灰色の天使
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 天使の傍で待っていると言峰は言った。

 

 広場へ向かうバスに乗っていたバゼットは、なにげなく窓から外を見やって、言峰の言っていた意味を理解した。

 高くそびえた塔の上に、黄金の女神像があった。生い茂る木々の上にせりあがるようにして見える女神は、さながらこの街に君臨しているように見える。背に羽を広げ高く腕を掲げた女神は、重くたれこめた雲を背にし、疲弊した市民を鼓舞するようにも、慰めているようにも見えた。

 ベルリン。この街にバゼットはなんどか来たことがあるが、来るたびに暗い街だという思いを新たにする。厚い灰色の雲の下に、うずくまるようにして建物が広がっている。通りに面した建物の壁も鈍く無機質な色をし、中に人がいるとは思えないような印象だった。この街には栄光と頽廃が共存している。たびかさなる戦争と歴史に蹂躙された痕が、葉の落ちた森の影や、建物の分厚いガラスや、通りを行く人々の顔に残っているようだ。色を失った景色に浸っていると、前世紀にまぎれこんだ錯覚を感じる。

 外は寒いのだろう、歩く人々も背を丸めてコートの前を合わせ、マフラーに首をうずめ、先を急いでいる。いつ雪が降りだしてもおかしくない雰囲気だった。それを見つめる自分の姿がガラスにうつりこみ、寒々しい景色に重なり、複雑な模様となって流れていく。歩行者の何人かと目が合うものの、アイルランド人であるバゼットに特に興味を示す者はいない。

 木々と石のなかを進む、生活と日常の歩み。信号で止まるたび、蒸気とも排気ガスともつかない白い煙が周囲にたちこめ、眺めを白くけぶらせる。

 言峰はたしか仕事でこの地に来ているはずだ。仕事に向かうとき、たまに言峰は場所を告げてくる。それがバゼットに向けての、ついてきてもいいという許しの意味だった。いつも森での任務が多く、こういう街中はめずらしい。街という場所はふたりにとって休暇の代名詞だったから、自分の仕事ではないとはいえ、緊張感を保つのはむずかしい。しかしこの陰鬱で頽廃な印象は、時空が歪み、魔が潜んでいてもおかしくないとバゼットは感じていた。

 先刻からずいぶんと角を曲がっているが、街のどこからでも女神像が目にできる。建物の影から、木々の枝の合間から、その堂々たる姿がうかがえる。遠くの雲が割れ、黄金の女神に薄日が落ちかかり、灰色のなかに鈍く、そして神々しく浮かびあがっていた。

 街の中心は森を擁した公園だった。その中央に、女神の像はある。

 バゼットは森の手前でバスを降り、歩いて広場に出た。公園といってもこの地らしく、殺風景な場所だった。手前にあれだけ溢れていた木々も、広場には一本も植わっておらず、アスファルトとコンクリートが広がっている。空の色と相まって、広場は灰色が凍てついている。響く靴音もいつもより鋭く思えた。

 バゼットは女神像を見あげた。ここから見ると信じられないくらい高い位置にある。威厳の羽根を広げ、勝利を誇示した姿は息がつまるほどに大きかった。

 バゼットはコートのポケットに手を入れ、言峰の姿を探した。広場にいる人はまばらで、すぐに見つかるかと思ったがなかなか見当たらない。ためしにバゼットは塔の周囲をゆっくりと一周してみた。仕事だと言っていた以上、軽々しい態度はとれず、散歩を気取らなければならなかった。

 いつもだったらすぐに言峰を見つけられるはずなのに、目に入らないことがバゼットをいささか不安にさせた。目立つという理由を差し引いても、目が勝手に補足するように探し出してしまうのがバゼットのちょっとした自信になり、結びつきの強さになっていると思っていた。まさか時間を間違えたのかと時計を見たが、やはり合っている。

 冷たい風が吹きつけてきて、バゼットは首をすくめて顔を背けた。

 その先に、言峰の姿があった。

 そう判っていながら、バゼットは言峰ではないと感じてしまい、咄嗟に視線を外しそうになった。目を戻す。塔へつづく階段に腰を下ろしているのは、確かに言峰だ。

 言峰は目の前にいる子供と、言葉を交わしていている様子だった。

 バゼットは言峰を注視した。一瞬でも人違いだと思ってしまったのは、その表情に馴染みがなかったせいだ。子供に声をかける言峰は微笑みを浮かべている。いつもの陰鬱な笑みではなく、穏やかな慈愛に溢れた顔つきをしていた。まるで裏を感じさせない素直な表情。

 言峰はたまにバゼットの前でそんな顔つきを見せることもある。それは自分たちがさまざまな諍いや葛藤を経て、言峰の澱みの底までにたどり着いたときの証であり、バゼットにとっては自分たちの得難い信頼を感じる瞬間でもあった。しかし言峰が子供に向けているあの笑みはちがう。己が赦されたときの安堵ではなく、他人に向けた優しさの微笑みだ。聖職者らしい、施しを与える慈しみと、子供に対するおおらかさに満ちている。言峰にしてはめずらしいとバゼットは思っていた。おなじ聖者のような顔つきでも、見る者の背筋を凍りつかせるような凄絶さも、歪んだ愉悦もない。色々と考えあぐねてからバゼットは、ごく単純な結論に落ち着いた。あれは普通の人がごく自然に見せる、ふだんの笑みなのだと。

 バゼットは立ち止まり、人を捜しつづけるふりをしながら、言峰と子供の姿がとらえられるぎりぎりのところまで視線を外した。ここにいる多くの人がそうであるように、時間をもてあましたような顔をし、 緊張を陰鬱に溶けこませ、灰色をした景色の一部になるようにつとめる。

 言峰が話しかけているのは、まったく普通の子供だった。白い肌に鳶色の髪をしたその子は、分厚いダッフルコートに身を包み、黄色い風船を手にしている。雰囲気と身なりの良さを見るに、あるていど裕福な家庭の子どものようだ。周囲をひととおり観察してみたが、親らしき人間は見当たらない。慌てた風でもないから、親とはぐれた迷子というわけでもないだろう。それではあの黄色い風船は、言峰が買い与えてやったものなのだろうか。だとしたら言峰は相当の気まぐれを起こしていることになる。灰色の景色のなか、その黄色い風船は奇妙に浮きあがって見えた。

 子供は嫌がるでもなく、むしろ楽しげに言峰と話している。ときどきうなずくのは、質問に答えているのだろう。話の内容を聞いてみたいと思うが、周囲を通り過ぎるまばらな話声と靴音ばかりが耳につく。

 子供らしい愛嬌に満ちた仕草と笑顔は、遠くから見ていても愛くるしく思う。言峰がごくふつうの笑顔を向けるのもわかる気がする。子供の浮世離れした姿はまるで天使のようだとバゼットは考えてから、言峰がそばにいると言った天使は、あの子供のことを指しているのではないかと思った。

 それにしても、あの子供はいったい誰なのだろうとバゼットはいぶかった。信徒の子供なのだろうか。しかしそう思うに、あの親しみに溢れた距離が腑に落ちない。言峰を知らない者が見たら、本物の親子の、平凡な日常の眺めだと感じるだろう。だが言峰の人となりを知りつくしたバゼットの目を通すと、あの光景はひどく違和だった。女神が掲げた大きな羽根の影の下には、親子と見紛うほどにおだやかな日常と、言峰の振舞いににじみ出た非日常の、ふたつの世界が描き出されていた。

 バゼットの心がひとつ波打った。たとえば、あの光景のなかに自分が入っていったとしたら、他人からはどう見えるだろうか。たれこめた雲の重さも灰色に染まった街の翳りも感じさせない、幸せに満ちた家族連れに見えるだろうか。そんなはずはない、言峰が普通の人間がするような顔つきを見せている時点で何かがおかしいのだと理解していながら、バゼットは自分だけの空想に耽った。

 言峰が子供の頭に手を置き、褒めるように撫でた。子供がはにかむ。どこにでもある、平凡な優しさの風景の上で、女神が大きな羽根を広げている。

 あの微笑みをバゼットは知らない。その意味するところを知らない。たとえ奸計に嵌っていたとしても、得体の知れない感触を覚えるのを承知の上で、あの優しさと寛容をいちどは向けられてみたいと思った。

 つと、子供の顔がこちらを向いた。バゼットは驚きを隠すのに苦労した。子供が嬉しそうな笑顔を見せる。まるで長い間会えなかった母親が会いにきてくれたような、願いがかなった喜びと会えなかった切なさが混ざりあった表情が、まぶしく輝いていた。

 子供が風船を持ったまま駆け出した。バゼットに愛らしい笑顔を向け、まっすぐに走り寄ってくる。その後ろで言峰も立ちあがった。ふたりの視線が、そして笑顔が自分に向けられていた。まるで邪気のない、優しくておおらかな言峰の笑みが、自分を向いている。

 バゼットはふたりの姿を目の端にとらえたまま、動けなかった。つめたく乾いた風が頬をなぶる。いちど目線を外して戻すが、ふたりの姿は変わらないままだ。確かに子供も言峰も、自分を目指してきている。バゼットは目を細めた。これは女神の悪戯だろうかと本気で考えていた。堂々とした女神の翼が現実を振り払い、お伽話にも似た夢のような舞台を用意してくれたのかもしれない。曰く、自分は特殊な仕事のために長く家をあけてきた母親で、厳しい任務の合間にようやく時間ができた。子供は母親に会える日を指折り待ち、この日は会えるのだと父親になんども念を押す。父親は子供を叱ることもなく、優しく同意してくれる。母親は手配されていて自宅には戻れず、子供と父親は追っ手の目を逃れて延々と遠回りをし、待ち合わせ場所の広場にたどりつく。そして今、父子が待ちわびた母親があらわれる。周囲をうかがうような、それでも会えた歓びを隠しきれずに、子供と父親が向かってくるのを待っている。

 子供が近づいてくる。その後ろでは言峰が、再会を祝うようにあたたかな笑みを見せている。バゼットはコートのポケットから手を出しかけ、仕舞い、ふたたび手を出した。現実と空想の境をさまよったあと、子供の歓喜を受けとめてやろうと差し伸べかけた。

 バゼットの背を、冷たい風が吹き抜けた。

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 ……バゼットの傍らをすり抜けてくるようにして男性があらわれた。しゃがみこみ、駆けてきた子供を男性が抱きしめる。かすめ見た破顔は、引き裂かれていた親子の長い年月を思わせた。

「パパ!」

 子供が男性の首にかじりつき、くりかえし呼んでいる。バゼットは出していた手をポケットに戻し、現実の感触を確かめた。恥ずかしさのような、喜びのような笑みが口端をかすめて消えた。短い夢だった。

 父子は顔を見合わせ、再会を喜んでいる。その風景は、あらぬ思い込みをしていたバゼットの恥ずかしさを払拭するほどに微笑ましかった。バゼットは素知らぬふりをしながら、注意深く言峰に目を向けた。言峰は優しい顔つきを崩さないまま親子を眺めていた。言峰を知らない人間が見たら、親子のしばらくぶりの再会を我がことのように嬉しく感じていると思うに違いない。

 男性が言峰に気づいて顔をあげた。言峰は父子のすぐ傍にまで近づいていた。

「この人が風船を買ってくれたの」

「そうですか」 

 子供が説明し、父親が立ちあがって言峰に礼を述べた。子供は父親の足にかじりつき、喜びを隠しきれない様子ではしゃいでいる。つられて、風船がせわしなく揺れた。

 言峰は謙遜するように首を振った。

「この子がずいぶんと長くひとりでいたものですから、気になりましてね」

「約束の時間からだいぶ遅れてしまって。この子にはいつも待たせてばかりで申し訳ないことをしています」

「しかしいい子だ。時間が過ぎても、貴方が来ると信じていた」

 他人同士の、短く簡潔な会話が交わされる。バゼットは女神を眺める観光客の素振りをしながら、会話に耳をそばだてていた。距離を縮めるような親しげな言動は、言峰にしてはめずらしいと思いながら、その一方で高まっていく緊張を感じていた。

「待った甲斐があったな」

 言峰が子供へ同意を求めるように言い、子供は父親の両手にかじりついたままうなずいた。

 眺めていたバゼットは、ポケットのなかで拳を握りしめた。目の端にうつっている言峰の姿は、一見してなんの変化も感じられない。しかし言峰の目の奥に、いつもの冷徹な光りが灯ったのをバゼットは見逃さなかった。この広場を包む陰鬱さのような、仄暗く冷ややかかな愉悦の兆しだった。

 男性に向けて、低い声で言峰は告げた。

「私も待っていた。おまえが〈天使〉だ」

 男性が目に見えてうろたえた。後ずさり、言峰に背を向けて逃げようとするが、子供がまとわりついていてかなわない。子供が不審がって父親を見あげる。

「どうしたの、パパ?」

「帰ろう。ここにいてはいけない。早く」

 ほとんど叱るように子供をうながす男性の顔色は、別人のように厳しかった。身動きがままならない男性をあざ笑うように、悠々とした動作で言峰が片手を挙げた。

 バゼットには男性の身体がひとつ震えたように見えた。驚愕に見開いたその目は、すでに現実を見てはいなかった。

 男性の身が地へ崩れ落ちる。その脇を言峰がすり抜けて来る。何事もなかったような超然とした言峰の所作の後ろで、倒れた父親に子供がすがりつくのをバゼットは眺めていた。

「パパ?」

 男性の周囲に血がにじみ、コンクリートにあざやかな赤い色をひろげていく。ようやく子供が事態に気づき、悲鳴をあげた。

 子供の手から離れた黄色い風船が、風に翻弄されながら空へとのぼっていく。

「パパ???パパ!」

 子供の悲痛な呼びかけが空気を裂くように響く。周囲がどよめき、ざわめきが波のように広がり、人々がおそるおそるその光景に注目しはじめていた。

 言峰が歩いてくる。背後に目もくれず、いままで親しくしていた子供が泣き叫んでいてもまるで動じない姿を見て、バゼットはこれが言峰のたくらみどおりの結果なのだと悟った。言峰はあの父親を標的にし、会いにくると知って子供に近づいた。おそらく、バゼットが勝手に想像していた境遇とあの父親の立場は似ていたのだろう。バゼットは父親の亡骸を見つめてから、背後の森を一瞥した。

 すべては優しさではなく、父親を殺すための計略だった。子供に話しかけていたのは待つのを飽きさせないため、買い与えた黄色い風船は狙撃の目印のため、そして親しみに溢れた笑顔は父親に近づいて標的だと確認するためだった。子供が抱きついて身動きがとれなくなるだろうことも、言峰は計算していたにちがいない。会えたらうんと甘えなさいとでも言ってあったのだろう。それが効率よく任務を遂げるためなのか、それとも愉悦を深めるためなのかとバゼットは考え、両方だろうと結論づけた。

「あまり見るな」

 隣を通り過ぎながら言峰が言う。足どりを緩めない言峰に倣って、バゼットも親子に背を向けた。

「彼が天使だったのですね」

「そうだ。子供の線を追っていてようやく見つけ出した」

 言峰の声も歩みも、もう用が済んだといわんばかりに後腐れがなかった。騒ぎを聞きつけて集まってくる群衆を器用に避けていく。バゼットは言峰に寄り添って顔をうかがった。子供に見せていたおおらかな笑顔はすっかり消え失せ、その顔つきは、近寄りがたい威厳と暗い悪意を滲ませた見慣れたものになっていた。優しさも寛容も今は微塵にもない。いちど抱いたあの憧れは、過ぎ去った想像のなかへ留めておけばいいとバゼットは思った。現実では、嘘を隠した優しさよりも、本心を顕した悪意を向けられていたい。

 バゼットはそっと後ろを振りかえった。人だかりができていて親子の姿はほとんど見えない。子供が父親を呼びつづける声が切れ切れになって聞こえてくる。

 バゼットは上空へと目をやった。黄色い風船が揺れ、女神に寄り添いながらのぼっていく。風に翻弄され、像にぶつかり、浮かんではぶつりながら、子供の声とともに小さくなっていく。考えてはいけないと思いながらも、風船と子供の未来をバゼットは重ね見ていた。

 女神は黙したまま、威風を失わずにその翼を広げ、その重々しい姿で広場に紡がれたおのがじしの人生を睥睨していた。

 その背後には灰色の雲が低くたれこめた、ベルリンの空があった。

 

説明
Fate二次創作。言峰とバゼットの掌編。重めシリアスです。
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