三分間の逢瀬
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 世界が瓦解していった。

 見ていることしか出来なかった。

 その手が、差し伸べられるまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 真っ白な部屋の中。特別に設えられた病室の、ひろいひろいただ中の、天蓋つきのベッドの中。彼女はゆっくりと瞳をひらく。静謐な空気が、ゆっくりと色を帯び始める。

 これからが三分間の、僕たちの時間。一日のうち僅かに許された、二人だけの時間。

「おはようございます」

 寝顔を見つめられ続けていたからか、照れたように少女は笑った。今野美鈴。名前のとおりの、鈴を転がしたような美しい声。眠り姫は半身を起こし、僕と向き合った。

「ずっとみていたんですか?酷いです」

 ぷくっと頬を膨らませて、彼女は笑った。

「はは、ごめん。あんまり可愛かったから、つい……ね」

「そういうこというのも、やめてくださいよう。髪の毛、ぼさぼさじゃないです?」

「大丈夫だよ」

 僕は優しく、彼女の栗色の髪の毛をなでた。しっとりとして、つやのある柔らかな手ごたえは、僕の心を優しくさせる。

「今日は、なにをしたんです?」

 主人に甘える子猫のような懐っこさを持った二つの目で、好奇心旺盛に彼女は僕の顔を覗き込んだ。僕は頬を掻いて黙考する。なにをといわれても、別段いつもと変わらない毎日を過ごしただけだ。朝起きて、学校に行って、学校が終わり、家路に着く最中にこの病院に来る。たったの三分間、彼女に会うために病院に来る。いつもの、それだけだ。

「それが、まったくいつもどおりだよ。この一週間、毎日学校に行って、そして帰るだけさ」

「それでいいですから、お話してくださいよう」

 すがりつくように、美鈴は上目遣いで僕を見た。困ったものだ。僕にしてみれば話す内容なんてないに等しいのに、それでもなんとか毎日、色々と工夫を凝らして、日常の風景を彼女に伝えているのだ。本当は毎回、話す内容なんておんなじなんだ。

 それでもきっと、彼女には幸せに違いない。

 何しろ、彼女の世界はたったの三分間しかない。

 一日のうち三分間だけ目が覚めて、あとは夢の中に埋没するだけの人生なのだ。ベッドの上にくくりつけられて、眠り続けるだけの日々なのだ。だからきっと、変化に乏しい僕の生活でさえも、彼女にしてみれば彩りなのだろう。

「えっと、今日はね……」

 僕は仕方なく、話をすることにする。彼女に聞かせるなんて本当は力不足の、なんでもない話をすることにする。とりあえず、数学のテストが返却された話でも……。

「はい!」

 居住まいをただし、わがままなくせにとんでもなく素直で、文句の一つも言わない眠り姫は目をらんらんと輝かせた。期待に満ちた彼女に、今日の僕はどれだけ答えられるだろうか……。

 三分間の逢瀬。

 それは三年前にはじまった、僕と美鈴の珠玉の時間。

 二十三時間五十七分の無為を越えてやってきた、三分間の宝物。

 その三分間は濃密で、しかし急速で……。

 終わりはすぐに訪れる。

「もう時間だね」

「あ、そうですね」

 美鈴は右手を持ち上げ、言った。その手には、青いバンドが巻かれている。目覚めたときは、この部屋やベッドのシーツと同じように、そのバンドは真っ白だったのだが、いまやすっかりその色を変えている。それが合図だ。彼女が起きていられる、限界の合図。大体毎日、おおよそ三分間。

「お話、楽しかったです。また明日、来てくださいね」

 にこりと笑い、彼女はベッドに横たわり、眼を閉じる。やがて静かに寝息を立て、彼女の胸が小さく上下するころ、僕は病室を出る。

 彼女は夢の中に帰り、僕は僕で、日常に帰る。

 たった三分間の、珠玉の時間。それはあっという間で……。

 彼女は今日も、僕のつまらない話を熱心に聞いてくれた。

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「毎日長い間寝ているけど、どんな夢を見ているの?」

「夢ですか?うーん、夢とはまた、少し違う気がしますね」

「そうなの?いったいどういう物なのかな」

「そうですね……私には私の世界がある、そんな感じですね」

「へぇ、美鈴は美鈴で、別の世界に生きてるってことか」

 今日、美鈴は目が覚めるのが遅かった。毎日午後の二時くらいには目が覚めるのだけれど、今日は既に西日が傾いている。ついこの間まで夏の盛りだったはずの気温も、だんだんと秋の涼しさが混じるようになり、日暮れは早まりつつある。遅く目覚めた彼女は、だけどそんな季節の移り変わりを感じることはないだろう。この病室は、いつも煌々と明かりが灯っているが、窓は一切ない。

 それとも彼女は、彼女の中のもう一つの世界で、移ろう世界を過ごしているのだろうか。桜舞い散る春を歩み、日差しの突き刺す夏を耐え、朱に染まる秋を体感しているのだろうか。

「そっちの世界では、今日はどんなことがあったの?」

「そうですね、数学のテストを返してもらいましたよ。結構いい点数だったんです」

「へえ、そうなんだ」

 数学のテストの話題は、この間僕が話したことだ。僕の話したことを、彼女は忘れ、自分のものとして記憶する。結局、彼女は僕の世界をなぞることしか出来ないのだろう。もう一つの世界が夢の中に存在するといって、それは太陽の光を反射するつきのように、僕の世界を真似ているに過ぎないのだ。

 彼女は三分間の現実しか生きられず、残りは全て、僕の世間話を投影した夢の世界。

「昨日はテレビを見ましたよ。ドラマです。アイドル俳優主演の、恋愛物なんですけど、やっぱり女の子だから、そういうものに憧れますね」

 人懐こい笑顔で、彼女は言った。快活に笑う彼女は、病人とは思えないほどに健康的に見える。だけれど、彼女は一日僅かしか目覚めることが出来ない。

「僕たちだって、まるでドラマみたいな間じゃない」

「そうですね、三分間しか会うことが出来ないなんて、まるで物語の登場人物みたいです」

 気恥ずかしそうに美鈴は言う。そうだ、僅かしか目覚められない彼女が、ドラマのような恋愛に憧れるのならば、僕がそうしてやればいい。この三分間を、まるでテレビドラマみたいに、虹色の世界に彩ればいいんだ。

 僕に出来ることといえば、多分、それくらいだ。

 彼女がほとんどベッドに縛り付けられるようになって三年がたった。

 彼女にとっては、その三年前の出来事は、悪夢のようであったに違いない。

 三年前、工事現場脇を僕が歩いていると、突然、壁に立てかけてあった資材が倒れてきた。それは無数の鉄製のパイプで、いいかげんに立てかけられており、いつも「もしもたおれて、誰かが怪我をしたらどうするんだろう」と思っていた。

 その誰かがまさか、自分になろうとは、僕は思っていなかった。

 とっさのことで体は硬直し、視界はスローモーションのようになった。危ないと心の中で唱え、逃げなければと必死に訴え、しかし僕は動けなかった。もう駄目だと思った瞬間だけ酷く冷静で、最後に頭に浮かんだのは「どれくらいのケガになるかな」ということ。

 けれど、僕に怪我はなかった。

 代わりに美鈴が、頭に怪我を負った。

 スポーツ少女だった彼女は、倒れる鉄パイプにおびえる僕を突き飛ばし、助けたのだ。

 そして美鈴は怪我をして……怪我が治った今も、病院のベッドの上から、離れることが出来ない。

 脳波の異常とか、医者は言っている。

 以来彼女は、日に三分しか目覚められず、僕は毎日彼女を見舞う。

 償っているのかもしれない。自分のせいで、不自由な生活を営むことになってしまった彼女に、償っているのかもしれない。

「聞いてますか?」

 気がつけば、美鈴が僕の顔を覗き込んでいた。

「あ、ああ、うん」

 僕はおざなりに返事をする。いつの間にか、自分の世界にもぐりこんでいたようだ。

「大丈夫です?調子、悪いですか?」

 心配そうに、彼女は尋ねてきた。

「ううん、大丈夫だよ」

 病床の彼女に心配させてしまい、あわてて笑顔で応じる。そう、僕に心配されるいわれはない。この三分間だけは、なにがあっても心配されてはならない。楽しい時間を、僕たちは過ごしたいんだ。

「ああ、もう時間ですよ」

 残念そうに、彼女は言った。右腕のバンドが真っ青に染まっている。

「残念だな。美鈴の話、あんまり聞いてあげられなかったね」

「いいですよ、そんなこと。また明日、また明日です」

 にこりと笑って、眠り姫は夢の世界へと戻っていく。

 

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「お兄ちゃん、差し入れ!」

 制服姿の少女が、がちゃりとドアを開け、元気な声を発した。室内には青年医師と、若い女性看護士がいた。

「ああ、来たか」

「うん。これ鯛焼き、まだあったかいよ、すぐ食べちゃう?」

「あー、どうしよう」

「じゃ、冷蔵庫に入れていくね」

 少女、今野美鈴は室内に入ると片隅の冷蔵庫に歩み寄り、鯛焼きの紙袋を冷蔵庫の中に入れた。

「長谷川さんも、食べちゃってくださいね。たくさん買ってきましたから」

 看護士に言って、せわしなく美鈴は部屋をあとにする。まるで落ち着きのない妹に、今野医師は頭を抱えた。長谷川は口元に手をやり、くすくすと笑っている。

「どうも落ち着きがなくてね。歳相応だとも言えるんだろうけど、もう少しおしとやかだと嬉しいんだけど」

「いいじゃないですか。可愛らしいですよ、美鈴ちゃん。うちのアイドルじゃないですか」

 今野にとって、歳の離れた妹は眼に入れても痛くない存在だ。いまや勤め先の病院で知らない者のいないほど有名となった妹は、皆に可愛がられていて、長谷川の言うとおり、アイドル然としている。しかしあんまり男勝りなので、もう少し可愛らしくてもいいのでは……と、今野は思っている。

「でも、健気なところありますよね」

「うん……そうだな」

「もう三年なんですよね?毎日お見舞いに来て。あの子、治る見込みはあるんですか?」

 美鈴が向かった先。個人部屋の病室には、眠り続けて三年の少年が入院している。

 三年前事故に遭い、この病院に入院している少年が。

頭を強く打ち、重傷を負った彼はこの病院に運ばれてきて、手術は成功したものの、以来三年間、一度も眼を覚まさない。意識レベルは安定しているが、彼は三年間、一切目を覚まさない。日に三分間、意識が覚醒に近いレベルまで上昇するが、それだけである。

 ベッドに縛り付けられて、彼は三年間、身動きが取れずにいるのだ。目覚めることが出来ずにいるのだ。

 その事故は本当なら、美鈴が負うべき宿命だった。それを、彼が助けたのだ。

 近藤啓という少年が、倒れる資材の群れから美鈴を守り、代わりに目覚めぬ床についたのである。

 以来三年間、美鈴は毎日病院に見舞っている。

 欠かすことなく、毎日毎日……。

「近藤くん。きましたよー」

 小声で声をかけ、美鈴は病室のドアを開ける。中ではいろんな器機に管でつながれた啓が、一人ベッドの上で寝ているだけだ。

 美鈴はそっと傍らの椅子に座り、啓の手を取る。今日も、啓の手は暖かい。当たり前のぬくもりに、美鈴はほっとする。今日も、啓は生きている。

 背中を椅子の背もたれに預け、美鈴は機械の群れにつながった、一つのゴーグル型のユニットを取り出した。それを身につけ、スイッチを入れると、とろんと眠気が彼女を襲う。

 これから美鈴は啓に会いに行く。

 三分間だけ覚醒に近い状態になる啓の意識は、ドリームビジョンという機械を媒介することで二人の逢瀬を手助けするのだ。二人同時に夢を見て、ドリームビジョンで夢を共有して、そして啓の意識が覚醒に近づいたとき、二人は出会うのだ。あの真っ白な病室で。

 美鈴はその三分間のため、毎日毎日学校帰りにやってきている。

 彼に目覚めの見込みは…… 

 医局の室内。今野は視線を窓の外にやった。

日暮れが本当に早くなった。つい一週間前までは、今頃はまだ、蝉を追う子供の声がしたはずだった。それがいまや、帰宅を促すカラスが鳴いている。

「ほとんど脳死状態だ。治る見込みなんて……ないよ」

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 大きく大地が揺れた。立っていられなくなり、美鈴はアスファルトの上に転げてしまう。木々が枝葉を大きく揺すり、たまらずに鳥たちが飛び立つ。揺れはほどなくして収まったが、大きな大きな地震だった。

「びっくりしたぁ」

 胸に手を当て、早鐘のように鳴る心臓を美鈴は何とか落ち着かせる。啓の見舞いに、病院に向かう途中のことだった。

 病院の自動ドアをくぐると、中は慌しかった。地震の後処理に追われているのだろう。入院患者は無事かとか、機械装置の類は倒れていないかとか、細かな確認事項に追われているのである。

「美鈴ちゃん、大丈夫だったかい?」

 息を切らしながら走っていた職員が、美鈴の前で立ち止まった。

「ええ、私は大丈夫です」

「今日も啓君のお見舞い?頑張るね」

「好きで来てるだけですから」

「そう。あ、階段使った方がいいよ。エレベーター、また揺れるとことだから」

 職員に言われたとおり、美鈴は階段で目当てのフロアに行くことにした。啓の病室は四階で、兄のいる医局もそこにある。啓の担当医は今野医師だ。

 四階に着くと、啓の病室から今野が出てきたところだった。

「美鈴。ちょうどよかった、こっちに来てくれ」

「ちょ、なんなの、お兄ちゃん」

 今野は妹を見つけるや否や、医局に連れて行った。医局の室内には、今野と長谷川と、あと数人の医者や看護士がいた。なんだか物々しい様子だ。

「どうしたの?」

 美鈴が問うと、

「……啓君が戻らなくなった」

 苦々しく今野は言った。

「……え?」

「さっき、地震があったろ?運が悪かった。いくつかの機器が、啓君から外れたんだ。それから意識レベルが落ち続けている。このままでは、もう二度と覚醒状態にはならないだろう」

「それ……どういうこと?」

 重苦しい空気が室内を包んでいる。美鈴にはよくわからなかったが、どうやらよくないことが起こっているようだ。

 いや、本当は美鈴にも、その意味はわかった。

 わからないと、思おうとしたのだ。

 啓はもう、二度と目覚めない。

 三分間の逢瀬が終わった。

 啓はもうすぐ、死人同然になる。

 美鈴は医局を飛び出した。

「まて!美鈴!」

 あわてて今野は妹を追い、走る妹の手をとり、無理やりとめた。医局からは、長谷川も出てきている。

「まだでしょ?近藤君、まだ死んじゃってないでしょ?」

「それでどうするつもりなんだ!」

「私が起こす。いつもみたいに、あの部屋で会えればいいんだ。そうでしょ?」

「ドリームビジョンを使うつもりか?彼の意識は深く落ちてるんだ。いつもお前といるような、表層にはない。そりゃ、理論的には深層意識まで潜ることが出来るが……」

「できるのね?」

 美鈴の悲壮な表情に僅かに光が差す。しまったと今野は思った。もとより、美鈴はドリームビジョンの機能のことなどよく知らないのだ。無理だと言っておけば、諦めたはずなのだ。

「助けてどうなる!そんなことをしても、彼はこれまでと同じだ。どうせ夢の中で、それも三分間しか生きられないんだぞ!もうご家族にも、危篤状態だと知らせて……」

 パァン!

 乾いた音がした。妹が、兄の頬をはつったのだ。

「それがなに?助けられたから、助けたいの。近藤君は、私の大切な人なの。三分間しか、それも夢の中だけだからって、それがなに?近藤君は生きてる!」

 兄の手を振りほどき、美鈴は啓の病室に駆けていく。

「美鈴ちゃん!」

 長谷川が呼びかけるが、振り向くことはない。美鈴の頬は涙にぬれていた。なぜ諦めなければならないのか、それがわからなかった。今野はその場に座り込む。長谷川はうろたえるばかりだ。開け放たれたドアの向こうからも、戸惑いが伝わってくる。

「長谷川さん、妹を見てやってくれ」

「そんな、いいんですか?今野先生」

「虚無にだけは落ちるなと、それだけ伝えてくれないか?」

 力なく告げると、今野はゆっくりと立ち上がり、医局に戻っていく。仲間たちが戸惑い道を開ける中、放心したように椅子に身を沈めた。

 

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 そこは学校のようだった。美鈴は深層意識というところに初めて来たが、啓の深層意識は学校のようだった。ここが啓の世界なのだと、美鈴は悟る。啓は無意識下で、世界を作っていたのだ。その世界が、いまや崩れだしている。窓の外を見ると、校庭や庭の木々が歪んでいる。床はひび割れ、ところどころ崩落して、漆黒の闇が除いている。

 これが虚無なのだと、美鈴はなんとなく理解した。

 深層意識の中にもぐる前に、長谷川が言っていた「虚無にだけは落ちないで」と。そこはもはや、何もないのだそうだ。深層意識に作り上げた、この偽者の世界、この夢が最後の最後で、その下は無なのだ。

 そこに、啓は落ちようとしている。

 美鈴は慎重に、崩れた学校の中を歩く。

 ふわりと、小さな光が美鈴を先導していく。

 深層意識にやってきてから、小さな光の後を美鈴は着いていっている。それは啓の示した道のように思えた。光をたどれば啓がいるのだと思えた。

 光がふいに、一つの教室の中に消えていく。

 教室のあたりは、崩落がいっそう激しいようだった。

 美鈴はドアを開けた。歪んでいるはずのどあは、そのくせに自然な動作でカララと開いた。自然さが、不自然だった。

 啓はそこにいた。

 教室は、そのほとんどが虚無に落ちていた。その中、啓は必死に自分の居場所を探し、床に足をつけていた。

「近藤君!」

「美鈴!?どうして?」

 啓は美鈴を見て、戸惑った。病院で寝ているはずの美鈴が、なぜこの学校にいるんだ。寝ていなくていいのか。

「危ないよ!病室に戻るんだ!」

「うん、だから、近藤君もいっしょ!」

「でも、どうすれば……」

 啓と美鈴は、ちょうど教室の端と端だ。廊下に面しているのは美鈴の方なので、啓は何とかそちらに渡らないといけないのだが、二人の間には大きな暗闇がぽっかりと穴を開けて待っているのである。

「ダメだ、そっちにはいけないよ。そんなには飛べない」

 二人の間の虚無は、到底飛び越えられそうもなかった。だけど、美鈴は諦めない。諦めたくない。だって、助けたいのだ。大切な人だから、自分を救ってくれた人だから。

 多分、好きだから。

「諦めたらダメです!近藤君が来ないんなら、私がそっちに行きますから!」

 美鈴は一歩踏み出した。崩れかけていた床がひとかけ、虚無に落ちていった。

「きゃ!」

そこに足を置いていた美鈴は、右足から虚無に引きずられそうになり、あわてて足を引き上げる。

「わかったよ、わかった。君はそこに居ろ。僕が、そっちに行く」

 啓はつばをごくりと飲み込む。到底飛び越えられないはずの、その闇。越えられなくても、それならそれで美鈴は諦めるだろう。意を決して、啓は床を蹴った。結果として、これで美鈴は救われる。

 彼は、思ったよりも飛べた。

 それはそうだ。これは彼の意識の中のことで、大半は思うとおりになるのだ。

 崩れていく深層意識。それでもここは彼の世界で、彼の思うとおりになるのだ。

 どうせ無理だろうという諦めよりも、二人で助かりたいという希望の方が叶ったのは、どうしてだろうか。

 大きく両手を広げる美鈴の胸に、啓は飛び込んだ。

 姫と王子の立場が逆だなぁと、その一瞬だけ、彼は冷静だった。 

 

「先生、これは奇跡でしょうか?」

 長谷川は言った。長谷川と今野の目の前で、もう助からなかったはずの啓の意識レベルが上昇していく。深層意識が崩落して、虚無におちそうになっていた少年の、意識が回復していく。

 それはやがて、覚醒に近い状態まで回復していった……。

 

 真っ白な部屋の中。特別に設えられた病室の、ひろいひろいただ中の、天蓋つきのベッドの中。二人はゆっくりと、瞳をひらいた。ベッドのちょうど真ん中で、二人の手と手がつながれている。いつもの、あの病室だ。

「助かったのかな?」

「みたいですね」

 ぼんやりと、二人は言葉を交わす。白い白い部屋、静謐な空気がゆっくりと色を帯び始める。

「三分、とっくに過ぎてるね」

「本当だ」

 啓が手を持ち上げ、美鈴の右手首を見せる。バンドは真っ青だ。と、二人はそのとき、やっと手を繋いでいることに気付き、あわてて手を離す。示し合わせたように同時に顔をそらした二人は、頬を真っ赤に染めていた。

 三分がとっくに過ぎている。このカウントは、いつからだろう。覚醒時には、近藤君の意識は三分間しか持たないはずだけど……。美鈴は黙考する。このカウントは、いつからだろう。

「ねえ」

 不意に、啓が声を発した。

「僕の世界、壊れちゃった。君の世界に、一緒に行ってもいいかな?」

 美鈴は少しの間考え、そして微笑む。

「ええ、いいですよ」

 本当は答えなんか、最初から決まっていた。

 やがて二人は眠りに落ちて……そして世界が浮上する。

音を立てて扉はひらき、三分間は永遠に……。

 

説明
ピクシヴの方で3分間のボーイ・ミーツ・ガール SS&イラストコンテストっつーのに参加してた小説です。
一次選考突破して割りかしいい評価いただいてたんですが落っこちました。ふへへ。
まあイツミンその程度の実力。
ピクシヴだと読めなかったって方が居たんで、落選したんだしいっか、ってことで転載。
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オリジナル ライトノベル 落選しちまったよおい 

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