彫刻刀(初稿)
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 彫刻刀

 日没になる少し前頃、明日の図画工作の時間に使う彫刻刀を買いに、一人の小学五年生の男子児童が近所の文房具屋へ行った。しかし着いてみるとシャッターが閉まっていたので、裏の普通の家の方へ回って開けてもらえる様に頼もうと思った。だが彼は店の横の狭い通路ではなく、そこから少し離れた通りへと一旦出てから、すぐ先の脇道より区画内に入る事にしたのである。

 いつも車の往来が激しくて騒がしい道路に面した表の並びとは打って変わり、その反対側は人通りもほとんどなく、舗装路が縦横に入ったとても静かな住宅地であった。薄暗い乳白色に沈んだ暮れ時の空の下、男子が家の並び同士の間の道を進むとすぐに、彼が文房具屋の裏手だと目星を付けた玄関口が見えて来た。でもその時余程近くに行くまで、開いた黒塗りの小さな門扉と家の前の路面との境目の段差の上に、黙って立っていた少女の存在には全く気付かなかったのだ。

 銀色っぽいリトグラフの細密な肖像画の中の人物の様に、じっと相手の方を見詰めて佇むその子は、男子と同じ小学校の五年の同級生の女子だった。ほんのつい先程、学校からの帰りに彼が校門近くで見掛けた時には、彼女は紺の指定の制服上着の下に体操服という普段の格好であった。しかしどこかへ行く用事でもあるのか、少しの間の内に全く違う他所行きっぽい服装へと着替えており、表情すら他人行儀の顔をしてそこにいたのである。そして中に何かを握った右手の甲が外側に丸く膨らんでいるのが妙に目立っていた。

 唐突な事に気後れした男子は、日中に照り付けた陽の熱が足元のアスファルトの地面から立ち上るのを、両手足の肌表で感じるだけの思考停止状態に置かれていた。それほど彼は息苦しく緊張しており、紺の短いスカートと白ブラウスの上に、大人の人が着る様な重暗い深緑の色の濃いカーディガンをしっくりとした雰囲気で着込む彼女の立ち姿を、しばらくの間ただじっと見続けているしかなかった。

 そうやってずっと気まずく見詰め合って、お互いに行きも戻りも出来なくなっている中、その沈黙から抜け出す切っ掛けを作ろうと男子は必死であった。それでふと、多分彼女はここの文房具屋の家の子だったかも知れないという、小さい頃の不確かな記憶を唐突に呼び起こさせ、それを材料に会話を始めて、止まっている双方の意思疎通を動かそうと試みた。

 「…明日、図工で使う彫刻刀がないんだけど…」

 勢いを付けてはっきりと言おうとしたのに、男子の口調はついおどおどした感じになっていた。しかしその言葉を頭一つ高い所で聞いた女子の方は、重い空の色に照らされて後ろの背景の中に嵌め込まれたような停滞からやっと解かれた様だった。と思いきや、彼女は急に距離の短いアプローチを何も言わずに後ろの方に戻って行き、玄関口のノブ式のドアも開けっ放して家の中へ入った切りになってしまった。なので彼は帰るに帰れず、増々色濃くなって行く薄闇の下で、相手が出て来るのをじっと待っているしかなかった。

 だがやがてしばらくすると、ようやく真っ暗い家の奥から戸口の間を通って表の方に現れ、急がずにゆっくりとした歩調で男子の方へと進んだ女子が、今度は舗装道路の上まで降りて来て、再び彼の目の前に立った。そして、

 「少し古い奴だけど、いい?」

と言いながら、最初に何か別の物を内に隠していた右手の側に持って来た、カタカナの「キ」の字形に結束バンドを三本も嵌めてある、スチール製の平たくて細長い箱を差し出した。

 近づいて良く見なくても何となくそうだと分かる、彫刻刀の五本入りセットのケースを反射的に受け取った男子は、やっぱりこの子の家は文房具屋だったのか、でもお金を出して買うのにどうして新品じゃないんだろう、と不審に思いつつも、持って来た千円札をズボンのポケットから取り出そうとした。ところが少しそれにまごついている内、その女子についての記憶がやはり自分の勘違いで、彼女の住んでいるのは一つ隣の普通の家の方だった、という事にようやく気付いた。なので彼は慌ててお金を引っ込めて、くれた箱を向こうに返そうとした。

 しかしその時、初めて女子は普段学校でする様な雰囲気の微笑を見せて、

 「家にもう一つあるから、それあげる」

と明るく快活に言った。そして最初、何か外へ用事があるみたいな感じに表へ出ていたはずなのに、そこより後の自分に対する相手の返答を全て遮るかの様にいきなり踵を返すと、今度は少し早足で家に入り込み、そのまましっかりと後ろ手でドアを締め、それっ切り出て来なくなってしまったのだ。

 それによって男子は、文房具屋とは全く無関係の同級生に向かって、明日使う彫刻刀を欲しいなどと意味不明な話を言ったと、一方的に誤解されたままで当の相手と別れてしまう事となった。けれど例えそうでも、そこのチャイムを鳴らして女子に出て来てもらって弁明しようとするまでの勇気は出ず、それで彼は帰るかどうかを決めかねて、夕暮れの中にしばらくの間立ち尽くしていた。すると、まだそんなに暗くなってはいないはずなのに、もう門柱の上の電灯が自動点灯してうっすらと周りを照らし始めたのである。

 すぐに帰らないと怒られるのにどうしようか、と更に考えあぐねる男子は手持ち無沙汰となり、ふと、勘違いされた先方についさっき手渡された彫刻刀の箱を改めて良く見てみようと、白い球状の門灯のすぐ側に持って行って光の下にそれを晒した。すると彼は、箱の表に貼られた名前を書く枠の白地のシールの所を黒のマジックで丁寧に塗り潰してあるのに気付いた。後で相手が使う時の事に気を使ったらしく、一旦書かれた元の姓名の文字が分からない様になっているのだ。それに加えて縦横三箇所の厳重な結束バンドというのも同じ事で、持ち運ぶ際に誤って蓋が外れて中の刃物が飛び出すのを防ぐ為、厳重に施された彼女の細かな配慮の表れであろうと思われた。

 男子は車や自転車が来ない端の位置まで寄ってから、掌の上に乗せたケースの角度を水平に保ちつつ、三本の留め輪を全て丁寧に取った上で横面片側の縁の嵌め込みを外して蓋を開け、それをゆっくり片側へ反転させた。中にはまだ綺麗な白紙が乗っ掛かっており、五本入りの彫刻刀と別枠の馬楝や研ぎ石はどうやら全く未使用のままの感じだった。それを認めた彼は、もはや隣にある本物の文房具屋の方へ行って店を開けてもらい、もう一度別の新品をおうとする気が完全に失せてしまった。なのですぐに箱を元通りに、せっかくの相手の心使いである結束バンドの戒めもしっかりと締め直した上で両手に持ち抱えると、ようやくそこから離れて自分の家へ戻って行った。でもどうして彼女が家の前に立っていたのかというのは何となく気に掛かっていて、帰宅してからもしばらくの間ずっとその事ばかりを考え続けていた。

 

 そうして男子がそこから去った直後、ほぼ同じタイミングで中に居た女子が再び家の表に出て来た。どうやらドアの覗き穴から表の様子を窺って、彼が居なくなるのをずっと待っていたらしかったのだ。彼女は開いた門扉の間を抜けると、すぐ隣の家の方に向かって行った。

 文房具屋のすぐ横に住む女子は、その男子と同じ様に店の表側が開いていない時に裏から開けてもらう事が度々あり、先程もそこへ学校で必要な物を買いに出ようとした矢先であった。そして門の外へ出ようとした瞬間に彼と鉢合わせし、不意の事に驚いてその場に立ち竦んでしまったのだ。そういう経緯で彼女は改めて買い物に出た訳だが、右手の膨らみの大きさだけが最初と少し違っていた。ちょうどそちらのクラスでも明日は図工の授業が入っていたので、もう一つ他に購わなければならない物が増え、その分の小銭の量が加わった為だった。

 女子はなぜ、自分の家を文房具屋と勘違いした男子に対して、わざわざ自分がお金を損するだけの、そんなお人好しな真似をしたのだろう。単に気が弱くて上手く言い出せなかっただけなのか、もしくは彼女が以前から持っていた、彼に対する一つの感情のせいだったのだろうか。その真相は全く本人が知るのみであった。

 

 終 

 

 

説明
題名に(初稿)と付けましたが、やはり投稿に際して何箇所か手を加えたので本当の初稿にはなっていません。最初はこういう一幕物の短編だったのです。前回の分は推敲の過程で末部を変更して暗いイメージで終わったのが少し心残りでした。なので今度は元々の大筋を変えない様に改めて書き直しを行いました。重複投稿みたいになりましたが、これを別作品として発表させて頂きます。尚、元の草稿が同じなので一部文章が一緒の箇所が幾つかあります。どうもすいません。
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