土の中より這い出る未来
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「土の中より這い出る未来」

 

 

プロローグ

 

 

 みい、十八年後のボクへ。お元気なのですか。ボクはとってもとっても元気なのです。

 ……って、自分相手に猫被っても仕方ないわね。

 そっちは今、どうなっているのかしら。まだ沙都子と同居ってのはないわよね。二人とも独立しているのかしら。圭一たちとも仲良くやってる? 

 覚えていると思うけど私は、いいえ私たちはあの惨劇を乗り越えたばかりよ。

 勿論嬉しいけど、正直困惑してるところ。だってそうでしょ? ずっと昭和五十八年の六月で足踏みしていたんだもの。これからどんな出来事が待ち受けているか、全然予測できないしね。

 けど、これが当然なのよね。誰も先の未来なんて分からない。だからこそ精一杯努力して、今をより良くしようとするのよね。どの世界の圭一たちもそう。結果的に過ちを犯してしまったとしても、光の見えない道を手探りで進んできた。

 そう思えば、私なんてようやくスタートラインに立ったところかしら。

「そうそう。これからなのです」

 十八年後っていえばもう大人よね。誰にも遠慮せずにお酒が飲めるのは羨ましいわね。誰かさんの小言も少なくなっているだろうし。

「駄目なのです。飲み過ぎると体を壊すのですよ」

 身長も伸びているだろうし、スタイルだってそれなりでしょうね。胸だって……少なくとも魅音くらいは余裕で超えているわよね。

「あまり欲張らない方がいいのです。期待しすぎると後が辛いのですよ」

 ……まあいいわ。仕事は何をしているのかしら? 古手神社の巫女ってのもありきたりよね。何が良いかしら。看護婦、スチュワーデスにアナウンサーに歌手、声優、風見学園学園長、魔法少女、時空管理局武装隊戦技教導官、実業家ってのもいいわね。

 結婚、てのもありよね。

 側にいい人はいるのかしら。えーと、名前は出さないけど私の考えている人だったらいいな、なんてね。

「梨花ってば照れ屋さんなのです。素直に圭一って言えばいいのですよ。もしかして、赤坂なのですか。不倫は駄目なのですよ」

 そこで梨花はマイクを離し、テープレコーダーのスイッチを切った。無言で鞄の中から特製激辛一騎当千百戦百勝キムチの瓶を取り出すと蓋を開け、血のように赤い白菜を口に放り込んだ。

 羽入は悶絶した。

 

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「あうあうあう、酷いのですよ」

 梨花の背中を恨めしげに見つめながら羽入はうめいた。まだ口の中がひりひりする。肉体は消していても、痛みだけは律儀に伝わって来る。シュークリーム三個食べても舌の痛みは治まりそうもない。

「勝手に人のメッセージ盗み聞きした罰よ」

 梨花の口調はいい気味、と言わぬばかりだ。

「僕はただ梨花が何を喋るのか気になって」

「それが余計だって言うのよ、ストーカーもいい加減にしないと信者なくすわよ」

「あうあうあう、いくら何でもあんまりなのです」

「あーあ。また無性にキムチが食べたくなってきたわね」

「僕が悪かったのです」

 謝りながら羽入は心の中で「梨花は意地悪なのです」と毒づいた。辛い物が苦手なのを知っていて嫌がらせをするのだ。味覚を共有しているのがこういう時、恨めしい。昔はあんなに素直で可愛かったのに。実の母に疎まれた梨花の母親代わりとしては忸怩たるものがある。カレーの作り方を教えてあげた時もはいはい言うことを聞いていたのに。

 やはり、シュークリームの作り方を教えるべきだったと、後悔が沸き上がる。

 雛見沢の守り神たる『オヤシロさま』などと威張るつもりはないが、もう少し敬う気持ちがあっても良さそうなものだ。巫女の癖に梨花にはそれが欠けている。

 昭和五十八年七月も十日を過ぎ、終業式も間近に迫ったある日の放課後、魅音が一つの提案を出した。

「タイムカプセルを作ろう」

 自衛隊の特殊部隊『山狗』との攻防戦に奇跡のような勝利を挙げたのは先月のこと。その記念にタイムカプセルを作り、思い出の品を埋めようというのだ。話を進めるうちに、未来の自分へメッセージを送ろうという運びになった。そこで放課後の教室を録音室代わりにしてカセットテープに各自、メッセージを吹き込んだ。集中出来るようにと一人きりで録音したので、その内容は本人しか知らない。

 タイムカプセルを開けるのは二〇〇一年六月。つまり十八年後だ。

「アンタの間抜けな茶々が録音されててなかったのが不幸中の幸いよ」

 梨花曰く、音声とは空気を振動させて発生させる。羽入が『オヤシロさま』の時はテレパシーのようなもので会話しているから録音されなかったのだろう、と。羽入には何がなにやらさっぱりだったが。小難しい理屈は苦手なのですよ。

「覚えてなさいよ。十八年後にアンタのメッセージ聞いて大笑いしてあげるから」

「……はい、なのです」

「妙に素直ね。そこは『あうあうあう〜。勘弁して欲しいのですよ梨花』っていう場面でしょ」

 梨花が一瞬怪訝そうな顔をしたが、それ以上は指摘してこなかった。夏の山道を登るのに体力を消費しているせいだろう。息が上がっている。風もなく、木立の影に入っても蒸し暑さは消えない。しきりに薄緑色のワンピースの胸元を摘み、風を送り込んでいる。

 熱さに滅入っているのは羽入も同様だった。『オヤシロさま』に戻れば暑さ寒さなど関係ないが、梨花に反対された。『私がこれだけしんどい思いをしているのにアンタだけ楽をしているのがむかつく』からだそうだ。ますますもって理不尽だ。

「まずい、隠れて」

 梨花が羽入の袖を引っ張り、藪の中に隠れる。草いきれの濃い中、息を潜めて山道を歩いてくる人影を見つめる。作業着姿の男が二人、談笑しながら通り過ぎていく。営林署の職員だ。梨花も羽入も何度か会話したことがある。

 職員たちの姿が見えなくなるのを待って梨花は道に戻った。羽入も髪の毛に引っ付いた葉っぱを手で払う。

「梨花、どうして僕たちはこそこそしなければ駄目なのですか」

「魅音に聞きなさい」

 録音も終わり、さて埋めに行こうという段になってから魅音が奇妙な命令を下した。各自散開の後、埋める場所に集合。その間、誰にも見つかってはならない。

 みんないつもの『部活』だろうとすんなり受け入れたようだったし、羽入も隠れんぼみたいで楽しそうと反対もしなかった。

 集合場所は営林署の器材小屋。『山狗』との戦いでは基地として活用した場所だ。

「あ、来た来た。おーい」

 魅音が手を振っている。レナと圭一の姿も見えた。

 羽入は先程の質問を魅音にぶつける。

「ああ気にしないで下さい。要するにお姉のコンプレックスですから」

 代わりに答えたのは双子の妹、詩音だった。

「昔私とお姉でお気に入りの玩具を埋めたことがありまして。十年後に掘り出そうって約束していたんですが、埋めるところを近所の悪ガキに見られてたんですよ。三日もしないうちにそいつら、お姉のモデルガンで遊んでましたからね」

「それは可哀想なのです」

「勿論、それなりの料金は払って頂きましたけどね」

 園崎姉妹の『お返し』なら、さぞ高く付いたことだろう。羽入は密かに苦笑する。  

「誰に掘り返されるか分かったもんじゃないからね。事は慎重に運ばないと」

 魅音が述懐していると、やがて沙都子も到着した。途中、トラップの点検しながら来たので遅れたらしい。

 埋める場所は器材小屋の裏手にある欅の根元に決めた。以前は銀色の希少な花が生えていたのだが、いつの間にか枯れてしまったらしい。雑草が伸び邦題になっている。

 圭一が小屋に備え付けのスコップで穴を掘る。額に汗しながらひたむきにスコップを振るう姿は男らしい。

「ん?」

 圭一が急に手を止める。スコップを脇に置き、掘り返した土を手で掬う。手の中に盛り上がった黒い土を軽く指先で削ると白い物が見えた。蝉の幼虫だった。

「ああ邪魔しちまったか」圭一が指先で突くと幼虫が体を丸める。「良かった。まだ生きてる」

「可愛い」レナが目を輝かせる。「お持ち帰りしたいよぉ」

「僕が別の場所へ埋めておくのです」

 羽入は圭一から幼虫を受け取ると、小走りで五歩ほど離れた杉の根元に埋めた。

 蝉の幼虫は丸くぶよぶよしていた。レナのように愛でる気持ちにはなれないが、無垢な命を放っておく気にはなれなかった。かつて『母親殺し』という業を娘に背負わせてしまったせいかも知れない。

「早く立派な蝉になるのですよ」

 穴掘りが終わると、魅音が大きな球体を持ってきた。いつかテレビで見た、運動会の大玉転がしを思い出した。園崎の親戚に作って貰った特注品らしい。プラスチック製なので錆や腐食にも強いという。

 タイムカプセルを穴に収める。ボルトを外し、半分に割れた球体にメッセージ入りのテープと、カセットデッキを入れ、油紙で巻いておき、ビニール袋で包む。それから各自の思い出の品を入れる。

 圭一は金属バット(悟史の名前入り)、レナは鉈(血を拭いた痕が残っている)、魅音はモデルガン(前回のリベンジのようだ)、詩音は切れた電池(スタンガン用)、沙都子は縄跳び(トラップに使用した)、そして梨花がポケットから取り出したのは拳銃の弾だった。本来なら羽入を打ち抜くはずだった。梨花が時間を止めた、奇跡の証だった。

「ほらアンタも出しなさい」

「僕は、いいのですよ」

 羽入が用意したのは使い込まれたトランプだった。初めて梨花たちと『部活』をした記念に、魅音に無理を言って貰ったのだが、いざ埋めるとなると抵抗があった。

「いいからホラ」

 梨花は強引にトランプをもぎ取り、カプセルに放り込む。

「こういうのは記念なんだから。アンタだけ何も入れないんじゃ寂しいでしょ」

 思い出の品を入れた後、魅音が大量の白い袋を入れる。乾燥剤だった。

「長いこと埋めていると水分が入ってボロボロになっちゃうからね」

 厳重に蓋を閉じると、最後は全員でタイムカプセルに土を被せる。

 その上に枯葉や草を塗すと、埋めた痕跡は完全に消えた。

「よーし、これで完璧。んじゃ、帰ろうか」

 土埃を手で払い、魅音が大きく伸びをする。

 眩い木漏れ日とともに蝉時雨が降り注ぐ。埋める作業に思いの外手間取ったため、夕暮れがすぐそこまで迫っている。

「明後日から夏休みか。何して遊ぶ?」

 圭一の言葉を皮切りに皆、思い思いに口を開く。

「河原で泳ぐとかいいんじゃない」

「レナはね。宝探しがいいな」

「あのゴミの山でですか。暑いのに勘弁して下さいよ。泳ぐんだったら水着買いに行きませんか? 興宮まで自転車飛ばして」

「でしたら競争ですわね。負けた人は恥ずかしい水着を着るのですわ」

「あーあ、圭ちゃん可哀想。オットセイぽろり要員だね」

「オットセイぽろりってなったらどうなるんだろ? どうなるんだろ?」

「俺負けるの前提かよ!」

「かわいそかわいそなのです。ボクがお嫁に貰ってあげるから心配いらないのです」

 圭一達の話はいつも楽しくて、羽入にとっては心地良い音楽だった。

 羽入も混ざろうと口を開きかけた時、視界の端に影を捉えた。

 こんなところに人が? と羽入は振り返った。目を瞠った。

 杉の木に身を隠すように女の子が立っている。年頃は梨花と同じくらいだろう。髪は長く、巫女装束のようなゆったりとした衣服に、頭には山羊のような丸い角が生えていた。

 血肉の通った体が一瞬、激しく震えた。未知なるものへの困惑と恐怖が体中を駆けめぐっていた。誰なのですか? どうして僕と同じ角を持っているのですか?

 羽入が一歩踏み出した瞬間、

「誰だ!」

 圭一の怒鳴り声がした。

 羽入がもう一度振り向いた時には、女の子の姿はどこにもなかった。

 混乱する羽入の横で圭一が頭を掻きながら首を傾げる。

「あれ、さっきここに羽入みたいな角付けた人が立っていたように見えたんだけど」

「レナも見たよ」

「そういえば、私も見たような気がするでございますですわ」

 レナと沙都子も同意する。魅音と詩音も頷いた。

「羽入に似ていた気もしたんだけど、もしかして羽入の知り合いか?」

 圭一の質問にも返事をする余裕はなかった。

 首筋に気味の悪い汗が吹き出す。およそ数百年、感じたことのない感情が血肉を伴って胸の奥に渦巻いていた。

 

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 タイムカプセルが見つかったかも知れない、と一時騒然となった。埋めた場所を変更した方がいいのでは、という意見もあったが何かの見間違いだろうということで、そのままにしてある。

「妙な話よね」

 翌日、裏山を徘徊しながら梨花が呟く。片手には虫取り網、もう片方にはポケットサイズの虫の図鑑を持っている。肩からはプラスチック製の虫籠を提げている。

 夏休みの自由研究に梨花が選んだのは『蝉の観察』だった。昭和五十八年の六月は常にひぐらしの声と共に過ごしてきた。一度、どんな蝉がいるのか調べてみるのも面白いわね、と雛見沢の蝉の分布や種類をまとめて探検地図を作るのだという。羽入も共同作成という名目で手伝わされている。沙都子は家でヒマワリの観察日記を付けるそうだ。

「圭一たちにも見えたってことは幽霊や神様の類じゃないのよね。集団幻覚って線も無さそうだし、考えられるのはアンタの仲間ってところかしら」

「それはあり得ないのですよ」

 あの子は違う。同族の匂いや気配どころかその場に存在しているかも怪しかった。

 昔は羽入にも同族がいた。羽入の一族が何処から来たか、何故雛見沢を訪れ、何処へ消えたのか。全く覚えていない。

 気づけば羽入は一人だった。そして人と交わり、子が生まれ、人の罪を背負って娘の手に掛かった。それでも幽体として現世に留まり続け、いつの間にか『オヤシロさま』と呼ばれるようになった。娘・桜花の一族は古手家として長く続いたが、今は梨花一人。その梨花が何の因果か百年の時をループし続ける羽目になった。その呪縛から解放されたのはつい先月のことだ。

「私の中だと、頭のおかしな科学者によって星を滅ぼされた宇宙人が放浪を続けた挙げ句、スペシウムのない地球に来たって説が有力なんだけど。あるいは青野武声の偽物宇宙人とか。意外性を狙って二〇二〇年から来た未来人ってのも面白いわね」

「本気で言っているのですか?」

「冗談に決まってるでしょ。私も自分の先祖が悪質宇宙人の手下ってのは勘弁して欲しいわ」

 口調が冗談に聞こえなかった。もし本当に宇宙人なら、きっと凄い文明の進んだ種族だったのだろう。わざわざ遠い地球まで来るのだから。

「アンタのコスプレする酔狂な子がいるとも思えないし、気にする必要ないんじゃないの?」

 喋りながら梨花は視線をクヌギの木の上を見上げる。白い斑点が付いた、透明な翅を持った蝉が鳴いている。羽入が今まで見たことのない蝉だった。木の上でけたたましい鳴き声を上げている。梨花は慎重な足取りで木の根元に近付くと虫取り網を構える。羽入も身を固くして成り行きを見守る。蝉の鳴き声が止まった。瞬間、気合いとともに梨花は柄を振り抜く。青色の網の中で蝉が歪な声を上げていた。

「ふーん、クマゼミか」

 図鑑で確かめながら梨花は指先で摘んだクマゼミを籠の中に入れる。虫籠には既に二匹のひぐらしが捕まっている。

「元々西日本に生息していたみたいね。雛見沢も色々外の風が入り込むようになったってところかしら」

「でもでも、それで雛見沢に元々住んでいた蝉が住めなくなったら可哀想なのです」

「蝉にまで慈悲を注ぐとはさすがね。神様の鑑ってところかしら」

「その捕まえた蝉はどうするのですか」

「標本にしようかと」

「駄目なのです。たった一週間しか生きられないのですよ。折角長い間土の中で我慢していたのに、可哀想なのです」 

「はいはい。分かったわよ」

 梨花は虫籠を羽入に放り投げた。羽入は籠の蓋を開けるとクマゼミやひぐらしは翅を振るわせ、木立の中へ消えていった。

「これでよかったかしらね、羽入様」

 おちょくるような口調に羽入はむっとした。オヤシロさまの顔は仏より我慢強いが、それでも限度はある。

「僕は戻るのです。沙都子にヒマワリの水やりを頼まれているのです」

 圭一は東京に帰省。レナは法事で父親と茨城に。沙都子は園崎姉妹に誘われて一緒に北海道へ避暑。梨花と羽入も誘われたのだが、宿題があるから、と断っている。

 かつては雛見沢を離れれば災いが降りかかるとされていた。事実、村を出た人間が誇大妄想、幻覚、自傷行為などの症状を併発していた。原因は脳内寄生虫による雛見沢症候群という風土病なのだが、ホームシックなどの精神不安定によるストレスで発症することも既に分かっている。今の圭一たちなら心配はあるまい。

「あれ?」

「今度は何?」

 梨花が煩わしそうに振り向いた。羽入は震えながら、梢の奥に横たわるものを指さした。

「梨花、た、大変なのです。人が倒れているのです」

「それを早く言いなさい」

 作業着を着た五十代らしき男性がうつぶせに倒れている。額から血が出ている。この前、見かけた営林署の職員だった。側には使い古したチェーンソーが木に深々と食い込んでいる。

「まだ息はあるわね」

 梨花が背中をさすると呻き声を上げた。

「羽入、私は入江を呼んで来るから後は任せたわよ」

 そう言い捨てて梨花は山道を下っていった。

 残された羽入はどうしていいか分からず頭を抱えた。あうあうあうあう。口をついて出るのは情けない声ばかり。

 僕には怪我を治すなんて出来ないのです。この人は大丈夫なのでしょうか。酷いのです。僕を置き去りにして。早く梨花が戻ってくればいいのに。額に溜まった汗が頬をつたう。羽入はハンカチで額を拭いてあげた。

 梨花が呼びに行って五分くらいして職員は意識を取り戻した。上体を起こす。「どこか痛いところはないのですか」

 返事はなかった。まだ意識が朦朧としているのだろうか。雛見沢症候群かと思ったが、目の色に疑心も狂気もない。

「今、梨花が入江を呼んでいるからここで大人しくしているといいのですよ」

「……」

「どうして倒れていたのですか。怪我ですか、それとも病気ですか?」

「……」

「あの、聞いているのですか?」

 職員が頭を抱えた。思わず羽入が取り縋った時、職員の耳の穴から赤い筋が流れているのが見えた。

 梨花が戻ってきたのはそれから十五分も後だった。山奥まで車が入れないので、農作業をしていた近隣の老人に頼んで山の下まで運んで貰った後、白いライトバンで診療所に運び込んだ。

 診察室から出てきた医師の入江京介に羽入は駆け寄る。

「どうなのですか、入江」

「頭の怪我は大したことありませんが、問題はここですね」

 入江が自分の耳を指さす。

「鼓膜が破れています。しかも両耳とも」

 羽入の脳裏に耳の穴から流れる鮮血が蘇る。

「どうしてそんな所に怪我したのですか」

「さあ、詳しいことは本人に訊いてみないと分かりませんね。耳の上を平手打ちすると、空気圧で鼓膜が破れた、なんて話を聞いたことがありますけど。あるいは耳元でもの凄い大声を出されたか、ですね。何か聞きませんでしたか?」

 羽入は首を振った。入れ違いに梨花が質問する。

「もう聞こえないのですか? かわいそかわいそなのです」

「いいえ。内耳には損傷もありませんし、形成手術さえすればまた聞こえるようになると思います。ただここの設備ではどうにもなりませんし、私も耳の手術は専門外ですので。興宮の総合病院に移送します。ですので二人とも安心して下さい。今日は帰っても結構ですよ。警察には私の方から伝えておきますので」

「お願いするのです」

 無事らしい、と知って羽入は安心した。

「ああ、待って下さい。古手さん。いいえ、羽入さんの方です」

 帰ろうと診療所を出た時、入江が追いかけて来た。

「僕がどうかしたのですか」

「羽入さんは確か、沙都子ちゃんと古手梨花さんと一緒に住んでいるんですよね。失礼ですが、ご家族は?」

 遠慮しているが、何かを探ろうとする気配が読み取れた。

「いないのです。僕の家族は梨花だけなのです」

「本当ですか? その、ほかに親類の方とか」

「どうしてそんなことを聞くのですか」

 入江はしばし言い淀んだが、申し訳なさそうな顔をして言った。

「怪我をされた男性が筆記で証言しましてね。その、『角の生えた女に触られた途端、何も聞こえなくなったと』」

 羽入は目の前が真っ暗になった気がした。意味の通じない、理解できない境遇に放り込まれた気がした。急に住処を追われた蝉の幼虫のように。

「誤解しないで下さい。別にあなたがやっただなんて思っていません。ただ、もし知っていることがあればと思いまして。何か知りませんか」

 羽入は身じろぎする。覚えのない濡れ衣が覆い被さってくる気がした。僕は何も知らない。やってないのですよ。

 怯える羽入と入江の間に梨花が立ちふさがった。小さな腕を目一杯広げ、雛を守る親鳥のように入江を睨み付ける。

「ボクも羽入も何も知らないのです。もし、その頭に角を付けた人が悪いことをしたとしても羽入とは何の関係もないのです」

 毅然とした態度に、入江も口をつぐんだ。

「さ、行くのです」

 羽入の手を取り、引き摺るようにして診療所を後にした。

「気にする必要はないわよ」

 五分ほど歩いたところで梨花が口を開いた。

「入江だって悪気があって言った訳じゃないわ。ただちょっと真面目過ぎるだけで」

 羽入は頷いた。入江の気質については別世界で何度も見ている。

「冤罪まで着せられるとあっては、放っておけなくなったわね。その角の女について調べましょ。何とかなるわよ」

 梨花は宣言した。幼い顔立ちだが、その微笑みも握った手も温かく、力が籠もっている。

「梨花は強くなったのです」

「あれだけ修羅場を潜ったら強くもなるわ」

 梨花は喉を鳴らして笑った。

 その微笑みを羽入は頼もしいと思った。そして淋しくなった。

 梨花は苦難と絶望を乗り越えて一回り大きくなった。いずれ体も成長して精神に追いつくのだろう。

 親離れの時期が近づいていると気がした。いや、梨花はとっくの昔に自立している。むしろ羽入が子離れ出来ないでいる。その存在が梨花の成長を妨げていた。特に、諦めばかりを口にして、惨劇に立ち向かうことを止めてしまったあの頃は。

 もしかしたら、と羽入は常日頃から恐れていた予感を思い出す。

 梨花にとって僕はもう必要ないのかも知れない。

 大人になった梨花がどんな道を歩むかは見当も付かないが、自分の力で強く生きていけるだろう。その時、僕はどうなるのだろう。いつまでも梨花の側にいる訳にもいかない。いずれは梨花も妻となり、母となるだろう。姑面して居座るのも梨花の迷惑になるだけだ。

 そう考えると薄ら寒いものが押し寄せる。

 梨花を支えてきたつもりだが、実際は違う。羽入が梨花に支えられてきたのだ。

 時代が経つにつれ、羽入が『見える』人間も減ってきた。終戦過ぎには誰にも認識されなくなっていた。梨花だけは羽入を見てくれた。「そこにいる」存在として見てくれた。夜の大海原のような孤独から救ってくれた。

 家に着くと梨花は大きく伸びをした。

「調査は明日にして早いところ寝るとしましょ」

「……」

「羽入?」

「ごめんなさいなのです。今日は祭具殿の方で寝るのです」

 言い置いて羽入は家を出た。梨花の側では不安に胸を締め付けられて眠れそうになかった。

 

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「それでは、頼みましたなのです」

 羽入と梨花はほかに角を付けた女を見た人がいないか情報収集を始めた。

 目撃情報は思いの外多かった。(中には羽入本人のものもあったが)全て裏山に集中しており、共通するのは静かな日にいつの間にか現れ、何を言うでもなく消えていく。襲われた、というのは今回が初めてだ。

 怪我人が出たため、警察も動き出したようだが、鼓膜が破れたことと角の生えた女との関連性が不明なためか本腰を入れた様子はない。

「岡野、ああ、営林署の人ね。裏山に入ったのは邪魔な樹の伐採するためにチェーンソー持って山に入ったところを後ろから襲われたんだって」

 梨花がメモを取り出しながら説明する。営林署まで聞き込みに行ったらしい。

「色々聞いてみたけど、特に変わったことはなかったそうよ。たとえば切ってはいけないご神木を傷つけたとか」

「あの辺りにそんな木はないのですよ」羽入は口を挟む。

「知ってるわよ。岡野はまだ入院中だけど、魅音に連絡したら、岡野本人と会えるよう都合つけてくれるって。持つべきものは権力者の友人よね」

「……」

「どうしたの? さっきから浮かない顔して」

 突っ込み不在の会話に梨花が口をとがらせる。

「なんでもないのです」

 その後、羽入と梨花は負傷した営林署職員の元を訪れた。古手家の威光か園崎家の権力か。岡野は素直に質問に応じてくれた。本来ならばまだ会話出来る状態ではないらしい。少しだけよ、と看護婦に釘を刺された。梨花が使い古しのノートを広げ、書き始める。

『何か変わったことは無かったですか』

「チェーンソーで木を切っていたら急に音が出なくなったんだ」

『故障ですか?』

「いや、刃はちゃんと回ってた。警察に訊いても何の異常もなかったらしい」

『女に見覚えは? 襲われた時の様子は』

「初対面だよ。いつの間にか側に立っていて、幻みたいにだったね。そいつが覆い被さってきてね包まれたと思ったらもの凄い音がして、耳が痛くなった。そのまま気絶してそれっきりだよ」

『ほかに変わったことは?』

「いいや。静かなものだったよ。お陰で作業も順調に進んだくらいだ」

『ありがどうございますなのです。お大事になのですよ。にぱ〜☆』

 口癖まで忠実に筆記して、羽入と梨花は病室を後にした。

「結局なんにも分からなかったのです」

「逆よ。私たちは重要なヒントを貰ったのよ」

 梨花が自信ありげに笑う。

「音が関係していると思う」

「音ですか?」

「岡野は襲われた時、静かだった、って言っていたじゃない。チェーンソーも急にあれだけ蝉の鳴き声がうるさい山に登っていたのによ。羽入、アンタも聞いていたでしょ」

「そうだったですか?」

「そうだったのですよ。本当にしっかりしてよね。これが私のご先祖かと思うと情けなくなるわ」

「ごめんなさいなのです」

「まあいいわ。話戻すけど、私の予想だとそいつは音を吸収しているんじゃないかって思うのよ。それなら、岡野が襲われた理由も説明付くわ」

 そんな生き物聞いたことがない。それに何故羽入と同じ姿をしているのかもまだ分からない。

「準備したら早速、裏山に登りましょ。ぼやぼやしてたらまた被害者が出るかもしれないわ」

 梨花は家から持ってきた小型のカセットデッキを羽入に持たせ、山道を登る。

 目的地は岡野が襲われた付近。そこでで張り込むことにした。目的地に着くと梨花は再生ボタンを押した。ラジオのニュースが流れてきた。昨日録音しておいたものだ。

「これで本当に来るのでしょうか」

「さあね。駄目なら別の方法を考えましょ。本当なら8ミリカメラでも持ってきたかったんだけどね。カメラで繰り返し見れば何か気づくかも知れないし」

「魅音に借りれば良かったのです。この前自慢していたのですよ」

「そう言えばビデオデッキも買ったって言ってたわね。ベータっていうんだって。凄いらしいわよ」

「何が違うのですか?」

「二つの規格があるらしいんだけど、VHSとかよりも小さくて画像もキレイなんだそうよ。機能的にも優れていて、将来的にはベータが主流になるって言ってた」

「うちにもビデオが欲しいのですよ」

「そういえば、この前レナがゴミ山でまだ使えるビデオデッキ拾ったって言ってたわね。頼めば貰えるかも知れないわね。見返りにお持ち帰りされる危険性は高いけど」

「怖いのです。でもビデオのためなら我慢するのです」

「でもそれ、VHSらしいわよ」

「あうあうあう。それで我慢するのです」

 退屈しのぎに無駄話をしながら待った。一時間テープを二回ひっくり返した。

 首筋や手首の裏を蚊に刺されたのには閉口した。

 黄昏時だ。真横から突き刺すような目映い光に自然と目が細まり、欠伸も出る。

 不意に周囲の音が消えた。蝉の声や風の音、葉の擦れる音が途絶えた。

「来たわね」

「どこ、どこにいるのですか?」

「いたわ!」

 梨花が指さした坂道の下、木の根元に角の生えた女が見えた。

 羽入の隣で梨花が息を呑む気配が伝わってきた。幾度となく己が言われ続けた言葉であるが、眼前の女は『化け物』としか形容しようがなかった。

 左角だけ右の倍以上も肥大化しており、途中で二股に分かれていた。黄色い目は複眼のように薄く盛り上がり、薄闇の漂う山中に怪しく輝いている。両腕の指は銀色の鱗が生えていた。異形の女は半透明な体を引き摺るように徘徊し、無音のまま木々をすり抜けていく。その一本に、黒々としたカブトムシが留まっているのが見えた。左角がその上を通り抜けた途端、カブトムシは風船のように破裂した。音はしなかった。

「アンタに似ていると言いたいけど、いいとこ劣化版ね」

 これからあいつを『羽入もどき』と呼ぶとにするわね、と梨花は勝手に命名した。

「あうあうあう、イヤなのです。そんな名前」

「じゃあ略して『もどき』ね。はい決定」

 強引に押し切られた。

 梨花はカセットデッキをたぐり寄せ、停止ボタンを押した。

「とりあえず、あいつを引きつけるわよ。おーい」

 『もどき』は振り向いた。

「こっち、こっちなのですよ」

 梨花が挑発のために大声を上げた瞬間、『もどき』が歓喜したように見えた。

 『もどき』の姿が消えた。羽入は背後に異様な気配を感じた。振り返ると、一瞬にして間合いを詰めた化け物が二人の背後に迫っていた。梨花が回避行動を取ろうとしたが遅かった。『もどき』の手が梨花の顔に触れる。

 梨花の体が小さく跳ねた。

「梨花!」

 更に『もどき』が梨花の頭を飲み込まんと口を開ける。

 羽入は体ごと梨花にぶつかるとその手を取り、必死で逃げた。

 息を切らせ、山道を駆け上がる。心臓がうるさいほど鼓動している。

 羽入の幼い肉体が限界を叫んでいた。握った手の感触と温もりが羽入の支えだった。梨花を護りたい。その一心で目の前に資材小屋が見えてきた。羽入は飛び込み、鍵をかける。

 『もどき』が付いてきていないのを窓から確かめ、四つん這いになって息を切らせる梨花の背中をさすった。

「大丈夫なのですか」

「何言っているのよ、私は大丈夫よ」

「どこか怪我はないのですか。あいつに何かされませんでしたか」

「馬鹿ね。自分から袋のネズミになってどうするのよ。あいつが木でも岩でもすり抜けられるの見ていたでしょ」

「ごめんなさいなのです。でも『もどき』はまだここまで来ていないのです」

「言い訳はいいわ。それより、『もどき』が来てないか見てきて」

「梨花?」

 会話が噛み合っていない。梨花が両耳を押さえる。

「もしかして、耳が聞こえないのですか?」

「鼓膜は破れてないわ」呻きながら梨花は耳を軽く叩き、確認する。「聞こえてる。ちょっと方向感覚とかがデタラメになっているけど」

 立ち上がろうとしてふらついた梨花の体を羽入は慌てて支える。

「お陰であいつの正体が分かったわ」

 確信に満ちた表情で梨花は言った。

「あいつの正体は『音』よ」

「音?」

「生きている音っていったらいいのかしらね。どういう原理かはさっぱりだけど、あの半透明の体の中には音が反響しまくっている。何百何千ホンって単位のね。岡崎の鼓膜が破れたのもあいつの体に頭突っ込んだからでしょうね。瞬間移動したように見えたのは単純。音の速さで動いたからよ。あいつ自身、音の固まりだしね」

 音の速さは秒速三四〇メートル。追いかけっこで勝てる相手ではない。

「でも音が『見える』のですか?」

「音って要するに空気の振動だから。振動で空気ごと光の屈折率ねじ曲げているのかしらね」

 羽入は頭が痛くなった。

「分からないなら無理に理解しなくていいわ。私だってただの推測なんだし」

「どうして人を襲ったのですか」

「人、というより音を吸収しているのよ。普段は蝉の鳴き声や擦れる音を食べているんでしょうけど、そこに珍しい餌があった。人間の悲鳴って餌がね」

 梨花を襲った時の『もどき』は喜んでいるように見えた。あれは好物を前にした顔だったのか。

「どうもその時に味を覚えちゃったみたいね。放っておいたら村に降りて人を襲いかねないわ」

 梨花は溜息をついた。

「圭一たちを呼んでいる時間はないわね。こうなったら私たちで片付けるしかないわ」

「どうやって?」

「策はあるわ。私が囮になって時間を稼ぐから。羽入は今から言うものを準備して」

「危険なのですよ!」

 またさっきみたいに梨花がやられたら、と思うと羽入はぞっとする。

「あの惨劇に比べたら化け物の一匹や二匹。平気よ。じゃあ頼んだわよ」

 羽入は首を振った。

「僕が囮になるのです」

 

-5ページ-

 

 

 

 『もどき』は梨花を襲った付近を徘徊していた。羽入の姿を認めると口を開け、芋虫のように身をよじって迫ってきた。動きは鈍いものの、その巨体が触れる度に蝉やかまきりの体が裂け、ヨタカやヤマセミが地に落ちた。羽入は金だらいを叩き、挑発する。沙都子が山中に仕掛けたトラップを解体したものだ。

 カセットデッキは『もどき』に襲われた時に壊れてしまった。そこで羽入は慎重に距離をとりながら『もどき』を出来る限り大回りして山奥へ誘導する。『もどき』は音に釣られ、身を震わせながら移動している。声を出さない限り、音速で移動することはないだろう、と梨花は言っていたが安心は出来なかった。

 鼓動がやけに耳障りだった。心臓が耳元まで移動したかのようだ。音を『もどき』に悟られないかと気が気でなかった。梨花にはいざとなったら霊体に戻る、と言っておいたが襲われたらその暇もないだろう。

 振り返ると遠くに資材小屋の光が見えた。金だらいを投げ捨て、霊体に戻った。『もどき』は足を止め、辺りを見回す。羽入の姿を見失っている。羽入はほっとした。無事に目的を達成したのもそうだが、やはり、あの『もどき』は同族ではないことに安堵を覚えた。

 小屋に戻ると梨花は既に準備を終えていた。テープレコーダーとマイクが資材小屋のコンセントに繋がっている。裏口の窓の外に半開きの球形が見えた。

「もうすぐ『もどき』が来るのです」

 声を殺して報告する。

「ご苦労様。それじゃ待つとしましょ」

 梨花は壁に背を預け、座り込んだ。羽入は窓の外に目をやる。

 盲いるような闇の中、淡い月光が山の中を照らしている。時計を見ると十時を過ぎていた。蝉の声に混じってフクロウの声も聞こえる。鬱蒼とした森の奥から黄色く丸い光が近付いてくるのが見えた。

 囮の役目を終えたら霊体に戻るよう梨花に言われていたが、そのつもりはなかった。いざとなれば生死を共にするつもりだ。たとえこれが最期の人生だろうとも。

「ねえ、羽入」梨花が小声で言う。「アンタ、自分へのメッセージに何吹き込んだの?」

 羽入は胸を突かれた気がした。

「どうして今頃そんなこと聞くのですか」

 梨花の意図を探ろうとしたが、黒々とした丸い瞳から掴み取るのは出来なかった。

「気になったのよ。いいから答えなさいよ」

「それは、お楽しみなのです」

「自分だけ聞いといて通用すると思う? さ、言いなさい」

「どうしてもなのですか」

「どうしてもよ」

 意を決して羽入は口を開いた。

「何も」

「は?」

「僕は何も録音しなかったのです」

 言葉にして未来の自分に伝えるべきことなど何もなかった。未来の自分がどうなっているかなど想像すら許されない気がした。梨花や沙都子、圭一に魅音に詩音。これから自由に未来を選んでいける。輝かしい未来が待っている。ならば僕に何があるというのだろう。羽入にもあった筈のささやかな希望。愛する夫との日々も腹を痛めて産んだ我が子もすべて遠い過去の話だ。振り返っても見えるのはオヤシロさまという因習が築いた血塗られた日々だけだ。膨大な死骸を前に、どんな未来を望める?

「でも僕は満足なのです。僕には梨花がいる。梨花が幸せならそれでいいのです。だから僕のことは気にせず」

「この馬鹿」

 梨花は羽入のホッペを思い切りつねった。

「あうあうあうあう〜」

「何のために私が奇跡まで起こして弾止めたか全然分かってないようね、このボケ神様。いい? 私が百年以上私が欲しかったのは誰一人欠けない未来よ。その中にアンタを入れないほど私は心の狭い人間じゃないわ」

 羽入は茫然と頬を押さえる。早口でまくし立てたので聞き取り辛かったが、梨花が本気で怒っているのは肌身に伝わってきた。

「甘えるんじゃない。今まで私の後ろでボケッと突っ立ってあうあう言っていたアンタが何を築いてきたっていうのよ。壊れたんなら、無くなったらのならまた作り上げればいいじゃない」

 そこで梨花はくすりと笑った。

「未来が見つからないなら私が一緒に探してあげる。私もアンタも幸せになるの」

「梨花……」

「なんなら再婚でもしたら?」

「さささ再婚なんて僕は」

 いきなり何を言い出すのか。

「それくらい思い切って生きろってことよ」

 羽入は胸が熱くなるのを感じた。梨花はやはり凄いのですよ。どんな状況でも僕に気遣い出来るくらいに。

「じゃあ僕も思い切って圭一や赤坂にアタックしてみるのです」

「アンタそれで一本取ったつもり? 千年早い……」

 フクロウの声が止んだ。

「来たのです」

 羽入は扉を開け、目の前の異形と対峙する。音を食べ続けた『もどき』の体はもう象くらいの大きさになっていた。反面足は細く、巨体を両腕で支えながら木々をすり抜け、這い進む。巨大な二つの瞳は黄色く瞬き、眼球だけを忙しくなく動かしている。巨大なものが迫っているという威圧感をひしひしと感じながら羽入は後ずさる。

「ここよ!」梨花が小屋の中で叫んだ。『もどき』は一瞬で羽入の側を通過し、壁を通り抜けて梨花の前に立ちふさがった。

「随分楽しそうね」

 梨花の皮肉に応じるかのように『もどき』は愉悦に喉を鳴らし(音は出ていないが)、小さな頭にかぶりつかんと半透明の口を開けた。

「一曲いかが?」

 会心の笑みとともに梨花はマイクを突き出した。マイクとテープレコーダーが『もどき』の体に飲み込まれる。

 無音の中で『もどき』がのたうち回り、体が見る見るうちに風船のように膨れ上がった。

「……!」

 梨花が何事か叫んだ。それが羽入への警告と気づいた瞬間、『もどき』の体が破裂した。

 突風が巻き起こった。悲鳴や歓喜、慟哭に阿鼻叫喚、あらゆる感情の入り交じった声が羽入に襲いかかった。受肉を解く余裕もなかった。耳をふさいでも呪いのように耳から滑り込み、羽入の精神を削り取っていくのを感じた。身を伏せ、蹲りながら断末魔の嵐が通り過ぎるのを待った。目を閉じながら必死で梨花や部活の仲間、楽しかった日々を思い浮かべた。

 音が止んだ。羽入は顔を上げる。『もどき』の姿はどこにもなかった。マイクとテープレコーダーは白い煙を上げている。その横で梨花が仰向けに倒れていた。

 羽入は慌てて梨花を助け起こす。

「梨花、しっかりするのです」

「平気よ。至近距離だったから、ちょっとびっくりしただけ」

 梨花は頭を左右に振り、耳栓を外した。

「何がどうなったのですか?」

「あいつの体の中で音が反響しているのはさっき話したわよね。その中にマイクとスピーカーを突っ込んだせいで、マイクが音を拾い、スピーカーが増幅する。その繰り返しであいつのキャパシティを超えたのよ。ま、要するに食べ過ぎね」

「結局、あいつは何だったのでしょうか?」

「さあ、私なりの仮説はあるんだけどね。明日にしましょ。今日は疲れたわ」

 梨花が目を閉じた。一瞬ひやっとしたものの、すぐに安らかな寝息が聞こえてきた。

 羽入は梨花を背負い、山道を降りた。

 梨花とは長い付き合いだが、背負ったのは初めてだ。非力な羽入でも苦にならぬほど軽い。小さな体には途方もない行動力が秘められている。

 今も眠りながらしっかりと羽入の肩を握っている。暖かさと重みを感じながら羽入は苦笑した。我が儘で酒飲みで嫌味ばかり言う子だけれど、寂しがり屋なのだ。きっと僕の血筋なのだろう。

 遠い日に口ずさんだ子守歌を口ずさみながら羽入は帰路についた。

 

-6ページ-

 

 

 

「梨花、どこに連れて行くのですか」

「いいから、来なさい」

 翌日、梨花に連れてこられたのは山奥。昨日、『もどき』が現れた辺りだ。太陽は中天を過ぎ、西空はあかね色に染まっている。

 森は蝉の大合唱だった。ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシ、ニイニイゼミ。耳を聾するかのような大音響はまるで鳴き声を奪われていた期間を取り戻すかのようだ。

 梨花はまた網と虫籠を持っていた。木々を見回し、クヌギの木に止まっていたひぐらしに目を留める。息を殺し、爪先立ちになると親指と人差し指で捕獲した。梨花の指の間でひぐらしは逃れようと必死に羽根をふるわせ、ひび割れた声を上げる。

「これ、触ってみて」

「へ?」

「いいから。私の予想が正しければ害はないはずよ」

「は、はいなのです」 

 命じられるままに羽入はおっかなびっくりで指の腹で触れる。

 蝉たちが一斉に鳴くのを止めた。

 羽入は目を瞠った。

 目の前に角の生えた、半透明の女の子が立っていた。一昨日、山の中で出会った少女より二三歳上だろう。長く艶やかな黒髪に丸い瞳、袖のない着物は羽入と似ているが、後ろの布はまるで浮いているように見えた。女の子ははにかむように微笑むと子犬のように背の高い男女に駆け寄っていく。両親なのだろう。女の子とよく似た着物を纏い、頭には丸い角が生えていた。父親の方が女の子の頭を撫でた後、抱き上げて何事か話しかける。肌の色は日本人に近いが、異国の言葉のようだった。けれど羽入には奇妙に懐かしく感じられた。時も忘れて目の前の光景に目を奪われた。

 気がつくと、息を切らせた梨花が蝉いっぱいの虫籠を差し出してきた。全てひぐらしのようだ。狭い虫籠に押し込められ、窮屈そうに透明な翅を震わせている。促されるまま羽入は籠の中のひぐらしに触った。

 その途端、ひぐらしは次々と羽音を立てるのを止めた。いや、翅は変わらず羽ばたきを繰り返しているが、音が聞こえなくなっていた。

 羽入と梨花の周囲には大勢の人が溢れていた。老若男女、皆丸い角が生えている。

 人だけではなかった。草木萌える木々は半透明の街に浸食されていた。広い大通りの両端に並ぶ露天商に白い塔、煌びやかな橋、角の生えた犬、祭りを連想させる活気が息づいている。いつかテレビで見た砂漠の国の街のようだった。薄紫色の空には八つの月がおぼろに浮かんでいる。

「これは……想像以上ね」

 梨花が溜息をついた。

「梨花、これはどうなっているのですか?」

「この人たちは多分、アンタの昔の仲間よ」

「仲間?」

「もちろん、本物じゃないわ。幻よ。原因はこいつ」

 虫籠を掲げてみせる。

「ひぐらし、なのですか?」

「アンタ、テレビ見てるわよね。だったら遺伝子って聞いたことない?」

 羽入は首をかしげた。

「要するに生き物の体の中に入っている設計図よ。親が子供に似るのはこれがあるからね。アンタの仲間は自分たちの記録をひぐらしの遺伝子の中に隠したのよ。いずれ、自分たちか、自分の仲間が見つけることを願ってね。中身から察するに特定の誰かへのメッセージって訳じゃなさそうね。どっちかっていうと、そう、タイムカプセルね」

「どうしてそんな真似を」

「地面に埋めようと水の底に沈めようと、発見される可能性はゼロじゃないわ。誰かさんのモデルガンみたいにね」

 魅音の言葉を思い出す。いつ誰に掘り返されるか分かったもんじゃないからね。

「生き物の遺伝子の中に隠した方が見つからないと思ったんでしょ。勿論絶滅する可能性だってあるけどね。自然界で一つの種が絶滅する確率の方が低いと思ったんでしょ」

「けど今までの世界ではこんなことはなかったのですよ」

「だからタイムカプセルなんじゃないの? 時間が経ったら自動的にロックが解除されるとかね。それがたまたま今年の七月だったとか。あるいは同族が触ったら自動的に発動するようになってたとか。アンタが受肉したのは今回が初めてなんだし」

「なら、あの『もどき』はなんだったのですか?」 

「きっとL5状態だったのよ」

 梨花はポケットの中からひぐらしの死骸を取り出した。背中がぱっくりと割れている。指先で死骸を削り、白いものを取り出した。

「セミヤドリガの卵よ」

 梨花は掌に転がす。そしてポケット図鑑を取り出し、見比べる。

「蛾の一種でね、名前通り蝉を宿主にして卵を産み付けるの。そのほとんどがひぐらしだそうよ。普通は栄養分を吸い取るくらいで害はないらしいんだけど、もしかしたら新種かもね」

「それじゃ、その虫のせいで」

「つくづく寄生虫に縁があるのね、この村」

 梨花は皮肉っぽく笑った。

 目の前では羽入の一族が、角の生えた人々の在りし日の姿を映している。

「みんな、幸せそうね」

「梨花、ありがとうなのです」

「別にいいわよ。私も先祖が宇宙忍者じゃなくって安心したし」

「そのネタまだ引っ張るのですか?」

 羽入は魂を奪われたように見入っていたが、段々と街も人々も水に溶けるように消えていく。

「時間切れかしらね」

 やがて元の森だけが残り、虫籠の中のひぐらしも沸き立つように鳴き始めた。梨花が蓋を開けると、ひぐらしは籠から次々と飛び出し、森の中へと消えていく。

 しばしその場に立ち尽くす羽入に梨花が肩を叩いた。

「タイムカプセル埋め直すわよ。一週間もしないうちに掘り返したなんて知られたら、罰ゲーム確定よ」

 そのためにわざわざ同じ機種のマイクとテープレコーダーを用意してある。

「待って欲しいのです」

「何?」

「その……僕の分を録音したいのです」

 梨花はちょっと驚いた顔をしたが、すぐに満足そうに頷いた。資材小屋の中に入り、テープレコーダーのコンセントを差し、マイクを握る。

「さ、早くしなさい。ぼやぼやしてたら日が暮れるわよ」

「梨花少しの間外に出ていて欲しいのです。恥ずかしいのですよ」

「えー、いいじゃない。聞かせなさいよ」

「あうあうあう、駄目なのですよー」

「はいはい。終わったら呼びなさいよ」

 肩をすくめながら梨花は立ち去る。

 小さくなる背中を見つめながら羽入は目頭が熱くなるのを感じた。僕は一人ではなかった。僕がここにいるのも全て僕の父や母がいたからだ。そして今は梨花がいる。時を経ても現世に刻み込まれる、命の痕跡。錆や腐食にも負けない、未来へ伝える器だった。

 羽入の心に奔流のように言葉が溢れてきた。この思いを喋りたい。残したい。僕がここにいると証明したい。羽入はテープレコーダーのスイッチを入れると、マイクを手に取り、大きく息を吸い込んだ。

 僕は。

 

説明
『ひぐらしのなく頃に』の二次創作です。
羽入と梨花が主役です。
弱冠SF風味です。
羽入の本名とかその辺はナシの方向でお願いします(笑)
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コメント
『僕は一日シューが三つは食べたいのです! 三日に一個なんて梨花はケチなのです! 胸もねえし神への畏敬の念もねえのです!」と最後に脳内補足したわたくしは脳みそが腐っています(月野渡)
こんなSF設定をよく思いつくなと……その発想は本当に凄いと思いました(漆之日太刀)
文句なくうまいです。さすが口先王(枡久野恭(ますくのきょー))
タグ
ひぐらしのなく頃に 羽入 古手梨花 

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