セクシュエル・ルサンチマン(斎藤県知事問題における問題など)
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 (魅力がある)性的強者に対する(魅力がない)性的弱者の放縦(ほうじゅう・ほうしょう)・ひがみ・劣情・さげすみと言う

            セクシュエル(性的な)・ルサンチマン(感情、道徳)

 

(ほとんどニーチェの踏襲)

 

 「斎藤県知事問題」に対する「セクシュエル・ルサンチマン問題」が今、問題である。

 

 セクシュエル・ルサンチマン感情の中で、最も問題なのが、放縦である。

 

 「あいつは”ああ”だから”こう”していいんだ」と言う放縦、 

      ”ああ”と言うのが、自分の決めつけ、

      ”こう”と言うのが、自分を中心とした直情のものだが、

 

2重問題の「斎藤県知事を渦中に置いて」も例外ではない。

 

 

 

”ああ”は「若くて愚鈍だ」から、

               ”こう”は「自分達を中心に結論付け」て。

と言う様な事を裏で言っている。

 

”結論”とは、「自分達が奴と違って「公益者」だ」と言う事である。

 

「まだ、結論が少なくて、自分達の指針が決まっていない、見えていない」

と言う前提がある。

 

 

 

 セクシュエル・ルサンチマン道徳とは、性的に弱い自分達は「公益者」であり、

       性的に強い彼の人達は「私益者」であり、

              ”こう言う「私益者」は「公益」に反して、「私益」を貪っている”

と主張する。

 

 ちなみに、これを書いている私(滝口)は「私益者」であるから、「公益者」は注意する様に。

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        〜きちんと論点を踏まえて批判しなさい。〜

 

 「公益者」ではなく弱者、「私益者」ではなく強者、

として、批判しなさい。

 

魅力があるかないかで言えば、あった方がいいのだが、弱者に取って、強者が女性に人気が出ると(不都合で)、自分達が批判されるのではないか?と恐れる。

 だから、こう言う輩は「公益者」と自己主張する。

 

 こう言う輩に反論するには、「自分は「私益者」ではない」と繰り返し主張なさい。

 

 もし、何か物申す事があれば、曖昧模糊な主張だろうから、むしろ、「あなた達は「公益者」ではない」と主張なさい。

 もしも、「公益者」なら、ショーか何かの様に「私益者」を見世物にしないからである。

 

 最もである。「公益者」は「私益者」を借りずとも、「公益者」だろうから。

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 長くいれば長くいる程、「公益」に繋がると、「公益者」は言うが、

   入って1週間程度でも政治と言う分野であっても、

   十分な理解と、   特異な視点と、   謙虚な姿勢が

あれば、

       実果(じっか)の公益に動けるのだ。

 

 逆に、老人程の長い月日が経っていると、

          そう言うものは全く得られない。

 

 

 

 逆に私は言う。

 

 

 

 政治は短くいれば短くいる程、

              早ければ早い程、

                     公益を得に行ける 公益者となれる。

 

 しかし、私益を当たり前と思ってしまう程、

                    長くいれば長くいる程、

                              遅ければ遅い程、

公益を得に行けず、 公益者となれない。 

 

 

 

分かるか?

 

老人は絶対的に公益者になれないのだ。

 

昔から、年功序列とは言っても、

             それは絶対的に公益者ではない事が前提だったのだ!

 

つまり、結論として、

         (そう言う前提にある)老人の傀儡(かいらい)の知事も、 老人の知事も、 県民を幸せに出来ない。

説明
ある程度、斎藤県知事だけじゃなく、今後の人達の事も考えて、これは拡散されるべき。
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現実問題 心理学 ニーチェ哲学 ルサンチマン セクシュエル・ルサンチマン 斎藤県知事問題における問題 

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