君のいる日々 5
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 寒い夜だった。談話室はよく暖められていたが、窓際にいると、恐ろしいほどの寒さがガラス窓を伝って忍び込んでくるのが分かった。こんな日に好んで窓際に座る人は少ない。しかし、犀星は窓際の席が好きだった。凍えるほど寒い夜に、ほんの少しだけ外の寒さを感じながら、暖められた美しい部屋の中で本を読む。それは間違いなく幸福なことだった。だから犀星は今日も窓際に座って、静かに本を読んでいた。

 

 どのくらいそうしていたのだろう、犀星はふと近くに人の気配を感じて、目を上げた。

「ここ、座ってもよろしい?」

 人懐っこい笑みを浮かべて立っていたのは織田だった。

「かまわないよ」

 犀星がそう答えると、織田は犀星の目の前のソファに座って、持ってきた雑誌をめくりはじめた。

 二人はしばらく無言で本を読んだ。やがて雑誌を読み終えたらしい織田がぱたん、と雑誌を机の上に置いても、犀星はまだ本を読んでいた。織田はただ沈黙して座っていた。やがて犀星は織田の存在すら忘れて本に没頭していった。

 

 本を読むうち、犀星は驚嘆すべき美しい一節を見つけた。彼はその一節を二度黙読したあと、声に出して読んでみようと思った。息を吸い、本から顔を上げて、――そこで織田と目が合った。織田はいつからか、ずっと犀星を眺めていたらしかった。織田は驚いたように目を見開いた後、照れ笑いを浮かべて目をそらした。

 それを見た瞬間、犀星はその驚嘆すべき一節のことをすっかり忘れてしまったのだった。

「織田君は何を読んでいたんだ?」

 犀星は静かに本を閉じながら聞いた。織田は雑誌の表紙を犀星に向けながら答えた。

「映画雑誌です。最近の映画っちゅうのはどんなもんやろうと思いまして」

「映画かあ。そう言えばこっちに来てから何かと忙しくて、まだ映画を見に行ってないな」

「ワシもやねん。先生、知ってはります? 今の映画はもう、フィルムやないんやって」

「フィルムじゃない? じゃあ、どうやって映写するんだ?」

「わしもよう分からんのやけど、デジタル映写っていう方法らしいです」

「へえ」

 犀星は興味を引かれた。

「それはやっぱり、映像の見え方も違うんだろうね」

「こないだ安吾が見に行ったらしいんですけど、映像もきれいで、特撮もワシらが生きてた頃とは桁違いにリアルで凄かったって言うてましたわ」

「ほう……」

「めっちゃ気になるから、ワシもそろそろ映画見に行ったろうと思って、最近の映画をリサーチしとったっちゅうわけです」

「なるほどね。俺も映画に行きたくなってきたな。織田君連れて行っておくれよ」

「え!!?」

 織田はのけぞらんばかりに驚いた。

「だって君、最近の映画をリサーチしていたんだろう。俺は今の映画が全然分からないから、織田君の決めた映画についていかせてほしいんだが」

「せやけど……」

「迷惑かな?」

 犀星に言われて、織田は困ったようだった。

「いや、迷惑なんてことはないですけど……どうしよ」

? 織田は慌てて持ってきた雑誌をめくりはじめた。

「安吾が見たヤツはなんか派手そうやったし、あんまり先生の好みには合わんかな。えっと、社会派のヤツとか? あ、なんかベストセラー小説を映画化したっちゅうのもあるみたいですけど興味あります?」

「織田君は何を見たかったんだ?」

「えっ」

 織田は言葉に詰まった。

「安吾が見たやつがちょっと気になってたんやけど……」

「じゃあ、それを見に行こうじゃないか」

「そやけど、先生。面白いかどうか分からへんで」

 織田が自信なさげに言うので、犀星はちょっと笑ってしまった。

「そりゃあそうだろう。君も俺もまだ見ていない映画なんだから、面白いかどうかは、行ってみなけりゃ分からないよ」

「そうですけど……」

「そこまで気にしなくていいよ。最近の映画がどんなものか、ちょっと偵察に行くだけなんだから」

 犀星がそう言っても、織田はまだいろいろと他の映画を探していたが、結局二人はその映画を見に行くことにした。

 

 出かける日、犀星は思いきって二重廻しを羽織ることにした。それは朔太郎と買い物に行った時、おだてられて買った羅紗の立派な外套だった。犀星は幼く見られるのが悩みだったので、せめて服装で貫禄を出したかったのだ。

「やりすぎかな……。似合わない気もするが」

 しかし、これを買うときに朔太郎が「今の犀星なら、大抵の服が似合うよ」と言ってくれたのを思い出して、そのまま着ていくことにした。

 

 待ち合わせ場所に行くと、織田は普段どおり、革ジャンを着ていた。

「先生、なんかいつもと違いますね」

 と織田に言われて、犀星は少しいたたまれない思いがした。

「せっかく町に出るからと思ったんだが……、しかし、ちょっと気合を入れすぎたな」

「そんなことないで! めちゃ、よう似合うとると思います……」

 そう言った後、織田は黙ってしまった。犀星は気恥ずかしくなって、織田の顔も見ずに行こうか、と言ってさっさと歩きだした。

 

 二人は駅前にある映画館へ行った。三階建ての白い建物は、中に入るとテラコッタタイルの床で趣があり、犀星は一目で気に入った。織田が面白がってポップコーンを買った。

 ホールを抜けて劇場の中に入ると、内装が一変した。固いじゅうたんが敷かれ、壁もちょっと変わった質感で、どうも音が反響しない作りになっているようだった。昔の映画館に比べて天井が低く、これも音を反響させない工夫だと思われた。

「昔は映画館というと、音が反響するものだったが……」

 高い天井の劇場を予想していた犀星は、思ったより圧迫感のある作りに戸惑った。

「なんだか、勝手が違うな……」

 思わず犀星はつぶやいた。

「ほんまに、なんかワシらが知ってる映画館とは違う感じがしますね。歌謡ショーや演芸もないようやし。ほら、先生! 座席も全然あの頃のと違う。めっちゃ座り心地ええで。よう寝られそうや」

 織田はそう言うと、長い脚を投げ出して、椅子に沈みこんだ。

「おいおい、寝に来たんじゃないんだから……。しかし本当に座り心地が良いな」

「あ、先生はじまるで!」

 織田が声を弾ませて言った。

 場内のあかりが少しずつ落とされて、スクリーンが暗くなる。やけに暗いな、と犀星は思った。フィルムの黒とは違う、それは本当の闇色だった。そして突然、視界いっぱいに光が満ちた。あざやかな色、はっきりとした発色、あきらかにフィルムとは違うスクリーンの映像に犀星は圧倒されていた。

 

 

「いやあ、すごかったですね!」

 映画を見終わった織田は興奮していた。

「どこまで本当の映像でどこから特撮なのか全然分からんかった! 話もなかなか面白かったし」

「ああ……」

 犀星も映画のストーリー自体は面白かったと思う。しかし、目まぐるしく変わる画面、激しく明滅する光を見ているうちにだんだん気分が悪くなり、映画の終盤頃から頭痛がして、それは映画館を出た今も続いているのだった。

「先生、もしかして気分悪いんですか?」

 織田に顔を覗き込まれて、犀星は苦笑した。

「……ちょっと頭が痛くてね」

「ほんなら、休憩していきましょう」

 そう言うと織田は近くにあった喫茶店に犀星を連れて行った。織田はメニューも見ずに珈琲を頼んだ。犀星はメニューをのろのろとめくった。何かを飲みたい、食べたいという欲が湧かないのだ。しかしメニューの片隅に「オレンジエード」と書いてあるのを見つけて、ふと頼んでみる気になった。

 

 飲み物が運ばれてくるまでの間、織田は煙草も吸わずに、じっと外の風景を眺めて黙っていた。さっきまであんなに興奮して、感想をまくし立てていたのに。でも、それが犀星にはありがたかった。いつもなら心浮きたつような会話でも、頭が痛くてはただ煩わしいものになってしまう。?

 やがて運ばれて来たオレンジエードはあざやかな色で、飲むとさっぱりした甘味があって、今の犀星にはぴったりの飲み物だった。

 

「たっちゃんこの小説にこのオレンジエードが出てくるのがあってね」

 しばらくして、犀星がおもむろに話しはじめると、織田は犀星の方を見た。

?「ああ、『顔』ですね」

 織田が即答したので、犀星は驚いた。

「やっぱりよく勉強しているな、君は」

「いや、そんなことないですけど……、堀くんの作品は好きですよ」

 織田は照れたように笑って、幾分早口になった。

「あれに出てくる詩人っていうのは、犀星先生のことですか」

「いや、あれは芥川だろう。……まあ、詩人としたのは多少俺のことも頭にあったんだろうが」

「そうかぁ」

 なぜか織田は残念そうだった。

「しかし、このオレンジエードっていうのはいいな。さわやかに甘くて。これに目を付けたたっちゃんこはさすがだな」

「色もきれいやもんなあ。オレンジっていうのがまたええな」

「そうだな」

 織田と話しているうちに、犀星は自分でも気分がよくなってきたのが分かった。頭痛はまだ残っていたが、無視できないほどではなかった。

「だいぶ楽になってきたよ。ありがとう」

 犀星がそう言うと、織田はホッとしたように息をついた。

「それはよかったです」

「本当に、俺が見ていたような映画とは全然違ったから、ちょっと体がびっくりしてしまったんだろうな」

「そうですね。もうちょっとおとなしそうなやつにしたらよかった」

? 織田がなんだか悔しそうに言ったので、犀星はおかしかった。でも笑ってしまってはきっと傷つけるだろうと思って、何食わぬ顔で、「そろそろ行くかい?」と言った。

「もう大丈夫ですか?」

 織田は心配そうだった。

「大丈夫だよ」

「しんどなったら、また遠慮せんと言ってくださいね」

 

 どこかに寄って晩飯を食べようか、と犀星は織田を誘ったが、きっぱり断られてしまった。

「先生。ちょっと気分がましになったからって、調子乗ったら痛い目見ますよ」

 その言葉が、なんだか犀星にはくすぐったかった。犀星はそうだな、と聞き分けよくうなずき、図書館への道を歩いた。

 

 織田は、犀星をいたわるように、ゆっくりと歩いた。西に沈みかけた太陽が、最後に強烈な光線を放って、それが左から犀星の顔を刺した。

「まぶしいな」

 と言いながら犀星が織田の方を見ると、太陽に照らされた彼の横顔が金色に光ってみえた。それは美しい顔だった。雄々しくもみえたし、はかなげにも見えた。

「えっ、ワシの顔、なんかついてます?」

 犀星にじっと見入られて、織田は戸惑った。

「いや。ただ、詩想が湧いてきてね」

「えっワシの顔見て?」

「そう、君の顔を見て」

 織田は「そ、そりゃ、ワシは美男子やからな」と言って茶化したが、手が落ち着かなげに、自分の上着の裾を握りしめていた。

 

 言葉少なに歩く帰り道は、犀星の心を幸福で満たした。頭痛のことをすっかり忘れてしまうほどだった。図書館に帰り着いて、自分の部屋に戻っても、まだ犀星の心の中には幸福が満ち溢れていた。

 犀星は原稿用紙を取り出して、机に向かった。さっきの気持ちを忘れないうちに、早く形にしてしまわなければならない。犀星はひたすら書いた。書けば書くほど思いが溢れた。ここまでの情熱をもって詩を書いたことは最近なかったように思う。何枚か原稿を埋め終わった頃には、犀星ははっきりと自覚していた。

 

 

 これらは愛の詩である。俺はいま、恋に焦がれる男の詩を書いていると。

説明
 これは続き物ですが、ここからでも読めます。
 ついに来たデート回です。文アル世界にデジタルってあるんだろうか?? て思いながら映画をデジタル映写にしてしまいましたが、フィルム映写な気もしないではない。
 まだ付き合ってない二人のデートだから初々しくしようと思ったのは確かなのですが、なんか高校生カップルみたいになってしまった…??? おかしい……。
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