王覇の階 挙の巻(三国志創作小説)
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 今より約一八00年前。そのころ中国は「漢」と呼ばれる統一国家であった。

更に時を遡ってみる。この大陸では諸方に国々が存在し、時に争い、時に和を結びながら、おのおの繁栄を競っていた。紀元前二二一年に秦王である政が、六国を征して中国大陸をあまねく絶対政権に置くまでは――、である。

 後に秦の始皇帝と呼ばれた政の統一事業がとった基本政策は、過酷な法でもって絞り上げるものだった。冷酷かつ厳格に執行される統治に多くの者が反発し、政は多大な憎しみの対象となった。それは後に彼の政権をたおして彼にとってかわろうという連中を生む土壌となり、多くの反乱者の中に沛の劉邦と楚の項羽がいた。

 政の死と前後して各地で反旗がひるがえる。それは燎原の火のように拡大し、大陸中を覆った。秦は政の死後、自滅するように崩壊する。その後は、割拠した者どもがそれぞれ秦の後釜に座ろうと権謀術数を競い合い、最終的には先にあげた二名が天下を相争った。そして、その勝者となった劉邦が建国した国が漢である。

 劉氏を皇帝に戴いたこの朝廷は四百年ほど続いた。漢は中国史上最長の王朝だが、生まれてからずっと安泰を保っていたわけではない。漢帝国が樹立して二百年ほどした頃に、大きな争いがあった。王莽という者が仮皇帝を称し、新という国を建国した。が、この王朝は短命に終わる。劉秀が王莽を破り、全土を漢のもとに取り戻した。

 漢は、王莽により一度ほろぶまでを前漢と、のちに光武帝という呼称で讃えられる劉秀が再興して以降を後漢という。光武帝の時代から更に二百年ほど月日が経つと漢の朝廷はふたたび乱れ、天下には群雄がひしめき合い、覇を争うこととなった。

後に三国時代と呼ばれた時代のはじまりである。

 

 

 

 姓は曹、諱は操、字は孟徳という男がいた。漢の桓帝の時代に中常侍・大長秋を務めた曹騰の孫である。といっても、血のつながりは無い。曹騰は宦官であった。宦官とは子を成せぬ躰であったために、曹騰は曹嵩を養子とした。曹操は、この曹嵩の子である。

 三国の時代、魏の祖となった曹操は才を愛する人であった。天下の志士を求め、多くの豪傑や謀士を幕下に集めた。この曹操を補佐した数々の策謀の士のうち、最も重用されて軍の中枢に置かれたひとりに荀ケがいる。

 

 

 

 日暮れどきになり、小雨が降り出したようだった。堂をかこむ竹林へと降りそそぐ雫が葉を叩く清かな音を耳にとらえ、荀ケは窓に目を向けた。

(慈雨だな――)

と思う。去年は雨が少なかったので作物の出来が悪かった。ここ数年、この大陸は未曾有の飢饉に悩まされていた。戦乱により荒廃した土地は痩せ、大地を耕すべき農民は兵として徴兵され、民草は食うものがなく野垂れ死ぬ者が後を絶たない。今年も雨が少なく、穀物の収穫は重要な懸念事項であった。

 この少しばかりの雨でも民は天の哀れみを感じて、幾ばくかは不安な心を慰められるだろう。それを思い荀ケは、静かな室の中に響く音に耳を傾けた。

 目前に碁盤を挟んで座す男は、先ほどから次の手を一心に考えている様子であった。碁石を挟んだ指を口元にあて、盤上の石に眼差しを注いで身動きもしない。荀ケが見つめる先で、男は自身も石と化したかのように静かであった。

 やがて男は、つと手を動かして盤にひとつの石を置く。ぱちり、と軽やかな音をたてたその石に得心がいったようで、男は顔をあげて荀ケを見た。

 

「ところで文若どの。先日、あなたが曹公にまみえた時の話を耳にしましたよ」

 年若い友は瞳をきらめかせ、人の悪い笑みを浮かべた。

「公はあなたを『わが子房』とおおせになったとか。なるほど曹公は物事をよく識る方だ、と感心しましたね」

 この男の名は郭嘉という。さきほど齢が二十歳を越えたが、まだ仕官はしていない。

 郭嘉は何故か名を隠して、ひそかに各地の豪傑に会っているようだった。この若さにしてものの道理に明るく、策略に長じ、見識もずば抜けているのだが、名を隠しているせいで世間に彼の人物はまだ知られていない。ただ彼と会い、彼の言を聞き、彼の意図を察することの出来る者だけが、彼を高く評価していた。荀ケもそのひとりである。

 郭嘉が先に言ったのは、荀ケが曹操に目通りして、曹操に仕えることになった時の話である。面白そうに郭嘉は言葉を続けた。

「文若どのは、幼い頃から『王者を補佐する才あり』と知られた天下の英才ですからね。その知略は、かの名軍師に比肩して劣るものではなし。そしてその容貌もしかり。まこと美人と表現するのが相応しい」

 郭嘉がうった手に対して自身の次の手を考え、伏せ目がちに盤上に向けていた視線を荀ケはちろりと上げ、郭嘉の眼差しをとらえた。

 かの名軍師とは、張良、字を子房という男である。漢の高祖劉邦が天下を取った時、その大事業を支えた一の謀臣として歴史に名だたる人物であった。だがその業績や苛烈なほどの思考から想像される人物像と相反して、残された絵でみる彼の容姿は、

 

 優しげな美しい婦人のような容姿であった――

 と、史記を著した司馬遷は評した。古の時代では、美人とは女性のみを差す言葉ではなかった。女であれ男であれ、見目麗しい人物を褒めそやすことに使われていたものだ。だが、天子の後宮につめる女性のいち官位として美人という言葉が定着して久しい。荀ケはそのように自身の顔つきについて語られることを好まなかった。郭嘉はもちろんそれを承知のうえで言っている。

(たちが悪い――)

 と思う。だが、飄々とそのようなことを言うところが無邪気な少年のようで、逆に愛嬌ともなっている。郭嘉とは、なんともにくめない人物である。

 荀ケはその清雅な面の上にいささかの不快も表さず、視線を盤に戻し自分の白石をひとつ置いた。その妙手に郭嘉は唸り、掌の中で黒石を摺り合わせながら、

「嫌なひとですね、あなたは」と拗ねた声を出した。

 その素直さに荀ケは口元をほころばせ、涼やかな仕草で盆から椀をひとつ取ると茶を口にふくんだ。馥郁たる香りと微かに甘い味わいを楽しみつつ、郭嘉の次の手を待つ。

「すましてかわして。ずるいですよ」

 と、口をとがらせるようにして郭嘉が言葉を続けたので、荀ケは首を傾げた。

「狡い、かな」

「ずるいですとも。あなたから曹公のことを聞くのを楽しみにしていましたのに、」

 わざと高く音を立てるようにして、郭嘉は自陣を優位へ導こうと一手を打つ。

「なのに、あなたは世間の誰もが知っているようなことしか私に教えてくださらない。巷間でさえずられている噂の類ではなく、もっと生身の曹公がわかる話を聞かせて欲しいものです」

「そうだな…。公は私の才を用いて下さる」

「仕事のしがいがある、と。では、あなたが張子房なら、曹公は高祖になるおつもりかな」

 窺うようであるのに鋭くまっすぐに向けられる眼差しに、荀ケはにこりと笑んだ。白石をひとつ手にとり、郭嘉がさきほど打った黒石の隣にそれを並べる。

「公が何を望んでおられるかを知りたいのなら、奉孝。君が自分で確かめてみたらどうかな」

 その言葉に郭嘉はまばたきをし、ふむと顎に手をやって考える素振りをする。

「――それは、」

 仕官せよと言うことですか、と問い、郭嘉はおのれの黒石を、無造作に盤上にひとつ置いた。

 

 その一手は、それまで荀ケが作っていた堅固な陣を崩すものではなかったが、荀ケの予測していなかった手であった。無意味のようでありながら、先の先まで読んでいくと、難しい展開になる位置である。即座に勝ちを決める一手ではないが、相手を惑わして罠に自ら陥らせようという策にもみえる。

(やはり面白い男だ)

と、荀ケは心中ひそかに舌を巻いた。

「私は偽りを申せぬたちですから。曹公の話し相手などが務まるかなぁ」

 郭嘉の人を喰ったようなその言葉に、思わず荀ケは小さく笑声を上げた。

郭嘉は先頃、北方の袁紹を訪ねて面会した。だが、袁紹の謀臣である辛評と郭図に、袁紹は決断力がなく人の機微にも疎いから、天下国家の事業を取り収めるのは難しいと言い放った。また知恵者は主君の人物を見定めるものだと、辛辣な評価をした。

 そのために周囲とは馬が合わずに、袁紹には仕えなかった。

辛評・郭図と交流のある荀ケは、その話を伝えられて意外に思ったのである。

 普段の郭嘉は出過ぎるまねをせず、おとなしく振る舞っているので、周囲の人々は彼を忠義善良で奥ゆかしい人柄だと思っている。郭嘉のそういった振る舞いは、人の心の機微や本質に通じるが故であり、ひとたび議論に加われば鋭い発言をする。

 そういう時の郭嘉には、たしかに自分の信念を曲げることなくずけずけと物を言うところがあった。だが、この若さにして相手への対処も柔軟に捌いていくことが出来る、老成した面をも持っていた。郭嘉とはそういった人物である。だから、自ら袁紹の臣達との和を乱すような先の発言を耳にした時に、郭嘉が何を思ってそうしたのかが荀ケには興味深かった。

 

「君は、どうして姓名を隠してひそかに様々な人物と会っているのかな」

「へんに勘ぐらないでくださいよ。わたしの名など世間に流布していませんが、相手に先入観をもたれて話をしたくないだけです。互いに腹を探るのはかまいませんが、実が霞んでしまうのは面白くない」

「それで、めがねに適った人物はいたのかな」

「さあ、どうでしょうか」

 郭嘉の声音は韜晦するようでもあり、荀ケを試しているようにも聞こえる。荀ケは石をひとつ取り、盤面に目をやった。そのまま白石を指先で弄びつつ、静かに盤面を見つめる。

 

「先日、公から手紙をいただいた。公は私に、計略を相談できるような人物はいないか、と問われた――」

 

 曹操は、軍事・国事に関することを荀ケに諮るのが常であった。あるとき曹操は荀ケに向かって、

「君に代わってわしのために策謀を立てられる人物は誰だね」と問うた。

 荀ケは、荀攸と鍾?の名を挙げた。以前にも同様のことを尋ねられて、荀ケは策謀の士として戯志才を推薦しており、曹操は荀ケの人を見る目を高く買っていた。

 潁川の戯志才は世を拗ねた、というか俗世に背を向けた生き方をする人物だが、策略にすぐれており、曹操はその才能を大きく重んじて計略を練る相手としていた。しかし戯志才は早くして亡くなり、曹操はその死を非常に惜しんだ。そして、それを手紙に書いて荀ケへと送った。

 

「公は、共に計略を語ることの出来る人物を求めておられる。策をめぐらせ、天下の大事を成す人物を――。奉孝、」

 荀ケは石を持つ指に力を込めた。

「公が君の心に適う人物かどうか、実際にお会いして話しをしてみないか」

 

 

 天下の大事とは、王者覇者の事業である。

 

 「王」とは徳を持って天下を支配する者のことを言う。それに対して、武力によって天下を服従させることを「覇」という。武力によって仁を装うのが覇である、ともいう。

 そうして武力や権力でもって諸侯の盟主となり、天下の支配者たるものが覇者である。元々は孟子が唱えた覇道と王道の別によるもので、孟子は王道こそを理想とし、覇道は賤しいものとした。古代、夏・殷・周の国の聖賢達がとった政治体制のように、公明正大かつ仁義道徳で持って天下を治めることをこそ、帝王として行うべき統治者の道とした。

 この理想像は、荀ケが生きた当時の中国でも同様であった。儒教的な思考を主体としていた時代であり、徳というものを尊んでいた。

 

 これに対して、覇者とは春秋時代の諸侯のように、武力でもって国を切り拓き治めようとした者をいう。彼らの行いを君子たちは非難した。だが、秦王政の出現により、ひとりの人間が強大な武力でもって中国を統一し、天下あまねく全ての人々を我がものとして従えた時代を経て、もはやいにしえの聖賢たちのような世辞は夢であると考えられるようになった。

 両者の区別は失われた。そして、徳のみによらず武力でもって諸侯を従え天下を治める人物のことを「覇王」と呼ぶようになった。秦滅亡後に楚の項羽が覇王と名乗ったように、その両方を兼ね備える者をこそ、その覇王という尊称で呼んでいた。

 

 王道と覇道、王者と覇者――。

 

 その相反するものらを王覇という。だがまた、武力のみに依らず、徳をも持って治めることをも王覇という。

 

 古来から仁と武とは、何度も繰り返し秤にかけられた。時代によって、その秤の針が指し示す方向は変化した。

 曹操は漢朝の天子を補佐し、皇帝にかわって自身の武力でもって国を治める覇王となろうとしているのか。それとも、自らが覇を唱えようというのか。

 どちらを望んでいるかの判断はつけにくい。

 

 大尉の橋玄は若き曹操に向かって、次のように言ったという。

「天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済はできぬであろう。よく乱世を鎮められるのは、君であろうか」と。

 二十歳で孝廉に推挙され、洛陽北部尉に任命された曹操は、その職務を熱心に務めた。禁令を犯すものは、権勢ある者でもかまわずに処罰した。朝政を専断していた貴族・外戚ら権臣たちは、そんな曹操を疎んじた。曹操は道義に外れて彼らと迎合することを嫌い、しばしば衝突した。

 しかし、青年の頃に遊侠していた曹操は、許子将に自分がどういう人間かを訊ね、許子将が「君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。」というと哄笑した、という。

 

 自分を「わが子房よ」と呼んだ曹操の真意が那辺にあるのか、荀ケはしばしば考える。

 だが、荀ケは思うのである。

 董卓征伐の軍を募り、董卓と戦った時に曹操が作った詩を前にして、彼の人に義心あり、と。

 

 関東義士有  関東に義士ありて

 興兵討群凶  群がる賊を平らげんとて兵を挙げたり

 初期会孟津  その始め孟津(もうしん)にて誓いあい

 乃心在咸陽  赤誠もて都なる帝を思う

 

 

 そう詠んだ曹操の心が、朝廷の秩序を正し、国家を奉じることにあると。彼のまごころからの忠誠を。

 曹操が軍事・政治のすべてを荀ケに諮るたびに、その信頼がいかに深いかを知るたびに、公の誠を思う。

 

 董卓を伐つべく蜂起した諸軍の足並みが揃わずに、目的かなわず諸侯同士が相い争うことを嘆き、彼の詩はこう続く。

 

 

 万姓以死亡  民草の死せるもの数しれず

 白骨露於野  白骨は野辺にさらされ

 千里無鶏鳴  千里のかなた鶏(とり)の音(ね)きかず

 生民百遺一  生きのびし者 百にただ一

 念之断人腸  我が腸(はらわた)はちぎらるる念(おも)い

 

 

 兵を起こした者どもが己の利のみを追って争うことにより、苦しむのは民ばかりだと、曹操は深く悲しんでいる。自身も兵を起こしたひとりであることに心を痛め、強くおのれを責めている。

 万骨枯れて功成ることを喜ぶような人物ではない。民の救済を希求しているのだ。

 

 荀ケは幼少の頃より「王佐の才あり」と謳われてきた。自分の持つ才が本当にそのようなものであるならば、王となるべき者が覇を成すことに力を注いで生きてゆきたい、と荀ケは思う。

 それには、まずは我が主公・曹操が望むような人物を得なければならない。自分とともに彼に力を貸して、彼の大事を計ることの出来るような人物を、である。

郭嘉であれば軍略の才に申し分はない。天下国家の事業に対する情熱も持っている。

 

「どうだろう、奉孝」

 

 そう言って荀ケは、勝負をかける一石を盤上に投じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

To Be continued

 

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UP 2007.11.11

水華文庫発行『王覇の階【挙の巻】』に掲載

 

引用の漢詩は曹操作「蒿里行」。

訳は『曹操 三国志の奸雄』(講談社学術文庫)に従いました。

 

説明
道と覇道、王者と覇者――。その相反するものらを王覇という。
三国時代、魏の曹操に仕えた謀臣・荀イクと郭嘉のものがたりです。この話は曹操と荀イクを中心にした長編『王覇の階』(今後創作していく予定作)の導入部的な短編です。
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タグ
三国志 創作小説  曹操 荀ケ 郭嘉 

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