二主一体 信仰の復活 第2章
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2.三位一体と二主一体

 

インターネットから三位一体の定義を7つ、書き出してみるが、三位一体について理解を深めたい人だけ見る事をお勧めする。

 

 

(ホーリネス教団公式ページ)

 

公同の信仰は唯一の神を三位格において、三位格を一体において礼拝する。

 

三位格は混同せず、一実態を分割しない。

 

父と子と聖霊は、それぞれ別の位格である。

 

父は造られず、子も造られず、聖霊も造られず。

 

父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠。

 

しかし三つの永遠ではなく、一つの永遠者。

 

父は全能、子も全能、聖霊も全能。

 

しかも三つの全能者ではなく、一つの全能者。

 

父は神、子も神、聖霊も神。

 

しかも三つの神ではなく、一つの神。(アタナシオス信条)

 

 

三つの位格、御父・御子・御霊の三つ(実は1つ)の同等の(同じ)神性を持つ存在。一つの神。ひとりの神。

 

(カトリック要理の友)(おかしい所があったのでカッコで補足した。)

 

 

イエズス・キリストは、神がただ御一体でありながら、そのうちに}

 

「御父」と「御子」と「聖霊」との三つのペルソナがあると云うことを啓示なさいました。

 

 

(世界史の窓)

 

「父(神)と子(イエス)と聖霊」は三つの位格をもつが本質的に一体である

 

 

(【三分でわかる聖書】)

 

「神は、実体において唯一の神でありつつ、父と子と聖霊と云う三つの位格において存在する。」・

 

神は唯一だって事。それから唯一の神の中に三つの位格が存在している。そして、父なる神は神としての性質を持っている。子なる神も神としての性質を持っている。聖霊なる神も神としての性質を持っている。

 

以上の事を受け入れるならば、つまり、神が唯一であると云う事。三つの位格が全部神だって言う事。全部認めたならば、三位一体を受け入れざるを得なくなる訳です。

 

 

(三位一体論)

 

“父なる神・御子キリスト・聖霊の三者は、一体で、おひとりの神となっておられる”と云う教えである。「三位」の「位」は位格を意味し、御父・御子・御霊の三者をさす。これら三者は、互いに区別されるが一体の神である、と云うのが三位一体論である。

 

(1) 三位一体論は“三神論”ではない。それは三つの神々が存在すると云う多神教ではなく、唯一の神を教える。

 

「主は私たちの神、主はただひとりである」申命六・四

 

 神は唯一である。御父・御子・御霊と云う、三つの独立した“神々”がいるわけではない。御父・御子・御霊は、存在において一つであり、おひとりの神になっておられる。・

 

(2) つぎに、三位一体論は“一神三部分論”ではない。すなわち、おひとりの神の内に三つの部分がある、とする教えではない。

 

 御父・御子・御霊は、神の中の三つの部分ではなく、それぞれに完全なかたである。神の本質を分割することはできない。御父・御子・御霊は一体であられる。

 

 

(3) 三位一体論は“三位同一論”でもない。三位の間に“区別”はある。

 

 御父・御子・御霊の間には、

 

“生まれざる者・生まれた者・出た者”

 

 と云う区別がある。区別までなくしてしまうと、もはやそれは三位一体論ではない。

 

 御父は、誰によっても造られず、誰によって生まれたでもなく、自存者であり、「生まれざる者」であられる。また御子は、御父から「生まれた者」、御霊は、御父から「出て」御子を通して信者に注がれた霊である。

 

 父なる神・御子キリスト・聖霊は決して“同じかたの別名”ではない。三位一体論は、唯一の神のうちに御父・御子・御霊と云う位格の“区別がある”とするものである。

 

 これら三者が互いにその区別を保ちながらも、存在と本質において一体であるとする。

 

 

(4) また三位一体論は、父なる神・御子キリスト・聖霊に関するものであって、父なる神・イエス・マリヤの三者ではない。・

 

(5) もう一つの重要なことは、三位一体論は“一神三様論”ではない、と云うことである。すなわち

 

 “旧約時代の父なる神は、キリスト在世時代に「イエス・キリスト」になられた。また、キリスト昇天後の時代には、「聖霊」となられた”

 

 と云うことではない。御父・イエス・聖霊は、時代に応じてあらわされた神の三様態ではない。旧約の父なる神が、新約時代になって、呼び名が変わってイエス・キリストになられたわけではない。

 

 神はキリスト初来以前の時代にも「御父・御子・御霊」であられた。そしてキリスト在世時代にも、キリスト昇天後の時代にも、つねに「御父・御子・御霊」として存在しておられる。

 

 「御父・御子・御霊」の区別は、永遠の過去から永遠の未来におよぶ。その区別は“永遠の区別”である。

 

 

(Wikipedia初期キリスト教)

 

神秘的な三重の本性を持つと云うキリスト教教義の明確な特徴

 

 

この7つである。

 

 

三位一体とは、以上の宗教としては最大級の教義であり、三位一体の盾が描かれる事もあり、人間の理解を超えた3=1と云う問いである。

 

三位一体と二主一体は、信仰告白でキリスト教史上、使われるが、双方の信仰告白を並べてみよう。

 

 

三位一体の信仰告白

 

 

我らは信じかつ告白す。 旧『新約聖書』は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。 主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。 教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。 我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、「使徒信条」を告白す。 我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。 アーメン。

 

 

二主一体の信仰告白

 

 

『神がイエスを死人の中からよみがえらせた』『イエスは主である』と云う信仰告白に基いたもので、次の二通りがある。

 

・キリストの死を人間の罪の贖いとして捉えつつ、その死と復活を『旧約聖書』における預言の成就として解釈するもの。

 

・キリストの死を神に対する従順の証しとみなしつつ、褒賞として神により天に挙げられたとするもの。

 

 

三位一体の信仰告白を、要約すると、こうなる。

 

 

信仰告白する。聖書は神の霊感によって成る。父・子・聖霊の三位一体の神。キリストの十字架により、聖として義とする。

 

「使徒信条」を告白する。

 

「我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。 アーメン。」

 

 

対して、二主一体の信仰告白は、イエスは主である。と告白する。

 

単純明快な信仰告白は現代に体現すれば、より語りやすくなり、議論もしやすくなる。三位一体の信仰告白は長く、二主一体の信仰告白は短くしたい。

 

 

イエスは主である。

 

四福音書にて、神が墓の中のイエスを死人の中から甦らせた。

 

四福音書にて、『旧約聖書』の成就とダビデの願い・罪のゆるしを十字架のイエスは成就された。

 

『詩篇』、『ヨハネの黙示録』、『ヨハネによる福音書』にて、造り主である、又、神に造られたものの根源であるかたである、神、主のご計画を何よりも優先し、天に挙げられた使徒としてのイエスの御為に祈り、それ故に、二主一体を告白する。

 

 

「創造主ヤハウェと救世主イエスこの二名が一つであり、聖霊は両者にある。

 

主と主イエス・キリストこれも一つであり、また助け主は聖霊である。

 

神と人とは、男と女として比喩される。神は男であり、人はその助け手、女である。

 

しかし、男と女とは一体となる。神と人との比喩ではこれは神人イエス・キリストである。

 

これが二性一人格である。

 

しもべ天使は人であるが、別の時代・別の宇宙の人である。天使は全部信仰者である。しいて言うなら、天使の故郷は天の宇宙・天の時代である。私達の宇宙は全地の宇宙、私達の時代は全地の時代である。

 

天使はミカエル・ガブリエル・ザドキエル・ラファエルがいる。

 

四大天使である。

 

堕落天使もいる。サタンまたルシファーである。

 

救い主と贖い主イエス・キリストと御神(みかみ)に永久(とこしえ)に栄光がある様に。

 

アーメン。」

 

 

以上から、三位一体と二主一体の差は、聖霊と“御”である。

 

二主一体に御はなく、聖霊も含有されるだけで要素がない。

 

御がない理由は極めて学術的に、客観的に主を見る為であると言える。

 

“御父・御子・御霊”と三位一体では言うが、美辞麗句であり、敬語の使い所でもあるが、客観性、学術性が著しく欠損しているのだ。

 

主とは、神であり、神とは創造主である。二主一体では救世主であり、救世主とはイエス。そして、イエスとは聖霊の事でもあり、三位一体によれば、聖霊とは主の事である。

 

主は学術的に言い表す言葉が神しかないが、まあ当然だろう。我々宗教家は神を言い表す言葉をたくさん((天地創造の)エロヒーム、ヤハウェ、主、創造主、御神、守護神、”幻想の神”。)持っているからこそ、優越性があると言える。

 

学術的に二主一体を言い換えるなら、神はイエスである。と始まるのだろう。だが、学術が宗教に与えるほとんどないと言っても良い。学術は神による知識によって形作られているからである。それはつまり、聖書によって学術が造られていると云う事である。

 

要するに、聖書的興味から、聖書的学術的な影響から学問の探求が始まっているのだ。

 

故に、学者ある意味、聖徒でもあると言えるだろう。

 

 

二主一体の客観性と学術性について、概説しよう。

 

二主一体は二なる主が一つであり、主従の頂点である事から、美麗な文章にも用いられる。主従とは、実に、学術と学問の基本なのである。国語しかり、理科しかり、社会しかり、数学しかり、である。つまり、二主一体とは学術の応用である。国語と社会二なる主を一つにするのならば、政治の衆議院・参議院である。又、歴史書を読み書きするのにも使えるだろう。基本的に、学者は従、仕える立場にある。科目が主であり、二主一体とは、実は、学問の神なのである。

 

学問の神とはもちろん、聖書の神、ヤハウェの事である。

 

それが、社会には基礎となる知識なのだが、学問において知られてはいないし、一般の人々にも考えつかない事である。

 

余談だが、学問の神と言えば、日本史上の人物、菅原道真だが、学問の神と呼ばれる所以は、二主一体にあると思う。

 

上(かみ)とは、菅原道真にとって天皇とそれを補佐する(または操る)人間の事だが、学問もまた、菅原道真の主であったと言えるだろう。天皇と云う主と(天皇とは、王としての歴史が長すぎて、ある意味において非人間だが、神そのものではない。つまり主人を主としているだけである。)学問と云う主が一つになって、もう既に二主一体は出てしまって、三位一体に成り変わられている時代ではあったが、学問の神になったのだと思う。

 

と言う訳で、ヤハウェは学術の神と言っておく事にしよう。

 

 

三位一体と二主一体はここまでにしよう。

 

三位一体と二主一体の共通項について見てみよう。

 

三位一体はヤハウェ・イエス・キリスト・聖霊(ムハンマド)の三つのペルソナと呼ばれる神格(日本語的には、神の格だから、偉さ・強さを意味する。英語としては、神の一つを意味する。日本語にしか使えない言葉なのである。)を平均して持っておられる。ただし、ヤハウェの方がイエス・キリストよりも偉い様である。

 

二主一体は創造主ヤハウェと救世主イエスが一つである。ヤハウェと云う共通点・イエスと云う共通点がある。イエス・キリストと書かないのは救世主が二重に成ってしまうのと、イエスに聖霊があるからである。

 

言語的には、ヤハウェもイエスも聖霊もあるのだが、原理として、ヤハウェとイエスしかない。すなわち、共通点は一体と云う日本語とヤハウェとイエスと云う共通言語なのである。

 

ヤハウェとは神である。イエスとは、人間である。ヤハウェと人間とは契約者である。イエスと神とは、三位一体の信仰の対象である。

 

もし、“三者”と云う三位一体を受け入れるならば、方々と云う一神教にあらざる表現を受け入れなくてはならなく成ってしまう。神は一者だからである。“三者”よりは一者の方が良いだろう。

 

『マタイによる福音書』5章48節には、“それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。”と書いてあるのだが、“三者”と呼ぶ人々は、御父が完全である様に、完全には成れない。なぜなら、言語的に正しくないからである。元々、一者以外は全て造語である。三位一体も造語では、あるが、一体と云う基準を作るにおいて正しかった。キリスト教教義には正しさが必要である。

 

三位一体と二主一体の最大の共通項は正しさである。

 

そもそも、三位一体と二主一体は両立するのか?

 

三位一体は三つ、二主一体は二つ、真実を持っている。

 

この違いはなぜ、生まれたのか?

 

真実とは、正しい事である。正しい事とは正教会が指し示すキリスト教の宗教である。

 

聖霊は、二主一体では、正しさに含まれない。なぜなら、直接的に姿を見せないからである。例えば、創造主ヤハウェは奇蹟において御姿を現すと言える。イエスは肉体を持って御姿を現す。しかし、聖霊は御姿を現されない。(鳩の様な姿を取った時もあるにはあるが。)

 

なぜか。

 

簡単だ。『新約聖書』は二主一体を説明する為に書かれたからである。四福音書も手紙も『ヨハネの黙示録』も、全て、聖霊について“イエスのあかし”についてしか、書かれていないのである。つまり、御名しか登場しない。(『マタイによる福音書』3章16節“イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。”を除く。)聖霊は、『新約聖書』では重要ではないのである。三位一体の聖書とは、本来、『旧約聖書』だからである。聖霊が生き物の様に書かれるからである。

 

最後に、三位一体とは、三位一体の神が奥義であるが、二主一体はどうだろうか?

 

二主一体は“二主一体の神”ではなく、それそのものの名前が、神の御名である。なぜなら『新約聖書』の神だからである。『新約聖書』は『新約聖書』の神の御為に書かれた。『旧約聖書』の神ではなく。『コーラン』の神(アッラー)の御為でもない。『新約聖書』の神=二主一体と言う事である。

 

『旧約聖書』の神=三位一体の神である。

 

『コーラン』の神=御神仰一体の御神である。

 

『旧約聖書』は、三位一体について、創世記から書かれてある。『ダニエル書』には、7章13節“わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。”それとダニエル自身が御父の霊と御霊と云う夢の解き明かしの霊にあるのだから、“日の老いたる者”御霊と、“人の子のような者”御子が揃っている。つまり、三位一体が成っているのである。御霊は、複数あって一なので、聖霊と均衡の神を合わせて御霊なのだから、三位一体の神が実在するのである。夢とは、創造の根源の世界である。つまり、御子の世界である。それに興味があるのが、エロヒーム、創造の神と均衡の神である。この二と御子の一は一つである。つまり、夢を解き明かせるのが、創造の神と均衡の神と神の養子ダニエルである。しかしながら、養子は養子で、本当の御子ではないのだから、当然、真理の夢は解けない。だから、ダニエルを3分の1にした三位一体は成り立たないのである。なぜなら、ダニエルは、御子足り得ないからである。

 

『コーラン』は、御神仰一体は、ムハンマドについて、語られている。

 

ムハンマドも『コーラン』を自身の信仰にしたし、他のイスラム教徒も自身の信仰にしたに違いない。

 

『コーラン』は、ユダヤの唯一神に沿って、“アッラーの他に神はなし”と信仰告白する。

 

神は、所有者の神である。御父も御子も御霊も所有者である。御父・御子は、それぞれ、天地の所有者・夢の所有者である。御霊は、人間の所有者である。これについて後述する。

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副題:天使アクタリエルの啓示1
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