哲学者全部が真面目なのか?と言うと、ほとんどは興味本位 |
現在の哲学者にとってニーチェはざっくばらんで、カントは真面目な哲学者とされるが、実際はその逆。
ソクラテスへのプラトンによる印象操作が行われた事で、哲学者全体が真面目ととられるようになった。
…が、哲学者の中で真面目に考えていたのなんて、ニーチェかショーペンハウアーかアリストテレスくらいのもの。(後、私程度)
プラトンなんて、善のイデアの想起者(善人)の定義は可能か興味があった程度の事。
ユダヤ人の律法を用いれば、それは可能だが、本人にしか分からないと言う事である。
大体、ここぞと言う時に律法や法律を想い出すなんて、神に本当に愛されでもしなければ、出来ないような事である。
…たとえば、「イスラエル」と称してアンチ・ゴッドの不信仰国家を立てるイスラエル教徒には当然、出来ないだろう。
アリストテレスを通して、善のイデアの想起者は法律の想起者(裁判官、弁護士)になっているので、アリストテレスも師の興味を無駄にしたわけではない。
(アリストテレスの「中庸」は言ってみれば、過多、少楽(しょうらく)なく一字一句、法律を想い出せる法律家を理想とする)
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今も重要視される哲学者と今では重要視されない哲学者の違いは真面目かどうか。 | ||
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滝口哲学 真面目 ニーチェ アリストテレス カント 神に愛されるような人=善人 | ||
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