ピンクローズ - Pink Rose - 6. 歓迎会
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「歓迎会、ですか?」

 サイファは顔を上げて尋ね返した。ロッカーの扉を静かに閉める。

「そ、ウチの班でな。おまえさんが入って二週間になるだろう。ちぃと遅くなっちまったが、ここいらでガツンと親睦を深めようじゃないか」

 マックスは握った両手を腰に当てて陽気に言った。ニッと白い歯を見せる。体格のいい彼が狭い更衣室で肘を張っていると、通路はほとんど塞がれてしまう。まるで通せんぼをされているかのようだ。

 サイファはロッカーの鍵を掛けながら尋ねる。

「何をするんですか?」

「平たく言えば、飲みに行くってことさ」

「どこへですか?」

「それは行ってからのお楽しみってヤツだ」

 マックスの声は、微かに笑いを含んでいた。

「……わかりました、いいですよ」

 サイファは少し考えてから返事をした。マックスの答えが曖昧なのが気にかかったが、彼が悪い人間ではないことは、この二週間で十分に理解している。自分を陥れようという意図はないものと判断した。

「よし! 決まりだ!」

 マックスは太い腕をサイファの肩にまわし、大きな声を立てて笑った。

 

 サイファが魔導省で勤務するようになって三週間が過ぎていた。

 最初の一週間は、他の新人とともに、魔導省で行われている様々な仕事を見学してまわった。その後、マックスを班長とする公安局一番隊第二班に配属されたのだ。魔導不正使用の捜査・逮捕が主な仕事である。

 サイファは幹部候補生として採用された。つまり、上級官僚になるべき人材だ。だが、最初の一年は、内局ではなく公安局の実務部隊に配属されることになっている。それは、サイファだけではなく、幹部候補生全員に義務づけられていることなのだ。現場を知るための実習のようなものなのだろう。

 

 地平の向こう側に陽が落ち、あたりは次第に闇に飲み込まれていく。長く伸びた影も、その闇に融けるように輪郭が曖昧になっていった。

「どこへ行くんですか」

 サイファは感情を隠して尋ねた。

 班長のマックス、班員のエリック、ティムとともに、歓迎会を行う場所へと向かっているのだが、進めば進むほど寂れていく街並みに、次第に不安が湧き上がってきた。このようなところに、まともな店があるとはとても思えない。

「もう少し先だな。そう心配するなって」

 マックスは白い歯を見せた。

 サイファは横目を流して口を開く。

「あらかじめ言っておきますけど、いかがわしい店なら帰りますよ」

「いかがわしい店? それってどんな店だ?」

「女性がお酒を作ってくれるような店です」

 マックスは面食らったようにきょとんとした。だが、次の瞬間、弾けるように豪快に笑い出した。後ろを歩くエリックとティムも、つられて笑い出す。

「どうして笑うんですか」

 サイファはマックスを軽く睨んだ。

「いやぁ、可愛いなぁ、おぼっちゃんは」

「おぼっちゃんはやめていただけますか」

 そう言ってもマックスはまだ笑い続けていた。ひとしきり笑うと、サイファの肩に腕をまわし、ニッと口の端を上げて顔を寄せる。

「その定義で言うならな、実はちょっといかがわしいってことになる」

「……僕、帰ります」

 サイファは低い声で言った。

「まあまあ、店を見てからでも遅くないだろう」

 マックスはサイファの頭をガシガシと乱暴に撫でまわす。鮮やかな金髪がぐしゃぐしゃになった。

「いかがわしい店だったら本当に帰りますよ」

 サイファはマックスの手をゆっくりとどけた。頭を軽く左右に振る。乱れた髪はすぐに元に戻った。

 

 一行はさらに狭い路地裏へ入っていった。すでにあたりに人気はない。気味が悪いくらいに静かだ。サイファは周囲を見まわし、無意識に警戒心を強める。

「この下だ」

 マックスが地下へと続く細い階段を指差した。その先には飾り気のないドアがひとつだけある。とても店には見えない。物置といった方が説得力がある。

「看板、出ていませんよ」

「一見さんお断りの店だからな、あえて出してないんだ」

 一応、筋の通った話ではあるが、そこまで隠すのはやはり妙だ、とサイファは思う。

「何というお店ですか?」

「え?」

「お店の名前です」

「何だったかな……おまえら知ってるか?」

 マックスは後ろのふたりに振り返って尋ねる。

「さあ、記憶にはありませんね」

「気にしたこともなかったな」

 ふたりの答えは素っ気ないものだった。

「俺たちは隠れ家って呼んでるがな」

 マックスはサイファに振り返り、陽気に声を弾ませる。

 サイファは眉根を寄せた。その呼び方を聞いて、不審に思う気持ちがますます大きくなった。

 

 マックスが先頭をきって階段を降りていく。そのあとにサイファ、エリック、ティムと続く。階段が狭いため一列にならざるを得ない。体格のいいマックスとティムは、それでも窮屈そうである。擦れ違うだけの余裕はない。

「ちーっす」

 挨拶だか何だかわからない言葉を発しながら、マックスはドアノブをまわして扉を開いた。サイファの上腕を掴み、強引に中に連れ込む。

「いらっしゃい」

 狭く薄暗い店内には、数人が座れるくらいの小さなカウンターと、ふたつの小さなテーブル席があった。カウンターには、長い黒髪の妖艶な美人が座っていた。頬杖をつき、物憂げにこちらを見つめている。この店の女主人なのだろう。客はひとりもいないようだ。

「帰ります」

 サイファは踵を返そうとしたが、マックスは腕を掴んだまま放さない。

「まあ待て」

 ニヤリと笑いながら引き留める。

 サイファは眉を寄せて反論する。

「見るからにいかがわしいじゃないですか」

「いかがわしいって私のことかしら?」

 女主人が気怠そうな声で尋ねる。サイファが振り向くと、彼女は朱い唇に微かな笑みをのせた。

「いえ……申しわけありません」

 サイファは彼女を窺いつつ頭を下げた。店の主人を前にして失礼だった、と素直に反省する。

「入口で騒いでないで、とりあえず中に入りなさい。取って食いはしないわ」

「ま、観念するんだな」

 マックスは笑いながら、サイファの背中をバシッと叩いた。エリックとティムも、後ろで軽く笑っていた。

 

「いらっしゃい、マックス!」

 サイファたちがテーブル席につこうとしたとき、奥から少女が飛び出してきた。長い銀色の髪をなびかせながら、笑顔でマックスのもとに駆け寄る。女主人とは対照的に、明るく溌剌とした子だ。

「おう、久しぶりだな!」

 マックスは大きな手で彼女の頭をクシャクシャと撫でた。その様子は、まるで叔父と姪のように微笑ましく見えた。だが、実際の関係はわからない。「いらっしゃい」と発言していたところからすると、彼女はこの店の関係者に違いない。明らかに未成年だが、ここに雇われているのだろうか??サイファは怪訝な眼差しを彼女に送る。

 その視線に気がついたのか、少女は瞬きをして振り向いた。濃い蒼色の瞳が、サイファを興味深げに捉える。

「ねえ、この人は?」

「そうだ、先に紹介しておこう」

 マックスはサイファの首に腕をまわして引き寄せた。頭に拳骨をグリグリと押し当てる。

「こいつはウチの新人のサイファ。カウンターにいるのは女主人のフェイ。で、このお嬢ちゃんが、フェイの娘のアルティナちゃん」

 娘か……。

 サイファは少し安堵した。

「よろしくね!」

 アルティナはまっすぐ腕を伸ばし、右手を差し出した。

 サイファはふっと口もとを緩める。

「よろしくお願いします」

 穏やかな声でそう言うと、彼女と握手を交わした。

 この店に対するいかがわしいという評価は、このとき、サイファの中からほとんど消え去った。ふと、女主人のフェイの方に目を向けたが、彼女はもうカウンターにはいなかった。

 マックスはサイファの肩を抱いたまま、ニコニコして話を続ける。

「こいつ、実はラグランジェ本家の跡取りなんだ」

「ラグランジェ?」

 アルティナは首を傾げた。

「知らないの? 魔導の名門一族だよ」

 既に座っているエリックが、横から補足する。

「お金持ちってこと?」

「すっごいぞ、半端ねぇぞ、とんでもねぇぞ」

 マックスは力を込めて畳み掛ける。どれも抽象的な言葉だ。ラグランジェ家のことをそれほど詳しく知っているわけではないのだろう。

「へぇ……じゃあ、私、玉の輿ねらっちゃおうかなっ」

 アルティナは両手を組み合わせ、はしゃいだ声で言う。

「残念ながら、そりゃあ無理なんだな」

 マックスは白い歯を見せる。

「どうして?」

 アルティナは口をとがらせて尋ねる。

「こいつには既に婚約者がいるんだよ、な?」

「ええ」

 サイファは微笑みながら頷いた。

「それがもうめちゃくちゃ可愛い子なんだぞ!」

 今まで大人しかったティムが、急に興奮したように割り込んできた。なぜか両手を挙げている。椅子が倒れそうになり、慌てて座り直した。

 エリックはくすくす笑うと、サイファに視線を送って尋ねる。

「確か、アルティナちゃんと同じくらいの年じゃなかった?」

「12歳です」

「やだ、本当に同じ年」

 アルティナは上半身を引いて一歩後ずさった。眉をひそめて怪訝にサイファを見つめる。

「……ロリコン?」

「違いますよ。彼女が生まれたときに、親どうしが決めたんです」

「うそっ、まだそんな前時代的なことやってるの?!」

 昔は親同士が決めた婚姻というのもわりとあったらしいが、今はほとんどが本人同士の意思で決めている。このようなことを伝統的に行っているのはラグランジェ家くらいだろう。王家でも、今はもう少し自由だ。

「自分で結婚する人も決められないなんて不幸ね……」

 アルティナは顔を曇らせ、同情するように呟いた。

 サイファは目を細め、くすりと笑う。

「そうでもないですよ」

「そりゃそうだろう! あんな可愛い子で文句を言ったらバチが当たるぞ! 呪われるぞ! てか、俺が呪ってやる!!」

 ティムは右手をぐっと握りしめ、鼻息荒く力説する。

「へぇ、そんなに可愛いんだ」

「まあ、ティムがそう言いたくなる気持ちもわかるかな。アルティナちゃんは美人系だけど、あの子は可愛い系だね。お人形さんみたいだよ」

 エリックはにこやかに言った。

「人形……?」

 アルティナは、隅に放置して埃をかぶっている操り人形に目を向けた。

「違う、違う。そうじゃないって!」

 ティムは立てた手を大きく左右に振り、むきになって否定する。

「可愛らしい少女人形だよ。ひらひらの服を着たやつ。色白で目がぱっちり、ほっぺはピンク色でぷくっとしててさ。とにかくものすごく可愛いんだぞ!」

「知らないからわかんない」

 アルティナはティムの熱弁を冷たく流した。サイファに振り向き尋ねる。

「ねぇ、写真は持ってないの?」

「持ってないですよ」

「えー、本当? お財布とかに入れてるんじゃないの?」

「写真なんかに頼らなくても、目を閉じれば姿が思い浮かべられますから」

 サイファはすまして言う。

 だが、マックスはニヤニヤして、太い腕で首を絞めつつ覗き込んできた。

「本当は持ってたくせに、なに格好つけてんだよ」

「ちょっと、苦しいですって」

 サイファは顔をしかめて訴えた。

 マックスは笑いながら腕を外すと、アルティナに向き直って言う。

「この前、写真を取り上げられてみんなに回されてから、持ってこなくなっちまったんだよ。クールに見えて意外と照れ屋なんだコイツ」

「違いますよ。彼女に好奇の目を向けられるのが耐えられなかっただけです」

 それは嘘ではなかった。レイチェルの写真を見てにやついたり、あれこれ好き勝手なことを言う連中が許せなかった。そのときは何とか耐えたが、今度そんなことがあったら、抑えが利かなくなりそうだと思ったのだ。

「いつまで喋ってるの? アルティナ」

 いつのまにかフェイが近くまで来ていた。光沢のある黒のロングドレスを身に纏い、ビールの入ったジョッキと簡単なつまみを載せた丸盆を両手で持っている。

「奥へ行って手伝ってちょうだい」

「はーい」

 アルティナは軽い調子で返事をすると、軽い足どりでカウンターの奥へ駆けていった。

 フェイは盆の上のものを、優雅な所作で、手際よく狭いテーブルに移した。

「ごゆっくり」

 目を細めてゆったりと言うと、空になった盆を脇に抱え、颯爽と踵を返して戻っていく。艶やかな黒髪が、背中で緩やかに揺れた。

 

「えー、それでは……」

 マックスはジョッキを持って立ち上がった。サイファ、エリック、ティムは、座ったままでジョッキを手にしている。

「サイファ、一年という短い期間だが仲良くやろうや。俺たちは、おまえを心から歓迎する」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 サイファはにこやかに微笑んで応える。

「それじゃ、乾杯っ!」

 マックスは勢いよく高々とジョッキを掲げた。泡が波を打ち、こぼれ落ちる。

「乾杯!」

 残りの三人は、マックスよりも上品にジョッキを持ち上げた。

 

 こうして、ささやかな宴が始まった。

 

「今日は俺の奢りだ。じゃんじゃん飲め!」

 マックスは豪快に笑いながら、サイファの肩に腕をまわした。マックスのジョッキは既に空になっている。先ほど大声でフェイに追加を頼んでいた。

「それほど強くないので、あまり勧めないでください」

 その言葉を裏付けるかのように、サイファのジョッキの中身は、まだほとんど減っていない。

「なんだ、何でもできるスーパーおぼっちゃんにも不得手なものはあったのか」

 マックスは妙に嬉しそうだった。まるで子供のような笑顔を見せている。

「おぼっちゃんはやめてください」

「だけど、おぼっちゃんには違いねぇだろ。親にぶたれたこともないんだろう?」

「ありませんよ。家庭教師には何度か殺されかけましたけどね」

 サイファは涼やかな表情でさらりと言った。嘘ではないが、少しばかり誇張していた。死ぬかと思ったことはあったが、死にかけたことはない。

「殺され……って……」

 ティムは真に受けたらしく、言葉をなくし唖然とした。

 エリックはハッとしてジョッキを置いた。

「そうか、君の家庭教師ってラウルだったよな?」

「そうですよ」

 サイファは素っ気なく答える。

「ラウルって?」

 ティムは誰にともなく尋ねる。

「王宮医師のデカいヤツだよ。睨んだだけで人を殺せるって噂の。聞いたことないのか?」

 マックスはよくわからない身振り手振りを交えながら言う。

「さあ……」

 ティムは奇妙な表情で首を傾げた。

 サイファもそんな噂は聞いたことがなかった。睨んだだけで人を殺せるなど、まるで神話の世界だ。とんでもない噂が一人歩きしているな、と可笑しくなった。下を向いてこっそりと笑う。

「まあ、人を殺せるってのは大袈裟だろうけどな。そのくらいの迫力はあるぞ。一度、腕の怪我を治療してもらったことがあるんだが、ビビリすぎて腕の痛みを忘れちまったくらいだ」

「班長、ビビリすぎですよ……」

 屈強なマックスの情けない話を聞き、ティムは苦笑いした。

「おまえはラウルを知らないから、そんなことが言えるんだ」

 マックスは眉根を寄せて腕を組む。

「しかし、あとで冷静になって思い返してみれば、医師としては結構まともだった気がするな。言うことはきついが間違ってないし、治療も的確だったよ」

「自分も診てもらったことがありますけど、そんなに恐ろしくはなかったですよ。確かに無愛想でとっつきにくいですし、積極的に行こうとは思いませんけど」

 エリックも同調する。

「サイファ、教え子のおまえから見たらどうなんだ?」

 マックスは、黙って聞いていたサイファに話を振った。

 サイファは満面の笑みで答える。

「内緒です」

「何だ、気になるなオイ!」

 マックスは机に片手を置き、身を乗り出した。

「もしかして、意外な一面とか知ってるんじゃないのか?」

「話の種になるような面白いことはなかったですよ」

「もったいつけんな! ケチくせぇぞ!」

 エリックはふたりのやりとりを聞いて微笑んだ。

「ラウルのこと、嫌いではないんだね」

「好きですよ」

 サイファはさらりと答えた。

「はぁ?」

 マックスは口をあんぐりと開けた。太い眉を寄せ、訝しげに尋ねる。

「殺されかけたのにか?」

「ええ」

 サイファは軽く言う。

 マックスは腕を組んだ。何とも言えない微妙な表情で首を傾げる。

「おまえ、ちょっとズレた奴だと思っていたが、ちょっとどころじゃなく、かなりズレてるな……」

「そうですか?」

 サイファはとぼけたようにそう言うと、涼しい顔でナッツを口に運んだ。

 

 それから二時間ほどが過ぎた。

 その間、他の客は二人しか来ていない。それぞれふらりとやってきて、カウンターで静かにフェイと話しながら軽く飲み、帰っていった。二人とも魔導省の制服を身に着けていた。今は他の客はひとりもいない。

 サイファたちのテーブルは、最初から変わらず賑やかなままだった。陽気なマックスが、途切れることなく場を盛り上げるのだ。これも一種の才能といえる。主にたわいもない雑談だったが、だからこそ何も考えずに笑えるのだろう。

 

「サイファ、ちょっとこっちに来ない?」

 カウンターからアルティナが呼んだ。両手で頬杖をつき、ニコニコとしている。

「アルティナちゃんからのご指名だぞ! 行ってこいや!」

 マックスは野太い声を響かせると、残り少ないビールのグラスをサイファに押しつけ、大きな手で肩をバンと叩いた。

 サイファは椅子から落ちそうになり、よろけながら立ち上がる。ビールは辛うじてこぼれなかった。マックスを一瞥すると、小さく息をつき、カウンターに向かって歩き出した。

 

「こんにちは、アルティナちゃん」

 サイファはにっこり微笑んで、彼女の前の席に座った。グラスをカウンターに置く。

 アルティナはムッとして口をとがらせた。

「ちゃん付けはやめてくれる?」

「他の人はそう呼んでいたけど?」

 サイファは顔を斜めにして頬杖をついた。

「サイファとはそんなに年が違わないじゃない。バカにされてるみたいに感じるわ」

「じゃあ、アルティナさん」

「アルティナさん? アルティナさんか……それ、いいかも」

「気に入ったんですか?」

「ちょっとくすぐったいけど、でも、うん、それでお願いね!」

 アルティナは上機嫌で声を弾ませた。

「わかりました」

 サイファは笑顔で応じた。だが、内心では少し驚く。まさかこれを気に入るとは思わなかった。本当はからかうつもりで言ったのだ。しかし、彼女が望むのであれば、そう呼ぶことに異存はない。今は少し奇妙に感じるが、そのうちに慣れるだろう。

「お酒、何か作ってあげよっか。ウィスキーでいい?」

「そうですね、ロックでお願いします」

「了解!」

 アルティナは手際よくウィスキーのロックを作る。随分と手慣れているようだ。いつもこうやって店を手伝っているのだろう。

「はい、どうぞ」

 作りたてのウィスキーをサイファに差し出し、古い方のグラスを引っ込める。

「じゃんじゃん飲んでね!」

「じゃんじゃんは無理です。僕はそんなに強くないんですよ」

「えーっ、せっかくの金づるだと思ったのに」

 アルティナのあまりに率直な物言いに、サイファはくすっと吹き出した。

「お金、どうしたいんですか?」

「この店、だいぶ古びてるでしょう? 修復したいところが結構あるの」

「お母さん思いなんですね……お父さんは?」

 サイファはウィスキーに口をつける。

「いないわ」

 アルティナはすぐに答えた。屈託のない笑顔で続ける。

「私、お父さん知らないの。お母さんはいわゆる未婚の母ってやつ」

「そうですか」

 サイファは表情を変えずに相槌だけを打った。カウンターの隅にいるフェイにちらりと目を向ける。彼女は無表情でジョッキにビールを注いでいた。話が聞こえていないということは、おそらくないだろう。

「ねぇ、この店、気に入った?」

 アルティナは両腕をついて身を乗り出した。目をくりっとさせて、サイファに顔を近づける。艶のある銀色の髪が、肩からさらりと落ちた。

「ええ」

 サイファは微笑んで答える。

「じゃあ、また来てくれる?」

「ときどきはね」

「毎日来るって言ってくれないの?」

 アルティナは首を傾げながらサイファを覗き込み、不満げに口をとがらせた。

「そんなに暇じゃないですよ」

 サイファは落ち着いた口調で返した。ウィスキーグラスに手を掛ける。

「一日おきなら来てくれる?」

「それも無理です」

「三日に一回は?」

「夜勤もあるんですよ」

「じゃあ、せめて一週間に一回!」

 アルティナは片目を瞑り、指を一本立てた。

 サイファは急にくすくすと笑い出した。口もとに左手を添える。

「え? なに……?」

 アルティナは困惑して顔を曇らせた。

 サイファは息をついて笑いを止めると、視線を上げて言う。

「いえ、すみません。元気だなと思って」

「あ、バカにしてるわね?!」

 アルティナは腰に両手を当て、眉を吊り上げた。

「そうじゃないです。こういう子がレイチェルの友達になってくれたら、って考えてたんですよ」

「レイチェル? 誰?」

「僕の婚約者」

 サイファは頬杖をつき、口もとを緩めた。目を細めて彼女を見る。

「アルティナさんとなら、気が合いそうな気がする」

「いいところのお嬢さまなんでしょう? どうかなぁ……」

「正反対の方が、かえって上手くいくことが多いですよ」

「どうせ、私はお嬢さまとは正反対ですよーだ」

 アルティナは拗ねたようにそう言うと、つんと顔をそむけて頬を膨らせた。しかし、ふと寂しげな表情を覗かせると、サイファに視線を流してぽつりと尋ねる。

「お嬢さま、もしかして友達いないの?」

「まわりに同じ年頃の子がいないんだ。学校にも行ってないしね」

 サイファはカウンターに肘をつき、顔の前で両手を組み合わせる。

「今までは僕がずっと一緒に遊んできたけど、就職してからは、今までのようにはいかなくてね。寂しい思いをしているんじゃないかな」

「大切に思ってるんだ、婚約者のこと」

 アルティナは優しい声で言った。

「大切ですよ、誰よりもね」

「あれ? でも、親どうしが決めた婚約じゃなかったっけ?」

「僕はとても運がいい、ってことになるかな」

 サイファは柔らかい表情で言った。

 アルティナはにこりとした。立てた人差し指を口もとに当て、斜め上に視線を流す。

「こういうときは『ごちそうさま』って言えばいいのかな?」

「え? どうしてですか?」

 サイファは大きく瞬きをして、不思議そうに尋ね返した。

 

「おう、飲んでるかー?」

 赤ら顔のマックスが、ジョッキを片手にやってきた。足どりはしっかりとしている。それほど酔いはまわっていないようだ。ジョッキをカウンターの上に置き、サイファの隣にどっしりと座る。細身の椅子がギシリと軋んだ。

「飲んでますよ」

 サイファはウィスキーグラスを軽く爪で弾いて答える。だが、顔色も口調も、まったく普段のままだった。

「おまえ、まだ全然しらふだろう」

「あしたも仕事があるじゃないですか」

「あしたになれば抜けるさ」

 マックスは半分くらい残っていたビールを一気に呷った。そして、空になったジョッキを掲げて言う。

「アルティナちゃん、おかわりね」

「はーい」

 アルティナは愛想良く返事をして、空のジョッキを受け取った。

 

「実はな……」

 アルティナが二人から離れると、マックスは急に真面目な声で切り出した。カウンターに両腕を置いて寄りかかり、思い出したように小さく笑う。

「おまえの配属がウチに決まって、最初に書類を見せられたとき、とんでもねぇ嫌なヤツだなって思ったんだ」

「そんな気はしてました」

 サイファは僅かに微笑んだ。

「ラグランジェの、それも本家の一人息子なんていうだろう? 写真を見たら、案の定、苦労なんざまったく知らないような綺麗な顔をしてやがる。おまけに、試験もなしに入ってきたっていうじゃねぇか。なんだそりゃって思ったよ」

「そう思って当然ですよね」

 顔のことはともかく、無試験の特別措置で入省したことについては、反発があるだろうと予想はしていた。サイファ自身でさえ不穏当だと感じるくらいである。だが、前当主である祖父が進めたことであり、逆らうことはできなかった。ラグランジェ家の力を誇示し、威厳を強めたかったのだろう。

「今までも何度か幹部候補生を預かってきたが、おまえさんみたいな大物は初めてだったし、どうしたものかと頭を抱えていたわけさ」

「班長でも悩むことがあるんですね」

「おまえ、バカにしてるな? こう見えて、俺の心はガラス細工のように繊細なんだぞ」

 マックスは眉をひそめ、自分の厚い胸板に、節くれ立った右手を当てて主張する。

「そうですか」

 サイファは笑顔で軽く受け流した。

 マックスはカウンターに肘をつき、小さく息を吐いた。顔を大きく上げて、僅かに目を細める。

「だがな、実際のところは想像とえらく違ってて驚いたよ。確かに育ちの良さそうなおぼっちゃんだが、仕事に関しては新人とは思えないくらい使えるじゃねぇか、って。初めてのときでも驚くくらい落ち着いてたしな。ビビって腰が引けるか、興奮してまわりが見えなくなるか、緊張してガチガチになるか、ってあたりが普通なんだが」

「多少は緊張していましたよ」

「多少緊張しているくらいがちょうどいいんだよ」

 マックスはウィスキーグラスに手を伸ばした。サイファの手もとに置いてある、サイファが飲んでいたものだ。それを左右に振って揺らすと、一口だけ流し込んだ。

「それに素直だ」

「えっ?」

 サイファは話の繋がりが理解できずに聞き返す。

 マックスは、グラスをサイファの手に戻して言う。

「指示通りに動いてくれる」

「班長の指示が的確なので従っているだけです。間違っていると思えば反論します」

「ああ、もちろんそれは構わない。問題なのは、正しいとわかっていても従わない奴だ。幹部候補生にはときどきいるんだよ」

「そんなことをしても何のメリットもないですね」

 サイファは淡々と言う。

「プライドが邪魔をするんだよ。現場の人間なんかに指示されたくないって思ってるのさ」

「それはプライドとはいいません。単なる思い上がりです」

 マックスはニヤリと笑い、サイファに目を向けた。

「俺はおまえをけっこう気に入っている。ちょっと変わった奴だがな」

「僕もこの班のことをけっこう気に入ってますよ」

 サイファも、にっこりと笑って言葉を返した。

 マックスはふっと息を漏らす。

「おまえが上に行っても、俺たち現場のことを忘れないでいてくれたら有り難いんだがな」

「努力します」

 サイファは笑顔のままで軽く言う。

「ま、そこまでは期待しないさ」

 マックスは背筋を伸ばしながら、頭の後ろで手を組み、胸を張って大きく呼吸をした。

 

「はい、おまちどうさま」

 アルティナが元気よく姿を現すと、マックスの前にジョッキを置いた。ビールがなみなみと注がれている。ビールを持ってくるだけにしては時間が掛かりすぎた。サイファたちの会話に割り込めなかったのかもしれない。

「おう、ありがとな」

 マックスは待ってましたとばかりにジョッキを手に取り、半分ほどを一気に飲んだ。これで何杯目かはわからないが、最初からずっとこの勢いで、ほとんど途切れることなく飲み続けている。相当な量になることは間違いない。それでも意識ははっきりしているようだ。

「強いんですね」

「まあ、そこそこな」

 マックスはサイファの肩に腕をのせ、ニッと白い歯を見せた。少し体重を掛けて寄りかかる。

「しかし、おまえ間近で見ても綺麗な顔してるなぁ」

「唐突に何ですか」

 サイファは僅かに眉をひそめた。少し顔をそむける。

「女でも十分に通用するぞ。潜入捜査に使えるかもな」

 マックスは値踏みするように横顔をまじまじと見つめ、独り言のように呟く。

「使えませんよ。無理に決まってるでしょう」

 サイファは即座に却下した。少し呆れたような声音が混じった。

「可能性を闇雲に否定するのは良くないな。やってみなきゃあ、わからん」

「そんなに顔を近づけられると酒くさいんですけど」

 マックスの腕はずっとサイファの肩にのったままだった。かなり重い。顔も近い位置にある。

「つれないこと言うなよ。せっかく親睦を深めようとしてるのに」

「普通に会話するだけでいいじゃないですか」

「何をいう、スキンシップも大切だぞ?」

「班長は普段からスキンシップ過多だと思いますけどね」

 そのとき、不意に生温い感触が頬に当たった。

「……えっ?!」

 サイファはぎょっとして仰け反るように身を引いた。その勢いで椅子からずり落ち、バランスを崩して足がもつれ、背中から床に倒れ込んだ。視線の先には天井の梁があった。

 それを見て、アルティナは腹を抱えてケラケラ笑った。

「大丈夫?」

 テーブル席の方にいたエリックも、笑いを噛み殺している。隣のティムは下を向いて大きな背中を揺らしている。やはり笑っているに違いない。

 サイファは手の甲で頬を拭いながら立ち上がり、あからさまに不機嫌な表情を見せた。背中も軽く払う。自分では汚れているのかわからなかったが、脱いでまで確かめる気にはなれなかった。

「いやぁ、可愛い反応だなぁ。驚いたか?」

 マックスは嬉しそうに尋ねる。

「驚きましたよ」

 サイファは静かな口調で、しかし腹立たしげに言う。

 マックスはニッと口の端を吊り上げた。

「素直に認めるのはいいことだ。そうでなくちゃ、成長しない」

「ええ、もう二度と同じ手は通用しませんよ」

 サイファは先ほどまで自分が座っていた席の隣、つまりマックスからひとつ離れて座った。カウンターの上で両手を組み合わせる。

 おまえは想定外の事柄に対する即応力が不足している??ラウルから繰り返し注意されていたことである。それにもかかわらず、よりによって、こんなつまらないことで露呈させてしまうなど、言いようもないくらいに悔しい。

「あれはただの冗談だから、気にしない方がいいよ」

 エリックは苦笑しながら、気遣わしげにフォローした。

「反応を楽しんでるだけなんだ。酔うとときどきやるみたいだね。僕も何度かされたことあるし」

「本気だったら怖いですよ」

 サイファはぼそりと言い返す。冗談であることくらい言われずともわかっていた。だからこそ、まんまとそれに嵌ってしまった自分を情けなく思うのだ。

「いや、本気だぞ。本気の愛情表現だ!」

 マックスはまるでサイファの神経を逆撫でするかのようにそう言い、愉快そうにワハハと笑った。

「班長、俺はされたことないですよ?」

 ティムは自分を指差し、寂しげに尋ねる。

「俺より体格のいい奴は守備範囲外なんだよ」

「そんなぁ……」

「あなたたちの方が、僕よりよっぽど変わってますよ」

 サイファは肘をついて額を押さえ、大きく溜息をついた。金の髪がさらりと頬にかかる。みっともないところを晒しすぎた??そんな自己嫌悪が湧き上がる。だが、それと同時に、なぜだか笑いも込み上げてきた。

 

「サイファ!」

 静かな路地裏に響く高い声。

 帰ろうと外に出たサイファたちを追いかけ、アルティナが階段を一段とばしで駆け上がってきた。癖のない銀色の髪が、月の光を浴びて神秘的な輝きを放つ。

「本当にまた来てね」

 彼女は後ろで手を組み、にっこりと笑いかけて言う。

「そのうちね」

 サイファも笑顔を返す。

「おいおい、サイファだけかよ。俺たちには言ってくれないのかよ」

 ティムが呆れたように抗議する。

「だってサイファが一番の金づるなんだもの。大切にしなくちゃ」

 アルティナは人差し指を立て、悪戯っぽく小首を傾げる。

 マックスは彼女の頭に、大きな手をぽんとのせた。片目を瞑って言う。

「俺がまた連れてくるぜ。無理やり引っ張ってでもな」

 アルティナはパッと顔を輝かせた。

「本当?! じゃあ約束ね、マックス!」

「おう! 任せとけ!」

 マックスは笑いながら答えた。

「じゃあな」

 アルティナの頭から手を離し、大きく手を上げると、月明かりがほのかに照らす道を進んでいく。サイファたちも彼女に手を振り、マックスのあとについて歩いた。

 アルティナは、彼らの姿が見えなくなるまで、大きく両手を振って見送った。

 

「どうだった? いかがわしい店は」

 サイファと並んで歩きながら、マックスは濃紺の空を見上げて尋ねる。

「店は悪くなかったですね。ただ、客の一部がいかがわしかったようですけど」

 サイファは無表情で淡々と答える。

「お? それは俺のことか?」

 マックスはニヤリとして嬉しそうに言うと、サイファの肩に腕をまわそうとした。だが、それは豪快に空振った。サイファが屈んでかわし、素早く後ろに逃げたのだ。涼しい顔でエリックの隣に立っている。

「おまえ、反応が過敏になってるぞ」

 マックスは眉根を寄せて振り返り、低い声で言った。

 サイファはくすりと笑った。

「でも、楽しかったですよ。いろいろと新鮮な経験でした」

「それ本心か? どうもおまえは考えてることが読みにくいんだよなぁ」

 マックスは腕を組み、眉をひそめて大きく首を捻った。

 サイファはとびきりの笑みを浮かべた。形の良い唇から言葉が紡がれる。

「信じる、信じないはご自由に」

 

 闇夜の空には無数の星が散りばめられていた。ひとつひとつ、異なる大きさと異なる色で煌めく。地上にもたらされた微かな光は、静寂の街をほんのりと柔らかく彩った。

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続きは下記にて連載しています。

よろしければご覧くださいませ。

ピンクローズ - Pink Rose -

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説明
王宮医師のラウルは、ある日、父親に手を引かれて歩く小さな少女を見て驚く。彼女のあどけない笑顔には、かつて助けられなかった大切な少女の面影があった。

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