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 その日の某新聞報道の見出しは「凶悪強盗、山中で凍死」というものだった。犯人は正田栄太と云い、新聞によると三日前銀行強盗を働いて逃亡し山中にて行方を眩ましたということだった。そして昨日の夕方、国道脇にて死亡しているのが通りがかった車からの通報で知らされ、その日の夜に身元の確認が取られた。

 新聞には犯人にまつわる昔話や旧友たちのコメントが寄せられている。写真に映る栄太は、ひどくぎらぎらとした目付きで見る者を((睨|にら))み付けるようだった。あたかも罪を犯し、やがてその((報|むく))いを受けるのが当然と思わせるかのような写真である。……

 

――――――

 

 車から((這|は))い出した栄太は、片手に引き((摺|ず))るケースに血眼な様でそれを持ち上げた。彼は崖の上を見上げた。千切れたガードレールの先が見える。栄太は舌打ちした。登れそうもない急斜面には枯草が垂れていた。空模様は薄暗く、微かに光の差す先がまだ昼間であることを示していた。

「ちっ、さっさと移動しねーとポリが追いかけて来るな」

 言って栄太は辺りを見回した。((鬱蒼|うっそう))とした森林が広がっている。足元は枯葉が降った雨の湿り気を((蓄|たくわ))えたままの((泥濘|でいねい))気味で歩きにくい。そして何より、道なき道であった。しかし彼はがけを登るよりはましな選択肢と考えた。かくして潰れた車を捨てて彼は森を進む。

 道なき道を歩く中で彼は苛々とした表情を湛えている。自分が強盗を働いた筋書きを思い出した。それだけで彼はひどく腹が立って、すぐ傍らの樹を思い切り蹴った。それで何かの解決になるわけでもなく、彼は((悶々|もんもん))と先へと進む。静まり返った森の中で彼の足音だけが聞こえる。風は森に((遮|さえぎ))られてかまるで((凪|なぎ))に入っており、鳥の((囀|さえず))りも動物の足音も、足跡も、虫一匹彼の目には入らなかった。

「腹が減って、貯金も無くて大家の((婆|ばばあ))にどやされて……クソッ」

 踏み鳴らした音は柔く鈍い。また一つ、彼は舌打ちをして歩み続けた。

 

 薄闇が忍び寄っていた。その中で彼はまだ森の中を彷徨っていた。かなり歩いたはずであるが、ただ山と木々が視界に映る。辺りの草叢には花一つ見当たらない。あったとしても、それは枯れていた。彼はその花を見つけた時、無性に腹が立って花を引き抜き遠くへと投げ捨てた。

風はなおも静まり返っていた。ここには自分しかいないのだと栄太は思った。((反吐|へど))が出る、と続けて思いもした。

「ったく、いい加減どっか道はねーのかよ」

 夜が近づく中、ケースを片手に歩き続けるのは体力自慢の彼にとて堪えるものがあった。彼は服が汚れるのも構わずすぐ傍にあった一本の木の下に座り込んだ。湿り気を帯びた根が尻に当たって冷たい。不愉快な冷たさ。服越しに感じる空気の冷たさとは違う、直接その手で触れてくるような冷たさである。

「クソが、結局飲まず食わずで野宿かよ」

 やや気落ちした声音で栄太は独り言を言った。もう辺りは殆ど闇に包まれつつあった。ものの数分で真っ暗闇のただ中に彼は踏み入れるのである。

 辺りが全く夜の帳に包まれたと思った彼は、その深淵に初めて触れた。彼は都会育ちで、夜はネオンライトの((煌々|こうこう))とした光の中に在るものだと思っていた。月は雲に隠されて光さえも届かない。身体が木にもたれ掛っている感触だけが確かなものだった。

 その中で彼は心臓の音が高鳴っているのを感じた。辺りに音は全くない。彼の耳は用を為さず、内より発せられる高鳴りは彼の苛立ちを否応なく高めた。

「んだ、畜生、何でこんなところに俺はいるんだよ」

 寒い空気は栄太の身心を蝕んだ。彼は空を仰ぎ見た。曇天が((微|かす))かに見える。雲の((襞|ひだ))は何も分からない。

 ぽつり、音がした。その音を敏感に聞き取った栄太はその方向を振り向こうとした。続けてやって来たのは、音を立てて((雪崩|なだ))れ落ちてくる雨であった。栄太は慌てて立ち上がり、((濡|ぬ))れるまいとして背中から木に張り付くように立ったが飛沫はその頬を、その手先を打った。冷たさが((強|したた))かに彼を打ち付けた。

 雨が降り続く中で彼は、夜はいつ終わるんだと何度となく考えた。豪雨の中で彼は、雨のことを意識から無理矢理追い払った。手は握りこぶしを作って末端の微かな熱を少しでも保とうと努めた。しかし無力な抵抗で、栄太はうずくまって小さくなる欲求に深く駆られた。そうすれば体の熱を体中で感じられるだろう。しかしそこでふと、雨に濡れたら、という恐れが意識野にぬっと姿を現した。彼はどうすることも出来ないまま、寒さに思考を((凍|い))てつかせられるように同じ問答を繰り返した。雨の止むまで。

 雨足が弱まり、それを見て気が抜けたように栄太はへなへなと根元にへたり込んだ。見下ろしたケースは雨に濡れて、その金属光沢だけがいやに夜の中で目立った。彼は体育座りをして、寒さに震えながら夜が終わるのを待った。眠ろうとしてその寒さが阻害して、長く苦しい夜を彼は耐え続けた。

 

 僅かに辺りが明るくなった。それを栄太が知ったのは、いつとも知れぬうちに飛んでいた意識が戻ってきた後だった。途切れた意識が戻って来た後に感じる、手酷い気だるさと眠気の((醒|さ))めきった、張り詰めた意識の内で彼は朝が近づきつつあることを知ったのである。

そうと気が付いて栄太は、逃げて来て以来初めて笑った。微かな微笑み。それ以上は、((憔悴|しょうすい))しきった彼に出来るものではなかった。

 栄太は明るくなり始める内に一つのことに気が付いた。白い霧が辺りを覆い始めている。昨日は見渡す限り森の中だったのが、次は見渡す限り霧の中となった。

栄太はそれでも歩みを進め始めた。重い足をのろのろと動かした。昨日の昼以上にぬかるんだ大地は、空腹と共に彼をひどく苛んだ。その中でふと、彼は尿意を((催|もよお))していることに気が付いた。疲れた手つきでズボンのホックを外した。外気に触れた股間の辺りが痛いほど寒く、その中で排尿をするのは熱を自ら逃がしているようで彼には非常に不本意なものだった。何か温かい物が欲しい、と今更のように思った。

 霧の中を進む歩みはひどく鈍かった。満足に眠れなかったこと、空腹を満たすこともしていなかったことが足をからめ((捕|と))った。栄太はふと足元の草を見やった。昨晩の雨露が滴るそれは深い緑色をしていた。彼はおもむろに屈みこんでその草を引き抜いた。土に塗れた根っこを更に千切り、葉と茎を口の中に放り込んだ。苦く、冷たい。無性な心持ちでそれを噛む彼の頬から、涙がしたたり落ちた。口の中で熱を含んだそれを飲み下して、胃袋はまったく量が足りないと彼に告げた。再び彼は辺りの草を引き抜いた。……

 足を運ぶ一音一音を、栄太はもうまともに聞くことも出来ぬままに歩き続けた。ただ心臓が鳴っている。ただ足が動いている。ただ、視界が霧の中を進んでいる。その感覚だけが彼を動かしていた。いつの間にかケースさえどこかに置き去りにしてしまっていた。

 昼は束の間に過ぎた。その間に彼は何度となく足を休め、腹が空いていると思ったら草を引き抜いた。夜がやって来て、再び彼は静寂の中に取り残された。((瞑想|めいそう))する、あるいは思索する習慣を持たない彼は初めて、その鈍りきった思考から自分の人生を振り返り始めた。幼い頃の記憶、親の一挙一投足、はつ恋、駆け抜けるような青年期、そして今までの日々。そんな日がかつてあったことの記憶に彼はどうしようもなく今の自分が((惨|みじ))めになり、静かに涙を流した。

 ふと、音がした。それは鳥の((羽搏|はばた))きだった。栄太は見上げた。白い霧はいつの間にかいずこかへと消え失せ、彼の視界の端に一羽の鳥の姿が認められた。彼は突然に走り出した。羽搏きを追って。しゃにむに走り、無意識のうちに彼は自らの身体が羽根の様に軽いと思った。空を見、羽搏きの消えた彼方を追って彼は走り続けた。恐ろしい勢いで彼の足は重くなってゆく。それを彼はどこから引き出したのかも分からないような力で引き上げ、力の限りに走り尽くした。

 視界が開けた。雲間から朝日が兆していた。そこには舗装された山道のガードレールの切れ目があり、栄太は路上に飛び出した。そこで彼は一本の電柱を視界に認めた。見上げれば、一羽の烏が羽搏きを止めてその先端に((憩|いこ))うところだった。栄太をそれまで動かし続けた力はその時潰えた。膝から折れて彼は路上に倒れた。半開きになった視界の中で、彼は路面が霜を張って凍り付いているのを見た。自分の身体も、徐々に感覚を失っていった。最早何も考えることなく、彼は視界が白く澄み渡っていくような死に身を委ねた。烏の鳴き声が一度聞こえた。それっきり、何も感じることは無くなった。

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約三四〇〇字。最終更新二〇一四年十二月二日
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