闇の聖女 (第一部・第一章・4〜6)
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4.魔族の館

 

「サークシーズ様っ! またそれを持って帰られたんですかっ!?」

 玄関広間の大きな両開きの扉の前で、ヴィストが昨夜と同じように声を上げた。

「お姿をお見かけしないと思ったら、こんなものをまた拾いに行ってらしたなんて」

 ぶつくさと不平を洩らすヴィストを見て、サークシーズは苦笑した。こう言われることは予想済みだ。

「親は迎えに来なかった」

 サークシーズは言う。

「捨て子なのだよ」

「そんなの、珍しくも何ともありませんよ」

「そうだな」

 主人があまりにさらりとそう言うだけなので、ヴィストは顔をしかめた。それに気付き、サークシーズは諭すように言った。

「この子は我らの仲間だ、ヴィスト」

 腕の中のアシェンの、淡い金の髪を一房つまむ。

「見ろ、この髪。陽の光に当たれば溶けてしまう月の光だ。それに銀の星の瞳。この子は夜のもの、月の娘だ」

 ヴィストとむすっと<月の娘>を見た。主人の言うことは理解できる。淡い淡い金の髪。時折銀色かと見紛う灰色の瞳。その円らな瞳が、じっとヴィストを見つめ返している。確かにこの少女には夜の方がふさわしいのかもしれない。

「ですが」

 ヴイストはアシェンから目を逸らせながら言った。

「魔族の公子たるディグニフィードラともあろうお方が、人間の子を養うなど……」

「構わぬではないか」

 サークシーズは軽く笑い飛ばした。

「わたしはこの子と部屋にいる。後で誰かに人間の食えるものを持って来させてくれ」

「……承知しました」

 ヴィストは渋々頭を下げた。そして顔をしかめたまま、人間の少女を抱いた主人を見送った。

 

 

「わたしは魔族なのだよ」

 剥いてやったリンゴを握るアシェンを横に座らせて、サークシーズはそう言った。アシェンはきょとんと灰色の目を上げる。

「まぞく……?」

「そう、魔族だ。聞いたことはないのか?」

 アシェンは首を横に振った。アシェンの生まれ育った街ポウジーは確かにサークシーズの狩の領域だ。しかし、アシェンの知っている者の中で彼の犠牲になった者はいなかったし、母親も幼い娘にそんな話はしなかった。

「そうか。まだおまえは幼いからな」

 サークシーズは頷いた。

「わたしはその中でも最も位の高いディグニフィードラの一族だ。そして、最も人間に憎まれ恐れられる」

 アシェンが不思議そうな顔をしている。それを見て、サークシーズは自分の言い回しが難しいのだと気付いた。

「つまり、人間はわたしのことが嫌いだということだ」

 アシェンは可愛らしく首を傾げた。

「どーして?」

「人間を襲うから。おまえがそのリンゴを食べるように、わたしの一族は人間を襲ってその血を<食事>にしているのだよ」

 普通なら怯えてしまうだろう、おぞましい話に違いない。しかし、アシェンには全くそんな様子はなかった。あまり理解していないのかもしれない。アシェンはただ不思議そうにサークシーズを見上げ、こう言った。

「にんげんの ちを たべるの? おいしい?」

「そうだな」

「ふーん……」

 アシェンは手の中のリンゴを見つめた。そのまま何かをじっと考えているようだったが、再びサークシーズを見上げると、にこりと言った。

「じゃあ、アシェンの ちも あげる」

 サークシーズは目を丸くした。とんでもない台詞を、なんとあどけなく無邪気に言うのだろう。それも、当のアシェンは大の本気なのだ。彼女なりの精一杯のお返しのつもりなのだ。サークシーズは苦笑した。しかし、次に口を開いたときにはひどく真剣な表情になっていた。

「なぁ、アシェン。血を吸われた人間は死ぬのだぞ。全身が干からびて、ミイラのようになってな。おまえにだけは、どんなに飢えても牙を立てたくはない。たとえ、おまえが大人になっても……」

 アシェンは理解しているのだろうか。いや、やはりあまり理解してはいないのだろう。しかし、それは単に幼いからだけではないのかもしれない。アシェンにとってはサークシーズがそこにいることだけが全てで、そんなことは関係がないからなのかもしれない。

 サークシーズはまた不思議そうな顔になってしまったアシェンに、安心させるように微笑んだ。

「難しい話だったな。気にするな。それよりも、さあ、早くそのリンゴを食ってしまえ。茶色くなってしまうぞ」

「はぁい」

 アシェンは素直に答え、かぷりとリンゴを齧った。

 

 

 主人が人間の子供を養うという話は、その夜、サークシーズの館で仕えている者たちの話題をさらっていた。

「あたし、見ちゃったモンねー」

 赤茶の髪の小柄な少女に見える娘が、居間に戻ってきて自慢げに言った。小さく尖った耳を持ち、先に鈎の付いた細い尾を生やしている。下働きをしている三人の小鬼の紅一点、ルルンだ。

「今、リンゴを持っていってきたんだから」

「へぇ、どんな子?」

 同じく小鬼の少年ウィフが尋ねる。その横でもう一人の小鬼のダームも、興味深々な様子で身を乗り出している。ルルンの自慢げな表情が消え、少し冗談めかした膨れっ面になった。

「口惜しいけど、すっごく綺麗で可愛い」

「それじゃ表現不足ね」

 キュステだ。目の前の小卓に置いてある器の中の砂糖菓子をつまんでいた指をペロリと舐め、ルルンに向き直る。キュステは昨夜アシェンが眠ってしまうまで、ずっとアシェンと――いや、アシェンでというべきか――遊んでいた。そのせいか、思い入れたっぷりに言った。

「月の光と銀の星で造られたような子よ。妖精みたいだし……」

「でも、人間だ」

 今まで窓際に立って腕を組み、黙って皆の騒ぎを聞いているだけだったヴィストが、冷たく遮った。彼だけがずっと、難しい顔をしていたのだ。

「こともあろうに、ディグニフィードラの一族が人間を! こんなことが他の魔族に知れてみろ。サークシーズ様は全魔族の笑い者だぞ」

 皆は急に黙り込んだ。容姿の気に入った人間を下僕にしている者ならいるが、サークシーズはアシェンを養女にしようというのだ。この館の者はなぜかヴィスト以外はあまり気にしていないが、他の魔族ならきっと眉をひそめるだろう。

「でも……あんなに可愛いし……」

 ルルンが呟く。ヴィストはそれを一言の下に切って捨てる。

「そういう問題じゃないだろ!」

「じゃあ、どうしようって言うの、ヴィスト?」

 キュステがいつになく真剣な面持ちで訊いた。

「殺しちゃったりでもしようって言うの? いくら人間でも、あんな小さな子を? そんなこと、サークシーズ様、きっとお怒りになるわよ」

「……ああ……そうだろうな……」

 ヴィストは深刻な顔をして窓の外へ目を遣り、再び黙り込んでしまった。

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5.ひとりぼっちの昼

 

 魔族の頂点に立つディグニフィードラの一族は、死霊たちの主人でもある。彼らは自分たちの奴隷として、死霊や半死化させた人間を使役する。サークシーズの館には、彼の好みに沿う人間がいなかったせいで後者は一人もいなかったが、前者は数体存在した。

 魔族たちは太陽に弱いため、夜明けに眠り日暮れに起きる。館の者が皆休んでいる間、睡眠が全く必要ない死霊たちが、館の番人となっていた。死霊たちは、触れるだけで人間の生気を奪うことができる。また、生きた人間全てに対して強い怨念を持っている。特にティグニフィードラの住む館にいる場合には、その館の主人の力に応じて彼らの能力も上がり、神官でさえ彼らを打ち破るのは至難の技だった。そのため、彼らは昼間の館の格好の番人なのだった。

 

 

 昼間でも殆ど陽が入らないとはいえ、サークシーズの館でも昼間に活動しているのはこの死霊たちだけだった。しかし、今はもう一人いる。昼の生き物である人間、アシェンだ。

「では、アシェン様、また夜に」

 ルルンが頭を下げて、アシェンの部屋から出ていった。アシェンが朝起きたときの世話をすることになったルルンだけは夜が明けても寝ずに待っていて、務めを終えてから眠りに就くのだ。しかし、それから後、日暮れに目覚めたサークシーズが訪れるまで、アシェンはずっとひとりぼっちだった。アシェンは寂しそうに、小さな手を振ってルルンを見送った。

 アシェンにあてがわれた広すぎる部屋の窓には、僅かな陽光すら入るのを防ぐように厚いカーテンが掛かっている。ルルンが灯していったランプの明かりの中で、アシェンは殆ど読めない本を必死に見た。字は本を読めるようにと、サークシーズが少しずつ教えている。アシェンのために用意された低い机の上には、本の他にも筆記用具が一揃い置かれていて、字の練習もできるようにしてあった。

 暫くするとアシェンは本を閉じ、羽根ペンを手に取った。サークシーズに褒められるので、アシェンは文字の練習にかなりの熱を入れていた。

 毎日毎日、日中はこんなふうに過ぎていた。うっかり死霊に出くわすと危険極まりないため、部屋の外に出ることもできないようになっていた。

 それでも、アシェンは四歳とは思えない忍耐力で、日暮れにやって来るサークシーズを待った。どんなに寂しくても、親が捨てた自分を抱き上げてくれたサークシーズを信じていた。だから、待つことができた。

 日が暮れるとすぐにやって来るサークシーズは、とても優しくしてくれた。夜が更けて、眠い目を無理に開けていたアシェンが遂に睡魔に負けて寝てしまうまで、サークシーズは自分の時間をアシェンのために割いた。文字を教える他、物語をしたり、夜の森に連れ出したり。

 それは、人間が拾ってきた犬や猫の子を可愛がるようなものだったのかもしれない。館の者は皆そう思っていたし、サークシーズ自身ですら、よく分かっていなかった。しかし、たとえそうだったとしても、アシェンにとってはサークシース゛と過ごすこの時間は、たった一つの心の拠り所なのだった。

 

 

 アシェンはいつも、少しでも無理に起きていようとした。寝てしまえば、また次の夜までひとりぼっちになってしまう。その思いが分かるので、それを咎めようと思う者は、いつも見て見ぬ振りを決め込んでいるヴィストは別として、誰もいなかった。結果、アシェンの生活時間は徐々にずれていった。早寝早起きならぬ、遅寝遅起きだ。これが続くと、アシェンの起床を待たなければならないルルンがまいってしまった。

 アシェンが館に連れてこられてひと月余りが過ぎた頃、ルルンはサークシーズの部屋を訪れて哀願した。

「ご主人様ぁ、お願いです。どうかアシェン様を早くお寝かせください〜。このままじゃ、あたし、寝不足で働けません〜」

 少しやつれた様子のルルンを見て、サークシーズは苦笑した。そして、傍で文字の練習をしているアシェンを見遣る。アシェンはルルンの訴えには全く気付いていないようで、無心に羽根ペンを動かしている。拙い筆跡で、それでも一生懸命に綴られている文字は、見ていて微笑ましかった。

「アシェン」

 サークシーズは声をかけた。アシェンは手を止め、にっこりと顔を上げる。

「なーに?」

「もう、そろそろ寝ないか?」

「えー、もう?」

「ルルンが疲れているのだ。可哀相だろう?」

 アシェンは少し離れて立っている小鬼の少女に目を向け、見つめた。ルルンは哀れっぽく見つめ返す。その視線に、アシェンは困惑して俯いた。

「でもぉ……」

 アシェンは顔を上げ、灰色の瞳でひたとサークシーズを見つめる。

「アシェン、サークといっしょがいいもん……」

 そんな顔でそんなことを言われては、もう何も言えなかった。これまであるとは思えなかったが、これが父性本能とでもいうものなのだろう。サークシーズはいともあっさりと説得をやめてしまった。代わりに、ルルンにこう言った。

「すまぬな、ルルン。代わりに明朝はわたしが起きていよう。この子を連れて来たのは、わたしだしな」

「そ、そんな!」

 ルルンは恐縮して慌てた。召使のいやがった仕事を、主人が代わってやろうと言うのだ。そんな畏れ多いことを喜んで受け入れるなど、ルルンにはできない。

「ご主人様に押し付ける気なんて、あたしは……ヴィスト様にも叱られますし……」

「構わぬ。一日だけだ。明朝は早く寝るがいい」

 サークシーズは笑ってそう言った。

 

 

 その夜かなり遅くなってアシェンの瞼が重くなってきたのに気付くと、サークシーズは読んでやっていた赤い表紙の古びた本を置いて、少女の顔を覗き込んだ。

「アシェン、もう寝なさい」

 そう言われると、アシェンは重い瞼を無理やりに引き上げようとした。その無駄な努力を見て、サークシーズは更に言った。

「今日は、おまえが起きるまで、わたしが傍にいてやるから」

 アシェンはゆっくりと、眠そうな顔を上げた。

「ほんと?」

「本当だ」

 サークシーズは頷く。

「だから、な?」

 たかが四歳の子供が睡魔に勝てるはずがない。ようやくアシェンは頷いた。

「よし、いい子だ」

 サークシーズはそう言って、もう殆ど眠ってしまっているアシェンを抱き上げた。

 少女の部屋に入ると、サークシーズはアシェンを着替えさせて寝台に寝かせてやった。すると、今まで殆ど焦点の合っていなかった目が、じっとサークシーズを見つめた。

 そのとき、サークシーズは不意に悟った。自分がこの少女に、どれ程頼られ慕われているか……その大きさを。それは、サークシーズが思っていたよりも、ずっと遥かに大きく。

 自分でも戸惑ってしまう程の優しい気持ちに突き動かされ、サークシーズは応えるようにアシェンの手を握ってやった。それで安心したのか、アシェンはすぐに健やかな寝息をたて始めた。

(こんな気持ちが魔族のわたしにもあったのか……?)

 アシェンがすっかり寝入ってしまったことが分かっても、サークシーズは少女の小さな手を握ったまま、寝台の脇に運んだ椅子に座っていた。離れても目を覚ましはしないだろう。しかし、そうすることは気が咎めた。だから、あどけなくも美しい少女を、自分の中の何かを確実に変えた人間の幼い少女の寝顔を、いつまでもじっと見つめていた。

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6.ヴィスト、すきよ

 

 アシェンが目を覚ましたのは、もう陽が随分高くなってからだった。

「アシェン」

 サークシーズの声に、アシェンはゆっくりと寝ぼけ眼を向けた。

「……サーク?」

 まばたきをする。やがて目の焦点が合うと、その目がパッと輝いた。

「サーク!」

 アシェンはサークシーズに飛びついた。

「ほんとにサークがいる!」

「そう約束しただろう?」

「うん!」

 アシェンは元気に頷いた。

 いつもルルンがやっていた仕事は、アシェンの身支度の手伝いと朝食の準備だった。アシェンに洗面をさせた後、サークシーズは厨房へ降りて、昨夜ルルンがアシェンの朝食と昼食用に準備をしておいたリンゴのジュースとパンとチーズ、そしてスープとアーモンドの焼き菓子を取ってきた。そして、アシェンがその内の朝食分を食べている間に、アシェンの着替えを用意しようとして、衣装箪笥を開けた。

 中を見て、サークシーズは一瞬目を丸くした。そして、すぐに苦笑した。三日に一着の割合で作ったかのように、箪笥の中は色とりどりの服が驚くほど多く吊られていたのだ。キュステのしそうなことだった。館の者たちの衣服は全てキュステが取り仕切っているのだが、本人は少々不満だったのだ 。派手で豪華な衣装ばかりを作りたいのに、皆の嗜好を気遣ってそれができなかったからだ。そのちょうどいい願ってもないはけ口を、キュステは存分に利用しているらしかった。

「毎日おまえの格好を見て分かってはいたが、こうしてまとめて目にすると壮観だな」

 サークシーズはそう言って、アシェンを振り返った。

「今日はどれを着たいのだ?」

「サークがえらんで」

「わたしが、か……」

 サークシーズはざっと全ての衣装を眺め、薄紫のものを選んだ。サークシーズがそれを持っていき、アシェンを着替えさせた。

 それだけを済ませると、サークシーズはアシェンに新たに一冊の本を持たせた。

「ではアシェン、わたしは寝てくるからな。寂しいだろうが、夕刻までいい子で待っていなさい」

 持たされた青い表紙の本を重たそうに抱き締め、アシェンは素直に頷く。サークシーズは少女の月光の髪を一撫でし、立ち去ろうと踵を返した。だが、あまりに素直に自分を見送る少女が、何か可哀相になってしまう。本当は行ってほしくないのに、いい子でいようという努力がありありと感じられるのだ。

 サークシーズは足を止め、アシェンに向き直った。歩み寄って背を屈め、アシェンの華奢な両肩を掴む。

「今日だけ共にいてやろう」

 アシェンの顔が嬉しそうに輝いた。しかし、すぐに心配そうに眉を顰めた。

「サーク、ねむくない?」

「大丈夫だ。さあ、その本を読もう」

 サークシーズがそう言うと、アシェンは今度こそ本当に嬉しそうに頷いた。

 

 

 日没後、サークシーズが部屋のカーテンを開けていたとき、誰かが扉を叩いて開けた。

「アシェーン」

 キュステだった。彼女は背に何かを隠し持って、楽しそうに部屋に入ってくる。サークシーズが振り向き、声をかけた。

「早いな、キュステ」

 思わぬ声にキュステは驚いて、ピタリと足を止めた。

「サ、サークシーズ様っ!」

 慌てて頭を下げる。

「も、申し訳ございませんっ! もういらしてるなんて思わなかったものですから……」

「いや、よい。それより、やけに楽しそうだったが?」

「あっ、そうそう。そうなんですよ」

 キュステはアシェンに駆け寄った。そして、背に隠し持っていたものを広げた。桃色の、どれもそうなのだが、やけにひらひらした服が現れる。

「ほら、新しい服、作ったのよ。可愛いでしょ? 着せたげるからね」

 ウキウキとそう言って、キュステはアシェンの服を脱がせ、新しい服に着替えさせた。そして服に合わせて共布で作ったリボンも結ぼうとして、ふと、あることに気付いた。

「あら、ルルンったら今日はリボン結んでくれなかったの? 絶対に着けてあげてねって、言ってあるのに」

「ルルンじゃなくて、サークよ」

 アシェンはいかにも嬉しそうにそう言った。キュステの顔が呆ける。

「サークシーズ様……?」

 キュステはゆっくりと主人に目を向けた。そういえば、衣が昨日のままだ。同じ衣を続けて着ることなどないのに。

「サークシーズ様、もしかして一日じゅう……」

「まあ……な」

 サークシーズは苦笑して頷いた。呆けていたキュステはややするとにっこりと笑い、アシェンの柔らかな両頬に手を当てて言った。

「そうなの。サークシーズ様といっぱい遊べたんだ。良かったね、アシェン」

「うん!」

 アシェンは本当に幸せそうに、大きく頷いた。

 そのとき、廊下から怒った声が飛び込んできた。

「サークシーズ様っ!」

 ヴィストだった。怒りに顔を真っ赤にして、扉の向こうに立っている。今の会話を聞いたのだろう。しかし、サークシーズは驚いたふうもなく、静かに応じた。

「ヴィストか。どうした?」

「どうした、じゃありません! 少しはご自分の身分というものを、わきまえてください! なぜこんなチビのために、あなたが起きてなきゃならないんです!?」

 こんなチビ、と言われた当のアシェンはヴィストの投げた鋭い視線に一瞬身を竦め、彼女にリボンを結んでいたキュステに擦り寄った。そして、可愛らしく小首を傾げた。

「ヴィスト、どーして、おこってるの?」

 追い討ちだ。ヴィストはピクっと顔を引きつらせた。

「どーして、だと!?」

 ヴィストは主人の前であることも忘れて、ずかずかとアシェンに詰め寄った。

「だいたい、おまえがなぁ」

「ヴィスト、よさぬか」

 サークシーズが呆れ顔で止めた。その声でヴィストはハッと我に返り、主人の前であることを思い出した。慌ててその場に跪く。

「も……申し訳ございません」

「なあ、ヴィスト。おまえがわたしのことをひと一倍気遣ってくれているのは、よく分かっているのだよ。それに、ディグニフィードラの一族たるこの身が人間などを養うなんて、というおまえの言い分も分かる。しかしな」

 サークシーズはアシェンを見遣った。それに気付いて、アシェンがにっこりと笑う。

「なぜ連れて来る気になったのか、本当は自分にも分からぬ。ただの気紛れかもしれぬ。だが、この子はわたしを信頼している。それを裏切るなどということは人間どものすることだ。わたしは裏切りたくはない。おまえたちの信頼を裏切らぬのと同じようにな」

「サークシーズ様……」

 ヴィストは目を伏せた。そして、遥かな昔を思い出す……。

 門出したばかりだったある夜に、ヴィストは偶然サークシーズと出会った。その気高く力に溢れた姿を一目見たときの心の震えは、今もまだはっきりと覚えている。我知らず、自然に膝をつき頭を垂れていた。それは純粋な崇敬の念の表れだった。サークシーズはヴィストのその気持ちを快く受け取ってくれた。それからの長い間、サークシーズがヴィストの信頼を裏切ったことは、ただの一度もない……。

 こういう主人だからこそ、この館の者は皆、喜んで仕えているのだ。小鬼族の三人はともかく、決して低くはない身分のヴィストやキュステまでもが。

 こういう方だからこそ……。

 ヴィストは目を上げた。

「ならば、サークシーズ様、せめてその子の世話は、わたしにお命じください」

 主人が人間の子を養女にすることに対する異議が解消されたわけではない。ただ主人の負担をなくしたかっただけだ。サークシーズにもそれは分かっている。しかし、彼はその意を汲んで頷いた。

「分かった。頼もう」

「あ、じゃあサークシーズ様、あたしも。みんなで交代してやりますわ」

 キュステがそう言ってから、横目でジロリとヴィストを見た。

「だって、ヴィストってば、この子苛めるもの」

「おい、キュステ!」

 慌てて反論するヴィスト。

「俺がいつ苛めたってんだよ!?」

「たった今よ」

 キュステはアシェンをギューッと抱き締めた。

「ね、アシェン。このお兄ちゃん、怖いわよねー?」

 しかし、アシェンはヴィストににっこりと笑いかけた。

「アシェン、ヴィストすきよ」

 ヴィストとキュステは唖然とした。アシェンはまだ、にっこりとヴィストを見ている。だんだんとヴィストの表情に困惑の色が浮かび、ヴィストは慌ててそっぽを向いた。

「と、とにかく! サークシーズ様はちゃんとお休みになってください! 失礼します!」

 そう言い捨てて、ヴイストは部屋から出て行ってしまった。半ば逃げるようなその後姿を見て、キュステは思わず吹き出した。

 

 

 こうして、アシェンの起床を待つ仕事は、館の者が交代で受け持つことになった。しかし、アシェンの生活時間のずれは更に進んでいき、いつしか館の皆と同じ生活を送れるようになっていた。それと同時に、この仕事も必要なくなった。

 やがて、アシェンがこの館にやって来てから二ヶ月が経ち……。

 その日の夜、小さな事件が起きたのだった。

 

(闇の聖女(第一部・第一章・挿入話・7〜8)につづく)

 

 

 

説明
人間に<魔物の森>と呼ばれる深い森に、ある日幼い少女が、実の母親によって再婚に邪魔だという理由で捨てられた。
少女の名はアシェン。まだ、たったの四歳だった。
その夜、この森の奥の館の主であるサークシーズとアシェンは出会った。
サークシーズは魔族の最高位<ティグニフィードラ>の一族――吸血妖魔だった。
しかし、アシェンの幼いながらの、まるで月の光のような美しさに惹かれ、サークシーズはアシェンを館に連れ帰り、養うことにしてしまった。

アシェンは自分を迎えてくれたサークシーズに絶対の信頼を寄せ、サークシーズはアシェンを<月の娘>だと言って溺愛した。
館でただひとりアシェンの存在を受け入れられなかった魔狼のヴィストも、いつしか不器用ながらもアシェンを受け入れ、
アシェンは、サークシーズや彼に仕える館の魔族たちそれぞれの、それぞれなりの愛情の中で、何不自由なく幸せに過ごす。

その幸せは、いつまで続くのか……。
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