カレイドスコープ『エメラルドグリーン T』
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 痛い。いたい。イタイ……

 

―――まただ。

 足許の定まらない浮遊感が,これが現実でないことを教えてくれる。

 

 痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイ――――

 

 感情の奔流が俺を包み込む。剥き出しの神経に直接それが流し込まれるようだ。「痛い」という言葉が現実の「痛み」となって俺を襲う。

 俺は朦朧とする意識の中,それの元へと視線を向けようとする。

 だが,体という実感が無い為に,うまくいかない。

 水の中で,必死にもがいてみるが,一向に水面へたどり着けないのと同じだ。

 

 イタイいたい痛いイタイ痛いいたいいたいいたいいたいいたい―――!!

 

 最早絶叫となったそれに,俺は耐えきれなくなった。

 

―――お前は誰だ!

 

 俺の叫びと同時に,視界が白く染まった。

 そこに,黒い塊が現れた。

 その塊はやがて人型をとりはじめた。

 大と小の二人がいるようだった。

 輪郭がぼやけているので,詳細は分からなかったが,大の方は大人,小の方は子供であるようだ。

 その大人が,子供を組しだいているように見える。先程からの悲鳴は,この子供のものか。

 

―――おい,あんた何してるんだ

 

 俺は声にならない声をあげた。自分の声でありながら,そうでないような違和感。

 

 やはり,これは夢だ。

 妙に納得する。夢が夢であるという奇妙な実感の中,それでも俺はその二人を放っておけなかった。

 

 いたいいたいいたいいたいイタイいたい痛いいたい。やめて。お願い。

 

 子供が泣き叫んでいる。

 俺は一刻も早く,それを止めたかった。

 実体のない腕を2人へと伸ばす。だがそれは届かない。前へ進もうにも,体が前に出ない。或いは進んでいるのかもしれないが,2人との距離は一向に縮まなかった。

 

 痛いイタイいたいいたい。やめて,おじいちゃま―――

 

「やめろぉおお!」

 

 その叫びとともに,俺の意識は覚醒した。

 

                   ●

 

 連続的な電子音が響いている。

 時刻を告げる,目覚まし時計のアラーム音だ。

 耳障りなその音を,右手を伸ばして止める。静かになった寝室で,俺は再びまどろみへと落ちていく。

「夢,か……」

 布団に包まり,目を瞑りながら呟いてみる。

 ここ2,3日毎日見るようになった夢だった。「痛み」を訴えかける夢だ。はっきりとは分からないが,子供が何かをされているらしい。

 それが何かは分からない。ただひどく気になる夢だった。何か意味のある夢なのか?それは分からない。分からないが,喉に魚の小骨が刺さったような,すっきりしない気分だ。

 だが,それは所詮は夢だ。きっと何かの映画かTVの影響だろう。

 俺は一つ欠伸をすると,そのまま目を閉じた。

 

ぴんぽーん。

 

 何か音がした。家の呼び鈴のようだったが,こんな時間に何の用だ。

 俺は無視する事にした。

 

ぴんぽーん。ぴんぽーん。

 

 しつこいな。俺は今,とても忙しいのだ。寝ることに。

 

ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。

 

「うるさいな!誰だよ!」

 俺はがばっと上体を起こした。

「ああ……」

 完全に目が覚めた。

 

 2階にある自室から,玄関へと辿り着くまで,呼び鈴は鳴りっぱなしだった。某国営放送も真っ青のしつこさだ。

「はいはい。今出ますよ」

 俺はドアを解鍵すると,それを開けた。

「おっはよー。今日も元気かなぁ?亮くん」

 予想通りの人物が,右手を高く挙げ満面の笑みを浮かべながら,そこに立っていた。

「お前はなんでこんな朝っぱらから元気なのかな?南・香住クン」

「え,こんなの普通だよ?」

 と,ここで首を傾げられてもなぁ。俺はテンション下がりまくりなんだが。

「あ,まだそんな格好してる。朝食まだなんでしょ。作ってあげるから,ちょっと台所借りるよ〜」

 とか言いながら,俺の許可も待たずに家の中に侵入する幼なじみ。ちょっと待て。それは住居不法侵入ですよ?

「ほらほら,早く着替えて準備しないと。遅刻しちゃうよ」

 香住は既に靴を脱いで家の中に入っている。勝手知ったる何とやら。自前のスリッパまで用意して,香住は迷う事無くキッチンルームへと歩を進めてゆく。

 こうなると,もうどうにもならない。俺は大きくため息をつくと,顔を洗うべくバスルームの洗面台へと向かった。

 

                    ●

 

 流れ出る水は冷たく,俺を覚醒させる。顔を2,3度洗うと,意識がしっかりとしてきた。

 いつもの場所にかけてあるタオルを取ると,顔をふく。

 鏡面に,俺の顔が映る。いつもの,俺の嫌いな顔だった。

 別に顔そのものが嫌いな訳じゃない。俺が嫌いなのは,その目―――目つきではなく,瞳の色だった。

 

 俺の名前は玖澄・亮。現在年齢は17歳。私立愛華学園に通う学生だ。

 両親共に日本人である,生粋の日本人である。当然髪の色は黒。瞳の色も黒―――のはずなのだが,俺の場合は違った。

 瞳の色が違うのだ。では,何色かと問われれば返答に困る。俺の瞳の色は,光の当たりようによって変わるのだ。まるで万華鏡のように。

 小さい頃は,よくこの瞳の色でいじめられた。子供なんてのは残酷な面がある。「ガイジン」なんて言われるのはしょっちゅうだったし,「お前の母さんはガイジンと浮気したんだ」なんて言われた時には,頭の中が煮えくりかえり,そいつが鼻血を出して泣き叫ぶまで殴りつけたものだ。

 俺は腕っ節には自信があり,よく周囲と問題を起こし,その度に母親が頭を下げる。

 「僕は悪くない」 益々俺は意固地になって,周囲と諍いを起こし,孤立していった。

 そんな俺を支えてくれたのは両親と,先程無断侵入した幼なじみである南・香住だった。

 なんだかんだと問題を起こしながらも,非行に走らなかったのは,この3人の存在が大きい。口には出さないが,今ではこの3人に感謝している。

「ふぅ……」

 あまり昔のことを考えるのはよくないな。朝から暗い気分になってしまう。それに今は便利なものもある。

 俺は洗面台の片隅にある容器に手をのばす。直径が3センチ程の円形の容器が繋がっているものだ。

 それは,カラーコンタクトレンズの保管容器である。

 俺は慎重に容器の蓋をあけ,コンタクトレンズを取り出す。濃い茶色――ほとんど黒に見える―――の繊細なレンズを丁寧に扱い,それを両目に装着する。慣れたもので,3分と時間をかけずに終わった。それもそのはずで,もう5年は同じ事をやっているのだ。動作を体が覚えている。

 俺はもう一度鏡を見る。そこには黒目の,「理想的な」俺が映っていた。

「よし」

 俺は小さく頷くと,制服に着替えるべく,自室への階段を上った。

 

                   ●

 

 男の着替えなんて早いもんだ。制服の皺が無いことを確認した後,ネクタイのゆがみを直せば完成だ。後は整髪剤を使って髪型を整えればよし。変な寝癖とか,ついてないよな。

 

 俺の自室は2階にある。我が家は2階建てで,この2階には父母の寝室,書斎と空き部屋が一つ。1階はキッチンと一体化したリビング,バスルームとトイレ,6畳と4畳半の和室がある。標準的な一般家庭ということだ。あと小さな庭があり,母の趣味のガーデニングが行われていたりする。現状,母が居ないので,仕方なく俺が面倒をみている。

 

 1階へと続く階段を下りていると,キッチンルームの方からよい匂いが漂ってくる。

 俺は一つ背伸びをした後,「おはよう」と言って席に着く。

「おはよう,りょーくん。って,それもう言ったよね?」

「俺が言ってなかったんだから,それでいいんじゃね?それと,りょーくんなんて言うな。そんな間延びした名前じゃないぞ,俺は」

 香住は,それでいいじゃない。言いやすいんだから,と言いながら手をひらひらさせる。

「それより,料理できたから,亮くんの分,運んでくれる?」

「それはいいけれど,お前も食うのかよ」

 そうだよ〜と笑顔で言う幼なじみ。最初から食べる気だったんだな。まったくこいつの両親はどういう教育を……って朝食作ってもらってる俺が文句をいえた義理ではないが。

 俺は食卓へ朝食を並べていく。ご飯,味噌汁,ハムエッグにほうれん草のお浸し。焼きたての塩鮭が香ばしい香りを放っている。

 香住が俺の向かい側の席に座って,「いただきます」と手を合わせる。

 朝から元気な事だと思いながら,俺も「いただきます」と言って料理に手をつける。ささやかな朝食だが,ゆっくり味わう時間もない。原因は俺の起床時間が遅いのもあるが,後片づけを含めると,だいたい遅刻にはならない程度の出発時間となるのだ。

 

 朝食を口に運びながら,香住が首を傾げ,

「おじさん達,今度はいつ帰ってくるの?」

 と問い掛けてくる。俺の両親は,大手の商社に勤めており,度々長期の出張で家を空ける。国内ならまだいい方で,海外へ長期出張する事も珍しくなかった。

「今回はヨーロッパに行ってるからな。長いって言ってたけど……。確か今度の連休明けに帰ってくるって言ってたような」

「ようなって,いい加減じゃない?」

「商談がまとまれば早く帰ってくるって言ってたようだけど,まぁ予定が変わるのはよく有ることだし,もう慣れたよ。今日か明日には連絡もあるだろうし,それではっきりするだろ」

「その間は,私が面倒を見てあげるね」

「おいおい,お前は俺の母親か? 別に気にかける事はないぞ。親の出張は慣れっこだし,自炊だってできるし」

 まぁまぁと幼なじみは笑顔を向ける。

「だ・め・だ・よ。亮くんは私が居ないとダメダメだからね!」

「あのな,別に俺はお前の世話にならなくてもだな……」

 まかしときなさい!と胸を張る香住。

 俺は大きなため息をついた。こいつは一度言い出したら,こっちの言い分を聞かなくなるからな。ありがたいんだか,迷惑なんだか,よく分からなくなってきた。

 

「さて,と。今日の運勢はどうかな」

 香住はそう言いながらTVのリモコンを操作する。

「飯を食ってる時に,行儀の悪いコトするなよ」

 と俺が注意すると,香住はまぁまぁと言うように手のひらを上下に振りながらチャンネルを変える。

「獅子座は……6位かぁ,微妙だなあ。なになに,『今日は謙虚な態度が幸運を呼びそう』だって」

「いつも謙虚だと,きっと生涯幸せに過ごせるぞ」

「何言ってるの亮くん,私はいつも謙虚だよ」

 謙虚な人間が,住人の許可も得ず家の中に入ってくるのかよ。とつっこみを入れたくなったが,ここは黙っておこう。それに何回言っても無駄だ。言って来なくなるなら,とうの昔に来なくなっている。

「亮くんは牡牛座だったよね。……んん?12?最下位だね。『突然の予定変更で調子がくるってしまうかも』だって」

 あははと笑う香住を見て,少し気分が悪くなる。

 占いなんて信じていないが,他人に笑われると嫌なものだな。

「ラッキーアイテムは『眼帯をした人』だって。そんな人,居るのかな?」

「滅多に居ないだろ,そんな人」

 少なくとも,俺の知り合いにそんな人間は居ない。

 だよねぇ。と苦笑する香住に,

「それより早く食えよ。遅刻するぞ」

 俺は注意をすると同時に,ハムエッグの最後の一切れを口中に放り込んだ。

 

                   ●

 

「おい,そろそろ行くぞ」

 俺は玄関に立ち,未だにキッチンにいる香住に呼びかける。

「待って,まってよ〜」

 とたとたと小走りに香住が鞄を片手にやってくる。

「ったく,片づけは俺が帰ってからするって言っただろ」

「駄目だよ,出したものはちゃんと片づけないと。何でもやりっぱなしにしてると駄目な人間になっちゃうぞ」

 靴を履きながら香住が上目遣いで睨んでくる。

 俺は鞄を持っていない方の手を胸元まで挙げて,降参の意を示す。

「いってきます」

 俺と香住は声を合わせて挨拶すると,俺は玄関の鍵をかけた。

「時間,どのくらいある?」

 俺の問い掛けに,香住は腕時計を見ると,

「ゆっくり歩いても間に合うよ」

 と答えた。

「じゃあ,行くか」

 俺と香住が並んで門をくぐると,

「あれ?」

 俺はいつもと違う光景に違和感を憶えた。

 俺の家と道路を挟んで向かい側にある家の前に,大型のトラックが停まっているのだ。何人かの人が,開け放たれた門から,大きな屋敷へと出入りしている。

「あのお屋敷に誰か引っ越してくるのかな?」

 香住が首を傾げた。

 その家は長らく人が暮らしていなかった。俺と隣の香住の家を合わせたよりも大きな家に,その家に匹敵する程の庭があったはずだ。

 俺が小学生の頃,この無人の屋敷に「探検」しに入った事があったが,子供の目で見ても立派な屋敷だった記憶がある。大きな門扉は見上げる程であり,装飾の施された多数の窓が印象的だった。3階建ての屋敷は,子供にはお城のように思え,妙に感動したものだった。

 そんな様子を興奮気味に母親に話したのだが,それが原因で無断で他人の家に入ってはいけないと,こっぴどく叱られた。

 あれから10年近くになるのか。あのお屋敷に暮らせるとは,結構な金持ちが引っ越してきたんだな,と思った。

「どんな人が引っ越してくるんだろうね」

 香住が問うてきたので,俺は思ったままを告げた。

「お金持ち,ね。確かに,あんな大きな家に住める人ってお金持ちなんだろうなぁ」

 香住が俺の横で頷いている。

「まぁ,顔を合わせる事もあるさ。それよりいいのか時間?」

 あっと慌てた声を出す香住は,俺の手を引っ張って小走りに進み出した。

「急ご。このままだとぎりぎりかも」

 俺と香住は,いつもよりもペースの速い歩調で通学路を歩み始めた。

 学園へと向かう途中,俺はふと疑問に思った事を香住に訊いてみた。

「お前ってさ,確か陸上部に入っていたよな」

「そ。短距離走なら,誰にも負けないよ」

 さらりと凄いことを言う幼なじみ。

 実際,彼女は各大会で新記録をたたき出し,国内では敵なしの状況だ。どちらかと云えば学問重視で,運動系に弱い愛華学園としては得難い人材だと云える。本人はその事に関しては特に気負うことなく,「走ることが楽しいから」と屈託のない笑みを浮かべるだけだ。

「運動部ってさ,朝練とかないのか?ほとんど毎日俺の家に来てるけど」

 俺の言葉に,香住は口を笑みの形にし,

「朝練は免除してもらってるんだ。手のかかる幼なじみが居るからって」

「手のかかる幼なじみって,俺のことか?!」

「他に誰がいるっていうのかなぁ?」

 笑いながら振り返る幼なじみ。嫌みなくらい爽やかな笑みだ。

「お前,朝練をサボりたい為に俺を利用してるだけだろ!」

「ソンナコトナイデスヨ?」

「どうして棒読みなんだよ……」

「いや,ホントに手がかかる幼なじみさんですね〜。私が起こしてあげなくちゃ,遅刻の常習犯だしぃ。朝食も抜くしぃ。ねぇ,手がかかりますよね?」

「っく……!別に俺はお前の世話にならなくてもなぁ,大丈夫なんだよ!」

「またまた。無理しちゃって。まったく亮君は,私がいないとダメダメだよね」

「そんなんじゃない! って,待てよ!」

「ほらほら,早くしないと,遅刻しちゃうよ」

「ちょっ……待てって!」

 前をゆく香住に追いつくべく,俺は駆けだした。まったく,朝から騒がしいな!

 

                   ●

 

 その人影は,ふと窓の外へと視線を送った。

 眼下では,運送会社の人間が大小様々な荷物を屋敷に運んでいる。

 「彼女」は,それらを気に留める事はない。「彼女」の視線は,遙か先を見ている。

「退屈な事案だと思ったけど……案外,楽しめそうね」

 「彼女」は呟くと,口の端を笑いにゆがめた。

「また何か企んでいるの」

 背後で声が聞こえた。「彼女」は声の主へと体を向ける。

 そこには少女が立っていた。身長は160センチほど。巻き毛が特徴的な,金髪碧眼の美少女である。胸元に,何か動物の縫いぐるみを抱えているのが印象的だった。

 西洋アンティーク人形のような少女は,表情を崩す事なく,「何を企んでるの」ともう1度言った。

 「彼女」は笑みをますます深くしつつ,

「そんな事はないよ,マイ。私はただ自分の役割を果たしているだけに過ぎないのだから」

 と,腕を広げながら大仰に言ってみせた。そのオーバーアクションを見ても尚,マイと呼ばれた少女は表情を崩さない。

「嘘ばっかり。貴方はいつもそう。周りの何もかもを巻き込んで。ただ貴方が楽しければいいんでしょう,ナイ姉さま」

 ナイと呼ばれた「彼女」は,目を弓の形に細める。

「違うよマイ。私は道化師。神々に娯楽を与える道化師さ。なれば神々を退屈させない事こそが,私の役目だろう?」

 ―――果たして,楽しんでいるのは誰でしょうね,とマイは口中で呟いた。

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「到着♪」

 弾んだ声と共に,香住は正門前で停止する。

 その後に遅れて俺が到着するワケだが,俺が汗をかいて,息を乱しているというのに,この幼なじみは息一つ乱していない。

「まったく,無茶しやがって。何もこんなに急がなくっても,間に合っただろ!」

「何事も10分前行動が基本だよ」

「何処の軍隊だよ」

 俺たちが正門前で騒いでいると,何処からともなく人影が現れた。

「君たち。仲がいいのは結構だが,ここは正門前だ。こんな所で騒がれると,我が『愛華学園』の風紀の乱れと思われる。速やかに教室へ入りたまえ」

 「風紀委員」と書かれた腕章を着けた,身長160センチ程の女生徒が立っていた。

 制服であるブレザーを隙無く着こなし,背筋をぴんと伸ばした姿は凛々しく見える。

 綺麗な黒髪を肩口の辺りで切りそろえ,切れ長の瞳は意志の強さに溢れている。すっと通った鼻筋と,小振りながらも形のよい唇。十分過ぎる程に美少女の範囲に入る。これで眼鏡をかけているものだから,正に「風紀委員」或いは「委員長」といった感じだ。

 うん。今日からこの人の事は「委員長」と呼ぼう。

 ネクタイの色と,ラインの数から,彼女が6号生だと分かる。つまり俺たちより1つ上の学年だ。

 私立「愛華学園」は,小・中・高校から大学までを一環して教育する方針をもつ巨大学園だ。生徒数は3000名に迫り,敷地はちょっとした町くらいある。「愛華学園」が学園都市と呼ばれる所以だ。

 ちなみに先程でたネクタイの件だが,小等部1年生〜3年生までは青地に白のライン。つまり,青いネクタイに2本のラインがあれば,小等部2年生ということだ。

 小等部4〜6年生は紫色に白地のライン。中等部1号生〜3号生は濃紺に白地のライン,高等部4号生徒〜6号生徒は紫紺に白のライン。俺たちはこの紫紺のネクタイに2本のラインが入った5号生ということだ。ちなみに目の前に仁王立ちしている委員長は紫紺に3本のラインがあるから,高等部6号生徒ということになる。これが大学部になると,1期生〜4期生は赤のネクタイに白のライン,5期生〜6期生は灰色に白のライン,という風になる。

 

「聞こえなかったの?早く行きなさい」

 委員長がぼぅとしている俺を見て,語気を強める。

 強気な人だなぁ,とぼんやりと思っていると,右手を強く引かれた。

「行こっ 亮くん」

「お,おい。待てよ。待てってば!」

 周りの視線にはお構いなく,香住は俺の手を引っ張って小走りに歩く。

 俺は頬が熱くなるのを感じながらも,ただただこの幼なじみに身を任せるよりなかった。

 

                   ●

 

「着いたよ。あれ?どうしたの?」

 俺の教室の前で立ち止まった香住は,肩で息をしている俺を見て不思議そうな顔をした。

「お前なぁ,少しはヒトの目を気にしろよ!」

 俺は乱れた服装を直しながら,香住を睨み付けた。幼なじみは,むっとした表情をしながら,

「ヒトの目ってなに?私,そーいうの嫌いだな!」

 と反撃してきた。いや,だからそう云うのが注目の的になるんだが……。香住はいい意味でよく目立つ存在だ。地味で平穏な学生生活をおくりたい俺としては,こう云う状況はなるべく避けたいのだ。

「いや,だからだな,こういうのはやめようって事なんだが。」特に手を繋いで歩くとか,な。

「どうして?亮くんは私の事,嫌いなの?」

「だから,どうしてそんな話になるんだよ。俺はただ普通に……」

 俺がそこまで話した時だった。背後から暢気な声がした。

「おはよう,二人とも。今日も朝から夫婦喧嘩か?まったく仲の良いことで」

「ふうふぅ?」

 香住が過剰に反応して,声の主にきつい視線を向ける。

 そこには,掌をこちらに向けて顔の高さに挙げて挨拶をしている,天城・義経の姿があった。身長は俺とほぼ同じ,栗色の癖のある髪が特徴的で,容姿は悪くない。どちらかというと美男子の類に入るのだが,女子の受けは良くない。それは後で説明するとして―――

「ななななに言ってんの?! この馬鹿!馬鹿ヨシツネ!」

 幼なじみは耳まで赤くすると,くるりと回れ右をすると,隣の教室へ駆け込んで行った。俺と義経はBクラス。香住はAクラスなのだ。

 義経は首を傾げ,

「なんだ,あれは?」

 と奇妙なものでも見たかのような表情をしている。俺もつられて首を傾げながら,

「さあ?」

 と言った。すると義経は腕を胸元で組みながら,

「3次元は分からんな。やっぱり女の子は2次元に限る」

 と神妙な顔で頷いた。

 義経が美男子で人当たりが良いのにもかかわらず,女子に1線を引かれているのが,この趣向による。

 実在の女子よりも,漫画やアニメの女子が良いと公言して憚らない―――世間一般に云われる”オタク”というやつだからだ。

 しかし,本人はそれを気にする風もなく,どちらかというと誇っているように見える。

「それより早く教室へ入ろうぜ。そろそろ予鈴の時間だ」

 義経の声に我にかえった俺は,そうだな,と相づちを打ちつつ,教室へと入ったのだった。

 

                    ●

 

 席に着くなり,義経は後ろを振り返り,俺に話しかけてきた。

 俺の席の配置が義経の真後ろにある為だ。

「昨日の『粛清天使・スター☆リン』見たか?」

「ああ。なかなか面白かったな」

 俺と義経とは,小等部からのつき合いだ。おかげでこいつの趣味に感化されて,俺も多少はこの手の話につきあう事が出来た。

 ちなみに「粛清天使・スター☆リン」とは,深夜2時枠でやっている,変身魔法少女もののアニメのことだ。

 12・3歳に見える美少女が大きな赤いハンマーのようなモノを振りかざし,迫る敵を「粛清!」と叫びながら撲殺する,とても小さなお子様にはお見せできないような内容だ。一部では絶大な人気を誇り,相棒の巨乳美人秘書ベリヤと共にフィギュア化がされているという。

 先日,入店するのも躊躇うような華美な装飾を施された店で,その人形を買う義経につき合わされた。

 扇情的なポーズをとる人形を吟味する義経の傍らで,所在なさげに立っているのは恥ずかしいの一言に尽きる。「この微妙な胸の膨らみが!」とか「この脚線美が!」とかいちいち口に出すなよ。結局義経が買った人形は,下着も露わな,「15歳未満は購入禁止」と札の着いたスター☆リンだった。ご丁寧に手に持つアイテムのハンマーのようなモノには,血糊のような塗装が施されていた。

 

「いやぁ,昨日の回はなんといっても作画が神だったなぁ。宿敵・とるーマンを倒したとこなんか,もう少しで下着がこう!こう!」

 言いながら下から何かをのぞき込むような格好をする義経を無視することにした。

「あの,見えそうで見えないところが,あの絶妙な角度がいいんだなぁ」

 お前は幼女のパンツを見てナニが嬉しいんだ? 引き続き無視を継続する俺。

「昨日が12回だから,来週が最終回かぁ。第2期とか作ってくれないかな」

 俺が適当に相づちを打っていると,教室の扉が引かれて,長身の男をはき出した。

「ホームルームの時間だぞ,みんな席に着け」

 外見を裏切らない渋い声が,教室に響き渡った。

 

 現れたのは,5−B担任の荒巻先生だ。身長は170センチ程。よく鍛えているのか,贅肉のない体はがっしりとしており,年齢は40代半ばに見える。実際は50代を超えているという噂があるが,それを確かめた者はいない。黒髪の中に白いものが混じり,それが銀色のように見える。ロマンスグレーという言葉が,これほど似合う人は,そうはいないだろう。

 荒巻先生が人気のある理由の一つに,その声がある。声優のような美声なのだ。

 それはまるで,最強の戦闘民族に倒された最強の人造人間のような。ブリなんとかという架空の国で,巻き毛が特徴的で目からの光信号によって相手の記憶を書き換える能力をもつ皇帝のような。

 もし彼が声優という仕事を選んでいたとしたら,どんな雑魚キャラも最強ボスキャラになってしまうというパラドックスを引き起こしていただろう。

 荒巻先生は現国を教えている。あの声で,文章を朗読された日には,女生徒は感激に瞳をうるわせ,男子生徒は思わず「オールハイルブ○タ○ア」と敬礼をしてしまうだろう。………言い過ぎか。こんな事を考えてしまうのも,全て義経の影響のせいだ。そうだ。義経が悪い。

 

                    ●

 

 1時間目,2時間目……と授業が進んでいく。

 なんとも退屈な時間だ。別に勉強が嫌いなわけではないが,この,時間を拘束されるというのが気にくわないのだ。

 ……いかん。教師の声が念仏に聞こえてきた。何か気を紛らわせないと,眠ってしまいそうだ。

 俺は軽く頭を振り,教師に気づかれないように小さく欠伸をする。ふと,窓の外の景色が目に入ってきた。

 俺の席は,窓に近い列にあり,ちょっと顔を向けると,グラウンドの様子を見る事ができた。

 それは陸上競技用の第1グラウンドだった。今は体育の時間なのだろう。数人の女子が二人一組でストレッチを行っていた。

「…………」

 ブルマだよなぁ。 俺は小さなため息をついた。

 何もかも設備の整っていて,制服のデザインも悪くなく,教師の評判のよいこの学園で唯一,女子から嫌われているのが,このブルマだった。

 下着がはみ出しやすいとか,脚の露出が多いとか,デザインが古くさいとか色々言われているが,そもそもブルマを発明したのは,女性だって事を知っているのか?

 ブルマーは19世紀にアメリカ合衆国の女性解放運動家アメリア・ジェンクス・ブルーマーが発案したとされる。

 ブルマーは、コルセットで腹を締めるような当時の下着に反発した女性解放運動家によって、自由度が高くゆとりのある下着として考案された。これは旧弊な拘束型衣服からの女性衣服の転換という革新的なものであったのだ。後にこれが運動着として使えるようなものに改良された。当時は女性用の適当な運動着はなく、この発明は極めて画期的なものであったという。

 以上,蘊蓄終わり。

 つまり,何が言いたかったかというと……ブルマとは,歴史あるものであり,けっしていかがわしい目で見ていいもんじゃない,って事だ。故に着用を恥ずかしがる必要はないのである!!

 ………まぁ,これも義経の受け売りだけどな。俺自身としては,別にブルマに興味があるわけじゃない。ほ,ホントだぞ?!

 あまり見ていると,先生に注意されそうだ。以前,義経が外ばかり見ていて先生に注意され,クラス中の笑い者になった。あんな目にあうのはごめんだ。

 

                   ●

 

 授業終了のチャイムが鳴り,昼休みとなった。

 俺が学食でうどんでも食べようか……と席を立とうとしたとき,聞き慣れた声が響いてきた。

「おーい,亮くん,お弁当一緒に食べよう!」

 クラス中に響き渡る声で言われた俺は,数秒,立ち上がりかけた姿勢で固まってしまった。

 なにしろ学園内では十指に入る美少女に声をかけられたのだ。女子達の好奇の目と,男共の嫉妬の視線が痛い。

 俺は早足で香住のいるドアへと行くと,彼女の右腕を掴み,無言で歩き始めた。

「あっ ちょっと,ちょっと亮くん?あの,何処へ?」

 女子達のクスクス笑いを背に,俺は,このはた迷惑な幼なじみを人目の着かない場所へと連れて行くことにした。

 

「いい天気だねー」

 抜けるような青空の下,香住は空を仰ぎ見て言った。

 ここは屋上の一角。暦的には春なのだが,まだこの時期は肌寒い。こんな場所に好きこのんで来る輩は少ないらしく,人影もまばらだ。

「亮くん,痛い」

 香住の声に我にかえった俺は,慌ててその手を離した。

「もぅ,亮くんったら積極的」

 頬を薄紅色に染めながら,語尾にハートマークが付きそうな声をだしつつ,身をくねくねする幼なじみ。

「気色悪いから,やめろ」

 俺は手をチョップの形にすると,垂直に香住の脳天に食らわせた。

「い,痛いよ亮くん。なにをするだー」

「やかましい,この迷惑娘」

 目尻に涙を浮かべた幼なじみに,俺はそっけなく言った。端から見ると,俺が彼女を虐めているようだ。冗談じゃない。俺の平穏な学園生活を脅かしているのは,こ・い・つ! なのだ。

「もしかして……怒ってる?」

「当たり前だ。小学生じゃあるまいし,食事は自分でとれるっつーの」

「ええー。だって,亮くんに任せたら,うどんとかラーメンとかしか食べないでしょ。それって健康によくないよ。その点,私のお弁当は栄養満点!愛も詰まっているしね!」

 栄養はともかく,アイってのはなんだ。新種の魚か?

「とにかく,お前はただでさえ目立つんだ。俺の平穏な学園生活を乱すのはやめてくれ」

「なーんだ。やっぱり照れてるんだ」

「誰も照れてねぇ!」

 まぁまぁと笑顔で言いつつ,香住は器用に弁当を広げてゆく。

 栄養もそうだが,見た目にも気を配っているらしく,食欲をそそる。その辺のコンビニで売っている弁当なんて,この手作り弁当を見ただけで食えなくなりそうだった。

「いただきます」

 俺と香住はそう言うと,弁当に手をつけた。

 ………くやしいが,こいつの料理は旨い。認めたくはないが,これは認めざるを得ないだろう。義経あたりなら,涙を流して食べ尽くしそうだ。いや,あいつは現実の女には興味なかったか。不憫なやつめ。

 

 料理の旨さに予想以上に箸が進み,いつの間にか弁当は空になっていた。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 俺たちは同時に頭を下げる。

 香住は持参した水筒から茶色の液体をコップに注ぐ。茶葉の芳ばしい香りが漂ってきた。

「どうぞ」

「ん。ありがと」

 俺はそのコップを受け取ると,口の中に流し込む。程よい温かさのお茶が口中に広がり,食後の口を潤してくれる。

「いいお茶だな」

「ん。分かる?」

「なんとなくだけどな。いつも飲んでるお茶とちょっと変わってる。味が濃いというか,香りがあるというか。よく分かんねえけど」

 香住は目を弓のようにして,

「前にね,お母さん達が旅行に行った時に買ってきたんだって。その地の名産だって」

「へえ。お茶ってのも,色々あるもんだな」

 考えてみればそうだろう。今時の自動販売機だって,数種類のお茶を扱っている。地元名産品が旨いってのは当たり前なのかもしれない。

 

「亮くんってさ,何か心配事でもある?」

 横になって空を見上げていた俺に,香住が話しかけてきた。

「別に,そんな事はないよ」

 俺は答える。このところ毎日見る夢の事は気になるが,あれは夢だ。

「だったら,いいんだけど」

 俺の傍らに腰を下ろし,右手で俺の頭に触れる。額にあたったひんやりとした手が心地よかった。

 両親が不在がちの俺にとって,こいつは母親代わりになろうと必死なのかもしれない。俺に構うのも,そういう義務感からかもしれない。だが,それでも俺は―――

 

 その時,昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。

 俺と香住は我にかえって,体を起こした。さっきまでの所作は,まるで恋人のようだった。

 二人とも顔に熱を感じながら,「昼休み,終わっちまうぞ。はやく片づけろよ」俺は顔を背けながら言った。「うん」消え入りそうな声で答えながら,香住も弁当を片づけ始める。

「弁当な,    ありがとな」

 俺はそう言うのがやっとだったが,香住は嬉しそうに微笑んだ。

-3ページ-

 本日の授業終了の放送が流れている。

 本来は放送部の誰かが言うのだろうが,いつの間にか,顧問の荒巻先生が喋っていた。

 何故だか,この先生が言うと,終わりどころか始まりのように感じてしまう。変に気合いが入ってしまうのだが,それがまた評判らしい。

 俺が鞄に手をかけようとした時,義経の声が聞こえてきた。

「おい,亮。部活に行こうぜ」

 

 俺たちの部室は,旧校舎の端にあった。以前はただの物置だったのだが,今の部長が「部室が欲しい!」と生徒会へと掛け合った結果,この場所があてがわれたらしい。

 そんな経緯であるからして,まともな部活であるはずもなく,その名も「第2新聞部」という。

 何故”第2”なのかというと,既に新聞部があったからである。

 ”由緒正しい”新聞部は,学園創設時からあり,学園内の出来事を報せてくれる,情報媒体として存在している。この新聞部がきっかけとなって解決した事案もあるとかで,学園でも影響力がある。ここの卒業生の何割かは報道関係へと就職しているようだ。

 で,我らが「第2新聞部」であるが―――はっきり言って,何もしていない。学園内のゴシップを書いたりとか,学園内の心霊現象特集など,はっきりいて胡散臭いことこの上ない。

 部員は俺を含めても4人しかいない。学園の規定では,10名以下の場合は同好会の扱いとなり,専用の部室など宛われることはないのだが―――

「お疲れさまです」

「乙でつ」

 俺と義経がそれぞれ挨拶をしながら部室に入ると,

「おっそーい!二人とも。今まで何してた?ナニか?男同士でナニをしていたんだな。この節操なし」

 部屋の最奥,たった一つの窓を背に椅子に座っていた部長が立ち上がり,片足を机の上に上げ,こちらに身を乗り出すようにして叫んでいた。

 あの,部長。見えてます。下着が。

 そんな俺の注意も意に介さず,部長は言葉を続ける「男二人でアレか?どっちが攻めでどっちが受けか白状しなさい。いや,この場合,天城君が受けの方が私的にストライク!」

「何ですか,その受けとか攻めとかって……ちょっと遅れたのは謝りますが,どうせ何もすることはないでしょう,部長」

「俺は男に興味は無いですよ。それに,こいつには――そう言いながら義経は俺の脇腹を右肘で突きながら――香住ちゃんがいますから」

「Nooーー! そうだった。玖澄,お前は巨乳の幼なじみがいたんだったな。そんなに巨乳がいいんだな。このおっぱい星人が!」

 なんか変なテンションの部長を無視して,俺は席に着くと大きくため息をつく。

 やたらと怪しい言葉を連呼する,一つ年上の女生徒,この第2新聞部の部長である 美作・恵理 は,黙っていれば学園でも十指に入る美人だと思う。しかし,その言動から,ちょっと変わった人物だと思われているようだ。もっとも,いつも一緒に居る俺からすれば,十分変人の域に入る。部が同じでなければ,正直一緒に居たくない人物だ。

 義経と部長は,まだ何やら会話をしているようだが,ふと視線を前に戻すと,対面に座る男子生徒が視界に入る。

 彼の名前は山田・一郎。俺と同級生だ。クラスは5−Cだったはずだ。はずだ,というのは実際に彼と話す機会が少ないからだ。彼は部の活動時間中,卓上のノートパソコンを操作しているのだ。それは,新聞の記事を書くのでもなく,何をしているのかと言えば,インターネットをやっていたり,ネット対戦ゲームをやっていたり,挙げ句の果てには18歳未満はやっちゃいけません!みたいなゲームを,ヘッドホンも着けずにやってたりする。おかげで,小さいお子様にはちょっと聞かせられない台詞なんかも,だだ漏れだ。こいつ,周りに人がいるのに,こんなゲームをやっていて恥ずかしくないのか?……いや,それ以前になんでこの部にいるんだろう。別に,この愛華学園は全員部活動に参加する必要はないのだが……。

「こら,玖澄,無視するんじゃない!それに山田,あんたもパソコンばかり弄ってないで,少しは私の為にお茶でも煎れたら?」

 すると,山田はキーボードを叩いていた手をとめ,部長の方へ顔を向け,右手の中指でずれたメガネを上げる。

「部長,僕の事は”ジェバンニ”と呼んで下さい。それに僕はお茶くみではありません。お茶が飲みたかったら,どうぞそこのペットボトルのお茶を飲んで下さい」

「なに?山田のくせに生意気ね」そう言うと,部長は急に邪悪な笑みを浮かべ,

「な〜にが”ジェバンニ”よ。あんたは山田で十分でしょ。それにみんな知ってる?こいつ,末っ子なのに名前は一郎って言うのよ。3人兄弟の内,長男が三郎,次男が次郎,三男が一郎って,なに?カウントダウン?あんたの親のネーミングセンスを疑うわね」

 勝ち誇ったように言う部長に対して,臆した風もなく,山田は

「正確には妹が一人いますので,4人兄妹です」

「まさか山田花子なんてベタな名前じゃないでしょうね?」

「よくご存じで。部長は妹と面識があるのですか。この学園の生徒ではないのですが」

「ばっかねぇ,そんな事あるわけないでしょ。それにしても本当に”花子”だなんて,あんたの家,もう少し名前に気を遣いなさいよ。いじめるわよ?私みたいに」

 多分に問題を含んだ発言をする部長に対し,山田は無視で応えた。その手の話には慣れてしまっているのか,興味がないのか分からないが。

 部長も,それで,この名前に関する話を切り上げた。こっちは完全に興味を失ったらしい。

 手元にあったペットボトルを掴むと,一気に口内に流し込む。

「ほんっと,まずいお茶よね。誰が買ってきたのよ」

 この第2新聞部の部員は4名。今来た俺と義経を除けば,部長と山田の二人。山田が買ったのでなければ自分だろうに。まったくこの人はマイペースというか,自分勝手というか…… 呆然と事の成り行きを見ていた俺たち二人に,部長が視線を向けた。

 俺は嫌な予感に襲われた。この部長の事だ。何を言い出すか―――

「ところで玖澄?あんた何かネタをもってきたんでしょうね」

「ね,ネタ,ですか………?」

「そうよ。ネタ。A組の三島とB組の木村がいい仲だとか。C組の花田が夜毎悪魔に生け贄を捧げているとか」

「三島と木村って誰ですか?それに生け贄ってなんなんですか」

 部長は椅子にふんぞり返り,腕を組む。ただでさえ豊満な胸が更に強調される。

「なんでもいいのよ。とにかく,面白い話はないの?」

「そうそう面白いことなんて無いですよ,部長」

 義経が躊躇いがちに言った。

「だったら,あんたらが裸になって校内一周してみたら?面白い反応が見れると思うけど。楽しいわね?主に私が」

「ぜんぜん楽しくないし,そんな事したら退学になっちゃいます!」

「なによ,ほんっとに面白くない奴らね,あなた達」

 俺と義経が互いに顔を見て,肩を落とした時,聞き慣れない音が響いた。

 

                   ●

 

 その音は部室のドアを叩くノックの音だった。

 この第2新聞部を訪ねてくる人など,滅多にいない。少なくとも,俺は知らない。

「どうぞ」

 普段はぞんざいな部長も,この時ばかりはその美声を響かせた。

「失礼します」

 稟とした声と共に,引き戸が引かれた。

 そこには,身長165センチ程度の少女が立っていた。

 俺はしばし言葉を失った。あの2次元にしか興味のない義経でさえ,息を呑む。部長は,いつもの不敵な笑みを浮かべている。まぁ,この人は誰に対してもこんな態度なわけだが。しかし,この時ばかりは,この自分中心に世界が回っていると信じて疑わない部長を羨ましいと思った。

「入りたまえよ,お客人。歓迎するよ」

 部長の傲岸な態度に臆する事なく,その訪問者は部室へと踏み込んできた。

「初めまして。私は緋邑・真由美といいます」

 鈴の鳴るような,というのはこういう声の事を言うのかもしれない。容貌も,それを裏切らない。体型に比べてやや小振りの顔の造形は,理想を具現化したようだ。天才画家が,細心の注意をはらって引いたような,柳眉。ややつり目ながらも,理知的な光をたたえる瞳は,濃い青である。純粋な日本人ではないのは,その高く整った鼻筋や,黒光りする金髪でも窺い知ることが出来た。腰の辺りまでストレートに伸ばされた髪は,夕日に当たって,金色に輝いて見える。すらりと伸びた手足は,並のモデル以上に彼女をスリムに見せるが,胸や腰といった,女性を象徴する部分は十分すぎる程に発育している。

 ただ一点,彼女に違和感を与えているものがあるとすれば,左目のある場所にある眼帯だ。

 この眼帯は,ただの布製ではなく,よく見れば細かな意匠が施されており,一種のアクセサリーのように感じられる。

 本来ならば,容貌を隠すものであるにもかかわらず,それはかえって彼女の美貌を際だたせていた。

 

「で,ご用件は何ですかな?」

 美貌では引けを取らない部長が,値踏みをするように緋邑・真由美を見る。

 よくよく見れば,ネクタイの線が俺より1本多い。先輩ということか。

 緋邑先輩は,瞳を所在なさげに泳がせたあと,意を決したかのように口を開いた。

「噂に聞きました。この第2新聞部が―――不可解な出来事でも調査する部活だと」

 

                    ●

 

 緋邑先輩の話は要約すると,こうだ。

 先輩の父親が先周亡くなったそうだ。その死は首つり自殺として処理されたという。

 

 そこまで聞いた時,俺の脳裏にその光景が浮かび上がった。

 ノイズ混じりの映像に,天井から吊り下がった人影と,それを見上げる少女――緋邑先輩の驚愕に歪む顔。

―――まただ。見てもいないのに,まるで見ているかのような―――既知感。

 頭の後ろに心臓が移動したかのような,強烈なうずきに襲われる。多少の吐き気に襲われ,俺は目を瞑る。

 だが,その「光景」は未だに俺の脳裏に浮かぶ。

 緋邑先輩が,何者かに襲われている光景。―――ここは公園か?それにあれは何だ?翼の生えた巨大な生物が緋邑先輩に迫る―――

 

「―――くん」

「く……みくん」

「玖澄くん!」

 部長の声に,おれは「現実」に引き戻された。

「あ・・・は,はい?」

 俺は自分の声が裏返っているのを感じつつ返事をした。そんな俺を見て,部長は大きくため息をついた。

「もう,あんた何ぼーっとしてるのよ?彼女の話を聞いてたの?久しぶりの仕事なのよ,気合い入れなさい,気合い!」

 部長は既にやる気満々だ。ちらりと義経の方を見てみると,興味津々といった顔をしている。山田は……相変わらずパソコンと格闘中だ。

 そんな中にあって,緋邑先輩は真剣な視線を俺たちに向けている。

 俺は先程「見た」映像を思い出しつつ,探りをいれてみる。俺の見たものが,「現実」となるのなら,これは慎重に事を進める必要があると感じたのだ。

 まだ頭の奥がずきずきと痛むなか,俺は緋邑先輩に質問を投げかける。

「あの……緋邑先輩,先輩のお父さんは,自殺したんですよね」

 先輩の青色の瞳が,幾分冷たさを増したように見えた。

「”自殺したことになっている”と言ったはずですが」

「つまり,警察は自殺と処理しているという事ですよね」

「ええ」

「しかし緋邑先輩は自殺ではないと思っている。その根拠は何ですか?」

 緋邑先輩は,しばし口を閉ざした。言うか,言うまいか迷っているように見えた。

「緋邑先輩がそう思われるなら,その理由を警察へ話し,この件は警察に任せるべきではないですか?僕たちはただの学生です。何かの役にたつとは思えませんが」

「何度も言ったわよ!でも誰も取り合ってくれない。みんな”状況が自殺を示している”とだけ言って相手にしてくれない。だからここに来たのよ。他に――他に頼れそうな所がなかったから」

 緋邑先輩は,吐き捨てるようにそう言った後,目元を拭った。

「私は面白そうだからこの依頼を受けるつもりだけど,玖澄,あんた何か気に入らない事でもあるの?」

 面白そうだから―――というところに部長の性格が現れているが,俺は先程”見た”映像が気になっている。この案件は,”面白そう”という安易な理由で首を突っ込んでいいものじゃないような気がするのだ。

「では教えて下さい。緋邑先輩が自殺ではないと思う根拠を」

 緋邑先輩は,じっとこちらを見ている。

「父が亡くなったのは1週間前。朝食の時間になっても部屋から出てこない父を,私が部屋まで呼びに行った。でも,何度呼んでも返事がないの。不審に思った私は,部屋の中へ入ったの。そうしたら―――」

 緋邑先輩が自分の体を抱きかかえるようにした。

「お父様が亡くなられていた,と」

 俺の言葉に緋邑先輩は頷いた。

「首つり,だったわ」

「警察がそれを自殺と判断した理由は?」

「部屋の窓の鍵がかかっていた事,人が出入りできる扉の鍵が全て閉まっていたこと。争った形跡もなく,家族も殺す動機がないこと等,総合して判断したみたい」

「遺書,とかは」

「無かった。私が父の死を自殺ではないと思う根拠の一つよ」

「自殺には,必ずしも遺書があるとは思えませんが」

「父は死の直前,何かに怯えていました。自分は殺されるかもしれない,と話してくれました。お前も気をつけなさいって,言ってました」

「その事は警察に?」

「全て話しました。でも,あの人達は,追いつめられた人間が,よく口にする台詞だといって取り合ってくれませんでした」

 俺はそこで質問を切り上げた。何かが気になる。何が,とは言えないがあの”映像”が気になっているのかもしれない。

「……では,最後に一つだけ。緋邑先輩のお父さんは先輩にも危険が訪れると言っておられたみたいですが,何か兆候はありますか」

 緋邑先輩は首を横に振った。今のところ,彼女に危険はないという事だろう。

「玖澄,あんた何勝手にしきってんのよ。あんたは,この依頼を断るつもりなの?」

 部長が不機嫌を隠さず言った。まるで目の前の玩具を取り上げられた子供のようだ。

「いえ。この依頼,受けましょう」

 出来れば俺一人の方がいいかもしれない――先程見た映像を思い浮かべながら,俺は言った。

「まぁ,当然よね。緋邑さん,その依頼,この第2新聞部が受けたわよ!」

 片足を勢いよく机の上にあげ,身を乗り出しながら部長は宣言した。いや,だから部長ぱんつ見えてます。

 緋邑先輩は,部長のテンションの高さに,しばし呆然としていた――大抵の人間はそういう状態になる――が,深く頭を下げ,「ありがとうございます」と言った。

「じゃぁ,さっそく今日にでも,と言いたいところだけれど,もう時間も遅いし,明日からでいいかしら?」

 部長はみんなにパンツを見せながら,そう締めくくる。―――誰か注意しろ。それと義経,ケータイのカメラで写真を撮るんじゃない。お前は3次元には興味ないんじゃなかったか? 山田は―――相変わらずだな。

「分かりました。それでは,明日学校が終わったら,正門で待ち合わせませんか。家まで皆さんを案内します」

「いい提案ね。みんな,それでいいわね?」

 第2新聞部の部員全員が同意を示した。

-4ページ-

 帰宅は一人だった。

 香住は部活中で,まだ終了時間まで間があった為,一人で帰ることにしたのだ。

 別にその事自体は珍しい事ではない。第2新聞部の部活時間は長くても1時間だ。一体,何の為の部活なんだか今更ながら疑問に思うが,そういう部活も一つくらいあった方が,バランスがとれていいのかもしれない。

 

 帰りの道中,俺は考え事をしていた。

 それは例の緋邑先輩の件だった。あの時かいま見た映像は何だったのか,と。

 俺は昔から,よくあの手の映像を”見る”ことがあった。それは大抵過去の出来事を,まるでビデオでも観るかのように俺の脳内で再生される。

 それだけなら,まだいい。問題は”これから起こること”を”見て”しまうこともあるという事実だ。まるで予知能力のようなそれは,しばしば不吉な未来を予見する。

 子供の頃は,よくその事を口にしていた。

 例えば,「この家のおじいさん,もうすぐ死んじゃうよ」とか「あの子は自動車にはねられるよ」等である。

 最初は周りの人間は信じようとしなかったが,それが次々に的中してしまうものだから,いつしか奇異の目で見られるようになった。

 友達の親が,俺に近づくなと言う場面を”見た”時から,俺はこの奇妙な能力を口に出すことをやめた。

 これが,俺の瞳の色に次ぐもう一つの秘密だ。

 未来の事が分かるから良い能力だと思うかもしれないが,悪い事が分かったからといって,その未来を変える事が出来ない点では,とても残酷な能力だと思う。そんな未来なら,知らないほうが幸せというものだろう。

 だから,あの時見た緋邑先輩の映像が気になっていた。何者かに襲われる先輩。そして奇妙な生物の影。何か尋常ならざるものが,緋邑先輩に降りかかってくるかもしれないのだ。

 目を逸らしてしまえば楽かもしれない。”知らなかったこと”にしてしまえばよかったかもしれない。今まではそうしてきた。だが今回は―――今回はそんな未来を覆してみたいと強く思った。もしも神というものが存在し,全ての事象を決めているのだとしても,俺はそれを否定する。

 神が”YES”と言ったとしても,俺は”NO”と言ってみせる。俺たちの未来は,俺たちが決める。

―――今度こそ。

 俺は決意を新たにした。

 

―――だから,声をかけられるまで,”それ”に気が付かなかった。

 

                   ●

 

「こんにちわ,かな。この時間帯ではちょっと遅い気もするけれど」

 俺はいつの間にか家の前まで来ていたらしい。考え事をしていて気が付かなかった。危ない危ない。ぼーっとしていて車にでも轢かれたら大変だ。

―――ではなく。今は目の前の人物に注意を向けるべきだろう。

 褐色の肌が特徴の,美女だった。

 艶のある黒髪は,腰の辺りまでストレートに伸ばされ,暮れ始めた夕日を浴びて,どこか幻想的な美しさがある。

 身長は俺より高い。おそらく180センチはあるだろうか。

 異国の匂いを感じさせる容貌だ。額に赤い色をした宝石のようなものが張り付いている。インドか,その周辺の国の人だろうか。

 俺の知り合いにこんな美人はいない。少なくとも,外国人に知人はいないはずだ。そんな人が,何故俺に話しかけてくるのだろうか―――と首を傾げて,ふと今朝の光景を思い出した。

 俺の家の前にある豪邸へ誰かが引っ越して来たのではなかったか?

「あれ?通じなかったかな。日本語,これであってますか?」

 その美女が,困惑気味な表情で首を傾げた。

「あ,いえ,通じてます。日本語上手ですね」

 俺は焦って,返答した。

「ええ。日本には仕事で何度か来たことがありますので―――今度,こちらの家に越してきました」

「ああ。僕はこっちの家に住人で,玖澄・亮といいます。初めまして」

 美女はにこりと微笑むと,右手を出してきた。

「クズミリョウ。不思議な響きの名前ですね。私はナイといいます。よろしくお願いします」

「ない?」

 今度は俺が首を傾げた。「ない」とはどういうことだろうか。

 俺の怪訝な表情を見て,察したのだろうか,彼女はくすくすと笑いながら説明を始めてくれた。

「”ナッシング”の無い,ではなく,ナイという名前なんですよ。N・Y・Aと書きます」

「変わった名前ですね」

「変わってます」

 彼女は胸を張った。いや,胸を張るような事じゃないと思うけど……というか大きいな。うちの部長も大きいけど,これには勝てないな。いや,なにが大きいかというと,つまり,あれだ。今更言うことじゃないだろう。

「リョウ。ここで会ったのも神の思し召しでしょう。まだ片づけが済んでいませんが,私の家に来ませんか?お茶と,日本ではなかなか手に入らないお菓子をご馳走できます」

「え,いえ,いいですよ。わざわざそんな事をしてもらわなくても」

 俺は慌てて,その申し出を断った。これから隣人になるといっても,女性の家に男が入り込むのは問題があるだろう。俺も年頃の男だし?確かに身長は俺の方が低いが,男の力に女の人が敵わないだろう。それは危険だ。特に俺の理性が。

 すると,ナイは残念そうに肩を落とした。それは,見ているこちらが思わず手を貸してしまおうかと思ってしまうほどに。

「残念です。折角いい人と出会えたというのに。その,綺麗な瞳についてもお話がしたかったのに」

―――なに?!

 俺はとっさに目元に手をやった。カラーコンタクトが外れているかと思ったのだ。少なくとも,初対面のこの女性が俺の瞳の事を知っているはずはないのだ。

「そんな綺麗な瞳を隠すなんて,もったいない」

「なぜ,それを知ってるんだ」

 ナイは笑みを崩さない。

「勿論,知っていますよ。ずっと以前から,ね」

 俺の背筋に寒気が走った。この女性は何者か?この笑みは仮面だ―――と,直感で悟ってしまった。これは,彼女の本来の姿ではない。本性はもっと別な―――

「ふふ。怖い顔。別に君をとって食べようなんていっているわけじゃないんだ。ただ,お近づきの印にお茶でもいかが?と誘っているだけだよ」

 急に語調が変わった。これが,彼女本来の姿なのだろう。

「では,お邪魔させていただきます」

 俺がそう言うと,彼女は腰を折り,右手を門扉へと向け,俺を誘う仕草をした。

「ようこそ我が家へ」

 

                   ●

 

 この敷地に入るのは何年ぶりだろうか。

 俺と香住の家2軒分は合わせた敷地のはずだが,実際はもっと大きく感じる。奥行きが思った以上にあるのか,屋敷が小さく見える。

 実際,門から屋敷の前までゆうに3分は歩いただろうか。この住宅街に,こんな大きな敷地があったとは,少し驚きである。

 屋敷の裏側は,針葉樹の森があり,その奥を伺い知る事ができない。

 おかしな感覚だった。まるで,この場所だけ住宅街から切り離されたような―――別の次元に迷い込んだような錯覚を憶えたのだ。

「そんなに珍しいかな?確かに大きい物件だったが,それほど驚く程ではないだろう?」

 ナイが口の端を僅かにつり上げながら,俺に問い掛けた。

「あ,え,ええ。そうですね」

 俺はそう答えるのがやっとだった。この女性の纏う空気に圧倒されていた。彼女は,見た目通りの存在ではない。――そう,直感が告げていた。

「さあ着いた。遠慮せずに,お入り」

 ナイの指し示す屋敷は圧巻だった。3階建てはあろうかという高さと,俺の家の倍以上はある横幅。映画に出てくる西洋の屋敷のような造形。

 真っ白に塗られた外壁に,漆黒の屋根が印象的だった。

 ナイに促されるままに屋敷の中に入った。そこは玄関ではなく,大きなホールとなっていた。ホールは吹き抜けとなっており,向かって右側に2階へ行く階段があった。ホールの照明には豪奢なシャンデリアが用いられていた。

「越してきたばかりで散らかっているけれど,いいかな」

「ええ。かまいませんよ」

 俺は,その屋敷の威容に圧倒されつつ,そう答えた。その時だった。

「だれ?」

 小さいが,よく通る美声が上から聞こえてきた。

 俺は声の主を捜して視線を上にあげ,2階へと続く階段の中程に立つ人影を見つけた。

 白いブラウスを着た,金髪碧眼の少女が立っていた。身長は160センチ前後だろうか。ただすらりと伸びた手足の為か,見た目以上にスリムに見える。モデル体型とでも言うのだろうか。

 シャンデリアの光を受けて艶やかに輝く金髪は,腰の辺りまで伸ばされ,緩やかなカールがかかっている。

 筋の通った高い鼻,小さい口と鮮やかな桜色の唇。柳葉のように引かれた眉と,涼やかな瞳。

 可憐といった言葉がこれほど似合う少女に会ったことがない。

 同じような印象を受ける女性として,緋邑先輩がいるが,この少女の方が存在感がある。

 もう一つ印象的なのは,彼女が胸元に抱えているモノだ。犬にしては口や耳が大きいが,狼と言われると,ちょっとちがうような生物を模したぬいぐるみだ。そんなぬいぐるみを持ち歩く年代でもないだろうに。趣味にするならば,もう少し可愛い系のぬいぐるみにすればいいのに。

 

「お客さまだよ,マイ。ああ,君――玖澄君といったかな。紹介しよう。従妹のマイだ」

「お邪魔します。玖澄・亮といいます。マイさん」

 俺が頭を下げても,マイと呼ばれた少女は,頷きもしない。ただじっと俺を見つめているだけだ。

「あなた,なに?」

 唐突な問いに対し,俺は返答に困った。言葉に詰まっている俺を無視し,更に彼女は続ける。

「その瞳の色はなに?あなたは何者?それではまるで―――」

 まただ。また目の色について見破られた。カラーコンタクトをしているというのに,何故この人たちは分かってしまうんだ?

「マイ。お客さまだよ。こんな所では失礼だろう。  君,悪かったね。応接室はこちらだ」

 話を強引に終わらせて,ナイさんは俺を別の部屋に連れていこうとする。マイはどこか不機嫌そうに黙り込んでしまった。

 

                    ●

 

 応接室とよばれた部屋は,この屋敷の外見から受ける印象を裏切らなかった。

 俺の家のリビングとキッチンを足した程の広さがあり,部屋の1画は大きく切り開かれ窓となり,部屋の採光に十分だった。長辺3メートル,短辺1メートルはあるガラス張りのテーブルを挟んで,皮製のソファが置いてある。

 足首まで埋まりそうな絨毯が敷き詰められてあり,それがより一層高級感を醸し出している。

 俺は誘われるがままに,そのソファに座った。壁に掛けられている古風な時計が午後5時を報せた。

「少し待っていてくれたまえ。紅茶でも煎れてくるから」

 ナイさんはそう言うと,応接室を出て行った。あとに残されたのは,俺と,マイと呼ばれた少女の二人。

 マイは扉の前に立って,じっとこちらを見つめている。観察されているようで,落ち着かない。

「あなたはどうして―――」

 少女が口を開いた。

「え?」

 あまりに唐突だったため,俺は思わず聞き返していた。

「あなたはどうして,それを隠すの?」

 胸元のぬいぐるみを抱きしめながら,少女が問う。

「それって……この,瞳のこと?」

 俺の答えに,マイは小さく頷いた。

「ええっとぉ……」俺は頭の後ろを掻きながら,「変だろう?瞳の色が見る角度によって違うなんて,普通じゃない」

 マイは首を傾げ, 変? と小さく呟いた。

「何が変なの?……それは印なのに。喜ぶべきなのよ。だって,あなたは―――」

 マイがそこまで言いかけた時,ナイさんがお盆を片手に現れた。

「マイ。性急に過ぎるな。玖澄君,悪かったな。今の話は忘れてくれたまえ」

「ナイ姉様?」

 マイは怪訝な顔でナイさんを見る。

「まだ時期ではない,と言っているんだよ」

 ナイさんは笑顔でそう言うと,優雅な仕草で俺の前にティーカップを置いた。

 俺は,二人の会話に付いていけず,ただ呆然と目の前のティーカップを眺めていた。

 素人目にみても逸品と分かるティーカップには,琥珀色の液体が注がれていた。ハッカのようなハーブ系の香りが立ち上っている。

「流石にお酒で乾杯,という訳にはいかないだろうから……紅茶で祝杯といこうか。この出会いが良きものになるように」

 ナイさんはそう言って,ティーカップを手にとった。ドアの側に立っていたマイもいつの間にか席に着いており,同じようにティーカップを手に取る。

 俺も慌ててカップを手にとると,

「良き出会いに」

 ナイさんの言葉と同時に,その不思議な香りのする紅茶に口をつけた。

「どうかな?」

 ナイさんは,目を弓にしてこちらを見ている。

「不思議な紅茶ですね。香りはハッカのようなのに,味はまるで蜂蜜のように甘い」

 ナイさんは嬉しそうに顔をほころばせ,

「それは,レン高原という場所でしか採れない茶葉を使用しているんだ。なかなか手に入らない貴重な紅茶なんだよ」

 レン高原?……聞いたことのない地名だな。地球は広い。俺の知らない場所も沢山あることだろう。

 紅茶を飲み終えた,その時―――

 ノイズのような音が聞こえ,周りの風景が歪んでいく。

―――まただ。また,あの幻覚が見えるんだ。何もこんな時に!

 

 ……

 …………

 あれ?真っ暗だ。何も見えない。

 

「無駄だよ」

 妙に歪な,甲高いようなノイズ混じりの声がして,俺の意識は現在に引き戻された。

「………」

 俺は呆然としていた。今まで,こんな事はなかったのに。他人の過去と未来を鮮明に見てきた俺にとって,今回のそれは,初めての事だった。

「何か,見えたかな」

 ティーカップ片手に,ナイさんが問い掛けてくる。

「あ,いえ,これは―――」

 目の事といい,今の現象の事といい,何故,初対面であるはずの,この女性が知っているのか?

「何も見えなかったのだろう? それは当然だよ。今の君の力では,自分よりも上位の存在の未来に干渉する事は出来ないからね」

「未来に,干渉?」

 それはどういう事だ? 未来に干渉する? つまり,これは未来が見えるのではなく―――

「それはね,君が望む未来なんだよ。君は,君が存在する世界を変える力をもっているんだ」

「そ,そんな馬鹿な事があるはずないじゃないですか?! 未来を変えるなんて,それではまるで―――」

 俺がそこまで言った時,ナイさんは妖艶な笑みを浮かべていた。

 俺が,その笑顔に見ほれていると,横からマイが口を挟んできた。

「あなたはまだ不完全な存在。本来は私たちと同等の位階にいてもいいのだけど」

「まだ時期が早い,と言っただろう,マイ。彼は,まだその段階ではないんだよ」

 俺は何の事か分からないまま,ただその場に居るだけだった。

 

 その後は,ナイさんの仕事の話になった。

 仕事の話といっても,彼女の仕事は貿易商であり,普段知り得ない裏話や冒険譚だった。

 まるで冒険小説のようなエピソードもあり,それが多少誇張されたものであったとしても,十分驚くべきことばかりだった。

 古代遺跡を扱う商売の事など,まるで映画「インディ・ジョーンズ」ばりの話だった。

 彼女の話術は巧みで,あっという間に時間が過ぎていった。

 

 時計を見ると,午後7時前だった。

「ちょっと長話が過ぎたみたいだね。玖澄君も疲れたろう。送ろうか」

 ナイさんが立ち上がった。俺はちらと外の景色を見る。日は落ちているが,完全な暗闇という訳ではない。

「いいですよ。一人で帰れます」

 俺が辞退すると,ナイさんはマイさんの方を見てから笑う。

「ここには凶暴な番犬がいるからね。襲われるとまずい」

「犬,じゃない」

 何故かマイが不機嫌そうにする。ナイさんはその様子に目を弓にして,

「では,送ろう」

「あ,ありがとうございます」

 俺も立ち上がった。

 

                    ●

 

 およそ20分後。

 ナイはマイと共に窓外の景色を見ていた。

「どうだい?面白いことになりそうだろう」

 ナイは心の底から楽しそうに言う。マイはと云えば,無表情で胸元の縫いぐるみを抱く力を強めただけだ。

「彼は,何も 知らない の」

「どうだろうねぇ。本能では知っているようだったけれど」

「知らない ふり を してる?」

「知ってしまうのを怖がっているのかもしれないねぇ。マイ,君は彼をどう思う?」

 マイはしばし押し黙ったまま,正面の景色を見る。

 やがて,ぽつりと呟いた。

「馬鹿は嫌い。馬鹿なふりをしているのは,もっと嫌い」

-5ページ-

「素敵な女性だったね,亮くん」

 どこかうっとりとした声を出す幼馴染み。

「そうかぁ?」

 俺はどこか上の空で答える。実を言うと,それどころではないのだ。

「あれで貿易商ってもったいないよね。モデルさんになったら,絶対人気でるよ」

 香住が絶賛賛美中の女性とは,勿論ナイさんの事である。

 俺が門までナイさんに送られた時に,香住と鉢合わせたのだった。

 ナイさんは香住に対して,文句のつけようがない相対をし,このお人好しの幼馴染みの心をつかんでしまった。

 以来,香住はナイさんの事を褒めっぱなしだった。少々鬱陶しい。

「じゃあ,俺は帰るから」

 いい加減に切り上げないと,いつまでたっても終わりそうにない。

「あ。今日は夕飯はどうするの?うちで食べてく?」

「いや,いいよ。そう何度もお世話になるわけにもいかないだろ」

 うちは一向に構わないんだけどね〜 という香住の声を後ろに聞きながら,俺は自分の家へ帰った。

 

                   ●

 

 家へ入り,俺は自室へ直行し鞄を机の上へ放り投げると,そのままベットへ倒れ込んだ。

 考える事は沢山あった。

 緋邑先輩の事。

 緋邑先輩のお父さんが自殺した,というのも驚きだが,実は他殺かもしれない,というのは想像範囲外だ。

 身近――とは言っても同じ学園内というだけだが――に人殺しが起こったかもしれないのだ。考えようによっては,これは大変な事ではないだろうか。

 このような案件に,興味本位で首をつっこんでもよいものだろうか?

 まぁ,殺人と決まったわけではないし,それは明日からの調査次第だろう。もっとも,俺たち素人が調査をしたからといって,何が分かるというものではないような気がするが。

 恐らく緋邑先輩は,自分の父親が自殺した事を認めたくないだけなのではないだろうか。何か納得できるものでも見つかれば,緋邑先輩の気も収まるような気がする。

 そしてもう一つの案件。

 それは今日隣に引っ越してきたナイさん達の事だ。

 何故初対面なのに俺の目の事を知っていたのか?

 何故俺の幻覚の事を知っていたのか?

 彼女達が言っていた,「俺が他人と違う」とはどういう事か?

―――何も分からない。

「ああっ もう,仕方ないなぁ!」

 俺は声を出すことで,細々とした心配事を吹き飛ばそうとした。

 明日になれば,分からない事が一つでも解消するかもしれない。

 そんな,なんの保証もない事を考えながら,俺は目を瞑った。

 今日は凄く疲れた。一眠りすれば,頭が冴えるかもしれない。

 

俺の意識は,そのまま暗い闇へと落ちていった。

 

(つづく)

 

 

 

説明
今回は学園ものです。前回の「太平洋の覇者」とは趣の異なった物語にしたいと考えています。よろしくお願いします。
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