遠くの光に踵を上げて - 第10話?第14話
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10. とまどい

 

 あれ以来、アンジェリカはアカデミー内では知らない人がいない存在になった。もともと史上最年少トップ合格者ということで噂になっていたところに、あの広告が輪を掛けた形となった。普通に歩いているだけでも先輩、他の学科の生徒から先生に至るまで、いろいろな人に頻繁に声を掛けられる。アンジェリカはそういった声を掛けてくる人たちと、笑顔で気軽に話をしている。今まであまり多くの人と接する機会が少なかっただけに、こういったことが嬉しいらしい。

 一方のジークはそれが不愉快らしい。ジーク、リック、アンジェリカの3人でいることが多いだけに、そういった現場に遭遇することも当然多くなってくる。ジークはそのたびに不満をあからさまにしていた。ときには、話をしているアンジェリカの腕を引き、無理やりその場から引き離したこともあった。本人は授業に間に合わなくなるからといっているが、それ以外の感情が入っていることは、その顔を見れば明らかである。

「もう! ヤキモチ焼くのもほどほどにしてほしいわ!」

 ジークのあからさまな態度や行動に、アンジェリカも少し困っている様子だった。

「誰がおまえなんかにヤキモチ焼くか。おまえだけチヤホヤされてるのが気に入らないんだよ」

「……ジーク。それをヤキモチっていうんだよ」

 リックが苦笑いを浮かべながら言った。

 

 アンジェリカだけがチヤホヤされているのが気に入らない。ジークは自分の不愉快な感情の理由付けをこう考えていた。が、なにかもやもやしたものが残る。間違ってはいない。だが、それだけではなにかが足りない。なのに、自分で説明できないのである。そのことが、彼の不愉快な感情を増幅させていた。しかし、彼はこのことを誰にも言わなかった。あえて言わなかったというよりは、言おうと思わなかったのだ。

 

「そうだ、リック。今日は私たち当番よ。そろそろやらない?」

 今日最後の授業が終わって、しばらく外で缶ジュースを飲んでくつろいでいたところで、アンジェリカが切り出した。当番は教室の片づけをすることになっている。今日はアンジェリカとリックがふたりで当番だった。

「そうだね。そろそろ行こうか」

 リックのその言葉と同時に、アンジェリカは座っていたベンチから立ち上がった。そして、横に立っていたジークの顔を見上げた。

「ジークは? どうするの?」

「ん? ……待ってるよ」

 ちょっと迷ったような、歯切れの悪い答え。

「待ってるだけ? 手伝ってくれないんだったら先に帰っていいわよ」

 挑発するように、アンジェリカが切り返す。ジークはすぐに返答することができなかった。

「私を待っていたいっていうんならいいけど」

 アンジェリカは悪戯っぽく笑いながらそう続けた。

「誰がおまえなんか待ってるか! 先に帰るからな!」

 売り言葉に買い言葉でとっさに口を突いて出たその言葉に、ジークはあとに引けなくなってそのまま背中を向けて歩き出した。

「ジーク!」

 リックのその声にジークは足を止めた。

「またあしたね」

 ジークは振り返らず、ぶっきらぼうに片手を上げて、今度は早足で歩き出した。やり場のない怒りと、早くそこから立ち去りたいという思いが、彼にそうさせていた。リックが止めてくれると思ってしまった自分自身に腹が立った。同時に、恥ずかしくも思った。

 

 ジークは今まではいつも自分の思うように、迷いなく行動してきた。だが、最近はとまどいが彼を揺さぶっていた。原因となっている人物はわかっている。が、なぜなのかという理由がまったくわからずにいた。

 

「ジークって……」

 去っていくジークを眺めながら、アンジェリカが問いかけた。

「昔からあんな感じだったの?」

 リックは少し首を傾げて考えた。

「最近ちょっとおかしいかも。昔はもっと強引でわがままで自分勝手だったかな」

 言いたい放題である。

「そう。あ、そういえば最初に逢ったときってかなりそんな感じだったわよね」

 そう言って笑ったアンジェリカの笑顔には、屈託がなかった。

 

 

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11. 白と黒

 

 年中、気候が温暖で過ごしやすいこの世界。

 だが。今朝はいつもと違う。植物には白い霜が降り、吐く息も白い。多少は暑くなったり寒くなったりすることはあるが、ここまで極端に寒くなるということは今までなかった。未知のことが起こっている。人々はいい知れぬ不安に襲われていた。

 

「凍える……」

 アカデミーへ向かう途中のアンジェリカが、口の前を白くしながらぼそりとつぶやいた。息をするだけで肺の奥に突き刺さりそうなほどだ。その一瞬でも体温を奪われていくのを感じ、つぶやいたことを後悔した。その身には脇が閉まらないくらいの重ね着。見た目など気にしている場合ではない。しかも、まだそれでも足りていない様子だ。背中を丸め、アカデミーの門をくぐろうとしたとき、もやの中にジークとリックの姿を見つけた。やはりふたりともみっともないくらいの重ね着をしている。

「おはよう」

 語尾が消え入った、覇気のない声でリックが挨拶をした。ジークは身をすくめたまま、声を出さず手のひらだけ軽く上げてみせた。アンジェリカも同じポーズを返す。声を出す気にもなれないようだ。リックにはかすかに笑顔が見えるが、アンジェリカとジークは青白く、今にも死にそうな顔をしていた。

 

 三人同時にアカデミーの門をくぐる。と、突然。何かに包まれたように寒さが和らいだ。暖かいとまでいかないものの、普通に動き、会話ができるくらいだ。3人はお互い顔を見合わせた。

「わけわかんねぇことばかりだな」

 ほとんど独り言のように、ジークが言った。

「ある種の結界みたいなものかしら」

 アンジェリカも独り言のように言う。そう言いながら、見えない何かを探して辺りをきょろきょろ見渡していた。しかし、ちょっと見ただけでそう簡単にわかるものではない。アンジェリカもそのことは承知していたので、本気で探そうとしていたわけではなかった。

 教室に入ると、三人とも着すぎた服を脱ぎにかかった。

「すごく疲れたわよね。ヨロイでも着てたみたいだわ」

「動きづらい分、ヨロイよりもタチが悪いぜ」

 そういいながら、ジークとアンジェリカは、脱いだ服を無造作にロッカーに投げ込んでいた。一方、リックは丁寧にたたんでしまっている。彼がふと横を見ると、同じ動作をしてるふたりがいて、思わず笑えてきた。このふたり、似てるな。そう思ったが、思うだけで口には出さなかった。ものすごい剣幕で否定されることは目に見えていたからだ。

 ガラガラガラ??。

 少しの軋み音を含みながら、前の扉が開いた。

「席につけ」

 いつもの調子でラウルが言う。生徒たちはバタバタと慌てて席についた。空席が目立つ。三割くらいは来ていないようだ。

「突然だが」

 そう前置きして、ラウルは一息おき、続けた。

「四大結界師のひとり、レイ=リューリック=クライスが亡くなった」

 教室内は水を打ったように静まり返った。

「柱のひとつを失ったことで、この世界の秩序がバランスを崩した。今朝からの異常な現象は、それによるものだ。近いうちに後任の結界師も決まり、元に戻るだろう」

 この世界は四大結界師により支えられ護られていることは、誰もが知るところだ。ただ、その柱を欠いたときにどうなるかということは、ほとんどの者は知らなかった。

「夕方から葬送式を行う。各自それなりの格好をして集まれ。家に帰って着替えてもいいし、ここで貸し出しもしている。いったん解散だ」

 そう言っても席を立つものは誰もいなかった。

「アンジェリカ」

 呼ばれるままに席を立ち、ラウルについて教室を出ていった。

 そして、間もなく生徒たちがざわめきだした。

 

 ラウルの医務室。そのまん中にアンジェリカが立っている。入れたての紅茶をふたつ手にしたラウルが奥から戻ってきた。ひとつをアンジェリカに手渡す。それを無言で受け取り、そして、尋ねた。

「なんで……死んでしまったの? まだ、若かったわよ」

 まっすぐラウルの瞳を見つめる。アンジェリカの大きな瞳はかすかに潤んでいるようにも見えるが、その表情からは感情をうかがうことができなかった。

 ラウルは紅茶をひとくち流し込み、一拍の間のあと答えた。

「事故だ。幼い子がオートバイにひかれそうなところを助けて、代わりに自分がはねられた。打ちどころが悪かった」

 机の上にティーカップを静かに置く。アンジェリカも同じようにティーカップを置く。その中は手渡されたままの状態で、ひとくちもつけられていない。

「魔導の力でオートバイを吹き飛ばすくらいのことは出来たはずだが。そうすると、相手が無事ですまないと思ったのだろう。自分より他人の命が大切とはな」

 軽く息を吐いて、目を閉じた。

 アンジェリカは表情を閉ざしたまま、淡々とつぶやいた。

「私だったら……私が同じ状況になったら……どうするのかしら」

 

 低くたれ込めた空から白いものが舞い落ちる。それが世界を覆い、目に見えるもの総てを白く染め上げ、音さえも掻き消し、静の世界を創り上げていた。

 色彩も音も奪い去られたその世界に、ただ追悼の鐘の音だけが響き渡った。

 

 王宮の中庭。ここで葬送式が執り行われる。ここも例外でなく、白く、冷たく、静かだ。そのことがいっそうこの場の厳粛さを増していた。

 家族、親族をはじめ、王室関係者、アカデミーの学生など、何百人もの人々が参列している。アンジェリカたちはアカデミーの学生として最後列あたりに並んでいた。

「あんまり面識がなかったからな。いまいちピンと来ねぇな」

 重苦しい雰囲気の中、ジークは隣のアンジェリカにだけ届くくらいの声でつぶやいた。しばらくの沈黙の後、アンジェリカが口を開く。

「私の父の友人だった」

「え?」

 聞き返すジークの声に反応せず、続ける。

「私も、かわいがってもらっていた……なのに」

 目を微妙に細める。その後に言葉は続かなかった。

 

「凍てついた涙」

 空から舞い落ちる白いものを誰かがそう呼んでいた。人の温もりに触れて融ける様がそう呼ばせたのだろうか。

 

 再び、鐘の音が鳴り響いた。鋭くまっすぐなその音が、冷たく世界を締めつけた。

 

 

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12. 蒼い瞳のクラスメイト

 

「俺、四大結界師を目指すぜ!」

 まだ肌寒さの残る中、ジークは顔を上気させ、ひとりで熱くなっていた。ジークとは対照的に、アンジェリカとリックのふたりは、寒さのために身をすくめている。ふたりともあまりジークの話には関心を示さず、ただ黙って歩いているだけだった。それでもジークはおかまいなしに話を続けた。

「かっこいいよな。自分が世界を護るんだぜ」

 両方のこぶしを握りしめ、興奮をあらわにしている。そんなジークを横目で見ながら、アンジェリカが冷ややかに言い放った。

「あんな人柱のどこがいいのよ。毎日地味に結界に力を送り続けるだけで、誰もあまりありがたさを実感してくれないじゃない」

 それでもジークの熱は冷めることはなかった。

「おまえみたいなお子さまには男のロマンはわかんねぇよ。な、リック」

 アンジェリカの向こう側にいるリックを覗き込んで、白い歯を見せながら同意を求めた。

 だが、リックはから笑いを浮かべた。

「僕もどっちかっていうとアンジェリカの意見の方が……」

「なんだ。おまえもまだまだお子さまだな」

 肩をすかされたジークは、力の抜けた声でひとりごとのように言った。

 

 アカデミーの門をくぐる。そこを境に少し暖かくなっていることは、寒さの和らいだ今でもまだ感じることができる。これも、結界の力なのだろうか。

 

「でも、現実問題として、難しいんじゃないかなぁ」

 リックが冷静に分析をする。

「世界でたった四人だけ。しかも滅多なことで交代はないんでしょ」

 ジークは口の右端を軽く上げ、不敵な笑みを浮かべると、リックの分析に切り返した。

「いいや四人中三人はジジイだし、俺がアカデミーを卒業する頃にはチャンス到来かもな」

「チャンスはいずれ来るとは思うけど、それでもなれるとは限らないわよ」

 周りの空気が暖かくなったことで、アンジェリカの口は次第に滑らかになってきた。

 一方のリックは、苦笑いしながらも、周りをきょろきょろうかがっている。ふたりが悪びれる様子もなく失礼なことを言っているので、他の人に聞かれてはしないかと冷や冷やしているのだ。

「いーや」

 ふたりの二歩前を歩いていたジークは、足を止め、振り返り、胸元で軽く握りこぶしを作った。

「俺はチャンスさえあれば、必ず実現させるぜ」

 自信とやる気をその瞳にみなぎらせ、きっぱりと言い放った。

 

「私も四大結界師を目指してるわよ」

 ふいに聞こえたなじみのない声に、三人は一瞬動きを止めた。なじみはないが、その落ち着いた、深みのある声には聞き覚えがあった。

「男じゃないけどね」

 というと同時に、教室の扉の内側からひとりの女性が姿を現した。

「……えーと、おまえ……。誰だっけ」

「ショックだなぁ。クラスメイトなのに。セリカよ。セリカ=グレイス」

 セリカと名乗った女性は、その言葉とは裏腹に明るく笑っていた。

 ジークはあまり他人に関心がないせいか、いまだにクラスメイトの顔と名前を覚えきれていない。そんな彼だからわからなかったが、実はセリカはアカデミー内ではかなり知られた存在なのだ。

 背が高く、スレンダーなシルエット。利発そうな引き締まった顔立ち。明るい栗色の髪、澄んだ濃青色の瞳。これだけの要素が揃えば否が応にも目立つ。

 もちろんアンジェリカとリックも、直接話をすることはほとんどなかったが、彼女のことはクラスメイトとして認識していた。

 

「セリカさんはどうして四大結界師になりたいの?」

 リックが不思議そうに尋ねた。

「ああ」

 ひと呼吸おくと、顔をわずかにうつむけて、右手の人さし指を口元に持っていった。わずかな時間、そのポーズで考えたあと、顔を上げ、そして語り始めた。

「私の亡くなった祖父がね、四大結界師のひとりだったのよ。私は現役時代のことは知らないんだけどね」

 ふいに目を細めて、懐かしそうに微笑む。

「結界師という仕事にすごく誇りを持ってた人でね。何度も話を聞かされているうちに、私もだんだん憧れを持つようになっちゃって」

 セリカは三人から顔をそらし、後ろで手を組みながら、軽く肩をすくめた。

「なんか、うまいことすりこまれちゃったのかな」

 そう言って、照れ笑いをした。

 それまで彼女の話を黙って聞いていたアンジェリカが、遠慮がちに口を開いた。

「あの、もしかして、その人って……」

 そこまで言ったところで、セリカは思い出したように目を大きく見開いた。「あ」と言うと同時に、ぽんと手を叩いた。

「そうそう。私の祖父はラグランジェ家の人よ。分家の方だけど。私たちは遠い親戚ってことになるのよね」

 セリカはそう言いながら、アンジェリカに親しげな笑顔を投げかけた。アンジェリカは一瞬、戸惑いの表情を見せたが、それはすぐ無表情に覆い隠された。

「へえ。そうなんだぁ」

 アンジェリカの代わりに、リックの素頓狂な声が飛んだ。彼が続けて何かを言おうとしたとき、そこで始業を告げるチャイムが鳴りだした。

 

「親戚っていったって、遠いじゃない」

 アンジェリカがかぼそい声でつぶやく。しかし、そのセリフはチャイムにかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

 

 

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13. 闇と静寂のひととき

 

 アンジェリカたちがアカデミーに入学してから約四ヶ月が過ぎた。あと二週間ほどすると期末休みに入るのだが、その前にひとつ、重要なイベントが待っていた。期末試験である。

 

 図書館の窓際の席。三人は大きな机に並んで座っていた。

「まだやっていくの?」

 リックはぐったりと机に伏せる。しかし、隣のふたりは目もくれない。ただ淡々と書物やノートに向かっている。

「もう九時過ぎてるよ」

 返事のないふたりに向かって、覇気のない声で畳み掛けた。

「帰りたきゃ、先に帰っていいぜ」

 ジークは書物から目をそらすことなく、素っ気なく答えた。

「アンジェリカは? そろそろ帰った方がいいんじゃない?」

 返事のなかったアンジェリカの方に振ってみた。

 まだ子供なんだから??そう付け加えようとしたが、やめておいた。それは彼女の最も言われたくない言葉であることがわかっていたからだ。

「そう……。じゃ、先に帰るよ」

 机の上に広げていたノート、筆記具を鞄の中にゆっくりと収めていく。

「僕、もうホントに疲れちゃって。ゴメンね」

 片眉をひそめ、右手をひたいの前で立て、申しわけなさそうに許しを請う。肝心のふたりは見ていなかったが、そうせざるをえない気持ちだったのだ。

 そして音を立てないように立ち上がり、ドアに向かってゆっくり歩き始めた。

「またあしたね」

 背後から唐突に聞こえた高い声。リックはその声に振り返った。ようやく顔を上げたアンジェリカが少しだけ笑って、顔の横で小さく手を振っていた。

 リックもつられて笑い、同じ動作で返した。少し、安堵の色が見えた。

 

 リックの根性がないというわけではない。アンジェリカ、ジークとの力の差なのだ。

 試験期間中の授業は午前のみ。午後は自己鍛練の時間となる。体力トレーニングに魔導力を高めるための瞑想、ヴァーチャル・リアリティ・マシン(通称 VRM)と呼ばれる機械でのシミュレーション。それらを日が落ちるまで続け、その後、夜九時過ぎまで、図書館や教室で文献を調べたりノートの整理をしたりする。

 そんな生活が、もう一週間も続いていた。

 特に VRMでのシミュレーションは、実戦と同程度の体力、精神力、魔導力を使う。それを連日行うということは、力のない者にとっては自殺行為にも等しい。

 リックもずっとふたりに付き合って頑張ってきたが、そろそろ限界にきていた。悲しいことだが、実力が違い過ぎていたのだ。同じメニューをこなそうとするのが無謀だったといえる。リックは自分自身でそのことは感じ始めていた。

 しかし、アンジェリカとジークが楽々とこのメニューをこなしているというわけではない。リックほどではないが、やはり疲労がたまってきている。その体を支えているのは、お互いに対する「負けたくない」という気持ちであった。

 

「おまえ、まだやっていくのか?」

 本をめくる手を止めずにジークが尋ねる。が、アンジェリカの返事を待たずに、続けて言った。

「子供が夜ふかしするなんて、体に悪いぞ」

 アンジェリカの動きが一瞬止まる。

「たいして歳も違わない人に子供扱いされたくないわ!」

 ジークの方に向き直り、両こぶしを振り下ろして、怒りをあらわにする。

「たいしてって八つも違うだろ。子供に子供って言って何が悪いんだ」

 ジークは冷静に火に油を注ぐ。アンジェリカは思いっきりほほを丸くしていたが、上手い返答を思いつかなかった。仕方なく、怒りを残したまま本に向き直った。

 

 そして、またしばらく、静かに時が過ぎていった。

 

「俺、そろそろ帰るわ」

 静寂をうち破るジークの声。

「おまえはどうする?」

 アンジェリカは慌てて正面の壁の掛時計を見る。間もなく十一時になろうとしていた。

 

 いつも帰りを切り出すリックを先に帰してしまったことで、またお互い意地を張り合っていたことで、帰るタイミングをつかめないままこんな時間になってしまっていた。

「私も帰る」

 帰ると決めた途端、気が抜けたのか急に眠気が襲ってきた。口元を隠すこともなく、大きくあくびをする。

 その様子にジークの緊張もふいに緩む。

「ちょっと! いま笑ってたでしょ? なに笑ってるのよ!」

 あくびで潤んだ目を拭いながら、アンジェリカが食って掛かった。

「笑ってねぇよ」

 そう言いつつも、少し戸惑った様子で顔をそむけた。

「ほら、早く片付けろ。行くぞ!」

 照れ隠しからか、背中を向け、短くまくし立てる。そしてさっさとドアの方へ歩き出した。

 その声につられて、アンジェリカは慌てて鞄の中に本を押し込み、小走りでジークの後を追いかけた。

 

 ふたり並んで無言のまま歩く。ザッ、ザッ。薄い砂のこすれる音だけが明かりのない空間に響く。

 アカデミーの門をくぐり通りに出たところで、アンジェリカは足を止め、ようやく口を開いた。

「それじゃね。またあした」

 そう言った目の前を、ふいにジークが横切っていった。

「え? ちょっ……。ジークのうちはあっちでしょう?」

 無言で歩き続けるジークを小走りで追いかける。大きく伸ばされた右手は、体とは反対を指している。

「おまえんちはこっちだろ」

 ぼそっとぶっきらぼうにつぶやく。送っていく、と素直に言うのが照れくさいらしかった。

「わたし、ひとりで帰れるのに」

 笑っているのか怒っているのか戸惑っているのか、微妙な表情と声。ジークの気持ちは嬉しかったが、それを素直に表現するのは照れくさい。また、嬉しいけれども子供扱いされているのではないかという不安や不満もある。それらが入り混じって複雑な表情を作り上げていた。

 

「まっすぐでいいのか?」

「うん。ずっとまっすぐ」

 ジークの斜め後ろをついて歩く。

 再び訪れる沈黙。夜の静寂に、ふたりの靴音だけが浮かび上がる。

 アンジェリカは何か話をしたい衝動に駆られたが、何を話していいのかわからず、もやもやした気持ちのまま沈黙を続けた。

 

「俺、こっちの方に来たことはほとんどないんだよな」

 静寂を破ったのはジークだった。歩きながら隣の王宮を見上げている。

 王宮とアカデミーは隣り合って建っていて、ふたりは今、その前の通りを歩いているのだ。ジークの家は反対方面のため、特別な用でもない限り、こちらに来ることはない。

 王宮の門の前に差しかかると、ささやかながら明かりがともっていた。そしてその明かりの下に、見張りの衛兵がふたり立っていた。

 不審者に間違われたら嫌だな、そんなことがふとジークの頭をよぎった。だが、というかそれだからこそ、平静を装い通り過ぎようとしていた。

 そのとき、ふたりの衛兵が同時にこちらに向けて頭を下げた。予想外の出来事に、ジークは何が起きたかわからず、うろたえてまわりをきょろきょろ見回す。そして目に入ったアンジェリカの様子に、ようやく事情が飲み込めた。

 アンジェリカは衛兵に軽く会釈をしていた。そう、つまり、衛兵はジークではなくアンジェリカに礼をしていたのだ。考えてみれば当然のことである。

 

 衛兵を後にし、少し離れたところでジークが口を開いた。

「さっきの、お友達か?」

「……それ、皮肉?」

 アンジェリカは、見せつけるように、はぁと大きくため息をついた。

「あの人たちは、私じゃなくてラグランジェ家に頭を下げたの。わかっているんでしょ」

 そうじゃなきゃ、私なんて……。その言葉は心の中だけにとどめた。

「そういうもんなのか」

 ジークは納得しきれないようで、首をかしげていた。

 

「あ。ここよ、うち」

 そう言って、アンジェリカは歩みを止めた。ジークも足を止める。そしてまわりを見渡した。しかし、どこにも民家らしきものは見当たらなかった。

「……どこだ?」

「だから、ここ」

 人さし指で指し示す。その方向を目で追う。見る。見上げる。

「……これ、まだ王宮だったんじゃねぇの?」

 

 

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14. レモンティ

 

「これ、まだ王宮だったんじゃねぇの?」

 ジークがそう思うのも無理はなかった。おおよそ民家とはほど遠い、白壁の宮殿造りの家。大きさもかなりのものである。

 位置もまた紛らわしい。王宮のすぐ隣に横づけされて建っていた。よく見ると仕切りのレンガ壁があるものの、知らない人が見れば、王宮の一部や別館にしか見えないだろう。

 ジークはただ呆然と、だらしなく口を開けて見上げていた。

「アンジェリカ!」

 そこへ女の人の声が響いた。アンジェリカとは違い、もう少し大人びた感じだ。

「遅かったじゃない。心配しいてたのよ」

 その女の人はアンジェリカの家から出てきたようだった。門を開け、小走りでアンジェリカの元に駆け寄る。

「頑張りたい気持ちもわかるけど、夜はあんまり遅くならないようにして」

「ごめんなさい」

 アンジェリカは素直に謝った。ジークはそんな彼女を見たのは初めてだったので、なにか不思議な気持ちを覚えた。

 そして、最も気になること。

 アンジェリカのお姉さん……か?

 あまりじろじろ見るのはどうかと思いつつも、気になって、視線は彼女を追いかけていた。

 まず目をひくのはあざやかな金髪。この暗闇でもわずかな光を受けて輝いている。長さは腰くらいまであるだろうか。そしてかすかにウェーブを描いている。黒髪ストレートのアンジェリカとは対照的だ。しかし、そのあどけない顔立ち、小柄で華奢な体つきは、どことなくアンジェリカと似ている。上半身をカチッと締め、腰からふわりと広がったロングドレスは優美なかわいらしさを、そして大きく開いた胸元はアンバランスな色気を演出していた。

 気配を感じたのか、視線を感じたのか、彼女はふいにジークの方に顔を向けた。視線がぶつかる。その瞬間、彼は頭が真っ白になり、体は金縛りにあったように動けなくなった。大きな蒼い瞳が、彼をとらえたまま離さない。それは短い時間だったが、彼にはとても長く感じられた。

「ジークさん、ですね?」

 ジークの方に体ごと向き直り、かすかに首を傾け、ありったけの笑顔で彼に問いかける。その声で、ジークはようやく我にかえった。

「あ、はい。でもどうして俺の名前……」

「アンジェリカから、いつも話は聞いていますから」

 急に自分の名前を出されたアンジェリカは、とっさに顔を上げる。

「話なんてしていないわ! ……そんなに」

 慌てて否定するも説得力はない。彼女は頬をふくらまし、自分の名前を出した相手を、うらめしそうに上目づかいで睨んでいる。

 しかし、睨まれた当の本人は、まったくおかまいなしに続ける。

「さ、どうぞ。上がってください」

 右手を家の方に向け、左手をジークの背中にそっと添えた。瞬間、ビクっと小さく体を揺らす。そして、前を見たり後ろを見たり、あからさまにうろたえた様子を見せている。

「ただ送ってくれただけなんだからね! 遊びにきたわけじゃないんだから!」

 アンジェリカが後ろから声を張り上げ、慌てて引き止める。

 だが、金髪の彼女は笑顔を崩さなかった。

「いいじゃない。せっかくここまでいらしたんだから。ね?」

 そう言って、ジークに同意を求めた。

 ジークは戸惑いながらも、うながされるまま歩き出した。アンジェリカはずっと頬をふくらませたままだったが、しばらくすると彼女も後ろをついて歩き出した。

 

 重厚で格調高そうな扉が音を立て、ゆっくりと開いた。光が闇に飛び出し、ジークたちの顔を照らす。

 そして目の前に広がった世界に、ジークはまたしても言葉を失った。

 まるで別世界。それは、彼のイメージの王宮そのものだったのだ。高い天井、吹き抜け、中央の幅広く白い階段、赤い絨毯、きらびやかなシャンデリア、古いけれどよく手入れされたインテリア。そのすべてが、彼の初めて目にするものだった。

「さ、こちらよ」

 通されたのは玄関ホール隣の応接間。白が基調のただ広い部屋の奥にはソファと机、そして漆黒のグランドピアノ。目につくのはそれくらいだ。贅沢な空間の使い方である。

 ここだけでも俺んちよりでかいな…。

 ジークはあたりを見まわしながらそんなことを考えていた。

「お飲物は紅茶でいいかしら」

「はい」

 ほとんど条件反射で答える。

「わたしレモンティ」

 アンジェリカはそう言うと、無造作に鞄を置いて、応接用の長椅子に身を預けた。

「ジークさんも座ってお待ちくださいね」

 その言葉を残し、長いブロンドをなびかせながら、彼女は部屋を去っていった。

 広い部屋にアンジェリカとジークのふたりきり。独特の不思議な空気。柱時計の振り子の音が静寂を刻む。

「立ってないで座れば」

「ん? ああ」

 アンジェリカの言葉にうながされて、彼女の斜め前の席に腰を下ろした。そして、目の端で彼女の様子を盗み見る。

「末っ子?」

 しばしの沈黙のあと、ジークは唐突に質問をぶつける。アンジェリカはきょとんとしながらも答える。

「わたし? ひとりっ子だけど?」

 その答えに、今度はジークがきょとんとする。

「じゃあ、さっきの人は……?」

 アンジェリカは話の流れが読めず、わずかに首をかしげる。

「母親だけど?」

 

「お待たせしました」

 大きめのトレイにティーポットとティーカップ三つを載せて、噂の張本人がゆったりとした足取りで戻ってきた。

 ジークは口を半分開けたまま、瞬きも忘れて彼女をじっと見ている。

 彼女はトレイを静かにテーブルの上に置くと、視線の送り主の方に顔を向けた。彼の何か言いたげな顔を見ると、目をくりっとさせ、疑問を投げかけるように首を傾けた。

「アンジェリカのお母さん……ですか?」

 彼女のしぐさに促され、ジークは喉元で止まっていた言葉をようやく口に出した。

「そういえば自己紹介がまだだったわね」

 そう言うと、彼女はまっすぐジークの方に体ごと向き直った。

「レイチェル=エアリ=ラグランジェです。アンジェリカの母親よ。よろしくね」

 ふわりと笑いかけ、優雅に右手を差し出す。ジークは慌ててソファから立ち上がり、同じく右手を出した。

「ジーク=セドラックです」

 そして、柔らかく握手を交わす。そのとき、ジークはようやくほっとした表情を見せた。

 

「お茶、冷めちゃうわよ」

 その言葉以上に冷めた口調で、アンジェリカがふたりに割って入った。両ひじを自分の膝にのせ、ほおづえをついてむすっとしている。

「あら、私がジークさんと仲良くしてたから怒っちゃった?」

 レイチェルはいたずらっぽく笑いながら、上体をかがめ、後ろで手を組んでアンジェリカの表情を覗き込んだ。

「別に、怒っていないわ」

 レイチェルの追求を避けるように、目を少し伏せる。

「それなら良かった」

 弾んだ声、不自然に強調された語尾。なにか含みを持たせたその言い方に、アンジェリカは困惑するものの、表面上は努めて冷静をよそおった。ただ、その瞳だけがわずかに揺れていた。

 

 ひといきおくと、ティーカップを口に運び、レモンティをゆっくりと流し込む。体の中をあたたかいものが流れていくのを感じながら、静かに目を閉じた。そして、もういちどレモンティを口にした。あたたかさとともに、今度はわずかに含まれていた苦味が口の中に広がっていった。

 

 

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続きは下記にて掲載しています。

よろしければご覧くださいませ。

 

遠くの光に踵を上げて(本編94話+番外編)

http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html

 

 

説明
アカデミーに通う18歳の少年と10歳の少女の、出会いから始まる物語。

少年は、まだ幼いその少女に出会うまで敗北を知らなかった。名門ラグランジェ家に生まれた少女は、自分の存在を認めさせるため、誰にも負けるわけにはいかなかった。

反発するふたりだが、緩やかにその関係は変化していく。

http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html
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