『南品川宿南端から北浜川にかけて、東側の海に面する地域の砂州を鮫洲(さめず)という』 2020年4月、東京都品川区にある鮫洲駅の副駅名に「鮫洲運転免許試験場」が採用された。鮫洲という名前の由来はいくつかあるようで、「干潮時に海中や浜辺の砂の中から清水が出るため「砂水(さみず)」とか、「左の方の海辺に出水があったので「左水(さみず)」、またはこの海で死んだ大鮫の腹から観音像が出て来たので「鮫洲(さめず)」「鮫頭(さめず)」など諸説あるようだ。だが由来として面白味があるのは、やはり鮫が飲み込んだ観音像の話だろう。 【1251(建長3)年5月7日の話】鎌倉時代中期、北条時頼が執権をしていた頃に、品川沖で漁をしていた船が大ザメに狙われ体当たりされた。このままでは船がひっくり返され漁師全員が犠牲になる。ひとりがサメの犠牲になればその間に他の皆が逃げることができると考えて、それぞれの鉢巻を海に投げ、最初に沈んだ者が犠牲になることにした。船主の息子の鉢巻が一番早く沈んだので息子は仲間に別れを告げ、観音経を唱えるとサメのいる海に飛び込んだ。残った漁師たちは急いで櫓を漕いで岸辺に向かったが、じきに船主の息子が海面に浮かんできた。漁師たちは慌てて息子を船に引き上げたところ、大ザメはいなくなっていた。我に返った息子が腹に手を当ててみると観音像が消えていたそうだ。船主一家は代々観音様の熱心な信者だったから、船の名前は「観音丸」だったし、息子が漁に出るときは いつも観音像は肌身離さず身につけていた。それなのに観音像が無くなっていたのだ。それから何年か後に大ザメが岸へ打ち上げられ、漁師たちが解体したところ 腹から観音像が出てきたという。「観音様が あのとき、身代わりになってくれたのだ」と、助かった息子は観音様にたいそう感謝したという。この話が北条時頼に報告されると時頼は「天下安全のめでたい前触れであろう」と、鎌倉の建長寺を開山した 渡来僧である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に迎え、海晏寺(かいあんじ)を創建し、大ザメの腹から出てきた観音像を本尊として安置した。それから大ザメの頭を御神体とする鮫洲明神(鮫洲八幡神社もしくは御林八幡宮ともいう 、現在は東大井1丁目にある)もこの寺の近くに祀られたそうだ。 海晏寺(南大井5丁目)は当初多くの末寺を持つほど繁栄したというが、戦国時代には荒廃してしまったそうだ。しかし豊臣秀吉の小田原征伐後に江戸入りした徳川家康が1593(文禄2)年に、本多正信に命じて再興させたと伝わっている。その際、三河から招いた和尚が曹洞宗だったため、臨済宗から宗旨替えしたそうだ。なんだか最近流行りの 異世界で魔物のいるダンジョンに置き去りにされる物語りのようで面白い。時代は違えても物語りの内容はかわらないのだろうか。 海晏寺は江戸時代に紅葉の名所としても有名で、歌川広重らの浮世絵にも数多く描かれている。墓地には岩倉具視、松平慶永(春嶽)、由利公正など幕末・明治期に活躍した人々の墓所があるそうだ。 鮫は『戦国時代に生まれた固体が 今も生きている可能性がある』と言われるくらい長生きの種もいて、怪我をしない限りいつまでも生きると言った薬屋もいる。鮫の生肝油は様々な薬効があり、よく効くサプリメントとして有名で、天然の抗生剤とも言われる。日本近海には約120種類の鮫が棲息しているらしい。1643年の料理物語には「養魚(ふか)は さしみ でんがく、鮫は さしみ 干けづりもの やきても」とある。また同じ江戸時代に、頭部がT字形のシュモクザメ が描いてある『かせ鰐』と書かれた絵が、2019年頃から可愛いと話題になっているようだ。 |