きりくるまとめ
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   花の精のごとく

 

 幼いとき、たわむれで花びらを集めたことがあると十兵衛は((熙子|ひろこ))に語った。

 

 なにを思ったのか。暇だったのか。綺麗な色に心を奪われたのか。陣取り合戦をしている気分になったのか。

 散歩しながら、地面に散ったさまざまな花びらを夢中になって集めたのだと。

 籠いっぱいに集めた花びらは、満月の夜に自室の前の廊下に置き、そのまま眠った。

 

 なぜそこに置いたかは分からない。ただ置きたかった。

 あとで庭に散らそうとしたのかもしれない。あるいは木々に貼りつけようとしたのかも。

 今となっては分からない。ただ花びらを集め、廊下に置いた。それだけのこと。

 

 翌朝、籠そのものはあったが、花びらは全部なくなっていた。

 おそらく風にさらわれたのだろうが、庭には一枚も散ったあとがない。誰に聞いても、風のない夜でしたという答えが返ってくる。

 では掃除で捨てられたのだろうかと思ったが、明智家の嫡男の物を勝手に捨てる者は、そうはいない。家族もそんなことはしていないと言った。

 

 ならばと縁の下に潜り込み、残っているかもしれない花びらを捜そうとしたら母から注意され、「花の精が取り返しに来たんですよ」と穏やかにさとされた。

 子供だった自分はそれで納得し、不思議なこともあるものよと思い、そのまま忘れた。

 

 実際のところ、誰かが散らしてしまったものが片づけられたのだろう。

 だが勝手に片づけると自分が泣いてしまうから、花の精の話にしたのではと、十兵衛は推察を交えて話し終えた。

 話を聞き終えた熙子は、ゆるやかな笑みを浮かべながら「いいえ」と言った。

 

「きっと、その花びらで衣を仕立てた精がいたのでしょう。だから一枚もなくなったのです。散った花びらは、花の精にとっては布と同じですから」

「そうなのか?」

「ええ。綺麗なまま籠いっぱいに集めてくれたなら、それは周囲に自慢したくなるような、見事な仕上がりになったでしょう」

「花びらが……?」

 

 ふうんと十兵衛は考え込み、その姿を見て熙子は忍び笑いをもらす。

 

「その花の精は十兵衛様に恩義を感じて、なにか恩返しをしたかもしれませんね」

 

 そう言って微笑む熙子の周りに、どこからか風に乗ってきた花びらがはらはらと散る。

 もしや花の精とは妻のことではないか。十兵衛はそう考えたが、そのころすでに熙子は生まれていたはず。

 そんなことはないと思いながら、落ちてきた花びらを嬉しそうに両手で受け止める妻の姿に目を細め、十兵衛は「そうだったら良いな」と微笑んだ。

 

END

 

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   室町の気なる御方

 

 天王寺砦の戦いで受けた傷がもとで高熱にうなされ、死の淵をさまよっていた父光秀が目覚めたことで、岸とたまの姉妹は安堵のため息をもらした。

 峠を越えたとあれば名残惜しいが、岸はそろそろ嫁ぎ先の荒木家に帰らなければならない。義父((村重|むらしげ))に許可をもらって、実家に帰って来たのだ。長居はできない。

 

 帰り支度をしていると、妹のたまが手伝いに来た。安心して気が抜けたのか、岸の夫の((村次|むらつぐ))はどんな人か、嫁としての苦労はと、その手の話題が尽きない。

 姉が嫁いだことで、たまも縁談を意識するようになったあたり、岸は妹の成長を見る思いだった。

 

「そうそう、この前ね、荒木の父上様にお花を褒められたの」

 

 たまは「まあ!」と、我が事のように喜ぶ。

 

「あの方にいろいろと教えられたでしょう? それが役立ったみたい」

 

 懐かしむような表情で「……はい」とたまが言うと、二人の間に沈黙が訪れた。

 あの方とは、表立って名前を出してはいけない武士だった。

 

 光秀はその武士がどういう人で、なぜ坂本城に預かりとなったのか、それなりの年齢になっている娘たちには簡単に説明した。

 その武士は逆らうことなく、大人しく城の一角で過ごした。光秀は敬意を持って接し、限られた場所でなら可能な限り自由にさせた。

 

 光秀の家族とも交流することを許された。娘たちは花の生け方を教わった。

 その武士は柔らかい物腰で、今にも消え入りそうな、澄んだ美しい空気をまとわせていた。室町の空気というものがあるのなら、こういうものだろうと娘たちは思った。

 

 そしてある日、この世からいなくなった。織田信長から切腹の命令を受け、即日腹を切ったのだ。

 岸もたまも、戦国を生きる武家の娘。主君に敵対する者が最後にどうなるか。その教えはもちろん受けていたし、心構えも多少はできていたつもりだった。

 

 ただそれはあまりにも突然で、心に柔らかな傷跡を残す人間が、((三淵藤英|みつぶちふじひで))という武士だとは知らなかった。想像もつかなかった。

 娘たちの揺れる心を母の((熙子|ひろこ))は察し、慰めた。まだ少女である娘たちは、すべてを納得できなくても、塊のような感情を黙って飲み込んだ。

 

 それが武士として生きる者の((運命|さだめ))なのだと。

 武家の娘はそれに耐えていかなければならないのだと。

 それが乱世なのだと。

 

「……ねえ。帰る前に、花を生けてもいいかしら。父上のそばに飾ってほしいの」

「もちろんです。父上もお喜びになります」

 

 二人は小さく笑い合いながら、どの花を生けようかと話し始めた。

 

END

 

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   小さき波の鼓

 

 十五郎は母の((熙子|ひろこ))になにかを渡すと、家臣の藤田((伝吾|でんご))たちのほうへ走って行く。熙子は受け取った物を小さな容器に入れた。十兵衛はその光景を見て、「なにをもらった」と聞く。

 

「近頃はこれを拾うのが楽しいようです」

 

 熙子が中を見せると、それは小さな木の実だった。

 明智家にようやく生まれた嫡男は元気に育っており、年の離れた弟を娘たちも可愛がっている。

 なかなか跡継ぎが生まれないため、周囲から側室を迎えてはと遠回しに言われることもあったが、十兵衛はそれを拒み、((糟糠|そうこう))の妻だけをそばに置いた。

 

「木の実には虫が入っていることがあるから、気をつけるんだぞ」

「分かっています。あとで頃合いを見て、一緒に土に埋めます」

 

 男子の無邪気さと自由さは、女子とは違うもの。

 初めての男子の育児に妻は大丈夫だろうかと十兵衛は心配していたが、周りがよく助けてくれるので、杞憂に終わりそうだった。

 熙子が容器のふたを静かに閉じると、十兵衛は「それは……」と口にする。見覚えがあったからだ。

 

「以前、十兵衛様にいただいた紅入れです」

「子供たちに新しいのをもらっただろうに」

「旦那様にいただいた物は捨てられません」

 

 思わず十兵衛は「物持ちがいいな」と感心する。

 

「越前にいたころからの癖ですね」

 

 少々痛いところを突かれて、十兵衛は微妙に笑ってごまかした。越前時代は質屋に通う生活をしていたこともあり、あらゆる物を丁寧に使っていた。

 熙子はそんな夫の心の内を知ってか知らずか、螺鈿細工の紅入れを日光に当てると、きらきらと輝かせた。

 

「こうすると夜の((水面|みなも))に月の光が浮かんでいるようで、気に入っているのです。あと小さな物を入れて振ると……ほら」

 

 熙子はそう言うと、耳元で小さく振る。

 

「波打ち際で石が転がる音のように聞こえませんか? かわいらしいでしょう?」

 

 十兵衛は顔を寄せた。確かにカラカラと、小さくかわいらしい音がする。

 思わず「波か」と言うと、熙子は真剣な面持ちで「波です」と言い切ったので、十兵衛は口元に笑みを浮かべた。

 

「ちちうえ! ははうえ!」

 

 十五郎が二人に声をかけて駆け寄る。「おお、どうした」と十兵衛は笑顔で出迎えた。

 

「またよいのがありました」

 

 小さな手の中には木の実があった。向こうで伝吾たちと木の実をより分け、選び抜いた物を一個ずつ持ってくるのは非効率だが、それが愛らしくもある。

 

「まあ…! ありがとう」

 

 父と母は息子からの贈り物に喜ぶと、顔をほころばせながら受け取った。

 

END

 

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   我を見る者

 

 美濃の斎藤家から尾張の織田家に嫁いできた帰蝶は、父の((利政|としまさ))をことをよく喋る。いかに切れ者で、豪胆で、正室の((小見|おみ))の((方|かた))を大切にしているか。そしてどれほどのケチで、筋金入りのケチか。

 それから側室の((深芳野|みよしの))が生んだ異母兄の高政のこと。跡取りとして育てられたので、教養もあるし武芸もたしなむが、才覚は父に及ばない。及ばないながらも、あの父が育てたのであれば、敵になったときは厄介な相手になると。

 喋るのは夫である信長が聞くからだ。

 

 帰蝶が自発的に喋るとすれば、明智十兵衛光秀という人間のことだった。生母である小見の方の実家、明智家の跡継ぎで、帰蝶にとっては幼馴染みの従兄。高政の学友でもあり、幼いときはよく遊んだという。

 子供時代の思い出を語るときの帰蝶の顔は柔らかく、信長の生母、((土田|どた))((御前|ごぜん))が同母弟の信勝を褒めるときの顔に似ていた。

 帰蝶に膝枕をされながら、信長は「十兵衛とはどんな奴じゃ」と聞いてみる。

 

「泣き虫で、まっすぐで、新しいものが好きで、嘘がつけません」

 

 信長はふてくされた感じで聞いたのだが、帰蝶はそれを気にすることなく、すらすらと答えた。

 

「嘘をつけぬ?」

「嘘をつけぬというより……思うたことを率直に言い過ぎるとでも申しましょうか」

「そなたにもか」

「はい」

 

 続けて「利政殿にも?」と聞くと、「はい」と打てば響くような答えに、さすがの信長も驚いた表情をする。

 

「いつでも相手をまっすぐ見て、こちらが苦く思うことでもはっきりと言います。いかなるときでも目をそらしません。あの目に耐えられるのなら、兄も立派な斎藤家の主となれましょう」

 

 ふふんと信長は鼻で笑い、「そうは思うていないのであろう」と混ぜ返した。

 

「真にそう思うております」

 

 信長は目を細め、「ほう?」と帰蝶を見た。

 

「なれば十兵衛とやらは、嘘をつくときは目をそらすのだろうな」

 

 その言葉に帰蝶は夫の目をまっすぐ見ながら、即座に「いいえ」と否定する。

 

「嘘をつくときも、十兵衛は目をそらさないでしょう」

「分かるのか」

「幼馴染みですので」

 

 そんなふうに自然に出てくる言葉が少々妬けるというのに、夫の心を妻は知らないのか、平然と言い放つ。

 が、その態度が好ましかった。自分の機嫌を取るために媚びへつらいをしないが、夫を下に見るわけでもない。

 

「ああそれから、顔が良いです」

 

 おまけのような発言に、「それこそ真っ先に言うものではないか?」と信長は自分の正室の面白さを気に入り、頬を撫でた。

 

END

 

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   それでもあなたのそばに

 

 また誰もいないところに向かって話し、おびえることが多くなりましたと、正室のねねは秀吉の((近習|きんじゅ))にひそかに呼び出された。

 広い廊下を足早に歩き、いると言われた部屋に入ると、老いた秀吉は子供のようにすがりついてくる。

 

「明智様がまた来られた。孫七郎のことじゃ」

 

 本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたあと、秀吉は急いで((備中|びっちゅう))の毛利方と和睦を結び、京へと引き返し、謀反人の光秀を山崎で打ち破った。その後は破竹の勢いで天下を取った。

 ((近衛|このえ))((前久|さきひさ))の((猶子|ゆうし))となって関白となり、豊臣の姓を賜った絶大な権力者が、老いてからは倒してきた者たちの幻におびえる。

 悪いことを責められるときは、必ず光秀の幻が出る。何事かで詰められた記憶が強いせいらしかった。

 

 秀吉いわく、光秀自身を破ったことは怒られない。

 ただ、今までのおこないを笑顔で列挙される。茶化さず見下さず、事実だけを次々言われるので、怒ることもできないと秀吉は嘆く。

 三木の干殺し。鳥取の飢え殺し。((唐|から))入り。兄弟だと名乗り出たあやしい者たちの処刑。大勢の美女に手をつける好色さ。挙げればキリがない。

 

「前に来たときは孫七郎をよくしかってやれと言われたから、そうした。それなのに孫七郎は勘違いして、自害しおった。それを責められたのじゃ」

 

 それまでぐずぐず泣いていた秀吉はパッと顔を上げ、「だがな!」と明るく言う。

 

「昔のわしのような貧乏人がおらぬ世を作りたいと言うと、それを進めよと言うてくださるのじゃ。……だがみんないなくなる」

 

 秀吉は「なぜじゃ」と連呼し、ねねの膝の上で、またさめざめと泣く。

 明智様、あなたは生前、秀吉になにを言ったのですと、ねねは胸の内で亡者を責める。責めたところで帰ってくる言葉はない。

 

 信長の正室の帰蝶は、天下の平定はこれからというとき、なぜか安土から美濃の鷺山に去った。

 ねねはその気持ちが今なら分かる。駆け上がっていく夫の心が変容していくのを隣で見続け、支え続けた彼女は、疲れ果てたのだ。

 

 だがその結果が本能寺。ああそれだけはと思い、秀吉があらぬ方向へ行かないようにと、ねねはずっと夫のそばにいる。

 

 それでも駄目だった。秀吉の甥で養子にした秀次、通称孫七郎の一家は粛清された。もう夫の乱心を止められないと分かっても、ねねはそばにいようと思った。

 せめて、誰かに殺されないようにと。

 

「私はずっと殿下のそばにおりますよ」

 

 ねねは夫というより大きな子供をあやすように、秀吉の背中をさすった。

 

END

 

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   槍の一突きのごとき語り

 

 織田信長の最近のお気に入りは、木下藤吉郎という農民の出の者だった。当然、信長の正室の帰蝶もその存在を知ることになる。

 藤吉郎は武家の出ではないので、教養があるとは言えない。信長はたわむれに、なにか教えてやれと帰蝶に言った。

 聞けば藤吉郎は文字が読めるので、ならば和歌はどうかと帰蝶は『万葉集』を貸し、講釈もした。吸収が速いので、もし藤吉郎が武家の出であれば出世が早かったはずと帰蝶は思った。

 

 藤吉郎は藤吉郎で、帰蝶を気に入っていた。身分が低い自分を笑い者にしない。なにより美人だった。

 帰蝶との会話では、明智十兵衛光秀という従兄の話がよく出てきた。信長も、どうやら帰蝶には面白い親戚がいるらしいと口にする。

 頃合いを見て、藤吉郎は「従兄の明智様とは、どのような御方でしょうか」と探りを入れた。

 

「普通の者はたどり着くのが難しい問いも、三つほど手がかりを教えると十を知り、あっというまに答えにたどり着きます。あれは槍の一突きです」

 

 藤吉郎は不思議な面持ちで「槍でございますか」と聞き返し、帰蝶は「口の速さとは違う速さです」と答えた。

 

 その意味が今、やっと分かった。

 

 羽柴秀吉と名を改めた藤吉郎は、総大将として播磨攻めに出る前、京の光秀の館に挨拶に行き、詰められた。

 信長が欲した((平|ひら))((蜘蛛|ぐも))の釜が松永久秀から光秀に譲られ、光秀が献上する前に信長に知らせた意図を。

 

 秀吉からすれば、離反した久秀の動きを追う主命を全うした形だが、光秀にとっては((間|ま))が悪すぎる。

 欲を出して光秀を罠にかけた結果、家中ではうまく立ち回っていたのに、実は人の足元をすくってでも出世したい人間だろうと見抜かれた。

 

 さらに、自分が持つ京の情報網の正体を知られた。口をすべらせたのは異父弟の((辰吾郎|しんごろう))。

 秀吉が出世するに従い、弟だという卑しい男たちが名乗り出た。その中には好色な生母のなかが実際に生んだ弟もいる。

 彼らは金の無心に来た。秀吉もただではむしられまいと、忍びもどきに仕立てて利用した。

 

 光秀は自分の野心も羽柴家の醜聞も知っていた。自分とは別の形で口が回る。にこやかに付け入る隙もなく、事実だけを整然と並べる。

 強請らないが、そういうやり方でこれ以上手出しするなと遠回しに忠告する。

 まさに槍の一突き。次は光秀よりも速く動かねばならない。次は勝たねば??。

 

 光秀は口の軽い弟をよくしかっておくべきだと言った。館を出た秀吉は暗い目で宙を見据えると、辰吾郎へのしかり方を決めた。

 

END

 

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   あなたとの干し柿

 

 正室の築山は家康の隣で((薬湯|やくとう))を作りながら、「出来立ての干し柿ですか。今年の味はどうです?」と聞いた。

 家康は干し柿を一口かじると、「悪くない」と噛み締めるように食べる。干し柿は思い出の食べ物だった。

 

 ??今はつらくとも、日が変わり、月が変われば、人の心も変わります。無理をせず、待つことです。

 

 母に会いたいので尾張から連れ出してくれと頼んだ相手は、当時竹千代と呼ばれていた家康に干し柿を一つ渡すと、噛まずに口に含んでおくとずっと甘くて気が晴れると言った。

 耐えるのではなく、待つ。人質生活であっても、待てばいつか変わる。

 

 ならば変わるまでの間、けして排除されないよう、侮られないよう、かといって侮られ過ぎないよう、子供ながらに考えて行動した。

 勝てば機嫌をそこねる相手には、わざと負けてあげた。賢く見えるのを好む相手には、鋭い意見を言った。

 

 だが教育を施したり、優しく接してくれる相手には敬意を払った。吸収できるものは吸収した。

 

 母にはいつか必ず会えると信じて、ただひたすらに時を待ち続けた。

 幼かった家康は、母とのおぼろげな思い出が薄れないよう、繰り返し思い出した。自分に待つことを教えてくれた人の言葉も繰り返し、焼き付けるように。

 

 桶狭間の合戦では密書だったとはいえ、母がいまだに自分を我が子として想っていたのが分かったときは、嬉しかった。涙した。

 かつて干し柿を与えてくれたのは、明智十兵衛光秀という人物だと知った。朝倉攻めで久しぶりに会ったとき、その人はあの時と変わらない空気をまとっていた。

 

 干し柿を食べて物思いにふける夫を見て、築山は「徳姫は男子が生まれると良いですね。お家の安泰につながります」と話題を振る。

 嫡男信康の正室、徳姫は織田信長の長女で、現在身籠っていた。もうすぐ産み月を迎える。

 

「まずは徳姫の体を心配したらどうだ」

 

 家康は針で刺すような物言いをする妻に注意をしたが、築山は落ち着き払った顔でいる。完成した薬湯を茶碗にそそぎ、「どうぞ」と夫に差し出した。

 

「跡継ぎを生めぬ女はつろうございますよ」

 

 徳川は今川から自立し、織田と同盟を結んだ。自立とは徳川から見たらの話だが、今川からすれば裏切り行為。

 その今川の一族の出である築山が、この家で一定の立場を守れたのは、嫡男を生んで育てたからこそ。

 

 家康は「…食べるか」と干し柿を一つ差し出す。築山は「あら。お珍しいこと」と言いつつ、少し嬉し気な表情をして受け取った。

 

END

 

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   奪うのは白きもの

 

 物心ついたときから、信長は生母の((土田|どた))((御前|ごぜん))から距離を置かれていた。それが嫌われていることだと分かったのは、同母弟の信勝という存在がいたから。

 信勝は母に似て、色白だった。信長の地肌は父信秀に似て健康的で、日焼けをしているような色合いだった。

 同じ父と母を持ちながら、信勝は信長とは違った。学問を好み、おとなしく、両親の言うことをよく聞いた。

 母は信長の名前よりも、信勝の名前をよく口にした。手元に置き、大事に育てた。

 

 信長がそんな母から褒められた思い出といえば、魚を釣ったこと。大きな魚だったのが珍しかったらしい。

 それが嬉しくて、大きな魚や珍しい魚を釣って何度も持って行ったが、そのうち嫌そうな顔をされた。

 母からはもう褒められないと分かったので、魚を切り分け、民に売りさばくことを学んだ。そうすれば彼らは喜んだからだ。

 

 信秀が戦での傷がもとで亡くなると、織田家の家督を巡り、信長は信勝と争った。

 母がかわいがっていた信勝を殺すことで信長は勝ったが、「そなたは弟を殺しただけではない。この母も殺したのです」と言われた。

 

 それ以来、母とはほぼ口を利いていない。

 

 共に暮らしてはいる。信長の子や同母妹のお市の子たちの面倒を見てくれるので、良き祖母だったが、信長に対しては壁があった。

 織田家当主としての信長に従う。そういう関係に転じた。

 信勝は命と引き換えに、母の心を奪っていったのだ。

 

 それでも以前のような目に見えた憎悪はなく、穏やかである。それで信長は良しとした。

 なにより自分を褒め、ともに戦略を練り、そばにいてくれる正室の帰蝶がいたから、母にこだわらなくなったというのもある。

 

 だが、その帰蝶は美濃の鷺山に去った。

 二人三脚でここまで来たから、美しく大きな安土城を喜んでほしいのに、かつての母と同じ。疲れた表情でこちらを見た。

 

 そういえば鷺山の鷺とは鳥。鷺は白いのがいたなと信長は思い出した。

 帰蝶がいなくなったことで、これからは十兵衛を頼れという彼女の助言どおり、帰蝶の従兄であり重臣の明智十兵衛光秀をますます頼るようになった。

 

 その光秀も不穏な動きを見せた。((平|ひら))((蜘蛛|ぐも))の釜の件では嘘をついた。帝にひそかに御所に招かれた際、なにを話したのか。けして口を割らなかった。

 ああそういえばと信長は思い出す。帝の衣の色は白だった。

 

 なぜ自分の大事なものは、白いものが奪っていくのか。

 信長は怒りを抑えきれず、先ほど光秀を打ち叩いた扇を床に投げ捨てた。

 

END

 

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   神のごとき長い命

 

 美濃守護の((土岐|とき))((頼芸|よりのり))と甥の((頼純|よりずみ))は、守護代の斎藤((利政|としまさ))と対峙していたが、和議がなった。その条件の一つとして、頼純と利政の娘帰蝶との婚姻があった。

 帰蝶は家のためと頭では理解していても、まだあどけなさが残る娘の身。結婚して家を離れることに不安を覚えた。

 

「気晴らしと言って、馬に乗ってあちこち出かければ良いのです」

 

 生母の((小見|おみ))の((方|かた))は軽く言うが、帰蝶は「そうは言っても…」と言葉を濁す。

 

「では、お伽話をしましょうか」

 

 小見の方は櫛を手に取ると、豊かで艶のある娘の髪をすき始めた。

 

「その昔、明智家のご先祖様は、怪我をした山の神を手当てしたそうです。それに感謝した山の神は、お前たちにも、お前たちに深く関わる者にも、私たちと同じ長い命を与えようと言って、消えました。おしまい」

 

 帰蝶は頭の中が疑問だらけになった。不思議そうな顔で、「明智に長生きの者がいましたか?」と聞く。小見の方は「いませんね」と笑った。

 

「正直、長い命とはなにか、よく分からないのです。私たち人と山の神では、考えが違うのでしょう」

 

 優しく髪をすきながら、「でも」と次の言葉を紡ぐ。

 

「亡くなった((光綱|みつつな))の兄上が、こう申していました。その話を語り継ぐことで、ご先祖様は生きているのと同じではないかと」

「…では、斎藤家も語り継がれるのですか?」

「そうかもしれませんね」

「土岐家も…?」

 

 母は「それはあなたがするのです」と櫛を置くと、「生き残った女が、語り継ぐかもしれませんよ」と娘の髪をそっと撫でた。

 帰蝶は土岐家に嫁いだが、夫頼純は父の敵となったため、毒殺された。表向きは病死。帰蝶は実家に帰された。

 

 その後、父の意向によって織田家に((再嫁|さいか))した。次の相手は織田信長。

 それを見届けるように小見の方は亡くなり、斎藤家を語り継ぐことはなかった。

 

 語り継がれる。人はそうやって、神のごとき長い命を得るのだとすれば。

 

 ああ母上と、帰蝶は心の内で語りかける。

 私と十兵衛、明智の血を継ぐ者が二人もいた夫信長は、おそらく末世まで長く語り継がれましょう。

 

 ですが母上。ただでさえ手に負えぬ暴れ馬となりつつあるのに、語られることで、さらに夫はゆがむのではないでしょうか。

 明智の者を通してとはいえ、山の神からの恵みを受けるには、夫の心は幼すぎる。

 少しでも恵みを減らすには、離れるしかない。

 

 そうです。安土を離れましょう。それでなにか変わるのであれば??。

 

 帰蝶は疲れた顔で決断を下すと、すぐに行動を始めた。

 

END

 

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   鬼のような子

 

 明智((光綱|みつつな))の嫡男十兵衛は、少々厄介だった。

 一度やりたいと思えば、降りられないと分かっていても木に登ってしまう。

 感情をすぐ表に出すので、嫌なときははっきり分かるし、よく泣く。

 思っていることも遠慮なく口に出す。むしろ出し過ぎる。

 

 生母の牧から見て、息子はあまりにも素直で、それが逆に手のかかる部分でもあった。それは夫にとっても同じ。

 

 しかし、知識の集積と結びつける速さは群を抜いていた。一度興味を持てば笑顔でずっと観察し、難しい書物もどんどん読んだ。

 

 夫はこの世のことがまだよく分かっていない幼子に、早くから生き方の指針を与えた。馬のように誇り高く生きよと。

 そうすることで、自分たちがいる世界の軸を息子に与えようとしたものの、夫は病死。

 

 牧は女手一つで十兵衛を育てることになったが、光綱の弟の((光安|みつやす))がよく助けてくれた。兄の遺言だという。

 

 十兵衛は成長してくると、当然人との会話の仕方を覚えた。そこで少し困ったことが起こった。同年代の子供たちより知識があるため、相手を正論で追い詰め、言葉で叩き潰してしまうのだ。

 正しく強い言葉は、人を殺しかねない。明らかに厄介な成長だったが、物の道理や仕組みが分かると、素直に言うことを聞いた。おとなしくなった。

 

 この子にはこの子の論理があると分かると、周囲は根気強く付き合い、筋道を立てて教えた。

 こういう時は黙るように。そういう時は言い方を選ぶように。そうすると事が無事に運び、相手が怒らないからと、一つずつ丁寧に。

 

 幸いだったのは光綱の妹、((小見|おみ))の((方|かた))の夫である美濃守護代の斎藤((利政|としまさ))が十兵衛の利発さを気に入り、相手をしてくれたこと。図らずも、師のような存在になってくれた。

 

 この子はこういう性格だと分かると、周囲もおのずと十兵衛の言動に対処できるようになった。

 明智荘の農民であり、戦となれば兵となって戦う藤田((伝吾|でんご))は、十兵衛をよく補佐してくれた。

 

 そのお陰か、自然と仲間も増えた。彼らとともに人間関係の対処方法を多く学び、いわゆる人間らしい人間になった。

 明智荘の者たちは、十兵衛様、十兵衛様と将来の領主をいつくしんだ。

 

 その子は今や織田家の重臣となり、城持ち大名になった。その活躍ぶりは、京から遠く離れた明智荘にまで聞こえてくるほど。

 十兵衛は鬼子ではない。そこまで人とはかけ離れていないが、本来の気質はどこか、鬼のようなものに近い。

 

 そんな子が鬼として狩られませんようにと、牧はただ祈るのみであった。

 

END

 

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   生きづらい子

 

 庭の片隅で、明智家の幼い嫡男はにこやかに虫を観察していた。それを見ながら、((光綱|みつつな))は見舞いに来た弟の((光安|みつやす))に「十兵衛はよく見る子でな」と言う。

 

「鎧をいじりながら、楽しそうにずっと見ていたこともある」

「書物もよく読むとか」

「ああ。驚くほど聡い。聡すぎて、周りの子がついていけぬ」

 

 光安は甥がとても利発で、思っていることが顔に出過ぎる、ものを言い過ぎることは聞いていた。まだ幼子だから当然だろうと思っていたが、兄はなにを案じているのか。

 

「ある子が喋りたいことの答えを先に言うような、そういう頭の良さだ。それは、人の本性を見る力にも使えるようでな。どうにも危うい」

「…どこかの家の子と喧嘩でもしましたか」

「まだそこまで行ってないが……本性を率直な言葉で言われるのは、子供同士でも嫌だろうと思うてな」

 

 兄は言葉を濁したが、光安は察した。

 美濃長井家の家臣となった京の油売りは瞬く間に頭角を現し、のし上がった。その息子の長井((規秀|のりひで))に将来性を見出した父((光継|みつつぐ))は、娘を嫁がせた。

 今や規秀は美濃守護代斎藤((利政|としまさ))として権勢を振るい、娘は正室として寵愛を受けている。

 その正室の甥に堂々と喧嘩を売る子はいないだろうが、険悪になったことはあるのだろう。

 

「とにかく聡い子だ。根気強く教えれば、話は分かってくれるだろう。さすれば、人として生きていける。わしは、この世の規範を教えるだけで精一杯だった」

 

 光綱は息子に、京にいる足利将軍家の尊さを教えた。誇り高く生きよ、平らかな世を目指せ、家族を大事にせよと教え続けた。

 おおよそこの世の善と呼ばれるものを、暗示をかけるように。

 

「なにをおっしゃいます。兄上にはまだまだ生きてもらわねば」

 

 弟の言葉に、光綱は笑うことで答えとした。

 

「そなたは小さいころから、人の話を理解するのが早かった。だからそなたのほうが、十兵衛のことを分かるかもしれん」

「それは…」

「おそらく十兵衛は、正しい見立てで相手の息の根を止める。あれでは生きづらい」

 

 兄は息子のなにかが見えているが、うまく説明できない。

 光安も漠然としか分からないが、育て方を間違えれば非常に厄介になる。兄はそう言いたいのだと察した。

 

「あの子を牧一人で育てるのは大変だろうから、頼むぞ」

 

 これは別れの言葉。頭では分かっているが、心情的には受け入れがたい。それでも光安は努めて笑顔を作ると、「はい」と答えた。

 光綱の容体が急変して亡くなるのは、それから数日後のことである。

 

END

 

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   美しいものは死んでいく

 

 足利義輝が亡くなった話は、京から遠い鹿島の地まで届いた。もちろん、郷里で静かに余生を送る剣豪、塚原((卜伝|ぼくでん))の耳にも入った。

 義輝の最期の話は、人によって変わった。((三好|みよし))三人衆の兵たちに襲われる中、足利家が持つ名刀を次々と使った、薙刀を奪って戦った等々、話は尽きない。

 いずれにしろ共通するのは、武家の総領たる将軍という地位に偽りなく、剣が強かったということ。

 

 武士の子であるなら、剣を学ぶのは当然。足利将軍家の嫡男であれば、当代一の使い手から学ぶのはなおさら。そこで白羽の矢が立ったのが、鹿島の太刀の卜伝だった。

 最初から義輝には((天賦|てんぷ))の才があり、なにより動きが美しかった。鍛えれば鍛えるほど美しさは増した。

 それは強くなった証しでもあるが、同時に俗世から離れていくことも意味する。いわば仙人。

 

 まさしく仙人のような、剣だけに生きる道を選ぶことができたら良かったが、その身に流れる足利の血が、そうはさせなかった。

 義輝には、将軍として直接統治をおこないたいという悲願があった。言い換えるならば執着。

 将軍であるはずの義輝に実権はなく、権力は有力な家臣たちが奪い合っていた。そんな彼にとって、唯一の心の拠り所は剣。武士にとって強さの証し。

 

 だからこそ、三好((長慶|ながよし))は危機感をいだいたのだろうと卜伝は思った。義輝の剣の稽古姿を、彼も一度は目にしたはず。

 剣を極めた無駄のない動きは美しい。圧倒的な強さは美しいがゆえに、人を魅了する。

 美しさとはすなわち武器。それを周囲に見せびらかすか、他者に影響しないよう閉じ込めるか。

 

 長い闘争の末に和睦がなり、五年ぶりに義輝が帰京した際、長慶は若き将軍を人形として館の奥に飾った。畿内の実質的支配者として、権威を利用することを選択した。

 

 遅かれ早かれ、その強さゆえ、美しさゆえに、義輝は死んだのだ。

 傾国の美女であれ剣の腕であれ、あまりにも美しいものは周囲が勝手に惑い、死を呼ぶ。美しいから死ぬのだ。

 

 おそらく剣の腕がさほど強くなければ、別の生き方があった。

 だが剣を学ばなければ、ここまで生きられなかったとも思う。

 

 そこまで理屈をこねたところで、要は多勢に無勢。義輝は数で負けたのだ。どれほど個人の腕が強くても、集団を打ち破るのはお伽話のようなもの。

 

 ただ、美しさの理屈が常人に通じるとは思わない。

 卜伝は周囲から義輝について聞かれても、「義輝様は強い御方でした」と無難な答えを返し、あとはのらりくらりとかわした。

 

END

 

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   人の形をしたあれ

 

 信長は幾人の女に手をつけ、子が生まれようと、真っ先に頼りにする女性は正室の帰蝶だった。なにかにつけ彼女に相談した。

 帰蝶は夫に代わり、武器の調達や雑兵の差配もおこなった。有能な裏方を手に入れた信長は、畿内の支配者となった。

 二人の間に子はなかったが、信長は帰蝶を嫡男信忠の養母にすることで、織田家での彼女の立場を強化した。

 

 これほどまでに大事にされていたのだが、帰蝶は美濃の鷺山に去ってしまった。

 それでも他人がよくここまで付き合ったものよと、安土で暮らす信長の生母の((土田|どた))((御前|ごぜん))は感心していた。

 

 信長が懐く女性は、そうはいない。赤子だったころの信長は、((乳母|めのと))の乳首を噛み破る癖があり、周囲は困り果てていた。

 だが池田((恒利|つねとし))の正室が乳母となってからは、ぴたりとやんだ。彼女にはよく懐いた。

 

 その赤子は成長するとあちこち動き回り、物をよく壊した。和歌の比喩を教えても一向に理解できない。一度褒めると同じことを繰り返し、褒めたほうが困り果てるほど。本当に育てづらい子だった。

 

 乳母となった女性は、夫の死後に出家すると((養徳院|ようとくいん))と号し、信秀はそんな彼女を側室にした。

 

 母から女へ。立場が変わったことで、御前は質問しやすくなったと思った。養徳院に、なぜ信長を受け入れられたのか聞いてみた。忌憚のない意見を聞かせよと。

 だいぶ困った様子だったが、養徳院は「おそらく……我が子ではないからでございます」と慎重に答えた。だからこそ、一歩引いてお世話することができたと。

 

「私は、求められるのが限られている乳母でございました。ずっと母として求められたら、どうだったか……」

 

 養徳院は最後に言葉を濁した。

 実子だからこそ、ここまで思い悩む。かすかな情にすがって惑う。嗚呼と御前は大きなため息をついた。

 

 そんな我が子を織田家当主という駒として見ることで、御前はようやく割り切れた。

 信勝は信長に殺された。自分が産んで育てた息子は死に絶えた。信長という『あれ』は、この腹を借りて人の形で生まれたなにか。

 

 だからせめて、『あれ』と同じにならぬようにと、『あれ』の血を引く孫たちの面倒をよく見た。

 家のために当主の子は必要。女たちの血が入っているなら、『あれ』の血は薄れる。少しはまともに育つはず。

 

 もし『あれ』のようであれば、今度こそ間違えない。速やかに処断すべきだと。

 

「おばば様!」

 

 孫たちに呼びかけられると御前は相好を崩し、「はいはい」と信長には向けない笑顔で出迎えた。

 

END

 

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   似合いの夫婦

 

 美濃守護だった夫の((土岐|とき))((頼純|よりずみ))が亡くなったことで、娘の帰蝶は斎藤家に帰ってきた。

 娘の((再嫁|さいか))の相手に、少しでも明智十兵衛の顔がちらつかなかったと言ったら、嘘になる。二人は従兄妹で幼馴染みなので、たがいの性格をよく知り、仲も悪くない。

 

 しかしそれは、帰蝶の生母が側室であればの話。帰蝶は美濃守護代の斎藤((利政|としまさ))と正室の娘として、もう一度しかるべき相手に嫁がなければならない。

 利政は、次の相手は尾張の織田信長と決めた。

 

「てっきり文句を言うかと思うたぞ」

 

 正室の((小見|おみ))の((方|かた))は、「なんのことでしょう」とのんびり答える。最近は病気がちだが、今日は体調がいいらしく、顔色も良い。

 夫が謀略と毒殺でのし上がっても、おびえることがなかった。おっとりした見た目とは逆に、肝が据わっていた。

 

「十兵衛は、まだ嫁取りをしておらぬであろう」

「わたくしは、殿のほうが帰蝶の次の相手は十兵衛だと、そう言い出すかと思うておりました」

 

 利政は「そうか?」と軽く驚いた表情で妻を見る。

 

「十兵衛をお気に入りのようですし」

「まあな。あれは面白い」

「だからてっきり、十兵衛で遊んでから、本命の方を選ぶものだとばかり」

「お前はわしをどう思うているのだ」

 

 小見の方はまろやかに笑うと、「二人は似合いの((夫婦|めおと))になれると思いましたよ」と本音をもらす。利政は視線をずらすと、「似合いの夫婦だからじゃ」と返した。

 

「おそらく堅実に美濃を守るであろう。だがそこで終わってしまう。帰蝶は((国盗|くにと))りができる。十兵衛は((光安|みつやす))のように頭が回る。堅実な日々が才覚を殺すのは、もったいなかろう」

 

 明智((光綱|みつつな))が病死したあと、嫡男の十兵衛はまだ幼かったので、弟の光安が家督を継いだ。いずれは甥に譲ると決めているし、公言もしている。

 光安は利政の言うことをすぐ理解する頭の早さがあるし、非情な手段も理解を示すが、根は家族思い。実直で裏表のない男だった。そこを利政は気に入っていた。

 

 光安の教えを受けた十兵衛は叔父のように聡く、家族思いで、だがけして物怖じしない子に育った。

 帰蝶は父親譲りの豪胆さ、押しの強さがあった。相手が年上でも身分が上でも、つねに堂々と振る舞った。

 

「まあ、残酷な方ですこと」

 

 娘と甥は、利政の目に適ったのだ。夫は個々のささやかな幸せより、若い才能が埋もれることを惜しんだ。

 小見の方は夫の肩に頭を預け、「そこが好ましいのですが」と付け足すように言う。利政は笑い声をもらしながら、病身の妻の肩を抱いた。

 

END

 

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   男の趣味が悪い女

 

 茶が((点|た))てられる音を聞きながら、帰蝶は庭に植えられている木を見た。

 少女時代の帰蝶は木登りが得意で、リスを捕ったこともある。降りるのが難しそうな木であれば、すぐ引き返した。

 

 その点、従兄で幼馴染みの明智十兵衛は、木登りが下手だった。それなのに木登りをしたがった。

 十兵衛はあの先をこの目で見たいのですと言って、高い所に登っては泣いた。降り方が分からないので、木から落ちても泣いた。

 

 そのうち降り方は学んだものの、そんな子が城持ち大名にまでよく出世したものよと思う。

 

 いつも帰蝶は器用に慎重に大胆に、何事も見極めた。だからこそ見込みなしと判断され、二番目の夫である織田信長が父に排除されないよう、よく助けた。

 最初の夫の((土岐|とき))((頼純|よりずみ))は、こちらの忠告を無視して父と敵対したので、毒殺されたのは致し方なしと判断した部分があるが。

 

 帰蝶の父は、蝮と呼ばれた斎藤((道三|どうさん))。長男の((義龍|よしたつ))を彼なりに目をかけて育てたが、結果的に敵を作り上げてしまった。

 数々の謀略を成功させてきた父は、最後の最後で情にほだされた。国を譲る相手を間違えた。義龍は邪魔な身内を粛正した。

 ((国盗|くにと))りの経緯が経緯だけに、義龍との戦で父に付く者は少なかった。数で負けると分かっていても、育てた責任を取って過ちを正そうとして、父は死んだ。

 

 帰蝶はよく、気性が父と似ていると言われた。信長に死を与えようとするのも、父に瓜二つ。

 

 信長は目標を与えて褒めれば、どこまでも高い木を登り続けるが、降り方を知らなかった。

 そんな信長を懸命に支えていたつもりが、彼は恐ろしいなにかに変わってしまった。父と同じように、どこかで間違えたのだ。

 

 帰蝶の目の前に茶が差し出される。この茶に毒を盛り、父は国盗りをした。手を汚すようで汚さない。茶を飲むのは相手の選択であり、運。

 降りるのが難しいと分かったら落ちて泣く子に、降り方を知らぬ子の行く末を託し、許す。そういうずるさも父譲り。

 

 自分のずるさはどこから来るのか。

 

 どれほど父と気性が同じと言われようと、ある日嫁ぎ先を決められ、行けと言われ、突然赤子を渡され養母になった。

 女であるがゆえに、男たちに人生を決められた恨みがないと言えば、嘘になる。

 

 しかし、その男たちを愛したのも事実。

 国盗りをやり遂げた父。高く遠い先を見続ける初恋の人。子供の無邪気さで駆ける夫。自分を置いていく男たちばかり。

 

 帰蝶は自分の男の趣味の悪さを苦い茶とともに飲み干すと、ほうと一息ついた。

 

END

 

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   分からない人

 

 毛利攻めをしている羽柴秀吉が援軍が欲しいと催促してきたので、すぐに支援せよ。徳川家康をもてなす饗応は、((丹羽|にわ))長秀に任せよ。

 信長はそう命じたが、明智光秀は断った。自分が差配し、家康とも約束した饗応なので最後までやりたいと。

 家康を優先したことにいら立った信長は、宴席でやり返そうと思って一旦引いた。どうも最近、光秀がこちらの望みを聞いてくれない。

 

 そもそも、魚を獲ったことを生母の((土田|どた))((御前|ごぜん))に褒められたので繰り返したら、そのうち嫌がられた。

 父信秀は生母より気にかけてくれたが、裏切り者の噂を聞きつけたので首を斬って持っていくと、まだその時ではないと説教された。

 いずれも良かれと思ってやったのに、信長には意味が分からなかった。

 

 帰蝶との婚姻は、父と彼女の父斎藤((道三|どうさん))との間で決まったが、帰蝶は美濃から来た天の恵みだった。

 父が時折大嫌いになるという共通点があり、それで意気投合した。自分を笑顔で見て、慈しんでくれた。

 

 帰蝶がよく話題にした従兄の光秀は、実際に会うと賢く、まっすぐな態度で接してきた。彼は自分を気に入った道三が語ったという、大きな国を作れという夢を聞かせてくれた。そうすれば皆が褒めると。

 一度は家臣にと誘ったが、光秀は将軍足利義昭を選んだ。

 

 それでも大きな国を作るため、自分は織田家当主として、光秀は幕臣として、ともに駆け上がった。

 金ヶ崎の戦いでの大敗に落ち込んだが、生きている限り勝っていると言ってくれた。

 

 光秀が義昭を見限り、織田家に来たときは望外の喜びだった。自分を褒めて道を与え、生を肯定し、選んでくれた初めての存在。

 信勝との家督争いのときに信長を選んだ家臣たちは、元より織田家に従う手足同然の者たちなので、光秀とはまったく違う。

 

 そんな彼らの期待に応えて進んでいたのに、気づけば支配地域があちこちほころび、対応に追われている。

 帰蝶はいつからか疲れた顔で信長を見て、目をそらすことが多くなった。生母と違い、嫌われていないのは分かったが、美濃の鷺山に去ってしまった。

 

 光秀は((平|ひら))((蜘蛛|ぐも))の釜の件で最初は嘘をついたが、結局渡してくれた。まだ自分は選ばれている。

 諫言付きだったのは腹が立ったので、売ることをほのめかしてやり返したが。

 

 向こうの廊下では、光秀が饗応の主賓である家康を出迎え、談笑しながら歩いていた。

 

 以前は自分もあんなふうに光秀とよく話したのに、なぜ今は少し難しいのか。

 何度考えても、信長には分からなかった。

 

END

 

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   後書き

 

花の精のごとく:39回視聴後に書いた明智夫婦の小話。((熙子|ひろこ))がなにかの妖精に見えて、光秀とは異類婚姻譚っぽい雰囲気だったので。

 

室町の((気|き))なる御方:39回視聴後に書いた明智姉妹の小話。姉妹であの人から生け花の教えを受けたのではという思いつきから。タイトルの『気』は古語で『空気』『大気』を意味するそうです。

 

小さき波の鼓:40回視聴後に書いた明智夫婦の小話。((遺爪|いそう))を入れた容器は副音声で「紅入れのような小さな容器」と言われていたので、ならば熙子の物で熙子との思い出があるのではという思いつきから。追記。大津市の光秀大博覧会で展示された撮影使用品の解説で((香盒|こうごう))と分かりましたが、そのままにしておきます。

 

我を見る者:40回視聴後に書いた織田夫婦の小話。安土城の大広間で視線をそらす信長と帰蝶、相手をまっすぐ見続ける光秀が印象的だったので。

 

それでもあなたのそばに:41回視聴後に書いた羽柴(豊臣)夫婦の小話。天下人になった秀吉は老いてから、今までの自分の悪行を光秀の幻に笑顔で理路整然と詰められて、毎夜のたうち回っていそうという思いつきから。

 

槍の一突きのごとき語り:41回視聴後に書いた秀吉の小話。過去に帰蝶から光秀の能力について教えられていたのではという思いつきから。

 

あなたとの干し柿:42回視聴後に書いた徳川夫婦の小話。きりくる時空での家康と築山は、夫婦仲がいいかというと微妙だけど、でも冷え切ってはいなさそうなイメージです。

 

奪うのは白きもの:42回視聴後に書いた信長の小話。書いてから気づいたんですが、きりくる秀吉の衣装の基調カラーって白なんですよね。

 

神のごとき長い命:42回視聴後に書いた帰蝶の小話。40回で帰蝶は安土から去りましたが、明智家は相手を栄えさせる代償に劇的な最期を迎えさせて、物語として永遠の命を与えるのかもと思って。

 

鬼のような子:42回視聴後に書いた牧の小話。41回での秀吉の追い詰め方が容赦なかったので、明智家はよく光秀を普通の人間に育てたなと思ってその1。

 

生きづらい子:42回視聴後に書いた明智兄弟の小話。41回での秀吉の追い詰め方が容赦なかったので、明智家はよく光秀を普通の人間に育てたなと思ってその2。

 

美しいものは死んでいく:42回視聴後に書いた((卜伝|ぼくでん))の小話。義昭の「しょせん京を美しう飾る人形でしかなかった」という台詞が印象的だったので。弟から見ても兄義輝は美しかったんだと思って。

 

人の形をしたあれ:43回視聴後に書いた((土田|どた))((御前|ごぜん))の小話。きりくる信長の悲劇の始まりは生母とそりが合わなかったことだと思うので、こうなると生まれたときから人生の難易度が高すぎる。

 

似合いの夫婦:43回視聴後に書いた斎藤夫婦の小話。帰蝶の再婚相手に、チラッとでも光秀が候補に挙がったのではという思いつきから。

 

男の趣味が悪い女:43回視聴後に書いた帰蝶の小話。光秀の背中の押し方が蝮の娘らしいなと思って。

 

分からない人:43回視聴後に書いた信長の小話。帰蝶と光秀は本当に特別なんだろうなと思って。

説明
ツイッターに投稿したきりくるの二次創作作品を加筆修正してまとめた掌編集です。明智夫婦、信長、帰蝶が2本ずつ。明智姉妹、織田夫婦、豊臣夫婦、秀吉、徳川夫婦、牧、明智兄弟、卜伝、土田御前、斎藤夫婦が1本ずつ。ネタバレと捏造だらけなのでお気をつけて。次作→http://www.tinami.com/view/1057511
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