「彼女の背中」1話 小さな始まり |
それは突然だった。
流行り病で突然母さんが亡くなった。
黒髪が美しい、自慢の母さん。僕は母さんが最後まで僕の髪をなでながら、微笑んでいたことを忘れない。
母さんの死に顔には笑みが残っていた。
近所のおばさんたちは、僕のおばあちゃんがすぐ来るからと言ってくれたけれど、おばあちゃんってどんな人か見当がつかなかった。
だって僕はここでずっと、母さんと二人で暮らしていたんだ。おばあちゃんがいることは知っていたけれど、顔すらもう覚えていない。
おばあちゃんがやってきたのは母さんのお葬式のその当日だった。
母さんとは違って小柄な、おばあちゃん。僕の姿を見ると突然走り寄ってきて抱きしめた。おばあちゃんは、僕を抱きしめるとごめんよ、ごめんよと何度も謝った。なんでおばあちゃんが謝るの?と僕が尋ねてもおばあちゃんはただ、謝るばかり。しようがないから僕はおばあちゃんの背中をぽんぽんと叩いて「大丈夫だよ」と笑って言った。
母さんはいつも言っていた。大丈夫って言葉を聞いたら人間は本当に大丈夫になるんだって。
お葬式は、村の大人たちが色々とやってくれていて子供の僕はただ、母さんの棺の前にいただけだから何もしていない。でもおばあちゃんは僕に苦労賭けたと涙ながらに誤ってくれる。
変なことをいう人だな、と僕が思っているとおばあちゃんは言った。
アンドレ、おまえは私と一緒にこれからジャルジェ家で暮らすことになったんだよ、と。
ジャルジェ家?と尋ねると村の人たちは、みんな一斉に喜びの声をあげた。
アンドレ、あんたはなんて幸運な子なんだ。あんたのおばあちゃんのお仕えするお貴族様は、それは立派なお方だそうだ。そこにお仕えできるなんてこれほど幸運なことはない、と。
みんな口々にうらやましいだの、安心しただのと言ってくれた。つまり、ここに僕が残る選択肢はないということだ。
僕の父さんは、昔、森に行ったきり帰ってこなくなったと母さんは言っていた。父さんがいたらまた状況は違うんだろうな、と思いながら僕は村を後にした。
おばあちゃんは、僕を連れて近くの町に行くとまず服と靴を買ってくれた。そのあと、宿屋で体を洗い、髪を洗い乾かすと櫛ですいてくれる。
「ジャルジェ家にはね。おまえの一つ年下のお嬢様がいてね。その方の遊び相手としてどうかと旦那様がおっしゃるんだよ」
おばあちゃんは、僕の髪を整えながらそういった。
お嬢様、旦那様、そんな言葉、村にいたらトンと聞かない言葉だ。
「お嬢様って、お名前は?」
「オスカル様、とおっしゃるんだよ」
オスカル様……僕は、小さくその名をつぶやいた。
「ねえ、どんな方なの?そのお嬢様って」
「とてもきれいな方だよ」
「ふーん……でも、僕は女の子じゃないから、女の子の遊び方って知らないけれど……」
「女の子……そうだね。まあ、お会いすればわかるよ」
おばあちゃんの言葉に若干歯切れのなさを感じたけれど、僕は新しい生活にちょっとワクワクしていた。
今の僕にとって、きれいな新しい服を着て、髪をとかして身ぎれいにするなんて想像できなかったことだから。おばあちゃんと二人でこうして宿屋に泊まって、馬車で移動していろんな町や村を見ることができるなんて考えもしなかった。
馬車を乗り継いで、ジャルジェ家に着いたのは、村を出発して三日たったころ。
ジャルジェ家の屋敷に足を踏み入れた時、その大きさと美しさに言葉を失った。今まで自分が住んでいた世界とはあまりにも違いすぎて、ただ驚くばかりだった。
入り口で待つように言われた僕がきょろきょろしていると、階段の上から誰かの影が見えた。
そこには僕と同じ年くらいの少年がいた。
うわ、すごくきれいな子、と僕は内心思った。
金髪のきらきらした、まるで教会の聖画にあった天使にそっくりだ。
「君の名は?」
少年は剣を携えて下りてきた。
僕は名前を名乗ると、彼は持っていた剣を投げてよこした。
「僕の欲しいのは遊び相手じゃない。剣の相手だ」
そういっていきなり切りつけてきたので、僕はとっさに体を引いた。
そういうことか、僕はハッとした。この子、男の子じゃない。
口元に笑みを浮かべた顔を見て、どうして僕が遊び相手に選ばれたか合点がいった。
おばあちゃんの嘘つき、という言葉を抑えて、僕は彼女が切りつけるのをよけてみせる。
剣を使ったことなんてないけれど、村の子供たちとよく木の枝をつかって剣士ごっこはやっていた。
僕の村は、剣術の心得のあるものを輩出していたから、大人の中にも剣術指南に詳しい人はいた。
でも、このかんじ、オスカル様の剣の動きが軽やかすぎる。
僕は、どうにかよけるのがやっとだ。
おばあちゃんが僕たちのことに気づいたときには、僕らは玄関広間から外へ出て、そこで一戦交えていた。
どのくらいの時間、やり合っていたか。
結局、互いが譲らない状態が続いて、引き分け、となった。
玄関入り口から外に出て、気が付くと邸の庭で二人して倒れていた。
「あー、すごくおもしろかったー」
寝転がりながら隣でお嬢様は笑っている。
「それはよかったですねー。こっちは体中ぼろぼろですが」
僕がそういうと、お嬢様は嬉しそうな顔をして半身を起こした。
「いや、アンドレは筋がいいぞ。このまま軍隊へはいればどうだ?」
「遠慮します。僕は、軍人には向いていませんので」
「そうかな。今まで来たどの貴族の坊ちゃんよりも筋がよかった」
どの貴族の坊ちゃんより?
僕の前に彼女の遊び相手候補っていたんだな。
「それで、その坊ちゃんたちは?」
「さっきのように、入り口で待ち構えて剣術をしようって誘ったんだけれどさ。少しやり合ったんだけれどみんな負けてしまって。ほんと、あいつら口だけなんだから」
「……」
そりゃ、貴族のご令嬢のお遊び相手とお聞きしたら、まさか剣術が出てくるなんて思いませんよ。
僕は思わずため息をついた。
「オスカルお嬢様は、剣術が達者なんですね」
「これでも王家に忠誠を誓うジャルジェ将軍の跡取りだからな。私は女伯爵の称号をいただくことになる」
そういってさっと剣を空に向けた。
なるほど……生粋の貴族様なんだ。
将軍の娘っていうだけ跡取りってじゃなく跡取りの重責を伴っているということか。
これは大変なお嬢様の遊び相手に抜擢されたんだなと僕は思った。
「アンドレ。おまえは私のことをどう見る?」
「どう見る、とは?」
「私はそれほど奇妙だろうか。ここに来た貴族の子息たちはもう二度と私には会いたくないといったものもいたそうだ」
「そうですね……それは、その方とオスカル様が合わなかった、とそれだけだと思います」
「そうだろうか……」
「そうですよ」
彼女はわかっていないのかもしれない。僕はオスカル様の横顔を見て確信していた。
おそらく貴族の坊ちゃん方は、お嬢様のオスカル様に剣で負けたことに傷ついたんだ。
彼らもまあ、相手が悪かったと思えばいいだけなのに。なんといっても軍人貴族のお嬢様だもの。「アンドレ。私は、軍人として父上のように王家に仕えることになる。どう思う?」
「自分の志があることは、良いことではないかと」
僕がそういうと、オスカル様はそうか、と晴れやかな顔をした。
「その言葉、気に入った。志があることは良いことか」
彼女は笑うとすぐに立ち上がりこちらに手を差し伸べた。
「では、改めてよろしく頼む。私は、オスカル・フランソワ。おまえは私の従者として、これからは、私についてきてくれ」
僕はその手を取ると、その柔らかさにはっとする。
女の子の手だ、手にまめができている。
それだけ剣術のけいこをしているということだ。
このお嬢様は、平気な顔をしているけれど、きっと目に見えない努力をしているに違いない。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。お嬢様」
「オスカルでいい。様もいらない。おまえは私の友人であり、従者であり、ずっと私の傍にいてくれる者だ。遠慮なんていらないぞ」
彼女の口調は、軽快で悪びれるところもない。
僕は彼女に手をつかまれたまま、歩かされた。
「今日は、ベルサイユでお勤めの母上がいらっしゃる。ご挨拶に伺おう」
「あのう、旦那様は?」
「父上はベルサイユに行かれた。いずれは会えるだろう」
オスカル様は、僕の手を握りしめたまま屋敷に入っていく。
半ば強引に僕は、屋敷内の女主人であるジャルジェ夫人の部屋に入ることとなった。
ジャルジェ夫人は、とてもやさしそうな美しい方だった。僕の母さんもきれいだったけれど、ジャルジェ夫人はとてもいい匂いがして、美しい薄紫のドレスを着ていた。
僕は、おばあちゃんから教わったお辞儀をしようしたとき夫人は僕の傍にかけ寄ってきて抱きしめてくれた。
びっくりしているとジャルジェ夫人は
「大変だったわね。まだこんなに小さいのに、かわいそうに」と言ってくれた。
「あの、大丈夫です。その……僕は」
いい匂いがして何だか気持ちがいい。やわらかくあたたかい夫人の声は僕を慰めてくれていた。
母さんが亡くなって、僕はなぜか泣けなかった。
でも、僕の代わりにおばあちゃんが泣き、そして夫人が泣いてくださった。
夫人は僕に優しく言ってくれた。
「ようこそ、我が家へ。オスカルが気に入ったのなら、きっとあなたは素晴らしい子なのね」
その言葉に、思わず目頭が熱くなった。
ここは僕が生きていく場所になるんだ。母さんのいない世界で、僕が新しく始める場所。
夫人の胸の中にいると、最後の夜、母さんの手が優しく僕の手を包んでくれていたことを思い出した。
ふと、母さんの声が聞こえた気がして、僕は目を閉じた。
「ありがとう、母さん……」
心の中でつぶやいた。
それは、小さな始まり。
けれど、この日が僕の人生を変える、確かな一歩になった。
説明 | ||
母を流行病で失くした少年アンドレは、祖母の勤め先であるジャルジェ将軍家に令嬢の遊び相手として引き取られることになる。 だが、貴族のお嬢様、と聞いていたのは、お嬢様とは名ばかりのきれいで傲慢な少年にしか見えない令嬢、オスカルだった。 友を持ったこともなく、ただ |
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