咲く華のいろ(三国志創作小説)
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「あれ? お話し中にお邪魔してしまいました?」

 

 呂蒙は、従僕に通された張絋の執務室の中に張昭の姿も認めると、ちょっと驚いたように声を上げ、踏み入れかけた足を止めた。

「なに。子鋼とは賦について論じていただけだ。公務ではない」

 張昭がいつもどおりの謹厳な口調で言うのに、張絋も気にすることは無いと呂蒙へ笑みを向け、卓を挟んで向いあった張昭の隣の胡床に腰を下ろすよう勧める。

 すみませんと明るい色の声で謝りながら、呂蒙は勧められるまま腰を落ち着けると、手に持っていた竹簡を張絋へと差し出した。

「殿からお預かりしてきました。子鋼どのに裁量をお願いしたいそうですよ」

「子明、そなたももう一軍の将であるのだから、そのような事は主公の側仕えの者にまかせれば良いだろう」

 眉をしかめ、厳しい声音で諌める張昭だが、呂蒙は慣れたものだ。首をすくめて笑っている。

「久しぶりに帰ってきたから、俺が子鋼どののお顔を拝見したかったんですよ。おかげで懐かしい張公の小言も聞けました」

 その言葉に小さく笑い、張絋は受け取った竹簡を卓の上へと広げる。

 それまでその場所に陣取っていた竹簡を、邪魔にならないようにと張昭が脇へと寄せるのを受けとって、呂蒙は自分の前にそれを置く。

「県令の仕事のほうはどうだ、子明?」

 従僕に呂蒙の分も茶の用意を命じてから、暖かさを感じさせる声が問いかける。

 いつもの落ち着いた張絋の風情に、呂蒙は心を包む温もりを感じる。

「戦で刃を振るうようには上手くいきませんが、民と直に接する事が出来るのは嬉しいですね。大丈夫。上手くいってます」

 そして、ふと手元の竹簡に目をやる。

 綴られているのは張絋の作った賦であるのか、流れるような美しい文字がそこにはあった。

 感嘆のため息をこぼしながら、呂蒙は軽い調子でぼやいた。

「でも、俺は字を書くのが苦手だから、文書の処理が遅くなってしまって…。相変わらず子鋼どのの字は本当に綺麗だなあ。羨やましいです」

「うむ。そうだな。子鋼の手跡は誠に見事なものだ。特に篆書が素晴らしい。以前、文挙(孔融)に自筆の篆書の信(手紙)を送ったそうだな。文挙が随分と感激して、儂にまで自慢の信を送ってきよった。書は、技巧もさることながら人柄をも現すという。子鋼の字は、おぬしの清廉な人柄の現れじゃろう。清々しく整っておる」

 普段は謹厳で堅苦しい張昭の珍しい手放しの賞賛の言葉に、張絋は少し恥じ入ったように目を伏せ、控えめに微笑んだ。

「それは…。また過分なお言葉ですな」

 茶を運んで来た従僕に礼を言って器を受けとると、なるほど、と心中で肯きながら、呂蒙は熱い茶をひと口すする。

 

 張昭の書も見事な達筆であるが、読んでいるとどこか背筋をぴんと伸ばして相対しなければいけないような気がしていたが、そんなものかとこっそり心の中でだけ呟く。

「なに、儂は本当の事を言ったまでだ」

「子布どののご手跡こそ素晴らしいと思い、拝見しておりますよ。その子布どのに、そのように言われては面映いばかりです」

 微笑みながら礼を言い、張昭と自分の茶器を新しいものに換えようとしている従僕に、すまぬな、と言葉をかける。

 ふむ、と髭を扱き、張昭も渡された茶へと手を伸ばす。

「おふたりとも流石だと、俺は思いますけどね。俺の字なんて、みみずがのたくっているようだって、役所の連中にこぼされてます。おふたりと較べるのが間違ってますけど」

「でも、子明の書は技巧こそは拙いが、読み手に見やすいよう心を配って書いているのが良く解る。そなたの真摯な心根が伝わってくるようだと私は思っているが」

「うむ。確かに子明の手跡からは、一生懸命さがにじみ出ておる」

 肯きあう二人の重臣達に、今度は呂蒙の方が慌てることとなった。

「い、いえ。そんな…。俺は学もなくて字が汚いから、必死に書いてるだけですよ」

 慌てて話題を逸らそうと考えを巡らして、ふと昔を思い出した呂蒙は、軽く吹き出しながら張絋と張昭に問いかけた。

「人柄と言えば。確かに討逆どのの字は、竹簡の札には収まりきらないような、勢いのある字でしたね」

 言ってしまってから、まずかったかなと思ったが、二人の表情に影の差す気配は無く、懐かしく面白がるような笑顔が見えて、ほっと胸を撫で下ろした。

 

 

 

 今の殿、孫権が君主となるまでは、呉は孫権の兄である孫策が率いていた。亡くなった今では、彼の官職名から討逆将軍と呼ばれている。

 まだ若かった頃の呂蒙は、その孫策の側仕えとして傍らに居た事もあった。

 勇猛果敢で、一代で呉の基盤となる呉会の地を切り取った武将であった人だが、戦の無い平時にじっとしているのが苦手なのか、単騎で館を抜け出しては周囲の者を慌てさせていたものだ。

 もっとも、自分の成すべき君主としての仕事を放り出す訳ではなかったが。山と積んであった決済待ちの書類を、いつの間にか片付けては姿を消すのであった。

 その早業に疑念を持った文官達に相談され、孫策の一の臣下で盟友でもあり幼馴染みでもある周瑜が、苦言を呈したことがある。

 

「本当に、全部に目を通してるんでしょうね」

 端正な面に苦々しい表情を周瑜は浮かべ、執務机に向う孫策を見下ろして声を掛ける。

 意に介した風も無く孫策は、手元の竹簡にはみ出んばかりの勢いで字を書きつけながら答えを返した。

「ちゃんと見てるって。今もこうしてやってるだろう?」

「確かに指示は書かれてます。が、執務室で見かける時間にしては処理が早過ぎる。中身までしっかり目を通しているのでしょうね」

「なんだよ。俺が適当な事をしてるって疑ってるのか?」

 念押しの言葉に、流石にふてくされた孫策が筆を投げ出した。

 背もたれに体重を預けて親友の顔を憮然と見上げる孫策に、周瑜は困ったように眉を寄せてため息をついた。

「読んだ限りでは、きちんとした事が書かれている。にしても、しょっちゅう姿を消しているのに、よく仕事が溜まらないものです」

「溜めない方がお前達もいいだろう?」

「まさか勘でやってるのではないかと、心配する者もいます」

 その言葉に孫策は、にやりと不敵な笑みを、若々しく男らしい貌に昇らせた。

「だったら尚更確実だ。俺の勘が外れた事が無いのは、お前が一番よく知ってるだろう」

 自信たっぷりの言い様に、再度、周瑜はため息を零した。

この乱世を、自らの才覚で切り開いている男である。時代の匂いに対する嗅覚が鈍い筈が無い。

 だが、勘で民政を処理されては堪らないといった文官達の苦汁も解る。

 実際に指示の内容にまずい点がある訳でもなく、奔放な様に見えて幼い頃から学問にも打ち込んでいた事は、傍らにあった周瑜自身が解っている。

 そんな言い様をしながらも、勘などでは無く、彼なりの考えでもって民政に取り組んでいるのだろう。

 それ以上は重ねる問いの言葉を持たず無言になった周瑜を見て、孫策は話は終わったとばかりに再度筆を取った。

 書き途中のものを仕上げると、側に控えていた呂蒙へとそれを渡し、左手を周瑜へ向って突き出す。

「さあ。お前が持ってるのもさっさと寄越せよ。こんなにいい天気なんだ。早く終わらせて、一緒に遠乗りにでも出かけようぜ」

 周瑜は自分の手の中の竹簡と孫策とを見較べて、その日三度目のため息をつきながら、己の主君へと奏上の書を手渡した。

 孫策の背後で笑いを堪えて自分達ふたりを見ている呂蒙に苦笑を返しながら、独りで抜け出されて心配しているよりはましだろうと、諦めにも似た境地になる。

 

 なにより、そんな孫策が皆好きなのであった。

 

 

 

 手渡された竹簡の上の踊るような文字を思い出し、くすくすと呂蒙は笑いを零す。

 そして、側仕えの自分しか居ないような場合でも、余人を交えた場所では幼馴染みという甘えを見せないように気を配っていた周瑜は、やはり几帳面な美しい文字を書くことを思い出して、頬が緩むのを押さえられない。

「本当に字って人柄を現すんですか? 討逆どのの字は、まさに悍馬といった感じでしたけど」

「下手というのでは無いが、読みにくい手跡ではあったな」

 張昭が笑いを堪えたしかめっつらをして言うのに、微笑んで張絋も肯いている。

 そんな二人を見守りながら、呂蒙は心の内で安堵の吐息をついていた。

 

 張昭も張絋も、孫策を見込んで彼に仕えた者達である。

 凶刃によって孫策が倒れた後は、江東の主の座を継いだ孫権を盛り立てる事に皆必死で、なにもかもに余裕が無かった。

 その頃は、こんな風に孫策を思い出して笑える日が来るなどとは、とても思えなかったものだ。

 だが、孫権自身が心の落ち着きを取り戻し、兄の華やかな武勇とは違うが確実な政治的手腕を発揮するようになって、周囲の者達も落ち着きと信頼を取り戻していった。

 そして先年の烏林の戦。

 圧倒的多数で攻め寄せた曹操の軍を押し返したあの戦いにより、国中に肚のすわったような空気が流れているのを感じていた。

 あれ以来、曹軍との戦いで江沿いの前線は緊張状態にある。

 以前に較べて戦が増えて、民の負担は増しただろう。だが、あの戦によって民も官吏達も呉を「自分達の国」であると気持ちを新たにしたように、瞳に意気を感じるようになった。

 だから、辛い過去も心乱される事なく思い出されるのだろう。

 

 

「将軍? いかがされました?」

 

 配下の兵に声を掛けられ、呂蒙は自分が物思いに耽っていた事に気付く。

 そこは建業の城門前。

 城門に掲げられた扁額の見事な篆書の文字を見つめながら、それを書いたであろう人に思いを馳せていたのであった。

 呉の城市から当時は秣陵と呼ばれていたこの城市へ、呉国の都邑を進出させるべきであると建策し、孫権にそれを認められてからは実際の采配も振るった張絋は、遷都の直後に病で亡くなっている。

 「建業」という新たな都邑名を誰が考えたのか、呂蒙は知らない。

 だが、張絋の筆によって書かれたという鮮やかなその文字に込められた、深い国への思いは確かに時を超えて呂蒙の心へ浮かび上がってきた。

 

 未来へ、と。

 中原とは違う、新しい南の気風による国の先への望み。

 

 いつももの静かでいながら、戦陣で刃を振るう自分とは違った場所でやはり戦っていた張絋。

 只の子供だった自分を見出し、歩む道を指し示してくれた、太陽のように眩しかった孫策。

 孫策の死後も自分を導き、乱世に生きる者の厳しくも力強い背中を見せてくれた周瑜。

 

 今はもう、皆いない。

 他にも、共に戦いながら戦の中で命を散らした仲間達や配下の兵達の貌が、浮かんでは消える。だが、望みが潰えたわけでは無い。

 受け継がれていくものが、確かにある。

 孫権の元に集う仲間達と、未来への歩みを呂蒙は止めない。

 だから過去は振りかえらない。

 その先に見える光へと。心は常にそこにある。

 声を掛けてきた兵士へ、なんでも無いと答えながら城門の扁額へともう一度だけ目をやり、双眸を閉じ心中で感謝の祈りを捧げる。

 再び眸を開いた呂蒙は、明るい声を周囲に向って投げかけた。

 

 

「さあ、殿がお待ちだ。行こう」

 

 望みは遥か。未来へと続く───。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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UP 2002.7.21 (2006.12.30 改稿)

燕雀楼&水華庵発行『日月之行・呉』に掲載

説明
建安十四〜十六年(209〜211年)頃の、呂蒙と張絋、張昭、孫策、周瑜の話。呂蒙視点で、文字についてあれこれとエピソードを綴っています。
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三国志 創作小説  呂蒙 周瑜 孫策 張昭 張紘 

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