パリ上空で、リンドバーグが「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、このセリフの出所は 自伝 "The Spirit of St. Louis"の和訳タイトルだったという。日本人が勝手に付けた洋画の題名のようなもので、英語圏でこれに対応するセリフは存在していないらしい。なぜなら、リンドバーグ自身が パリに到着していた事を分かっていなかったらしいのだ。だから実際に発した最初の言葉は、「誰か英語を話せる人はいませんか?」で、その続きは二通りの説があり、英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねたか、「トイレはどこですか?」と聞いたか、のどちらかだと言われている。 リンドバーグが出発したのは1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)で、サンドイッチ4つと水筒2本分の水、1700リットルのガソリンを積んでニューヨーク・ロングアイランドのルーズベルト飛行場を離陸したそうだ。そして5月21日22時21分(到着時の現地時刻)に、パリのル・ブルジェ空港に着陸している。大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した時、リンドバーグは25歳だったという。飛行距離は5,810kmで飛行時間は33時間半だった。これにより、ニューヨーク−パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞と、賞金25,000ドルと名声を得ている。 スピリット・オブ・セントルイスと名づけた単葉単発単座のプロペラ機は、大西洋横断用に改造したライアン NYP-1という飛行機である。この機体構成は、機首側から順に、エンジン、燃料タンク、操縦室だが、この特殊なレイアウトだと 操縦席からは燃料タンクが邪魔で、風防窓が設置できないから、直接前方を見ることができない。前方を見るためには潜望鏡を使うか、側面の窓から顔を出して確認するしかない。だが正面を見る必要がある時は、離着陸時の滑走路だけで、航行時は機体側面窓での 地上観測で十分だったようだ。道程の大部分は海上飛行だから前方の目標物など無く、飛行姿勢を確認するためには 機体両側の窓から地平線や水平線を左右見比べれば十分であったという。 1931(昭和6)年に、リンドバーグは妻のアンと共に水上飛行機シリウス号に乗って航空会社の海外ルートを開発するという調査で、北太平洋横断飛行をしている。ニューヨークを出発後に、アラスカ、アリューシャン群島、千島列島づたいに進み、8月24日に根室に立ち寄った。根室の記録では、朝日新聞と北海タイムスの飛行機が導いた シリウス号は弁天島の北端とベニケムイ岬の間から入港し、二十間坂(旧花咲小学校の前の通り)の下に着水したとある。その後26日に霞ヶ浦に着水して民衆に熱狂的に歓迎されたあと、大阪、福岡に寄り9月19日には中国へ向かって行ったそうだ。このルート(北極圏の氷上のシルクロード)は近年、中国とロシアが組んで構想しているようだ。 シリウス号は極東へ到達した最初の航空機となった。リンドバーグは、この旅のことを 調査とはいえ、自由気ままに飛行できる冒険だったと述べている。 面白いのは、シリウス号は水上飛行機なので、飛行場ではなく港に立ち寄っているところだ。リンドバーグ夫妻は日本各地で盛大に歓迎されているが、ちょうど滞在中の9月18日には満州事変が起きていた。このときに使用した水上飛行機シリウス号は1970年の大阪万博で展示されていて、68歳のリンドバーグ氏も来日している。 大阪万博は岡本太郎と月の石だけではなかったのだ。やはりこの時の大阪万博は偉大であった。 今、日本には世界最高性能の水陸両用飛行艇「US-2」がある。空飛ぶ車より、空飛ぶ船のほうがいいな。 |