ホームワークが終わらない
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幾重にも折り重なった蝉の声が耳鳴りのように反響している。時刻こそ未だ午前中ではあるが、高い太陽は既にじりじりと照り付け地上を苛めていた。程々に汗をかき勝手知ったるとばかりに道場へ上がり込んでみれば、汗ばんだ額と頭を抱えて不規則にシャープペンシルを揺らしながら眉間を深くする顔がある。芯の先はノートではなく空を切っていて、座卓に広げたノートの罫線には一文字すらも書かれていない。麦茶の注がれたグラスの傍らで無造作に積み上げられた問題集やテキストを見れば成程、夏休みの宿題か、と吐息した。

遅々として進まぬ他人の宿題など気にしてやる必要など無いのだが、わざわざ声を掛けて邪魔をする程意地が悪い訳でもない。開け放たれた障子戸の先を、廊下の柱に凭れて腕組みをしたまま黙って眺めていたなら、漸く自分を見つめる闖入者の視線に気付いた彼は顔を上げるなり素っ頓狂な声を出して仰け反った。

「うわあっ!?や、八神さん!?」

視線の先に立っていた深紅の髪の男に驚きシャープペンシルをノートの上に落とした真吾は、いきなり目の前に現れた師の宿敵こと八神庵に酷く狼狽えた。庵も勘付かれたのであればやむを得まいと溜息を吐くと、彼の戸惑いに構わず居間に上がる。遠慮もせずに対面へどっかり座ってじっと睨めば、真吾の顔には麦茶のグラスのようにどっと汗が噴き出した。何しに来たのかはわざわざ聞かなくても解る、本当にしつこい人だと内心呆れてはいるが面と向かって正直に言えば怒られそうで非常に怖い。真吾は一度は気を取り直して問題集に取り掛かってはみたものの、熱帯夜の湿度に似たしつこさの視線がこちらに注がれていることに五分も耐えていられずにペンを置いた。

「あの、あんまこっち見ないでくださいよ、集中できないんで」

「最初から集中などしていなかっただろう貴様」

集中というよりは呆けていて此方に気付かなかっただけと指摘されて、真吾は図星とばかりに頬を膨らませる。庵はわざとらしい溜息を吐くと、彼の手元からテキストを取り上げた。

「ちょ、ちょっと……返してください」

「これが解らずに手が止まっていたのか」

「考えてただけです!もう、邪魔しないでくださいッ」

慌てた真吾が取り返そうとして対面から身を乗り出してくるが、傾いたグラスから麦茶が零れそうになったのでそっちに気を取られてしまう。庵はまんまとテキストを手中に収めて捲り始めた。教科書ほど厚いものではなく、広げたページには簡素な英文が箇条書きで並んでおり時々長文の読解問題なんかが挟まれている。所々自分なりに解決しようと蛍光マーカーで印などしてあるが、助動詞の区切りを間違っていたり動詞を名詞と間違えていたりと要領を得ないものだから、何というかむず痒い。まあ、そもそも出題自体が『ここを間違え』と言っているのだから彼は『正しく間違えている』のだとも言える。何もかもがつくづく惜しい、庵はそんなことを考えて形式ばったつまらない英文を読み流した。

「八神さんってばあ」

「喧しい」

読んでいる間じゅう、グラス片手にピーピー鳴いていた真吾に、庵はページをさっき彼が開いていた通りにして突き返してやる。真吾は「もー」などと不服そうな声を上げ続けていたが、ひったくるように受け取ると再びそれとにらめっこを始めた。

真吾が静かになったので手持無沙汰になった庵は、今度はテキストの山の一番上から数学の問題集とノートを取り上げる。こちらもどうせ間違いだらけなのだろうと思ったら、意外にもノートの中には数式が彼らしく筆圧の高い元気な字でもって書かれており、問題も正しく解かれていたから少し驚いた。どうやら課題の範囲は全て終わっているようで、自己採点の赤丸も付いている。庵は数ページノートを捲り罫線をはみ出す数式をなぞって頬杖をついた。

「ほう、数学は得意か」

「得意ってわけじゃないですけど、数学の問題は公式覚えてれば解けるじゃないですか」

全くの独り言のつもりだったのだが、真吾が返事をくれたので庵も会話を続ける。

「英語も暗記だ、中学の教科書を記憶するくらいに読み込めば文法だの何だのは全部覚えられる」

「えぇ〜めっちゃ力技……八神さんそんなことしてたんスか?」

「さあな」

学生だった頃の話など全く覚えていない、授業や宿題など些末なことになれば更に忘却の彼方だ。それこそ彼の師はだらだらと高校生を続けていたのだから愚鈍な師にでも聞いてみればいいだろうと思う。

……しかし、何故今自分は夏休みの宿題に追われる高校生の相手などしてやっているのだろうか。庵ははたと我に返って真吾を視た。真吾も庵を視ていた、視線がぶつかり合うのは想定外で、かといって目を逸らすのも変だろうと思い庵はそのまま真吾を見つめてしまう。沈黙が続いた分だけ、外の蝉の声が大きくなる気がする。汗ばむ真吾の喉がごくりと動いたのを認めた庵は、その様子が酷く扇情的な気がしてしまいとうとう目を背ける。暑さにやられた所為だと云えば今は理由にもなる、庵は初めて夏を有難いと思った。

「あの」

「……何だ」

不自然に横を向いた庵を不審がることもなく、というか、平時から常に不審だと思っているので今更何が不審であるとかを気にすることもなく真吾は訝る物言いで声を掛ける。

「もしかして、草薙さんが帰ってくるまでここにいるつもりですか……?」

「いけないか」

「いけないですよ、帰ってくださいよ」

真吾は弱り果てた声で天井を仰ぐ。師匠と一悶着起こされるのも嫌だし、このまま宿題を邪魔されるのも嫌だ。家だと集中できないからとわざわざ道場に来たというのに、更に集中できなくなっているのでは意味が無い。しかし庵の様子からどうやら帰る気はないらしいと悟った真吾は、困ったぞ、とノートで顔を隠して暫し何かを考えこんでいるような呻き声を漏らす。尚も横目でこちらの様子を伺っている庵に気が付くと、真吾は意を決してノートをバンと卓上へ置き再び身を乗り出して庵に詰め寄った。

「じゃあ!……じゃあ、いいですけど別に、ここにいても!その代わり!!」

ぐ、と、また真吾の喉仏が引き攣るように動く。庵は先刻よりも近くなった真吾の顔や首筋を一度確かめるように見てから、無意識のうちに伸びていた手を慌てて納める。そんな自身の色気や庵の葛藤にはまるで気付かぬまま、真吾は彼の不埒な視線をテキストで塞いだ。

「英語の宿題、手伝ってください!!」

自分でも何を言っているのだろうとは思う。まさかあの八神庵に宿題を手伝えと言う日が来るとは思わなかった。しかし居座られるのならこちらの得になることだってして貰わねば困る、いつまでもやられっぱなしではないのだ。ささやかな抵抗が宿題というのも格好が付かないが、それはそれだ。暫しの間を置いて、案の定庵は目の前のか弱い仔犬が何と助けを求めていると可笑しげに口角を上げて肩を揺らした。

「ハ、家庭教師代は京の命だとでも宣うか」

「そんなこと言ってないですけど!?」

「なら、対価に何を寄越す?まさかタダでやらせるつもりじゃあないだろうな」

意外にも庵は断らなかった。強い言葉を使ってはいるが、要するに報酬さえあれば宿題を手伝うと言っている。言い出したのは自分の癖に、真吾はちょっと信じられなくてぽかんと口を開けたままで庵を見ていた。段々と居た堪れなくなってきた庵は、「早くしろ」と真吾の返答を急かして誤魔化す。ひ、と小さく呻いた真吾は、今の自分が彼に与えられるものを精一杯知恵を振り絞って考えて、それから至極真面目な顔をして庵に伝えた。

「……アイス、とか」

「馬鹿にしているのか?」

ここに来る前、自分へのご褒美として買ったアイスがちょうど二個入っている。こうなったら一つはくれてやる、と真吾は断腸の思いでもって庵にそれを差し出す覚悟を決めた。一方、一体何を差し出してくるのかと思えば、力の抜けてしまった庵は「いらん」と一言告げると今度は彼のノートを奪いシャープペンシルまでもを取り上げると、綺麗な筆記体でもって何かを書き始めた。そして、再度真吾に突き返す。

「この英文を訳して、助動詞に線を引いて説明してみせろ」

「えーっ、それ宿題関係あります?」

「これが解れば今貴様が手詰まりになっている問題も説明できる、つべこべ言わずにやれ」

「わ、わかりました……」

こえぇ……と小声でごちてノートに向かう高校生のつむじを眺めながら、庵は予想外に乾いていた喉にすっかり温くなっていた麦茶を流し込んだ。

説明
G庵真、真吾くんの宿題を八神さんが手伝う羽目になる話。
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