「ああ」

 翼は颯爽と足を進め、そのあとを創真は小走りで追いかけていった。

 

 九月一日は、まだ真夏のような気がする。

 午前の早い時間だというのに、すでに刺すような強い日差しが容赦なく降りそそいでいる。日が高くなればさらにきつくなるだろう。秋らしい気候になるにはもうしばらくかかりそうだ。

 創真はじわりと汗がにじむのを感じてネクタイを緩め、そっと隣に目を向ける。

 自分と違って、翼は暑さなど感じていないかのように涼しげな顔をしていた。汗をかきにくい体質なのでそう見えるというのもあるだろうし、表情に出さないようにもしているのだろう。いつだってだらしなく見えないよう努力しているのだ。

「翼くん、おはよう」

「おはよう」

 明るく声をかけてきたクラスメイトの女子に、翼は甘い微笑を返す。

 すっと通った鼻筋、形のいい薄い唇、甘さを感じさせる目元、白くなめらかな肌、栗色のゆるふわショート、すらりと姿勢のいい長身??その凜々しくも中性的な容姿から翼は王子様と言われていたりする。

 半袖シャツにネクタイ、スラックスというありきたりな夏の制服も、手足の長さもあってずるいくらいさまになっていた。とても創真と同じデザインのものとは思えない。見比べると絶望的な気持ちになる。

 幼稚園に通っていたころは創真のほうがだいぶ大きかった。けれど小学四年生のときに抜かれて、高校一年生のいまは翼のほうが十二センチも高くなってしまったのだ。こんなはずではなかったのに。

 さらには成績も遠く及ばない。私立の進学校として名高い桐山学園高等学校の中で、翼は常に学年トップの成績だが、創真はかろうじて半分より上というあたりである。このままでは同じ大学に進学するのも難しい。

 こんな自分が翼の隣に立つことなど許されるのだろうか、翼を支えていくことなどできるのだろうか、翼のためにいったい何ができるというのだろうか。ときどきふとそんな思いにとらわれてしまう。それでも??。

「ん、どうした?」

「いや……」

 不躾な視線に気付かれたことに内心であわてつつ、曖昧に目をそらす。それが不自然に映ったのだろう。翼は不思議そうな顔をしながらわずかに小首を傾げる。

「悩みがあるなら相談にのるぞ?」

「ん、まあ……」

 創真は言葉を濁して黙り込んだ。悩んでいるといえばそうだが、自分の中では決着のついていることなので相談する必要性は感じていないし、そもそも当事者である翼には話したくも知られたくもなかった。

 その心情を察したのか、翼はあきらめたようにうっすらと苦笑した。

「おまえ、意外と秘密主義だよな」

「は?」

 いくらなんでも秘密主義と言われるほど秘密にした覚えはない。創真はムッとしてすこしぶっきらぼうに言い返す。

「おまえにも言えないことくらいあるだろう」

「創真になら言えないことなんてないけどな」

「…………」

 胡乱な目を向けると、翼はそれを受けてふっと口元に笑みを浮かべた。

「じゃあ、聞きたいことがあるなら聞いてくれ」

「何でも正直に答えられるとでもいうのかよ」

「ああ」

 だったら、翼の??。

 喉元まで出かかった質問を創真はグッと飲み込んだ。その答えは聞くまでもなくほぼ確信しているが、こんな形で問い詰めるべきことではないと思うし、何より同じ質問を返されてしまう可能性もあるのだ。

「……考えとく」

 そう受け流して、この話題を曖昧に打ち切った。

 

「おはよう、西園寺くん」

 校門をくぐると、翼はあちらこちらから女子生徒に声をかけられる。

 彼女たちに愛想よく返事をするのはもちろんのこと、遠巻きに見つめている子たちにも甘やかな笑みを振りまくので、黄色い声が絶えない。それはもうすっかり日常の光景と化していた。

「ごきげんよう。相変わらずあなたのまわりは騒がしいわね」

「桔梗姉さん」

 すっと翼の隣に並んで声をかけてきたのは、姉の桔梗(ききょう)だった。

 彼女はこの桐山学園高等学校の二年生である。翼と同じくらいの身長でやはりモデルのようなスタイルをしており、容姿端麗で頭脳明晰、さらに自然と人を従わせる雰囲気があるため女王様の異名を持っていた。

 ふたりが並んでいると、相乗効果でいっそうまわりの目を惹きつけてしまう。

 ただ、隠しているわけではないので知っているひとも少なくないし、むしろそれを面白がっているひともいたりするのだが??実のところ、とてもじゃないが仲がいいとは言いがたい。

「調子に乗ってアイドルにでもなるつもり?」

「姉さんのようにお高くとまってないだけです」

「あなたは軽薄で品性に欠けるのよ」

「そういう姉さんも大概だと思いますけどね」

 きらびやかな笑顔を見せたままの応酬は、なかなか怖い。

 もっとも今に始まったことではなく、幼いころからずっとこんな感じで反発しあってきた。創真も何度となくその現場を目にしている。翼は認めないが、いわゆる同族嫌悪というやつではないかと思っている。

 それでも桔梗には年上だという自覚があるのだろう。だいたい先に引き下がるのは彼女のほうなのだ。今回もそれ以上は言い返さず、ただあきれたとばかりに溜息をついて冷ややかな視線を流す。

「西園寺の名にふさわしい振る舞いをなさい」

 それだけ言い置くと、腰近くまである艶やかな黒髪をなびかせながら、反対側にいた創真の隣に軽やかにまわりこんできた。

「ごきげんよう、創真くん」

「おはようございます」

 さきほどまでとは別人のようにやわらかく微笑む桔梗に、創真は軽く会釈した。

 彼女とは幼なじみといえるほど親しくないが、幼稚園や小学生のころは一緒に遊んだこともあるし、いまでも顔を合わせば挨拶くらいはしている。そのたびに翼は面白くなさそうにしていたけれど??。

「桔梗姉さん、創真に絡むのはやめてください」

「あら、挨拶しただけじゃない」

「姉さんの魂胆はわかっています」

「あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」

「創真に話しかけることは僕が許さない」

 ここまで強硬な態度を示したのは初めてだった。

 自分の頭ごしに言い合うふたりを交互に見ながら創真はおろおろする。魂胆がどうとかいう話からすると、ふたりのあいだで何かあったのかもしれないし、それもわからないまま下手に仲裁するわけにもいかない。

 しかし、そう思ったときにはもうすでに口論が途切れていた。先に引き下がったのはやはり桔梗のようだ。言葉の代わりにいかにもうんざりしたように深く溜息をつき、そっと創真に目を向ける。

「創真くん、こんな狭量な人間に仕えるのは考え直したほうがいいわよ」

「いや、オレは……別に……」

 返答に窮していると、彼女はどこか同情めいた笑みを残して昇降口へ向かった。そのあとを何人かの生徒があわてて追いかけていく。友人というより信奉者か野次馬かといったところだろう。

 そして、こちらにもクラスメイトの女子三人組が駆け寄ってきた。

「朝からお姉さんとのバトル大変だったね」

「バトルってほどじゃないよ」

「私たちは翼くんの味方だから!」

 きゃいきゃいと目を輝かせてはしゃぐ彼女たちに、翼はにこやかに応じる。しかし桔梗と言い争ったことで疲れていたのだろう。そこにほんのすこし苦笑のようなものが混じっていたのを、創真は見逃さなかった。

 

 教室に入ると、ふたりはそれぞれ自席に着いた。

 翼は窓際のいちばん後ろで、創真はそのひとつ前だ。席はくじで決めているものの、ふたりが前後になったのは偶然などではなく、翼がその席を引いた男子に替わってもらったからである。

 私語でざわつく中、創真はスクールバッグから筆記具や教科書を出していたが、ふいに後ろからグイッと強く肩を引かれた。振り返ると、翼がひどく思いつめた顔をしてこちらを見ていた。

「さっきのことだけどな」

「ああ……」

 近い、近すぎ??。

 他のひとには聞かれたくないのだろう。常にはないほど顔を近づけて声をひそめる翼に、そのときかすかに感じたほんのりとあたたかい吐息に、創真は内心どぎまぎした。頬もすこし赤くなっているかもしれない。

 しかし、翼はそれに気付いた様子もなく真顔のまま話を続ける。

「桔梗姉さんは創真のことを欲しがっている」

「は……?」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 あまりに突拍子もなくてわけがわからず唖然としてしまい、もはや胸を高鳴らせるどころではなかった。ひどく混乱する頭を必死にめぐらせながら言葉を紡ぐ。

「欲しがってって……え、どういうことだ?」

「自分のそばに置いておきたいみたいだな」

「桔梗さんがそう言ったのか?」

「最近、よく思わせぶりなことを言っている」

 おかしな意味ではなかったようですこしほっとしたものの、そばに置いておきたいというのはやはり信じがたい。桔梗ならどういう意図にしろ選び放題のはずなのに。

「オレなんかを欲しがるとは思えないけど」

「僕から大事なものを奪いたいだけなんだろう」

「……大事なものって、オレか?」

「それ以外に何がある」

 まあ、話の流れからするとそれ以外にはないのだが。

 思わずにやけそうになるが、それを見られるわけにはいかなくて必死にこらえた。翼は怪訝そうにほんのすこし眉をひそめたものの、すぐに気持ちを切り替えたのか真剣な面持ちになり、まっすぐ創真を見つめる。

「いいか、くれぐれも姉さんの甘言に惑わされるなよ。おまえを気に入ってるとか言ってくるかもしれないが、そういうわけじゃない。あとで知って惨めな思いをするのはおまえだからな」

「オレは、翼から離れるつもりはないよ」

 そう答えると、翼はようやく安堵したように表情を緩めた。

 ただ、創真としては桔梗がそこまでするとは思えなかった。ちょっとした嫌がらせとして思わせぶりなことを言ってみただけで、行動には移さない気がする。とはいえどちらにしても創真の答えは変わらない。

 ずっと翼のそばにいて、翼を支える??。

 幼いころにそう約束を交わした。自分に支えられるのか悩むことはあっても、誰かに何かを言われたからといって離れるつもりはない。翼にいらないと言われるまではそばにいようと決めている。

 ただ、それは決して義務感や責任感からではない。創真自身がそうしたいと心から望んでいるからである。そもそも約束を持ちかけたのは創真なのだ。そしてその気持ちは当時よりもずっと強くなっている。なぜなら??。

 始業開始のチャイムが鳴った。

 肩を掴んでいたほっそりとした白い手が離れて、創真は前に向きなおる。それでも後ろに翼がいることを意識すると、自分の背中を見ているのではないかと思うと、すこしだけ鼓動が騒がしくなる。

 そう、胸に秘めたまま誰にも打ち明けるつもりはないけれど、創真は幼なじみで親友の翼を、幼なじみとして親友として以上に愛しいと思ってしまっているのだ。それを翼が知ることは、きっと、永遠にない。

 

 

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第2話 帰国子女の編入生

 

「おー、そこ席に着けー」

 創真たちの担任がガラガラと扉を開けて教室に入ってきた。

 後ろのほうに集まっていた男子生徒たちを注意しつつ教壇に立つが、教室は静かになるどころかいっそうざわめいていく。その視線は、担任が連れてきた見知らぬ男子生徒に注がれていた。

 顔はきりりと端整で、背が高く、適度に筋肉がついており、全体的にしっかりと男らしさを感じられる。それでいてさっぱりと清潔感があり暑苦しくない。老若男女に好かれそうな見目だ。

「えー、今日からこのクラスの生徒になる編入生を紹介する。東條圭吾くんだ。親御さんの仕事の都合で幼いころからずっと海外にいたそうだ。日本語は普通に話せるから安心していいぞ」

 そう言って、英語教師である担任はいたずらっぽくニヤリと笑う。英語ができない生徒のことを揶揄しているのだろう。情けないことに創真も英会話は苦手なほうなので、苦笑するしかなかった。

「じゃあ、東條、何かひとこと」

「はい……東條圭吾です。十年ほど日本を離れて、イギリス、フィンランド、ノルウェーに住んでました。学校のことも日本のこともあまりわからないと思うので、いろいろと教えてください。よろしくお願いします」

 帰国子女の編入生は違和感のない発音で挨拶すると、お辞儀をする。

 そんな彼にクラスはあたたかい拍手で歓迎の意を示した。一部の女子はかっこいいなどと興奮ぎみにささやき合ったり、熱いまなざしを送ったりしている。それでも彼は真面目な表情を崩さない。

「おまえの席はこの一番後ろだ」

「はい」

 担任が示したのは翼の隣だ。

 夏休み前までは何もなかったそこには机と椅子が置かれていた。登校してそれを見た時点でどういうことなのかみんな察しがついたし、一部では男子か女子か予想して盛り上がったりもしていた。

 編入生は背筋を伸ばして机と机のあいだを歩いていく。自分に向けられたまなざしやひそひそ話には気付いているだろうが、どことなく居心地の悪そうな顔になるだけで目を向けることはなかった。

「よろしく」

 彼が席に着こうとしたとき、翼は隣からそう声をかけてにっこりと微笑んだ。彼はすこし驚いて、こちらこそと戸惑いがちに返事をしながら座り、そのままじっと探るように翼を見つめる。

「君、どこかで会ったことないか?」

「え、どうかな。僕には覚えがないけど」

「……悪い、変なこと言って」

「いや」

 まるで下手なナンパだが、気恥ずかしげに黙り込んでしまったところを見ると、おそらく本当に既視感を覚えただけなのだろう。その様子を目にして翼はひそかにくすりと笑っていた。

 

「東條、もしよかったらこれから学校の中を案内するけど」

 終礼後すぐ、翼は帰り支度を始めようとした隣の編入生にそう申し出た。

 小中学生のときもよくこうして転校生の面倒を見ていたので、翼からすればさして特別なことではないが、それを知らない当の編入生は驚いて目を瞬かせていた。

「いいのか?」

「もちろん」

「じゃあ頼む」

 フレンドリーな翼につられるように、彼も笑顔になった。

 創真は横向きで頬杖をついてふたりの様子を眺めていたが、会話が一段落すると席を立ち、スクールバッグを肩にかけながらあらためて翼に向きなおる。

「案内するところは絞れよ」

「わかってるって」

 いつもあちらこちらと案内しすぎて時間が長くなるのだ。しかしながら翼は心配いらないとばかりに軽く笑い飛ばすと、スクールバッグを肩にかけて創真の隣に立ち、まだ座っている編入生に声をかける。

「行こうか」

「え……ああ」

 彼は小さく頷き、あわてて帰り支度を整えて立ち上がった。

 おそらく翼とふたりきりだと思い込んでいたのだろう。そしてそれを望んでいたのだろう。平静を装っているものの、一瞬、そこに落胆の色が浮かんだのを創真は見逃さなかった。

 

「そういえば自己紹介がまだだったな」

 教室を出ると、翼はそう切り出して隣の編入生に振り向く。その表情はいつもよりも華やかなよそいきのものだった。

「僕は西園寺翼。西園寺でも翼でも好きなように呼んでくれて構わない」

「ああ……じゃあ翼って呼ばせてもらおうかな。俺のことも圭吾でいい」

「わかった」

 眉目秀麗で男性的な体格の編入生と、凜々しくも中性的な容姿の翼が並んでいると、それだけで絵になる。桔梗と翼のきらびやかさとはまた違った雰囲気だ。放課後の廊下で談笑していた女子たちも目を奪われていたし、やたらざわついてもいた。

「創真も自己紹介しろよ」

「うわっ」

 ふたりのすぐ後ろを歩きながら物思いに耽っていた創真は、いきなり翼にグイッと上腕を引かれて声を上げた。蹴躓いてよろけながら翼と編入生のあいだにおさまる。

「ったく……」

 翼が強引なのはいまに始まったことではない。軽く溜息をつくと、自分より頭ひとつ大きい編入生にちらりと目を向ける。

「オレは諫早創真。翼以外にはだいたい名字のほうで呼ばれてる」

「諫早くんだな」

 編入生はにっこりと確認するように復唱した。

 ただ??翼のことは迷わず呼び捨てにしていたのに、なぜか創真は君付けである。小柄で童顔なので無意識に付けてしまったのだろうか。面白くはないが、わざわざ指摘するのも癪なので黙ってこくりと頷いた。

 

「ここが図書館だ。なかなか立派だろう」

 図書館はガラスを多用した透明性の高い近代的なデザインだ。エントランスは吹き抜けになっていて、それ以外のところも天井が高く、閲覧スペースも広々としており、全体的に開放的で明るい印象となっている。

「これが学校の図書館とはなぁ」

「おととし建て替えられたばかりなんだ。閲覧スペースで勉強することもできるけど、定期試験前はすぐに席が埋まる。よほど頑張らないと取るのは難しいだろうな。本を借りるときは??」

 唖然とする東條に、翼は実用的なことを中心によどみなく案内していく。翼自身、高校に入ってからまだ半年も経ってないし、案内するのも初めてだが、堂に入っていてとてもそんなふうには見えない。

「ここは学食だ」

 続いて隣の学食にやってきた。

 学食というよりも広大なカフェといった雰囲気で、天井が高く、窓側は上まで全面ガラス張りになっており、その向こうのテラスにも客席がある。図書館よりもさらに開放的で明るい印象だ。

「ランチタイムにはカフェテリア方式でメニューが用意される。そこからトレイに好きなものをのせていって最後にレジで支払うんだ。支払いは現金でもいいけど電子マネーが便利だぞ。ここで買わずに弁当を持ち込むことも許可されている」

 まだ準備中だが、始業式のみだった今日もランチの提供はあるようだ。奥で忙しく準備をしているのが見える。部活動などで必要とする人がそれなりにいるからだろう。

「翼はどうしてるんだ?」

「だいたいここで買って創真と食べてるな」

「じゃあ、俺も一緒に食べていいか?」

「構わないよ」

 翼は当然のように勝手に了承した。

 あいかわらず横暴だが、たとえ意見を求められたとしても嫌だなんて言えなかった。いずれにしろ創真は苦々しい顔をすることしかできないのだ。もちろん翼に気付かれないようにこっそりと。

「ランチタイムは食事のみだけど、それ以外の時間は自由に席を利用していいことになっている。雑音が気にならないならここで勉強するのも悪くないかもな。図書館と違って飲食自由だから何か飲みながら勉強できる。自販機もそこにあるし」

 指さしたほうにはカップ式の自動販売機が設置されている。そして、そのカップを手元に置いて勉強する生徒もちらほらといた。

「へぇ、日本の高校ってどこもこんな立派なのか?」

「さすがにここまではあまりないだろうな」

「それじゃあ俺はいいところに編入したんだな」

「そういうことだ」

 翼はすこし得意げにふっと笑う。

 図書館や学食などの設備の良さはこの高校の売りのひとつだ。パンフレットやウェブサイトで大々的に宣伝している。ここしか知らなくても、恵まれた環境だということはそれなりに自覚していた。

 

「次のところまでしばらく歩くぞ」

 翼はそう宣言し、教室のある校舎に戻って反対側へと進んでいく。そのころにはもう人影もまばらでだいぶ静かになっていた。これで騒がれずにすみそうだと創真はほっとしていたが??。

「あの、西園寺くん……!」

 昇降口の前を通りかかったとき、おさげ髪の女子生徒が緊張ぎみに声をかけてきた。彼女には見覚えがないのでクラスが違うのだろう。どうやら翼の靴箱のまえでずっと待っていたようだ。

「何かな?」

 翼も彼女のことを知らないのではないかと思うが、その待ち伏せを不審がりもせず、それどころかよそいきの笑みを向けて問いかける。その一瞬で、彼女の顔はぶわりと真っ赤になった。

「あ……その、できれば二人きりで……」

「ああ、それなら前庭で構わないか?」

「はい」

 熱が引かないまま頷く彼女に、翼は追い打ちをかけるように甘やかに微笑みかけた。そして彼女が惚けている隙にちらりと振り返り、こそっと小声でささやく。

「悪いけどちょっと行ってくる。すぐ戻るから待っててくれ」

「いや、今日はもうそのまま帰れよ。あとはオレが案内しとく」

「……そうだな、頼む」

 創真の提案を聞いてすこし考える素振りを見せたものの、すぐにふっと息をついて応じた。じゃあな、と軽く片手を上げてから女子生徒のほうに向かうと、彼女をエスコートしつつ革靴に履き替えて昇降口を出ていく。

「東條、こっちだ」

「ああ……」

 わけのわからないまま翼に置き去りにされて、東條は唖然としていたが、それでも創真が呼びかけると素直についてきた。並んで廊下を歩きながら、釈然としないような訝るような表情で首をひねる。

「翼、あの女の子と何かあったのか?」

「いや、告白されるだけだろう」

「告白?」

「好きです、つきあってくださいって」

「ああ、あれか……漫画で見た……」

 そういえば国によってはそういう告白はしないと聞いたことがある。彼のいたところもそうだったのかもしれない。けれど、これからは否応なく日本の文化に直面することになるはずだ。

「おまえもすぐに告白されると思うぜ。覚悟しとけよ」

 中性的な翼より、男性的な東條を好きになる女子も少なくないだろう。そしてそういう女子ほど恋愛に貪欲な肉食系だったりする。先手必勝とばかりに行動に移してくるような気がした。

「諫早くんもされたことあるのか?」

「……オレは一回もねぇよ」

 思わずムッとすると、東條はきまり悪そうにごまかし笑いを浮かべた。別に告白されたいと思っているわけではないのでどうでもいいのだが、ただほんのすこし惨めに感じて溜息がこぼれた。

「なあ」

 ふたりともしばらく無言で歩き続けていたが、東條がその沈黙を破った。ちらりと隣の創真に視線を流し、何か言いづらそうな顔をしながら言葉を継ぐ。

「翼はさっきの子とつきあうと思うか?」

「いや、そういうのはみんな断ってるから」

「そうか……」

 彼は安堵したように吐息まじりの声でそう答えた。表情もすこし緩んだが、すぐさま我にかえったのかしれっと素知らぬ顔になる。それを視界の端で認識しつつ、創真は気付かないふりをして黙ったまま歩き続けた。

 

「ここが第一体育館。オレらのクラスはよくここで体育の授業をしてる」

 手前では男子バスケ部がドリブルとディフェンスの練習を、奥では男子バレー部がサーブの練習をしており、上のギャラリーではどこかの部がランニングをしていた。ボールがはずむ音、シューズの摩擦音、かけ声などがそこかしこに響いている。

「そういや、おまえ部活はどうするんだ?」

「ああ……どうしようかな……」

 何となく尋ねてみると、東條は困ったように眉をひそめて曖昧な返事をする。いくつかの候補で迷っているというより、そもそもあまり気が進まないように見える。

「諫早くんは何をやってるんだ?」

「オレは何もやってない」

「中学のときも?」

「中学はフェンシング部だったけど」

「へぇ、なんで続けなかったんだ?」

「勉強を優先したかったから」

「なるほど」

 中学では必ずどこかの部に所属しなければならなかったので、翼に誘われて一緒にフェンシング部に入った。しかし高校の部活は任意である。それならば将来のための勉強を優先しようと翼と決めたのだ。

「まあ急がずゆっくり考えろよ。見学もできるし」

「ありがとうな」

 東條はさわやかな笑顔で応じた。

 彼を見ていると悪い人ではないというのは何となくわかる。他人を見下すような鼻持ちならない感じもない。それでもあまり彼と親しくする気にはなれなかった。

「男子更衣室も案内しとく」

 そっけなく言って背を向けると、体育館脇の通路を進んで男子更衣室の扉を開いた。中には誰もいないようで物音ひとつしない。

「体育の授業のときはここで着替えるんだ。ロッカーは空いているところならどこを使ってもいい。向こうには個室があるから見られたくなければそこで着替えろ。三つしかないけど、使うヤツはほとんどいないからだいたいどこかは空いてるな。奥のシャワールームは基本的に授業のときは使わないことになってる」

 ざっと中をまわり、ついでにシャワールームのほうも一通り見せていく。創真自身も中に入るのは初めてだ。各ブースには扉がついていて、そう広くはないがきちんとした個室になっていた。

「ほとんどフィットネスジムだな」

 東條が感嘆したような呆れたような口調で言う。創真もここまでとは思っていなかったので、表情には出さなかったもののひそかに驚いていた。

「あとはグラウンドか」

 今日のところはこれで最後にしようと決めて、内履きのまま外に出る。

 視界が開けたところで、白い日差しに眉をひそめつつ正面のグラウンドを見渡すと、陸上競技部、サッカー部、ソフトボール部などが場所を分け合って練習していた。蝉の鳴き声にまじって水しぶきの音もかすかに聞こえてくる。

「まあ、特に説明するまでもないただのグラウンドだな。あっちのほうには第二体育館と武道場、そっちのほうにはテニスコートとプール、すこし離れたところには第二グラウンドもあるが、オレも行ったことはない」

「へぇ」

 東條は柱に手をついて身を乗り出し、創真の説明をなぞるようにあたりを見まわしていく。ここからだと第二グラウンドや武道場は見えないと思うが、それでも興味深そうに何か覗き込んでいた。

 その隣で、創真は気持ちを鎮めるようにゆっくりと息をついた。

「東條、ひとつ話しておきたいことがある」

 そう切り出すと、彼は身を乗り出した姿勢のまま振り向いた。創真の顔を目にして不思議そうな面持ちになり、ゆるりと上体を起こす。

「急にあらたまって何だ?」

「翼のことだけど、あいつ、実は女だ」

「……は?」

 瞬間、男性的な眉がひそめられた。

 表情からはひどく混乱しているであろうことが見てとれる。それでも彼は思考を放棄しなかった。わずかに目を伏せたまま真顔でじっと考え込んだあと、挑むように創真を見据えて口を開く。

「それが事実だとして、編入生の俺にいきなり話す理由がわからない」

「公然の秘密だからだ。先生も生徒も翼が女だと知ったうえで男として扱ってるから、おまえもそのつもりでいてくれっていう話。ちなみにこの学校の理事長は翼の大叔父にあたるひとだ」

 この話をするために、翼にはあえて先に帰ってもらったのである。中学生のころもクラスに転校生が来るたびにそうしてきたので、何も言ってはいないがおおよそ察しているはずだ。

 だが、理事長のことを匂わせて牽制しているとは思ってもいないだろう。翼の大叔父というのは事実なので嘘は言っていない。あとはそれを聞いた側がどう受け取るかというだけである。

「なるほど、了解」

 東條は素直に承服してくれたようだ。

 その反応にひとまず安堵して昇降口に向かおうとしたが、彼はなぜか立ちつくしたまま動こうとしない。こころなしか緊張したような顔をして創真を見据え、なあ、と低めの声で切り出す。

「諫早くんと翼はどういう関係なんだ?」

「幼稚園のころからの幼なじみだ」

「幼なじみで恋人、ってわけじゃないのか?」

「全然そんなんじゃねぇよ」

「そうか……」

 ほっと息をつき、ほんのりとうれしそうな顔になった。

 もはや隠そうという気はあまりないのかもしれない。そのことを咎めるつもりもなければ権利もないけれど、最低限守ってもらいたいことはある。創真は冷ややかに見つめながら釘を刺す。

「さっき言ったことを忘れてないだろうな」

「そういえば、なんで男のふりなんかしてるんだ?」

「ああ……西園寺グループって知ってるか?」

「いや?」

 日本に住んでいるひとならたいてい名前くらいは聞いたことがあるという、とても有名な企業グループなのだが、東條はずっと海外にいたので知らなくても仕方がないのかもしれない。

「まあ大きな会社だと思ってくれればいい。翼が生まれたのはその西園寺グループの創業家なんだけど、男しか跡取りになれないのに子供四人がみんな女だったから、末っ子の翼を男として育てることにしたらしい」

 要するに家の事情である。いまでこそ後継者という運命を積極的に受け入れているものの、翼自身の意思で始めたことでははないのだ。

 それを聞いて、東條はよくわからないとばかりに首を傾げる。

「それって何の意味があるんだ?」

「えっ?」

「女ってことをひた隠しにするならわかるけど、みんな知ってるんだろう? 男のふりをしても、結局は女だから跡取りになれないんじゃないのか? それとも男のふりさえしていれば跡取りになれるのか?」

 そう問われ、思わずついと眉を寄せる。

 話を聞いたのが幼少のころだったこともあり、そういうものだとあたりまえのように受け入れていたので、深く考えたことはなかった。言われてみれば確かに判然としない部分はあるが??。

「多分、何かしら決まりがあってのことなんだろう。旧家だからいろんなしきたりとかありそうだし。オレは外部の人間だから詳しいことはわからないけど」

「そうだよな。諫早くんを問いつめても仕方ないのに」

 東條は苦笑して肩をすくめた。そんな彼を、創真はじとりと横目で睨む。

「だからって翼を問いつめるなよ。さっきも言ったけど、翼が女だってことは公然の秘密だからな。翼のまえでも知らないふりをしてくれないと困る」

「わかってる」

「いい意味だろうと悪い意味だろうと女扱いはするな。女だってことを身勝手に押しつけるな。たとえ翼をそういう意味で好きになったとしても」

 瞬間、彼は虚を突かれたように大きく目を見開いた。しばらくそのまま凍りついたように動きを止めていたが、やがてふっと息をつき、微笑を浮かべて意味ありげなまなざしを創真に向ける。

 やはり、と推測は確信に変わった。

 彼はきっとあのとき翼に一目惚れしたのだ。同性だと思いつつも好きになってしまったのか、同性だと思ったから好きになったのかはわからないが、異性だと知っても気持ちは変わらないように見える。

 さっそく昼飯を一緒に食べる約束を取り付けたことから考えると、かなり積極性はあるのだろう。これからも何かにつけて翼につきまとってくるかもしれない。今日のように創真の居場所を奪いつつ。

 いっそ、とっとと想いを告げてふられてしまえ??。

 うっとうしい蝉の鳴き声がやまない。夏の日差しがじりじりと照りつけるグラウンドはさらに熱を帯びる。創真はじわりと汗をにじませて、無表情でスクールバッグを掛けなおしながら校舎のほうへ身を翻した。

 

 

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第3話 王子様の想いびと

 

「じゃあな、諫早くん」

「ああ」

 校内の案内を終えると、創真は帰る方向の違う東條と校門前で別れた。

 信号を待ちながら、スクールバッグにしまってあったスマートフォンを手にとる。そこには先に帰ってもらった翼からメッセージが来ていた。

 ??綾音ちゃんといつもの喫茶店にいる。

 ??おまえも来い。

 綾音というのは、創真と翼のもうひとりの幼なじみだ。同じ幼稚園でよく一緒に遊んでいた女の子で、小学校からは別々になったが、いまでも顔を合わせば普通に話をする間柄である。

 ただ、行事や用事といった必然性のある理由がないかぎり、わざわざ連絡を取って会うようなことはない。おそらく帰り際にばったり会って喫茶店に誘ったのだろう。そういうことはこれまでにもあった。

 いまから行く、と返信して行きつけの喫茶店に急ぐ。

 綾音とは高校生になったばかりのころに会ったきりなので、久しぶりに顔を見られるのはうれしい。しかし同時に、彼女自身にはまったく何の非もないのだが、ほんのすこしだけ気鬱に感じたのもまた事実だった。

 

「創真くん!」

 喫茶店に入るなり、奥のほうから透き通った声で名前を呼ばれた。

 そちらを見やると、翼と向かい合わせに座っている子がひらひらと手を振っていた。綾音である。幼いころから変わらず小柄で丸顔でほわんとした雰囲気だ。形のいい小さな頭にショートボブがよく似合っている。

「久しぶり」

「春以来?」

「だな」

 短い言葉を交わし、肩からスクールバッグを下ろして翼の隣に座る。

 綾音の前にはサンドイッチとオレンジジュースが、翼の前にはボロネーゼとサラダとアイスティーが置かれていた。まだほとんど減ってないので出されたばかりのようだ。確かにちょうど昼食どきではあるが??。

「おまえらここでメシ食ってんのかよ」

「せっかくだしいいだろう?」

「家に用意してあるんじゃないのか?」

「連絡はしてあるから心配するな」

「まあ、別にいいけど……」

 家族でもない自分がとやかく言うことではない。

 綾音にしても都合が悪ければ一緒に食べていないだろう。おとなしそうな見た目に反してきちんと意思表示をする子なので、断り切れなくて言われるがままということはないはずだ。

「創真も何か食べろよ」

「……ああ」

 軽く溜息をつき、メニューを眺めながら自宅に電話をかける。

 言われるがままなのは自分のほうだ。あいかわらず横暴だなとあきれたような気持ちになりながらも従ってしまう。ただ、翼がそんな物言いをするのは自分に対してだけだとわかっているので、ほんのすこし優越感も感じていた。

 

「綾音ちゃんのところはどう?」

 翼はたびたび食事の手を止めつつ綾音と話をしていた。意識はしていないのかもしれないが、すこしでもこの時間を引き延ばしたい気持ちの表れだろう。もうボロネーゼはだいぶ冷めているはずだ。

 そのペースに合わせているのか綾音もまだ食べ終わっていない。もっともこちらはサンドイッチなので冷める心配はない。それもあってか、時間を気にする様子もなく楽しそうに話を弾ませている。

「うちも中学のときとあんまり雰囲気は変わらないよ」

「中高一貫校はどこもそんな感じなんだろうな」

「でもやっぱり勉強は大変になるね。試験も多くて」

「確かに試験は増えたな」

 翼にとっては学校の勉強などたいして苦にならないはずだが、さすがにそうは言えないだろう。試験が多いという事実にのみ同意する。綾音はうんうんと頷いてから思い出したように言葉を継ぐ。

「そういえば六月の全統で翼くん十二位だったよね」

「ああ……あれ、綾音ちゃんも受けてたのか……」

「不本意そうだね」

 そう指摘されて翼は苦笑する。

 その模試は翼が高校生になってから最も順位の悪かったものだ。よりによってそれを綾音に見られたのだから無理もない。創真からすれば全国上位というだけでうらやましい限りだが。

「どうせなら一位のを見てもらいたかったよ」

「まだこれからたくさん機会はあるんじゃない?」

「綾音ちゃんにそう言われたら頑張るしかないな」

「うん、楽しみにしてる」

 ふたりの会話を聞きながらひとり黙々と食べていた創真は、あとから注文したにもかかわらず先に平らげてしまった。カトラリーを置いてアイスカフェオレを飲んでいると、ふいに綾音がこちらを向いてニコッと笑う。

「創真くんは勉強どう?」

「まあまあだな。翼には全然追いつけないけど」

「頑張っても全国上位は難しいよね」

「頭の出来が違うからな」

 学校が違うので彼女の成績は知らないが、創真と同じ凡人だということは見ていればわかる。翼のようにざっと目を通しただけで記憶する、瞬時に答えを導き出す、といった天才的な頭脳はふたりとも持ち合わせていない。だからこそ相通ずるものがあるのだ。

「私もそれは身にしみてるよ」

 そう肩をすくめてはにかむ彼女を見て、創真も思わずつられるようにふっと表情をゆるめた。その直後??。

「ねえ、綾音ちゃん。それなら僕が家庭教師になろうか?」

 振り向くと、翼がほんのりと微笑を浮かべて綾音を見つめていた。同じ学年の家庭教師など冗談みたいな話ではあるが、たぶん本気だろう。実際、それができるくらいの能力は持ち合わせている。

 さすがに綾音も驚いたらしく目を丸くしていたが、すぐにふわりと笑った。

「翼くんなら教えるのも上手そうだし家庭教師もいいかも。でも、いまは他のひとに週二で家庭教師に来てもらってるから……ごめんね」

「いや、それならいいんだ」

 翼は何でもないかのように返事をして微笑んだ。しかし、綾音は気付いていないかもしれないが、目だけは真剣ですこしも笑っていなかった。

「その家庭教師ってどんなひと?」

「東大生でね、メイクとか全然してなくて服も地味なんだけど、勉強はすごくわかりやすく教えてくれるんだ。解くコツや暗記の方法なんかもためになるし。お母さんも誠実でしっかりした人ねって気に入ってるみたい」

 その家庭教師に取って代われたらと考えていたようだが、思った以上に付け入る隙がなかったのだろう。そうなんだ、と柔らかく応じながら、その目にうっすらと落胆をにじませていた。

 

 翼は、おそらく幼稚園のころからずっと綾音が好きなのだ。

 もっともその思いを伝えたことはないようだ。伝えるつもりがないのか、その勇気がないのか、機会を窺っているのかはわからない。ただ、もしかしたら綾音もすでに気付いているかもしれない。

 きっかけは、幼稚園でのとある出来事だろう。

 当時、翼は一部の男子にいじめられていた。女なのに男のふりをしているなんておかしいとからかわれて。創真は友人として必死に翼を守ろうとしていたが、それだけでは駄目だったのだ。

 男の子でも、女の子でも、翼くんは翼くんだよ??。

 きっと、必要だったのはアイデンティティを認める明確な言葉。

 それをほわんとした笑顔で言ってのけたのが綾音である。なぐさめなどではなく、おそらくただ無邪気に思ったことを口にしただけ。だからこそ響いたのだろう。翼はもう誰にからかわれても気にしなくなったのだ。

 そしてこのことで綾音を好きになったに違いない。それまで創真とばかりいたのに、何かにつけて綾音のところへ話しに行くようになり、そうこうしているうちに三人でいることがあたりまえになっていた。

 小学生になると、学校が分かれたので会うことも少なくなってしまったが、それでも翼の気持ちは一途なまま変わらなかったようだ。十年前から、高校生となったいまに至るまでずっと??。

 

「ありがとう、お話しできて楽しかった」

 喫茶店から出ると、綾音は両手で鞄を持って笑顔でそう言った。

 夏用の白いセーラー服と膝丈のスカートがよく似合っている。小柄なうえ幼げな顔立ちなので、中学生、下手をすれば小学生にも見えかねない。そんな彼女を、翼は愛おしげなまなざしで見つめている。

「僕も綾音ちゃんと話せてうれしかったよ」

「うん、創真くんも来てくれてありがとう」

「ああ……」

 急に笑顔を向けられて、創真は思わず当惑して目を泳がせてしまった。社交辞令だろうが、だからこそどう反応すればいいのかわからない。

「そういえば」

 ふいに翼が切り出した。

「来月下旬にうちの高校で文化祭があるんだ。一般の来校も歓迎してるから綾音ちゃんもよかったら来てよ。多分うちのクラスでも何かやることになると思うし。日程とか決まったら連絡するから」

「うん、都合がついたら行くね」

 中学のときは学校内の行事でしかなかった文化祭だが、高校では一般公開する。

 そのときには綾音を誘おうと翼は前々から考えていたのかもしれない。そして待ちわびていたのかもしれない。そうでなければ、まだ何も準備が始まっていないこの段階で声をかけたりしないだろう。

 

 綾音と別れて、創真と翼は並んで帰路につく。

 降りそそぐ昼下がりの日差しはかなりきつい。空調の効いた喫茶店との温度差で体が若干だるく感じる。じわじわと汗をにじませながら、あいかわらず涼しげな顔をしている隣の翼をちらりと窺う。

「なあ……」

「ん?」

 翼はすこしだけ振り向いて先を促すように相槌を打った。めずらしくどこか気の抜けた様子で。綾音と過ごした時間の余韻にひたっていたのだろうか。

 創真はそっと目を伏せて、肩からずれかかったスクールバッグを掛けなおす。

「家庭教師なんてどういうつもりだったんだよ」

「綾音ちゃんの力になりたいと思っただけさ」

「いくらおまえでもそんな余裕はないはずだぜ」

「勉強は週四日だし無理じゃないよ」

 ここでいう勉強というのは、学校の授業や試験に関する勉強のことではない。将来のために必要な勉強のことだ。経営学、英会話、礼儀作法、心理学、マーケティング、護身術など幅広く学んでいる。

 基本的に西園寺の後継者となる翼のための教育で、西園寺の邸宅に教師を呼んで行われており、創真は補佐役になる人間として同席させてもらっている。だからとやかく言える立場ではないのだが。

「でも、おまえ父親のようになりたいんだろう」

「……そうだな」

 一瞬、その王子様のような端整な顔にふっと自嘲めいた笑みが浮かんだ。けれどすぐに気を取り直したように青い空を見上げて、大きく呼吸をする。

「確かにまだ足りないところばかりだしな」

「オレも一緒に頑張るから」

「そうだぞ、創真こそもっと頑張れよ」

 ここぞとばかりにからかいまじりに言い返されて、創真は苦笑した。

 すぐに理解して自分のものにしてしまう翼とは違い、ついていくのがやっとで身についているとまでは言いがたい。だからといって、学校のほうを疎かにしてまで励むのは本末転倒である。

 なかなか苦しい状況だが、どうにか食らいついていくしかないだろう。

 ずっと翼のそばで支える??その約束が、きっと翼のそばにいることを許される唯一の理由になる。だからそれを遂行できるだけの能力を身につけなければならない。この場所を誰かに奪われることのないように。

「オレ、絶対に翼の隣に立てる人間になるから」

「期待してるぞ」

 そう応じて、翼は挑発するような笑みを見せる。

 綾音のように愛おしげな目を向けられることは決してないけれど、この表情は自分だけのものだ。それだけで十分だ。胸のうちで自分自身にそう強く言い聞かせながら、創真は静かに頷いた。

 

 

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第4話 もうひとりの王子様

 

 十月に入って衣替えもすみ、もうすっかり秋だ。

 この一か月で東條は十分すぎるほどクラスに馴染んでしまった。自身のスペックの高さなどまるで意識していない様子で、誰とでも気さくに嫌味なく話をするので、男女問わずに好かれている。

 それでいて品の良さも感じられるため、女子のあいだではひそかに「もうひとりの王子様」と呼ばれ始めていた。もちろん元祖王子様は翼だ。ふたりが一緒だと目の保養になると騒がれていたりする。

 実際、このふたりは友人として行動をともにすることが多い。厳密には創真もいるので三人だ。席が近いこともあって休み時間にはよく話をしているし、昼には一緒に学食にも行っている。

 まさか、こうなるとは思わなかった。

 とっとと翼に想いを告げてふられてしまえばいい、そして距離を置くようになればいいと願っていたが、いまのところそうした素振りはない。ごく普通に男友達として接しているように見える。

 女扱いしないよう頼んだから律儀に守っているのだろうか。それともまずは友人として距離を縮めようとしているのだろうか。もしかしたら男として生きる翼を尊重してのことかもしれない。

 いずれにしても、翼とふたりの時間を奪われて続けているのが現実である。ただ、創真のこともきちんと友人として扱ってくれるので、意外と居心地は悪くない。それがすこしくやしくもあった。

 

「行けっ、翼!!」

 誰かがそう叫ぶより早く、翼は東條からのパスを受けるべく前に飛び出し、その勢いのままサッカーボールを蹴り抜いた。ボールはゴールポストの右上隅に突き刺さり、ネットを揺らす。

「やったな!」

「ああ」

 翼は東條やまわりのチームメイトとハイタッチをして、喜びを分かち合った。

 体育館から扉を開けてその様子を見ていた上級生の女子たちは、ふたりの王子様の連係プレーとハイタッチに黄色い声を上げている。制服のままなので体育の授業をしているわけではないようだ。

 創真も同じチームだったが、ディフェンダーとして自陣にいたので遠巻きに見るだけである。わざわざそのために駆け寄っていくほどのものではないだろう。体育の授業にすぎないのだから。

 あれは、オレの役目だったのにな??。

 東條が来るまでは創真がミッドフィルダーとして翼をアシストしていたが、そのポジションを彼に譲るはめになった。サッカースクールでミッドフィルダーだったと聞けばそうせざるを得ない。

 実際、創真よりはるかに上手いので文句も言えない。九才から十二才までサッカースクールに入っていたらしく、高校でもサッカー部に入ろうかどうしようか悩んでいたが、結局やめたと言っていた。

 

「え、サッカーやってなかったのか?」

 翼のゴールのあとまもなくチャイムが鳴り、授業が終わった。

 これで今日は終業となるので、みんなのんびりとサッカーボールやビブスなどを片付けている。そんな中、東條は翼がサッカーを学んだことがないと聞いて目を見張った。

「ああ、体育の授業でしかやってないな」

「それであんなシュートが打てるのか」

「シュートを打つことしかできないんだ」

「いやいやいや、十分すぎるだろう」

 翼がサッカーに詳しくないのは事実だが、さすがにシュートしか打てないということはない。ただ、やはり最も得意なのがそれということで、いつもストライカーを希望しているのだ。

「諫早くんは?」

「オレも体育の授業でしかやってない」

「サッカーには興味なかったのか?」

「テレビで代表戦を観るくらいだな」

「そうかぁ」

 創真が用具室でビブスを所定の場所にしまっている後ろで、東條は残念そうな声を上げた。その隣でサッカーボールの籠を片付けていた翼が愉快そうに笑う。

「僕らはすこしフェンシングをやってたんだ」

「あ、諫早くんには聞いてたけど、翼もだったのか」

「ああ」

 翼は頷き、ちょうど用具室の奥から戻った創真を目にして口元を上げる。

「創真はこう見えてなかなか強いぞ」

「こう見えてって何だよ……」

 思わず言い返したが、フェンシングが強そうに見えないという自覚はある。手足が長いほうが有利だと思われがちだし、高貴なイメージもあるので、小柄で地味な創真がフェンシングというだけで驚かれることが多い。

 現に、東條もあからさまに意外だという顔をしている。

「翼とだったらどっちが強いんだ?」

「互角だな。勝負は五分五分だったよ」

「へえ、それは見てみたいな」

「ははっ、もうなまってるだろうな」

 三人で並んで更衣室のほうに向かいながら、翼は笑い飛ばす。

 創真も、中三の夏に部を引退してから丸一年あまり剣を握っていないので、もう昔のように動ける自信はない。体力作りの運動、筋トレ、護身術の練習なんかは軽く行っているが、フェンシングの動きはまた別なのだ。

 今後、もうやることはないだろうな??。

 もともとフェンシングに思い入れはない。勉強も運動も容姿も何もかも翼に遠く及ばない中、唯一互角に渡り合えるものなので惜しい気はするが、だからこそ翼が続けないのであれば意味がないのだ。

 

「本当にあなたはやることなすこと派手ね」

 若干あきれたような声音が聞こえて振り向くと、翼の姉の桔梗が段ボール箱を抱えて渡り廊下で立ち止まり、こちらを見ていた。同様に段ボール箱を抱える数名の男女を付き従えて。

 すぐに翼はにっこりと王子様の笑みを全開にして、歩み寄っていく。

「体育館から見ていたのは桔梗姉さんたちでしたか」

「クラスの一部の女子よ」

 桔梗はそっけなく訂正すると、翼のあとをついてきた創真と東條を見やって微笑む。翼が警戒心を露わにしたことに気付いたが、目が合ったのに無視するわけにもいかず、創真は軽く会釈する。隣の東條もつられて会釈した。

「あなたは編入生の東條くんかしら?」

「あ、はい……はじめまして」

「二年の西園寺桔梗よ。よろしくね」

「先輩のことは翼から聞いてました」

「あら、悪口でなければいいのだけれど」

「あ、いや……」

 才色兼備だが女王様気質で策士、というのが悪口かどうかは微妙なところだろう。東條は気まずげに口ごもりつつ目を泳がせていたが、隣で翼が笑いを噛み殺していることに気付くと、あわてて話題を変える。

「あ、えっと、先輩たちは体育館で何をやってたんですか?」

「文化祭の準備よ。クラスで演劇をやるの」

 文化祭ではクラスで何かひとつ出し物をしなければならない。人気があるのはやはり模擬店で、創真たちのクラスもそれである。逆に演劇は準備が大変なので敬遠されがちだと聞いていた。

 桔梗のクラスの出し物については翼も初耳だったらしい。折り合いの悪いきょうだいなのであまり話をしないのだろう。一瞬、驚いたような興味をひかれたような表情を見せたが、すぐさま挑発的な目つきになる。

「もちろん主役は桔梗姉さんなんですよね?」

「ええ、もちろんというわけではないけれど」

「脇役をやる気なんてさらさらないでしょう」

「そうかもしれないわね」

 少々棘のある言葉を、桔梗はたいしたことではないかのように受け流す。その余裕のある姿からは女王様の貫禄が感じられた。

「脚本も私が書いたの。衣装や装置はみんなのおかげでいいものになりそうだし、演技も日々頑張っているところよ。午前午後の二回公演で各五十分の予定だから、都合のいいときに見に来てちょうだい」

「ぜひ行かせてもらいます」

 間髪を入れずに返事をしたのは東條だ。

 単なる社交辞令なのか、本当に興味をもったのか??もしかしたら翼がつっかかるのを阻止したかったのかもしれない。桔梗もそう思ったのか、東條を見つめたまま艶然と目を細めて得心したように言う。

「なるほど、もうひとりの王子様ってわけね」

「あ、いや……そんな柄じゃ……」

「翼よりあなたを好むひとは少なくないのよ」

「そんなことないと思いますけど」

「そういう謙虚なところがいいって聞くわ」

「別に謙虚ってわけでも……」

「ふふっ、思ったよりもかわいらしいのね」

「え、あの……」

 東條はしどろもどろで視線を泳がせる。

 彼のこんな姿は初めて見たかもしれない。いつもは言い寄られてもそれなりにうまくかわしているのに、相手が女王様だからか、翼の姉だからか、どうにも普段の調子が出せずにいるようだ。

「圭吾をからかうのはやめてもらえませんか」

「あら、思ったことを伝えたまでよ」

 冷ややかに睨む翼に、桔梗は素知らぬ顔でとぼけたようにそう返した。しかしすぐに華やかな笑みを浮かべてこちらに目を向ける。

「東條くんや創真くんともっとお話ししたかったけれど、今日のところはこれで失礼するわ。ごきげんよう。またいつかゆっくりと翼のいないところでお話ししましょう」

「あ……えっと……」

 東條は翼のほうを気にしながら戸惑っていたが、創真は黙って目礼した。

 そんなふたりに、桔梗は段ボール箱を抱えたまま優雅に会釈をすると、黒髪をなびかせながら颯爽と渡り廊下を進んでいく。後ろのクラスメイトたちも軽く会釈をして歩き出した。

 

「ったく……」

 翼があきれたような溜息まじりの声を落としたあと、三人は更衣室へと向かう。急ぐ必要がないことは翼もわかっているだろうが、それでも足早になりながら苦々しげに言葉を吐く。

「僕のものとなるとすぐにちょっかいを出してくるな、あのひとは」

「えっ?」

「僕を孤立させるために、おまえたちを自分の側に引き入れようとしてるんだろう。創真はもうずいぶん前から狙われているんだが、圭吾にも目をつけたみたいだな」

 前を向いたまま冷静にそう説明すると、再び溜息をついた。

 一方で東條はにやけるのをこらえきれないような顔をしていた。僕のもの??その言葉に深い意味がないことくらいわかっていると思うが、それでもうれしいのだろう。

「だから姉さんに何を言われても真に受けないでくれ」

「わかった」

 翼に頼まれるとあわてて表情を引きしめて頷く。

 しかし創真としては桔梗がそこまでするとは思えなかった。本気で引き入れるつもりはなく、翼へのちょっとした嫌がらせで声をかけたのではないだろうか。それも憶測でしかないけれど。

 いずれにしても自分が桔梗の側につくことなどありえない。桔梗とも良好な関係を築ければとは思っているが、あくまで翼の味方である。必要とされるかぎり翼のそばにいるつもりだ。きっと東條も??。

「俺はどんなことがあっても絶対に翼を裏切ったりしない」

「それならよかった」

 真摯な訴えに、翼は安堵したようにほっと表情をやわらげた。つられるように東條も照れくさそうにはにかむ。そんなふたりの隣で、創真はひとり気配を消したままそっと静かに目を伏せた。

 

 

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第5話 文化祭

 

「翼、それ三番テーブルな」

 創真が作業の手を止めることなく、用意したシフォンケーキセットを目線で示してそう言うと、燕尾服を着こなした翼は了解と答えてホールへ運んでいく。疲れなど微塵も感じさせない美しい所作で??。

 

 今日は、創真たちの通う桐山学園高等学校の文化祭である。

 創真たちのクラスは学食の一角で執事喫茶なるものをやっている。燕尾服などを着用した見目麗しい執事たちが、お嬢様やお坊ちゃまを屋敷内のティーサロンでおもてなしするというのがコンセプトだ。

 きっかけは、とある女子の提案だった。

 せっかく見目麗しい王子様がふたりもいるのだから活用しない手はない、絶対に執事喫茶をやるべき、私だけじゃなくみんな見たいはず、と鼻息荒く主張して、これがクラス内で過半数の支持を得たのだ。

 ただ、ティーサロンをどうするかが問題だった。教室や屋台では雰囲気が出ない。それなら学食を借りられないかという話になり、駄目元で学校側と交渉してみたところ許可が下りたのである。

 さすがに本物の執事喫茶のような豪奢な英国調ではないが、天井が高く、全面ガラス張りの窓からは庭が見渡せて、テーブルや椅子もシンプルながら洒落ていて、これはこれで悪くない雰囲気だろう。

 メニューはシフォンケーキと紅茶のみにした。シフォンケーキは洋菓子店からできあがりを仕入れたので、切って生クリームとミントの葉を添えるだけ、紅茶もティーバッグなのでお湯を注ぐだけである。

 創真は裏方で、シフォンの皿にミントの葉を添える担当だった。

 見目のいい男子は執事として接客を任されている。もちろん翼も東條もそちら側だ。ふたりがそろうのは十二時から十三時までということで、十二時すぎの今、かなりの待ち行列ができていた。

 

「わたくしの執事を呼んでちょうだい」

 どこか愉快そうな響きをはらんだ声が聞こえて入口に目を向けると、桔梗が堂々とした佇まいでそこに立っていた。その後ろには、不安そうな表情でチラチラとまわりを気にする綾音がいる。

 お待ちくださいとドアマンは恭しく一礼して呼びに行こうとするが、桔梗の声が聞こえていたのか、当の執事はすでに彼女たちに向かって颯爽と歩みを進めていた。そして正面ですっと足を止める。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 その執事??翼は、どこか艶めいた笑みを浮かべて恭しく頭を下げた。

 

 そのまま、美しい庭の臨める窓際の席にふたりを案内する。

 そこは翼の要望により特別に予約席として空けられていた。綾音のためだが、表向きは姉の桔梗を招くためということになっている。綾音にいらぬ面倒が降りかからないよう配慮したのだ。

 桔梗が協力してくれたのは、彼女も幼なじみとして綾音のことをかわいがっているからだろう。さきほどの振る舞いからすると、翼をかしずかせてみたいという気持ちもあったのかもしれない。

「どうぞ」

 翼は流れるような所作ですっと椅子を引いて綾音を座らせ、続いて同じように桔梗も座らせる。そわそわした綾音とは対照的に、桔梗はさすが由緒正しい旧家のお嬢様だけあって堂に入っていた。

「お茶をご用意しますのでお待ちください」

「ええ」

「シフォンケーキはいかがいたしましょう?」

「いただくわ。綾音ちゃんも食べるわよね?」

「はい、お願いします」

 綾音が答えると、翼はふっとかすかに表情をゆるめる。できることならいつまでもそこにいたかったのだろうが、丁寧に一礼して下がり、裏方に注文を伝えてから他のお嬢様方の接客にまわった。

 それでも桔梗たちに向けられる視線がやむことはなかった。特別扱いされているからというより、桔梗の存在が原因のような気がするが、綾音は居たたまれないとばかりに身を縮こまらせる。

「みんな並んでるのに本当に良かったんでしょうか」

「翼が勝手にしたことなんだから気にする必要はないわ」

「でも断ったほうがよかったのかなって」

「私は午後公演の準備があるからそんなに待てないの」

「あ……それで翼くんはわざわざ席を……」

 そう誤解しても仕方のない流れだろう。もしかすると桔梗があえて誘導したのかもしれない。彼女は肯定も否定もせず、ただにっこりと華やかな笑みを浮かべて言う。

「そんなことよりせっかく来たんだから楽しみましょう」

「……そうですよね」

 綾音は表情をゆるめ、気を取り直したように明るい声でそう応じた。

 

「これ綾音ちゃんたちのところ」

 他のテーブルから戻ってきた翼に、二人分のシフォンケーキセットを差し出しながら言うと、翼はほんのりと頬をゆるませて了解と返事をした。すぐに表情を作り、それまでよりもいっそう流麗な所作で運んでいく。

「お待たせしました」

 涼やかに一礼すると、綾音と桔梗のまえにそれぞれシフォンケーキを置き、ポットの紅茶をティーカップに注いでその右側に並べた。

「ありがとう」

「ごゆっくりお過ごしくださいませ」

 翼が丁寧にお辞儀をして下がると、綾音はそれを見届けてからティーカップに手を伸ばし、向かいで姿勢よく紅茶を飲んでいた桔梗と会話をはずませる。

「これ渋みが少なくて飲みやすいですね」

「ええ、おそらくニルギリね」

「ニルギリって紅茶の種類ですか?」

「そうよ。産地の名前で呼ばれているの」

「初めて聞きました」

「まあアッサムほど有名ではないわね」

「翼くんが選んだのかな」

「くやしいけれどいい選択だわ」

 桔梗が肩をすくめてみせると、綾音もつられるようにくすくすと笑った。それからふたりで示し合わせたようにフォークを手に取り、シフォンケーキにすこし生クリームをのせて口に運ぶ。

「このシフォンケーキすごくおいしい」

「母がひいきにしている店の看板商品だわ」

「じゃあ、これも翼くんが選んだのかな」

「お店に無理を言っていないか心配ね」

「ふふっ」

 綾音は冗談だと思っているのだろう。

 しかし実際は桔梗の懸念どおりで、洋菓子店に無理を言ってシフォンケーキを作ってもらっていた。本来は店頭分しか作らないのだが、お得意様である西園寺の頼みなので特別にということらしい。

 そのうえ、価格もこちらの予算内に収まるように抑えてもらったという話だ。翼は交渉の結果だとあたりまえのように言っていたが、どのような交渉をしたのかは何となく怖くて聞けないでいる。

 

「綾音ちゃん、お待たせ」

 翼と創真は制服に着替えて、学食前の庭で待っている彼女のもとへ向かった。

 ふたりとも十時から十三時までの担当だったので、そのあと綾音と一緒にまわる約束をしていたのだ。彼女はこちらに気付くとふんわりと笑った。ちなみに桔梗は演劇の午後公演があるので準備に戻ったはずだ。

「お疲れさま。執事があんなにサマになるなんてさすが翼くんだね」

「ありがとう」

 翼はすこし照れたようにはにかんだ。綾音に見せるために引き受けたわけではないと思うが、綾音に見せるからこそここまで熱心に取り組んだのだろう。彼女の言葉で報われたに違いない。

「創真くんもギャルソンみたいな衣装すごく似合ってた」

「ああ……」

 壁で隔てられているわけではないので客からもキッチンは見える。それゆえ裏方も雰囲気を合わせるためにカマーベストを着用していたのだ。特に創真はカウンターにいたので見えやすかったのかもしれない。

 ただ、あまり似合っていないことは自分でわかっているので、無理して褒めてくれなくてもいいのにとすこし微妙な気持ちになった。もちろん他意があったとは思っていないけれど。

 

 三人はいろいろな食べ物の模擬店を見てまわる。

 翼が見たことのない女子をつれているからか、その子が有名女子校の制服を着ているからか、周囲からチラチラと好奇の目を向けられていた。だが、ふたりとも気にしている様子はない。

 綾音はただ単に気付いていないだけかもしれないが、翼が気付かないわけがない。いつもはファンサービスとばかりに笑顔を振りまいているのに、いまは綾音しか見る気がないのだろう。

「綾音ちゃん、何か食べたいものがあったら言ってね」

「んー、さっきのカラフルなお団子がちょっと気になるなぁ」

「じゃあ食べに行こう」

 翼は声をはずませ、綾音をエスコートしながら団子の模擬店へ向かう。創真はふたりの後ろをついて歩いた。ときどき綾音が振り返って微笑みかけてくれるが、翼には放置されている感じだ。

「ねえねえ、西園寺くんといるあの子、誰?」

 どこからかすすっと寄ってきた同じクラスの女子が、声をひそめて耳打ちするように尋ねてきた。その浮き立った声音から、嫉妬ではなく興味本位で詮索していることが窺える。

「オレと翼の幼なじみだ。つきあってるとかそういうことはない」

「そ、そうなんだ」

 知りたいであろうことを先回りして答えてやると、彼女はうろたえ、ごまかし笑いを浮かべながらそそくさと離れていく。向こうで友人たちと「幼なじみなんだって」と話している声が聞こえてきた。

 中学のときも目撃されて尋ねられたことがあったので、すでに知っているひともいると思うが、やはり知らないひとのほうが圧倒的に多いのだろう。これが広まって落ち着いてくれればと思う。

「いらっしゃいませ!」

 団子の模擬店につくと、三人がそれぞれ購入して窓際の席に座った。

 綾音が買ったのは、白い串団子に色とりどりの餡をかわいらしく盛り付けたものだ。いかにも女の子が好みそうな見映えで、彼女も例にもれずスマートフォンで写真を撮ってから食べ始めた。

「ん……これ、味もなかなかおいしいよ」

 気を遣っているわけではなく本当にそう思っているのだろう。彼女は団子を頬張ったまま幸せそうに顔をほころばせている。その姿を見つめながら翼は満足したように微笑んだ。

「気に入ってもらえてよかった」

「翼くんも創真くんも食べないの?」

「そうだね」

 ふたりして綾音の食べるさまを眺めていたが、彼女に促されてようやく自分たちも食べ始める。翼は綾音と同じカラフルな団子で、創真は五平餅だ。綾音は五平餅が気になるのかチラチラとこちらを見ていた。

「よかったら一口食べるか?」

「えっ?!」

 尋ねてみると、彼女はぶわりと顔を真っ赤にしてうろたえた。

 同時に翼がバッとすさまじい勢いで振り向いた。その一瞬、驚愕と憤怒の入り混じったような表情をしていたが、どうにか押し隠して、若干ぎこちないながらも平然とした顔を取り繕う。

「女の子に食べかけのものをあげるなんて失礼だぞ」

「口をつけていないところなら別に構わないだろう」

「ダメだ」

 その声には、あからさまに苛立ちがにじんでいた。

 どうせ綾音と親しくするのが面白くないだけだろう。もちろん本人が嫌なら無理強いするつもりはないが、翼に命令される筋合いはない。そんな反発心から思わずむすっとしてしまう。

「あ、あのね……!」

 自分をめぐる剣呑な雰囲気に困惑したように、綾音が声を上げた。

「創真くんが食べてるのは何だろうってちょっと気になっただけで、別に食べたかったわけじゃないから。黙ってじろじろ見ていたせいで誤解させちゃったんだよね。なんか、ごめんね?」

「あ、いや……こっちこそごめん……」

 創真は我にかえると急に申し訳なさを感じた。翼も気まずげに目を伏せる。

 そんなふたりを見て、綾音は心から安堵したようにほっと息をついた。そして、せっかくだから喧嘩しないで楽しく過ごそうよ、といつものように明るくほんわかと笑って言った。

 

「わ、もういっぱいだね」

 模擬店をまわったあと、三人は桔梗の演劇を見るために講堂へやってきた。

 開演まで十五分近くあるのに観客席はもう八割方埋まっており、熱気に満ちていた。そうこうしているあいだにも続々と席が埋まっていく。翼はざっとあたりを見渡すと、目標を定めたかのように迷いなく早足で歩き出した。

「すみません」

 翼はすこし屈んで、席に着いている女子生徒二人ににこやかに声をかける。相手はそれが翼だとわかるとひどく驚いていたが、翼は構わず話を進める。

「僕たち三人で座りたいので、よろしければひとつずつそちらに詰めてもらえませんか?」

「あ……はい!」

 女子生徒二人はそそくさとひとつずつ隣に移動した。

 己を最大限に利用したさすがとしか言いようのない手際に、創真は半ばあきれつつも感心する。とにかく三つ並んだ席が確保できたのだからありがたい。それも前方の中央寄りという見やすそうなところだ。女子生徒の隣に創真が、中央に翼が、その向こうに綾音が座った。

「綾音ちゃん、よかったら飲み物を買ってくるけど」

「私は大丈夫だよ」

 席に着いてからも、翼はかいがいしく世話を焼こうとしていた。というよりただ浮かれて構っているだけだろう。創真のほうには顔を向けようともしないで、綾音にばかり話しかけている。

 ようやく寂しい十五分が過ぎて、幕が上がった。

 物語は、中世ヨーロッパを思わせる架空の国を舞台とした恋愛活劇だった。主役ふたりの演技がとても上手く、剣術を中心としたアクションもあり、ドレスや騎士の衣装もなかなか立派で、エンターテイメントとして見応えがあった。観客の反応も上々で拍手がなかなか鳴り止まなかったくらいだ。

「面白かったね!」

 綾音も満足したらしく、講堂をあとにしながら興奮ぎみに声をはずませる。

「テンポがよくてドラマチックだったし、桔梗さんはすごく演技が上手だったし、ドレスのまま剣で戦うところとか、敵を前にして一歩も引かないところとか、気高くて格好良かったなぁ」

「桔梗姉さんのことだから、自分のやりたいこと見せたいことを詰め込んだだけだろう」

 翼は毒づくが、あながち言いがかりでもないかもしれない。

 なにせヒロインの令嬢がやたらめったら男前なのだ。特にドレスでのアクション、華麗な剣さばきは、桔梗でなければここまで魅力的に演じられなかった。自信があったからこそ入れ込んだのだろう。 

「肝心要のストーリーは薄っぺらで安直だったけど」

「そうかなぁ。わかりやすくてよかったと思うよ」

「まあ文化祭ならあのくらいでちょうどいいのかもな」

 確かに文化祭の観客はあまり演劇を見ない層がほとんどだろうし、重厚な物語だったらここまで盛り上がっていなかった気がする。エンターテイメントに振り切っていたからこそ満足度が高かったのだ。

「でも、あの桔梗姉さんがこんな話を書くとは思わなかったよ。純文学やミステリみたいな小難しい話が好きなひとなのに、まさかロミジュリもどきの恋愛活劇だなんて」

「ふふっ、確かに」

 綾音は笑いながら同意するが、ふいに小首を傾げると何か考える素振りを見せる。

「もしかして桔梗さん好きなひとがいるのかなぁ」

「さあ、恋愛にうつつを抜かすタイプではないと思うけど」

「そういうところを翼くんに見せてないだけかもよ?」

「想像もつかないな」

 翼は苦笑して肩をすくめた。

 別に桔梗に好きなひとがいてもおかしくないと思うが、そういう恋愛絡みの話はまったく聞いたことがないし、確かにあまり想像はつかない。

「恋愛かぁ」

 ふと綾音が思いを馳せるようにぽつりとつぶやく。

 まずいな??翼のまえで好きなひとについて尋ねられたら困る。そっと翼を窺うと、緊張した面持ちでチラチラと綾音を盗み見ていた。その綾音もどこか硬い表情で目を泳がせている。

 なんとなく気まずいような探り合うような空気ではあるが、藪蛇になりそうで触れることができない。ほかのふたりも同じだろう。創真は息を詰めてただ黙々と足を進めていたが??。

「飲み物を買ってくるよ。綾音ちゃんたちはこの辺で待ってて」

 翼は沈黙を破り、うっすらと微笑んでから校舎のほうへ駆けていった。

 創真は内心ほっとしつつ、通行の邪魔にならないよう綾音とともに端に寄った。木陰に並んで立ち、秋めいた風がゆるく頬を撫でるのを感じながら、行き来する人たちをぼんやりと眺める。

 そういえば綾音とふたりきりになるのはめずらしいな、と何気なく隣を見ると、たまたまなのかこちらを向いていた彼女と目が合った。彼女はすこし驚いたように瞬きをしたあと、くすりと笑う。

「せっかく一緒にいるのにあんまり話せてなかったね」

「まあな……でも、翼とはたくさん話せたから良かっただろう」

「うん、だけど創真くんともたくさん話したかったなって」

「そんなことを言うのは綾音ちゃんくらいだ」

 軽くそう応じると、彼女は当惑したように曖昧な笑みを浮かべて目を伏せる。

「私は本当にそう思ってるよ?」

「あ、別に疑ってるとかじゃなくて」

「だって創真くんが好きなんだもん」

「えっ?」

 思わず聞き返すが、彼女は下を向いたままこちらを見ようとしなかった。横髪に覆い隠されていて表情はよくわからない。戸惑っているうちに、ペットボトルを抱えた翼が軽やかに走りながら戻ってきた。

「綾音ちゃん、はい」

「ありがとう」

「創真もついでだ」

「ああ……」

 綾音に続いて、創真も差し出されたペットボトルを受け取る。

 翼は何事もなかったかのように笑顔を見せている。離れているあいだに気持ちを切り替えてきたようだ。綾音も普段と変わらない様子である。もうさきほどのようなぎこちない空気はない。

 けれど、創真だけは落ち着きを取り戻せずにいた。

 その原因である綾音をこっそりと横目で窺っていると、彼女は視線に気付いたように振り向いてふわりと微笑んだ。その心情も、その意図も、あの言葉も??創真は何ひとつわからず混乱するばかりだった。

 

 

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第6話 心に決めたひと

 

「おい、創真!」

 ふと額のまんなかに鋭い痛みが走り、創真は我にかえった。

 反射的にそこを押さえて顔を上げると、翼があきれたような面持ちで片手を掲げながら立っていた。その隣では東條が苦笑している。額の痛みはどうやら翼のデコピンだったらしい。

「ぼーっとしてないで帰り支度しろよ」

「あ……ああ……」

 いつのまにかホームルームは終わっていたようだ。教壇に担任の姿はなく、あたりは生徒たちのおしゃべりで楽しげにざわめいており、翼も東條もすでにスクールバッグを肩にかけてそこにいる。

 創真はようやく状況を把握して、あわてて帰り支度を始めた。

 

「おまえ、文化祭が終わってからちょっとおかしくないか?」

 校門前で東條と別れ、翼とふたりで帰路についているときにそう指摘された。

 この一週間、いつのまにかぼんやりと考えをめぐらせてしまい、学校のみならず西園寺での勉強も集中できずにいたのだ。自分でもどうにかしなければと思っているのだが、なかなか難しい。

「悪い、もうすこしだけ待ってくれ」

「悩みがあるなら相談にのるぞ」

「いや……個人的なことだし……」

 創真くんが好きだから??綾音にそんなことを言われたなんて話せるはずもなく、後ろめたさに目を泳がせながら言いよどんでしまった。

「僕を信頼できないか?」

「…………」

 まっすぐに真摯なまなざしを向けられて、ますます罪悪感が募る。

 それでも話すという選択肢はない。創真自身が話したくないというのもあるが、そもそも綾音に断りもなく話すわけにはいかないだろう。目をそらしたままどう答えようか悩んでいると、翼が溜息をついた。

「まあいいさ。無理強いするんじゃ意味がないしな。だけどいつまでもこんな調子じゃ困る。とりあえず明日の勉強は休んで気持ちを整えろ。いいな?」

「……わかった」

 休みたくなくても、そんなわがままを言える立場ではなかった。

 西園寺の厚意で勉強に同席させてもらっているのだから、翼の足手まといになることだけは許されない。いつまでもこんな状態が続いたら見捨てられてしまう。翼の隣にいられなくなるのだ??。

 

「あした、ふたりだけで会って話ができないかな」

 その日の夜、悩んだすえに電話で綾音にそう持ちかけた。

 このところ気もそぞろなのは、彼女がどういうつもりかまるでわからないからだ。こればかりはいくら考えたところで答えは出ない。本人に聞くしかないという結論に至ったのである。

「文化祭でのこと?」

「ん……まあ……」

 ふたりだけで、という時点でだいたい想像がつくだろうと思っていたが、それでもいきなり臆面もなく言及されるのは予想外で、若干動揺してしまった。

「あしたは午前中なら大丈夫だよ」

「あ……じゃあ、十時にいつもの喫茶店で……」

「うん」

 一方で、綾音は話しぶりも声も普段とまったく変わらない。それだけに思考が読めず、漠然とした不安がじわじわと胸に広がっていく。

「それじゃあね」

「ああ」

 返事をすると、余韻もなくすぐに通話が切られた。

 創真はスマートフォンを下ろして、腰掛けていたベッドにそのまま仰向けになり、白い天井を眺めながら小さく息をついた。

 

 翌日、約束した時間の三十分前から喫茶店で待っていた。

 注文したコーヒーをちびちびと飲みながら、暇つぶしにスマートフォンでニュースを読むが、ほとんど頭に入ってこない。ただ文字を目で追いかけているだけである。

「創真くん、おはよう」

「ああ……おはよう」

 綾音は約束した時間の五分前に来た。

 いつもと変わらないほんわかとした笑顔を見せている。今日は私服で、ざっくりとしたオフホワイトのニットに、グリーンチェックのミニフレアスカート、小さめのリュックサックという出で立ちだ。

 創真がスマートフォンをポケットにしまいながら向かいのソファ席を示すと、綾音はリュックサックを下ろしてそこに座り、水とおしぼりを持ってきた店員にオレンジジュースを注文する。

「ごめんね、なんか言い逃げみたいになっちゃって」

 店員が戻っていくと、彼女は気まずげに肩をすくめてそう言った。

 創真はあわててふるふると首を振る。本人の口からきちんと真意を聞こうと思っただけで、謝ってもらいたかったわけではないし、そもそも言い逃げだなんて考えたこともなかった。

「あのあとすぐに翼が戻ってきたから仕方ないよ。オレも聞き返せなかったし。でもこの一週間ずっと気になっててさ」

「うん……」

 綾音が緊張したように表情を硬くするのを見て、創真もつられて緊張する。けれどここまで来たらもう引き下がれないし、引き下がるつもりもない。

「オレのことが好きって」

「うん」

「どういう意味で?」

「……わかってるくせに」

 綾音はぎこちない笑みを浮かべた。

 しかし、わかっていなかったからこんなに悩んでいたのだ。もちろんそういう意味だと考えなかったわけではないし、客観的にはそう考えるのが普通だということはわかっていたが??。

「なんでオレなんだ?」

 ちんちくりんだし、地味だし、根暗だし、勉強もスポーツも普通だし、どうしても男として好かれる要素があるとは思えない。訝しむ創真に、綾音はふっと表情をやわらかくして答え始める。

「気がついたらいつのまにかって感じだから、よくわからないけど」

「ああ……」

 そういえば創真もそんな感じだった。一緒にいるうちにいつのまにか翼を好きになっていたのだ。それも幼稚園のときに。どうして翼なのかと問われても正確には答えられそうにない。

「でも好きなところなら言えるよ。目立たないけど黙々と頑張るところとか、誰に対してもさりげなく優しいところとか、そういうのをアピールしない控えめなところとか、律儀で真面目な性格とか」

「…………」

 まっすぐな答えを返されて、自分で尋ねておきながら気恥ずかしくなってしまった。顔がじわりと熱を帯びていくのを感じる。良く言われることにも好意を示されることにも慣れていないのだ。

 しかし、ここまで言ってもらってもまだ納得しきれずにいた。頑張るといっても与えられた役割をこなしているだけだし、それほど優しくもない。もっといいひとがほかにいくらでもいるだろう。

 それでも綾音がこんなことで嘘をつくとは思えないので、いっときの勘違いでしかないのかもしれないが、少なくとも今現在において、創真のことが好きだという気持ちは信じるしかない。

「ありがとう」

 そう応じると、小さく吐息を落としてからゆっくりと顔を上げた。鼓動が次第に激しくなっていくのを感じながら、真剣なまなざしで彼女を見据える。

「でも、オレ、心に決めたひとがいるから」

「それって翼くん?」

 あっさりと言い当てられて息をのんだ。

 ただの当てずっぽうだったのか、ほかに思い当たるひとがいなかったのか、何か確証があったのかはわからないが、いまさらごまかす気はないのでこくりと頷く。

「やっぱりそうなんだね」

「オレの片思いだけどな」

「うん……」

 創真はあらためて表情を引きしめて、背筋を伸ばす。

「だからごめん。綾音ちゃんの気持ちはありがたいけど、つきあうとかそういうことはできない。でも綾音ちゃんさえよければ、いままでどおり幼なじみとして仲良くしたい」

「もちろん、私もそうしてくれるとうれしいよ」

 綾音はふわりと応えた。ふられたことなど微塵も感じさせない柔らかな笑顔で。無理をしているようには見えないが、本当のところはわからない。だからといって創真に詮索する資格はないだろう。

 会話が途切れたちょうどそのとき、注文していたオレンジジュースが運ばれてきた。彼女はストローで氷をつついてから飲み始める。つられるように、創真もだいぶぬるくなったコーヒーを口に運んだ。

「何だかままならないよね、私たち」

「ああ」

「完全一方通行の三角関係なんて」

「……えっ?」

 顔を上げると、彼女はストローをつまんだまま薄く苦笑していた。

 綾音は創真が好きで、創真は翼が好きで、翼は綾音が好きで??言われてみれば確かに完全一方通行の三角関係だが、綾音がそう認識しているということは、つまり。

「翼の気持ちを知ってたのか?」

「そうなんだろうなって思ってるだけ」

「ああ……」

 知らないあいだに翼が告白していたのかと思って驚いたが、どうやら言動から察しただけのようだ。それなら納得である。あれだけあからさまに好意を示していたのだから無理もない。

「創真くんは翼くんから聞いてたの?」

「いや、オレもただの推測なんだけど」

「やっぱり態度でわかっちゃうよね」

 そう言って肩をすくめる綾音につられて、創真も笑った。

 しかし、そのまま沈黙が落ちた。彼女は何か考え込むような面持ちでそっと目を伏せると、あらためてストローをつまみ、カランカランと音を立てながらオレンジジュースをかき混ぜる。

「でも、翼くんは告白とかするつもりはないんだと思う。私を困らせたくないっていうのもあるかもしれないけど、西園寺家の跡取りだし……翼くんならそこまで考えてるんじゃないかな」

「ああ……」

 言われてみればそうかもしれない。翼は小さいころからいつだって将来のことを考えてきたし、無責任な行動はしない気がする。ただ、それは自分のためというより綾音のためではないだろうか。

「だからね、どうせなら創真くんと翼くんが上手くいけばいいなぁって」

「えっ?」

 創真は思わずはじかれたように顔を上げる。

 正面の綾音はうっすらと曖昧な笑みを浮かべていた。突拍子もない発言のように思えたが、その表情を見て何となく気持ちがわかった気がした。同じ立場だったら創真もそう思っていたかもしれない。けれど??。

「そこまで夢は見られない」

 静かな声にはあきらめがにじんでいた。

 一瞬、綾音は何ともいえない微妙な顔つきになるが、すぐに気を取り直したようにさらりと話題を変える。その配慮に、創真は自分でも驚くくらいほっとしてしまった。

 

 

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第7話 侵蝕

 

「なあ、よかったらこれからうちに本を見に来ないか?」

 ホームルームのあと、東條は帰り支度をしながら隣席の翼をそう誘った。

 今日の昼休み、東條がイギリスで現地の本を買っていたという話になり、翼が興味を示していたのだ。だからといってまさか自宅に呼ぼうとするとは思わず、創真は面食らって耳をそばだてる。

「いきなり行ったら迷惑じゃないか?」

「部屋は片付いてるから大丈夫だ」

「へぇ、じゃあ行かせてもらおうかな」

「たいしたおもてなしはできないけど」

「構わないよ」

 翼が軽く笑いながら応じると、東條ほっとしたように小さく息をついた。

 おそらく彼には下心があるはずだ。本を見せたいというのも嘘ではないだろうが、自宅に呼ぶことでもっと親密になろうとしているのではないか。それが悪いわけではないけれど??。

「創真、そういうことだから今日は先に帰ってくれ」

「オレも行く!」

 ぽんと背中を叩かれ、思わずはじかれたように振りかえってそう宣言する。翼は勢いに押されて若干のけぞりつつ目を瞬かせたものの、すぐに平静を取りもどした。

「おまえ興味なさそうにしてなかったか?」

「本はともかく、東條の家には行ってみたい」

「諫早くんも歓迎するよ」

 驚いて振り向くと、東條がこちらを見て含みのある笑みを浮かべていた。まるで何もかも見透かしているかのように??創真はギクリとしながらも素知らぬふりで前に向きなおり、スクールバッグのファスナーを閉めた。

 

「俺んちはこっちな」

 校門を出ると、東條は右手で指さしながら案内する。

 だが、いつも彼が帰るところを見ているので言われるまでもない。そうだろうなと翼は笑いまじりの声で応じて、あたりまえのように彼と並んだまま歩き出した。創真はひとりその後ろを歩く。

 まわりが騒がしいのは二人の王子様が一緒に帰っているからだ。興奮ぎみに行き先を尋ねる子もいれば、遠巻きにはしゃいでいる子もいる。そんな彼女たちに翼は例のごとく甘やかな笑みを振りまいた。

 それでも学校から離れるにつれてまわりの生徒が少なくなり、騒がしさは落ち着いていく。困惑ぎみだった東條もようやく安堵したような表情になった。それを目にして翼は申し訳なさそうに肩をすくめる。

「こんなに騒がれるとは思わなかったんだ」

「文化祭のときよりは全然マシだったけどな」

「ははっ、違いない」

 文化祭の執事喫茶では、東條も翼とともにかなり騒がれていた。

 もともと編入したときから人気は高かったのだ。翼のように黄色い声できゃあきゃあ言われるわけではないが、翼以上に告白されている。正真正銘の男性だからというのもあるのかもしれない。

 ただ、東條はいまのところすべて断っているようだ。好きなひとがいるのかと詰め寄った子もいるらしいが、肯定も否定もしなかったと聞く。それこそが翼をあきらめていないことの証左だろう。

「イギリスにはどのくらい住んでたんだ?」

「小学生からだから……だいたい九年くらいか」

「へぇ、けっこう長かったんだな」

 翼はそう相槌を打ち、ちらりと東條のほうに顔を向けて言葉を継ぐ。

「親御さんの仕事の都合って聞いたけど」

「商社だから何か海外赴任が多いみたいでさ」

「ああ、商社か」

 西園寺グループにも商社があるので、翼はそのあたりの事情をよくわかっているのかもしれない。しかし創真にも何となく海外赴任が多いというイメージはあった。

「さすがにもうついていく気はないけど」

「じゃあ、ひとり暮らしか?」

「また海外赴任ってことになったらな」

 東條は苦笑すると、ふと思い出したように後ろの創真に振り向いた。

「諫早くんのところは転勤とかないのか?」

「多分ないと思う」

 ぶっきらぼうに返事をすると、翼が面白がるように含み笑いをしながら補足する。

「創真の父君は創業社長だぞ」

「え、そうなのか?」

「ただのベンチャー企業だ」

「もう中堅企業だろう」

 面倒なので、父親が社長であることはあまり言わないようにしている。

 それゆえ翼もむやみに暴露はしないのだが、東條には友人だからという判断で話したのだろう。別に隠しているわけではないので構わないけれど、翼がそれだけ彼のことを認めているのだと思うと、すこし複雑な気持ちになった。

 

 東條の家は、白を基調としたモダンな一戸建てだった。

 校門を出てから二十五分ほどかかっただろうか。自転車通学がぎりぎりで認められないところで、電車もバスもちょうどいい路線がないため、毎日こうやって徒歩で通学しているのだという。

「さ、ふたりとも入って」

「おじゃまします」

 東條に促され、創真は軽く会釈をしてから翼とともに玄関に入った。何となく隅のほうに寄りながら東條が扉を閉めるのを眺めていると、奥からパタパタと軽快な音が近づいてきた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

「あら、お友達?」

「うん」

 濃紺のエプロンを着けたまま玄関にやってきたのは、東條の母親のようだ。身長は普通くらいだが、頭が小さく全体的にすらりとしていて見栄えがいい。顔も若々しくて高校生の息子がいるようには見えなかった。

 東條は扉のつまみをまわして鍵をかけると、彼女に向きなおる。

「仲良くしてくれてるクラスメイトの西園寺翼くんと諫早創真くん。イギリスで買った本を見てもらおうと思って呼んだんだ」

「えっ……さ、い……」

 そう言ったきり、彼女は凍りついたように絶句してしまった。顔はひどくこわばり、青ざめ、わずかに震えてさえいる。いったいどうしたのか創真にはわからなかったが、それは東條も同じらしい。

「母さん?」

「あ……いえ、その、ゆっくりしていってね」

 息子の呼びかけでようやく彼女は我にかえり、ぎこちない笑みを浮かべてそれだけ告げると、そそくさと逃げるように奥へ引っ込んでいく。創真たちとは目を合わせようともしないで。

「悪い、いつもはこんなんじゃないんだけど……」

「気にするな。名前で驚かれることには慣れてる」

 東條は困惑した様子で謝罪するが、翼は何でもないかのように軽く肩をすくめて受け流す。だが、西園寺の名に驚いただけにしては様子が尋常ではなかった。おそらく翼もそう感じてはいるだろう。

 

「おまえ……本当にきれいにしてるんだな……」

 階段を上がって東條の部屋に案内されると、創真は唖然とした。

 急な来訪だったにもかかわらず、物が散らばっていることもなく、机の上もきれいに片付けられていて、ベッドまできちんと整えられている。いつもパジャマが脱ぎっぱなしの自分の部屋とは比べものにならない。

「母親が潔癖症ぎみでうるさいんだ」

 東條は苦笑して、なぜか弁明するかのように言う。

 ただ、さきほどの様子からも彼女が潔癖症というのは何となくわかる気がした。きっと繊細なところがあるのだろう。だから日本有数の旧家である西園寺の子が来たことにひどく動揺した??のかもしれない。

 そんなことを考えながら翼に振り向いたつもりだったが、姿がなかった。開いた扉から廊下を覗いてみると、翼は階段を上がりきる直前で足を止めて後ろのほうを見ていた。その表情はどことなく険しい。

「どうしたんだ?」

「いや……」

 そう答えると、気を取り直したように微笑んで部屋に入ってきた。

 何でもなくはないだろうが、何となく聞ける雰囲気ではなくなってしまった。翼はさっそく目当ての本棚に気付いてそちらへ足を進めている。もやもやとしながら創真もそのあとに続いた。

 本棚はスライド式のもので片側の壁面に備え付けられていた。扉で隠せるようになっており、東條が開けるまえはただの壁にしか見えなかったが、いまはそこに大きな本棚が現れている。

「いろいろあるんだな。見てもいいか?」

「ああ、まだクローゼットにもあるけど」

「とりあえずここだけでいいよ」

 翼に従い、創真もスクールバッグとコートを置いて背表紙を眺めていく。

 ざっと見たところ、小説、漫画、サッカー雑誌が多い。小説は海外の作家のものがほとんどで、逆に漫画は日本の作家のものばかりである。ただ、どれも日本語ではなく英語翻訳のようだ。

「こういうので英語を勉強してたのか?」

「あー、まあ結果的に勉強になってたとは思うけど、読みたかったから読んでただけなんだ。漫画は日本のだけど、英語翻訳のほうが手に入りやすかったからさ」

 東條はコートを脱いでハンガーに掛けながら答える。自分のだけでなく、創真たちのも同じようにハンガーに掛けてくれている。すぐに片付けることがもう身についているのだろう。

 コンコン??。

 ふいに控えめにノックする音が聞こえ、東條が扉を開ける。

 そこにはすこし気まずそうな笑みを浮かべる彼の母親がいた。ジュースとお菓子を載せたトレイを手に持っている。東條が招き入れると、彼女は中央のローテーブルにグラスとお菓子を置いた。

「さきほどはごめんなさいね」

 膝をついたまま、本棚の前にいる創真たちのほうに振り向いて言う。言葉のとおり申し訳なさそうな表情をしており、縋るようにトレイを胸に抱く姿もあいまって、ひどく儚げに見えた。

「いえ、気にしていませんから」

 翼がにっこりとよそいきの笑顔でそう応じると、彼女は淡く微笑む。

「まさか西園寺のお嬢様を連れてくるなんて思わなかったから、驚いちゃって。圭吾と同じ学校ってことさえ知らなかったんですもの」

 お嬢様??それを聞いた瞬間、創真は凍りついた。

 つまり彼女は翼が本当は女だということを知っていたのだ。だからといって、男の格好をしている本人をまえにしてお嬢様と呼ぶなんて。ただ単にうっかり口を滑らせただけなのか、それとも。

「母さん、あとは俺がやっとくから」

 東條も動揺して、あたふたと追い立てるように母親を下がらせる。

 それでも翼だけは何でもないかのように平然としていた。階段を降りていく軽い足音が遠ざかって聞こえなくなると、薄く苦笑して肩をすくめる。

「せっかくだ、いただこう」

 その言葉に、東條も創真もほっと緊張の糸が切れたように頷いた。

 

 三人はローテーブルを囲んでラグの上に座り、オレンジジュースを飲み、個包装になったバームクーヘンを食べ始めた。創真はあっというまに完食し、東條に勧められて二つ目に手を伸ばしながら口を開く。

「東條のお母さんはどこで翼のことを知ったんだろうな」

「顔は知らなかったようだから噂で聞いたと考えるのが妥当だな。一応、この学区のあたりではそこそこ知られているし、井戸端会議の話題にのぼったとしても不思議じゃない」

 翼が食べかけのバームクーヘンを手に持ったまま、理路整然と答えた。

 確かに旧家である西園寺の娘が男装しているとなれば、それも王子様と呼ばれるほど眉目秀麗であれば、学校とは無関係のところで話題になってもおかしくはない。

「でもあんなに動揺するのは普通じゃない気がするけど」

「もしかしたら仕事がらみでウチと何かあったのかもな」

「ああ……」

 西園寺グループはイギリスや北欧にも展開しているようだし、商社との取引もあるはずだ。逆にいえばそれくらいしか接点が思いつかない。仕事がらみとなると創真には何があったのか想像もつかないが。

「まあ、何の証拠もない勝手な憶測だ」

 翼はそう言って肩をすくめる。

「西園寺の名前に驚いただけという可能性のほうが高い。実際、あのくらいの反応ならいままでにも見たことがある。いずれにしても圭吾がそんな顔をすることはないんだ」

「ん、ああ……」

 創真は気付いていなかったが、隣の圭吾は戸惑ったように表情を曇らせていた。親どうしで何かあったかもしれないと聞けば、不安になるのも無理はない。翼はそのことを察してフォローしたのだろう。

「さあ、もうすこし本を見せてもらおうかな」

 今度は仕切り直すように明るくそう言って立ち上がると、軽く伸びをしてから本棚のほうへ向かう。創真も残りのバームクーヘンを口に放り込んであとを追った。

 

「じゃあ、この三冊を借りるよ」

 気になるものがあったら貸すという東條の言葉に甘えて、翼は三冊の本を選んだ。ミステリー小説とファンタジー小説とSF小説だ。東條の趣味らしく、本棚にある小説はこういったジャンルのものばかりだという。

「諫早くんはいいのか?」

「ああ」

 翼ほど英語が得意でないので小説は読むのに時間がかかるし、漫画はオリジナルの日本語で読みたいし、サッカーにはそもそも興味がないし、何より東條に何かを借りるというのは気が進まなかった。

 その隣で、翼はしゃがんで借りた本をスクールバッグにしまっている。どうにか三冊ともおさめてファスナーを閉じると、立ち上がって肩にかけた。厚い本もあったのでけっこうパンパンになっていて重そうだ。

 その様子を見て、東條はそっと控えめに表情をほころばせる。

「またいつでも来いよ。本とか関係なしに」

「ああ、圭吾もよかったら今度うちに来いよ」

「いいのか?」

 彼がそう聞き返すと同時に、創真は息をのんだ。

 翼が創真以外を家に呼ぶことなんて滅多にないのに。綾音でさえ数えるほどしか呼んだことがないのに。どうして会ってまだ数か月の彼を??しかし、当の翼はたいしたことではないかのように笑って頷く。

「もちろん。創真もしょっちゅう来てるしな」

「オレは遊びに行ってるわけじゃないけど」

「ん、じゃあ何しに行ってるんだ?」

「勉強だよ」

 翼がさらりと答えた。

「僕は家庭教師を呼んで後継者になるための勉強をしてるんだが、それに創真も同席してるんだ。経営学や、英会話、礼儀作法、マーケティングとか、あと護身術なんかもやってるぞ」

「へぇ、すごいな」

 東條は目を見張って感嘆の声をもらした。

 勉強もだが、何より創真も一緒にというのが意外だったのだろう。こちらに振り向いてまじまじと見つめてくる。そのまなざしにうらやむような色がにじんでいることに、翼も気付いたようだ。

「圭吾も一緒に勉強してみるか?」

「え、いいのか?」

「二人も三人も変わらないからな」

「それなら俺も同席させてほしい」

「わかった」

 前のめりになる東條に、翼はふっと笑みを浮かべて了承の返事をした。

 なんで??。

 これが社交辞令でないことくらい創真にもわかる。しかし同席を許されているだけの分際で反対などできるわけもなく、目のまえで話が進んでいくのをただ呆然と眺めるしかなかった。

 

 

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第8話 暴走のゆくえ

 

 東條の家をあとにして、創真と翼はいつものように並んで帰路につく。

 そのころにはもうすっかり夜の帳が降りていた。住宅街には家のあかりと街灯くらいしかないのでかなり暗く、ひっそりとしている。自分たちの足音だけがやけに響くような気がした。

 ふっ??ひそかについた小さな溜息は、白いもやになる。

 日中はそうでもなかったが、いまは厚手のダッフルコートを着ていてもぶるりと震えるくらいだ。きっと鼻も赤くなっている。けれど、それよりも心のほうがもっとずっと寒かったのかもしれない。

 

「すこし長居しすぎたかな」

 翼は夜空を仰ぎ、ふわりと白い息を吐きながら苦笑した。

 つられるように創真もちらりと見上げる。冬は空気がきれいで澄んでいるというが、星は見えず、月がどこにあるのかさえもわからない。ただ何もない闇が広がっているだけだった。

「そうだ、一応、家に連絡しておくか」

 赤信号で足を止めると、翼は思い立ったようにスマートフォンで電話をかけた。友人の家に行っていたからこれから帰る、あと二、三十分かかる、というようなことを使用人に伝えていた。

「創真は連絡しなくていいのか?」

「……別に大丈夫だろ」

 視線を向けられて、創真は思わず逃げるように顔をそむけてしまう。声音もひどく突き放したようなものになってしまった。

「…………」

 沈黙が落ち、すこし空気が変わったような気がした。

 下を向いているので翼がどんな顔をしているかはわからない。けれど、わずかに足を動かしてこちらに体を向けたのはわかった。ドクドクと痛いくらいに心臓が暴れるのを感じながら、創真は息を詰める。

「なあ、おまえどうしたんだよ」

「どうもしてない」

 ちょうどそのとき信号が青になり、とっさに逃げるように横断歩道へと足を踏み出したが、翼に手首を引かれてよろけながら戻るはめになった。それでも顔だけは頑なにそむける。

「こっち向けよ」

 苛立ち露わに、翼はギリッと力をこめて手首を握り込んだ。

 しかし創真が痛みに顔をゆがめたことに気付くとすぐに手を離し、代わりに両手で頬をはさんで自分のほうに向けさせた。そして息がふれあいそうなところまで顔を近づけて言葉を継ぐ。

「圭吾の家にいるときからおかしかったよな。ぶすくれたまま僕と目を合わせようとしない。話しかけてもろくに返事をしない。いったい何が気に入らないっていうんだ」

「……別に」

 創真は顔を固定されながらも必死に視線をそらした。あまりの近さにどきまぎする一方、心の奥底まで暴かれてしまいそうで恐ろしくもあった。だがこれくらいで逃がしてくれるほど翼は甘くない。

「こんな態度で別になんて言われて信じられるか。納得いく答えを聞くまで帰さない。今晩は雪も降るらしいし、このまま一晩中ここにいたら僕も創真も凍え死ぬかもな」

 そんなことを言い、挑みかけるように不敵に口元を上げる。

 こうなると翼はもう絶対に引かない。口先だけでなく本当にその覚悟でいるのだ。だからいつも創真のほうが折れるしかなく??目をそらしたまま、わずかに眉が寄るのを自覚しつつ口を開く。

「なんで……なんで、あいつを勉強に呼ぶんだよ」

「ん?」

 翼はきょとんとし、創真の頬から手を離して話し始める。

「構わないだろう。僕だって考えなしに呼んだわけじゃないぞ。圭吾は英語がネイティブレベルだし、英語以外の成績も悪くないし、なかなか将来有望だ。僕の補佐にすることも視野に入れている」

 補佐にする、だって???

 確かに成績も悪くないというかむしろ良いほうだ。翼には及ばないものの創真よりはだいぶ上である。おまけに翼との相性もずいぶんといいようなので、考えてみれば当然のなりゆきかもしれない。

「でも、補佐はオレが……」

「もちろん創真には補佐として支えてもらうつもりでいるさ。お払い箱にするわけじゃないから心配するな。ただ、優秀で忠実な補佐がもうひとりふたりほしいんだ。わかるだろう?」

 わかりたくはなかったが、何となくわかってしまった。

 創真には補佐としての能力が足りないということだ。お払い箱にしないのは幼なじみゆえの温情かもしれない。その代わりに優秀な補佐を追加するというのなら、甘んじて受け入れべきだろうが??。

「まさかおまえ拗ねてるのか?」

「嫌なんだよ、翼の隣にオレじゃない誰かが立つのは!」

 鬱屈した本音がとうとう暴発した。

「翼の隣はオレだけに許された場所だと思ってた。翼がいろんなひとに愛想を振りまいても、翼の気持ちがオレになくても、翼の一番近くにいられるならそれでよかった。公私ともに唯一のパートナーになりたかった。なのに……!」

「…………」

 翼はしばらく考え込むような素振りを見せたあと、怪訝な面持ちで尋ねる。

「それは、僕と結婚したいってことか?」

「できればしたいさ! おまえは男と結婚する気なんかさらさらなさそうだし、無理だとは思ってるけど! 幼稚園のころからずっとおまえが好きだったんだ! おまえだけが好きだったんだ!」

 創真は半ばやけっぱちに思いの丈をぶつけた。

 やはりというか翼はまったく気付いていなかったらしい。驚愕しているような、信じがたそうな、困っているような、申し訳なさそうな、そんな複雑な表情を浮かべながら当惑を露わにする。

「すまない……気持ちはうれしいが、創真をそういう対象として見たことはなくて」

「やめろよ! そこらへんの女子の告白みたいに軽くあしらうなよ!」

 創真はいたたまれず叫んだ。

 傲慢かもしれないが、翼をアイドルか何かのように思っている女子とは違うのだ。断られるとわかっていながら思い出がほしくて告白する??そんな彼女たちと同じように扱われるのは我慢ならない。

「じゃあ、どうすればいいんだ!」

 翼は苛立って叫び返すが、どうすればいいかなんて創真にもわからなかった。言うつもりのなかった思いをうっかりぶちまけてしまっただけで、返事を望んでいたわけではないのだ。そもそもは??。

「オレとフェンシングで勝負しろ」

 創真は顔を上げ、緊張しながらも強気に翼を見据えてそう訴えた。翼は視線を絡めたままぴくりと眉だけを動かす。

「どういうことだ」

「オレが勝ったら東條を勉強に呼ぶのはやめてくれ」

 そもそもの望みはそれだった。

 将来的に東條を補佐にするのは仕方ないにしても、いまはまだ勉強に同席させてほしくない。せめて心の準備ができるまで待ってほしい。けれどわがままを言える立場でないことは重々承知していた。

「そんな勝負を受ける筋合いはないな」

「オレが負けたら二度と口をはさまない。勉強についても、補佐についても、結婚についても。好きだとか言って困らせたりもしない」

 それを聞いて、翼はゆっくりと目を伏せて静かに考え込んだ。やがて心を決めたように視線を上げると、ゆったりと尊大に腕を組みながら創真を見下ろす。

「いいだろう、その勝負を受けてやる」

 その挑発的な物言いに、創真はぞわりと総毛立つのを感じた。

 

 段取りは翼が整えた。

 実際に動いたのは翼に頼まれたフェンシング部の部長である。中学のときに同じフェンシング部でそれなりに親しくしていたからか、勝負のことを聞いて二つ返事で引き受けてくれたのだ。

 武器と防具は各自で用意し、放課後、フェンシング部の試合場と電気審判機を借りて行うことになった。審判などもフェンシング部から出してくれるという。顧問の許可もとってあるらしい。

「翼くーん、がんばってーー!!!」

「キャー、西園寺くーん!!!」

 誰が吹聴したのか二階のギャラリーは超満員だ。声援を送っているのは女子ばかりのようだが、なぜか男子もそこそこいる。教員までちらほらいる。まさかこんな見世物になるとは思いもしなかった。

 勝負の理由についても、ちょっとした諍いがあって決着をつけるために、と部長に話したらしいので、もしかしたら観衆にも知れ渡っているかもしれない。そうなると創真は完全アウェーである。

「種目はフルーレ。三分間三セット、十五ポイント先取で勝利。いいな?」

 試合のまえに、主審を務める部長がピストの傍らで確認する。

 創真も翼もいっそう真剣な顔つきになり首肯した。もうマスク以外は準備万端だ。互いに横目で視線をぶつけあい闘争心を露わにする。

「悪いが全力でいく」

「オレもだ」

 何ひとつ翼に及ばない自分が、唯一、互角に渡り合えるのがフェンシングだ。

 中学を卒業してからきのうまで一度も剣を握っていなかったが、感覚は忘れていなかった。体も思った以上に動く。翼も同じく卒業以来のはずなので互角かそれ以上に戦えるはずだ。

 絶対に、勝つ??。

 東條は何も知らず、ギャラリーのどこかでのんきに観戦しているのだろう。創真が勝てば勉強に参加できなくなるというのに。すこし同情するが、それこそが創真の望みなのだから勝つことに迷いはない。

 しっかりと背筋を伸ばして強い気持ちのままピストに入場し、準備を整える。そして主審の号令で対戦相手の翼に一礼すると、マスクを着用し、スタートラインに前足のつまさきをつけて構える。

 しかし、ここにきて異常なくらい鼓動が速くなってきた。汗がにじみ、喉が渇き、手足もかすかに震え出す。試合でもここまで緊張したことはないのに。正面の翼を見据えたままグッと剣を握る手に力をこめる。

「アレ!」

 緊迫して静まった場に、試合開始の号令が大きく響きわたった。

 

 クッ??。

 創真の突きはかわされ、直後、翼の素早い突きが肩に当たった。

 緑のランプがつき、ほどなくして電光掲示板の数字が十四から十五に変わる。

 二分三十二秒を残して試合は終了した。

 翼の勝ちだ。

 それもほぼダブルスコアで。

 創真は力なくマスクを取ってうなだれた。みっともないくらい息が上がり汗だくになっている。前半は気負いすぎて緊張したせいか体が思うように動かず、後半は焦りでミスが相次いだ。自爆といっていい。

 ギャラリーからは黄色い大歓声が沸き起こっていた。

 翼はすこし呼吸が荒いだけで試合前とあまり変わらないように見えた。栗色の髪もふわりとしたままだ。ただ、いつものように黄色い声に応えて笑顔を振りまくことはなく、創真だけを射貫くように見つめている。

 いたたまれず目をそらすが、選手として試合終了の挨拶をしないわけにはいかない。主審の号令で歩み寄り、わずかにうつむいたまま対戦相手の翼と握手を交わす。瞬間、その手をグッと痛いくらいに握り込まれた。

「約束は守れよ」

 ぞくりとする冷ややかな声。

 ぎこちなく頷くと、翼はすぐにひらりと身を翻して体育館をあとにする。最後まで振り返りもしないで。大勢のギャラリーのまんなかに取り残された創真は、ただ立ちつくすしかなかった。

 

 

 

説明
幼なじみの男装令嬢に片思いする少年の話。

ずっと翼のそばにいて、翼を支える??。
幼いころ創真はひとりの少女とそう約束を交わした。
少女はいつしか麗しい男装で王子様と呼ばれるようになるが、
それでも創真の気持ちはあのころのまま変わらない。
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オリジナル 幼なじみ 男装 恋愛 学園 三角関係 

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