地獄の底で、笑ってろ
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 任務の帰り道、黒塗りの、いかにもといったふうで、近寄りがたい車が目の前で停車していた。道は一本しかなかった。迂回路はなく、大通りで車通りが激しいというのに、人の往来はまばらで、伏黒と釘崎のほかに、スーツ姿の男がせかせかと歩いているのみだ。

その車は周りの迷惑も考えずに堂々とそこにあり、その車のさきに補助監督者が停めた車を発見したとき、伏黒はこらえきれずにため息を吐いた。

「なによ、辛気臭いわね」

「いや、先に謝っとく。わりい」

「は?なんなわけ、」

伏黒が目にした車は、大都会東京では特段、珍しいものではなかったがしかし、長年の経験とそこで培われた感が、五条悟がらみのめんどくさい案件だ、と激しく訴えていた。なにごともなければいい、と祈るような思いで通り過ぎようとすると、その伏黒の勘が正しいものであったと証明するかのように、助手席の窓が開いて、見知らぬ女が顔を出した。

ビンゴ。

この時ばかりは「レディーファースト」と口煩く言う釘崎に合わせて車道側を歩いていてよかった、と伏黒は心底そう思った。湿った風が吹いて、女の長い黒髪が艶やかに揺れた。じわりと汗をかくような熱風だというのに、女はまるでそよ風が吹いたかのようにすまし顔をしていた。釘崎が横で、なによ、と俺を小突いた。

「知り合い?」と彼女は小声で、その女をちらりと盗み見て、その後俺に視線を戻してそう尋ねた。知り合いであってたまるか、という気持ちがわきあがってきて、次の瞬間そもそも知り合いであったためしがない、というべきか逡巡して「いや、まあ……そんなもん」と言葉を濁すのが精一杯だった。どちらともつかない返答をした俺に、イラついた彼女がさらなる追求をしようと口を開こうとした瞬間、助手席の女が、ふふ、と声を出した。

静かで、いまにもかき消えてしまいそうな儚さのある声。それにつられるようにして、再び俺はその女を見た。

 薄い皮膚は下の血管が透き通って見えるほど青白い。隣の彼女が口にする透明感、とはこういうことを言うのだろうか、とぼんやりと思った。それにたいして血色の良すぎる、血の滴るような、赤い唇。

 女であることを、強く主張し、威嚇するような、あでやかな輝き。

 長い髪は肩に垂らして、仕立ての着物を着ている。その服装を見て、やはり、とさらなる確信を得ると同時に、伏黒の胃は重くなった。自分ひとりである時ならまだしも、なにも知らない釘崎をこういったことに巻き込ませるのは、さすがに気が引けたし、なにより知られることが嫌だった。馬鹿みたいな自分の、独占欲にも似た何か。

助手席から顔をのぞかせる女の、唇の端が急に微笑むようにつり上がった。

 それは作り物めいてうつくしく、ぞっとするほど温度のない微笑みだった。

 こちらを、値踏みするような不躾な目。そして同時に、卑しいものを見るかのような侮蔑の表情、を覆い隠そうとするかのように歪んだままでいる唇。

「伏黒、恵さんかしら」

「……はい」

 俺は頷いた。

 どうやって逃げようと逡巡していた思考回路は今、この状況をいかに簡潔に、そして穏便に手短く済ませるかに切り替わっていて、大人しく女の言葉を肯定した。それを見ていた釘崎が眉をひそめたが、いま、彼女に説明している暇はなかった。なにより、これからいやでもわかるのだ。それから彼女の話を促すように、

「何か御用でしょうか」

「あなた自身に用はないの、わかるでしょう」

「……、そうですね。でも俺からなにを言ってもあの人は聞かないですよ」

 どうして、この類の女たちはあんな男にこだわるのだろう。伏黒はあのデリカシーの欠片もなく顔だけ妙に整っている男の顔を思い浮かべながら、そう疑問を抱いた。あの男は理不尽で、他人の都合など考えないし、薄情で、軽薄で、どこまでも残酷なところのある、別次元の人間なのだ。そこがまあ、あの男の人間らしさ、なのかもしれないがしかし、と考えて自分も同じ穴の狢であることを思い出して苦笑する。

なぜかこういう類の女たちと会うと、伏黒は何故か優しくなってしまう。あわれみ、なのだろうか、それとも同情。あるいは優越感。なんに対しての、と問われればうまく説明できないが。あの人に、会うこともかなわずにこうして俺のような人間に頼らなければならない彼女たちは、俺のどこにも行けない恋の墓場に定期的に添えられる花のような存在だった。

「なにも知らないとでも、おもっているのかしら」

「ご存じであるのならば、俺があの人に何か言える立場ではないというのは、説明する必要もありませんね」

 女はきりっと睨みつけるように目じりをあげ、そして笑った。それがやせ我慢のような、彼女の武装のための、笑みであることに気が付いて、伏黒はやはりやるせなくなる。

 あんな男、と言ってしまえば彼女が逆上することは目に見えていて、しかし宥めたところで俺の言うことなど信用に値しないと吐き捨てるのもやはり、目に見えていた。先のわかる会話ほど、滑稽なことはない。

「大変申し訳ないのですが、あの人は、不出来な俺の面倒を見るので、時間が足りないんですよ。そうでなくとも、数少ない特級呪術師であるあの人がどれほど多忙であるかは、ご存じですよね」

「知っているわ。だから、あなたからあの人に、言うべきでしょう。あなたの面倒を見ることより、私と会うことのほうが重要であることなど、わかりきっていることでしょう」

 は?と横で低い声が聞こえたが、それを手で制す。

 わかりきっていること。

 そう、確かにわかりきっていることなのだろう。御三家である五条家の相伝術式を受け継ぎ、当主であり、実績もあるあの男が、次に何をなすべきか、など御三家の連中が考えることは決まっているのだ。

 俺は助手席に座ったままでいる女を見下ろす。この女の人生は、相伝術式を受け継ぐ次の命を産み落とす胎としての役目しかないのだな、とぼんやりと思った。この女に限らず、こういう類の女はみな口を揃えてそういうのだ「お役目」と。ふいに、うげえ、と舌を下品に出して顔を顰めているあの男が浮かんで、笑ってしまう。

「なによ」

 女は先ほどまでの仮面のように美しい笑顔を捨て去り、自信がなさそうに伏黒を見上げた。それはあまりに幼く、世間を知らないままに、胎として育てあげられた、汚れない少女の顔だった。

「いえ。でも、先ほども申し上げました通り、俺にはあの人になにかを言える立場ではないので、お役には立てません。では」

 女のぞっとするほど赤い唇はわなわなと震えていた。

「……まち、なさいよ。」

振り返ると、女は泣きそうな顔でこちらを見ていた。先ほどの、勝ち誇った、選ばれたものであるかのような、張りぼての微笑みはすっかり抜け落ちて、そこには頼りなさげな少女のような女がいるばかりだった。

ん、と手入れの行き届いたささくれひとつない指で、どこからか取り出した、名刺のような紙を差し出す。それを伏黒は無言で受け取る。あの男に渡せ、そういうことだろうと冊子はついていた。そこからなにも返答がないのを確認して、伏黒は振り返り釘崎を見る。「わりい、」と小さく口にして、歩き出す。「なにがよ」と言いながら釘崎は伏黒の背中を軽くたたいた。あれ、なんだったの、と追及してこない彼女の優しさが心地よかった。

 太陽が放つ光はじりじりと皮膚を焦がすようで、俺たちはそれから逃れるように補助監督者が運転する、高専の車に乗り込んだ。ポケットにしまったその紙は、わずか紙1枚の厚さであるというのに、痛烈な違和感を抱かせていた。むろん、伏黒が、それを五条悟に渡すことは、ない。

 

▽△▽

 

予想通り、というか当然というべきか、釘崎は車の中で特段追及はしなかったが、「明日、暇よね」と言外に時間をつくれ、と脅してきた。いろいろ気遣って今触れないでいてくれるのであれば、先ほどのこともこのまま見なかったことにしてくれるのが一番なのだが、と共に後部座席に乗り込んだ彼女の横顔を盗み見る。

苦虫をかみつぶしたような、納得できないものを無理やり咀嚼して飲み込もうとしているようなその険しい表情を見た瞬間、伏黒はそれを断る、という選択肢を諦めた。諦めざるを得なかった。彼女からしてみれば、突然声をかけてきた女が伏黒に難癖をつけに来たようにしか見えないだろうし、あのいい加減な自分たちの担任が絡んでいることも察していて、すべてを問いたださずにいるのだ。最初に謝っているとはいえ、これ以上気を遣わせて、どうでもいいことに悶々とされるのは、さすがに自分の意図するところではなかった。

「ああ、」と答えれば、「じゃあ、適当にデザートの美味しそうなところでも案内しなさいよ」と返される。その声には少しの安堵が混じっていて、さっきの誘いが彼女なりのわかりにくい気遣いだったのだと気づく。

「……おう」

補助監督者の丁寧な運転で高専に送り届けられたのち、二人で報告書を出し、明日の集合時間を決める。午前10時。流石に休みの日ぐらい、もう少しゆっくり寝ていたい、というのが本音だったが、なによ、と彼女に言われれば、それ以上何も言えなかった。

 

釘崎と約束した日はとりわけ暑かった。

じりじりとした日差しが露出した肌を突き刺すように痛く、拭っても拭っても汗がしたたり落ち、顎を伝った汗がコンクリートに黒いシミをつくっては、すぐに蒸発して消えていった。昨日までやかましく鳴いていた蝉たちも、異常と言っていいほどの暑さに辟易したのか、鳴りを潜めている。

彼女の要望通り「デザートの美味しい店」を目の前にして、顎でしゃくってみせる。淡いクリーム色の外壁に緑。店先で数人が並んでいる。この炎天下の中、並ぶのは気が引けたが、とっておきの切り札で予約をしておいたので、そこは問題ない。

「あそこ、うまいらしい」

「へえ、やっぱよく知ってんのね。あ、いまのは好意とかじゃないから勘違いしないで」

「しねえよ、」

 ちょっと待ってろ、と釘崎を残し、すべてを溶かしそうな熱気から逃れるようにして、店内に入り、予約していた五条であることを告げると、店員がにこやかに席に案内します、とカウンターの外に出る。振り返って釘崎に手招きする。きょろきょろ、といいのかしら、という初々しい反応がいつもとはちがって、なんだかおかしかった。

席に着くなり彼女は、両肘をテーブルについて、ニヤニヤと妖しい表情を浮かべていた。女のこういう顔は、ほんとうに機嫌のいい時にはしない、というのを姉で学習済みの伏黒は構えて、サービスでおかれた水で唇を湿らせた。

「なんだよ」

「伏黒アンタさあ、なんか乗り気じゃない返答するわりにちゃんと下調べとかするし、前準備もしてくれるのよね、この店とか」

探るような視線が、急に突き刺さったので、ぞくっとした。

今日のこの時間が長くなることは、昨日「暇でしょ」と言われたときから互いに予感している。長丁場になるであることに備え、「デザートだけでなく食事も、あと珈琲もうまい店」を聞き出したのはやはり正解だった。体のどこかがスイッチが入ったように緊張感が漂っていた。

「まあどうせ行くなら、できることはしとくだろ」

「へえ、アンタ、そういうことまめなのね。それとも食通だったりするの?」

 軽いジャブ、のようなものなのだろうか。答えがわかりきっている質問。彼女は俺の口からあの人が出てくるのを待っている。そして昨日のことを話題にしてもいいのか、と言外に尋ねているのだ。何故だか妙に緊張感が高まって、俺は身震いした。けれども、俺が口にすることは決まっている。

「あの人に連れてかれるから、自然と」

「……そう」

彼女はながい息を吐いて、俺をじっと見つめた。

「なんだよ」

「昨日の、女……なに?」

 ふっと、笑いをこらえきれずに息が漏れる。それに釘崎がなによ、と視線を向けてくるが、ほんとうに気が付いてないのだろうか。長居できるくらいに居心地のよくて、デザートの美味しい店。男女のペアが多い店内。そしてこの会話。まるで、俺が浮気男みたいだ。

「いや、べつに……ふっ」

「なによ、答える気がないなら、というか答えたくないなら別にいいんだけど。……なんか頼むわ」

「わりい、そういうわけじゃない」

 伏黒はメニュー表を手に取り、お勧めのメニューと人気メニュー、それからサイズ感を伝えながら、釘崎のほうにメニュー表を開いた。どれもあの人の受け売りだったが、べつにかまわないだろう。釘崎はメニュー表に食い入るように見つめ、しばらくするとどれにしようか、これにしようかと視線を彷徨わせ、そして顔をあげ、伏黒を見つめた。

「アンタはどれにすんの」

「……なにで迷ってんだよ。最低二つに絞れば、はんぶんこ、できる」

「ん〜〜、まってデザートは別腹だから、あとで考えるわ。となると、これと……こっち?」

「おう」

 釘崎の指さしたメニューを注文票に記入していく。と、視線を感じて顔をあげる。「なんだよ」といえば、「なんかアンタさあ……、」とやはりこの前と同じように苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。窓の外でまた、日差しが強くなっていた。窓ガラスを反射して、テーブルに差し込む光は仄かな温かさというよりも、激しい痛みをもたらすもので、グラスは大粒の汗をかいていた。

汗。

潤んだ瞳。

この間の女を思い出す。直接あの人に会うことが叶わないからと言って、何時、そこを通るのかもしれない、子どもを待っていたあの女。どれほどの執着であるのか、どのような想いであの場にいたのか、想像しようとしたが俺にはよくわからなかった。俺はたぶん、あんな風にはなれない、と処分できないまま今も財布に入っているあの紙を思いだす。どうせ渡すつもりもないのだから、さっさとゴミ箱の中に入れればいいのに、なぜだかそうできなかった。親近感、のような、愛着のようなものがわいているのかもしれなかった。

じっと黙り込んでいると、彼女は意を決したように口を開いた。

「こう……、わがままな彼女で鍛えられてます、みたいな余裕っていうか、振りまわされるのに慣れてますっていう感じが漂ってて、……すっごく、嫌」

「はあ?なんだそれ」

 俺は、呆れると同時に片手をあげて店員を呼び、注文票を差し出した。そしてシェアできるように小皿を2つ、ということも忘れずに。

店員が確認のために注文票を読み上げている間、釘崎はけっして俺から視線を逸らさなかった。責めるような目、というよりも不思議がっているような、それでいてどこか怖がっているような否、不信がっている目。差し込んだ陽に熱せされた背中が、チリチリと痛んだ。

振りまわされるのに慣れてますって感じ。

先ほどの彼女の言葉を、笑い飛ばそうとして、そうできずに大きく深呼吸し、冷房の利いた空気を肺に大きく吸い込む。店員がくるりと背を向け、厨房へ向かっていく姿を見送りながら、俺は再びグラスを手に取り、口内を湿らした。釘崎は、変わらず俺を見ていた。不機嫌さを隠そうともしないその表情は、あの人に似ているな、と笑ってしまいそうになるのを堪える。

「あの女の相手も、慣れてたし。あんな最悪っていうか失礼な言われ方して、アンタむかつかないわけ?」

「まあ、慣れてるからな」

「……。その、慣れてるからっての、やめなさいよ。あの担任のことなら、あいつ自身で何とかすればいい話じゃないの。なんでアンタがあんな言われ方して、巻き込まれないといけないのよ」

 まっすぐな、真摯な目を向けられて、俺はたじろぐ。

 たしかに、彼女のいうことは最もだろう。あの女に説明したように、俺はあの人になにかを言える立場になく、同時にあの人は俺の話を聞くわけがないのだから。それでもああして、あの人の「婚約者候補」の女たちは、五条悟本人ではなく、伏黒恵という御三家としての関係性の希薄な俺に話を持ち込んでくるのだ。

 そして俺は、そのことに一種の安心感を抱いている。

 あの人に関する、女がらみのことなど俺を通して、そして有耶無耶になればいいと思っている。

 そんなことを口にすれば彼女はどう思うのだろうか、とちらついて、こんなことあからさまにできる感情ではないと踏みとどまって、もっともらしい理由をあげる。

「まあ、実際慣れてるしな。交代、っていったほうがいいのかもしれねえけど」

「交代?」

 釘崎は一瞬目を見開いて、そして言葉の真意を問いただすように、こちらを見つめた。彼女の目は真剣で、グラスの水面が反射しているせいか、きらきらと光っていた。

俺は肌寒さを感じた。この席に座るまでに大量の汗をかいていたせいか、この席の冷房が効きすぎるのか。俺はテーブルの下で、きゅっと握りしめていた拳を軽く開き、太ももに軽くにじんだ汗を擦り付けた。なんと説明するべきか、言葉を選んでいる時間が、いやにながく感じた。たぶん、通用するはずだ。ちらり、とテーブルの下を見ると、手がかすかにふるえていた。けれども、問題はないはずだ。俺はそのまま汗ばんだ両手を組んで、口を開く。

「なんていうか、……あの人が俺の面倒を見てくれてたんだ」

「知ってるわよ。稽古をつけてくれたとか、そういうのでしょ。高専への入学の手引とか」

「いや……。まあ、それもそうなんだが、なんつーか」

 言葉を濁すと、釘崎は無言で、俺が続きの言葉を発するのを待っていた。俺は奇妙な心地になった。どうして彼女がここまで、俺の話を聞こうとするのか。どうしてここまで気を遣ってくれるのか。そう思った瞬間、思い出した。

 俺たち、友達だろ。

今日、虎杖を誘わなかったのは、彼女なりの気遣いなのかもしれなかった。それとも単純に誘い忘れたのか、いずれにしても彼女がこのことについて知りたがっているのは明白で、俺は言葉に窮しながら、続きをはなした。話すほか、なかった。両手を開いて、汗をズボンにこすりつけて、また組み直す、その繰り返し。

「なんつーか、……あの人が、いろいろしてくれてたんだよ。稽古とか、呪術高専への入学とかそれ以外にもいろいろ」

「俺が、そういうの苦手だってわかってて、揶揄ってくることもあったんだが、基本はあの人が全部なんとかしてくれてて、だから、その、まあ。そういうこともあって、交代っつうか、代わりになってる」

「そういうのって?」

 釘崎は俺の拙い話し方を決して遮らなかった。辛抱強く聞き、それでも解せない個所をもう一度繰り返して問うた。聞き返されるであろうことは想定していたが、やはり自分の口で言うのは少し、いやかなり恥ずかしくて俺は視線をテーブルの上に落とした。

「告白、を断るの」

「……は?」

 釘崎は低い声で返した。

「だから、……告白。付き合ってほしい、とか、そういうやつ。俺はそういうの、あんまわかんねえし。つーか稽古でそれどころじゃねえし、そういうの相手にするのが面倒で、困るっつったら、あの人がなんとかしれくれるようになったんだよ」

「なんとかってなによ、アンタの代わりに断るってわけ?」

「……まあ、そんなもん」

 さきに運ばれてきたアイスコーヒーのストローをくるくるとまわしながら肯定すると、釘崎はまた顔をしかめて、何か汚らわしいものを見るように、というより理解しがたいものを見るように俺を見て、ため息を吐いた。彼女の頼んだ、やたら文字の多い、ようはオレンジジュースであるそれは、普通に売られているものより赤みが強いようにみえた。彼女はそれをゴクリ、と豪快に飲んだ。言葉にできない、何かを呑み込むように。ぷはっと、息を吐くと

「それで、アンタが今度はアイツの代わりにアイツの女の相手をしてるってわけ?」

 と、納得したような、してないような顔で改めて問われる。俺はそれを肯定するほかない。あの人が知ってるかどうかは知らない。俺が勝手に始めたこと。

「まあ、そんなところだな」

「……へえ」

 相槌のように釘崎がつぶやくと、タイミングよく、釘崎が1つに絞れなかった2つの料理が運ばれてきた。とろとろの半熟卵の上にデミグラスソースのかかったオムライスとお店一番人気のナポリタン。テーブルの上に並ぶとふわりと匂いが、彼女の戦意を喪失させたのがわかって、俺はほっと息をついた。

 その、態度がいけなかった。

「それで、いいわけ?」

 並べられた料理を、小皿に取り分けるのに集中するふりをして、俺は彼女のほうを見なかった。見れなかったというほうが適切なのかもしれない。

 それで、いいわけ?

 彼女の、ついさっきの問いかけが何度も頭の中で繰り返される。

 ちくり、と胸を指す痛みは徐々に広がり、あの、俺を待っていた女が思い起こされた。皮膚は透き通るほどの青白さで、艶やかな手入れの行き届いた黒髪を背に流し、美しく微笑むあの女。俺はあの女のように、あの人への義務感など持ち合わせていない。あの人は軽薄で、どこまでも酷薄で、こちらの都合など考えてはくれないのだ。あの人がなにを考えているかなんて理解できる人はこの世にいない。そんな人間を、理解しようと、近づこうとする、あの女のように、俺は、なりたくない。決してこちらを見てくれない男を、それでも待つような、哀れな存在になんか、なりたく、ない。

 テーブルに置いていたスマホがわずかに身悶えて、画面が明るくなるとあの男からの通知が入った。手に取って、内容を確認しようとしたけれど、なんだか気分ではなくって、そのままテーブルに画面を伏せようとした瞬間、あの人からの通知で画面が埋まった。

 なんかの、予知能力なのだろうか。気味が悪くって、そのくせ自分のことを理解しているような挙動が嬉しくって俺はどうしようもなくなる。一度スマホの上に置いた手は、置物のようにそこから動かせなくなる。馬鹿みたいだ。

 見かねたように、

「なによ、返事してもいいわよ」

 と、釘崎は、俺がさっきの問いかけに考えあぐねいていることを気にも留めず、取り分けられたナポリタンをフォークで綺麗に絡めとって、言った。気にしない。そう言いたいのだろうが、俺は今、この人の相手をしたくはなかった。それなのに、俺はスマホから手を放すことができずにいて、視線を彷徨わせるばかりであった。

 俺は助けを求めるように、釘崎を見ていた。彼女は運ばれてきた料理に夢中で、綺麗にいくつもの写真を撮った後は、取り分けられた皿から料理を口に運び、気に入ったオムライスの皿を自分のほうに寄せ、ナポリタンを俺のほうへ差し出した後、こちらを向くことはなかった。

 俺も、ナポリタンに手を付けようとした瞬間、また通知音が響く。

 もう、だめだった。

「見たほうが、いいんじゃないの?」

 呟いて、釘崎はスプーン一杯にオムライスを口に含んだ。中身はバターライスらしい。こうばしい匂いが胃を刺激したが、俺はそれどころではなく、目を閉じて、ため息交じりの息を小さく、逃した。促されるまま、視線を手元に落とし、通知をタップする。

「スモークサーモンにしちゃうなら、べつに元のサーモンにこだわらなくてもあんまり変わらないと思うんだよね」「まだ寝てる?」「休みの日は寝坊助だもんね」「寝てるなら邪魔しちゃお〜〜」「イエーイ、僕のせいで目が醒めちゃった?」「……なんてね、今日野薔薇と出掛けてるって知ってるから、もちろん起きてるよね」「でも、こ〜んなに働いてる僕のことを無視するのはなんかむかつくからさあ」馬鹿みたいにいらつくメッセージのオンパレード。

 手元が暗くなった、と感じて窓の外を見れば、いつの間にか黒い雲が広がっていて、遠くで雷鳴がとどろく音がした。雨が降る、そう予見するは十分な暗さだった。

 俺はそれにスタンプで適当に返し、少し冷めてしまったナポリタンを口に含んだ。味は、正直分からなかった。俺のことをわかっているような文言も、すべてを見透かしているような文言も何もかも、鬱陶しいと感じるのにどこか心地よく、充足感を得ている自分に吐き気がする。

馬鹿みたいだ。

あの女も、俺も。

 

△▽△

 

 あの日以来、天気は崩れて、じりじりと皮膚を焦がすような太陽は姿を隠し、蒸し暑さを増すための雨雲がぐんぐんとやってきて、伏黒はなにをするにも億劫になっていた。釘崎と出掛けたあの日、あの後は彼女の買い物に付き合うというお決まりのコースになるかと思ったが、天気が急に崩れたのもあって、なし崩しに伏黒と釘崎はまっすぐに高専へと戻ることとなった。

 それで、いいわけ?

そう尋ねた彼女の問いに、伏黒が答えを出すことはなかったが、彼女がその沈黙こそが答えなのだと解釈したのか、はたまた興味がなかったのか、質問していたのを忘れたのか、それ以上何かを尋ねることはなく、最近の訓練の内容だとか、夏服がないことへの不満だとか、訓練ですぐに服が傷むから出費がいたいだとか、そういう話で時間は過ぎていった。

 

それで、いいわけ?

それでも、彼女の言葉は伏黒の心に刺さったまま、決して勝手に抜けて消え去ってはくれなかった。いつまでもあった自分の中の不満を言い当てられたかのようで、どこか後ろめたく、そして恥ずかしかった。じめじめと鬱陶しい雨は、空気さえも重苦しいものにして、今の気分と相まって、ひどく憂鬱な気分だった。あの男なら、こんな天気など気にも留めないのだろう。あの、なにもかもを拒絶する術式であれば、天気も、天災も何もかもが無意味だ。

なんて、また、あの男のことを考えてしまっている自分に苛立ちを募らせて、伏黒はため息を吐く。

いいわけ、ない。

ずっと前から答えは出ていた。

彼女に問いかけられた時、とっさに口を突いて出そうになった言葉を、必死に呑み込んで生まれた沈黙を、彼女は肯定と受け取ったのだろうか。いや、そんなことはどうでもよかった。薄暗い自分の中の感情が、徐々に近づいてくることに気付いている。見ないふりをして、必死に隠してきた感情は、いつ露見してもおかしくないほどに、育ち切っていた。

自分のこころを落ち着かせるように、薄く長い息を吐く。

しかしどうにもおかしな挙動を保ったままの心臓は、決してすぐには落ち着かなかった。気の迷い。感情の取り違え、親愛と恋愛の吐き違い、尊敬と憧憬の誤認。この、あの人に向ける感情が恋愛以外のなにかであることを、俺はながい間祈ってきて、そうであればいいと塗りつぶそうとした、何度も。何度も何度も繰り返し、刺し殺して、首を絞めて、心の奥深くに沈めてしまえば、消えてなくなると思っていた。いつかの自分が、もう顔も思い出せない親に対して抱いていた「迎えに来る」という期待と同じように、いつかは消えてなくなってくれると信じていた。馬鹿みたいに。

それなのに、その恋、というのも憚られるような感情はけっしてきれいに消えてはくれなかった。それどころか根強く自分のこころのなかに巣食って、簡単には洗い流せない汚れのようにこびりついている。

いっそ、女だったらなんて考えが頭にちらつくくらいになって、俺はようやく、これが恋であることを認めた。どうしようもなく行き場がなく、不毛で不埒な感情の慣れの果て。

毎朝目覚めるごとに肥大していくその感情に、狼狽える。

しかし、呪術高専の学生である。

どんなに憂鬱であろうと、気がのらないと駄々をこねていても呪霊は飽きることなく産み落とされ、蔓延り、被害を生む。どれほど倦んでいようとも、それらを祓わなければならない。ふう、と重い息を吐いて、学生服に袖を通し、靴を履く、朝ごはんをためようかと思ったが、スケジュールがぎっちり組み込まれていることをスマホで確認し、そんな時間はないと思うと空腹はどこかへ消えた。

それと同時にあの人からのメッセージに気付く。「今日朝ごはん食べた?」送信時間を見れば、朝の3時。絶対に既読がつくわけがないのに、こうしてこんなメッセージを送ってくるのはどうしてだろう、などと考えて、こたえがでるはずもなく。

意味などない。

というのが、こたえであるので。

あの人の言動を、理解しようとするほうが無謀である。

いつも通りに呪霊を祓い、報告書を提出し、昼食を取った後に2年生との合同訓練に混ざる。天候は雨だが、呪霊あるいは呪術師との戦いが、いつも天候に恵まれるとも限らない、ということを考慮すればこういう日の外での訓練はやりがいがある。雷鳴がとどろいて、雨脚はどんどん激しくなっていく中で、皆泥だらけ、汗まみれ、雨に濡れて訓練を終えた。

 

訓練を終えると同時に、汚れた衣服を脱ぎ捨て、浴室にこもる。

「夏だからってシャワーで簡単に済ませないように」というのはあの人の教えだ。なんでも体の疲れをとるに湯につかるのは最適であるとか、なんとか。もちろんそんなことを言われた当初の俺たちは、たった1日のためにあんなにお湯を張るのなんてもったいないと思っていたわけだし、そう反発していたが、いつの間にか長風呂するのが習慣になっていた。

呪われたかのように、ずるずると、何かを引きずっているような、重苦しくどうしようもない圧迫感ともいえる疲労感は暖かい湯船に浸かると、一瞬にして消え去る。

身体をくまなく洗い流し、再び湯船に浸かる。少なくとも10分は浸かれ、というのがあの人の教えだった。たぶん、あの人はそんなことを覚えてはいないだろうし、憶えていたとしても俺のことを揶揄うだけなのだろう。

ちゃぷりと、湯を救って自分の顔を洗う。持ち込んだスマホを見るとあの人からの通知で埋まっていた。こうしてあの人の通知で埋まるのはいつものことだが、今日はやけに頻度が多いな、と濡れた髪の毛をかきあげながら思う。それに対して、電話がかかってこないのも不自然で、俺は戸惑う。

多分、こんなことを釘崎に言えば「はあ?」と怪訝な顔をされるのはわかっている。振りまわされていて楽しんでるの、とでも訝しむような顔が、ありありと浮かんで、伏黒は行儀が悪いと思いながらも、頭のてっぺんまで湯船に浸かった。ブクブクと自分から吐き出される息が遠くのもののように聞こえ始めた時、ゆっくりと顔を出す。

 

いいわけが、ない。

ずっとある感情が、身体にこびりついてはなれない。どれほどきれいごとを並べ、「慣れているから」などと誰もが納得するような言い訳を並べたところで、自分のこころまでを騙すことなどできないのだ。

すきです、アンタのことが。

そう言ったのはいつのことだったか。口にするつもりなどなかった。恋に茹った頭が口をすべらせた。答えはわかりきっていたし、俺は別にその先なんかを望んでなんかいなかったのだから、口にするだけ無駄だった。感情に溺れることのないように、ひた隠しにしたままでいようと決意していたのに、あの時の自分はどうしてか、そう口を滑らせた。迂闊だった、そういうほかない。

「恵、そんなに力入れると、手、壊れちゃうよ」

するりと絡みつくように握りこんだ拳を撫でられたあの感触を、今でも鮮明に思い出せる。滑らかで冷たい指。甘い痺れを残して、すべてを奪う。

欲しい答えを与えてくれないまま、俺の言葉への返答もないままに、男はするりと俺の腰に長い腕を回した。瞬間、ここが人目につく廊下であることを思い出して、俺は情けないほどの弱い力で抵抗した。本気でない抵抗を、男は鼻でわらった。

「はは、君、かわいいね」

 抱かれた腰は男に引き寄せられて、身体が密着する。ゼロ距離、と言っていい距離で囁かれた声が鼓膜を揺らした。それだけで、身動きが取れなくなった。触れられた瞬間、それだけで、呼吸が止まった。どくどくとうるさい自分の脈が耳の裏で騒めく。男の腕の中から逃れようとした手は、いつの間にか男に縋りつくようになっていて、その事実が俺を打ちのめす。どこにも行けない。どうにもならない。

 この人は、俺のものにはならない。

 誰のものでも、ない。

 力の抜けた身体で、最後のあがきのように後退ろうとすると、覆いかぶさるように、ぎゅっと抱きすくめられて、もう、ダメだった。

 だって、この人はさっきから、俺の言葉への答えをくれていない。このままではだめだ。そう頭の中で警鐘が鳴り響いているというのに、この腕を受け入れたいと思ってしまう。もうすべてがどうでもよくなって、触れて欲しくて、ずっとそばにいて欲しくて、最後の意地のような指先の、力がぷつり、と抜けたとき、俺は泣きそうになった。押し付けられた胸板に頭をうずめたまま、俺はもう、何も考えたくない、と思った。

「で、君はどうしたいの?」

 かわいいね、そうやってさっき囁いたのと同じように耳元で囁かれる。腰にまわされた腕は、そのままに、空いた片方の手で、俺の髪を優しく梳きながら、

「呪術師になるために、ここに来たのに、そっちのけで僕と恋人ごっこに明け暮れたいの?」

 と男は俺の顔を覗き込みながら、尋ねた。口元には、いつもと同じ優しい微笑みが浮かんでいた。なんて答えるべきかなんて、かんがえるまでもなくわかりきっていた。廊下に伸びる影はながく伸びていて、夕日が男の顔を赤く照らしていた。

 

 

 はあ、とため息をついて湯船に映る自分の姿を見つめる。

 それでよくても、よくなくても、俺があの人から離れることなどできない。ざぷり、と湯船から勢いよく上がると同時に、栓を抜き、風呂掃除をする。洗剤を軽く流した後に自分の身体の水気を取り、スマホを見る。やはり、着信はない。それにどこかほっとしながら落胆している自分が、もうわからない。ゆったりとした着心地のいいスウェットをかぶり、まるでなにごとのなかったようなふりをして、何も考えていないようなふりをして、台所に立つ。

ちいさな備え付けの冷蔵庫から玉ねぎと生姜を取り出し、トン、トンとリズムよく包丁をおろす。玉ねぎは薄くスライスして、しょうがはみじん切りに、油でいためて、しんなりしてきたら豚肉を入れて、調味料を流し入れる。じゅわっと蒸気が上がって、肉と生姜のいい香りがした瞬間、換気扇がゴオっと音を立てながら、それを吸い込んでいく。できあがった生姜焼きを大き目のタッパに入れて、即席ご飯を2パックと即席みそ汁のもとを2つビニール袋に入れた。

入れて、やっぱり、と迷いが生じて、そこから逃げ出すように、その袋を視界に入れないようにベッドに腰掛ける。腰掛けたら、今度はサイドテーブルに置いたままの、あの女からもらった紙が目に入った。そっと指を伸ばして、上質な紙であろうことをうかがわせる手触りのそれに印字された文字をなぞる。要約すれば、「五日後(つまりは明日)、指定したホテルで待っている」ということだった。馬鹿な女。なんで俺なんかに手渡したのだろう。俺を経由するのではなく、あの人のもとへ直接送れば確実だろうに。それとも、俺が親切にそこまでしてやるとでも思ったのだろうか。恋敵にすらなれないで、こうしてあの人に関係する女をひとりでに牽制して回っている俺が。

ふっと、自嘲の笑みがこぼれるのを止められなかった。

「交代」なんて、どの口が言うのだろう。あの人は一度だって、俺にそういう役割を求めたことなどない。

釘崎に話したことの全てが嘘、というわけではなかった。あの人に、嫉妬してはくれまいかと半ば祈るような気持で話した女子からの告白を、あの人が面白がって、ことあるごとに出現し、邪魔してきたのは本当だ。けれどもそこにあったのは、独占欲でも保護欲でもなんでもない、ただの好奇心。俺が期待して、求めていたものから随分と離れた感情が動機。俺が勝手にあの女たちを相手にするのとはあまりにも異質な情。

俺が、釘崎の言う通りあんな面倒な女の相手をするのは単に、俺にとって都合がいいからだ。どこぞの誰が吹聴した噂話が発端なのか、それともあの人が何気なしに口にした「子供を見るのだけで精一杯」を曲解した結果なのか、いつからかそういう女たちはあの人ではなく、俺への接触を試みるようになった。あの人がそれを知っているのかどうかを、俺は知らない。

知らないながらに、俺は淡々とあの人に近づこうとする女たちを、こうして処理していく。紙をぐちゃっと握りしめて、サイドテーブルに投げ捨てる。スマホで書かれているホテルを検索すると高専からそう遠くない、シックなホテルがヒットして、俺は少し同情した。これまでの女たちはここぞとばかりに名高い料亭であるとか、都心に近い高級ホテルを指定していたが、あの女はここからのアクセスを考えて、そして商談にでも使われそうなその場所を指定しているのである。しかも何号室、ではなくロビーで待っている、と。

たぶん、と伏黒はあの泣きそうな顔をしていた女を思い浮かべる。

彼女はきっと待っているだろう。何時間でも、日付が変わるまで、ずっと。だってあの紙には時間など書かれていなかった。五条悟という人間が如何に多忙で、いかに時間をつくるのが難しい人間であるかを考慮して、最大限に譲歩した、提案なのだろう。そしてそれは、あの人の耳に入るまでもなく、俺の手によってもみ消される。

ばかな女。

そして、どうしようもない俺。

来たばかりのスウェットを脱ぎ捨てて、明日切るはずだった学生服に袖を通す。ズボンももちろん履き替え、サイドテーブルのそれをゴミ箱にしてようとして、少し思い悩んでポケットに入れた。他意はない。このまま洗濯して、散り散りになった紙の残骸を見て、そう言えばそんなこともあったという過去にしてしまおう、という何とも卑劣な魂胆だ。

靴を履き終えて、狭い台所に置いたままのビニール袋をひっかけて、教員寮にある、あの人の部屋に向かう。

 他意はない。

 作りすぎてしまっただけで、なんなら今日の生姜焼きは少しうまくできた気がするから自慢したい。あとはこのまえ、俺を待ち伏せしていた女の報告。やっぱりそれはなし。今日の訓練とかそれに対するアドバイス……は期待できそうにないな、と思いながら人気の少ない教員寮へ急ぐ。ついでだ。別におかしなことじゃない。それがゆるされない間柄、でもないはずだ。

 ぶつぶつと続く独り言にもならない言いわけと、廊下を歩く自分の足音。

 俺はぜんぶを聞こえないふりをして、渡されていた鍵で、あの人の部屋に上がり込む。いつかの自分は、この手渡された鍵に舞い上がって、どうにかなりそうだったのに、いまはただ、こうして世話を焼くための役割を与えられたにすぎないのだと、冷静に理解できてしまっているのが悔しい。この人の世話を焼きたい女など、他にどれほどいるのか、あの人はきちんと理解している。そのわけは言うまい。でも、確実にあの人は自分の価値を理解していて、自分の与える影響を理解して、自分の言動が周りをどれほど振り回すのかも理解したうえで、ああして存在しているのだ。

 机の上に、ビニール袋をがさりとおき、風呂場へ向かう。慣れた手つきで浴槽を洗い流すと、湯をためた。スマホの連絡を見るに、あの人がそろそろ帰ってくるであろう時間だった。多忙に多忙を重ねるあの人が、すぐに帰ってこなくても、追い炊きすればいい。そう思いながら、ただ湯が満ちるのを浴室に座り込みながら待っていた。

犬みたいに。

縛り付けるリードもないのに。首輪も与えられていないのに。遠吠えすら、できずにいるのに。

馬鹿みたいに、待っていた。

 

△▽△

 

 ある日を境に崩れた天気は一向に回復の兆しをみせず、つかの間の晴れ間をみせたかと思えばすぐに雲隠れし、蒸し暑さを増すための雨雲が空を支配するばかり。窓の外では蝉も鳴かない日が続き、日焼けとは無縁の夏の到来だった。

汗で湿ったシーツから身体を引きはがし、軽く伸びをしようとしたが、腕が中途半端に上がるだけだった。このところ、五条はなにをするにも億劫になっていた。無論、彼のすべてを拒絶する術式は、じめじめと鬱陶しい雨にも有効ではあったがしかし、だからといって気分までも晴れやかにすることなどできなかった。それは、なにもここ最近手天気のせいばかりではないのかもしれないが。いや、ため息の原因などわかりきっている。

 

 すきです、アンタのことが。

 あの時の、彼の顔を今も鮮明に思い出せる。たぶん、口にするつもりなどなかったのだろう、しまった、という顔をしながら、そして静かに顔を伏せて、彼は僕の言葉を待っていた。窓から差し込む夕暮れの淡い光を浴びてできた彼の目元の影は、年にそぐわない哀愁を漂わせていた。窓の外で虫の羽ばたく音がした。もしかしたら彼の長いまつ毛の瞬く音だったのかもしれない。

あまりにも静けさに満ちていたものだったから、彼の言葉を聞かなかったことにしてあげるのは、無理があった。

 誰かが通りかかる可能性のある、校舎の廊下でするような話ではなかったし、普段の彼であればそんな迂闊なことはしなかっただろう。慎重さ、というよりは用心深さを備え持っている彼らしからぬ行動だった。そんなこと、彼自身もわかっているのだろう。握りしめた拳は、いっそかわいそうなほどに震えていた。

「恵、そんなに力入れると、手、壊れちゃうよ」

自然と指が、彼の手をなぞるように触れていた。彼はビクリ、と驚いたように肩を揺らした。一瞬。逃げる機会があったのなら、その瞬間だっただろうに、それなのに、彼は僕の指を振り払おうともせず、強ばったまま受け入れた。この場から走り去るような様子をみせないところを見るに、いっそのこと介錯を求めているのかもしれない、とも思った。

かわいそうに。

「はは、君、かわいいね」

純粋にそう思った。逃げる術など、いくらでも教えてやったというのに。僕が、他人への興味も薄く、関心のあるそぶりを見せて、次の瞬間には冷めているということなど、彼は誰よりも知っているはずだ。だから、このまま僕の手を振り払って、逃げればいいのに。そう思いながら、彼の細く頼りない腰に腕を回す。驚くほど、抗う気など毛頭感じられない抵抗に、僕は笑いが堪えられない。あまりに聡明で、愚かで、卑怯な意思表示。僕に何を期待しているのだろうか。何も期待していない、と、うそぶくその口より雄弁な瞳は、奈落の底のような深い欲望が渦巻く昏くにぶいひかりをはなっていた。

 もとから、他人を信用しない子どもだった。

 人の機敏に敏いくせに、人の感情に鈍いのは、育った環境のせいか、それとも僕のせいか、と逡巡してどちらでもあるという結論にいきつく。愛の告白、というよりも罪の告白と言ったほうが似合う表情を浮かべている彼を見下ろして、今度は自嘲の笑みがこぼれる。

 僕なりに、愛情をかけていたつもりなんだけどな。

 なんてことを言葉にしたところで、この子どもはきっと理解できないのだろう。

聡いこの子のことだ。僕のこれまでの言動などすべて、「呪術師となるため」の教育で、嗜みで、訓練で、関係で、……それ以上でもそれ以下でもない、と結論付けられてしまっているのだろう。もっともらしく、他者の誰が聞いても納得できる理由と根拠。きっと彼は僕の気持ちを理路整然と語ることができるのだろう。きっと何度も想像したのだろう。

「で、君はどうしたいの?」

 答えが出てこないとわかっている質問を聞くくらいの意地悪、許されたっていいだろう。触れあう胸板から、彼のバクバクと忙しなく動く心音が伝わり、じわりと上気する頬も嘘偽りないものだということは、わかりきっているのに、彼が僕に求めるのは、これを受け入れることではないのだろう。こうして抱きすくめられて、それだけで身動きも取れないほどにぐずぐずになってしまっているくせに、と詰るような妙な感情がちりちりと胸を焦がした。

 馬鹿な子ども。

 いっそ憎らしく思えてくる。それでも、それなら、いっそ彼の理想通りに振る舞ってやることこそが、愛情、というやつなのかもしれない。らしくもなく、憐憫の情などわき始めた自分に驚く。それは、自分からは最もかけ離れた感情のように思えた。自分の影響力など、考えるまでもなく理解している。理解していて、考慮すべきことではないことなど切り捨ててきたのに、いま、自分は手に入れたいと思っている子どもの、理想の自分を演じるために、本来の自分を切り捨てようとしている。なんとも愚かな道化だろうか。

 僕にからだを預けたままになっている彼の艶やかな黒髪を手で梳く。髪の毛のいっぽんも、僕に縋りつく指も、後悔と混乱と情欲で揺れる瞳も、廊下に伸びる影も、すべて僕のものであるはずなのに、と未練がましく思いながら、耳に唇を近づけ、けっして僕のものになることをゆるさない強靭な精神を持つ、憎らしくも愛しい子どもに、

「呪術師になるために、ここに来たのに、そっちのけで僕と恋人ごっこに明け暮れたいの?」

 と、僕は彼の顔を覗き込みながら、尋ねた。口元には、偽物の笑み。頬がひきつったように痛む。なんて答えるべきかなんて、優秀で、聡く、愚かな彼はかんがえるまでもなくわかりきっているだろう。その瞳は揺れることなく僕をまっすぐに射抜いて、その中に安堵の色を見つけた時、僕は苛立ちと後悔に支配された。

 ひどいのは、どっちだろう。

 人のことを散々、人の気持ちがわからないだの、デリカシーがないだの、モラルが欠如してるだの、評価する癖に、彼は誰よりもそばにいる僕の気持には気付かない。気付かないで勝手に傷付いて、まるで被害者のような悲しい表情を浮かべている。

 ざまあみろ。

 僕のせいで、永遠にそこでうずくまって泣いていればいい。

 そんな感情を抱えながら、毎朝起きる僕の寝覚めはそう良いものとは言い難かった。

 

 そうはいっても大人である。

 どんなに憂鬱であろうと、気がのらないと駄々をこねていても憂いは飽きることなく産み落とされ、蔓延り、被害を生む。どれほど倦んでいようとも、それらを祓わなければならない。ふう、と重い息を吐いて、教師服に袖を通し、目隠しをすれば、いつもの五条悟の完成。「あー、やだやだ」などと独り言ちて、スケジュールがぎっちり組み込まれていることをスマホで確認する。ついでに、「今日、朝ごはん食べた?」なんてメッセージを送っておく。朝の三時半。絶対に既読がつくわけがないのに、こうしてスマホを手に取るたびにメッセージを送るのをやめられないのはどうしてだろうか、などと考えて、こたえがでるはずもなく。

 意味などない。

 というのが、こたえであるので。

 否、答えを出したくない、というのが答えである。

 一通りの遊びをたしなんできた大人の男である。「人の気持ちがわからない」なんて言ってくる可愛げのない子どもよりもずっと、そういうことには慣れていて、いまさらこの感情の名前が何かであるのかなど、疑問に思うまでもない。けれど、相手は子どもだ。分別のつかない、親愛と恋愛の違いも分からない、女のからだも知らない子ども。それにつけこんで、絡め取ってしまえばいいと思うのに、同時にこんな自分から逃がしてやりたい気持ちに駆られるのはどうしてだろう。大事にしたい。でも、僕のせいで傷ついてほしい。その勘違いにも似た憧憬で一生身を焦がして、僕を忘れないでほしい、なんて。

 

 思いながら、湧き出た呪霊をいつも通りに祓い、呪詛師を殺す。奪うことになれたいま、これらはただの作業に過ぎない。雨粒などあたるはずもないのに、それらを服が吸い込んだかのように、からだがどんどん重たくなる。体に異常はない。それなのに、いつものように五件の任務をこなした後、報告をしに高専へ戻ることを考えることさえ苦痛だった。一歩も動きたくない。そんな我儘が一瞬頭をかすめたことに苛立つ。術式を制御できなかった学生時代じゃあるまいし。

ずるずると、何かを引きずっているような、それこそ呪われたかのように、重苦しくどうしようもない圧迫感ともいえる疲労感に息が詰まる。連日続く雨のせいだろうか、それともこの蒸し暑さ、あるいは年。なんて考えて、やだやだと頭を振る。滴は髪につく前に弾けて地面に落ちた。「今日のメロンパフェ、何味だったと思う?メロンじゃなくて人工甘味料。しかもメロンソーダの味でもなかった」と送信して、そのあとに「そういえば、明日は降らないらしいよ」と天気予報なんかも送っておく。ほんとかどうかは知らないが。

 既読はやはり、つかない。

 時刻はとうにお昼を過ぎていて、そう言えば今は訓練流なのだと思い当たる。2年に扱かれているであろう彼に、スマホをいじっている暇など、ないだろう。特に、体術に関してはまだまだ、甘さが残る。甘さ、というより諦念、と言ったほうがいいのだろうか。

「水分補給を怠らないように!」と送信して、ポケットにスマホをしまう。その重みすら耐えられない鈍痛がからだに響く。息をするのも気だるいような気分が幾度も押し寄せるたび、喫茶店に入って角砂糖をかみ砕き、コーヒーで流し込んで、誤魔化す。露店でガムシロップと9対1の割合で入れてもらったアイスティーを啜りながら、ギシギシと悲鳴を上げる身体を引きずって高専へと戻る、と「お疲れ様です。先生の部屋の風呂、若しと痛んではいってください」と可愛げの欠片もない少年に出迎えられ、教員寮の僕の部屋へと連行される。ご丁寧に玉犬にのせられて。

「は?なに、」

 まるでこれでは僕が臭う、見たいじゃない?と言いたかったが、確かに肉が腐っていく匂いがかすかに漂っているのに気付いて、押し黙る。返り血など浴びるはずもないのに、なぜか。気になるとぐっと腐臭が増したように感じて、押し込まれた浴室で念入りに体を洗い、彼が沸かしてくれたという湯船に浸かる。

 こうして、ゆっくりと風呂に入るのはいつぶりだろうか。

 水面にゆらゆら映る自分の姿をながめながら、ぼんやりと思った。はあ、と長い息を吐いて、手足を思いっきり伸ばすと浴槽から勢いよくお湯が溢れ出る。

「なにしてるんすか」

 ガラリ、と浴槽のドアを開け、恵が僕を見下ろしていた。制服の上着は暑さのせいか、珍しくも脱いでいて、腕まくりしていた。稽古はジャージでしたのだろうか、やけに汚れていない白いシャツが気になった。水溜まりに足を突っ込んでも裾をまくり上げたりしないだろうに、今日の彼はそのズボンの裾もすねのあたりまで捲し上げていた。その珍しい姿に目を丸くしながら、

「え、恵こそ何してんの。のぞき?も〜まだ君にはそういうのはやいって、」

 と、その姿に言及する機会を逃してしまった。

 彼はむっとした表情を隠そうともしなかった。

「……風呂でも溺死、できるみたいですよ」

「はは、実演するためにきてくれたの?」

 彼は肩を落として、はあ、とわざとらしいため息をついて、力なく「いいから、頭、こっちにかしてください」といってシャンプーを両手で泡立たせ始めた。濡れそぼった僕の髪の毛を見て、もう洗い終わっているとは思わなかったのか、それともどうでもよかったのか。まあ、どちらにせよ、彼の珍しい行動を蔑ろにしてやろうという気分にはなれなかった。

 彼に頭を預けるようにして、浴槽のふちにもたれると、やわやわと頭を揉みこまれる。念入りに手指を手入れしているせいなのか、術式で指を動かすせいなのか、意外のことに彼はマッサージというかシャンプーがうまかった。その骨ばった指で、僕の頭全体を覆うと、頭皮を揉みこむに強すぎも弱すぎもしない絶妙な力加減で、揉みこみ、髪の毛をすいていった。ついで、とばかりに頭から首、首から肩へと手を這わされたときにはさすがに驚いて、体勢を崩したけれども、彼はそれに構わずマッサージを続行した。いつの間に、そんな手つきを、と過保護な親のような心境になっている自分が嫌だった。親愛と情欲は両立する、ということを自分で実証したようで。

 彼は満足すると、シャワーの温度を手で確認した後に、ぼくに纏わりついていた泡を洗い流した。振り向くと、彼はなんとも読み取れない表情で「晩飯、用意してあるんで」といって、僕の返事も聞かぬ間に浴室の外へ逃げるように出て行った。

 茫然と見送る。

 ざぶり、と彼の後を追うように湯船から身体を引き上げる。湯にしっかりと浸かったからか、それとも彼のさきほどのマッサージの効果か、さっきまであった気だるさは跡形もなく消え去っていた。どこか酩酊めいた心地よさばかりが、からだに満ちていて僕は戸惑う。と、同時に、彼のポケットから落ちたのであろうぐしゃぐしゃに丸まった紙に気付く。濡れた床に落ちたそれは少し延びていた。

 濡れた手で躊躇いなく拾い上げると、そこにはここからそう遠くはない、高専の呪術師以外の一般人の来客が利用するホテルが書かれていた。ご丁寧に「待っています」とまで添えられていたのを確認して、それを握りつぶす。手が濡れていたせいか、それは元よりも悲惨な姿になっていて、僕は構わずそれを湯船の中に投げ捨てた。僕が浴槽を掃除する頃には、ふやけて排水溝にも流れるようになっているだろう、などとぼんやり思いながら。

 

 タオルで簡単に髪の毛を乾かし、寝間着に着替えて六畳間を見ると、テーブルには生姜焼きと白米、そしてインスタント思わしき味噌汁が二膳、並んでいた。どうやら今日は、彼もここで食べるらしい。先に席についていた彼が、僕を待つようにこちらを見つめていた。

「……ねえ、僕と付き合う?」

 そう言って僕は椅子をひき、彼の正面に腰を下ろした。それはある意味で、彼を試す行為だった。この間の告白を、あんな風に彼の口で否定させたくせに、いま僕はそんな彼に誘惑してみせている。答えがどちらであっても、同じことだった。少なくとも、僕にとっては。

 彼は僕を忘れる暇もないし、僕から逃れるという選択肢もない。

 彼は目を瞬かせた後、何を迷うことがあるのかしばしの間逡巡し、読み切れない、何とも名状しがたい笑みとともに、

「遠慮しときます。そんな余裕、ないので」

 と口にした。

 僕は、満足だった。彼にあの紙を渡したのがどんな女であれ、きっと彼が相手にすることはないだろう。彼が欲しがっているのは僕で、それ以外ではない。それで穴埋めできるほど彼は器用ではないし、同時にそこまでの欲もない。僕は安心して、両手をそろえる。美味しそうだね、なんて言いながら彼の顔を見つめる。甘辛いたれと生姜の香りが鼻腔を擽る。彼は嬉しそうに、微笑んでいた。

 

△▽△

 

 僕は急いで今日の任務を片付けた。いや、一人でこなすにはあまりに膨大な量の任務をできるだけ効率よく、素早く処理するのはいつものことであって、なにも珍しいことではないがしかし、昨晩目にしたあの紙に書かれた内容がちらついて、何も手につかないどころか、気を紛らわせるために、任務処理に明け暮れた、というのも事実ではある。

恵は、あの紙を受け取った彼は、僕を好きなのだから、あの紙を渡した人物に会いに行くとは思えない。昨日の僕の誘いにも乗らなかった彼だ、そうであるわけがない。そうは思いながらも、気にならないといえば嘘になる。

呪霊を祓うのに集中しきれず、いつもと違って勝手の利かない自分のからだに苦笑いを浮かべたあと、不意に胸にへばりつくような疑念がこみあげてきた。もしかしたら、恵はあの紙を渡してきた人物にあうのかもしれない。もしかしたら紙を誰かに渡そうとしていたのかもしれない。可能性、というよりももっとざらついた現実味があるそれらが、自分のこころをやすりで傷つけるように、じりじりと迫ってくる。

恐怖とも、焦燥ともつかない高ぶりが、胸から喉へせりあがってくるように、呼吸を苦しくさせた。

 

呪術師になるために、ここに来たのに、そっちのけで僕と恋人ごっこに明け暮れたいの?

 

 そう言って、彼の感情に蓋をしたのは僕だ。

そしてこれは彼への牽制でもある。

僕を相手にする以外にももちろん「恋人を作るような暇ないでしょ」という遠回しなそれに、彼が気付いているのかどうかはわからない。しかし昨晩の彼の様子、そして受け取ったくせにくしゃくしゃに丸められていた紙、あるいは誰かに渡そうとしてそうできずにポケットに入っていた紙を見れば、それは功を奏しているように思える。

 しかしだからといって、信じ切ることはできない。自分の目で確かめる以上に、確実に安心を得る方法などないのだ。音もなく呪霊を消し去り、軽く首筋ににじんだ汗をだらしなく袖でふき取り、容赦なく熱されたアスファルトの上を歩く。もう日は沈みかけているというのに、むせ返るような熱風が身体を包んで、息苦しい。重い足取りで、あの紙に書かれていたホテルへ足を向ける。

「あほくさ……」

 叶えなければならない夢に必要な駒としての存在から、かけがえのない、替えの利かない存在へと変化したのはいつだったか、もう自分では思い出せない。彼の成長を心の底から喜ぶと同時に、日に日に肥大化していく邪な感情をもてあましていたのも事実なのだ。一回りも年下の、子どもらしさの欠如した子どもを相手に、だ。その荒唐無稽さに自分でも呆れて、何度自分の感情を問い詰めたかしれない。

 はじめは、別の感情と取り違えているのだろうと思った。今までにない関係性。実父を殺し、彼にとっては仇となる人間。そして御三家の一つである禪院家の相伝術式を引き継ぎ、自分を殺せる存在である人間。それ以外にも、彼を自分の手元に置くためにつぎ込んだ金額が、そう言った特別な感情を抱かせるのかもしれない、そう処理しようとした。

 あの成長途中の骨ばった薄い肉付きの、女のからだとは比べるべくもなく硬そうな体を組み敷いたところで、きっと面白いことなどない。そのくせ、稽古と称して投げ飛ばした彼が苦痛に呻きながら自分を見上げる目に、腹底に熱い高揚が溜まるのを止められずにいて、何かの拍子にちらりとのぞいた、彼のしなやかで薄い筋肉に目を奪われ、汗の滲む首筋に舌を這わせたいという欲求がわきあがる。それをどれほどの忍耐で押さえつけてきたかなんて、あの無知で愚かで憎らしくも愛らしい子どもは知る由もないのだろう。

そうして何年も経って、だからこそ僕は、彼の、僕を見つめる目の中に見え隠れする思慕の色に、もしかしたら彼よりも早く、気付いていた。

 彼が自覚するよりも早くそれに気づき、彼がその恋を否定しようとしていることも、よくわかっていた。期待するだけ無駄だということも。彼のそれはまだ恋を知らない子どもの、一過性の感情だ。持続することなく、自覚などしなければ、簡単に過去の憧憬へと変わるもの。いつか、気付くのだ。恋ではなかったと。身近な大人への憧れがうまく処理できていなかった故に生まれた錯覚。誤解。なんだっていいけれど、僕が恵に抱くものとは違うそれ。

いつまでも変わらぬ人間などありはしないし、子供は大人になる。大人への憧れは歳を重ねるごとに薄れ失望と諦念とに変わってゆく。彼が僕に向けるのは、肉欲とはかけ離れた別物のなにかだ。思春期の、身近な人間に入れ込んでしまう一過性の熱。過ぎ去れば残るのは後悔。

君が、離れてゆくことを簡単に想像できてしまう僕にとって、突き刺すくらいの熱い目をむけてくる、その時間は薄氷を踏むような不安定で歪な虚像の幸福だった。

だから、だからこそ、許してやった。

僕を、選ばないことを。

「じゃあ、付き合う?」なんて軽い言葉で肯定なんかしなければ、きっとその憧憬と思慕とをはき違えた感情は、風化して美しくも苦い青春の思い出となる。きっと何年後には、あんなときもあったな、なんてしみじみと思い出したりするのだ。生きてさえいれば。

生きてさえいれば、どうしてあんなにも焦がれることがあったのだろう、と有耶無耶になってしまうのだ。感情なんて、子どもの好意なんて、きっとそんなものだ。

日中の暑い日差しにあてられたのか、弱弱しい蝉の声があたりに響いていた。

 

 気付くと、あの紙に書かれていたホテル辿りついていた。都心にそびえたつ建築物とは異なり、それほどの高さもない、そのホテル。見上げると、窓ガラスが夕日を反射して、目を眩ませた。思わず目を伏せて、ロビーへつながる広い玄関を見つめた。見知った姿は、そこにはなかった。ほっと息をついて、あたりを見渡す。

 金曜の夕暮れ時だというのに人の行き来はまばらだった。それもそうだろう、一口に東京、といってもここはなにをするにも不便な立地になる。金曜のこの時間帯であれば、アルコールの入った人間とすれ違ってもおかしくはないが、そもそもここらで酒を飲むのは地元民と限られている。寂れた場所、といってもよかった。だからこそ、そこにそびえたつホテルは人目を惹く。広い玄関からかすかにもれる、青白い光が路上を照らしていた。

 来るわけが、ない。

 ロビーからは見えないであろう、ガードレールにもたれるようにして、中の様子を探る。彼の呪力の痕跡も見当たらず、僕より先に彼がここを訪れた、ということもなさそうなことに安堵する。

 これが馬鹿げてすくいのない行為だということは理解している。けれども、こうして彼が自分以外の誰かに目を向けることがないか、確認してしまうのをやめられない。逃がしてやろう、そう思っている。

幸せになればいい、勝手に。

偽りなくそう思う。そう思うのと同時に、僕以外のものを目に入れないで、と願うような、縋る気持ちを捨てきれずにいるのも確かだ。

 長い脚をもてあまし、ガードレールによりかかったままで交差させ、あたりを見渡す。すると、見知った呪力の気配が近づいてくることに気が付いて、息が止まる。一瞬、何かの見間違い、勘違いではないかと疑った。ありえない。そう脳が否定しているのに、呪力という間違えようのない確かな証拠が、徐々に近づいてくるのを感じる。動揺するな、と自分に言い聞かせた。別に彼がこの道を通るのはおかしなことじゃない。任務から高専へ戻る最中なのかもしれない、なんて考えてそんなはずはないとすぐさま否定する。何より彼は高専側からこちらに近づいてきていた。うろたえるな。

 自分には関係ないはずだ。無視。なんの感慨もなく、呪霊を祓うのと同じような顔で、素知らぬ素振りをしてここから離れればいい。

 僕が?

 何故?

心臓が騒ぎ出し、鼓動がはやくなってくる。ばかな。そう思いながらも否定できない事実が迫ってくる。そしてそれは、目視できる距離に現れた。黒い学生服に、見慣れた靴。どうしてここへ?そんな答えのわかりきった疑問が浮かぶくらいに動揺していた。

顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。暑さのせいか、同様のせいかもわからない手に滲んだ汗をズボンにこすりつけて、ゆっくりと歩いている彼の姿を視界に収める。

信じられない。

それなのに、目の前の事実がそれを否定する。

彼は、いつもと何ら変わらないようにみえた。特に浮足立っているわけでも、興奮に顔を赤らめるわけでも、緊張に足を速めるわけでもなく、ただいつものように道を歩いていた。彼にとっては、なんてことのないことなのかもしれない。もしかしたら、僕の知らないところで、こんなことを繰り返していたのかもしれない。そう思ったらひどい頭痛と吐き気が襲った。手が震える。寒くもないのに。暑さでいかれたように汗をかいているのに、全身から染み出す汗が止まらない。どうして。なぜ。なんて無為で意味のない疑問がふつふつとわきあがっては消えていく。

左手はズボンのポケットに無造作に突っ込まれていた。右手の、ながく骨ばった、手入れの行き届いた指でスマホをいじっている。画面越しに、ホテルで待ち合わせしている女とやり取りをしているのかもしれない、と思ったら気が気でなかった。なぜこんなことを。いやそんなことを知る意味はない。そんなことはどうでもいい。ぜんぶ、どうでもいい。

  彼が玄関の広いガラスに手を触れようとした瞬間、走り出していた。

ばかみたいに群がってくる蚊の群れを蹴散らして、一心不乱に。なぜ、こんな場所にきてしまったのだろう。何故、自分が?そんな疑問も振り切るように。目をふさぐことも、無意味だ。だって、見えてしまう。

 恵の腕を掴む。瞬間、彼は驚いたように僕を見上げた。こんな呪力で気付けるような距離にいて、今初めて僕の存在を認識したかのように、茫然としていた。昼間、うるさいくらいに鳴き喚いていた蝉も、いまは疲れ果てたのかささやかな声すら聞こえない。足元には昏い影が長く伸びていた。固まって動きを止めた彼に、僕が言うべき言葉が見つからなかった。

心臓が腹立たしいほどに鼓動しているのがわかった。暑さのせいで息苦しい。僕は自由の利く片手で、襟元を広げる。彼は何も言わない。何も言えないのかもしれなかった。喉が渇く。そう言えば、今日は水分補給をしていなかったような気がする。そんな暇がなかったのだ。そう、それなのに、僕がこんなに汗水流して任務をこなしている中、この子どもは。ゴクリ、と少ない唾を呑み込む。そして、

「ぼ、……」

と、つぶやいた。これまでの人生で発したことのない情けなくて、ぬるりと絡みつくような、それでいて縋り付くような震え声。それでも僕は、その続きを口にせずにはいられなかった。滑稽な、大人の情けない、悲鳴のようなものだった。

「僕のことが、すきって言ったじゃん」

彼は、何を言われているのかわからないようだった。しばらくそのまま固まって、ようやく目を見開いた。

そして何故かあたりをきょろきょろと見渡し、僕をこの場から離そうとしようとしているのか、僕の縋りつくような手を握りながらあとずさった。その不思議な行動に僕は戸惑ったが、次の瞬間合点がいった。ここで落ち合う予定だった女に、こんなところを見られたくないのだ。そう思いついて、自分の顔から表情が抜け落ちていくのを感じた。

縋りつく、僕の手も振り払わずにいる彼をグイッと引っ張り、からだを密着させる。いつかの、告白の時のように。彼も拒みはしなかった。あのときのように。

「ねえ、恵。」

黒い、ぽっかりと空いた空洞のような、二つの目玉が僕を見つめていた。あの時のような思慕も憧憬も情欲も感じられないその目と目が合った途端に、背中がぞわりとした。

彼は興味なさそうに、僕を一瞥すると、ホテルの中で待っているのであろう女を探ろうとしているのか、視線をすぐに彷徨わせた。僕は焦れて、靴のさきでゆっくりと、執拗に、いつまでも何もないアスファルトを踏みつけていた。僕は震えている。掴み上げた彼の腕を手放すこともできずに。聞こえるのは、さっきから煩い自分の鼓動だけだ。

彼はちらりと僕を見つめ、そして困惑の表情を羽化得ながら僕を見上げた。そこに、うしろめたさや気恥ずかしさなどは感じられなかった。もしかしたら、ほんとうに、彼は僕以外の人間を選んだのだろうか、と疑念が再び強い威力でもって持ち上がる。僕は執拗にそれを否定した。

だって、彼は……。

「お前が好きなのは、誰なの」

 かすれた、男の低い声が聞こえた。

 

△▽△

 

「僕のことが、すきって言ったじゃん」

 怒ったような声でつぶやいたので、伏黒はびっくりして、彼がなんて言っているのかを理解できなかった。まずそもそも、なぜここにいるのか。どこからでてきたのか。どうしてそんな息を荒げることがあるのか。そもそも、俺がこの人のことを好きだというのは、他でもないこの男によってなかったことになったのではなかったのか。それをいまさら、確認する必要がなぜあるのか。それらが頭の中を駆け巡って、身動きが取れなくなった俺を責め立てるように、手首に込められた力が徐々に増していく。

 はっとして、あたりを見渡す。この人がなにを理由にこの場に来たのかは知らないが、あの女にひき合せたくはなかった。なんかの気の間違いで、気の迷いで、女に興味を持つ瞬間を見たくはない。誰だってそうだろう。この腕を振り払って、別の場所に移動することも頭に浮かんだが、痛みを感じるほど強い握力に、それは不可能だと思い知る。

 急に腕を引っ張られ、いつの日かのように抱きすくめられる。

 どうして。

 なぜ。

 いくつもの疑問が浮かび、その答えになり得そうなものが浮かんでは消えていく。

「ねえ、恵。」

 名前を呼ばれて、男の顔を見上げる。

なぜ、今になってこんなことをするのだろう。

それだけが、すべてだった。

「君が好きなのは、誰なの」

 俺は、あっけにとられて男を見上げた。は?と聞き返そうとして開いた口が、そのまま言葉を発せずにぽかんと空いている。

 不機嫌そうに、詰るような問いかけにこたえようとした、次の瞬間、

「いらしてくれたんですね!!」

 と悲鳴のような感嘆の声があたりに響いた。待ちわびていた人がついに現れた高揚感を隠し切れないその声は、不快に鼓膜を揺らした。男はというと、話の邪魔をされたと思っているのか、それが自分に向けられた面倒な好意であることを察したのか、あからさまに不機嫌そうに唇を歪めたので、俺は慌てて、腰に絡みつく男の腕を振り払った。のに、未練がましくその手の行く末を目で追ってしまう。

 男は振り払われた手を確認するように視線を落としたが、再び俺に近づこうとはしなかった。振り払ったのは自分なのに、なぜか目頭の奥がツーンと痛んだ。強い日差しに晒され続けた空気が、あたりを包んでいてどこもひどく居心地が悪い。いっそのこと、このまま男をこの場において、逃げてしまいたかった。

 けれど。

 女の手が、男に絡みつくのを想像する。

 反吐が出る、というのはきっとこういうことをいうのだ。

男に近づこうとする女の行く手を阻むように、どこか項垂れている男の間に立ちはだかるように、女と対峙する。女はあからさまに顔を歪めた。なにしにきたのよ、と言外にいっているのが表情から簡単に読み取れた。ほんと、何しに来たんだろうな、と自分でも思う。

この男目当ての女は、これまでの女と同じく、きっと男に相手にされもしないで終わる。それに、告白の返事もまともにもらえなかった自分とを重ねて、「あの人は来ないですよ」なんて言ってやろうと思ったのだ。傷つけばいいと思った。自分に言い聞かせるように、「あの人は誰にも興味ない。あなたにも」なんて言ってやろうと思った。馬鹿みたいに期待して、犬みたいに従順に待っている女に、そう言ってやろうと思ってここに来た。

でも。

「なんのようですか」

「言ったでしょう、あなたに用はないの」

 俺は押し黙った。

 知っている。これは、この男とこの人の問題で、俺が口出しすべき問題ではないことを、俺はずっと前から知っていた。理解していた。苦しいほどに、悔しいほどに、きちんとわかっていた。だけども、こうして間に入らずにはいられなかった。この男がそれを知っているのかどうかは知らないが、おれはずっとこうして、この人に近づこうとする女共を蹴散らしたかった。この人は俺のものだ、なんて言えるわけもないのに、そんな事実もないのに、そう匂わせるような発言をして、女共が俺に注目するように仕向けた。ささやかな威嚇。なんの生産性もなく、何の意味もない空虚な牽制。

 そんなことをする権利もなく、そんな立場でもなく、そんな関係でもない。

 ただの片想い。ただの恋。終わりの見えない、それでいてそれでもいいと受け入れられるような底なし沼のような恋のために、醜い小競り合いをしていただけなのだと、俺はずっと前から気付いていた。

 それでも、それをやめる理由にはならなかった。

 

 左後ろから、ながい手がまわされた、と思った瞬間、右手で顎を掴まれ無理やり上を向けさせられると、唇が、あたった。やわらかく温かいそれは、おとこの唇だった。優しく触れるように、そして確かめるように舌先で唇をつつかれて、驚いて口を開くと、その舌は遠慮なく、好き勝手に、俺の咥内を蹂躙した。無理やり首だけ真上を向かされているのと、容赦のない口づけで、俺はただただ苦しかった。苦しいのに、それでもこの人から与えられるものだから、なんでもよかった。苦痛も、快楽も、なにもかも、この人から与えられるものならなんだって、俺は受け入れられる。嬉しくて、馬鹿みたいにからだが震える。高揚で。そして、もっと、とねだるようにその舌に舌を絡ませる。すると、それにこたえるように舌先を吸われて、痺れるような快楽にからだが酔いしれる。

 きりきりと張り詰めていた緊張感のような焦燥感が、いつの間にか消えて、俺はほっと息を吐いた。それに気づいた男は、最後にそっと唇を重ねて、離れた。力の抜けたおれの身体を後ろから抱きかかえるように支え、俺の口から垂れた透明な唾液の糸を、その骨ばってながい指で優しくぬぐいながら、

「僕、この子のものなんだ」

 と、いった。俺を無理やり上に向けさせていた右手は今、俺の首から肩をそっと撫でるように、右から左へ行ったり来たりを繰り返していた。それが慣れない、妙に繊細な触り方で、俺はどうしていいのかわからずに、そのまま男のからだにもたれながら、かろうじて立っていた。

 女は泣きそうな目で、俺のことを睨んでいた。

 そういうことだったのね、とでも言いたげな目だった。俺はそれをぼんやりと見つめていた。すべてが自分とは関係のない、遠い現実のように思えた。もしかしたら暑さにやられてみる白昼夢なのかもしれない。長く伸びた影と、ひぐらしの鳴く声が、俺の意識をかろうじてつなぎとめていた。俺はやけに現実離れした現実を確かめるために、男の腕から逃れ、自分の足でアスファルトを踏みしめた。感覚が、ある。夢なんかではないのだ。

 そして男は続けて、きっぱりと、

「この子に用がないなら、僕もないのと同義だね」

 と、その時たぶん男は初めて女の目をしっかりと見て、有無を言わせない強い響きでもってそう言って、女に背を向けた。

足は、高専のほうを向いていた。歩いて帰るのだ、と俺はぼんやり男の背中を見つめて思った。

「いくよ、恵」

 男は、振り返らずにそう言った。暑さのせい、とはいいわけできないくらいに、男の耳は赤く染まっていた。俺は嬉しいような、どこかこそばゆいような気持になりながら、その背中を追いかけた。引き留める声は、しなかった。ただ昼間の苛烈な日差しに晒され続けた空気が、絡みつくようにあたりに垂れこめていた。

しばらくその後ろ姿をぼんやりと眺めて、そして追いかけるように前に足を踏み出す。一歩。夢見心地の抜けない体はそううまくは動いてくれない。

「五条さんって……俺のものだったんですか」

「仕方ないよね、物欲しそうに僕のこと見てるし」

 俺が足元に伸びる影をながめながら、囁くように問いかければ、未だに耳が赤く染まった男は、さらりとそう言って足を止めた。振り返って、俺が追い付くのを待っている。

 高専へと続く道には誰もいなかった。金曜の夕暮れ時、夏休みの学生や旅行者が出歩きしていてもおかしくない時間帯であるのに、東京とはいえ辺鄙なところであるせいか、ただ鬱蒼と生い茂る木々が騒めきながら沈みゆく日の光を気まぐれに遮るばかり。車が通る気配もなく、昼間の激しい太陽に光に熱され続けたアスファルトがゆらゆらと透明な湯気を立てながらどこまでも続いている。吐く息は未だに荒い。さっきまでの好意を忘れられずにいるように。風はぬるく、後を追うように踏みしめるアスファルトはどこか柔らかく、現実味を帯びていない気がした。それでも、この男の言葉が耳にこだまして、俺の意識をつなぎとめる。いましかない。そう思った。このつかみどころのなくて、どうしようもなく勝手な男を自分のものにしてしまえるのは。

「へえ……」

「なに」

 男の声はひどくイラついていた。もしかしたら、俺がこの男の思うような反応を返さなかったせいなのかもしれない、そう思ったら妙におかしくて、どうしようもなくいとおしい感情がわきあがってきた。男は不機嫌であることを隠そうともせずに、俺をまっすぐ見下ろしていた。俺はまた一歩踏み出して、男に近づく。そして変わらず俺を見下ろす男を見上げて、

「じゃあ、俺はアンタのものにならなくていいんですか」

 と不遜に笑って問いかけた。

 俺は、忘れていない。この男が「僕のことが、すきって言ったじゃん」と怒ったような声でつぶやいたことを。何食わぬ顔をして、俺のことを振ったくせに、あんな風に縋りついてきたことを忘れられるほど、馬鹿でもなければ、お人よしでもない。

 これ以上の好機などない。

 俺はそれを十分すぎるほどに理解して、この男を責め立てるように、あるいは逃がさないように、一歩一歩踏みしめて、徐々に男に近づきながら言葉を重ねる。この男は気付いていないのだろうか、俺に向けるその絡みつくような視線に。そうだとしたら重症だ。唇が弧を描くのを止められない。俺は上目遣いに、男の表情をじっくりと観察しながら、言葉を重ねる。

「五条さんも随分、俺のこと物欲しそうな目で見てますけど」

「……なりたいの?」

 男は視線を彷徨わせて、そして俺をもう一度見た。

 ひぐらしが鳴いている。俺たちの間に横たわる沈黙を誤魔化そうとするかのように。

「なってほしいんですか」

 俺は尋ねた。

 もう一歩。近づいてつま先とつま先がくっついてしまう距離になると、男は逃げるように後退った。俺はそのできた距離を詰めるようにまた一歩と足をあげる。笑いだしそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐えた。最強と自他ともに認められているこの男が、なにもかもを拒絶できる男が、五条悟が、一回りも年下の自分から距離を取ろうとするその事実に、俺は高揚して、どうにかなりそうだった。

 近づくたびに遠のく、その距離を縮めようと躍起になって、俺は歩調をはやめた。男は俺のその様子を見て、諦めたように笑って、足を止めそれから目を伏せた。目を縁取るような睫毛が、夕日に照らされて真っ赤に染まっていた。男は一度ぎゅっと目を瞑り、そしてゆるゆると瞼を開けると、まっすぐに俺を見た。俺は視線を逸らさなかった。じっと見つめて、男が言葉を返すのを待っていた。男はこぶしを握り締めて、何かに耐えるように声を絞り出した。

「なったら……、手放せなくなる」

「死ぬまで?」

「死んでも」

 ぬるい風が男の前髪を揺らした。不安げに、睫毛が震えている。「呪術師になるために、ここに来たのに」とは、もう言わないんだな、と思った。よく考えてみれば、俺はもとより呪術師だ。もうすでに単独任務が許されるまでの。そこに甘んじるわけではないし、この人を満足させるような呪術師になるまで努力し続けなければならない、とは思っているがしかし、だからといってこの人を手に入れる機会を不意にできるほど無欲ではない。

「じゃあ、なってあげますよ。五条さんのものに」

 男はまっすぐ俺を見て、困ったように笑った。

「……ばかだね」

「アンタほどじゃあない」

 俺は笑って、五条さんを追い越した。

 追い越して、振り向く。俺のものになった男を、俺はみつめた。絶対に、離してなんかやるものか、と思いながら。俺がどんな思いでこの感情を抱えてきたのか知りもしない、無知な男を見つめながら、俺は静かに決意した。

 

△▽△

 

 任務の帰り道、釘崎がどうしても寄りたいという露店の行列を遠めに見ながら、街路樹の保護するように並ぶレンガに伏黒は腰掛けていた。虎杖も、そのやたら名前の長いスイーツだか飲み物だかわからないものに興味があるらしく、釘崎と一緒になって行列から数えて三番目に並んでいた。別に目新しくもなく、さして興味のない俺は、「あっちの木陰で休んでるから、二人で行ってこいよ」と言ったのだが「アンタ、変なところでじじ臭いわね」と評され、それに少し不満を持ちながら、しかし言い返すこともできずに、ここで一人、あの二人が目当てのものを手に入れるのを待っていた。

昼の厚さは徐々に引き始めて、先ほどまでは耳障りだった蝉の声もまばらになっていく時刻だった。ふとあたりを見渡すと悪ぶっているのか、調子づいているのかわからない、制服を着崩した連中が少し向こうのほうでたむろしていた。交差点の左に位置する、コンビニの前にしゃがみこんだそいつらを避けるように、みんな綺麗な曲線を描いて通り過ぎていく。雑踏。それに紛れるように、否紛れられていない、両隣に黒スーツの男を従えた女が、まっすぐに俺を見ていた。目が合った瞬間、鋭い、突き刺すような視線を向けられる。

またか。

俺はうんざりしてため息をついた。ちらりと虎杖たちを見やれば、ちょうど順番が来たのか、メニュー表を前に真剣な表情をしていた。

伏黒が目にした車は、大都会東京では特段、珍しいものではなかったがしかし、長年の経験とそこで培われた感が、五条悟がらみのめんどくさい案件だ、と激しく訴えていた。そして、自分が処理するべき案件だと、伏黒は誰よりも理解していた。

女はたむろしているそいつらには目もくれず、まっすぐに俺にむかってきた。

「伏黒恵、ってあなたのこと?」

「そうですね。ついでにいえば、五条悟のものです」

そういえば、あの男のようにびっしりと目についた睫毛を揺らして、女はグロスかなにかでてかてかと光っている唇をゆがめた。噂を肯定された、信じたくない事実を突きつけられた、哀れな女がそこになっていた。彼女を守るように左右に立ちふさがっている男たちでは慰められない、深い悲しみと怒りが、女の目をぎらぎらと輝かせていた。

「どういうつもりなの。結婚もできないような、子どもも産めないあなたが、」

「役所で簡単に取り消せる関係に、興味はないですね」

 それと、と俺はちらりと目の端で虎杖たちがまだ注文に手間取っているのを確認して、

「あの人、子どもとか役目とか、そういうのにも興味なさそうですけど。……俺に夢中で」

 女であることを、強く主張し、威嚇するような、あでやかな輝き。それはあの人の目に映ることなどない。機会など与えない。与えてなどやるものか。卑しいものを見るかのような侮蔑の表情、を覆い隠そうとするかのように歪んだままでいる唇。あの人とは似ても似つかない、作り物の美しさ。偽物。贋作。何の魅力の欠片もない。

俺は笑いが止まらない。

どうして、この類の女たちはあんな男にこだわるのだろう。伏黒はあのデリカシーの欠片もなく顔だけ妙に整っている男の顔を思い浮かべながら、そう疑問を抱いた。あの男は理不尽で、他人の都合など考えないし、薄情で、軽薄で、どこまでも残酷なところのある、別次元の人間。拒否権など与えてくれない。選択肢を与える素振りをして、選択するものははじめからあの人に用意されたもので、何をしようにもあの人の手中。妙なところでまともぶって、慎重に二の足を踏む。そこがまあ、あの男の人間らしさ、なのかもしれないし、かわいらしさなのかもしれない、と考えて自分も同じ穴の狢であることを思い出して苦笑する。

どこまでも、毒されてる。ばかみたいに蒸し暑い気温のせいだろうか、妙に浮かれた気分からずっと抜け出せないままでいる。

「……地獄に、堕ちろ」

 俺は頷いた。

 そしてわらって、

「そのときは、あの人も道連れにしてやろうと思っているので」

と、うす汚れたレンガに腰掛けたままで、俺を見下す女を見上げていった。

こういう類の女たちと会うと、なぜか優しくなってしまう、あの頃の自分はどこへ消えてしまったのだろう。あわれみも同情ももうどこにもなかった。あるのはただの事実。あの人が俺のものであり、俺があの人のものであるという、どうしようもない、どうにもならない真実だけ。

だから俺は端的に事実だけを口にする。

「あなたとあの人が会う機会は、きっとないでしょうね」

女はきりっと睨みつけるように目じりをあげ、俺を見た。それがやせ我慢のような、自分よりも一回りも年下の子どもに傷つけられたプライドを守るような、はりぼての表情。

「……、あの人だけでも幸せになってほしいとかいう感情はないの?!これは、遊びではないのよ!大切な、大事な五条家の繁栄を守るため、相伝術式を未来へつなげるために必要なこと───」

「俺のいない世界で、幸せになることなんかゆるせないんで。仕方ないですね」 

 あんな男、と言ってしまえば彼女が逆上することは目に見えていて、しかし宥めたところで俺の言うことなど信用に値しないと吐き捨てるのもやはり、目に見えていた。先のわかる会話ほど、滑稽なことはない。なんにせよ、あの男は俺のもので、他の誰にも譲る気も、分け与えるつもりも毛頭ない。

 あんな男の相手なんて、俺一人で十分だ。

「大変申し訳ないのですが、友人たちが待っているので失礼します」

 俺は立ち上がり、ズボンの後ろについた埃をはらう。細かな砂が舞った。露店のほうを見やれば、不思議そうな顔をしている虎杖とまたか、とイラついた釘崎の2人がこちらを見つめていた。俺はわりい、と手をあげて、足を向ける。

「……まち、なさいよ。」

振り返ると、女は泣きそうな顔でこちらを見ていた。女のぞっとするほど赤い唇はわなわなと震えていた。先ほどの張りぼての表情はすっかり抜け落ちて、ただ憎しみと怒りとに支配された瞳をギロつかせる女がいるばかりだった。

俺はそれを鼻で嗤い、今度こそ振り返らなかった。

「なに?またナンパ?」

 行列から離れた街路樹の木陰で俺を待っていた虎杖が的外れな疑問を口にした。真後ろで、聞えよがしの大きなヒールの音が響いて俺はわらう。

「んなわけねえだろ、ちょっと野暮用」

 さっきの女がどんな理由で伏黒に接近したのかを察した釘崎が、眉を顰め、こちらを窺うような顔つきで、

「アンタさあ、前も言ったけどそれで……」

「いいんだ」

 彼女の問いかけを遮るように、俺は力強く言い切った。きっぱりと、

「いい。これが、いいんだ」

 それ以外の答えはない。この間のような沈黙が落ちる暇もない。

 釘崎は俺の顔を見て、ふーん、といいホイップクリームが溢れそうなほど盛られたジュースだかムースだかわからないものをストローで吸った。虎杖は、ん、といって俺にアイスコーヒーらしきものの入ったカップを差し出す。

「さんきゅ」

「おう」

 暑さは徐々に穏やかになっていき、夏の終わりが近づいている、そんな予感がした。

 

 

 

説明
五伏Webイベント[ごめんね、二人で幸せで]で公開していた小説になります。
タイトルは不穏ですが、ハピエンです。
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