八月十四日
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一.

 

((孝雄|たかお))は((柚香|ゆずか))に切り出した。

「別れよう」

「……そやね」

「……嫌がらないんだな」

「だって、最近めっきりうちら、何か上手いこといっとらんかったやろ?」

「……」

「けど、一つ条件つけてええ?」

「何だよ」

柚香はくるりと背を向けて、顔半分をこちらに向けた様で告げた。

「夏祭り、一緒に行こ。それで、終わったらきっぱり別れよ」

 

◇◇◇

 

 孝雄、柚香共に大学二年生である。柚香が地元の国立大学に進学し、そこで他県から進学してきた孝雄と出会った。バドミントンサークルで知り合ったのが切欠で、一年の夏休みに入る前に孝雄の方から告白して付き合うことになった。

 二人は二人であちらこちらへと出かけた。駅前のファッション店を眺め歩いたり、それに疲れれば適当な喫茶店に入って珈琲を楽しんだり、とかく二人は一緒になってあちらこちらへと出向く。ごく普通の、若い男女の一組であった。

 その二人が不仲になったのは別段理由らしい理由があったものではなかった。夏休みの間こそ浮かれた気分で二人はお互いを熱のこもった視線で眺めていられたが、秋の訪れと共にそうした一時の興奮は冷めていった。

 ある時孝雄は一緒に話題の映画を見に行こうと言った。柚香は、それを何となく断りたく思った。結局、断っては悪いと思った柚香はそれを言わずに孝雄と映画を見に行った。話題の最新作とやらは古典的なラブストーリーを現代的に書き直した、実に分かり易い内容だったものだが二人は映画館で映画を観ずにお互いをずっと、横目で見ていた。目線が合えば、片方がそれとなく映画に逸らす。また、何か気になって相手に目線を向ける。繰り返しである。映画館から出た時に孝雄は映画の感想を聞かなかった。柚香は彼が何か言わずとも映画の内容をあれこれ(さほど見ていた訳でもないにもかかわらず)品評し、それ以来二人の関係はどこか((齟齬|そご))を起こし始めた。

 

 この日の孝雄の切り出しは柚香にとっては予定調和じみた印象があった。やがてこうなるという予感。それが来たるのを止めようと思わなくなったのはいつなのか、彼女には分からなかった。それだけ忍び寄る様に破局は息を潜めて歩みを進めていたのだと思った。

 これと比べれば孝雄はより複雑に考えていた。自分が恋人関係になることを切り出し、そしてそれまで何度となく努力して二人がより近づくことを意識していた、その労力総てを自ら無に帰せしめるのが正しいのか。彼にはそれが非常にエゴイスティックな望みに思えたのである。孝雄はある瞬間までは明確に柚香が好きだったと自覚していた。その瞬間が厳密にいつなのか、それを実は彼は指し示せない。学年の繰り上がる手前の時期まで繰り広げた二人の日々の一つ一つが彼には煌く宝石にも勝る価値を持つように思われていたのが、別れを切り出したのちには一体いつまで自分が柚香のことを好いていたのか分からなくなってしまった。

 一つ確かに憶えているものがあり、それは二年生になった春先のサークルの新歓で彼女が他の男子に自分から関わってゆく様を自分が傍観していたことであってその時はひどく無感動にそれを眺めていたのを彼は憶えている。後になって、恋は((醒|さ))めたのだと自覚し、それに僅かばかり感傷的になって酒を呷った。無駄な逃避であることを受け入れたくなかった。

 

 住まいに帰っての孝雄は、ただ一言の為に全ての精力を注ぎこんで空っぽになったような気持ちでベッドに倒れ込んだ。それだけが今彼に出来ることのようにしか思われなかった。

 あくる朝、まだ七月の下旬の期末テスト期間中に孝雄はそれまでやや疎遠にしていたサークルの他の男子たちの円に加わって昼食を共にした。彼らから柚香のことをからかわれたが、孝雄は言葉少なに喧嘩中であると伝えた。当然彼らは面白おかしく持て((囃|はや))す。孝雄はひどく不機嫌になった。

彼らと別れ、その日の出席科目も全て終わっていざ帰ろうとした日暮れに、帰りの廊下で柚香とばったり出会った。孝雄はややぎこちなく挨拶をした。

「あ……こんばんわ」

「……こんばんわ。そんなに他人行儀でなくてええんちゃうで?」

「いやだって、俺達、別れるんだろ」

「でも今は付き合っとる。なら、せめて見た目だけでも付き合っとるように振る舞う方がええでしょ」

「そうかな……」

「ま、ええわ。((孝|たか))ちゃん、一緒に帰ろ」

「え?」

「え、ちゃうわ。帰ろうっちゅうとるんじょ、お前の彼女が。ほら、((来|き))ぃ」

 柚香は孝雄の手を引いた。孝雄は困惑しながらもそれに逆らわずに付いて行く。孝雄が隣に並ぶと、柚香は孝雄の手首を掴んでいたのを離してその手を指を絡ませて握った。孝雄はびっくりして柚香を見たが、柚香は面白がるようにけらけらと笑い、それには触れずにテストの話題だの最近のマイブームだのを話し始めた。孝雄は大学が徒歩圏内なので歩きだが柚香は自転車通学である。自転車置き場に着いた時、柚香は自転車に跨りながらその自転車にどこか恨みがましい視線を投げかけながら呟いた。

「中学から使っとるこいつも、荷台があればなぁ……」

「……荷台? 二人乗り?」

「気にせんといて。独り言やけん」

柚香は自転車を走らせながら、孝雄を向いて大降りに手を振っていった。夕闇に落ち込んだ女の姿を孝雄は暫く身じろぎもせずに見送っていた。

 

二.

 

 二人は夏祭りのその日まで、そうした関係を続けた。柚香は正常だと思ったそれを、孝雄はひどく歪に感じていた。二人は既に好き合っているわけでもないのに昼食を共にする。残りの講義を((隣|とな))り合って受講する。或いは、朝方一緒に登校さえする。いつも彼女が自転車を走らせる時までずっと一緒にいる。柚香はそう望み、孝雄は拒絶しなかった。孝雄にはそれが彼女の最後の望みだというなら叶えてやるのが人情であろうかと納得するほかなかった。

 

 夏祭りの日、昼過ぎに孝雄は柚香からメールを受け取った。夕方五時に駅前集合と伝えられた。孝雄は出かける前に入念な入浴をし、来ていく服を吟味した。去年に二人でいる時にどんな服を着ていたかを思い出し、一番恰好が付くように自分を仕上げた。そうして、彼は歩いて出かけた。

 駅前は人がごった返していた。この時期のこの街は内外から人がやって来る。その盛況の様を去年に知った孝雄は、ちゃんと柚香と出会えるのかどうかを心配したが彼女の方から彼に声を掛けてきたので要らぬ心配となった。柚香は紺地に((桐|きり))の花模様で彩られた浴衣でやって来ていた。結い上げられた髪とその姿は、孝雄に幻にでも出会ったような気分にさせた。

「なにぼーっとしてんの」

「いや、……綺麗だなって思って」

「ありがと。行こ」

 二人は指を絡ませてゆったりと夕闇の街を、祭りの中に在るこの地を歩く。踊ったり騒いだりしている人々を眺め、屋台の((一叢|ひとむら))に踏み込んで他の人々にもみくちゃにされそうになりながらも歩いてゆく。柚香がうちわを買い、それで顔を扇ぎながら行く。孝雄は((奢|おご))ろうかと提案したが柚香は断った。((林檎飴|りんごあめ))を買う時、綿菓子を買う時、たこ焼きを買う時、皆断った。渋々孝雄は自分で自分の欲しい分を買った。

 かき氷屋に寄った時、孝雄がレモン、柚香がブルーハワイを頼むと店主のおやじが柚香の分はサービスだと言い、孝雄に面白可笑しそうな視線を向けてきた。サークル仲間たちのあの視線を想起させたが、柚香が愛想良くお礼を言って孝雄を連れ出した。

二人は川沿いのベンチの一角を占拠して買い込んだものを食べに掛かった。

「今日はこのジャンクフードで夕飯要らずやね」

「そうだな」

「んー、ブルーハワイおいしーっ、うち昔っからこれ好きやけん」

 その言葉は去年にも聞いた、と孝雄は口に出そうとした。彼女の心底幸せそうな表情を見ているうちにその言葉は呑みこまれた。

「ね孝ちゃん、レモン分けてよ、うちのブルーハワイ分けたげるけん」

「……いいよ」

「ありがとー」

 しゃくしゃく、しゃくしゃく。氷水を頬張る。それが頭にきて「痛たたたたた」と頭を抑える。その様を傍目で孝雄は見ている。すっかり暗くなった辺りは電灯の光が及ぶ域を除いては暗闇に包まれていて、その電灯の光に照らされる彼女を孝雄は何を考えているとも自覚できぬままに見続けている。

 孝雄は言って席を立った。

「トイレ」

「ん? あー、ええよ。待っとる」

 孝雄は人ごみを潜って便所を探した。男子便所は中年や鉢巻を巻いた逞しい男らが用を足していて、何故か彼らの中に分け入って自分も用を足すのが恥ずかしく彼には思われた。それが終わって柚香の元へ帰ろうとする中で、ふと光の届かない茂みに目を遣った。その向こう側に自分たちと同じ程度の齢をした男女の一組が見つめ合っている。孝雄は強いて無視して柚香の元へと戻った。

柚香は自分のかき氷を平らげ、残していたたこ焼きをつついていた。

「お帰りー」

「ただいま」

 横目に告げられる挨拶を聞きながら孝雄は、今の自分に先程の一組のような真似が出来るのだろうかと考えた。戸惑っているばかりの己の姿が目に入って、とても出来たものではないと思わざるを得なかった。

「どしたの孝ちゃん」

「何でもない」

「嘘やー、絶対変なこと考えとったやろ」

「何でもないっての」

「言うてみ、ね、言うてみ?」

 立ち上がってじりじりと顔を近づけてくる。口元に付いた青海苔が目に入って、その彼女と口付けを交わす空想はひどく不細工なように思われて彼はぷいと顔を逸らした。

「口元、海苔付いてる」

「え?」

「海苔が付いてる。ついでにソースも」

「えーっ! あ、じゃあ孝ちゃん、拭いてよ、これで」

 懐から用意周到にもハンカチを取り出してねだって来るので、孝雄は渋々柚香の頬に付いていた汚れを拭ってやった。それだけのことで、柚香は大喜びして口々に孝雄のことをあれこれ誉め始めたので孝雄はうんざりして「別のところへ移ろう」と言って歩き始めた。柚香は慌ててその後を追った。

 

 孝雄が歩いて来たのは駅前だった。時間も九時近くで、祭りも終わりが近づきつつあった。

「ごめんよ孝ちゃん、怒っとる?」

「怒ってない」

「怒っとるやないか、だからごめんっつっとるのにー」

「怒ってないって言ってる」

 水掛け論を繰り広げる様に暫く二人はそんな言い争いを繰り広げていたが、不意に柚香がぷっと吹き出した。

「は? ……いや、何で吹いてるの?」

「ごめんごめん、や、まぁその、孝ちゃんがこんだけうちの相手してくれよんのも久しぶりやけん」

「……は?」

 そこで柚香はふっと孝雄に近づいて接吻した。一瞬困惑した孝雄に、やはりどこか可笑しそうな表情を湛えた柚香が口を開く。

「やーね、多分孝ちゃん、ずっとこれして欲しかったんちゃうかと思って」

「は? いや、思ってない。大体さっきまで口元たこ焼きで汚れてたやつにキスされても嬉しくない」

「ひどいなー、人が折角サービスしてあげたのに」

 そこで一旦会話が途切れた。暫くお互いに視線を逸らして沈黙を保つ。辺りはまだ祭りの熱気と喧騒に満ちているにもかかわらず、二人にはそれが耳に入らなくて静寂の中に立っているようだった。

空に炸裂音が響いた。二人が空を見上げると、遠くに夏の風物詩たる花火が打ちあがっていた。緑、青、赤、様々の色彩に彩られた刹那の華が空に咲き、辺り一面をその色で一時ばかり染め上げた。

「ね、孝ちゃん」

「なに」

「今日は付き合ってくれてどうも。そして、今までうちの彼氏で居てくれてありがと」

「……」

「また不機嫌な表情してる。うちは当たり前のことをお礼いっただけやのに」

「普通、別れる相手にお礼なんて言うかよ」

「今日までうちの我が儘聞いてくれた、まぁその御駄賃かな」

「一文にもならない駄賃だな」

「ひどい言いようやなー、まぁそうやけど」

 また花火が打ちあがった。その一刻一刻が二人には非常に遅く感じられた。孝雄は早く過ぎればいいと思い、柚香は僅かでも長く続けばいいと思った。

「なぁ」

「なに?」

「今……好きなやつとか、居るのか?」

「居るよ、知りたい?」

「……いや」

「教えたげる。あんた。でも、それも今日限り。明日から、うちらは元カノと元カレになるんや。ただの、他人や」

「……」

「ほな、そろそろ((去|い))のか」

 最後に柚香は大きく手を振って、駅のホームまで歩いて行った。孝雄は付いて行かず、彼女が視界から消えるまでずっとそれを、ちいさく手を振って見送っていた。

 

 夏祭りの日を最後に、二人は接点が無くなった。というのも、柚香はバドミントンのサークルを辞めたのである。二人はみるみるうちにただの他人となり、それを目に留めた幾ばくかの外野が孝雄なり柚香なりを囃し立てはしたが、やがて時が経つにつれて二人が別れたという事実は人々の記憶から忘れられていった。

 孝雄はその後何度か他の女性と付き合うこともあったが、長く続くことも無かった。彼女たちと離別してその度彼はふと思う、自分は柚香に魔法でも掛けられたのか? 或いは、未だに柚香に心を残したままなのか? それともは全て勘違いで己の甲斐性無しが原因なのだろうか? そんな問いかけが彼の胸の内にいつまでも続いていた。

説明
約五三〇〇字。二〇一四年八月三十一日完成、最終更新二〇一四年十月一日
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