私とあなたの距離感の話
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   ((空|から))の玉座

 

 コゼットはエルジア王女として、ハーリングと会ったことがある。なにかのレセプション、あるいはなにかのパーティで。

 その時、コゼットはオーシア映画が好きだということを伝えると、ハーリングは喜んだ。

 

「いつかオーシアにいらっしゃる時、映画の撮影現場を見たいと要望を出されてはいかがでしょうか」

 

 コゼットが「見学できるのですか」と嬉しそうに聞くと、「スケジュールが合えば、もちろんです」とにこやかに返された。

 そんな他愛のない会話で、なにかを推測した人間がいたとしたら。

 ハーリングが王女をオーシア人と結婚させるきっかけを作る気なのでは。そんなふうに。

 

 今のエルジア王室は開かれている。そこまでの血統主義ではない。そもそも旧王家の血縁で、一般人となっていた者が玉座にすえられたのだから。

 

 しかし、コゼットの結婚相手はエルジア人が望ましい。

 できれば、王室外交のなんたるかを分かっている上流階級。

 さらに望むなら、由緒正しいエルジア貴族の血筋。

 それが駄目であれば、旧エルジア王国と繋がりがあるユージアの人間。

 

 国民の間ではコゼットを次の国王に望む声は大きいが、今の法律によればエルジア王家の王位は男子継承のみ。この法律に基づくのであれば、コゼットが産んだ男子が次の国王になる。

 そこに影響力がありすぎる他国の血を入れたくないという、ひそやかな思い。

 

 もしハーリングが、なんらかの虎の尾を踏んだとしたら。

 そこまで考えてコゼットはため息をついた。分からない。

 それも原因の一つかもしれない。政治とは複雑怪奇。単純ではない。

 

 ハーリングはオーシア大統領の任期終了後、国際軌道エレベーター公社の顧問となり、休むことなく精力的に動いた。

 環太平洋戦争の翌年、二〇一一年の時点で、ユージア復興のための軌道エレベーター計画を提案し、公社が設立されていたので、彼が顧問になるのは自然な流れだった。むしろ中心人物がようやく最前線に来たと言っていい。

 

 彼の人気はオーシアの歴代大統領の中では群を抜いてトップ。構造的にも政治的にも難易度が高い、軌道エレベーターという巨大建築を成功させるのに、ハーリングの知名度は一役買った。

 オーシア政治の中枢たるホワイトヒルで、特に現政権がハーリング人気を歓迎するかといえば、おそらく微妙。

 

 元々ハーリングが力を入れていた軌道エレベーター建設という名目で、国外に追い出したのか。

 あるいは、ユージアへの経済的侵略としてハーリングを利用したのか。

 ハーリング自身もそれを分かっていて、祖国を利用したのか。

 それらは当事者にしか分からない。

 

 灯台戦争終盤で地球に帰還し、軌道エレベーターを初めて利用した宇宙船となったピルグリム1号のナガセ・ケイ船長の言葉によれば、ハーリングは出発前、完成した軌道エレベーターが君たちの港になると言ったという。

 そのため、世界を一変させた隕石ユリシーズと似た進路を取る小惑星破壊という、宇宙空間での長期任務を成し遂げた宇宙船を帰還させるため、港となる軌道エレベーターを守りたかったのではという説が有力になっている。

 

 それでも、灯台戦争を激化させる一因となったハーリングの死は、諸説あふれている。

 もっと賢いやり方があったのではないか。そもそも軌道エレベーターに向かった時点でハーリングは死んでいたのではないか等々。

 結局のところ、最期に敵が大勢いる軌道エレベーターに向かった理由も、ハーリング本人にしか分からない。

 

 灯台戦争を利用して、翌年の環太平洋戦争の機密文書公開前に、なんとかしたかった人間がいたのだとしたら。

 今のオーシア大統領がなにも知らなくても、ハーリングを排除したい誰かがなにかを知っていて、知らぬ振りをしたのだとしたら。

 一定の支持層を持つハーリングは、軌道エレベーターに反感をいだく一部のエルジア人にとって厄介な人間で、灯台戦争をこれ幸いと利用したのだとしたら。

 

 そして、コゼットにオーシア人俳優と会うことを勧め、王家と直接人脈を得ることに危機感をいだいた人間がいたのだとしたら。

 どれが真実なのか。おそらく分かることはない。

 

 ただコゼットにとって、自分がハーリングの死に少しでも関連しているのではないか。そういう思いがよぎる。

 オーシア映画が好きで、大作映画の見学ができる可能性に喜び、世界の映画産業の中心で活躍するスターに会える未来に笑顔を見せた、あの時の自分が──。

 

 

 

 ハーリング殺しの実行犯とされたのは、トリガーという((TAC|タック))ネームのオーシア空軍の戦闘機パイロット。のちに冤罪と分かり、トリガーは灯台戦争で英雄となったためか、今ではその情報は機密扱いになっている。

 

「ありゃトリガーだな」

 

 タイラー島で上空を駆け抜けた機体。あっというまだったのでコゼットにはよく見えなかったが、あとでエイブリルが教えてくれた。「あたしたちの部隊のエースさ」と。

 

「今は違う部隊に異動して、そこでもエースになっているらしい」

 

 偶然島で知り合った、コゼットと年の近いオーシア空軍の女性整備士は、そういう情報も気軽に教えてくれた。

 

 戦後、エイブリルから微妙に話をぼかされながら聞かされたのは、オーシアには懲罰部隊というものがあったこと。

 表向きは罪を犯した兵士を更生させる部隊だが、実際は正規兵の数を減らしたくないため、理不尽で過酷な任務をやらせる員数外の部隊だと言われ、コゼットは顔を曇らせた。

 

 あの時、同じ船に乗ってタイラー島から脱出したエルジア軍の傭兵で、その後もコゼットとともに難民の援助活動に関わるジョルジュも、ぼかしながらハーリングの件を教えてくれた。

 元大統領の死について、エイブリルに「どうやら…((エルジア|こちら))の傭兵部隊が汚れ仕事をしたみたいなの」と言うと、「どの国も同じだよ」とエイブリルは淡々と答えた。どの国にも暗部があり、表には出せないものが存在する。

 

 一九九五年のベルカ戦争。敗戦国となったベルカから戦勝国のオーシアに割譲され、ノースオーシア州となった南ベルカ。

 二〇一〇年の環太平洋戦争。裏でベルカ人が暗躍したため、ベルカ事変という通称が使われていたが、二〇二〇年に環太平洋戦争に関する機密文書が解除されたことで、その呼び方は確固たるものになった。

 

 環太平洋戦争時のオーシア大統領はハーリング。

 トリガーはノースオーシア出身のベルカ系オーシア人。

 本当の実行犯かもしれない、エルジア軍の傭兵だったジョルジュはベルカ人。さすらうようにエルジアまで来たという。

 

 断片的な情報を集め、繋ぎ合わせ、隙間を埋めるように考え、答えを導き出す。トリガーは政治的に仕組まれ、ハーリング殺しの罪を押しつけられたのではと。

 それでも彼は腐ることなく、生き残り続けた。人形のように誰かにもてあそばれても、次の一歩を踏み出し続けたトリガーに、コゼットは親近感を覚えた。

 

 トリガーとは直接会ったことがある。

 IUN国際停戦監視軍の基地を視察するという名目で、その基地に降り立ったロングレンジ部隊と偶然出会う、という演出をしてトリガーに会ってみれば、普通の青年。これといった特徴はない。

 

 コゼットも王女となる前は、これといった特徴がない、普通の女子生徒だった。

 元々、父がエルジア王家の血筋であることは知っていた。だからといって特別待遇を受けるわけではない。

 あるとすれば、王家の人間のスーツを仕立てること。上流階級の世界の端に職人としているような、下町の小さな仕立て屋として働いていた。

 

 それが、従兄弟の国王一家が交通事故で全員死亡したことにより、継承権が回ってきた。父が国王になる。だから自分は自動的に王女になる。

 下町の娘ローザ・コゼット・ファルシネリは、エルジア王国王女ローザ・コゼット・ド・エルーゼという名前に変わり、流されるように上流階級の一員となり、短期間でマナーを叩き込まれた。

 

 そこに自分の意思はあるようで、なにもなかった。

 一応覚悟は決めたものの、基本的には周囲が決めた。エルジア王家という血が決めた。

 

 だが今は、自分で選んだ。選んでここにいる。王女のままで、自分の意思で言葉を発し、行動し、なにを着るかも選び、ここにいる。

 それはトリガーも同じ。戦争を通じて冤罪から脱し、英雄となり、戦後もユージアにとどまっている。彼の意思で。

 

 彼と自分は同じなのだとコゼットは悟る。鏡のように、女性と男性。王女と兵士。血によって翻弄され、周囲によって決められ、転落し、自力ではい上がり、戦後は己の意思でそこにいる。

 もしかしたらそうであったかもしれない鏡の向こうにいる、もう一人の自分。離れた同胞。

 

 コゼットがトリガーと実際に会話した時間は短く、深く語り合ったわけではないが、通じ合うものがあった。

 「あなたは自分で望んで、ここにいるのですか」とコゼットは聞いた。「はい。そうです」とトリガーは答えた。

 

「アーセナルバードがない今、ここにロングレンジ部隊がいることで、ある程度の抑止力にもなりますし」

 

 コゼットは「私も難民問題に積極的に参加することで、彼らの不当な扱いへの抑止力になると思っています」と告げた。「少しだけ似てますね」と。

 

「それに…今ファーバンティにいても、次の国王をどうするかでもめていて、やることがないのです」

 

 その言葉がきっかけになったのか、トリガーは「…今本国に帰っても」と真情を少しだけ吐露した。

 

「戦争に参加しなかった兵士たちとは、見えない壁がありますから……。その事実を受け止めるための、冷却期間が欲しいのです」

 

 コゼットは嗚呼とトリガーの瞳を見た。トリガーもコゼットの瞳を見る。たがいにだけ通じるものを見出す。

 ほんの一瞬だけ交感されたなにかは、熱情と言いがたい。恋情とも言いがたい。ただ同じだと理解する。

 

 タイラー島で、軌道エレベーターで、けして言葉をかわすことなく、瞬間的に人生が交わった。こうして直接会って話をすることで、物理的には遠く離れているが精神的には限りなく近い、背中合わせの同士だと瞬時に理解する。

 

 分かりやすく恋ではないなとコゼットは思った。親近感。そう、親近感。

 恋に近いといえば、見る人によってはそうかもしれないが、それが結婚に繋がるかというと、これまた微妙な話になる。経歴や身分、血筋を考えれば、まずはない。

 

 今は中世ではなく現代。伴侶が外国人で、過去になにかあっても結婚できるが、それは表向き。やはりそれなりにクリーンな部分がなければいけないし、血にもこだわる。

 政治的な発言をして自由に動くということは、なにかの代価を払うということ。結婚に関して、コゼットはある種の覚悟をしていた。

 

 

 

 だからイオネラの淡い恋の始まりを応援したい、という気持ちがある。

 彼女は戻るべき国がなくなり、王族ではなくなった。そこだけを見れば悲劇だが、一民間人となって自由を得ている。

 

 基地の視察をするコゼットに同行し、トリガーと会話をしたイオネラは、彼に対してなにか思うところがあるようだった。祖父を墜とした人間という、それ以上に。

 お礼の手紙ならこちらから、王女として出すからと答えたら、イオネラは自分たちも個人的に出したいと言った。

 

 恋かしら。恋ね。

 

 コゼットは自問自答する。かつて自身が経験した、恋のときめきを覚えているからだ。こころよく、だがこっそりと、トリガーの所属基地の住所をイオネラに教えた。

 

 その後もイオネラは、トリガーとやり取りをしているらしかった。やり取りと言っても、季節に合わせた手紙を送り、その返事が来るといった程度らしいが。

 イオネラはそれが待ち遠しいらしい。どんなハガキで送るか、どんな文面にするか、どの色のインクを使うか。細かく考え、嬉しそうだった。

 

 たとえ実らずとも、周囲に少しでも漏らすことができるその恋は貴重なのだと。地位に左右されることはない。大人たちに監視されることもない。つぼみのような恋を、そっと後押しする。

 

 「私たちは大人にならなきゃいけないの」と言った少女は、おそらく両親の死後、ずっと自身にそうやって言い聞かせてきた。今は自らに呪うように課してきたものを解放しつつあり、年相応の子供のようなふるまいをする時がある。

 対してコゼットは、王女にふさわしく懸命に背伸びをしていたが、王女という無垢で純真な子供であるようにと、ある意味でそういうふうに期待され、演じた部分があるため、今は急激に大人になっていた。

 

 私という居場所を戦って手に入れる過程で、死や怪我で先代が去り、空位となった王位が目の前に来る。

 

 コゼットは難民支援を世界に呼びかけることで。

 トリガーはアーセナルバードの代わりの抑止力として、ユージアの基地に残ることで。

 

 目の前から去って行った王が残した、((空|から))の玉座を継ぐことを選んだ。

 決断をすることで、自らの私という土地の王となった。

 

 自らの意思でなくてもこの大陸に深く関わり、そこに生きる人々の生活を、運命を、国の成り立ちを変えてしまったからこそ。

 そして政治的なテロルの死が身近になったことで、生き延びるために。

 今はそうするしかない。己はここにいると宣言するしかない。

 

 力を得れば得るほど、あの未来、この未来という選択肢はせばまり、成すべきことだけが目の前に残る。やるしかない。やれるのは自分だけ。

 自分もそう。トリガーもそう。玉座を放棄するという選択肢はないのだ。

 

 もし、ハーリングもそうだったのだとしたら。

 ユージア各国とそれ以外の国々、特に超大国のオーシアとユークトバニアとの格差。ユージアで再燃した難民問題を発端とする民族間の憎悪。それらを薄めたかった、次の環太平洋戦争を生み出したくなかったのだとしたら。

 

 かつて存在したアークバードという大気機動宇宙機は、環太平洋戦争では兵器として転用され、壊された。軍事利用されたのはハーリングの意思ではなかったし、本来は宇宙開発計画の基盤になる予定だったという。

 ハーリングは大統領時代、宇宙の平和利用に積極的だった。巨大建築をテロから守るためとはいえ、過剰ともいえた巨大無人航空機アーセナルバードの武装は、今度こそ宇宙への道を誰にも邪魔させないという、ハーリングの固い意志の表れだとしたら。

 祖国オーシアではかなわなかった夢を、外国のユージアで実現しようとしたのであれば。

 

 ユリシーズ以降の人類にとって、宇宙は恐怖と不幸が降って来る象徴のような存在だった。

 その意識を変えられるのは自分だけしかいないと、ハーリングが思ったのであれば。それが彼にとっての玉座だったとすれば。

 

 コゼットの場合は調和だった。始まりは合唱という調和。((前期中等教育|コレージュ))では合唱部が作られる前に王女となってしまったため、級友たちの活躍を見るのは大会の貴賓席からだったが。

 

 タイラー島で見た、戦争に巻き込まれた難民たちの悲惨な末路。利用され、迫害されるベルカ人。エイブリル同様、島で知り合ったオーシア兵のタブロイドが、コゼットの不安を打ち消すために語り聞かせてくれた童話『姫君の青い鳩』。

 そして小国を武力で次々と併呑し、民族問題と独立運動の火種をつねにかかえる祖国エルジア。政府は王族を各地に訪問させる形で、なんとか打ち消そうとしていた。

 

 国からこぼれ落ちる人々を、バラバラになる人々を、少しでも輪の中に繋ぎ止め、受け入れたいという思い。軌道エレベーターの支援施設にあった、あの巨大な絵のように。

 

 己という玉座。民衆が求める玉座。

 恋というものも、玉座に近いのかもしれない。突如として目の前に現れる。現れてしまった以上、拒否はありえない。拒否はできるが、痛みをともなう。

 

 最近のイオネラは、菓子作りを熱心におこなっているという。実験部隊での無人機の開発責任者だったシュローデル博士が教えているらしく、イオネラとは師弟のような関係になっているらしい。

 過去にコゼットが実験部隊の塩湖の基地に行ったとき、ちょうどお茶の時間だったこともあり、博士が作ったという焼き菓子をふるまわれたことがある。

 甘すぎず硬すぎず、だがいくつ食べても飽きることのない焼き菓子たちは、コゼットも満足するものだった。「息抜きに料理はいいんです」と言われ、意外な一面があることを知った。

 

 イオネラはその博士からケーキ作りの習得を頑張っているようで、おそらく作りたい相手ができたからなのだろうと察した。それが誰かはなんとなく分かるが、好奇心が少々うずく。

 会いたいという一言を言えず、だが会えるかもしれないその一瞬のために、さまざまな努力をする。

 両親の死後、イオネラは長子として祖父をサポートし、五つ下の妹の面倒を見て家族に尽くしてきたので、自分の欲望を素直に表に出すことができない。健気さはこういう時、いじらしいものとなる。

 

 

 

 コゼットはまず、休日の友人宅への私的訪問という形で、妹のアルマに最近のイオネラについて尋ね、ケーキの試作品をよく食べていることを聞いた。中には少々味のバランスが悪い失敗作もあり、祖父と一緒に頑張って食べていることも。

 次に生活に困っていることはないかという話をきっかけにして、ミハイに「イオネラが最近、お菓子作りに目覚めたようですね」と話を振る。

 

「誰か、食べさせたい相手がいるようです」

 

 遠回しに探って情報を集めるように、コゼットは「心当たりはあるのですか?」と聞いた。

 

「いいえ。殿下は存じていますか?」

 

 飛ぶこと以外は興味がなさそうに見えるミハイでも、昔取った杵柄というべきか。

 革命によって共和制に移行し、その後エルジアに併呑されたとはいえ、亡国の元王族。シラージ家に政治的に接触し、取り込もうとたくらむ人間がいるのではないかというセンサーは、それなりにある。

 

 ここは綱の引き合いになったが、コゼットが譲歩した。

 

「以前、監視軍の基地で会ったパイロットに、アルマと連名で季節の手紙を出しているようなので、その方ではないでしょうか」

 

 誘い水にミハイは当然乗り、それが誰か聞く。コゼットは少しためらい、ミハイが答えをうながす。許可を得たと判断したコゼットは、「あなたを墜とした三本線のパイロットです」と努めて穏やかに答えた。

 ミハイはしばし考えたあと、「そうですか」と言った。

 

「メールがある時代に、ずいぶんと楽し気に手紙を書いていると思ったら、そういうことだったのですか」

 

 顔をわずかにほころばせ、「あの子たちは前に進んでいるのですね」と続けた。

 一応コゼットは、「イオネラとアルマが三本線のパイロットに会った話を、あなたにしたことがありますか?」と聞いた。「いいえ」とミハイは顔を横に振る。

 

「あの時のイオネラは、殿下の付きそいで監視軍の基地に行くとだけ言って、それ以上のことは言いませんでした」

 

 アルマも約束だからと、祖父になにも教えなかったという。

 祖父を墜とした相手、敵だった人間に会うというのは、さすがに祖父相手には言いづらかったのだろうとコゼットは察する。

 姉妹たちの口からではなく、自分が言っていいのかどうか迷ったが、ここは正直に伝えるべきだと判断した。

 

「彼女たちが乗る飛行機が無人機に襲われたとき、三本線のパイロットが所属する部隊に救われたことがあったそうです。それに、あなたを地上に降ろしてくれた人だから、会ってみたいと思ったようです」

 

 それが彼の心のどんな扉を開けたのか分からないが、「私も三本線に興味があります」とミハイは言い、会いたいことを告げられた。

 

「もう空を飛べない老人の我がままだと思って、一つ無茶を聞いていただきたい。かつての敵に会うということで警戒はされるでしょうが、空を飛ぶこと以外はなにもできぬ老人です。死ぬまでにしたいことリストの一つですよ」

 

 そう語るミハイは表情が豊かとはいえないが、好々爺に見えた。次の人生を生き始めているように見えた。

 コゼットは「一つ聞きたいことがあります」と改まって尋ねた。

 

「王族の地位を捨てたことに、後悔はありませんか?」

 

 その問いに、ミハイはほんの微かに笑う。

 

「あなたは王女で在り続けていることに、後悔はありませんか?」

 

 コゼットはハッと息を飲み、何事か考えたあと、静かな笑みを浮かべる。

 

「いいえ。ありません」

「私もですよ」

 

 王族のままでいることを選んだ若い女性。

 王族であることを捨てた老人。

 

 二人はイオネラとアルマの姉妹が作った飛行機型のクッキーを食べることで、会話の小休止とした。

 

END

 

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   傷の同胞

 

 さて俺はどこにいるのでしょうと思わず脳内でクイズを出したが、答えは最初から決まっている。トリガーはエルジア王国の撃墜王ミハイ・ア・シラージの自宅にいた。

 

 そもそもはミハイの孫娘イオネラの「おじい様に会ってくれませんか」という個人的な願いが始まりだった。

 そしてイオネラの学友であるエルジア王女ローザ・コゼット・ド・エルーゼ経由での非公式な依頼となり、こうなると断れない。灯台戦争後の王女は、己が持つ力と影響力をはっきりと自覚して振るっていた。

 

 イオネラと彼女の妹のアルマ、エルジア王女コゼットとは、トリガーはすでに面識を得ている。

 コゼットと友人たちのお忍びによる非公式な基地訪問という形で、訓練でその基地に降り立っていた長距離戦略打撃群ことロングレンジ部隊の面々は会っていたのだ。

 実際のところ、基地訪問というのは表向きの理由。ロングレンジ部隊、特に灯台戦争中に三本線と呼ばれたエースであるトリガーと会いたかったのが、コゼットたちの本音らしかった。

 

 その後の繋がりといえば、コゼットからはサインは本人だろうが、王家らしい格調高い紙にお礼の文章が印刷された手紙が、シラージ姉妹からは手書きによるお礼の手紙が来た。あとは姉妹から定期的に送られてくるグリーティングカード。

 

 今回来た手紙もその一環だろうと思ったら、祖父に会ってほしいむねが書かれていた。

 かつてミハイが隊長を務めていた実験飛行隊、通称ソル隊の部下たちから勧められたオンラインのシューティングゲームのお陰で、祖父は生きる力をだいぶ取り戻したそうだが、もう少し後押しをしてほしいというのがイオネラの望みらしかった。

 なんで俺がとトリガーは困り、「おじい様はあなたのことをよく話していたのです」と伝えられても、遠回しに断っていた。

 

 が、「おじい様と同等の腕を持ち、おじい様に勝ったエースなら、孤独を癒やせるのではないかと思って」と切々と訴えられ、さらにエルジア王女による援護射撃も加わったら、行かざるをえない。

 

 コゼットからの願い事は無下に断れない。相手がエルジアの王族であり、断りづらい相手というのもある。トリガーがコゼットと会話をしたのは、それこそ基地訪問のときぐらいなものだが、皮膚感覚でなにか近しいものを感じた。

 元々民間人だったが、父親が国王に即位するにあたり、必然的に彼女も王族の一員となった。周囲に言われるがまま王女を演じ、戦争に翻弄され、生き延びた。そして戦後は自分の意思で王女の座に踏みとどまり、難民たちを援助している。

 

 トリガーはハーリング元大統領を殺した犯人とされ、政治的な思惑に翻弄された。死を望まれ、その中で生き延び、そのうち英雄として頼りにされ、恐れられるようになった。

 戦後は本国に帰らず、英雄という肩書を利用した抑止力としてユージアに残っている。結果的にそれは現在のユージアの政治情勢に微妙な均衡をもたらすパーツの一つなり、うまく働いている形となった。

 

 コゼットは国の命運を左右する王族であり、トリガーは末端の兵士。立場は違うが、戦争の歩み方や今の立ち位置が、なんとなく似たものを思わせるものがあった。

 

 王女とされる人間、英雄とされる人間の言動は周囲から、特に生身の部分を知らない人間たちからは、すべてが公のものと認識され、私的空間は極端にせばまる。そのコゼットの小さな空間に、おそらくシラージ姉妹はいる。

 公人として生きざるをえない人間が発した、非公式のささやかな望みを叶えることは、彼女の個の領域を守ることに繋がるのでは──。

 

 そういう同胞を救うような思いでミハイに実際に会ってみれば、ただの老人。そういうふうにしか見えなかった。

 この人間が雛鳥だったブラウニーに恐怖を与えてから墜とし、豪快だが技量のあったチャンプをなんなく墜とし、自ら囮となって粘り続けたトップエースのワイズマンを墜とした。

 

 トリガーの機体の尾翼にえがかれた三本線の爪痕は、最初は罪人の印だった。

 ハーリング元大統領を殺したという無実の罪で、まさに使い捨てともいうべき第四四四航空基地飛行隊、いわゆる懲罰部隊送りになり、そこで最も重い罪の証し、三本の白線が引かれた。

 

 ロングレンジ部隊の中隊長ワイズマンに引き抜かれ、晴れて正規部隊に異動したあとも、三本の罪線をパーソナルマークの一部として残した。偶然だろうが、最終的にはミハイに直接仲間を奪われた数にも重なった。

 トリガーは仲間の仇を取ったといえば取った。ミハイを墜としたのはトリガーであり、ミハイの飛び方そのままの無人機たち、その最終形態であるようなフギンとムニンを墜としたのもトリガーなのだから。

 

 その敵に少々後ろめたさを覚えるのは、過去に彼が暮らしたであろう土地に押し込み強盗をしたこと。

 通信衛星が破壊された大混乱で、敵も味方もユージア各地で孤立し、同士撃ちも多発した。ロングレンジ部隊は、敵の領土制圧後に燃料と物資の調達をする名目があったとはいえ、実質シラージ城へ押し込み強盗をしたようなものだった。

 ロングレンジ部隊の強襲によって命を失った者もいるため、その後ろめたさが、執拗な捕食者としてミハイに仲間の命を奪われた怒りを軽減させていく。

 

 それとこれは別と言われても、同罪のような気がした。背負うべき見えない罪の形。

 

「君が、三本線。トリガー」

「はい。そうです」

「名前を呼ぶときは、どちらがいいかな」

 

 選択権を与えられる。トリガーは何秒か考えたあと、「トリガーでお願いします」と言った。

 

「みんな、本名より((TAC|タック))ネームの方で呼ぶので」

 

 まだ彼に本名で呼ばれたくないという、見えない壁を築く。トリガーの心の内を知ってか知らずか、ミハイは「そうしよう」と受け入れた。

 会話がすでに上司と部下、王と家臣のそれだが、相手は元王族。こちらは若造。まあこうなるのは仕方がないとトリガーは勝手に納得する。

 

「あなたのことはミスターX…っと、すみません」

「向こうでの私は、そう呼ばれていたそうだね」

 

 トリガーは「はい」と微笑んでごまかす。

 

「私のことはミハイでかまわんよ」

 

 一見すると穏やかな雰囲気が流れているように見えるが、見えない緊張の糸があちこちに張られているようで、なんとも奇妙だった。

 

 ──お前の名前は、古い伝説で新しい時代の王様の名前なんだよ。

 

 親からそう教えられ、実際そうなった。ハーリングという地上の王を殺した冤罪を背負わされた人間が、ミハイという天界の王を撃墜する、いわば実際の王殺しをしたという皮肉。

 

 ユージアの新しい空の王。皆がそう認識するが、トリガー自身はその認識がいまだにこそばゆい。

 その名称はメビウス1にこそふさわしいと思うが、かの伝説のエースは呼び出されるとどこからか現れ、用事を済ませるとどこかへ消えるような、まるで異界からの召喚者のような不思議さがあった。

 メビウス1は王というより、リボン付きの死神と呼ばれただけあって、ユージアの空の守護神というべきか。死神なので少々物騒だがという、トリガーはどこか気の抜けた感想をいだく。

 

 とにかく、名前とはかくも本質と運命を表すものなのか。オーシアではミハイをミスターXと呼んでいたが、本名は王族らしく長い名前だったとトリガーは記憶していた。古き血族の歴史と恩寵がこめられた名前。

 

「傷は良いのですか」

「歩ける程度には」

 

 頬の傷が気になったトリガーは、思わず「あの、頬の傷は……」と質問を口にする。

 

「古いのだよ。昔、国で革命運動が起きた時、友と思っていた人間に撃たれた」

 

 突然の重い話題に、トリガーはなにか言おうとしても言葉が思い浮かばなかった。

 

「この傷ができたばかりのころは、鏡を見るたびに悲しかった。今はもう、そんな感傷に浸ることはないがね」

 

 しまった地雷を踏んだと、トリガーは心の中で頭をかかえた。ミハイに関する情報が少なすぎるため、手探りで会話をするしかない。さていったいなにを話せばいいのかと歯ぎしりしたい気分だった。

 その空気を見抜いたミハイは、「三本線に会いたいとイオネラや王女に頼んだのは、私なんだよ」と種明かしをした。

 

「イオネラ嬢ではないのですか」

 

 トリガーからすれば意外だった。本当に祖父を案じてというふうに手紙で訴えてきたので、実際本心だったのだろうが、紙面上とはいえ、そういう演技もできたのかと。

 

「君の爪痕のパーソナルマークが傷跡のように見えて、奇妙な親近感を覚えた」

「傷跡、ですか」

 

 ああそうか。自分は傷ついていたのだと、トリガーはようやく理解した。

 

 懲罰部隊でつけられた三本線を狼の爪が引き裂いたような跡にしたのは、ブラウニーとチャンプを墜とし、インシー渓谷で戦った強敵であるミハイに伝わるようにという意味もあった。

 有志連合での部隊名を((三本線|スリーストライクス))にしたのも、自分はここにいる、隠れも消えもしないと政治的なアピールも含んでいたし、戦う無人機があのミハイのコピーだったからというのもある。

 

 が、さらにその奥にあるもの、根っこにあるものは怒りだけでなく、傷ついた悲しみでもあったのかと、ようやく思い到る。

 

 IUN国際停戦監視軍に志願したのは、あのメビウス1がまだいるのなら会いたいというファン心理があったのは、けして嘘ではない。

 嘘ではないが、心のどこかであの空気に疲れていたのだと、ドミノが倒れるように、心にかかっていた霧がクリアになっていく。

 

 こちらがベルカ系だと知るや、どこかひんやりとした空気が流れ、会話には神経質なものが混ざる。なにか事が起これば疑惑の眼差しが向けられ、世界に混乱と陰謀をもたらす民族の血が流れているのだからと、真っ先に容疑者になる。そういう空気。

 そのたびに笑顔でやり過ごし、怒りを腹の底に収め、さとすように丁寧に忍耐強く説明する。オーシアでベルカ人やベルカ系が生きるのはそういう面がある。

 

 ハーリング殺しの生贄に自分が選ばれたのはベルカ系オーシア人だから、復讐のストーリーを作りやすいのだろうとトリガーは推測していた。

 そうであっても、誰かが自分の運のなさを酒のつまみにして笑っているなら、こちらが嘆くのは腹立たしい。

 相手が殴ってきたら倍以上で殴り返すように、懲罰部隊では任務をやれと言われたら、全力で敵を叩き潰して生き残るというやり方で殴り返した面がある。

 

 お前たちが疑い、おとしいれ、奪い、傷つけ、さげすんだ者がはい上がったさまを見よ。これはお前たちの報いを受ける((引鉄|ひきがね))と知れ。

 この爪がお前たちの輝かしい経歴に、判子で押したような笑顔に、ほつれも汚れもない制服に、必ず傷をつけてみせる。

 

 俺を見ろ。

 俺を思い出せ。

 お前たちが忘れることは許さない。

 最後までお前たちのいつわりに抵抗する者を、その目に焼きつけろ──。

 

 怒っている面があるのは自覚していたが、存外傷ついていたのかと、トリガーは自身の妙な鈍感さに少しあきれた。

 

「そうかもしれませんね」

 

 時間差で来た答えに納得した表情で、トリガーは口ではあっさりした答えを言う。

 

 空気に疲れた自分が異国の地に来たように、エルジアに移住し、協力していたベルカ人研究者の家族がタイラー島で受けた仕打ちをあとから知り、逃れられない現実を突きつけられた。

 どこまで行っても、ベルカの血が流れている事実は容赦なく追ってくる。

 負けた国に縁のある人間が生贄として第一に選ばれる。恐怖と不安のはけ口になる。それを子孫にまで押し付けることは正しい行為として、勝者であり傍観者であった人間たちの中では正当化される。

 

 だからと言って、トリガーは自身が犯してはいない罪で殴られ続けろと暗に言われ、そのとおりですと理不尽さを神の試練として受け入れる素直さはない。人々が信じ合うことで世界を一つにするという、透明な輝きを持つ理想を信じるほど無垢でもない。

 

 もしベルカ系オーシア人である自分がフギンとムニンに勝てなかった時は、ベルカの科学によって発展した無人機を墜とさなかったのは、ベルカの世界に対する復讐と陰謀だと取られかねない。

 空を奪い合う人類と機械の生存圏の争いであると同時に、ここで勝者とならなければ、また世界中のベルカ人やベルカ系は肩身のせまい思いをする。

 

 …という、そんな思いは、けして表には出さない。

 

「傷をつけるぞという意味でしたから」

 

 嘘ではなかったが、全部は言っていない。

 ミハイは友と思っていた人間から、トリガーは国から、無意識で信用していたものから裏切られ、傷を負った。

 互いに共通点を見つけたが、それで話がはずんでいくかといえばそうでもなく、トリガーから断ち切るような形で話は流された。ミハイは無言の間が気まずくなる前に、「さて」と話を切り替える。

 

「本題に入るが、君をここに呼んだのは、頼みたいことがあったんだ」

 

 厚い一冊の本をトリガーに差し出す。その本は二〇一五年八月から二〇一六年五月にかけて起こった、アネアのエメリア・エストバキア戦争の回顧録だった。

 書いたのはエストバキア連邦のエリート航空部隊、シュトリゴン隊の隊長だったヴィクトル・ヴォイチェク元空軍中佐。

 エメリア・エストバキア戦争を扱った回顧録では早くに出版されたため、ちょっとした話題になった。オーシアでの翻訳はつい最近出たばかりだと、トリガーは記憶している。

 

 トリガーが本を受け取ると、「それを朗読してほしいんだ」とミハイが言った。

 

「朗読、とは」

 

 思わずネットで検索するような言葉をつむいでしまう。それくらい、ミハイの申し出は突拍子もないものだった。

 

「それはまだ、こちらでの翻訳が出ていなくてな」

「エルジア語ですか」

「オーシアでの出版は早かったので、そちらの言語ならまだ分かるから読んでみようと思ったが、年のせいか、細かい字は読みづらい」

 

「老眼ですか?」

「ああ。電子書籍のほうが目に優しいのは分かっているが、そのへんは昔ながらの人間で、紙の本で所有したいという欲がある」

 

 トリガーは「分かります」とやわらかく微笑む。

 

「だがこちらでの翻訳を待っていたら、時間がかかる。でもせっかく買った本を持て余すのは、私の年齢を考えると心苦しくてな。専門用語も分かる誰かに読んでほしいと思ったんだ」

「それで、私をご指名ですか?」

 

 元王族らしい呼びつけ方というべきか、交流の仕方というべきか。トリガーにはいまいち分からないが、遠回しなようでそれらしい理由でストレートな指名をするあたり、これが貴族かという謎の感想が浮かび上がる。

 ミハイとは年齢差がありすぎるし、敵と味方という関係でもあったし、殺した略奪したという関係でもある。会ってすぐに打ち解けて親友とはならない。普通の会話をする段階を踏むための手段のようなもの。

 

「あとは、最近イオネラがお菓子を作るようになって、それの消費を頼みたい」

「消費とは、またストレートな言い方ですね」

 

 意外に身内には直球で来るのかと、トリガーは内心驚く。何気に家族丸ごとお付き合いの話に持っていかれているようで、トリガーは心持ち身構えた。

 

「ただのお茶会だよ。あの子たちにとって、君は私を地上に降ろしてくれた救世主のようなものだから。王女にも息抜きになるだろう」

 

 話を受けた時点で未来は決していた。複雑すぎる家庭事情に巻き込まれたことを察し、自分の人生はこうも巻き込まれ型なのかと、トリガーは諦めの境地に入りつつあった。

 おそらく、ミハイは三本線と話をしてみたい。孫娘たちやコゼットの相手もしてほしい。そういう遠回しの要望らしいが、いかんせん荷が重すぎる。今度はカウントも連れてこようとトリガーは一人画策する。

 

「では早速読みましょうか?」

「いいのかね」

 

 巻き込まれはしたが、今度のは悪くなかった。トリガーはなんとなくそう思う。

 

「いいですよ。私にも息抜きが必要ですから」

 

 二人の間に初めて、わずかだが本当に穏やかな空気が流れる。トリガーは座り直すと、本の最初のページをめくった。

 ((顔なし|フェイスレス))と((傷顔|スカーフェイス))の次の((直接対決|フェイスオフ))は朗読という、なんとも独特でゆるやかな、次の始まり。

 

「素人ですから、途中で詰まっても文句は言わないでくださいね?」

「善処しよう」

 

 尊大なのかジョークなのか。トリガーにはいまいち分からないが、硬そうな老人だという第一印象からは、少しやわらいだ。

 

「では始めますよ。……第一章、グレースメリア侵攻。首都強襲さる」

 

END

 

-3ページ-

   凪の時間

 

「曾祖父はシラージで革命が起きたときに亡くなったそうです。殺されたわけではありませんよ」

 

 菓子作りのため、長い黒髪を一つにまとめた少女は、さらりとそう言った。

 それから製菓道具の回転台の上に、二枚にスライスしたスポンジケーキのうち、一枚を乗せる。今日作るのは小さめの生フルーツケーキ。

 

 無人機開発の主席研究員だったシュローデルが仕事の息抜きに料理、主に菓子作りをすることを知っていたイオネラは、「お菓子の作り方を教えてくれませんか」と言った。「簡単なのは知っていますが、こった物は知らないんです」と。

 彼女の家にはハウスキーパーもいるし、今は菓子作りを動画共有サービスに投稿する者も多い。学ぶ手段なら身近にある。

 

 わざわざ自分に教えを乞わなくても良いのでは。

 シュローデルはそう思ったが、自分に申し出るのはよほどのことだと察した。「こちらの都合の良い日でいいというなら構わないが、それでいいだろうか」と言うと、イオネラはすぐに「構いません」と返した。

 

 実験飛行が本格的に始まる前、シュローデルとイオネラは、たがいのスマートフォンの電話番号とネット上での連絡先を交換していた。

 パイロットであるミハイの身になにかあったらすぐに連絡したい、あるいはミハイの体調が悪いときはいつでも連絡してほしいという事務的なもので、イオネラの祖父のミハイも交換の件は承諾していた。

 

 それが今まで使われることはなく、頻繁に使われるようになったのは戦後。しばらくしてから。

 灯台戦争も終わり、ミハイはテストパイロットではなくなり、それでもシュローデルがミハイやイオネラといったシラージ家の連絡先を消していなかったのは、ただなんとなくだった。

 オーシア軍の三本線の異名を持つエースパイロットに撃墜され、もう二度と飛べぬ体になり、天界のたった一人の王から、地上にいる大勢の老人の一人となったミハイが気になった、というのもある。

 

 戦争終盤、無人機からすれば本能、人類側からすれば暴走ともいえた自律型のフギンとムニンは、灯台戦争を国家間の戦争から、異なる種との生存圏をめぐる戦争へと転じさせた。

 それにより、戦争の風向きは大きく変わった。最後の一か月、人間同士ではこれといった大規模な戦闘は起こらなかった。その間、政府同士では終戦に向けた話し合いはもちろん、無人機研究の方向転換についての話し合いに大きく時間を割かれた。

 

 世界の潮流が変化することで、シュローデルが勤めるノースオーシア・グランダーI.G.はどう動いたかというと、本社の閉鎖が決まった。

 

 事の発端は二〇二〇年四月一日。環太平洋戦争に関する機密指定文書が自動解除され、それにより『灰色の男たち』という存在が明るみになった。

 『灰色の男たち』とはベルカ戦争以来、裏で暗躍するベルカ強硬派の残党で、秘密結社のような組織だった。幽霊のような彼らは各国に散らばり、世界を混乱におとしいれるための行動を自発的におこなっているという。

 その集団が今度の戦争でも関わっていたことが発覚した。グランダーI.G.が環太平洋戦争に関わっていたのは周知の事実だが、今度は逃れるわけにはいかない。

 

 閉鎖が決まったあと、関連企業の従業員は二年かけて身辺調査がおこなわれることになった。その中には当然、シュローデルもいる。

 どこにいるかの所在はチェックされるため、シュローデルはユージアから動いていなかった。幸か不幸か((仕事中毒|ワーカホリック))だったため、何年かつつましく暮らせる程度の貯金ならある。主任クラスだったので高待遇だったのだ。

 本社はオーシア政府の監督下のもと、閉鎖に向けた残務整理が続いている。関連企業も規模を縮小して業務を続けている。研究は続いているが個人レベルでのもの。要するにシュローデルは少々暇だった。

 

 そんな中で、菓子作りを教えてほしいと連絡を取ってきたイオネラ。

 祖父のためか。五歳年下の妹のためか。あるいは、エルジア王女とともに難民への救援物資を配る手伝いをしているので、そのボランティアスタッフのためか。

 慰労のために手作りの菓子を振る舞うのかと思ったら、そうでもないらしかった。

 

 久方ぶりに会ったミハイに、「ようやくあの子も、そういう年になった」となにかを含ませる言い方をされたが、さてなんだろうと実際に台所に立つと、作りたい相手がいるというのが分かった。

 シュローデルが予想した家族でもなく、スタッフたちでもない。特定の誰か。

 

「祖母はエルジア共和国時代に亡くなりました。病気だそうです」

 

 イオネラはステンレス製のボウルに泡立てた固めの生クリームに、製菓用のパレットナイフをスッと差し入れた。

 

「母が言うには、おそらく疲労が溜まったんだろうという話です」

 

 パレットナイフで取り分けた生クリームの塊を、スポンジケーキの上にボタッと落とす。まずは下塗り。ケーキのクリームは二段階に分けて塗ることで、仕上がりが良くなる。

 

「母は新エルジア王国時代に亡くなりました」

 

 すうっと滑らかに、生クリームをパレットナイフで全体に広げていった。横にはみ出すくらい思い切ってという、シュローデルの教えどおりに。

 パレットナイフを寝かせて回転台を回すと、目線をスポンジケーキと合わせる。

 

「王妃様の女官をしていて、国王ご一家の自動車事故に巻き込まれたんです」

 

 チェックすると、少し山なりになっていた。今度は喋らず、きちんとパレットナイフと回転台を平行にして回していく。平らになったことを確認すると、一人うなずく。

 

「その次は父です」

 

 カットされたバナナ、桃、メロン、マンゴーがそれぞれ入ったボウルを、一つずつ引き寄せた。

 

「父はパイロットをしていて、自由エルジアが起こした反乱で撃墜されて、亡くなりました」

 

 まず一つ目のバナナをどこに置くか。イオネラは呼吸を整え、置く位置を慎重に見極めると、そっと静かに乗せた。残るフルーツを均等に散らばるように、機械的な流れでスムーズに置いていく。切り分けるときのことを考えて、中心にはなにも乗せない。

 

「国の形が変わったり、なにか重大なことが起きるたびに、家族の命が取られます」

 

 パレットナイフで生クリームを取り分け、並べたフルーツの上に落とす。するりと生クリームを全体に広げ、回転台を回しながら平らにした。横から目視で確認。今度は一発でできた。

 

「祖父は死にませんでしたが、二度と空は飛べません。地上に帰って来たのは嬉しいですが、飛ぶことが生きることそのものだった祖父を知っているので、複雑です」

 

 生クリームでおおわれたフルーツの上に、二枚目のスポンジケーキを重ねると、手のひらで軽く抑えた。

 

「なにが良くて悪いのか、分かりません」

 

 スポンジケーキの上に生クリームの塊を落とし、素早く丁寧に広げていく。滑らかな面になったのを確認すると、次は側面のフルーツの隙間を埋めるように軽く塗る。

 その次はスポンジケーキが見えなくなるくらい、たっぷりと生クリームでおおっていく。パレットナイフの位置を固定し、回転台を回して形を整える。でこぼこをなくし、陶器のような表面にする。

 上の縁に出た余分な生クリームは、パレットナイフで奥から手前に引くように、削るようにならした。回転台を回し、それを何度か繰り返して、上の部分も平らにする。回転台についた生クリームもパレットナイフで綺麗に取り除く。

 

 イオネラは息を一つ吐くと、軽くうなずいた。

 

「できました。どうでしょうか」

 

 下塗りが完成したので、イオネラは師匠のシュローデルに確認を求めた。くるりと回転台を回し、シュローデルはひととおり見る。

 

「滑らかさの精度が上がっていて、いい仕上がりだ。本塗りに行こう」

 

 ほめられたイオネラは嬉しそうに、だが笑みは小さいものにとどめると、ケーキを一度冷蔵庫へ入れた。そして次の工程、本塗り用のゆるめの生クリームをハンドミキサーで泡立て始める。

 

 シュローデルの目から見て、イオネラの菓子にクリームを塗るナッペの技術は上達した。前ほど指導しなくても良い。別にそばで見なくてもいいのではと思うが、イオネラには必要だった。

 イオネラという存在とは真逆の、異性で、年上で、外国人。ウェットなことは言わない。下手なアドバイスもしない。ただ話を聞いてくれるだけの、外側にいる存在。

 疑似親子のような関係とは言えず、祖父の肉体を実験で酷使した敵であるような、最新の無人機を墜とす協力をした味方であるような、そういう複雑さから、はっきりと距離感を保てる相手。

 

 イオネラは飛び級で((後期中等教育|リセ))の最終学年まで進める賢い子供だが、その内面は複雑であり、自分に近いものがあるとシュローデルは思った。繊細な部分を口に出すには、距離感が必要な人間もいる。

 

 なぜ今日はこんなふうに重い話をするのかといえば、妹のアルマと喧嘩したせいだというのは、すぐに分かった。

 シュローデルが来る、イコールお菓子ができるという構図がアルマの中で成り立っており、必ず玄関に迎えに来る子が、今日は来なかった。

 

 理由をそれとなしに聞けば、「ぬいぐるみが汚れてきたので、洗濯をしたいと言ったら、嫌だとごねられたんです」とイオネラは言った。

 あの熊のぬいぐるみは父が亡くなる前に買い、亡くなった母の名をつけたのだという。そのぬいぐるみをアルマは片時も離さない。常に一緒。

 洗濯で離れることも嫌なのだろうとシュローデルは察したが、それはイオネラ自身も分かっていること。

 

 ただ、親切心が空振りに終わった怒りと、アルマに歩み寄りたい気持ちに折り合いがつかない。

 つかせるためには冷却する時間が必要。

 そのための菓子作り。

 

「……今日は、少し甘くしてもいいですか?」

 

 つぶやくようにイオネラが言う。

 甘さは作り手の好みによる。わざわざ許可を得なくてもいいが、イオネラは許可を取りたかった。そうすることで、気持ちのスイッチを入れる。

 

「構わんよ」

 

 許可を得て、イオネラはグラニュー糖を心持ち多めに入れる。おそらくアルマの好みに合わせた。

 

「上に乗せるフルーツは多めにしよう」

「はい」

 

 今日のケーキに使うフルーツは、アルマの好きなものばかりだった。いろどりとしてはもう少しほかの色が欲しいが、これはアルマのためのケーキ。

 

「…アルマ」

 

 台所の出入り口からのぞくようにこちらを見ていた少女に、シュローデルは呼びかけた。

 

「……!?」

 

 いるのがばれたと分かったアルマは、逃げるべきか、とどまるべきか。明らかに迷っていた。そこをすかさず、シュローデルが「味見をしてほしいんだ。いいかな」と言う。

 差し出されたのは、本塗り用の生クリームが乗った小さなスプーン。甘味の誘惑には勝てず、アルマはシュローデルからスプーンを受け取り、口の中に入れた。

 

「…甘い!」

 

 喜びいっぱいの顔で言うと、目を輝かせる。

 

「甘さはそれでいいかな?」

「はい!」

 

 スプーンをシュローデルに返すと、アルマはちらりと姉を見た。イオネラも妹をちらりと見て、一度視線をはずす。それから意を決したように視線を戻した。

 

「その子も一緒に…ケーキ食べようね」

 

 その子とは、ぬいぐるみのこと。アルマはぬいぐるみを抱き締めると、嬉しそうにうなずく。

 

「あとで((艶出し|ナパージュ))塗るの、手伝ってくれる?」

「うん」

 

 妹の笑顔を見て、姉も笑顔を浮かべた。

 

 シラージ姉妹はまだ十代だが、幼いころから波乱万丈で、今は凪のように穏やかな時間が流れている。

 本格的になにかが動く前の狭間のような時間に、なぜかシュローデルは巻き込まれ、その場にいた。

 

 シュローデルもまた、凪のような時間の中にいた。二つの大きな戦争は大なり小なり人生に大きな影響を与え、勉強と研究に突き進む日々だった。

 

 おそらく自律型無人機の全盛期といえるものは、フギンとムニンが飛び回った瞬間かもしれない。シュローデルはそう思っていた。灯台戦争は最後に人類と機械の種の戦いになった以上、主であり操縦者である人間の制御が、おそらくもっと入って来る。

 

 無人機の完全な自律型の運用は、禁忌とまではいかないだろうが、忌避される流れになる。それを本社はどう判断し、舵を切るのか。そう思っていた矢先の閉鎖騒動。

 一人の研究者として潰されないよう、うまく立ち回らねばとシュローデルは考えていた。すでに他社からの誘いは来ている。

 

 灯台戦争後に世界が選ぶ道。ユージアが選ぶ道。国外に出たベルカ人が選ぶ道。

 祖国は遠いと思っていたが、そうではなかった。シュローデルの血の中に、心の中に、ずっと在り続けた。自身が遠いと思っていた。

 

 遠いと思えたのは、故郷にまだ心を残すなにかがあったから。生まれ育った土地。共に暮らした家族。なにを作りたいか語り合った同級生。研究で競い合った同僚。楽しいといえる思い出は、少なからずある。

 いっそすべてが悪ければ、憎むことができれば、なにもかも捨て去ることができたが、悪くなかった。憎むこともできなかった。

 

 ベルカ戦争以降、ベルカ国外に活動拠点を移した、あるいは移住先の国籍を取得したベルカ人は一定数いる。

 移住を考えたことがない者、国内に残ることを選んだ者、移住したくても残らざるをえなかった者は、移住先での同胞の活躍を素直に喜ぶ者もいれば、複雑な思いをいだく者もいた。

 

 個々のベルカ人がどのような道を選ぼうとも、絵画に描かれる神のごとく美しいベルカ公は、自らの権威が及ぶ範囲から、祖国から出た我が子たちを想っていた。公的に発する文章から、国外にいる民を気遣う言葉がそっとはさまれている。

 一部のベルカ人たちが策謀を張り巡らせようと、世界を呪っていようと、あれは故郷に在り続ける自然と同じ。あるいはそこから動かない灯台のように。

 

 シュローデルはベルカ公と一度だけ直接話したことがある。企業訪問をしたベルカ公に研究内容を説明するという大役を仰せつかった。

 説明のあとは簡単な質疑応答をして、「いずれこの技術は、必要とする人たちにとって光となるでしょう」と言われた。「あなたが良いと思った種をまいてください」と。

 

 可もなく不可もない感想だと当時のシュローデルは思ったが、ミハイの空を飛びたいという欲、より進化した人工知能を作りたいという自身の欲が合致し、人類史の終焉に爪を引っかけるような真似をしかけた。

 今、昔言われた何気ない言葉が、シュローデルをあの日の子供時代、あの日の教室に引き戻す。ロボットを作りたい。ただ純粋な始まりの日に。

 

 あれは光。民を導く王のきらめき。

 

 祖国そのものと言える存在がベルカに在る限り、自分たちにとっての灯火があるならば、あの光が今でも異国に届くのなら、それで安堵できる部分があるのだと。公家が生き続ける限り、祖国となりえるのだと。

 なぜエルジアが、自分たちが引きずり下ろした旧王家の血筋を引っ張り出したのか。民主主義が一般的となった現代で、古風なシステムともいえる王族という存在の重さを、シュローデルは思い知る。

 

「じゃあ、次は本塗りをしますね」

 

 アルマが「見てもいい?」と遠慮がちに近寄って来る。

 

「静かにね」

 

 姉妹はすっかり調子を取り戻したらしく、いつもどおりの会話をしている。

 

 独立運動の機運を上げるシラージ自治区は、大公国時代の王族の直系である姉妹を担ぎ出すかもしれない。そういう未来があるかもしれない。

 その時、年齢的にミハイという絶対の庇護者はいなくなっている可能性が高い。姉妹はどういう道を選ぶのか。

 

 ミハイからは、「少し気にかけてやってくれないか」と言われていた。「なにをですか」と聞き返すと、「あの子たちの将来だ」と返された。

 「私は外国人で、ただの研究者です」とシュローデルは戸惑ったが、「その研究者としてのツテというものだよ」と、どうやら姉妹の将来を託されたようだった。

 

 いずれ自分は祖国に帰るのか。ほかの国に根を下ろすのか。それは分からない。

 ただ、今はまだ、その時ではない。姉妹も自分も狭間にいて、その時間を過ごしている。

 

 嵐と嵐の合間の凪の時間。

 シュローデルはその時間を、ゆっくりと味わうことにした。

 

「では始めようか」

 

END

 

-4ページ-

   後書き

 

距離感に関する小話を集めてみたら、裏テーマが王、王族、玉座とはなにか、というものになった気がします。6のヴォイチェク少佐はミハイのもう一つのルート、先を行く者のような感じがします。

説明
ツイッターに投稿していた小話を加筆修正してまとめた掌編集です。人間関係の距離感に関する戦後の話。それぞれの話の主人公はトリガーとコゼット+コゼットとミハイ、トリガーとミハイ、シュローデルとイオネラ。ネタバレと捏造だらけなのでお気をつけて。前作のようなもの→http://www.tinami.com/view/998008

2020/12/25追記。GAZEの設定に合わせて内容を一部変更。
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