わずらい
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「はい。バレンタインチョコ」

「ありがとうございます、((湯築|ゆづき))先輩」

 周囲の何となく((刺々|とげとげ))しい視線も涼しげに良太は差し出された包みを受け取った。満枝は三年生で、良太は一年生。冬の寒さの去ることなき二月のただ中にわざわざ満枝は彼の教室へとやって来た。殆どやり取りらしいやり取りも無く彼女が教室を去ってゆくとすぐさま、良太を男子たちが取り囲んだ。その大概は普段良太とはさしたる関わりの無い、学級の((喧|やかま))しいお調子者たちである。良太は彼らの追求にも特段機嫌を損ねた様子を見せなかったが、満枝より頂いたチョコレートを一欠けらたりとも分けてやることはしなかった。女子たちは彼らを遠巻きに見ながら雑談に興じていた。

 

 良太と満枝は幼稚園から同じ道を進んできた、周りからは幼馴染と呼ばれる間柄である。性別の((隔|へだ))てなく((戯|たわむ))れ合ったあの頃よりずいぶん歳月が経った、と彼は思う。同じ幼稚園に通った他の子供たちの殆どは道を違えていった。良太は自然と、自分の前を歩く満枝の後姿を見て育った。彼女は時折振り返り、その不思議な、気の無い視線を彼に投げ与えてはまた先へと進む。そんな日々がずっと続いて来た。

 小学生以来彼女は学校が同じである限り、バレンタインチョコを直接教室に足を運んで良太に渡し続けて来た。彼女は常に同じ言葉を口にした。そして毎回のように、その意味の程を周囲が詮索する。良太は、彼らは疲れないのだろうかとずれたことを考えたものだった。教室を辞して帰路に就く。駐輪場は曇天の中にて寒く、雪でも降り出しそうな肌を突く痛さだった。毎年、彼女は良太を待たなかった。

家に帰り着いた良太は自室の勉強机に貰ったそれを置いた。包装をゆっくりと開き、中にあるチョコレートクッキーを検めた。すっかり上達したんだな、と良太は感心した。一口含み、僅かに湿気を吸ったクッキーが口の中で割れて、甘い香りが((鼻腔|びこう))を満たした。彼はそれに満足しながら、包装に括りつけられた手紙を見た。

「三月六日に県外へ引っ越します」

 

 翌日、良太は昼休みに三年の教室を訪れた。人はまばらだった。大学受験も前期試験が終わった後である以上こんなものだった。良太は家族に聞かれる事を憚って電話をしなかったのである。当てが外れた思いで((踵|きびす))を返そうとした彼の前に、満枝がふっと現れた。

「来ると思ってた」

「そか。お手紙、読みました」

「うん。東京、行くから」

「東京……」

「だから、今年はホワイトデー、要らない」

「そっか」

 二人はそれで沈黙してしまった。幾らかばつの悪いような沈黙が流れた。良太は努めて変わらぬ声を出した。

「分かった。じゃ、六日までに渡す」

「いや、要らない」

「今までも渡してた。今年だけ俺が貰ったままなのは不公平だろ」

「まぁ、そうだけど」

「じゃ、決まり」

 二人はその日そうして別れた。良太は今まで特別考えを捻ってお返しをしてきたことは無い。気張りすぎると、二人の間に下ろしている沈黙が壊れてしまう。それをずっと気にしていた。彼は三学期の残り少ない一年生の冬の日、少しだけぼんやりしながら授業を聞いていた。教室に((喧騒|けんそう))が満ちること。それを一喝する様に教師が扉を開いて静めること。また居なくなって騒々しくなること。放課後の侘しい時間。彼は、自分の周りに幸せが満ちていることを感じた。

 

 二月二十八日、卒業式を前にして良太と満枝は出会った。量販店の食器売り場である。満枝は新居で使う食器を探しに来ていて、他方良太は今年は何かお洒落な食器でも送ってみようと考えていたが、毎年贈り物に苦慮する彼はこんな手近な場所でそれを定めようとしていたことを後悔した。こんな風に、出会うこともあるのだから。

二人は挨拶を交わしたが、そこからやはり沈黙が漂った。二月十五日よりもなお重い沈黙である。二人共示し合わせたかのように視線をお互いから逸らすと、それぞれに売り物を品定めし始めた。困った表情はお互いにとって筒抜けであったが、なおの事困ったことは、自分が困った表情をしているという事実を相手に見抜かれていることに気が付かれていないことだった。

そうして暫く、幾らかわざとらしく売り物を取り上げたりしてお互いがお互いを気にしていないかのように振る舞いはしたが、それこそ突然に満枝は言った。

「探してるの?」

「え? あ、ああ……」

「いいよ、別に。無理しなくたって」

「毎年やってる」

「けど、来年からはやらなくなることじゃない?」

「……」

「大丈夫。何も変わりはしない」

 満枝はそう言って、陳列棚から幾つかの皿を取り上げて下げている買い物籠に入れると、軽く手を振ってその場を立ち去った。背中が雑踏に紛れ、取り残された良太はこの場の何も見る気が無くなって、下げていた買い物籠を戻すためにその場を去った。

 

 三月一日の卒業式は恙無く終了した。学生の校歌斉唱がまばらだったことに顔を((顰|しか))める者も居たが、殆どの者にとってはこれが一つの別れで、一つの契機であった。二月が近づくにつれて、徐々に昼夜は暖かく穏やかなものとなっていった。寒風が陽光に心地よいと思えるほどに。満枝はひとしきりの挨拶を済ませ、卒業写真をせがむ多くの人々の頼みを苦笑して聞きながら今日が暮れるのを待っていた。多分良太は来るだろうからと。果たせるかな、良太は来た。彼はカメラ一つ持っていなかった。そして、気の利いた一言さえ言えない男だということを満枝はよく知っていた。

「湯築先輩、ご卒業おめでとうございます」

「らしくない世辞」

「……おめでとう、でなければ何なんでしょうね、これ」

「……」

「おめでとうございます、改めて」

「……ありがとう」

 良太の眩いものを見る目を、満枝はずっと見て来た。二人は知っていた。二人にとって特別の記憶は何もないことを。二人はただ幼い頃一緒に遊び、ただ彼女が行く道を彼がなぞっているだけだった。いつしか二人は一緒に遊ばなくなった。二人で海へ、二人で山へ、そんな瑞々しい記憶は二人にはなかった。二人はそれぞれの友達と遊んできたのだから。満枝にとってそれは、何となく悲しいことだった。

 たまたま通りがかりの三年生が二人を見つけた。満枝は二人一緒の写真を撮ってくれるよう頼み、快諾された。二人の写真は、穏やかな笑顔が映っていただけの物が出来た。もっと笑えと言われても、二人はそれこそ苦笑した。それっきりとなり、二人は駐輪場まで一緒に歩いて、そして自転車を突き合わせた。二人の家路は校門を出た途端に別れるので今まで一緒に帰ったことは無かった。この日も、校門で二人は別れの挨拶を済ませた。

 

 三月五日が来た。満枝は良太から呼び出されていた。良太にまだ春休みは来ていなかったので、満枝は彼の昼休みに校門前まで出向いて行った。良太はそのことを申し訳なさそうに詫びた。

「いいよ、別に。それで、結局何をくれるの?」

「いいよ別に、じゃないって……。これ」

 差し出された茶色い包装を満枝は開いた。花の模様が描かれた栞が十二枚入っていた。

「これ、何の花?」

「アカシア」

「……また何か意図がありそうだね。即答出来るなんて」

「言わねぇよ」

 彼はそこで言葉を区切った。咳払いを挟む。

「えっとな。……えー、東京行っても、頑張れよ」

「ぷっ」

「笑うな」

「いやだってほら、もうちょっと言いようがあるじゃない」

「そうだけどさ……」

 また、ここで沈黙が降りた。南の低い空に太陽が雲間から輝く。吹き抜ける風は強くなく、二人の髪をそよいで掻き分ける。遠くの車の音ほど、自然の音はまだ強くない。二人の沈黙にはそうした静けさがあった。

「次、会えるの、いつになるよ?」

「……さぁ? 早くてゴールデンウィーク、でなきゃ夏休みか」

「そっか。……じゃあ、来年の春は?」

「まだ、私からバレンタインチョコが欲しいわけ?」

「違うよ。俺が贈りたいんだよ」

「あんた……」

「いや、いい。今のは忘れて。単に俺は、中二・中三の頃のもどかしさを思い出してるだけだからさ……」

 いつも二人は連絡を取り合うこと((稀|まれ))であった。良太が中学一年生の頃、満枝はバレンタインチョコを送った。間も無く彼女は中学を卒業し、良太は中学校に彼女の背中を見失った。小学校の頃は三年も猶予があったというのに、と彼は若盛りに思ったものだった。二年生の時に迎えたバレンタインは、十四日に一番近い休日に彼女がやって来た。良太もまた、三月に彼女と同じことをした。三年生になっても、また。

「俺、毎回バレンタインには満枝さんに足を運んでもらってるから。何かこう、悔しいというか、恥ずかしいというか」

「……別に気にしなくたって、いいんじゃないの」

「かもな」

 予鈴が鳴るのが二人の耳に入った。二人が背を向ければ、それが今年の別れとなるのだろうとお互いに思った。

「授業、始まるよ」

「ん。……なぁ、満枝さん」

「はい?」

「好きに、恋してくれよ。誰かを好きになって、それで、その人を、俺に紹介してくれよ」

「……」

 良太はそう言って照れくさそうに視線を下ろした。彼はそれで、満枝が苦笑していたことを見逃した。二人は別れの挨拶を交わしてそれぞれの場所へと帰った。良太はこの日もやはり、少しだけぼんやりと授業を聞いていた。周囲の学生たちは変わらず騒がしく、高校の授業は彼の関心事に比して遥かに退屈だった。それでも、彼は眠らず授業を聞いてノートを取った。ぼんやりと、自分も東京の大学を目指そうと考えていた。

説明
約三八〇〇字。二〇一五年九月十六日完成、最終更新二〇一五年十月十一日
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