『鉄鎖のメデューサ』(第22章〜第33章)
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<第22章>

 

 体を固く締め上げる網目との格闘に、小柄な妖魔が疲れ果てて身を休めていると、鍵が開く音がして扉が細く開いた。うつ伏せの姿勢ながら触手の眼点は扉の様子も見て取ったが、開けた者の姿は扉の陰に隠れて見えなかった。

 瞬間、投げつけられた短刀が床に突き刺さり、結わえられた網の綱が数本切れた。体への締めつけが僅かに緩んだとき、開いた扉の隙間から遠ざかった足音はもう聞こえなくなっていた。

 締めつけが緩んだおかげで、触手を動かす余地が生じていた。小柄な妖魔は眼点のある触手で網目の絡まった部分を確かめながら、長い触手の先を絡まりの中に滑り込ませ解きほぐし始めた。緩みが大きくなるにつれさらに多くの絡まりを処理できるようになり、やがて妖魔は網から抜け出した。

 

 扉から覗いた先は左右に伸びた廊下だった。人影は見えなかったが、鋭い聴覚がどこか右の方から微かに聞こえてくる話し声を捉えた。片方は妖魔にも定かに聞き取れなかったが、やや大きく聞こえるほうは知らない男の声だった。そちらは危険と判断した妖魔は廊下を左へと進んだ。

 廊下の中央に階段があった。階下に降りると両側に同じような扉が並ぶ廊下がやはり左右に伸びていた。どちらに進むか迷った妖魔の耳に奇妙な響きが聞こえてきた。単調な、だが哀しい響きだった。妖魔はたちまち心を奪われ、聞こえてくる方へと歩みを進めた。

 響きは廊下を中ほどまで進んだ場所にある、細く開いた扉から漏れていた。小柄な妖魔は扉の陰からそっと中を窺った。車輪のついた椅子に一人の少女が掛けていて、首から紐でぶら下げた棒のようなものをくわえていた。哀しい響きはその棒から聞こえていた。

 椅子に腰掛けているものの、背丈はロビンより少し高いように見えた。だがひどくやせているため、縮んだような印象だった。かるく目を閉じた顔は骨に皮を貼りつけたよう。手足は枯れ枝と見まがうほど細く、しかも動かすことさえできないらしかった。顔には深い憂いの翳りが落ちていた。

 その姿と響きの印象が一つに重なった。引き寄せられるように妖魔は部屋の中に入った。

 

 大きい人間にさらわれてきたに違いないと妖魔は思った。長く閉じ込められたせいで、こんなにやつれてしまったのだ。だからあんな悲しい音をたてていたのだと思った。やはり閉じ込められていた自らの記憶がよみがえり、妖魔は低い喉声を漏らした。

 相手が目を開けた。黒い目が驚きに見開かれ、口から離れた棒が胸元で揺れた。

「な、何?」

 脅えた顔の下の胴が、車椅子の上で僅かによじれた。

「ナニ? ナマエ、ナニ?」

「……しゃべれるの? あなた」

 さらなる驚きに返された視線が、妖魔の顔の下で止まった。

「鎖をつけているの? お父様があなたを連れてきたの?」

 妖魔は首を傾げて相手を見た。いっていることはよく分からなかったが、落ち着きを取り戻しつつある様子だった。

「そうなのね、言葉を話せるから連れてこられたのね。お父様が私を元気づけようとして……」

 黒い目が、小柄な妖魔の顔をまっすぐ見つめた。

「私の名前はセシリア。あなたにも名前はあるの?」

「せしりあ? くるる……」

「クルル? そう。あなたはクルルというの……」

 生ける髑髏のごとき無惨な顔の翳りが薄れ、瞳が柔らかな光を帯びた。

「クルル、お父様は私をとても大事にして下さるの。時々それで無茶もなさるのよ。

 遠くから連れてこられたんでしょう? 私のために。ごめんなさい。でも、友達になってくれれば嬉しいわ。

 私がそのうちいなくなったら、もとの所へ帰してもらいましょうね。お父様にはちゃんと頼んでおくから許してね……」

 

 分からない言葉もたくさんあった。それでも自分が故郷に帰ることを望んでくれているのは分かった。

 しかしなによりその声の、その瞳のやるせないまでの優しさが妖魔の魂を引きつけ、そして切なく苛んだ。小柄な妖魔は少女に歩み寄るとその前に屈み込み、短い腕でその膝に触れた。硬い、こわばった感触だった。

 金色の縦長の瞳で黒い瞳を見上げた。触手の束をそうっと細い両腕に巻きつけたが、その腕もやはりこわばっていた。

 緑の鱗に覆われた胸の奥からせり上がってきたひどく物悲しい気持ちが、低い、長く震える喉声となって尾を引いた。

 

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<第23章>

 

「あそこへ登るの?」

 二階の窓へ枝を差し伸べている大木を見上げ、ロビンは唖然とした。

「ゴーレムはあの窓から網に絡めた二人を押し込めたでありますよ。君に登ってもらえないと困るです」

 アンソニーに言われてロビンは大木の幹に取りついたが、腕も回りきらぬ幹に身を押し上げることはできなかった。

「仕方ないですな。背につかまるですよ」

 背中にロビンをしがみつかせたまま、アンソニーは猿のごとく目指す大枝へと登りきった。

「すごいや、おじさん!」

「おじさんは余計でありますよ」

 いくぶん憮然とした声で返しつつも、アンソニーは部屋の中を窺った。

「いない? 網だけ残ってるようですな……」

 格子窓を押し開け二人は部屋の中に入った。破れた網のそばに短刀が斜めに突き立っていた。開いたままの戸口から投げられたのは明らかだった。

「クルルどこいっちゃったんだろう?」

「どうもわざと網から出して邸内に放したみたいですな……」

「なぜ、そんなことを?」

 首を傾げたまま、アンソニーは辺りの気配を探った。

「静か過ぎますな。まるで使用人が全員いなくなったみたいな。我々とメデューサがドタバタを演じるのを期待したってところですかな」

「罠なの?」

「たぶん。仲間たちに戸口の傍で張ってもらうよう頼んでくるでありますよ。ここでちょっと待ってるですよっ」

 アンソニーは窓の外の枝を伝って木の傍の仲間たちのところへ降りると、言葉を交わしてまた部屋に戻ってきた。そのとたん、どこかで扉を閉める大きな音と叫び声が聞こえてきた。

「ノースグリーン!」

「ラルダさんの声だ!」

 ロビンが思わず声に出したとたん廊下を足早にやってくる足音がした。アンソニーは細く開いたままの扉を素早く、だがそっと閉め、ロビンともども棚の陰に身を潜めた。足音は部屋の前を通り過ぎ、やがて階下に下りるらしい音がした。

「連れの方は閉じ込められたみたいですな。まずそっちから片付けるでありますよ」

 アンソニーの言葉に、ロビンは頷いた。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 閉じ込められたラルダは出られないかと思い窓を開けた。だが窓の下の壁には足掛かりがなく、木の枝も離れていた。下は固い石畳になっており、飛び降りるのは論外だった。

 焦って周囲を見回す黒髪の尼僧の目が、彼方の道から近づいてくるいくつもの明かりを捉えた。そのうちのいくつかは明らかに馬に乗る者の速さだった。

「まさか、警備隊かっ?」

 そのとき鍵がこじ開けられる音がした。振り返ったラルダの目の前で扉が開き、ロビンと見知らぬ若者が入ってきた。

「ロビン!」

「ラルダさん! クルルは?」

「わからない。別々に閉じ込められていたんだ。その人は?」

 ロビンは胸をそらした。

「スノーレンジャーだよっ。クルルを助けてくれるんだ!」

「そうか、なら急がねば。警備隊がやってくるようだ」

「なんですと?」

 アンソニーは窓から外を見た。

「間違いない、仲間に知らせるであります。外から扉を開けますから玄関へ急ぐでありますよ!」

 三人は廊下に走り出た。アンソニーは最初の部屋から木を伝い下りていった。

「いこう!」

 ラルダとロビンが階段を目指したとたん、叫び声がした!

「セシリアーっ!」

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 突然の大声に小柄な妖魔は振り返った。戸口を覆わんばかりに背の高い男が目をぎらつかせて立っていた。

「お父様?」

「セシリアから離れろ、化け物め!」

 男は暖炉に駆け寄るや、取り上げた火掻き棒を振り上げ妖魔をねめつけた。

 化け物といった、襲う気だ!

 動けぬ少女を背にした小柄な妖魔の中に怒気が膨れ上がるや触手がざあっと八方に広がり、大きな相手を睨みつけたせいで背が反りかえった。首の毛の白と腹鱗の赤を見せつけ強敵を威嚇する妖魔の目に石化の魔力が漲った!

 

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<第24章>

 

「やめて! お父様っ。クルルも! その人はお父様よっ」

 叫ぶセシリアにノースグリーン卿が視線を移した。小柄な妖魔もまばたきした。大きな人間から金色の目を離さないながらも、眼点のある触手がいっせいに背後の少女をうかがった。

「お父様がその子を連れてきたんでしょう? だったらなぜ脅かすの! せっかく友達になってくれたのに」

 予想もしなかった言葉に、卿は目を剥いた。

「友達だと?」

「名前を呼んでくれたのよ。寄り添ってくれていたのよ。なのになぜ乱暴するの? そのうえ化け物だなんてっ」

 涙目でいい募る娘の言葉に長身のナイトはうろたえ、火掻き棒を取り落としたことにも気づかず頭を抱えた。そんな卿の姿に、小柄な妖魔が再びまばたきし、広がった触手もしだいに下がっていった。

「……そんな、私はおまえの病気を治したくて」

「私の病気を? どういうことなの! お父様」

 そのとき、開いたままの戸口から駆け込んできた少年が、卿の脇をすり抜けて緑の鱗に包まれた小さな怪物に駆け寄った。

「クルル!」「ろびん!」

 少年は胸に跳び込んだ妖魔を抱きしめ、妖魔は短かすぎる腕の代わりに触手の束を滑らせ喉を鳴らした。眼前で繰り広げられる小さな人間とメデューサの姿にノースグリーン卿は呆然自失するばかりだった。

 そんな自分の脇を通り抜けて娘に歩み寄る黒髪の尼僧の姿に、ようやく卿は我に返った。

「さては、さてはあなたがメデューサを逃がしたのかっ」

「私は今出してもらったばかりだ。邸内の何者かの仕業だろう。お嬢さん、失礼」

 肩越しに答えながら、ラルダはセシリアの前に立つと手慣れた手つきでまぶたの裏と口の中を改めた。ノースグリーン卿を振り返った顔は険しく、だが決意に満ちていた。

「ハイカブトだ、間違いない。メデューサの血は役にたたない。猛毒を扱う者は解毒の備えもするものだ。いったん脱出するが、必ずお嬢さんを助けに戻る」

「……バカな、そんなことが信じられるか!」

「いい争う暇はないんだ。警備隊が近づいている。メデューサがいるところに踏み込まれたら動かぬ証拠だ。それではお嬢さんを助けることなど到底できない。今は無理にでも信じてくれ!」

 正門前に集まってきた蹄の音に長身のナイトは唇を噛んだ。

「裏に馬を引いたですよ、早く!」

 廊下からアンソニーが急かした。

「ノースグリーン。いくら尋問されてもメデューサがいたことは認めるな! おそらくあなたを罪人にするのが敵の狙いだ」

 人間とメデューサの子供たちを先に廊下へ押しやる黒髪の尼僧の緑の瞳が、卿の黒い瞳をまっすぐ見上げた。いい返そうとした卿の耳に、舌足らずな声が聞こえた。

「せしりあ……」

 小さな怪物がセシリアを見ていた。石化の魔力を秘めた視線をたどるように、少年も痩せ衰えた少女を見つめていた。彼らの悲しそうなまなざしの先で、やつれた少女はただ涙を流していた。動かぬ手では拭うこともできぬまま、泣き声を漏らさぬよう結ぶ唇ふるわせるその姿に、娘が真相を察したのだと父は悟った。

 セシリアを悲しませたのか? 私は

 ただ守りたかったはずだったのに?

 その思いに打ちのめされたノースグリーン卿の耳に、去りゆく者たちの足音がこだまを引いた。

 

 

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 邸宅から出てきた一行の姿を、屋根の上から見張る者がいた。召使の身なりをしていたが、気配を殺して屋根に伏せたその姿はただ者のはずがないものだった。

「……早すぎる」

 待機していたスノーレンジャーたちの助けを借りて一行が塀の向こうに姿を消したのを見届けると、男もまた屋根から木を伝い追跡を始めた。

 

 

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「……あの女の人、メデューサの血とかいっていたでしょう? まさか、あの子を殺すために連れてきたの?」

 答えられずにいる父親に、やつれ果てた娘は訴えた。

「そんなのいや! お父様はそんなひどい事しないって、嘘だといって!」

「……あれは化け物なんだ」

「化け物なんかじゃない! やさしい友達よ」

「私を石にしようとしたんだぞ! 危険で恐ろしい怪物なんだ。殺してなにが悪い!」

 耐えきれずに声を荒げたノースグリーン卿の言葉にセシリアは俯いた。ややあって、か細い、震える声がいった。

「……あの子を殺してまで、もう生きていなくていい」

「バカをいうなあっ!!」

 ついに卿は絶叫した!

「あれをつかまえるのに皆がどれだけ苦労したと思う? みんなおまえを救うためなんだぞ! なにがなんでも死なせるものか、絶対に助けてみせる! そのためならばメデューサの血だろうがなんだろうが」

「なるほど、それであなたはあれをスノーフィールドに持ち込んだのか」

 突然聞こえた若い男の声に長身のナイトは色を失った。背後にゆっくりと向けられた凍りついた顔を、青い目が見据えた。

「詳しい話をうかがおう、ノースグリーン卿」

 ロッド・ホワイトクリフ卿がいった。

 

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<第25章>

 

「誰か追ってくるでありますよ!」「どこだ?」

 アンソニーの言葉に、振り返らないままアーサーが訊ねた。

「屋根を伝っているであります」

「ただ者ではないな。様子はわかるか?」

「気配は一人、どうするでありますか?」

 アンソニーの後ろに乗ったラルダが話に割り込んだ。

「気づいてないふりをしながら物陰のない所で打ち合わせよう。敵の名前も顔も掴めてない以上、相手からの接触はありがたい。警備隊に踏み込まれない程度には隠れ家を移る必要も出るだろうが」

 

「捕まっていた間、なにか分かったことは?」

 ロビンを前に乗せたリチャードが、誰ひとりいない夜の広場の中央に馬を停めつつ声をひそめた。

「ジョージ・グレイヒースという警備隊員はいるか? 顔までははっきりしないが年配の凄腕だ」

「手掛けた事件はサポートに徹し、全てを解決させていますわ。目立つところに出ませんけど上の覚えは絶大ですわよ」

 アーサーの背後からメアリが答えた。

「ノースグリーン家に入った者たちも、時間をかけて信頼を勝ち取りつつ数を増やし、時が至るのを待って仕掛けた。同じ方法でこの街も手中にすべくノースグリーンを除くつもりだろう」

「だったら卿に毒を盛った方が早くないか?」

 クルルを前に乗せたエリックがいった。小柄な妖魔を不安がらせないようロビンを乗せたリチャードと並んで停めていた。

「それだと定められた順位の者がくり上がるだけだ。彼を罪人にした上で解決にあたり功績を示せば警備隊の中で力も伸ばせる。一石二鳥を狙ったんだろう」

「確かに近年、中原の出身者が重用されるケースが多くなったと思ってはいたが、どこかの国の間者かもしれぬとは……」

「出身地を手掛かりに洗い出すしかなさそうですわね」

「最初にメデューサの話をノースグリーンに吹き込んだ召使と、それに呼応して診断を出した医者。まずここから手をつけるべきだろうな」

「でもノースグリーン卿がもし自白してしまえば、誰が間者かもたちまちバレるだろうに」

 最後のエリックの言葉に、ラルダはかぶりをふった。

 

「動かぬ証拠が出ない限り、彼は誰の名前も出さずに一人で罪を負うだろう。奴らはわざわざ危険な方法だとことわって、もしも捕まれば追放だからと反対までしてみせてノースグリーン自身の意志で選ばせるように仕向けたんだ。たとえ娘を救えなくても、反対を押しきって協力させた相手への感謝を彼は絶対忘れない。あのジョージという男は、ノースグリーンの人格を十分把握してつけ込んでいる」

「着実は確かに着実だが、まあ手間のかかるやり方だな。奴らの主はよほど若いのか? 年寄りではとても待てんだろうに」

「出身地を洗い領主が年寄りでなければ、まず間違いないことになるでありますか?」

「だが、それだけでは弱い。やはり証拠を掴むしかないか」

「容疑者を自白させるか、そのハイカブトとやらを押収するかのどちらかですわね」

「そうだ、特に解毒作用のある灰色の花はなんとしても入手しないと!」

 

 打ち合わせを終えた一行は隠れ家の廃屋に移り、追跡してきた相手をアンソニーは物陰から探った。やがて引き返していくのを見た彼はアーサーに相手の様子を伝えると逆に追跡していった。廃屋に戻ったアーサーは仲間たちに告げた。

「やはり召使の一人らしい。メアリは本部に戻り隊員の出身地を突き合わせてくれ。問題の医者は俺が探す。リチャードとエリックはロビンたちをここで守りつつ偵察にくる奴を捕まえてくれ。もし警備隊が動いた場合は決めた順番に隠れ家を移動だ!」

 

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<第26章>

 

「あなたも強情な人だな、ノースグリーン卿」

 取り調べ室と化した客間で尋問を続けるホワイトクリフ卿の声には、いまや疲労さえにじんでいた。

「単独でこんなことができるはずがないぐらい、子供でも分かる理屈ではないか。観念して共謀者は誰か答えられよ!」

「あくまで私の意志でしたことだ。娘の命を救うために尽力してくれた人に迷惑はかけられん」

「心意気は立派というほかないが、それではすべての罪を一人でかぶることになるぞ」

「責任は私にあるのだ。私が罰せられるのは当然だ。だが」

「またその話か……」

 ホワイトクリフ卿の端正な顔に苦い表情が浮かんだ。

「正直あなたがここまで無茶な人だとは思わなかった。この期に及びまだメデューサを捕まえて戻るからいかせてくれといい張るとは」

「……セシリアを見ただろう?」

 押し殺した声に、若きナイトのまなざしは揺らいだ。

「確かにむごいことだとは思うが……」

「貴君の騎士道はあれほどまでに哀れな娘を見殺しにすることを許すのか?」

「そうはいってない! だが、だからといってなんでも許されるわけではあるまい! ナイトたる者には守るべき秩序がっ」

 痛いところを突かれてむきになる相手に、ノースグリーン卿はたたみかけた。

「貴君はメデューサの脅威から街を守ろうとしている。私は娘の命を救うためなにがなんでもあれを捕まえなければならぬ。利害は一致しているはずだ。それさえかなえばどんな罰でも受ける。セシリアはここへ置いていく。貴君も騎士の誇りに生きる者なら分かるはず、私は決して逃げはせぬ!」

 長身のナイトの目に宿る狂おしい光にまだ若いホワイトクリフは一瞬たじろいだが、次の瞬間その顔が怒りに染まった。

「なぜこの私が罪人に騎士の心得を説かれねばならぬ! どんな事情があろうとスノーフィールドに魔物を持ち込むは大罪、願いを聞き入れる余地などない! いいかげん頭を冷やされよっ」

 言い捨ててドアを荒々しく閉め、憤然と廊下を歩きかけた若きナイトに階段を降りてきた警備隊員がかけ寄った。階上の寝室に移されたセシリアについての報告に、さしものホワイトクリフも口元を結ぶや階段に向かう。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

「いよいよノースグリーンが動くか」

 客間の窓の外でジョージ・グレイヒースが呟いた。

「しょせん器も気迫もホワイトクリフでは及びません。なにしろスノーフィールド上層部きっての傑物です」

 小声とともに、暗がりから召使姿の青年が姿を現わした。

「奴らの居場所は?」

 さびた声の問いかけに青年は頷いた。

「掴みました。ただ、気になることが」「なんだ?」

「あの尼が閉じ込められていたのにスノーレンジャーは予想外に早くメデューサを連れ出しました。メデューサがいるはずの部屋にも怖れもせず侵入して、出会ったときも混乱が起きた気配一つありませんでした」

「では、奴らだけでメデューサを従わせたというのか?」

「……そういえば、小僧を一人連れていました。部屋に入るのも一緒でした」

 

 ごま塩頭の警備隊員は目を閉じた。

「小僧か……。なるほど、盲点だったかもしれぬ」

「いかがいたしましょう? 隊長」

「メデューサはなにがなんでもノースグリーンの手で捕らえさせねばならぬ。いくらか手を貸してさえやれば、奴は自ら破滅へと舞い戻ってくる。そのためにはメデューサを従える者を除かねばならん。スノーレンジャーを奴らから引き離すから、小僧も尼も始末しろ!」

 冷徹に命じる隊長に、召使に化けた部下は頷いた。

「では、刃に毒を塗る許可を」

「おまえの腕でも必要か? トーマス」

「勘の鋭いメデューサがいる場合、どうしても遠くから投げねばなりません。し損じるわけにはゆきませんから」

「下手すれば証拠にもなりかねん。秘密を守りきる覚悟は?」

「祖国に捧げた命です」「よかろう」

 グレイヒースと名乗る男の目が、剣呑な光を放った。

「ノースグリーンが敷地を出たらすぐに接触して奴を導け。別動隊を奴らに差し向け投網隊の待機するポイントに追い込むから、まず尼と小僧を殺せ。メデューサはもう泳がせる必要がないから目を潰してノースグリーンに渡してやれ」

 トーマスが姿を消すと、グレイヒースは再び部屋の中に注意を戻した。だから屋根の上から立ち去るアンソニーに、ついに彼は気づかなかった。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

「本部へ同行願います、ノースグリーン卿」

 尋問の間は部屋の隅に控えていた二人の警備隊員が近づいたとたん、卿の両肘がそのみぞおちに突き立った。体を折った二人を叩き伏せると窓を蹴り開けそのまま庭に走り出た。

 かがり火の明かりの下で待機していた隊員たちがたちまち卿を取り囲み、徒手空拳で持ちこたえた長身のナイトも多勢に無勢はいかんともし難く、ついに組み臥せられたそのとき、頭上の窓が開くやホワイトクリフ卿が顔を出した。その顔は逆光のため影に塗り潰されていた。

「……放して差し上げよ」

 予想もしなかった言葉に隊員たちからざわめきが上がったが、そんなものはノースグリーン卿の耳には届いていなかった。窓を見上げたその顔は完全に色を失っていた。

「まさか、セシリア……っ」

 呻く卿に、頭上の影は頷いた。

「ご息女の容体が悪化した。話すことができなくなり意識が混濁している。もはや朝までもつかどうか……」

 長身をわななかせつつ立ち上がったノースグリーン卿に、影が問いかけた。

「この状況で、それでもあなたはメデューサを捕らえにいくおつもりか? どこにいるかも分からず、捕まえることも困難なあの化け物を追われるというのか?」

「……娘にしてやれることを全力でするまでだ」

 

 絞り出すような言葉に影はしばし沈黙したが、再び話し始めたとき、その声は賞賛の色を帯びていた。

「あなたはあくまで罪人だ。表立って援助はできぬ。馬を与えるのが私の立場ではせいぜいだ」

「当然だ。私がなにを望めようか」

「どんな結果であれ夜明けまでには戻られよ。さもなくばご息女との今生の別れになるものと覚悟されよ」

「感謝する! ホワイトクリフ卿っ」

 悲愴な決意を目に漲らせ長身のナイトが身を翻すや、警備隊の囲みが開けた先に馬を引くグレイヒースが姿を現し、卿に手綱を渡しつつさびた声で囁くのだった。

「召使のトーマスが話があるとのこと。門の外に待たせております」

 もはや長身のナイトは言葉もなく万感の思いを込めて頷くと、ついに馬首を巡らせた。駆け去る蹄の音にグレイヒースが見せた冷笑など、夢にも想像しえぬまま。

 

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<第27章>

 

「敵はそんな手でくるのか、いよいよ正念場だな」

 アンソニーの話に応えたアーサーへ、ラルダが尋ねた。

「医者の割出しの首尾は?」

「掴めた。でもノースグリーン邸の方へ戻る形になる」

「かえってその方がいいですよ。敵の網に追い込まれるわけにはいかんであります」

「だが、それでは警備隊と真正面から蜂合わせだ」

「グレイヒースの手勢はみな中原の出身でしたわ。いっそ蹴散らしてしまいませんこと?」

「警備隊員である以上は一応味方だぞ、メアリ。そもそも我々が一緒に行動しているところを見られるのもまずいだろ?」

 

 そんなやり取りに、一度は追われる身だった少年は閃いた。

「だったら、こんなのはどう?」

 ロビンのアイデアを聞いたアンソニーが、感に堪えぬといった風情で嘆息した。

「……とうとう魔女の悪名が、スラムばかりか上流居住区にまで轟くんですなぁ」

 そんなアンソニーの向こうずねを思いっきり蹴ったメアリに、ロビンは思わず目を丸くした。

「え、魔女? スノーレンジャーの……って!」

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 グレイヒースが差し向けた手勢は十騎余り。密偵トーマスの教えた廃屋に向かって荒々しく馬を駆っていた。獲物を脅かし投網隊が配置されたポイントへ追い込む。物音を聞きつけて獲物が逃げれば三本の道のどれかに入るが、どの道も曲がり角の速度が落ちるところに投網隊が配置されていた。獲物にも投網隊にも聞こえるようにと、わざと大きな音を立てつつ彼らは駆けた。背後の窓という窓から騒ぎを聞きつけた人々が顔を出したが、深夜でもあり表に出る者がないのはやはり上流居住区ならではだった。

 やがて廃屋間近の坂道に差し掛かったとき、だしぬけに坂道の頂が赤く染まった。訝しみ手綱を引いた一行の耳朶を入り交じる叫びが一斉に打った!

「メデューサだ!」「退治しろっ」「怖いよ!」「待てえっ」

 瞬間、坂の上に現れたいくつもの影が稲妻のごとく突っ込んできた。先頭の小さな影の闇に塗りつぶされた顔に金色の眼光が映え、それが何物かを知る追っ手たちは動揺した。その耳へ子供の叫び声が飛び込んだ!

「熱いよ! おじさんたち助けてーーっ」

 わめく子供を抱えた黒髪の女の駆る馬の頭を跳び越した二本の巨大な炎の鞭が石畳に炸裂し、たちまち追っ手の馬がパニックを起こした。棒立ちになって乗り手を振り落とすもの、きた道を全速で駆け戻るもの、はては屋敷の柵を飛び越え庭をぐるぐる走るもの、一瞬で瓦解した警備隊の隊列を蹴散らして俊足の妖魔が、ロビンとラルダが、アーサーと炎の鞭を振り回すメアリが、左右後方を守るリチャードとエリックが駆け去り、追っ手はその場に取り残された。

 

「やったなロビン、お手柄だ!」

 やがてラルダの声を合図にメアリも炎の術を解いた。が、

「あの角を右にいけば例の医者ジョゼフの医院に一直線だ」

 アーサーがそういったとたん、夜気を切り裂き射込まれた矢が先頭を走るクルルの左脚をかすめた! 甲高い悲鳴をあげ石畳にもんどりうった小柄な妖魔を蹄にかけそうになり停止した全員の目が、曲り角から半身を乗り出す馬に跨る長身の影を捉えた。

「逃がさぬっ」

 二の矢をつがえ引き絞った弓の後ろから、ノースグリーン卿の思いつめた目が地に伏した妖魔を見据えた!

 

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<第28章>

 

「クルル!」「どけ! 邪魔だっ」

 馬から転げ降り駆け寄るロビンにノースグリーンの怒声が飛んだが、ロビンはクルルの前に両手を広げて立つと長身のナイトを睨み上げた。

「こんなことするなんてひどいや! 悪者のところから毒消しを取ってこようと頑張ってるのにっ」

 するとノースグリーンの背後から馬に乗った召使い、いや間者トーマスが左から右へと駆け抜けた!

「まずい、気づかれたっ」「動くな!」

 アーサーの叫びに駆け出そうとした三騎の足元に、新たな矢が突き立つ。

「目を覚ませノースグリーン! 奴らは証拠を処分する気だ。ハイカブトの根も花も火に投じるだろう。それでは娘さんが」

「世迷言など聞く暇はない。セシリアが意識を失くした。なにがなんでもそいつは連れ帰る!」

 セシリアを救わんとの同じ思いゆえ膠着する両者! そのとき卿の死角に位置する家の屋根にアンソニーが現れた。敵を警戒し屋根を伝っていた彼は仲間たちに無言で合図すると、素早く壁を伝い降りぎりぎりまで忍び寄るや、卿の馬に飛び乗った!

 驚いた馬が棒立ちになり、矢が天に向けて放たれた。落馬した二人が弓を奪い合う隙にまずスノーレンジャーたちが駆け出し、ラルダもクルルとロビンを馬に引き上げながらもそれに続く!

「早く!」弓を奪い取りへし折ったアンソニーが叫んだとたん、みぞおちに卿の拳が炸裂し、次いで胸を蹴り上げられて煉瓦壁に叩きつけられた! 朦朧としたアンソニーにはもう目もくれず、ノースグリーンも馬に飛び乗るや猛然と追い縋る。少年と手傷を負った妖魔を乗せた尼僧の馬との距離を一気に詰めた卿は相手に横着けし、その馬身を蹴り離そうとするラルダの手綱を奪わんと掴みかかる!

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 ジョゼフ医師に証拠の処分と脱出を命じて馬首を巡らせた間者トーマスの耳が前方から迫る蹄の音を捉えた。とっさに脇道へと隠れた間者の目の前をスノーレンジャーの三騎が駆け抜ける。遅れて迫る蹄の音を引きつけつつ馬を降りたトーマスが鞭を構えるところへ、もつれ合う二頭が差しかかる。

「娘さんを助けたい者同士がなぜ争う!」「黙れっ」

 卿が手綱を奪った瞬間、鞭打たれた馬が飛び出した! 驚いた二頭は棒立ちになり、全員を振り落としたまま走り去った。

 無理な姿勢だったノースグリーンは背中から石畳に投げ出され一瞬意識が遠のいた様子だった。足をくじいたラルダはその隙に痛みを噛み殺しつつもロビンと走れぬ身のクルルを背後に庇い、できるだけ卿から距離を取った。

 

 やがてノースグリーンの長身がゆっくり立ち上がり、血走った目が彼らを見据えた。黒髪の尼僧も少年も、小柄な妖魔の眼点を持つ全ての触手までもが、両腕を大きく広げじりじりと迫りくる執念そのもののごとき姿を戦慄しつつ仰ぎ見る!

 そんなラルダとロビンの無防備な背に、建物の裏から背後へと回った間者トーマスは陰に潜みつつ狙いを定めた。走り出るやの投擲に備えた両手の中、月光に濡れた刃が薄緑にひかった!

 

-9ページ-

 

<第29章>

 

 前から迫る強敵の姿に魔力を瞳に漲らせつつも、小柄な妖魔は違和感を覚えていた。つい最近刻まれた記憶が激しく警報を鳴らしている。いつ、どこでのことだったか、蠢く触手の下の頭脳が一旋した。

 大きな橋の上での出来事が脳裏に浮かんだ瞬間、妖魔は後ろを振り向いた。殺気に向けて放たれた魔力と同時に相手がなにかを投げつけた!

「ろびん!」

 自分をかばう前の二人に背中で体当たりした妖魔の腕を短刀がかすめた。かすっただけのはずの傷から、だが想像を絶する激痛が襲いかかり、瞬時に悶絶した妖魔の体が激しい痙攣を起こして石畳に跳ねた! 少年の叫びも届かぬまま。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 突然倒れた相手の背後から飛んできたものを反射的にかわしたノースグリーン卿の目が、彼方で物を投げた姿勢のまま固まった青年の姿を捉えた。

「トーマス! きさまら、よくもトーマスをっ」

 駆け寄った長身のナイトの足下からラルダの声がした。

「見ろ、ノースグリーン」

 見下ろした卿は絶句した。

 意識をなくしたメデューサの腕が変形していた。ラルダが布を縛りつけている所から下は緑のはずの鱗がどす黒く変色し、腐乱したようにぶよぶよと膨れ始めていた。

「これがハイカブトの威力だ。毒の混じった血を絞り出さないと腕が腐り落ちる。あのトーマスという男が投げた刃に塗っていたものだ。ただの召使いがこんな毒を持つはずがないぐらい分かるだろう? あなたは騙されていたんだ」

 目の前の光景が意味するものを受け入れられずにいるナイトの心の最後の抵抗を、続く尼僧の言葉が打ち砕いた。

「メデューサにハイカブトの毒への抵抗力はない。メデューサの血では娘さんは助からないんだ!」

「そんな……」

「手伝ってくれ! あなたの方が力が強い。周りから傷口に向けて絞り出すんだ! 暴れるかもしれないから私が脚を押さえる。ロビンも肩を押さえてくれ!」

 ショックで頭が空白のまま、いわれたとおり傷口を絞り始めたノースグリーンの耳に、ラルダの声が聞こえてきた。

「これほどの猛毒だ。トーマスも花は持っているだろうが石化を解かないと取り出せない。医者がどれだけ持っているか」

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

「遅かったか……」

 水をかけられた暖炉の前でアーサーが唇を咬んだ。逃げ遅れたジョゼフ医師は裏口で取り押さえられたが、それは証拠の処分に時間をかけた結果だったのだ。

 特徴的なねじれた根は確かに燃え残っているものもあちこちに見られた。メアリが直接触らないように、ペン軸で鉄の箱に拾い集めていた。

 大量の書類らしきものは炎と水の洗礼を浴びて無事でいられるはずもなかったが、字の読める部分が残ったものもないわけではなかった。それらも見つかる限り集められた。

 

 だが、灰色の花はひとたまりもなかった。半分焦げて暖炉からこぼれ落ちたものが、やっと一輪見つかっただけだった。

 毒草が持ち込まれた証拠は入手できたが、解毒の花は得られなかった。縛り上げた医師と押収した根や書類を本部に引き渡し、取り調べさせることを決める間も、スノーレンジャーたちにのしかかるのは敗北感としか呼びようのないものだった。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

「これでは、娘さんの意識を取り戻すことさえできない……」

 持ち帰られた花を見た尼僧の声は暗澹たるものだった。

「焦げた部分は使えないし、燃え残ったところも熱であぶられて汁気が抜けている。そもそも時間をかけて大量に毒を盛られたのだから、一輪ではどうにもならないが」

 そのとき、足下でロビンが叫んだ。

「ラルダさん! クルルが! 毒が!」

 腕の縛り目を越えて変色が始まっていた。ラルダがさらに肩に近い箇所を布で縛った。そして呆然としたナイトに厳しい面持ちで告げた。

「この花は使わせてもらう。傷からの毒の場合なら、少々乾いていても練り込むことで血に成分が溶けてくれる」

 

 返事を返せぬ卿の顔をしばし見つめたあと、ラルダは花の燃え残った部分を手の中でもみ込んだあと、小柄な妖魔の膿んだ傷に押し当てて布で括りつけた。

 しばらくすると肩へ延びつつあった変色が薄れ、膿も乾きはじめてきた。

「なんとか間にあった。広がるのは止められた」

 尼僧が少年に告げたとたん、呻き声がした。

「……なんだ。これはなんなんだ……」

 足下を見つめたまま、ノースグリーン卿が身をわななかせていた。

「なぜこんなことになった? 私が神を呪ったからか? これは罰なのか? 教えてくれ!」

 やおら面を上げ、震える手を差し延べる長身のナイトの顔は、いまや苦悩と絶望に染められていた。

「私のせいで花は焼かれてしまったのか? 私のこの手が希望を打ち砕いたのか? では、なぜ死ぬのがセシリアなんだ! なぜこんな私が生きている? こんな、こんなバカな……っ」

 絞り出すようなその叫びに、誰もかけるべき言葉を見つけられなかった。

「なぜ私はあなたの言葉を聞かなかったんだ? あなたはずっといい続けていたのに。なぜセシリアの言葉さえ聞き入れることができなかった? かくも私は愚かだったのか! 正しい言葉にも願いにも耳を貸さず、運命をねじ曲げるといったからなのか? その罰として、私はなに一つできずに、ただセシリアが死ぬのをこの目で見ているしかないのかあっ!」

 その絶望の叫びが、ロビンの胸を貫いた!

 

 同じだ、と少年は思った。あの朝、姉が死ぬのを見ているしかなかった自分と、この人は同じ所にいるのだと。ただ時が冷酷に過ぎゆくなか、愛する者の命が削られ、細り、尽きてゆくのを見ているしかなかったあの部屋に。登る朝日を、とどまることなき時を空しく呪うしかなかったあの光景に!

 甦った絶望の記憶になんとかしたいとの思いにかられ、捩るがごとき焦りに苛まれ、それでもなんの手だても浮かばなかった。そのことがさらに生々しい記憶をかきたて、ついに抉られた心の傷さながらの目から、色なき血潮が溢れ出す!

 

 そのとき、涙に潤む少年の視野の中に溶けたまま、定かならぬ大きな姿が近づいてきた。

 

-10ページ-

 

<第30章>

 

「臭いよう兄貴、もう残飯集めはいやだよう」

「しょうがねえだろが! これを養豚場の豚どもに食わせねえとおれたちも飯にありつけねえんだ。何遍も同じこといわせんじゃねえや、タミーよぅ。俺まで情けなくて泣けてくらあ……」

 ごみ箱から残飯を荷車の箱に移しながらやってくる二人の大男こそ、この街に氷漬けのメデューサを持ち込んだ張本人ゴルト兄弟にほかならなかった。メアリが顔を引きつらせて横を向くと、小声でアーサーに訊ねた。

「なぜこんなところをあのウドの大木どもがうろついてるんですのっ?」

「なんでも石化解除の代金を払えないから、当局が働かせているという話だぞ。給金から天引きとかいうことで」

「く、屈辱ですわっ」

 天引きという点に関してだけは完璧に同じ境遇のメアリの顔が怒気に染まったその瞬間! 兄貴よりまだ頭一つ分も大きい弟が絶妙のタイミングでその顔を見つけた。たちまち愚鈍なオーガのごとき大男を子供のような脅えが支配した!

「あ、兄貴ぃ! ま、ま、魔女のねえちゃんだよぉ〜!」

「なに、あれがっ? じゃ、ま、まさかメデューサも?」

 弟よりは低いとはいえれっきとした大男の兄も、たちどころに小柄な妖魔の姿を見つけた。

「うわ! で、で、出たぁっ」

「怖いよぉ〜、凍っちゃうよぉ〜、焼かれちゃうよぉ〜」

「バカやろ凍るんじゃねえっ! 石になるんだって何遍」

「んもぉ黙って聞いていれば! あなたたちいったい人をなんだと思ってますのっ?」

「「うわあ怒ったぁ!!」」

 見事に揃った悲鳴とともに大男兄弟は腰を抜かした。

 あまりに情けないその姿をさすがに哀れに思ったのか、ため息まじりにメアリはいった。

「いいかげん落ち着きなさいな。わたくしだって鬼でも悪魔でもありませんわよ。わけもなく脅かしたりするもんですか」

「へ、へえ……」

 信じていいのかそれ? との疑いが丸出しの顔を、図体ばかりでかい兄弟は互いに見交わした。やがて彼らは横たわったままの妖魔にも、おそるおそる目を向けた。

「そういえば動かないな」

「きっと凍ってるんだよう」

「凍るのと石になるのは違うって何度いやぁ分かる!」

「固まって動かなくなって止まっちまうんだろ? だったら同じだよう……」

 

 タミーのそんな間抜けな言葉が、あっけにとられて聞いていたロビンの心のどこかに引っ掛かった。

「動かなくなって、止まっちゃう、止まる……って! まさか、ラルダさんっ!」

「なんだロビン? 大声で」

「病気になった人が石になったら、もしかしたら病気も止まらない?」

 ラルダが息をのんだ。ノースグリーンが驚愕に目を見開いた。アーサーとメアリも身を乗り出した。

 

「……止まるかどうかは分からないが、遅らせるのは間違いないだろう」

 ややあって、黒髪の尼僧は答えた。

「こんな観点からメデューサの石化を調べた者はないと思うが、解除した人間が生きている以上、石化自体は命そのものには影響しないはず。完全に固まって状態が保持されるのか、命の脈動が遅いながらも続いているかは不明だが」

「……まさか、まさかセシリアは助かるのかっ?」

「早合点するな! ノースグリーン」

 尼僧が卿を制した。

「未知の領域である以上これは賭だ。娘さんを石化しても中毒の進行は遅れるだけかもしれない。花を取ってくるにはどうしても一年かかる。その間に一日二日症状が進めば、結局助からないということも」

「このままではセシリアは絶対助からない。やってくれないか、頼むっ!」

 ラルダとロビンは顔を見合わせ、頷き合った。

「夜明けが近い、急ごう! その男の石化を大至急解いてくれ。花を持っていたらノースグリーン邸へ!」

「あなたたちっ!」「「へ、へいっ!!」」

 話についてこれずにいた大男兄弟が跳び上がることなど頓着せず、メアリは荷車に石化した間者を積み込ませるや自分も荷車に跳び乗り号令をかけた。たちまち荷車はへたな乗合馬車顔負けの勢いで走り去った。車輪の立てた音の凄まじさに、悶絶していた妖魔までも薄く目を開け小さく呻いた。

「私たちもいくぞ! クルルを馬へ。頼むぞロビン! なんとか説明してやってくれ!」

 

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<第31章>

 

 目覚めたばかりのクルルに対し、セシリアを救うため石にしてほしいと説明を始めたロビンだったが、それは予想以上に困難なものだった。

 目に見える事物に関する言葉を優先的に身につけてきた小柄な妖魔に対して、セシリアを石化してほしいことを伝えるのがまず大変だった。ようやく伝えることに成功すると、今度はクルルがセシリアはともだちだから石にはしないといい出してきかなかった。メデューサにとって石化はあくまで外敵に対する防御のための手段であり、友好的な相手を石化することには強い抵抗があるらしかった。

 毒塗りの短刀を受けて死にかけたクルル自身の体験がなかったなら、ロビンの説得は失敗に終わったに違いなかった。クルルが意識をなくしていた間に手当を受けた体験になぞらえることで、かろうじてロビンはセシリアが石になっている間に助けられると納得させることに成功したのだ。

 

 

−−−−−−−−−−

 

 

 ノースグリーン邸の正門に差し掛かると、メアリも向うから馬をとばしてきた。召使に身をやつしていたトーマスが持っていた花も一輪だったが、ずっと大きく瑞々しかった。

 石化を解かれたとたん、囚われの身であることを悟った間者は舌を噛み自害したとメアリは告げた。リチャードたち三人が協力してさえジョゼフ医師もなかなか口を割らず、燃え残りの書類の解読が進まないと打開は難しいとのことだった。俯いたノースグリーン卿が唇を噛んだ。

「最初にメデューサのことを私に話したのがトーマスだった。彼に騙されていたとは、今も正直なところ信じ難い……」

 アーサーが門を守る警備隊員にメデューサとノースグリーン卿の身柄を確保したと伝えると、たちまちホワイトクリフ卿が自ら駆けてきた。感嘆の表情を隠さぬ若きナイトに、長身のナイトは複雑な面持ちで感謝を述べつつ門を潜った。

 庭や邸内を守る警備隊員の中にグレイヒースや一味らしき姿はもう見当たらなかった。アーサーが報告する一部始終に目を丸くするホワイトクリフ卿を尻目に、一向は寝室へと急いだ。

 

 骸骨のように痩せ細った少女の閉じかけた目はうつろだった。半狂乱の父親が娘に呼びかけるかたわら、セシリアにかろうじて息が通っているのを確かめたラルダはコップの水に花を浸すと、スプーンで潰しながらかき混ぜて卿に手渡した。

「あなたの手で、でもこぼさないように落ち着いて。一滴でさえ貴重だ」

 寝室に入ってきたホワイトクリフ卿とアーサーも加えた全員が見守る中、ノースグリーン卿は娘の上体を抱き起こすと手の震えを抑えつけながら、微かに蜜の香りがする水を少しずつその口に含ませた。コップが空になると、土気色のセシリアの顔に僅かな血色が戻ってきた。やがて、うつろだった目が父親の顔に焦点を結び、そして涙を浮かべた。

「……最後にまたお父様に会えるなんて。あのままもう会えないものと」

「セシリア聞いてくれ。おまえは助かる。絶対助けてみせる! でも、そのために一度おまえを石にしないといけないんだ」

 話を聴いたセシリアは首を傾げて自分を見つめる小柄な妖魔に目を向けた。腕や脚に傷を負い手当てをされたその姿に、彼女はごめんなさいと呟いた。

「お父様はずいぶんひどいことをしたのに、それでもあなたは許してくれるの?」

 その意味は分かっていないようだったが、クルルはセシリアの声に惹かれるように近づくとその横に屈み込み、少女の枯れた腕にそっと触手を這わせて哀しげな喉声を漏らした。ありがとうと囁いたセシリアの唇に微笑が浮かんだ。

「それではお別れね、クルル。私が眠ったらお父様に森へ帰してもらってね。治ったらいつか必ず会いに行くから」

 ロビンがクルルの後ろからそっと肩に手を置いた。小柄な妖魔が肩越しに振り返って少年を見上げた。ロビンは頷いた。

「クルル、お願い」

 セシリアに向き直った小さなメデューサの緑のまぶたが閉じられた。それが開き、縦長の瞳がかすかに光った。

 やつれはてた少女は石になった。皮の下の髑髏が透けて見える無残なその顔に、けれどかそけき微笑を浮かべたまま。哀しげな声で再び鳴いたクルルをロビンが後ろから抱きしめた。

「すまない。本当にすまない」

 ノースグリーン卿が小柄な妖魔の前にひざまずき、傷を負っていないほうの小さな手を取り押しいただいた。驚き怯えを見せたクルルも、やがておずおずと触手を伸ばすと父親の頬を伝う涙に触れた。まばたきした妖魔がためらいつつも喉声を漏らした。

 不思議な感動が一同を包んだ。涙を見せまいとしたメアリとホワイトクリフは顔を見合わせる形になってしまい、あわてて目をそらした。

 そのとき部屋に入ってきた警備隊員が、グレイヒースと一味は宿舎からも姿を消していたと報告した。それを耳にしたラルダは一同に向き直った。

「おそらくスノーフィールドから脱出する気だろう。本国に戻り得られた情報を伝えた上で、新たな任務に就くのだろう。たとえ標的になるのが直接この街でなくても、どこかの国を同じように撹乱するために。そしていずれは手玉に取った国同士を争わせる危険性もある。追いかけよう!」

 全員に告げた黒髪の尼僧の凛とした姿に、ホワイトクリフ卿が奇妙な反応を見せた。頬を紅潮させ熱っぽいまなざしを向けた若きナイトの口から、かすれた呟きがもれた。

「女神だ……」

 そんな青年のことを、ロビンが目を丸くして見上げていた。

 

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<第32章>

 

 証拠の処分に時間を取られたのか、スノーフィールドの門にはまだグレイヒース一味とおぼしき者が通った形跡はなかった。本部で書類判読を急ぐアンソニーを除くスノーレンジャーたちは、南下するためには必ず通る街道の峡谷での待ち伏せを提案した。街中で捕らえようとすると市民を人質にしたり被害を及ぼす危険があるという判断だった。猛毒の武器さえも振るう相手だけに、この事件の責任者であるホワイトクリフもこの安全策に同意するほかなかった。

 メデューサの魔眼で一味を一網打尽にしてはとの案も出たが、死にかけたばかりのクルルをあまり動かすのは危険とのラルダの診立てでロビンともどもノースグリーン邸に残ることになった。二人のナイトとラルダ、四人のスノーレンジャーと警備隊に弓隊を加えた陣容で彼らは出撃した。そして街道に油を撒き正面に警備隊、崖の上に弓隊を展開して一味が来るのを待ちうけた。

 

 冬の終わりの早朝だというのに一面の黒雲が空を覆いつくし、太陽の姿はどこにもなかった。陽光に払われなかった闇は薄墨のように大地を満たし、輝きや色彩をことごとく削いでいた。その灰色の地平線に現れたいくつもの黒い粒はやがて武器を手にした騎馬の男たちに姿を変えた。ここでの待ち伏せを覚悟していたのか、警備隊の姿にも動じず突っ込んできた!

「止まれ!」

 ノースグリーン卿の叫びにもひるむ様子がないのを見て取り、メアリが炎の鞭を油に濡れた地面に叩き付けた。たちまち眼前に現れた炎の壁に多くの馬が恐慌にかられたが、何騎かは炎を跳び越え行く手を阻む警備隊と乱戦になった。炎に阻まれた者たちも崖の上の弓隊と矢の応酬を始めた。

「気をつけろ、やはり武器に毒を塗っているぞ!」

 かすり傷のはずの警備隊員が悶絶するのを見たラルダが叫び、倒れた男を崖の際まで引きずって傷口を縛った。一瞬ひるんだ警備隊の囲みを抜けて駆け去ろうとした一人をノースグリーン卿が射止め、それを阻止しようとした一人をホワイトクリフ卿が斬り伏せた。スノーレンジャーたちもそれぞれ眼前の敵を退けた。

 だが敵の技量は高く、序盤の劣勢をじりじりと挽回して警備隊を押し始めた。さらに数騎が馬勢を立て直して炎を乗り越えた。その先頭に弓を構えたグレイヒースの姿があった!

「蹴散らせ! たとえ単騎でも国に帰れば我らの勝ちだ!」

 グレイヒースたちの加勢にたちまち破られた囲みを抜けて走り去ろうとした馬は、だが炎を突き抜けて射掛けられた矢の痛みに乗り手を振り落とした。警備隊の増援部隊が駆け込んできた!

「降伏するでありますよ! ヴァルトハールの犬どもっ」

「なんだって!」

 

 増援を率いるアンソニーの叫びに応えたのは、だが敵ではなく女の声だった。ただごとならぬ声に集まった全ての視線の先で、黒髪の尼僧が驚愕に目を見開いていた。

「では、おまえたちはヴィルヘルム・フォン・グロスベルク公の手の者だったのか。鳶色の髪と灰色の目をした、かの若き纂奪者の……っ」

 かすれた声が呻いた。

「ならば、おまえたちの戦いはもはや無意味だ。ここを逃れても帰る国などすでにない。ヴァルトハールは、かの中原の公国は、私の目の前で全滅した!」

 

-13ページ-

 

<第33章>

 

 敵味方の誰もがラルダの思いがけぬ言葉にあっけにとられた。だが、逸早く立ち直ったグレイヒースが虚を突かれた手下たちを怒鳴りつけた。

「ハッタリだ、聞くな! しっかりしろっ」

 その声に敵味方とも我にかえった。だが、刃が噛み合う寸前、またもラルダの声が割り込んだ。

「グロスベルクの館は光を浴びて輝く白亜の城だ」

 敵の動きがまた止まった。

「正門の両脇の見張り櫓のうち、左手の櫓の下が通用門だ」

 間者たちは脅えた目を黒髪の尼僧から離せなくなった。

「調理場は西の角、厩舎は中庭の南」

「……黙れ」

 グレイヒースが呻いたが、ラルダの言葉は続いた。

「黄金に縁取られた青い玉座に腰掛けたまま、かの若き纂奪者は死んだ。たった一匹の人魚を手にかけたばかりに、全ての領民を道連れに!」

「黙れ! 妖しの女っ」

 唇をわななかせつつも、間者の首領はラルダを睨みつけた。

「偽りの言葉で我らを挫こうとするこの妖術使いめ! 死ね! もはや惑わしの言葉など紡ぐは許さぬっ!」

 隊長の叫びに手練れたちがいっせいに襲いかかろうとするや、尼僧は両手を天に差し伸べ黒髪を振り乱し訴えた!

「どうすればこの者たちは信じる? 背けようとする目を真実に向けてくれるんだ、答えたまえ!」

 巨大な力が応じ、動いた!

 

 低く垂れ込めた暗雲の真上で一旋したと、その場の全員がそう感じた。桁外れの気配としか呼べぬ、幻術に可能な限度を遙かに超えた実在感を伴って。

 とたんに影に染まった周囲の光景がぐにゃりと歪み、新たなる像を結んだ!

 

 雨が降っていた。陰鬱な空から降る雨はその場にいる誰の体も濡らすことのないまま、大地に散らばった無数の白骨を音もなく打ち据えていた。

「あの場所なのか、今の……」

 忘れようもない白い城を彼方に臨む、あの集落の光景に呻いたラルダだったが、応える者はなかった。無残な光景にただ呆然と立ち尽くしていた。

 すると荒れた一軒の家の中から痩せた山犬が走り出るや、骨を咥えたまま丘の彼方へ駆け去った。

「俺の家が」

 敵の一人ががくりと膝を落とした。

「バカな、こんな……」

 グレイヒースの呻きに呼応するように、再び景色が歪んだ。

 暗い城の大広間だった。玉座の上に崩れたものも見下ろす床に積み上がったものも、すでに原形を留めていなかった。さしものグレイヒースもついに叫んだ。

「ヴィルヘルム公! 我が君よ、なんたるお姿か……っ」

 いくたびかの暗澹たる転換の果てに景色が街道に戻ったとき、間者たちはみな魂の抜けたような目を、視線を定めることもできぬまま見開くばかりだった。

 

「……我らの国は狭かった。そのうえ、先代のグロスベルク公は暗愚だった」

 グレイヒースが呟いた、無念を声に滲ませて。

「じりじりと周囲の国に領土を削られるばかりの祖国の将来に、我らはみな絶望しつつあった。そんなとき、若きヴィルヘルムが立たれ愚昧なる王に取って代わると、たちまち敵国どもを手玉に取り噛み合せた果てに属国となさしめた。その智謀の才に誰もが心酔し忠誠を誓った。領民はこの世の楽園の到来さえ夢見た」

 誰もが黙然と、その声に耳を傾けていた。

「我が君は全土に手の者を放った。我らはそのうちの一隊にすぎぬ。先を見越して早くから地位を固めた上で仕掛ける。具体的な方策は部隊に任された。だから我らは競い合って任務に励んだ。妖魔どもが跳梁する困難な土地ばかりの狭い国土を、自らの手で広げることを夢見て」

「いずれは我々が隣国とことを構えるように仕向ける気だったのか。私やノースグリーン卿を手玉に取ったように」

 呻いたホワイトクリフに、グレイヒースは暗い目を向けた。

 

「たった一つ我が君を脅かしたものが、お体の弱さだった。それは人並み外れた智謀を育んだ一方、仕掛けた策の成果を得る前に自らの命が尽きるのではとの恐れで我が君を苛んだ。それゆえに海魔に手を出されたのが全てを失う結果になったとは。魔物どもにどこまでも呪われるのが、我らの定めなのか……っ」

「魔物の呪いではない。おまえたちは才に溺れ分を超えたものを得ようとして手出しの許されぬものに手を伸ばしたのだ。決して曲げてはならぬ他の者の運命に。これはその罪の報いだ!」

 いい放ったノースグリーン卿をグレイヒースが睨み返し、一瞬両者の視線が火花を散らした。だが、やおらグレイヒースは目をそらすと薄い唇を自嘲に歪めた。さびた声に虚無が滲んだ。

 

「我らの戦いは終わった。全ての望みが絶たれなにもかも潰えた今、我らの命運も尽きた。もはやこれまで!」

「待て! 早まるなっ」

 逆手に持った剣を己が胸に突き立てようとする間者にラルダが駆け寄った瞬間、二人の姿は光に呑まれた! 驚いて天を仰いだ人々のまなざしが、黒雲の切れ目から差し込む光を認めた。光は雲の動きにつれて横に流れ、放心した間者たちをもひとなめして消えた。

 再び戻された視線の先では、ごま塩頭の間者もまた黙然と天を見上げていた。

 

「聞いたのだな?」

 静かに問いかける黒髪の尼僧に、グレイヒースと名乗っていた男は小さく頷いた。

「曲げられた運命を正せと。神の声なのか? あれが……」

「そうだ。二年前に同じことを私にも告げた声だ」

「あなたを助けよと……」

「私には導けと。従うか? ゲオルク・ゴルトシュミット」

「ゲオルク隊長」

 二人の会話に若き間者の声が割り込んだ。

「我らは問われました。祖先伝来の地を見限るかと」

 ゲオルクが部下たちに目を向けた。

「あのままでは獣や妖魔の領域になり果てるか、あるいは恐怖の影が薄れた時に他国に併呑されるばかり。我らは諸国から仲間を伴い帰国する決意です」

「あの状態から国を立て直すつもりか?」

「はい」

「死んだほうがましに思える苦労だぞ」

「覚悟の上です」「一度は捨てた命です」

 口々にいう部下たちを一瞥すると、ゲオルクはノースグリーン卿の前に進み出て武器を捨てた。

「こいつらを行かせてやってくれ。俺の首と引替えに」

 

 ノースグリーン卿はしばしその顔を見つめ、頷いた。

「いいだろう。だが、きさまもまた神の意を受けた身。その命、ラルダ殿に預ける」

「待たれよ、ノースグリーン卿!」

 ホワイトクリフ卿が血相を変えてくってかかった。

「他のことはいざ知らず、この奸物をラルダ殿と行かせるつもりか? 正気の沙汰ではない! ならば私も行く。この目でこ奴を見張る!」

「貴君は重責ある身ではないか」

 呆れた面持ちで年長のナイトが応じたそのとき、街から騎馬の者が一人駆けてきた。その身なりを見たノースグリーン卿の顔に驚きが浮かんだ。

「あれは、まさかご領主スノーフィールド伯の使いでは?」

「そうだ。我らに対する裁定を伝えにきたのだ」

 長身のナイトの言葉に、若きナイトが答えた。

「本来なら貴公は法の裁きを受けねばならぬが、それでは追放は免れぬ。だがセシリア殿のことを思えばあまりに忍び難い。だから貴公がメデューサを追われたとき私はご領主に嘆願したのだ。なにとぞ寛大なご裁定をと。

 ご領主は私のこれまでの失態の責任も併せて問うことを条件に聞き入れて下さった。その結果が出たのだ」

 感謝のあまり言葉を失ったノースグリーン卿はホワイトクリフ卿の手を取り、ただ握りしめるばかりだった。そんな彼らの前に到着した使者は、厳かに領主の言葉を伝え始めた。

 

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第34章〜40章 →

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説明
いよいよここからは、陰謀との闘いが始まります。よろしくお願いいたします。
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