三時
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 男が居た。男は童貞だった。然したる感情もなく生きて来て三十歳になった。彼は日々感動もなく働いていて、流れる歳月と自身の身体の成長をぼんやりと凡庸に眺めていた。彼は、自らを幸せとは思わなかった。人を見ていて、彼らが幸せとも思わなかった。

 

 或る土曜日の三時、彼は午睡を打ち切って忽然と起きた。彼は不愉快だった。彼の男根は苛立たしく勃起していた。然したる訳もなく街に出て、辺りの通りをぶらぶらと歩いた。街並みはどこか閑散としていて、駅の看板や立ち並ぶビルディングの太陽光を受けて白く輝く((硝子|ガラス))だけが際立つ、平凡な人間世界の景色だけが転がっていた。彼は苛立ちを強めた。足取りは荒くなかったが、その沈黙と平静の仮面の下にある感情はただただ行き場のない沸騰した((獰猛|どうもう))な感覚に冴え渡っていた。

 アーケードをくぐって不毛な歩みを続けていた時、道端に一人の女を見た。色気のない恰好をした、そこに立っているだけの様な女だった。彼はおもむろに女の元へと歩いた。女の前で止まって、彼女の視線を受け止める。女は((微|かす))かな不審を投げ掛けていた。男は((暫|しばら))く、何も言わずに立ち尽くした。沈黙の間にも彼の男根は肉体を引き裂くような力で屹立している。男は((漸|ようや))く口を開いた。

「セックスさせてくれ」

 見知らぬ男からのこんな((直截|ちょくさい))で((不躾|ぶしつけ))な言葉を、女は先程からのじっとした視線で受け止めていた。彼女は暫く何も言わず、表情も変えずに立っていた。辺りには他に誰も居なかった。周囲の店舗はシャッターの降りた物寂しい場所ばかりで、僅かな風の音とそれに揺られる街路樹の葉擦れだけが耳に入った。

「いいよ」

 女はこう言った。二人は街の片隅にある((木賃宿|きちんやど))へ赴いた。……彼女がああ言った途端に、男を狂おしく悩ませていた勃起は徐々に静まり始めた。男はそれと共に、自分が言い出したこと、自分が望んでいること、それの奇矯さに内心で後悔を抱き始めた。女は殆ど口を利かなかった。それは彼に、今からでも振ってくれはしないかと云う((我|わ))が((儘|まま))な欲望の目が微かでも存在しないことを理解させた。その晩、彼は童貞を捨てた。殆ど夢の様な感覚で。翌朝起きた時にはもう女は居なかった。書置きも何も残さず、自分の宿代だけ支払って帰っていた。……そこまで知った上で彼は、一つ思い出した。二人は避妊していなかった。

 

 何があったのか良く分からない様な日が終わった後、彼の見える世界は変わった。職場での彼はそれまで口数も少なく同僚との会話も少なかった。彼は話し易くなったと言われた。自身でそうと気が付くのはその時だった。親しみやすくなったとも言われた。彼にそうだと云う感覚は無かった。

 人々と話をする。人々は自分と関わって喜ぶ。彼自身は、なおも自らを幸せと思わず、彼らを幸せとも思わなかった。人々は自らを幸せと信じていることを読み取ったが、彼は自分の見立てを誰かに話すことはしなかった。内心の((懊悩|おうのう))を隠したまま、彼は日常に立ち戻っていた。あの日の自分の苛立ちはどこに行ったのだろうと彼はふと自問したが答えは分からなかった。或る日の土曜日に、あの女を見たアーケードを歩いた。そこには見知らぬ人々がどこへ行くとも知れずぽつぽつと往来するだけで、最早あの日の景色はどこにも無かった。

 

 月日が経つ内に、彼は一人の女性と交際する様になった。傍目に美人で心根の良い彼女の((隣|となり))に居る彼を人々は羨み、祝福した。彼女の向けて来る幸せな顔。彼は微笑を浮かべて応じる。その内心は、漸く気が付いた頃には虚空が広がっていた。彼には何故彼女と交際しているのか、他人にあらゆる説明が出来ても自分に対しては何一つ説明が出来なかった。彼女は異性として素晴らしい。それが、一体どう自分を喜ばせているのか何も分からなかった。いつだったか確かにこの女性にときめいた瞬間があった筈だと信じてはいるのだが……。

 彼は彼女に決してきつく当たったりして失望させる様なことはしなかった。見事な望みに対する返答を生み出し続けた。堂々巡りを繰り広げる内心を誤魔化しながらも自分の女を、将来を考える相手を大切にし、今住まう現実が崩れたりせぬ様に努めた。誰も二人を疑わず、彼女もまた彼を疑った試しがなかった。そこで彼女は言うのである。私たち、幸せよね。彼に一瞬ひらめく人間並みの((歓|よろこ))びの感情は、その裏側を覗く自らの内に根深く横たわる色の無い感情が、否、との厳然たる答えを己に突き付けて来る。彼はそうして懊悩を抱え始めた。日々を送る上で付き纏う懊悩。彼は悩み深い表情をちらとこぼし、彼女を心配させた。

 二人の間において特に彼女の側が痛く気にしていたのが、未だ肉体関係の無いことだった。大切にされていることは確かなのだが、これを女は古典的な貞操観念とは見做さなかった。何かが彼の心を掴むに至っていない。そう考えて、或る祝日にホテルでの夕食に誘った。……男は一も二もなく応じた。彼の心の内は空っぽで、意識がそれに対して懊悩を続けていた。よくもまあこの夕食で彼は何一つ彼女に対して失望を覚えさせなかったことだろう! 彼自身は何とはなしに恐れを覚えていたのに、それを誰かに感じさせることはついぞ無かった。彼女は安心して、今晩の宿を取ってあることを伝えた。

 

 翌日家に帰った男は熱を出して仕事を休んだ。上の空の感覚の中で思い出せるのは彼女との肉感ばかりで、その肉感はあの日の女の肉感を思い起こさせ、感覚が((混淆|こんこう))しいずれが真実なのかを分からなくさせた。そしてその彼をその日一杯悩ませたのは、最早二人を隔てる壁など残っていないと信じる彼女の甲斐甲斐しい看病だった。自分が仕事から帰って来れば家に残ったあらゆる世話を引き受け、彼に何かに逃避、或いは熱中させる術を奪った。それは正しく、私に熱を上げてと伝えられているに等しかった。彼の感情は何物にも熱を上げられないことを彼は((苦悶|くもん))しながら隠し通した。

 熱が収まって、日常に回帰する。やがてはこの女と結婚して家庭を持つ。この感覚に何の価値も彼は見出せなかった。代わりにこの熱を経て、何の為にこの様な苦悶をせねばならぬのだろうか、と云う懐疑が沸き起こった。彼女が原因なのか、と自問すればそれは違うと彼は考えた。彼女でなくとも彼は懊悩し苦悶する立場に置かれることが容易に想像出来たからだった。彼は一度独りになりたいと思ったが、彼女は逆にいつでも二人で居たいと云う態度が明らかだった。そして彼は懊悩していたが、彼女を重荷と思ったことはこれまでにも一切無かったのである。

 

 一日だけ彼はささやかな独りの時間を得た。彼は街を流れる川沿いの路を歩いていた。フェンスにもたれかかり、晴れ渡る青空を見上げた。幸せを感じはしなかったが、この時ばかりは何かにさいなまれる様なあらゆる感覚から無縁でいられた。すぐ傍には公園があった。子供たちが遊んでいる。黄色い声を上げる子供ら。彼はやはり然したる感情を覚えなかった。ただぼんやりと眺めていた。……おもむろに、女が隣りに現れ、フェンスにもたれかかった。その顔には見覚えがあった。彼はこんな偶然もあるのかと驚いた。女はちらと男を見た。かすかに笑って、そしてこう言った。

「私の子供もあそこで遊んでいるよ」

 ……男は思ったのだ。これは復讐か? それとも一種のユーモアだろうか?

「その子は?」

「あれ。あなたに良く似ているでしょ?」

「俺の子なのか?」

「あなたの他に思い当たる節はないよ」

 少しばかりの沈黙が漂った。女はあの時よりも遥かに豊かな表情をしていた。皮肉なことに、男もまたあの時よりも豊かな表情をして居られた。この時彼は動揺一つせずに、世話話をする様な顔をしていた。何一つ不自然などなく。

「俺に責任を取らせるのか?」

「どうでも良いかな」

 二人の後ろを車が走り抜けた。……何も、起こらない。何も、変わらない。男は自分の内側にあった何かが氷解する様な感覚を味わった。これからはもう、思い悩まずに済むのだろう。

「一つだけ訊いて良いか」

「なに?」

「お前はあの時、何を思っていたんだ?」

 女の表情は少しきょとんとしていた。それを覗き込んで、男は女が少しだけだが確かに老いているのを認めた。それは同時に、己もまた老いていることを確信させるに十分だった。女は言った。

「現実に横たわっているんだな、と。それだけ」

「そうか」

 二人の会話は途切れた。昼下がりが夕焼けに変わる頃、女は子供を連れていずこかへと姿を消した。男はそれを見届けて、帰路に就いた。家に着いて迎えに出て来た彼女に対し、虚無ではなく虚心に、ただいまと初めて言えた。

 

説明
約三五〇〇字。二〇二〇年五月九日完成、最終更新二〇二三年十月九日
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