幻想の神 第二章「そもそも幻想とは何か?」
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幻想について、語らなければならない様だ。

そもそも幻想とは何か?

曖昧(あいまい)や不確定な事。これが幻想と言える。

ある意味において、「聖書」で神であると保証されている、愛でさえも幻想に含める事もある様だ。

何らかの意味で幻想である事は、極論すれば、全部幻想なのだ。それを避ける為に、全にして一、一にして全であると述べたのだ。一なる元素として、幻想は存在する為に、幻想は何であるか?把握する必要がある様だ。

たとえば、運命。これは幻想的であると言える。つまり、人間に関わる事は全部、幻想なのだが、あえて言うなら、火にたとえる事が出来る。発火には一定の熱を可燃物に向ける必要がある。

ここにベクトルがある。

一定のベクトルを持った知恵である事が分かる。これが幻想を動かすのだ。

 

可燃物を燃やして、燃え続ける性質がある。あるライフがあって、それを燃やしながら、持続するという性質があるのである。

いわば、人間の何ぞやとやらを燃やして、燃やし尽くす性質があるのである。もちろん、消す事も出来る。というか、普段は消えている。

 

一定の熱の一定のベクトルを知恵をもって向けると、発火する性質があるし、燃やす物がないと消えている性質もある。

つまり、人間の知恵をもって、点(つ)けないと(それか燃やし続けないと)消えているのである。ここには幻想がなく、幻想が火そのものだと言う事が確認出来る。

 

幻想が火だと言ったが、他のものはどうだろうか?

自由は風、渾沌は水である。

風は形として、自由自在である。この性質は星の周りでは曲げる事は出来ない。

自身を解放する風と自身を縛りつける空気。その差が理解出来るだろうか?

空気としては、重苦しく存在する不自由と、風としては、軽やかで楽しい自由と。どちらを求めるだろうか?

私としては、風は自由の象徴(しょうちょう)であると、固く信じている。

水は互いに押し合いへし合いをして、容器によって形を変える。平面であるなら平等に平面に広がり、ある意味の現実性が渾沌であると言える。たとえば、ファッション、たとえば、化粧(けしょう)。

これらは水が広がる様に一面に広がる。ある意味の現実性がここに認められる。

つまり、一面に広がった思考こそが渾沌の根源そのものである。脳漿(のうしょう)があるだろう。それにたとえるならば、人間の思考は水そのものである。

思考から色々な水気が出て来るのだから、結局、これ、思考によらなければ、水=渾沌は得られないのである。

これ、クルアーンに描かれている事を参考にしている。

説明
幻想とは何か?火である。
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聖書 クルアーン 第三の聖典  天地創造 人間創造 天使 

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