四百年間の願い事・慶長編(3)
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 その日の夕刻、昼間の火事騒ぎで疲れ切り、鶴は裏店に枕屏風を置き、赤い幼児の着物を掛け、陽菜とうたた寝をしていた。

 赤い幼児の着物には、疱瘡除けの意味があり、子の健やかな成長を願う親心の表れだった。

 火事騒ぎのとき、屈強な火消しの大男が、ひどく錯乱し怯えていたが、火事場で一体、何があったのだろうか……鶴は陽菜に尋ねてみようと思いながら、火災が無事に鎮火したこと、激しい煙であったものの類焼が意外なほど軽微であったことに加え、死傷者が一人も出なかったことに安心し、大活躍をした女の子を問い詰めるような真似は躊躇われた。

 どれほどまどろんだのか、辺りは小暗くなり始めている。鶴は傍らで眠っていたはずの陽菜の姿がなく、等伯を訪ね、出かけていったのかと思うと、等伯の夕食を作らなければならず、鶴も伝法院へ足を向けた。

 

 夕闇が迫り始めると、書院の一間の端々に等伯はろうそくを灯した。

 本来、ろうそくは高価なので、庶民が日常的に使うのは、綿実(綿の果実)油や菜種油、鯨油やイワシ油であったが、臭いなどの問題で、貫主からろうそくを使うよう指示があり、等伯は遠慮なく照明として用いている。

 室内がほのかに明るくなると、やはり礼拝の空間の天井に猛る龍の姿など描くことは躊躇われ、天井画の構想に窮していると、いつの間にやってきたのか、回遊式庭園を眺めるように陽菜が廊下に座っている。等伯は驚き、

「陽菜、きていたのか? いるならいるで……」

 ろうそくで陽菜の横顔を照らしたとき、壁と天井に映し出された陽菜の影は、人間の子供のものではなく、長大な生物のそれであることに気付いた。

 長大な生物は、約五間(八メートル)以上はあるように見えた。背にはふさふさとたてがみのようなものが続き、馬のように面長の頭部には、牡鹿のような角を屹立させている。鼻先には、それ自体が意志をもってうごめいているような長いひげがある。まぎれもなく、巨大な龍であった。

 このとき、伝法院の境内の内外に人々の悲鳴が響いた。

 何事が起きたのかと、等伯は陽菜の傍らに立ち、辺りを窺うと、どす黒く厚い雲が浅草の夕空を覆い、その雲の中から陽菜の影よりもはるかに大きな金に輝く龍が不気味にとぐろを巻き、ゆっくりと降下してくる姿があった。

 金色の巨大な龍の周囲では、凄まじい雷が発生し、空が破裂するような閃光と大音響を上げている。やがて、大粒の雨が浅草一帯に叩きつけるように降り始めた。

 陽菜は上空の巨龍を見上げると、今までに見たこともない明るい表情で、

「おとうさま」

 声を上げるなり、ゆっくりと音もなく降りてくる巨龍に向かい、闇のようになり、大雨が降りしきる空へふわりと舞った。

 等伯は茫然として瞬時に台風が押し寄せてきたような空を見上げていると、

「長谷川等伯! 貴様、この期に及んで、まだ陽菜の願いが理解できぬか!」

 全身を細かな金色のうろこで覆われた壮麗な父龍が、等伯の頭を殴りつけるような強い思念を送ってきた。

「……願い? 陽菜の? 何のことだ?」

 等伯は思わず頭を押さえ、金色の龍に尋ねると、金色の龍は透徹な目をかっと見開き、再び凶暴な思念を等伯の頭の中に叩き込んだ。

「息子を亡くし、二十一年が過ぎているにも関わらず、未だ息子の死に縛られたままの貴様の心を救おうと、陽菜は手をさしのべていたのだ! 貴様は何度も機会がありながら、陽菜の手を取ろうとはしなかった!」

「救う……だと? 二十年以上、どうにもならなかったものを、どうやって……」

 等伯は金色の巨龍が一体、何を言っているのか訳が解らず、呟いたが、すぐにはっとして、

「ふざけるな! わたしは京から江戸まで子守をしにきたのではない! 将軍家依頼の仕事をしにきたのだ!」

 江戸へ下った目的を言うと、陽菜は父龍の前肢に抱かれながら、悲しげに目を伏せ、

「江戸に下る機会をつくってあげたのはわたし……あなたはそのことに気付いていながら、わたしが人間ではないことに気付いていながら、あなたは本当の心を語ってはくれなかった。それでは、いかに天界の神々でも人は救えないの……」

 消え入るような思念を等伯に送った。やはり、陽菜は迷子などではなく、等伯が永年に亘って負った孤独、絶望、後悔、漠然とした不安といった不幸から救うために、等伯の前に現れたのだった。等伯は、

「陽菜、どうすればわたしは楽になれる? 久蔵が戻ってくるのか?」

 陽菜に問うと、陽菜の父龍は、未だ、陽菜を人間の娘のように捉えている等伯に牙をむき、

「黙れ! 貴様のような不埒者に、もはや何を教えても無意味だ! 陽菜は連れて帰る!」

「不埒者とは聞き捨てならぬ! 一体、わたしの何をもって……」

 陽菜を浅草寺の境内で近隣の子供たちから助けたのは等伯だった。等伯は金色の龍を怒鳴りつけると、父龍は、

「陽菜がその気になれば、浅草はおろか江戸市中を一瞬にして焼き払うなど造作もないことだ! 更に、陽菜に着物を、食事を、住まいを与えたのは鶴だったではないか! 貴様は出会いをまるで活かそうとはしていなかった。

 いや、それ以前に、貴様は七尾を出るとき、実父である七尾城主の家臣、奥村文之丞に京へ出たい旨を相談したか? 養父の長谷川宗清に理解を求めたか? 産んでもらった恩を、育ててもらった恩を踏みにじり、故郷を飛び出していっただろう。

 親を捨てれば、我が子に期待をかけ過ぎれば、先立たれる、という形で、我が子に捨てられて当然だ!」

 等伯の不幸の根本原因を説いた。加えて、京で等伯の名声が高まってくると、つい酔った勢いで狩野派の悪口雑言を大路でぶち上げていた。これを度重ねれば、久蔵が暗殺されて当然であった。

 しかし、自分を都へ送り出してくれた父親への感謝が心の奥底にあれば、もっと謙虚になれていたかもしれない……久蔵が殺される原因を創ったのは自分であり、自分の不幸の原因を創ったのも自分であった。等伯が絶句していると、巨龍は思念を継いだ。

「貴様には、故郷を捨てなければならない理由があった。二人の父に志を打ち明けられなかった理由があった。

 貴様の右腕だ! 貴様は疲れが溜まると、右腕が動かなくなる持病がある。だから、色彩を尽くした大和絵を描き続けることには限界を感じ、簡素な水墨画に道を求めたのだ。

 しかし、それは絵師としては致命的な病で、他人の知られるところとなれば、仕事はなくなる。だから、家族にすら持病のことは打ち明けられなかった」

「そこまで……知られて……いたのか」

 自分の持病が持病だけに、久蔵への期待が異常なほど高まっていたのだった。等伯は土砂降りの中にがくりと膝をつくと、

「知らなかった……この世の仕組みを、何一つ……」

 呟くと、号泣した。

 このとき、不意に裏店からいなくなった陽菜を探し、鶴が伝法院の書院へ入ってきた。音もなく空に浮かぶ巨大な金色の龍の前肢に抱かれた陽菜と、その龍の真下にずぶ濡れになり、雷の閃光に不気味に照らし出されて座り込んで、狂ったように泣き叫ぶ等伯を目にするなり、鶴は棒立ちになった。

 陽菜は等伯を見つめると、

「あなたの魂を救うには、四百年もかかってしまう。でも、必ず、救われることを信じて、今できることに最善を尽くして下さい」

 慈愛にあふれた思念を送った。その瞬間、陽菜は全身を白真珠色に輝くうろこに覆われた壮麗な巨龍に姿を変えると、金色の龍とともに厚い雲の中を泳ぐように、右へ左へと長大な身を翻し、金と白の光芒を残し、去っていった。

「……美しい……」

 等伯は飛び去っていく巨龍の父と子を見送ると、力なく立ち上がり、ずぶ濡れのまま書院に上がり込むんだ。鶴を押しのけ、うつろな目で等伯は自作の筆を手に取った。

 

 翌早朝、江戸の空は晴れ渡っていた。

 浅草寺の貫主は、等伯に与えている書院の一間に足を運ぶと、

「先生、仕事の進み具合はいかがですか?」

 等伯に尋ねたその瞬間、あっと声を上げた。貫主が思い描いていたよりもはるかに優れた天井画が床一面に拡がり、見事に仕上がっていたのだった。

「おお、何と見事な……本堂の天井を飾るにふさわしい!」

 貫主が仕上がった天井画を、目を皿のようにして眺めていると、ふと、書院の片隅にずぶ濡れの等伯が連筆と呼ばれる筆を数本、束ねた自作の用具を手にしたまま座り込み、力なくうなだれていることに気付いた。

 貫主はぴくりとも動かない等伯の肩に触れてみると、既に体温を失い、絶命していた。七十一歳であった。 

説明
長谷川等伯が浅草寺本堂の天井画の制作に窮していると、浅草の空に不意に暗雲が拡がり、土砂降りになります。
雷が明滅する空に巨大な金色に輝く龍が現れ……
小市民の時代ファンタジー、最終回です。
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長谷川等伯 長谷川久蔵 陽菜 松林図屏風 浅草寺 伝法院 裏店 安土桃山時代 天井画 

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