ふたつの あきのかぜ
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 それは、永遠なる刹那の物語

 

 ふと通り過ぎる、冷やりとした風。

 手が届きそうだった夏空もいつしか遠ざかり、いつしか秋の気配が忍び寄る頃。

 ほんの少し前まではあんなにも騒がしかったセミ達の声も、いつしか虫達が響かせる穏かな音色に代わりはじめる。

 これはそんな季節に語られた、ささやかでいて忘れられない物語。

 

 夏の余韻を残す蒼の空から降り注ぐ、透明な日差し。

 風に揺られて煌く、秋色に染まる前の木々。

 木の葉がちらちらと銀色の鈴になって舞い落ちる中、森に住む虫達はそれぞれの生命を燃やしています。

 そしてとりわけ働き者の蜜蜂達も、せっせと花から蜜を取り、巣に運び続けていました。

 忙しそうに飛び交う彼らの中に、ひときわ器用に蜜集めをこなす幼い小さな蜜蜂がいました。

 名前は「ナギ」。

 ナギは同じ頃生まれた兄弟達、いえそれどころか同じ巣の蜜蜂達の中でも評判の、蜜集めの名人でした。

 それに、軽やかに飛ぶナギの羽は七色に光る、とても美しいものでした。

 仲間達はナギが羽を煌かせて飛ぶ姿を見かけると、決まって口々に褒め称えていました。

「まだ幼いのに、ナギの腕前はたいしたものだ」

「すげえなあ、ナギ。俺達より体は小さいのに、蜜はいっぱい集めてくる」

「それに、あのきれいな羽をごらんよ。まるで虹のようだよ」

 ナギはますます嬉しくなり、毎日得意顔で仕事をしていました。

 でも、毎日毎日単調な蜜集めをしているうちに、ナギはだんだんそんな暮らしに飽きてきてしまったのです。

 

 仕事の合間に羽を休めると、木々の隙間からこぼれる日差しがナギの羽を七色に染め、通りかかった虫達がその美しさに、足を止めていきます。

彼らの視線を誇らしく受けながらも、ナギには今までになかった気持ちが芽生えていました。

「あーあ、他の虫達はあんなに自由気ままに暮らしているのに、ぼくらは毎日同じ事を繰り返しているだけ。ほんと、バカみたい」

 暖かな午後の時間。風は気持ちよく体を包み、木や草のたてるさわさわという音は、ナギを誘っているようでした。

 いつのまにか、ほんのちょっとのはずの休憩時間が、毎日少しずつ長くなっていきました。

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 そしてある日、長い雨が続いた翌朝。

 鮮やかに広がった空。しばらく思うように外を飛べなかった日々から打って変わった、爽やかな大気。

 ナギはもうたまらなくなっていました。仲間達がまだ外の様子をうかがっているうちに、こっそり巣を抜け出したのです。

 今まで決して離れなかった巣の周りから、ナギは羽を七色にきらきら光らせながら飛んでいきました。

 外の世界の広さは、ナギには想像もできなかった程でした。

 いつもより眩しく感じられる木漏れ日。初めてみる草花。少しだけ冷たく感じる風。見るもの全てが驚きと感動でいっぱいでした。

 そして美味しそうな香りの花を見つけては、おなかいっぱいに蜜を飲みました。

 

 どれくらい飛んだのか、ナギはそのうち眠くなってきました。地面に降りてみると、落ち葉がふわりと包んでくれます。身体を包む暖かさがじんわりと心地良く感じられました。

 初めての事に、思ったより身体は疲れていたようで、ナギはそのまま眠り込んでしまいました。よせては返す木々のざわめきを子守唄に、落ち葉をやわらかな布団にして。

 ふと目を覚ますと、どこかから小さな話し声が聞こえてきていました。ナギが起き上がってみると、少し離れた場所に背の高い黒い虫の後姿が見えました。やせた身体に、無数の古傷。羽もろくに飛べそうもないくらい傷ついていました。

「ずいぶん、ぼろぼろな奴だなあ」

 寝起きのぼんやりとした頭で、ナギは彼の後姿を見つめていました。

「……苦しくはないか」

 低く、深く、染み入るような声。

 かけられた声の先には、黒い虫の足元に静かに横たわるセミがいました。やさしい声は、彼に向けられたものでした。

「ありがとう……君のおかげで、とても楽になったよ」

 セミは背の高い影に弱く微笑みながら答えました。

「お前はこの森の、この夏最後のセミだ」

「そう、だね……」

「よく頑張ったな」

 その言葉に、セミは満足そうに微笑んで目を閉じました。

 そこでやっと、ナギは黒い虫が寿命を迎えたセミを看取っていたことに気付きました。

 なぜか、セミが安らかに眠るのを見届けている、やせた傷だらけの背中から目が離せなくなっていました。

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「おい、ひよっこ」

 はっと気が付くと、ぼうっと見ていたナギの前に黒い虫が近づいて来ていました。

 それまでの雰囲気が嘘のような言い方に、ナギはあっけにとられてしまいました。

「何でこんな所で寝こけてた? お前、蜜蜂だろう?」

「ひよっこじゃないよ! 僕にはナギという名前があるんだ!」

 子供扱いされたことに気づくと、ナギは勢いよく話し始めました。

 

 自分が同じ巣の蜜蜂達の中でも評判のみつ集めの名人であること。自由になりたくて、仲間のいる巣を飛び出したこと。

 そして出てきて知った、初めて見る世界のこと。

 ナギは、黒い虫が感心してくれると思っていました。

 

「……名乗りがまだだったな。俺の名はレイラだ」

 しかし彼は予想に反して顔を曇らせていました。

「お前が今見ていたような事をしながら、この辺の森や林を旅している」

 静かな眼差しは、ナギに真っ直ぐ向けられました。

「それにしてもお前、『冬』が来たらどうするつもりだ?『敵』もこの辺にはうようよしている。悪いことは言わない、元の仲間のいる巣に戻るんだな」

 

 でもレイラの言った『冬』も『敵』もナギには何のことかピンと来ませんでした。仲間から話には聞いていましたが、何しろほやほや蜜蜂なので、見た事もなかったのです。

 おまけに半人前扱いされたことに、むっとしてしまいました。

「余計なお世話! 僕はもう蜜集めにあきあきしてるし、あんなせまっ苦しい巣にもうんざりしてるんだ。誰が戻るもんか!」

「じゃあ勝手にするんだな。でもな、お前が独りでこの辺をうろうろしていたらこの太陽が傾くまでもたないぜ。かけてもいい。……そしたら、俺がお前を看取ってやるよ」

 レイラのその低く、冷たい声にナギは不安になってきました。少しそわそわし始めたナギを見て、レイラはため息をつきながら言いました。

「どうだ? しばらく俺と一緒に来るか?」

 ナギは仕方なく頷きました。

 

 本当はみにくい姿のレイラと一緒にいるのは恥ずかしかったのですが、ナギはレイラと共に旅をすることにしたのです。

 本当に、仕方なく。

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 旅の途中でレイラの看取る虫達は数え切れない程でした。何しろ、さまざまな形で虫達は死んでゆくのです。

 

 何年も生き、歳を取り、寿命の尽きてゆく者。

 『敵』のクモやカマキリ、食虫植物にやられて目も当てられない姿になっても死にきれず苦しむ者。

 灯りに誘われ大火傷を負ったり、物にぶつかってしまう者。

 『人間』にもてあそばれ、弱ってしまう者。踏み潰されてしまう者。

 やっと成虫になってもすぐに子孫を残して死んでしまう、儚い生命をもった者。

 

 彼らに会う度に、レイラは痛みや苦しみを和らげる薬草を貼ったり、 手を取ってあげたり、静かな曲を弾いてあげたりしました。虫達が少しでも楽になるようなあらゆる事を。

 すると、苦しんでいた虫達も安心して息を引き取っていったのです。

 けれど反対に、看取った方のレイラはいつも辛そうでした。

 ナギは、何度となく繰り返されるそんな光景を見ていました。

 

 しばらくして、ナギは歩くレイラの周りを飛びながら言いました。

「ぼくね、レイラを手伝ってあげようと思ってるんだ」

「何だって?」

 レイラは思わず足を止めました。驚いて見上げるレイラに、小さな蜜蜂は得意げに話を続けました。

「だってぼく、蜜を集めるのも他の仲間達よりずっと早く覚えられたし。だからレイラの手伝いもすぐに出来ると思うよ」

 しかし、レイラはナギを見つめてきっぱり言いました。

「お前の手伝いはいらない」

「何でさ!?」

 てっきり喜んでもらえると思っていたナギは、びっくりしました。

レイラの顔は、 ナギが初めて見る厳しいものでした。

「これは俺の役目だ」

「でも……」

 最近はやさしい言葉をかけてくれることもあったレイラ。返事に困ってしまったナギに、レイラは深く息を吐きました。

「……俺が何故こんな姿になって、虫達を看取る旅を始めたのか教えてやろうか」

 暗くかげったレイラの瞳に、ナギはただ頷きました。

 レイラは腰を降ろすと、静かに話し始めました。

 少し冷えた風が、並んで座る二人の間を通り抜けていきました。

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「俺がまだ、お前くらいだった頃の話だ」

 

 話すレイラの目は、どこか遠くを見ているみたいでした。

「その頃の俺は、お前のように自由になりたくて家を飛び出したんだ。自由になって有頂天だった。その上外の広さ、美しさに感動してそこら中を飛び回っているうちに、あっけなくクモの巣にひっかかっちまった」

「えっ」

 ナギはどきりとしました。そんなことが自分の身近に起こるなんて、本当は考えたこともなかったからです。

 

 レイラはそのまま続けました。

「あやうくクモに食べられるところを、駆けつけてくれた親父がぎりぎりのところで助けてくれた。そのおかげで奇跡的に俺はクモの巣から逃れられたが、親父はたちまちクモの餌食になっていったよ」

 ナギは、レイラと旅をするうちに見た、クモに捕まった者達のすがたを思い出しました。

「俺はぼろぼろになりながら親父を助けようとしたが、駄目だった。軽い気持ちで飛び出した自分をどんなに責めても、どれだけ後悔しても、目の前で起こっている現実は変えられなかった」

 

 あまりのことに、ナギは動けなくなっていました。

 一歩間違えば自分も、レイラと同じになっていたかもしれない。そんなことにも、今の今まで気付きませんでした。

「それ、で?」

「親父はそのままクモの毒で動けなくなり、苦しみながらクモに食べられていったよ」

 ナギには想像するだけでも恐ろしいことなのに、レイラの口調は変わりませんでした。

「最後に『いいかレイラ、俺の姿を目を逸らさず見ておくんだ。いいな』そう言いながらな」

 ナギは顔を伏せ、小さくうずくまりました。泣きたいような気持ちを堪えながら、でも何故か、泣いてはいけないような気がして、結局ずっと黙っていました。

 

 気が付くと、レイラの闇を吸い込んだような瞳がナギを見ていました。

「それから俺は『自分のやるべきこと』を見つけたんだ。それがこの役目だ。息をひきとってゆく虫達を、どんなに辛くても目を逸らさず見届ける事なんだよ」

 ナギは頷きました。レイラにとって虫達を看取ることは、神聖な、他の者が軽々しく手を出すことのできない事なのだと、何となくわかりました。

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 西よりに差し掛かった太陽に、吹き始めた湿った風。

 いつの間にか、思ったより時間が過ぎていたようでした。

 

 レイラが風に吹かれながら空を見上げると、風上から黒い、不気味な雲が西からどんどん近づいて来ていました。

「……雨が降るな……。ナギ、近くの木へ急ぐぞ!」

 レイラはできるだけ早く走り始めました。そんなレイラの後について飛びながらナギも空を見ると、風上に湧き上がった黒い雲の間で何かがピカリと光りました。

 その光は妖しく、そして美しくもあり、ナギは思わずその閃く光に見惚れてしまいました。

 

 突然、足に鋭い痛みが走ったとたん体中の力がかくんと抜けて、ナギは地面に投げ出されてしまいました。

「どうした?」

 そんなナギに気づき、レイラが駆け寄ってきました。

「レイラ……。何か、身体がしびれて……」

 レイラは周りを見渡しました。そしてちょうどナギが飛んでいた高さの所に、小さなとげのある草が生えているのを見つけました。

「あの毒草にやられたな。……何でよそ見なんかして飛んでいた?」

「ごめん、あの遠くで光るものが……あんまりきれいだったから……」

「……今に、そんなのんきな事も言ってられなくなるぞ」

 そう言いながら、レイラは素早くナギの足の毒を吸い出し、薬草をあてました。

 

 そうこうしているうちにも黒い雲はあっという間に太陽を隠し、大きな音と共に光が閃き始めました。

 レイラは急いでナギを抱えると、傷ついた羽で飛び始めました。思うように動かない羽を必死に動かし、よろけながらもナギをしっかり抱えて精一杯の速さで飛び続けました。

 

 途中で、大粒の雨がばたばたと草木を打ち始めました。 林の中では背の高い草や木が雨を防いではくれますが、大粒の雨はナギやレイラにとって命取りにもなりかねません。

 レイラはずぶぬれになりながら必死に飛び続け、やっと安全な小さな木の穴を見つけると、転がるように飛び込みました。

 

「大丈夫だったか?」

 ナギを降ろしたレイラは、荒い息をついていました。ナギはふらつきながらもしっかりと立ち上がり、自分の身体を確認するように動かしてみました。しびれはまだ少し残っていましたが、それでもナギは元気に答えました。

「うん。もう大体動けるみたい」

「そうか」

 レイラは安心したように微笑みました。

「ありがと、レイラ」

 笑顔で言ったナギに、レイラの返事は返ってきませんでした。レイラは力尽きたように倒れ込んでしまったのです。

「レイラ! レイラ!」

 ナギはふらつく足でレイラに駆け寄りました。レイラの目は固く閉じられ、顔は血の気を全く失っていました。息も絶え絶えな姿に、ナギはレイラが今の飛行で全ての力を使い果たしてしまったことに気付きました。

「どうしよう……」

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 とりあえずナギは冷え切ってしまったレイラの身体を暖めようと身体を拭きました。それから乾いた葉の上に何とかレイラを運んで寝かせました。

 けれどレイラはぐったりして動きません。

 

「レイラなら、きっと何とかするのに」

 ナギにはこんな時、何をどうしたら良いのかわかりません。

 せいぜい思いつくことは、雨水を汲んで飲ませることくらいでした。

「レイラ、飲んで。水だよ」

 ナギが繰り返し呼びかけると、レイラはうっすらと目を開けました。

 

 けれどもう、レイラは雨水を飲む力さえ失っていました。

「ナギ……良く聞くんだ」

 そしてうわ言のように言いました。

「俺が死んだら、元の巣に……仲間の所に戻れ」

「死ぬなんて言わないでよ!レイラ、僕はあんたを看取るなんて……」

「悪いことは言わない……帰るんだ」

 レイラの声は、どんどん弱くなっていきました。

「いいな、ナギ……」

 ナギは半分泣きながら叫びました。

「……看取るなんて、真っ平だからね!」

 けれど、レイラの目は再び閉じられてしまっていました。慌ててナギがレイラの手を握ると、微かな温もりが伝わってきました。握り返される手の力に一旦ほっとしたものの、その力は本当に弱いものでした。

 

 浅い呼吸に、上がらない体温。

 ナギの頭に、今までレイラが看取ってきた虫たちの姿が浮かびました。

「このままじゃ、レイラも……」

 レイラが、死んでしまう。

「そんなことない!」

 ナギは思わず頭を振ってその想像を追い払いました。

「とにかく、とにかく今の僕にできることをしなきゃ」

 ナギは必死に考え始めました。

 自分にできること。自分にしかできないことを。

『ナギの腕はたいしたもんだ』

『すげえな、ナギ』

 浮かんできたのは、一緒に仕事をしていた仲間達の声や姿。

 皆の笑顔でした。

 いっぱいの記憶が、ひどく懐かしく感じました。

 そして今何も思いつかない自分が、情けなくて涙がまたあふれてきました。

「すごくなんか、ないよ……」

 どうしたらレイラを助けられるか、全然わかりませんでした。

 

 でもその時、昔の思い出がナギの頭をよぎりました。

『ナギのおかげで助かったよ』

『ありがとうね』

「……そうだ」

 ナギはふっと顔を上げました。

「あの時の花の蜜」

病気になった一番年の近い姉を助けるために、皆で探しに行った蜜。ナギだけがとても珍しいその花を見つけて、無事蜜を持って帰ることができたのです。

「きっと、あの蜜だったらレイラも飲んでくれる!」

 この近くにその花があるかどうかはわかりません。でもナギは、絶対に見つけられると思いました。

 だってナギは、同じ巣の蜜蜂達の中でも評判の、蜜集めの名人でもありましたから。

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「レイラ、絶対帰ってくるから待っててね」

 レイラの手をもう一度しっかり握ると、ナギは大粒の雨の中に飛び出していきました。

 まだ体の痺れが残っているので、雨を避けて飛ぶことはできません。それでもナギは、雨に打たれながら花を探して歩き始めました。

 

 時折閃く眩しい光。

 地面を揺らして響く音。

 ナギはおびえながらも、足を止めませんでした。

 探す途中に見かけた花々は皆、雨に打たれてしおれていて、蜜がとれるかどうかもわかりませんでした。

 でもナギは信じていました。

『その花は、僕達が本当に困った時必ず助けてくれる』

 巣でも一番の物知りが教えてくれたことを、覚えていたからです。

『僕達は、花たちから蜜をもらうかわりに花粉を運ぶ。昔からそうやって一緒に生きてきた。そんな僕達だけに、ずっとずっと言い伝えられてきたんだ』

 見つけられたのは、一度だけ。

 晴れた空の元、七色に輝いた小さな花。初めて見つけた時、自分の羽とそっくりだと言われて、すごく嬉しかった。

 それはもうずっと、前のこと。

 今はこの近くにあるかどうかもわからない。

 あったとしても、この天気の中無事でいてくれるかどうかもわからない。

 でもナギは、信じていました。

 自分にならきっと見つけられると。

「レイラを、助けるんだ」

 懸命に言い聞かせながら、ナギは探しました。他のどの花とも違うその花なら、蜜蜂でないレイラのこともきっと助けてくれる。

 言い伝えの花の蜜なら、ナギが本当に困った時に力になってくれるはずだからです。

 

 暗い林の中、雷だけが唯一の明かりでした。時折閃く光を頼りにナギは歩き続けました。

 不意に、一際大きく輝いた稲妻。

「……今の!」

 ナギの目に、遠くにちらりと光るものが映りました。

 慌てて駆け寄ると、微かに甘くやさしい香りがしました。

 ナギは懸命に草を掻き分けました。

「あった……」

 大粒の雨の元、咲いていた小さな花。

 花びらを半ば閉じながらも、決して倒れず立つ細い茎。

 稲妻に照らされて光る、七色の光。

 

「やっと、見つけた」

 花からは、記憶の底にある懐かしい香りがしていました。

 ナギはそっと花に近づきました。

「ごめんね、蜜を取らせて」

 花びらを傷つけないよう、ゆっくりと丁寧に。ナギはやさしい手つきで蜜を取り始めました。

 そしてやっと、一滴だけもらうことができました。

「ありがとう」

 大切な蜜をしっかりと抱きしめると、ナギは風に揺られる花に頭を下げました。

「早く、レイラのところに戻らなくちゃ」

 ナギは来た道を戻り始めました。

 

 最初とはまるで違って見える風景でも、ナギには帰り道がわかっていました。

 けれど、強い風と雨は収まる気配はありません。

 時には風に吹き飛ばされそうになり、時には雨粒に羽を強く打たれました。

 それでもナギは、蜜だけはこぼさないよう必死に守りながら歩き続けました。

 

 いつの間にかナギの羽の先は欠けてしまっていました。

 時折射す光にも、七色に輝くことはありません。

 たぶん、もうこれからもずっと。

 でも、今のナギにとっては七色に光る羽など、もうどうでもいいことでした。

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「レイラ!」

 ようやく小さな木の穴に辿り着くと、ナギはレイラに駆け寄りました。

「間に合った、よね?」

 浅い呼吸、青ざめた顔色。でもレイラは待っていてくれたのです。

「レイラ、必ず助けるからね」

 ナギは、花の蜜を木の実の器に移しました。微かに七色に光る蜜を飲みやすいよう水で薄め、そっと手ですくいました。

「レイラ、お願い。飲んで!」

 ナギは祈るように言いました。

 すると、水も受け付けなかったレイラがその甘い水を少しずつ飲み始めたのです。

 一口ずつ、ゆっくりとナギはレイラの口に蜜を運んでいきました。

 全部飲み終えたレイラは眠りに落ちていきました。

 その息は今までの苦しく、弱いものから変わっていました。暖かく、穏かな寝息に。

 ナギがレイラの手をとると、温もりが戻ってきているのがわかりました。

「良かった……」

 レイラの手を握ったまま、ナギもいつの間にか眠りに落ちていきました。

 

「レイラ?!」

 ナギが目を覚ますと、隣にいたはずのレイラの姿がありません。

 慌てて外に飛び出したナギの目に、眩しい太陽の光が飛び込んできました。

 雨があがった林は、少しひんやりとしていました。けれど雲間から射す太陽の光に、大気はふんわりと柔らかでした。

「レイラ!」

 風景の中に黒い虫の後姿を見つけて、ナギは駆け寄りました。

「目が覚めたんだね!」

「ああ、もう大丈夫だ」

「良かった!……本当に、良かった」

 つい泣き出しそうになり、ナギは思わず目を伏せました。

「ナギ……ありがとう」

 低く、深く、染み入るような声。いつものレイラの声。

「お前はやっぱり蜜集めの名人だな。あんなに美味い心のこもった蜜を、俺は初めて飲んだよ」

 レイラはナギの手をとりました。つむがれたのは、心からの感謝の言葉。

 ナギもレイラの手を握り返しました。

「レイラ……。僕、僕ね」

 ナギは顔を上げ、レイラの黒い瞳を真っ直ぐに見ていいました。

「やっぱり巣に戻ることに決めたよ。」

 レイラはナギの言葉にふっと笑顔を浮かべました。

「そうか」

「そして前みたいに、仲間と一緒に蜜を集める。僕、レイラのおかげでやっと自分のやるべきことを見つけた気がするんだ。それがわかるのに、ずいぶん遠回りをしちゃったけど」

 ちょっと照れたようにナギは笑いました。レイラは何も言わず、じっとナギを見つめていました。

 

 黙っているレイラの視線に気づき、ナギは自分の羽に触りました。傷つき、ぼろぼろになりすっかり輝きを失っている羽に。

「僕、この欠けた羽も今は、好きだよ。どうしてだか、わかる?」

 自慢だった、七色に光る羽。でも、今のナギにはもっと大切な気持ちでいっぱいでした。

「それからレイラのその傷ついた身体も。そして、あの辛い役目をしているレイラのことも」

 するとほんの一瞬、ナギの欠けた羽が七色に光りました。

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 夕暮れの茜色の空。

 ナギがレイラと共に元の蜜蜂の巣の前に戻る頃、辺りは夕陽に染まっていました。

「僕、黙って出てきちゃったから……」

 いざ帰ってきてみると、ナギは不安でいっぱいになっていました。

「だからと言って、このままここにいても仕方がないだろう」

「そ、そうなんだけど」

 木の影から出られずにいるナギに、レイラは大げさにため息をつきました。

「やっぱり、ひよっこだな」

「も、もう僕は、ひよっこじゃないよ!」

「じゃあ、早く行くんだな」

「う、うん……」

 そっと顔を出すと巣の前には誰もいなくて。思い切ってナギは出て行ってみました。

「ナギ!」

「わっ……!」

 

 大声にびっくりして振り返ると、一番年の近い姉が立っていました。ナギはうっかりしていたのですが、この時間は一日の仕事の蜜集めを終えて皆が帰って来る頃だったのです。

「あ、あの……」

「ナギ! 今までどこに行ってたんだ!」

 すごく怒った様子の姉に、ナギは声も出ません。

「黙っていなくなるなんて、何を考えてるんだ! いくらあんたの腕がいいからって……」

「え、ええと」

 すっかり小さくなってしまったナギに、ふわりと暖かい腕が触れました。

「本当に、どれだけ心配したと思って……」

 初めて聞く、姉の泣きそうな声。ナギは驚いて、そして申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

「ごめん、なさい……」

 素直に謝ると、ナギは姉を抱きしめ返しました。

 

「ナギだって?!」

「本当だ。良かった、帰ってきたんだな!」

 巣の中にいた仲間達が外の様子に気付き、口々に言っているのが聞こえてきました。姉はそっとナギを離しました。

「もう一人で行動しないって、約束」

 ナギは大きく頷きました。

「それなら、いいんだ。……おかえり、ナギ」

「ただいま」

 

 笑顔を交わしたあと、ナギは背中をどんと押されました。走ってきた仲間達のところに。

「今までどこに行ってたんだ?」

「外の世界のこと、いっぱい聞かせてくれよ」

「俺達心配してたんだ、今度は抜け駆けはなしだからな!」

 皆にこづかれ、無事を喜ぶ声に包まれてナギは嬉しくて泣きそうになっていました。

 

 レイラは、ナギの姿に安心したようにちらりと微笑んで、巣に背を向けました。

 そんなレイラに気付いて、ナギは大きく声をかけました。

「また、会える?」

「ああ」

 レイラの姿は、茜色に美しく染まっていました。

「それまでにお互い、生きていたらな!」

 ナギはその言葉に何も言わずに、でもしっかりと頷きました。

 自然の中で自由に生きること。

 それはレイラはもちろん、ナギにとっても、そして全ての生き物にとっても平等に危険なことだということを、 ナギはもう知っていたからです。

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 その後二人がどうなったのか。

 

 それは、森や林の木々や草花達がひっそりと知っているかも、しれません。

 

 

 

 

説明
絵ものがたり「まぼろしの はるのそら」の兄弟作品です。

死んでゆく様々な虫達を看取りながら、森を旅をする黒い虫のレイラと、外の世界に憧れて飛び出してしまうミツバチ、ナギのものがたり。

時系列にどちらが先かも、ものがたりの後、2人(?)がどうなったかも、皆さんのご想像にお任せどす(^^ゞ。
(書いたのはこちらが先だったのですが(^^ゞ)

今回も私の原文をみわ・なるきさんが改訂・演出して、きちんとした「ものがたり」にして下さいましたv。多謝であります。どうもありがとう。
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