踊り子
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説明
川端康成の幼い頃は、予知能力のようなものがあり、探し物や来客を言い当てたり、天気予報などの小さな予言をして、「神童」と呼ばれたそうだ。康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、早産で生れたため、病弱で食が細いので祖母に大事にされていたらしい。1年生の時は不登校気味で、出席日数の4割近くを欠席して しばらくは近所のおばさんが教室まで付き添っていたそうだ。成績は良く作文が得意で群を抜いていたという。小学校に上がる前から祖母にひらがなを習っていて 小学校に入る前から簡単な読み書きはできたと本人は言っている。小学校5、6年になると欠席することはほとんどなくなり、成績は全部「甲」(現代のオール5)であったという。康成は上級生になると小学校の図書館の本をすべて読んでしまっていたそうだ。康成は毎日のように庭の樹上に跨り、講談や戦記物、史伝をはじめ、冒険小説を好んで読んだらしい。中学2年頃からは作家になることを志し、文芸雑誌を読み始めたそうだ。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋に来る目ぼしい文学書はほとんど買ってしまい、祖父が死んだ後の借金には、中学生らしからぬ法外な本代があったと川端は述懐している。1918年(大正7年)の秋、康成は誰にも告げずに初めて伊豆へ向け旅出たそうだ。高校の寮生活は 1、2年の間がひどく嫌だったことと、幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になって、自分を憐れむ念と自分を嫌になる気持ちに堪えられなかったのだそうだ。 康成は、10月30日から約8日間、修善寺から下田街道を湯ヶ島へ旅して、旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子の加藤たみと出会った。旅中知り合った人の善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放したという。彼らとのやりとりは、小説『伊豆の踊子』(1926年)に描かれているそうだ。1968年ノーベル文学賞を受賞した。 ゙1972年4月16日゙自殺したが、その日のあしどりは次の通りだ。 【午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。2時頃、川端と秀子夫人はお手伝いを呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は「駄目ですか。…そうですか」と小さく言った。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い、仕事場用の神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの2名が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。】 『川端康成の死を伝える1972年(昭和47年)4月18日 の新聞記事』マンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥えた川端が絶命しているのが発見され、ガス自殺と報じられた。72歳で永眠。死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。枕元には封を切ったばかりの飲みかけのジョニーウォーカーの瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。
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