キリスト教的科学と非キリスト教的科学 |
キリスト教的「偏見」(科学をキリスト教で加味した概念の科学)を振りかざす「科学的人間」と、科学的思考を試行する「科学者」の二派がある。
「概念」は、言葉尻の言葉から得られる所(「偏見」)からしか、知り得ない。
つまり、実験とか実証とかの科学的な現実性のものからかけ離れた、いわば、「科学の精神」から離れた科学と言うより、「キリスト教」学が概念を論ずる科学である。その例として、ニュートンの「万有引力」、ダーウィンの「進化」、気象の「日照時間」などある。
(「万有引力」があるなら、「万有押力」もあり、「進化」があるなら、「退化」もあり、「日照時間」があるなら、「地熱時間」もあり、反対がある。それでなくとも、なり立つのである。たとえば、「進化」する環境を作るのも、他のものが「退化」する環境を作るのも同じ事なのである。そもそも、「進化」にこだわる必要すらないのである)
単純に、これらは「偏見」、決めつけから得られる意識からそう見えるに過ぎないのである。思い込んだからそう感じた。「科学的人間」は意識の力の底にある理性をだます。
その仕組みとは、まず、「概念」と称して人間の外にある名目で、人間の内にある「偏見」を作り出す。「万有引力」、人間には真理と言う言葉に好ましく感じてしまうのであるが、その真理をニュートンは利用した。
ニュートンは宇宙の真理として「万有引力」と言う「偏見」を作り出した。その「偏見」は世界中の人をだます悪魔的イメージ(サタン)を想起させる。全ての人はこの「偏見」を受け入れざるを得ない。これが「”宇宙の真理”」とあのニュートンが言うのだから。
いわば、科学をニュートンやダーウィンは人をだます「免罪符」として広めたのである。あまりに酷い暴虐。実際、この「偏見」は人類への犯罪である。理性から理性を取って理性をなくすのだから。
科学には二つの派がある。ニュートンやダーウィンらの「科学的人間」派と、ガリレオやアインシュタインらの「科学者」派であり、「科学的人間」は「偏見」的人間を作り、「科学者」は科学思考を持つ人間を作る。ただ、ガリレオやアインシュタインは「偏見」的でないので、一般人にとってはいわば、「わかりにくい」のだ。つまり、「取られた理性」では、アインシュタインの「宇宙は膨張している」と言うものは受け入れにくい。だから、「偏見」、つまり、
・「概念」を使わないようにする
・「概念」を自分の中からなくしてしまう
・現実的な”観念”のみにしてしまう
これらの事が重要である。
(科学で言うなら、「重力」を物の持っている力として処理してしまって、(”観念”)「地球が引っ張っている」、「概念」の重力を考えないようにするなど)
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科学には二通りあり、二派ある | ||
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「科学的人間」 科学者 「偏見」 「概念」 | ||
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