間殺的(かんさいてき)でない=両生的である
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 ”きちんとした論理的な文章と言うのは、’感情表現’の道具としての言語と、’論理表現’の道具としての言語の「間殺」(かんさい)に存在するのであって…

…’感情表現’の道具としての言語としてだけ、「一方的に、」また、’論理表現’の道具としての言語としてだけ、「独立的に」存在するわけではない。”

 

 …最近の哲学を標榜する批判者はこんな基本的な事も分からないのか。

 

 …それと、「私はこう思う」と「私はこれを否定する」は区別すべき。

 

 

 

『ルサンチマンの哲学』(永井均)より引用。

 

「ニーチェという人は、しばしば原理的な問題と具体的・個別的な問題とを混同するのですが、”私的言語が不可能だというのと同じ意味において、孤立した自己評価というのは、原理的に’不可能’なのではないのでしょうか”」

 

 

 

 …’不可能’と言う言葉を使っているが、「困難」とか「難解」と言う言葉を使うべきだった。

 不可能は感覚的過ぎるし、さらに、哲学用語である事から、道具としての言語として、「両生的」である。                                                             

 

 …また、永井は’感情表現’の道具としての言語としてだけ、「一方的に、」使っているようだ。つまり、哲学者であるはずの永井は

・・・・・・・・・・

感情言語的、論理学的に述べていて、「両生的」になっているが。…本当の所は、’感情表現’と’論理表現’の道具としての言語として、一間殺(ひとかんさい)ずつ書き上げなくてはならないのである!

 

 …であるから、このような「間殺的」でない、「両生的」である、このような文章を書く永井は論外的で、読む価値を見出せない読書の筆者である。

説明
間殺的でない文章、間殺的である文章。
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批判 『ルサンチマンの哲学』(永井均) 間殺的 両生的 

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