遠くの光に踵を上げて - 第20話?第24話 |
20. 血塗られた家系
サイファに誘われるまま、ふたりは暗い路地裏をついていった。何度か曲がって行き、道はだんだん細く暗くなっていった。漠然とした不安が沸き上がる。リックは落ち着きなく左右をきょろきょろ見回している。一方のジークは、視線だけを動かし、あたりの様子をこっそりとうかがっている。
「この下だよ」
サイファはにこやかな顔で振り返り、親指で斜め下を指した。そこには、地階へ続く薄暗い階段があるだけで、看板などは何も出ていなかった。
ジークとリックは、お互いに何か言いたげな顔を見合わせた。
そんなふたりの様子を楽しむかのように、サイファは笑顔のまま、何も言わずに降りていった。ふたりも、置いていかれないように、慌ててついていった。
短い階段を降りきると、そこにはごく小さな空間があった。使い古された木製の扉だけがあった。
サイファはその扉を開け、中に入っていった。そのすぐ後ろから、ふたりも足を踏み入れた。
テーブルが三つほどとカウンター数席。客も数人ばかり入っている。何も心配する必要のない、ごくありきたりな酒場だった。ありきたりでないのは狭さだけである、
ジークたちは、ようやく少し緊張が緩んだ。
「あら、お久しね。サイファ」
「ごぶさたしています」
サイファは声を掛けてきた女性のいるカウンターへと近づいた。
その女性は、歳は40ほどだろうか。若くはないが、長い艶やかな髪をたたえた美しい人だ。話ぶりからいって、おそらくここの女主人だろう。
彼女はサイファに背を向け、グラス片づけながら尋ねた。
「どう? ウチの娘は元気でやってる?」
「ええ、それはもう。毎日怒ったり笑ったり、相変わらずですよ」
サイファは茶化すように、抑揚をつけて返事をした。
「そう。サイファがそういうんなら心配ないわね。……ところで」
そこまで言うと、彼女は急にくるりと振り返った。そして、右手でほおづえをつき、まっすぐふたりを見据え、ニッと笑った。
「後ろのふたりは新人クン?」
「いえ、アカデミーの生徒です。娘の友人ですよ」
「へえ、アンジェリカの。良かったじゃない」
サイファはふたりの後ろにまわり込んだ。そして、右手でジーク、左手でリックの肩を抱き、にこやかに紹介を始めた。
「こちらはジーク君とリック君。そしてこちらは王妃様の母君のフェイさん」
「……え?」
ふたりは同時にサイファに振り向いた。
「あははははは」
その様子がおかしかったのか、女主人が豪快な笑い声をあげた。
「驚くのも無理ないわ。とうてい王族に関わりあるようには見えないわよねぇ。でも娘は娘、私は私。娘はどうであれ、私はただの酒場の女だから」
「そういえば、王妃様は酒場の娘だとかいう噂、聞いたことなかった?」
リックははっとして、ジークに問いかけた。だが、ジークが答えるより早く、女主人のフェイが割って入った。
「噂じゃないわ、本当のことよ。でも勝手ね。王宮の連中も世間も。半ば強引に連れ去っておきながら、酒場の娘だの、父親がいないだの、財産目当てだのごちゃごちゃと。やりきれないわよ」
吐き捨てるように、一気に不満をぶちまける。
「すみません」
サイファは穏やかな笑顔のまま、頭をわずかに下げた。
「別にあなたが悪いわけじゃないでしょ」
フェイはわずかにため息をつき、素っ気なく言った。
「そこら辺の空いてる席に座ってちょうだい」
「個室をお願いしたいんですけど、空いてますか?」
それを聞いて、フェイの動きが一瞬止まった。そして、すぐに表情を緩めると、軽く息を吐いた。
「空いてるわよ。好きに使って」
サイファは一礼すると、ふたりを引き連れ、カウンターの奥へ入り込んでいった。
「なんか……店というより普通のおウチみたいですね」
手あかの付いた木製のタンス、小さめの机、古びたソファ。リックの言うとおり、そこは酒場という雰囲気とは少し遠い感じだった。
サイファはふたりの背中を軽く押し、ソファの方へ導く。
「ここはお店ではないんだよ。フェイさんの家の応接間兼リビングルームなんだ」
「え? それって……」
開いた入口からフェイが顔だけ覗かせた。リックの言葉をさえぎると、自分の大きな声を部屋に響かせる。
「サイファが個室個室ってうるさいから、仕方なく貸してあげてんの。これだからおぼっちゃんは困るわ」
半ば諦めたような投げやりな口調だが、どこかあたたかみを感じた。
「すみません」
サイファはにこやかに謝った。そして、満面の笑みを彼女に向けた。
「……っとに、いっつもその笑顔にごまかされるわね」
フェイは、気だるく無造作に髪をかきあげた。
「で、サイファはいつものでいいわね。おふたりさんは?」
「僕はカルアミルクお願いします」
リックは即答した。
「俺は、スクリュードライバーで」
ジークは少し考えながら答えた。
「オーケー。ちょっと待っててね」
ウィンクをひとつ残して、フェイはその扉口から姿を消した。
「この店は昔から王宮で働く者たちの隠れ家的な場所なんだよ」
サイファはソファに身を預けて、くつろいだ様子を見せた。
「看板とか何もなかったので、ちょっとびっくりしました」
リックはようやく安堵して笑顔を見せた。ジークも無言でほっとした表情を浮かべる。
「フェイさんも、娘の王妃様も、口は悪いけどいい人たちだよ。今度、王妃様にも会ってみるか? 紹介するよ」
「えっ?!」
ジークとリックが同時に驚きの声をあげた。
「おまちどう」
そこへ、トレイにグラスを3つのせ、フェイが勢いよく入ってきた。
「ごゆっくり」
机の上にグラスを乱暴に置くと、大きな足どりで戻っていった。扉口でふいに立ち止まり、ゆっくり振り返ると、今までとは違った張りつめた表情でサイファを見つめた。
「ここ、閉めとくから。用があったら呼んで」
「ありがとうございます」
フェイとは対照的に、サイファは微笑みを崩さずに答えた。
バタン、と軽めの音を立てて扉が閉じられた。
「フェイさんは察してくれているんだ。私が個室を要求するときは、重大な話をするときだとね」
サイファはそう説明をした。彼の口元は笑っていたが、その目はふたりを突き刺すほどの鋭さを持っていた。
グラスの氷がカランと音を立てて崩れた。
「アンジェリカが泣いたときのことを憶えているか?」
サイファの問いかけに、ふたりは黙って頷いた。
「あの子は泣かない子なんだ」
「泣かない子?」
リックがおうむ返しに尋ねた。
「親族にいろいろ言われてきたということは、さっきアンジェリカが言ったとおりだが、そんな目にあっても彼女は涙ひとつ見せない。ただ感情を押し殺したような顔でじっと耐えている」
「強いんですね」
リックがあいづちを打った。
しかしサイファは、うなだれて首を横に振った。
「そうじゃないんだ。嵐が去ったあと、アンジェリカは意識を失うように眠りについて、そのままなかなか目を覚まさない。ひどいときは3日も眠ったままだった」
ジークが息を飲む。胸の鼓動がだんだん大きくなっていくのを感じた。
「ラウルによれば自衛本能だそうだ。自分の許容以上のことがなだれ込んできたために、自衛のため脳が活動を停止する……自分が壊れる前にな。ここで無理に起こしてしまうと、彼女を壊してしまうかもしれない。だから待つしかないんだ。とてもつらいよ。もう永遠にこのまま目覚めないかもしれないと、心臓を掻きむしられる気持ちで、ただ待つことしか出来ない」
サイファは眉間にしわを寄せた。
ジークはサイファの心情、アンジェリカの心情を思い、息が止まりそうになった。
リックもうつむき、苦しそうに眉根を寄せた。そして唐突にはっとすると顔を上げた。
「もしかして、こないだラウルのところで寝てたっていうのも……」
「そうだ。それもな。何かを察したようで、ラウルがアンジェリカを呼んで、看ていてくれたそうだ」
ジークの頭にもやがかかったように感じた。ラウルの新たな面を知るたび、彼のことがだんだんわからなくなっていく。
「そんなアンジェリカが泣いたんだよ。君のことでね」
サイファはゆっくり顔を上げ、まっすぐジークを見つめた。
ジークの心臓が飛び出しそうな勢いで打った。
「それを見て、私は決めたんだ。君たちに託そうと」
そう言うと、少しうつむき、自嘲気味に笑った。
「もちろんそれは私たち親のエゴイズムだということは、十分承知している。君たちがそれを受け止める義務はない。もし背負いきれなくて、逃げ出しても、見捨てても、君たちを責めるつもりはない」
ジークはサイファの言っていることが理解できず、ただ頭が混乱するばかりだった。わずかに震えながら、ゆっくりと口を開いた。
「どういうこと、なんですか?」
それだけの言葉を、喉の奥から絞り出した。
「すべてを知ったうえで、アンジェリカと仲良くしてほしい。もっと言えば、あの子のことを救ってほしい……。私たちの勝手な望みだよ」
ジークは何かを言おうと、言葉を探したが、見つからなかった。
リックもただ呆然としているだけだった。
「とりあえず飲もうか」
重くなったその場の雰囲気を払拭しようと、サイファは努めて明るく言った。そして、まだ一口も手のつけられていないグラスを持ち上げた。グラスの外側についていた水滴が滴り落ちた。
「君たちも」
にっこりと笑って左手を差し出し、ふたりにもグラスを取ることを促した。ふたりは言われるがままに、グラスを手に取った。
「乾杯」
サイファは静かに言い、グラスを合わせた。そして、バーボンを少し流し込むと、再び口を開いた。
「これから話すことは、アンジェリカ個人のことではなく、ラグランジェ家全体に関わることだ。これはラグランジェ家以外の人に漏らすことは絶対に禁じられている。ラグランジェ家の中でも知っている人間はそう多くないんだ。だから、必ず他言無用でお願いするよ。親兄弟にも」
ジークもリックもグラスを持ったまま、動きが止まっていた。これから話される内容が何なのか想像もつかない。緊迫した空気が、ふたりを息苦しくさせる。
「もし、私が君たちに話したことが知れたら……。私も君たちも、命を狙われることになるかもしれない」
サイファはまっすぐジークを見据えた。その瞳の真剣さが、彼の言っていることが決して大げさではないということを物語っていた。
ジークはサイファから目をそらすことなく、まっすぐ見つめ返した。
「わかりました」
感情を抑えた低い声で、そう返事をした。
リックは歯をくいしばり、無言でうなずいた。
サイファは再びバーボンを口にした。そしてグラスをそっと机に戻すと、深く息を吐き、話の続きを始めた。
「長老会、というものがラグランジェ家にはあってね。最重要事項はここで決定されるんだ。構成員は五人だが、誰であるかは明かされていない。家族にも秘密らしいので、本当に構成員どうししか知らないことになるな。まあ私には何人かの察しはついているが……」
そこまで言うと、少し目を伏せて考え込んだ。だが、すぐに顔を上げると、じっとふたりを見つめた。その目には強い光が宿っていた。
「その長老会に殺されかけたことがあるんだよ、アンジェリカは。生まれたばかりの頃にね」
「そ、んな……」
思わずリックが声をもらす。
「長老会だという確証はないが、私は間違いないと思っている。彼女の髪の色と瞳の色を知り、生まれてこなかったことにしようと思ったのだろう」
サイファは目を閉じて、息を吸い込んだ。そして、少し前かがみになり、膝の上で手を組んだ。
「ところが、錯乱したレイチェルが、逆にその暗殺者をあやうく殺しかけてしまってね。まあ自分の子供が首を絞められている場面に遭遇して、錯乱するなという方が無理な話だが」
「一度だけ、ですか?」
ジークは冷静を装ったつもりだったが、激しい鼓動の影響を受けて、その声は揺れていた。
「ああ。それ以降は一度も襲われていない。だからといって不安がなくなったというわけではないよ。ラウルにアカデミーの担任を頼んだもの私だ。アンジェリカを見ていてもらえるようにな」
そう言ったあと、サイファはにっこり笑った。
「ラウルが担任になったことは、君たちには迷惑だったと思うが」
「いえ」
ジークは反射的に答えた。なぜそう答えてしまったのか、自分でもわからなかった。いや、この状況で迷惑だなどと言えるはずがない。
彼の複雑な表情を見て、サイファは再びにっこりと微笑んだ。ジークは、彼に心の内を見透かされたように感じて、ばつが悪そうに下を向いた。
「まあ、飲んで」
サイファはふたりにすすめると、自らもグラスを取り、残り少なくなったバーボンを一口で飲み干した。カラカラと音をさせながら、ゆっくりとグラスを置く。ジークとリックも、それに続いて少しだけ口をつけるとグラスを置いた。ふたりとも衝撃的な話を聞いたばかりで、悠長に飲むなどという気分にはなれなかった。
サイファはゆっくり目を閉じた。
「実はね……」
その不安を煽るような切り出しに、ふたりの緊張が一気に高まった。無言で次の言葉を待つ。
「まだ話したいことはあるんだよ」
サイファはじっとジークを見つめた。
「まだあるんですか?」
リックは驚きを隠しきれなかった。サイファは彼に振り向くと、穏やかな表情を浮かべた。
「今日は一気にたくさん話しすぎたね。この話はまた今度にしよう」
「今、聞かせてください!」
ジークは机に手をつき、身を乗り出して叫んだ。横でリックが目を丸くしている。ジークははっとして、その身を戻した。そして、うつむきながら、小さな声で付け足した。
「……気になりますから」
サイファは再びジークを見つめた。ジークはその瞳の深さに、吸い込まれそうな感覚をおぼえた。
「では、あと少しだけ付き合ってもらうとしよう」
ジークとリックは息を飲んで頷いた。
「ラグランジェ家には婚約制度というものがあってね。本家の子は皆、10歳までに婚約者を決めなければならないんだ。相手は分家からと決まっているし、本人の意向など全く無視される」
「え……。それじゃ、アンジェリカも?」
リックは驚き、焦って尋ねた。
「いや、まだ決めていない。というか、決めるつもりもないよ」
サイファはにっこりする。
「おかげで、今、あちこちからせっつかれて大変だよ。でも、あの子には自分で自分の幸せを見つけてほしい。それが私たちの願いだ」
穏やかだがきっぱりとした口調で言い切った。リックはほっとしたように笑顔を見せた。ジークは小さく首を縦に振った。
しかし、サイファの顔にふと暗い影が広がった。小さく息を吐くと、低い声で話し始めた。
「ただ、それは理想論であり、現実となると、それを阻むものが出てくる」
ジークとリックは固唾を飲んで耳を傾けた。今度は一体どんな話なのだろうと、考えるだけで息苦しくなる。
「私が生まれるより前の話だが」
両手を口の前で組み、少しうつむいた。
「本家の娘で、決められた婚約者でない人と一緒に逃げた……。俗っぽく言えば駆け落ちだな。そういうことをした人がいたんだ」
サイファはうつむいたまま淡々と話し続けた。しかし、サイファの冷静さとは裏腹に、ジークの鼓動は何かに煽られるように、どんどん強くなっていった。
「だが」
短く強い調子で言うと、サイファは上目づかいにジークに視線を送る。
「それから間もなく、相手の男が亡くなった」
サイファは、ジークの瞳を射抜くような強さで見つめた。
「表向きは事故死、ということになっているが、おそらくは……」
「長老会、ですね」
リックが硬い表情でゆっくりと言った。その額には冷や汗がにじんでいる。
「ああ」
サイファは激しい感情を懸命に押さえ込みながら、低い声で返事をした。
「ここまでのことをやってきたからこそ、ラグランジェ家を、金の髪を、青い瞳を、守ってこられたのだと思うよ。いったいどれだけの人間が血と涙を流してきたのか……。こんなもののために」
サイファは嫌悪感をあらわにすると、自分の横髪を無造作に掴み、ひねりながら引っ張った。
「私たちは何があっても全力で守るつもりだが、守りきれる保証はどこにもないんだ。ときどき思うよ。ラグランジェ家のしきたりに従って、おとなしくしていた方が、彼女のためなのかもしれない、とね」
「そんなことは、ないと思います」
ジークはときおり言葉を詰まらせながら言った。サイファはその言葉を聞くと、にっこり笑った。
「そうだな。これからは、もう迷わなくて済みそうだ」
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
外へと続く階段を前にして、見送りのフェイは少し残念そうに言った。
「彼らがあした、バイトがあるっていうのでね」
サイファがそう言うと、リックが申しわけなさそうに軽く頭を下げた。
「そう。君たち、ひとりでもいいからいつでもいらっしゃい」
フェイは挑発的な笑みを浮かべると、下からふたりを覗き込んだ。
「はい」
少し頬を紅潮させながら、リックが返事をした。ジークもその返事に合わせて頷いた。
三人はフェイに見送られながら、短い階段を上がり、通りに出た。辺りはもうすっかり暗くなっていた。もともと薄暗い道だったが、灯りがほとんどないため今はすっかり闇である。
「ところで、何のバイトかは教えてもらえないのかな」
サイファはふたりを振り返ると、いたずらっぽい笑顔を見せた。
ふたりは互いに顔を見合わせると、ジークが小さく頷いた。リックがサイファの方に向き直る。
「あの……平たくいうと、着ぐるみショーです。魔導が使えることが条件だったので、僕たちにはちょうどよかったんです。アカデミー魔導全科の生徒だって言ったら即OKでした」
「意外なところで恩恵が受けられるものだね」
サイファがにこやかに相槌を打った。
「はい。僕もこんなに効力があるとは思いませんでした。それで着ぐるみショーなんですけど。どういうものかというと、いま子供たちに人気の戦隊もので、魔導の力をつかって怪人を倒し世界の平和を守るっていうストーリーなんです。僕がイエローでジークがブルーで……」
「そんなことどうでもいいだろ!」
だんだん嬉しそうに話しだしたリックを、ジークはあわてて止めた。彼は恥ずかしそうにうつむいた。しかし、わずかに顔を上げると、サイファの様子をこっそり窺った。サイファは穏やかな笑顔をたたえたまま、ふたりを見守っていた。
「俺、アンジェリカに言います。ちょっと恥ずかしくてあんまり言いたくなかったんですけど、アンジェリカの秘密だけ聞いておいて、自分のことは言わないっていうのもやっぱり卑怯な気がしますし」
サイファは笑顔で頷いた。
「きっと喜ぶよ、あの子」
靴音を響かせながら通りを歩く。ジークは前を行くサイファの背中をじっと見つめながら、意を決したように口を開いた。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
サイファは足を止め、顔だけジークに振り返った。
「どうして、アンジェリカの髪と瞳は黒いんですか?」
沈黙があたりを包んだ。リックは顔から血の気が引いた。なんてことを訊くのだと焦った。しかし、サイファは動揺することなく、にっこりと笑った。
「それは、私には答えることのできない質問だ」
そう答えると、再び前を向き、なにごともなかったかのように歩き出した。
ジークには、その微妙な言いまわしの意味することはわからなかったが、もうこのことについては触れてはいけないような、そんな気にさせられた。
21. それぞれの理由
「しつこいようだけどな。ウチはホントに狭いし、汚いぞ」
「私のところが普通じゃないってことくらいわかってるわ」
アンジェリカを真ん中に、右側にジーク、左側にリックと、三人が並んで歩いている。雲の切れ間からのぞいた太陽が、彼らの後ろに短い影を作っていた。
ジークはズボンのポケットに両手を突っ込み、難しい顔をしながら背中を丸めた。
「普通のウチと比べても、狭いんだよな」
力のない声で言うと、ひとり苦笑いをした。アンジェリカは横目で少しジークを見上げた。
「私は気にしないけど?」
「俺が気にするんだよ」
「ふーん」
そう言いながら、彼女は首を軽くかしげた。
リックはそのふたりのやりとりを、ただ微笑みながら眺めていた。
彼らはアカデミーの前でアンジェリカと待ち合わせ、一緒にジークの家へ向かっていた。
アンジェリカは今までアカデミーと王宮くらいにしか行ったことがなかった。狭い路地裏、ひしめきあう家々、慌ただしく行き交う人々……初めて目にするそれらの光景に、彼女は少なからず高揚感を覚えていた。しかし、それを悟られるのは恥ずかしいような気がして、表情には出さなかった。
「ずいぶん歩いたけど……」
「もうすぐだ。疲れたのか?」
ジークは隣のアンジェリカに顔を向け、挑発するように笑った。
「10歳の女の子にはきついよね」
さらにリックが追いうちをかけた。悪気はなかったのだろうが、アンジェリカは子供扱いされたと感じてムッとした。重くなった足を懸命に動かし、少しも遅れまいと必死でついていく。
「別に疲れてなんか……。毎日この距離を歩いて通っているのかと思って」
「慣れればそうたいした距離でもないよ。ね、ジーク」
「まあな。いい運動にもなるし」
ふたりは事もなげに行ってのけた。アンジェリカは口をきゅっと結び、意識的に大股で歩き出した。
「あれ?」
リックが素頓狂な声をあげながら、前を指さした。そしてゆっくりジークの方に顔を向けた。
「おばさん、立ってるよ」
ジークは足を止め、リックの指す方を見た。そのとたん、顔から血の気が引いた。そして、唐突にものすごい勢いで走り出した。リックは小走りで後を追っていった。アンジェリカも何がなんだかわからないまま、それに続いた。
「おい! なんでこんなところに立ってんだよ」
ジークは眉間にしわを寄せ、その女性に詰め寄った。しかし、彼女は全く動じることなく、平然としていた。
「あんたがカノジョを連れてくるなんて初めてだから、気になっちゃって何も手につかないのよね」
「だから彼女じゃねぇって言ってんだろ。少しは人の話を聞けよ」
ジークは低い声でさらに詰め寄った。
「ジークのお母さん?」
アンジェリカは隣のリックを見上げ、小さな声で尋ねた。
「そう、レイラさんっていうの。あのふたりの親子ゲンカはいつものことだから、気にしない方がいいよ」
リックは優しく笑いかけながら答えた。
レイラは華奢で小柄だが、力強さを感じさせる女性だった。黒髪を後ろでひとつにまとめ、八分丈のパンツ姿で活発に颯爽と身をこなす。そして、その表情は自然でいきいきとしていた。ジークとは違い、とても人なつこそうに見えた。
「おばさん、こんにちは!」
リックは元気のいい声を投げかけた。レイラは目の前の息子をよけるように体を傾けると、顔をパッと輝かせた。
「こんにちは、リック。その子ね!」
アンジェリカを見るなりにっこりと微笑んだ。
「ずいぶん小さいお嬢さんだけど、どこから連れてきたの?」
興味津々にそう言いながら、ひじでジークの脇腹を小突いた。
「人を誘拐犯みたいに言うなよ」
ジークは冷めた口調で言った。すでに疲れ切っている。リックはアンジェリカの肩に手を回し、にっこりと笑った。
「僕らのクラスメイトなんです」
アンジェリカはおずおずと一礼した。
「え? ホント? こんなにちっちゃいのに?」
「あんまりちっちゃいちっちゃい言うと、キレるからな、こいつ」
ジークは乾いた笑いを浮かべた。
「あ、ごめんね」
レイラは軽く謝ると、アンジェリカの前に歩み出た。そして、とまどう彼女の手を取り、軽快に歩き出した。
「お……おい!」
ジークは後ろから慌てて追っていった。
「遠慮しないでどうぞ」
レイラは木の扉を勢いよく開けた。そして、狭く薄暗い玄関に、アンジェリカたちを招き入れた。
「なんでおまえが仕切ってんだよ」
半ば諦め口調で、ジークがつぶやいた。
「母親に向かっておまえとは何よ。ほら、あんたもさっさと入んなさい」
「……息子に向かってあんたってのはいいのかよ」
レイラは息子の言葉を背中で聞き流しながら、アンジェリカの方をじっと見つめていた。
「どこかで……会ったことある気がするんだけどなぁ」
「え?」
アンジェリカはレイラを振り返った。
「やっぱり絶対にどこかで見たことあるのよね」
身をかがめて、よりいっそう深く、アンジェリカを覗き込んだ。
「あの……私は、記憶にないですけど」
ふたりのそんな会話を聞いていたリックが、ふいに口を挟んだ。
「テレビじゃないですか? アンジェリカはテレビの広告に出てたから」
レイラは目を大きく見開くと、手をぽんと打った。
「そう! 謎のCM美少女!」
「その俗っぽい言い方はなんなんだ!」
ジークは耳を赤くしながら叫んだ。しかし、レイラは息子の声など耳に入らない様子で、あごに手をあて考え込んでいた。
「ちょっと待って。そうするとこの子、ラグランジェ家のお嬢さんてことになるけど……」
「そうなんです」
リックはあっさり肯定した。
「うっそぉ!」
レイラは両手を頬にあて、家の外まで突き抜けんばかりの声をあげた。ほとんど悲鳴といってもよかった。勢いよく後ろのジークを振り返り、胸ぐらを掴むと、力まかせに揺さぶった。
「あんたって子は! ラグランジェ家のお嬢さんになんてことを!!」
「俺が何をしたっていうんだよ」
「あの、私、なにもされてませんから」
アンジェリカは、レイラのあまりの取り乱しように驚き、彼女を鎮めようと、とっさにそう言った。しかし、彼女の勢いはおさまらなかった。
「こんな狭くて汚いところに連れ込んでんじゃないの!」
「本人が来たいって言ったんだよ」
「本当に私が来たいって言ったんです」
ジークは面倒くさそうに投げやりな態度で答えていたが、アンジェリカはレイラを落ち着けようと必死だった。レイラはようやくジークから手を離した。そして、軽くため息をつくと、自分の額に手をのせた。
「……なんだか頭痛がしてきた。ねぇリック? ジークが変なことしないか見張っててよ」
「自分の息子がそんなに信用ならねぇのかよ」
ジークは深くため息をついた。うつむきながらレイラの横をすり抜けた。
「行こうぜ」
階段の前まで来ると、左手を軽く上げ、アンジェリカとリックを呼び寄せた。そして、細い階段を慣れた足どりで駆け上がっていった。
二階はジークの部屋になっていた。
そこには小さな勉強机と椅子があるだけで、他にはなにもない。しかし、もともとが狭い部屋なので、三人がくつろぐのが精一杯といったところだ。
ジークは開け放たれた戸口で、無造作に靴を脱ぎ散らかした。
「一応、この部屋は土足厳禁だから」
そう言って部屋に入っていき、奥であぐらをかいた。リックはとまどうアンジェリカの肩をぽんと軽く叩いた。アンジェリカは促されるまま靴を脱ぎ、部屋の真ん中にゆっくりと歩み入った。そして、ぐるりと部屋を見渡した。
「座れば」
「……地べたに?」
「椅子でもいいぜ」
ジークは親指で隣の椅子を指した。アンジェリカはその椅子に目を向けた。しかし、しばらくの沈黙のあと、スカートを押さえながらその場に座った。
「思ったより片づいてるわね」
彼女はもう一度あたりを見まわしながら言った。リックは戸口近くに座りながら、小さく笑った。
「昨日は大変だったけどね」
「リック。おまえそれ以上は言うなよ」
ジークはこわばった笑顔でリックに軽く睨みをきかせた。だが、リックはただにこにこと、余裕の笑顔で受け流していた。
「わたし、片づける前の方が見たかったな」
アンジェリカは少し残念そうに、そしてジークを困らせるように、ややわざとらしく抑揚をつけて言った。
「お嬢ちゃんがそんなの見たら卒倒するわよ」
開いたままの戸口から、レイラが顔をのぞかせた。その両手にはそれぞれ缶ジュースが2本ずつ乗せられていた。
「ほれ」
彼女はジークとリックに1本ずつ投げてよこした。そして、アンジェリカの前まで歩いていくと、しゃがんで、彼女と目線を合わせた。とまどう彼女ににっこりと笑いかけると、缶ジュースを差し出した。
「さっきはごめんね」
「いえ」
アンジェリカは両手でそれを受け取った。
「ラグランジェ家のお嬢さんにわざわざこんなところに来てもらうなんて、ホント、申しわけなかったわね」
「そう思うんなら缶のまま持ってくるなよ」
あきれ顔のジークが、後ろから突っ込みを入れる。レイラは横目で息子を睨みつけたが、すぐに笑顔に戻った。
「でも、来てくれて嬉しいわ。女の子のお友達なんて初めてだし。たいしたおもてなしは出来ないけど、あなたさえ良ければいつでも来てね」
「はい」
アンジェリカは小さく頷いて答えた。そんな彼女を、レイラは満面の笑みで見つめた。
「ホント、かわいいわー」
アンジェリカは面と向かって誉められることに馴れていなかったので、こういうときの対処の仕方がわからなかった。彼女は笑顔どころか、少し怯えたような表情を見せていた。だが、レイラにはそれが新鮮で、よりいっそうかわいらしく見えた。
「ホント、抱きしめたいくらい。もうウチの娘にしたいわ! ほら、私とちょっと似てない?」
自分の顔を指さし、ジークを振り向いて同意を求めた。だが、ジークは完全に呆れ返った。
「図々しいにもほどがあるぞ」
あさっての方を向いたまま、乾いた声で言った。
「それじゃ、邪魔者は去るとしますか」
レイラはすっと腰を上げ、出ていこうとした。が、何かを思いついたように、急に振り返ると、不敵な笑みを浮かべた。
「暇になったら、その押し入れを開けると面白いものが出てくるかも。じゃ!」
それだけ言うと、逃げるようにドタドタと階段を降りていった。
「おい!」
ジークは片膝を立て身を乗り出したが、すでにレイラの姿は見えなくなっていた。
「……ったく。何しに来たんだか」
急に疲れが襲ってきて、ジークはぐったりとうなだれた。そして、ちらりとアンジェリカに目を向けた。
「悪かったな」
頭を押さえ、ぶっきらぼうにそう言った。アンジェリカは無言で首を大きく横に振った。自分の気持ちをうまく言葉にすることができず、ただそうすることしか出来なかった。
「あのふたり、似てないようで、似てるでしょ。あんまり人の話を聞かないところとか」
リックはアンジェリカに顔を向け、明るい声で言った。その声につられて、アンジェリカは小さく笑った。
しかし、ジークは不本意だと言わんばかりに眉をひそめ、首をかしげた。
「俺はあそこまでひどくないぞ」
リックとアンジェリカは顔を見合わせると、ふたりして首をすくめた。
「お父様は今日はいらっしゃらないの?」
「あ? もう死んでるけど。言ってなかったか?」
あっさりそう言うと、缶ジュースのプルタブを引っ張り開けた。
「……ごめんなさい」
アンジェリカはしゅんとしてうなだれた。
「別に気にすんな。もうだいぶ経つしな。俺が10歳のときだったから、8年くらいか」
10歳……。今の私と同じ歳で父親を亡くした……。私が今、父を亡くしたとしたら? 耐えられる? そんなことを考えて、アンジェリカは息苦しく押しつぶされそうになった。
「ホントに気にすんなって」
うつむいて押し黙ってしまったアンジェリカに、ジークは少し困ったように声を掛けた。彼女はゆっくりと顔を上げ、まっすぐジークに視線を投げかけた。
「もしかしてバイトしてるっていうのも、それと関係があるの?」
「まぁ……な」
「僕は単なる趣味みたいなものだけど」
リックはちょっと申しわけなさそうに、頭をかきながら笑って言った。
「ああ、着ぐるみショーとかだったわよね。どうしてそんなにジークが恥ずかしがってるのか、よくわからないんだけど」
「でしょ?」
リックは嬉しそうに、声を大きくして言った。
「ていうか、おまえ見たことないんだろ?」
ジークはアンジェリカを指さして、低い声で言った。それを聞いて、リックは顔をパッと輝かせた。
「アンジェリカ! 今度見においでよ」
「だーーー!! おまえは余計なことばっかり!」
ジークは耳を赤くして叫んだ。
「そんなにイヤなら、他のバイトにすればいいのに」
アンジェリカが冷静に、もっともなことを言った。
「いや……あれ、な、ワリがいいんだ……」
ジークは急にトーンが下がり、口ごもりだした。だが、そこですぐに開き直り、いつもの調子に戻った。
「長期休暇のときくらいにしかバイト出来ないしな。休暇中でも勉強もしないといけないし……だから少しでもワリのいいバイトを選ぶのは当たり前だろ」
「お母さまのため?」
「母親のためっていうか……なんだろう。自分の生活する分くらいは、そろそろ自分で稼がないとな。まあ母親のためっていうのもあるか。あんな感じだけど、それなりに苦労してきたのは知ってるしな。若ぶっててもそろそろ歳なんだ。少しくらいは楽させてやらないとな」
「それ、おばさんが聞いたら、きっと激怒すると思うよ」
リックは苦笑いしながら言った。ジークいたずらっぽく白い歯を見せて笑った。
アンジェリカは少し面食らっていた。こんなに軽い調子で自分のことをペラペラと話すジークを見たのは初めてだった。不思議なものを見るように、ただぼうっとジークを眺めていた。
ジークはアンジェリカのそんな様子に気づいていなかった。ジュースで喉を潤すと、さらに話を続けた。
「だから俺は、何がなんでもアカデミーに行かなければならなかった」
「どうして?」
「は?」
突然の質問に、ジークは驚いてアンジェリカの方を見た。まさかこんなわかりきったことを聞かれるとは思っていなかったのだ。
「どうして……って、そりゃ授業料免除なんて他にないだろ? それにアカデミーを出れば、いいところにも就職できるしな」
そこまで言って気がついた。アンジェリカはそんなことなど考える必要もないのだ。だから、わからなくても無理はない。そうすると、今度は逆に疑問がわき上がってきた。
「おまえは? なんでアカデミー?」
「え……」
アンジェリカはまっすぐジークを見たまま動きを止めた。そして一瞬遠くを見やると、ゆっくりと目を伏せた。
「見返してやりたかったの……。呪われてなんかいない、私はラグランジェ家の子だって証明したかった。アカデミーでいちばんを取れば、それができるって思ったのよ」
アンジェリカとラグランジェ家の状況を知っていたふたりには、彼女の短い言葉に凝縮されたその重さが、痛いほどわかった。ジークは思いつめた表情のアンジェリカにかける言葉を見つけられなかった。
しかし、今、彼女を悩ませていたことは、ふたりが想像していたものとは違っていた。
「私はアカデミーに入学するべきじゃなかったのかもしれない」
「は? なに言ってんだ、おまえ」
ジークは驚きのあまり、声を荒げ問いつめるような口調で言った。
「私が入学しなければ、ジークみたいな境遇の人がひとり、救われたかもしれないでしょ」
「ばっ……かか!」
大きな声で叫びかけて、ぐっと抑えた。
「試験に受かって入って来たんだろ。それでいいじゃねえか。誰も文句なんて言わねぇよ」
軽くため息をつくと、うつむいているアンジェリカをじっと見つめた。
「それに、おまえにはおまえの理由があるだろうが」
アンジェリカはわずかにびくりと体を揺らした。
「そうそう。理由なんて人それぞれでいいんじゃない? どの理由が良くて、どれが悪いなんてこと、ないと思うよ」
リックは彼女を覗き込むようにして、優しく言葉をかけた。
「だいたいそんな殊勝なおまえは、見てて気持ち悪い」
「なによそれ! どういう意味?!」
いつものジークの憎まれ口。アンジェリカには、それがわざとなのだとわかった。だが、素直に嬉しいという感情を見せるのはちょっとくやしい気がして、頬をふくらませ、口をとがらせて見せた。
22. 突然の訪問者
「ジークさん、いらっしゃいますか?」
背後から掛けられた聞き覚えのない声。玄関先を竹ぼうきで掃いていたレイラは、手を止めゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、すらっと背の高い少女だった。明るい栗色の髪と深い濃青色の瞳が、上品さを漂わせている。彼女は少しぎこちない笑みを浮かべて、レイラの返事を待っていた。
レイラはしばらく、彼女のすっきりとした顔立ちに見とれていた。顔だけではない。細く長い手足、透き通るような白い肌、深い色の瞳……。そのすべてに見とれていたのだ。しばらくそうしていたが、ふと我にかえると、勢いよく家の中に駆け込んでいった。
「ジーク!! ジーク!!」
とんでもない大声で叫びながら、レイラはドタドタと階段を駆け上がっていった。ジークは彼女に冷ややかな視線を投げかけた。
「何だ? 空から鯛でも降ってきたのか?」
「あんたにすっごい美人さんが会いに来てんのよ!」
「……? アンジェリカじゃないのか?」
「違う違う、彼女だったら一回会ってるしわかるわよ。あんたと同じか、ちょっと上くらいのべっぴんさんよ」
ジークは訝しげに、斜め上に目をやった。
「セールスかなんかじゃねぇのか、それ」
「セールスでもなんでもいいから、とにかく早く行ってきなさいよ! 見るだけでも得した気分になるわよ」
レイラはなぜだか上機嫌だった。彼女に急かされるまま、ジークは階段を降りていった。面倒くさそうに頭をかき、ため息をつく。
「あ?」
ジークは、玄関口に立っている来客を目にすると、一瞬、驚きの表情を見せた。
「久しぶり」
それはセリカだった。少しばつが悪そうにしていたが、それでもなんとか笑顔を見せようとした。しかし、ジークはそれに応えようとしなかった。むっとして体ごと横に向き、腕を組みながら壁にもたれかかった。
「なんで俺の家、知ってんだ?」
「名簿に住所が載ってるわ」
彼女はあっさりと答えた。ジークは名簿の存在などすっかり忘れていた。
「今、何してたの?」
今度はセリカが尋ねた。
「勉強」
ぶっきらぼうに一言だけ答えた。そしてそれきり口を開こうとはしなかった。沈黙がふたりの間に流れる。
セリカは居心地の悪さを感じながらも、無理に笑顔を作ってみせた。
「少し、話がしたいんだけど」
ジークは無表情でしばらく沈黙を保っていた。だが、ふいにセリカとは別の方から視線を感じ、そちらに振り向いた。そこには、階段の上の方から、興味津々に身を乗り出しているレイラがいた。ジークは思いきり呆れ顔を彼女に向けた。そして、ふうとため息をつくと、壁から体を離した。
「外へ出よう」
ジーンズのポケットに軽く手を突っ込み、セリカを追い越すと、大きな足どりで外へ出ていった。セリカはレイラに向かい、丁寧に一礼すると、ジークのあとについて出ていった。
「へぇ……。なんだかワケありっぽいじゃない?」
レイラはほおづえをつき、わくわくしながらふたりの姿を見送った。
ジークはポケットに手を入れたまま、無言で歩き続けた。セリカはその五歩ほど後ろを歩いていた。それ以上、近づくことを許さない、そんな空気を彼の背中に感じとっていたのだ。
十分くらい歩き続け、鉄棒と砂場しかない小さな公園に辿りついた。隣が森のためか、昼間にもかかわらず、薄暗くひんやりとしている。ひとけもなく、鳥のかん高い鳴き声だけが響いていた。
ジークは自分の腰ほどの高さの鉄棒にもたれかかり、腕を組んだ。
「話って何だ?」
セリカを見ることなく、斜め下に視線を落としたまま、低いトーンで切り出した。
「あの日のこと……ごめんなさい」
セリカは平静を装っていたが、その声はわずかに揺らいでいた。
「謝る相手が違うんじゃねぇのか」
ジークは、低い声ではっきりと言った。その声からは、あからさまな苛立ちが滲んでいた。セリカのいう「あの日」というのが、長期休暇前の成績発表の日ということはすぐにわかった。あのとき、確かにセリカに対して怒りを表していたのは自分だった。だが、彼女の謝るべき相手は、彼女が最も傷つけた相手、すなわちアンジェリカである、そうジークは思ったのだ。
セリカは図星をつかれて押し黙った。アンジェリカにも謝る、それが正しいのだとわかっていながら、どうしてもそう答えることができなかった。
風がふたりの間を吹き抜ける。
セリカの薄地のワンピースがパタパタと音を立ててはためいた。その軽い音にあおられるように、セリカの鼓動はどんどん速くなっていった。早く何か言わなければ……。追い立てられるように、懸命に言葉を探した。
「わ……たし……」
言いたいことも定まらないまま、セリカはうわずった声で切り出した。そして、眉根を寄せると、苦しそうに大きく息を吸い込んだ。
「自分でも、わからないの。どうして、あんなことを言ったのか……。自分が自分でなくなるような……」
少しづつ息を吐きながら、消え入りそうな声で言葉をつなげた。ジークは彼女に顔を向けると、鋭い視線を突き刺した。
「そんないいわけをするために、わざわざ来たのか?」
セリカは再び言葉を失った。彼女の目の前に、一瞬、闇が広がった。
ジークは勢いをつけて鉄棒から体を離し、そのまま数歩前へ出た。そして、セリカに背中を見せたまま、静かに口を開いた。
「おまえ、四大結界師になりたいとか言ってたな」
セリカは、彼がなぜ急にその話を持ち出してきたのかわからず、不安げに顔を曇らせた。
「……えぇ」
自信のない声で小さく答えた。
「おまえには世界を任せられない。俺が阻止する」
静かに、しかしはっきりと、ジークは言い放った。そして、彼女を残しその場を立ち去った。
「……何やってんだ、おまえ」
ジークは目を見開いた。リックは、公園の外側にある並木の根元にしゃがんでいた。その姿勢のままジークを見上げ、困ったように笑ってみせた。
ジークの表情が、驚きから呆れへと変化した。
「覗いていたのか。悪趣味」
「おばさんにきいたらキレイな子と出ていったっていうから、ここかなと思って来てみたんだけど、とても出ていける雰囲気じゃなくて、つい……」
一通りのいいわけを済ませると、リックは膝を伸ばして立ち上がった。
「でも、あそこまで言うことなかったんじゃない? 泣いてたよ」
「泣いてたのか?」
「まだ泣いてるよ。ほら、ここから見えるよ」
リックは木陰に身を隠しながら、公園の中を指さした。
「見ねぇよ。見たくねぇ。見るもんか」
少し苛立って、ジークは早口でまくしたてた。
「おかえり!」
レイラは歯切れよく声をかけた。ミシンがけの手を止め、玄関から入ってきた足音に目を向ける。
「ああ、ただいま」
ジークは母親を見ることなく、疲れた声で返した。
「おじゃまします」
リックはジークに続いて家に入り、にこやかにと挨拶すると、軽く頭を下げた。レイラは彼に笑顔を返すと、再びミシンがけを始めた。だが、すぐにその手を止めた。よく通る大きな声を、再びジークに向けた。
「あんまり女の子を泣かすもんじゃないわよ!」
それを耳にしたとたん、ジークは昇りかけていた階段をとびおりた。
「おまえも覗いてたのか!」
耳を真っ赤にしながら叫ぶジークに、レイラは一瞬驚いたが、すぐにいたずらっぽい笑顔に変わった。
「へぇー、泣かしたんだ。テキトーに言ってみただけなんだけど、当たっちゃったわけね! やるわね、この色男!」
ジークはただ唖然とするしかなかった。
23. 長い一日
長かった休みも終わり、今日から再びアカデミーでの学園生活が始まる。休み明けというものは、たいてい条件反射的に少しの憂鬱を伴う。
ジークも例外ではなかった。今朝からずっと、体の奥底に鉛が沈んでいるような、いいようのないもやもやしたものを感じていた。しかし、アカデミーに近づくにつれ、彼は次第に思い出してきた。自分はどれほどここへ来たかったのか、ということを──。
「ここへ来るのも二ヶ月ぶりなんだな」
アカデミーの門をくぐり、校舎を仰ぎながら、ジークが感慨深く言った。
「新鮮な気持ちだよね。なんだか入学の日のことを思い出すなぁ」
リックもつられて顔をあげると、深く息を吸い込んだ。
「もしかして、全然来てなかったの?」
背後から、驚きを含んだ高い声が聞こえた。
「ああ。二ヶ月間まったくな」
ジークはそう言いながら、ゆっくりと振り返った。そこには、案の定、呆れ顔のアンジェリカが立っていた。
「どうりで全然会わなかったわけね」
小さく独り言のようにつぶやくと、ふたりの間をすり抜けて歩き出した。ジークとリックは顔を見合わせた。そして、すぐに小走りで彼女を追った。
「ますます、差を広げるわよ」
アンジェリカは、前を向いたまま口をとがらせた。
「アカデミーには行ってなかったけど、勉強してなかったわけじゃないぜ」
ジークも前を向いたままで反論した。そして、口の端を上げ、自信のほどをその顔に表した。
「ふ……ん。ならいいけど」
アンジェリカは軽く受け流した。
「なんだおまえ。信用してねぇな!」
ジークは彼女に振り向き、大きな声で叫んだ。それでもアンジェリカは冷静だった。ちらりとジークに目をやると、つんとして言った。
「いずれ結果は出るわ」
「ホントにかわいくねぇなっ」
「まあまあ。せっかく久しぶりに会ったんだから」
リックがなだめた。
「そういえばアンジェリカ。ちょっと背が伸びたんじゃない?」
アンジェリカは突然そう言われて、とまどいながらも、少しはにかんで見せた。
「休み前から2cmくらいかな」
「やっぱり?! そうかぁ、成長期だもんね」
ふたりのやりとりの間、ジークはぽかんと口を開けていた。彼女の身長が伸びていることなど、ジークは気づきもしなかった。それどころか、それを知ってもまだよくわからないでいる。そんな些細なことに気がついたリックに驚いた。しかし、それよりも、彼女が成長するということに、なぜだか不思議な違和感を覚えていた。
「なに?」
視線を感じとったアンジェリカが、ジークを見上げながら目を細め、訝しげに尋ねた。
「んなもん、普通わかるかよ!」
ジークは再び前を向き、どたどたと大股で歩き始めた。
「なに怒ってるのかしら。相変わらずわけがわからない」
アンジェリカは口をとがらせた。リックに顔を向け、首をかしげて見せた。しかし、リックはただにこにこと笑顔を浮かべているだけだった。
玄関口をくぐると、その中はたくさんの生徒であふれていた。毎日のようにアカデミーへ来ていたアンジェリカも、これには懐かしさを覚えざるをえなかった。休み中は人もまばらで、こんな活気はなかったのだ。
「いいよね。こういう活気って。負けてられないなって気になる」
リックは鼻から息を吸い込み、小さく気合いを入れた。だが、ジークはあまり興味がないようだった。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに口を開いた。
「そうかぁ? まあ俺は元々そこら辺にいる奴らには負けてないけどな」
「ちょっと違うような気がするけど」
リックは軽く首をかしげ、苦笑いをした。一方のアンジェリカは、冷めた目でジークを一瞥した。しかし、それとは逆に、口元はふいに緩みそうになる。彼女は慌てて口をとがらせ、それをごまかした。
ジークはまっすぐ前を向いたままで、そんなふたりの様子に気づいてもいなかった。
「あ……」
突然、彼は小さく声をあげた。そして、規則的だった足の動きが、前に踏み出すことを躊躇するように緩やかになった。
アンジェリカは、声につられて何気なく振り向いた。ジークは奥歯を強く噛み締め、ややうつむきながらも、ちらちらと前を気にしていた。前に目をやると、そこには同じようにうつむいているセリカが立っていた。彼女の顔には、暗い陰が差していた。
「なにか、あったの?」
初めはジークに尋ねたが、答えが返ってこなかった。続いて、反対側のリックを覗き込んだ。
「いや、僕の口からはちょっと……」
リックは横目でジークを気にしながら、苦笑いして首を傾げた。アンジェリカは、自分の知らないところで何かが起こったのだと察した。気にはなったが、ジークにも、リックにも、それ以上尋ねることはできなかった。
ジークは立ち止まっているセリカと無言ですれ違った。彼女の姿が視界から消えると、ゆっくりと顔を上げ、ほっとしたように大きく息をついた。
「そういえば、あしたは試験だな」
唐突に、ややぎこちなく切り出すと、リックも慌ててそれに同調した。
「そうだったね。でも今回はペーパーだけだから心配はないよね」
彼の言葉で、アンジェリカは期末試験での出来事を思い出してしまった。きゅっと胸を締めつけられる。しかし、彼に悪気がないことはわかっていたので、あえて気がつかないふりをした。
だが、ジークは違った。
「おまえ、ケンカ売ってんのか?」
あからさまに不愉快だという表情を、リックに向けた。そのときようやくリックは気がついた。
「ごめん! そういうつもりじゃなかったんだけど……。本当にゴメン! アンジェリカもごめんね」
「あ、私は別に……」
アンジェリカは何と答えていいのかわからず、消え入りそうな声でそう答えることしかできなかった。ジークは謝られて、すっかり機嫌が直っていた。
「今度またVRMで対決することがあっても、この前のようなことにはならないぜ。ていうか、負けねぇぜ」
初めはリックに向かって言っていたが、途中でアンジェリカに視線を移した。そして、強気にニヤリと笑ってみせた。彼はすっかりいつもの調子を取り戻していた。
アンジェリカは安堵した。それと同時に、負けず嫌いの性分が顔を出した。
「私だって、負けるわけにはいかないんだから」
まっすぐにジークを見て、きっぱりと言い放った。
「ずいぶん大口を叩いているな」
彼の背後から、冷たい声が降ってきた。あまり聞きたくなかった声だ。頭頂から首筋、背中へと、何かが走ったような感覚に襲われた。奥歯に力を入れ、眉をひそめながら、ゆっくりと振り返る。
やはり、ラウルだった。
左脇に書物を抱え、無表情でジークを見おろしていた。
「おまえがそう簡単にアンジェリカに勝てるとは思えないがな」
「さぁ、それはどうかな」
ジークは、ラウルの圧倒的な存在感に気おされながらも、負けじと必死に強気を保っていた。しかし、ラウルは気が抜けるほどあっさりとした返事をした。
「そうか。それは楽しみだ」
その言葉が本気なのか嫌味なのか、ジークにはわからなかった。感情がまったく読み取れない。難しい顔で考え込んだ。ラウルはその脇を追い越し、さっと行ってしまった。ジークは眉をひそめ、ラウルの後ろ姿を睨んだ。
「何しに来たんだか、アイツ」
「通りかかっただけでしょ」
アンジェリカは軽く答えると、急にジークに背を向けた。
「おい、どこ行くんだよ」
ジークの呼び声に、アンジェリカは顔だけ振り向き、睨みながら右手で上のプレートを指さした。
「……トイレか」
ふたりは並んで壁にもたれかかりながら、アンジェリカを待っていた。ジークは腕を組んで、何か考えごとをしているようだった。リックは彼の邪魔をしないように、おとなしく雑踏を眺めていた。
「担任って、ずっと変わらないものなのか?」
ジークが唐突に疑問を口にした。
「さあ……。でもなんで?」
リックはジークに振り向いた。
「なんでって、おまえはアイツが担任でもいいのか?」
「僕は別にイヤじゃないけど?」
「ああそうか。めでたいヤツだな」
ジークは乾いた笑いを浮かべると、投げやりに言った。
──ドドーン!
突然、激しい爆音とともに大量の粉塵が舞い上がり、彼らの視界をさえぎった。ざわめきがそこら中から沸き上がる。誰も何が起こったのかわからなかった。
ジークとリックは嫌な予感がした。
「アンジェリカ!」
ジークは口に手の甲をあて、目を細めながら、粉塵の中へ飛び込んでいった。壁が崩れ、瓦礫が小さな山を作っている。その瓦礫の下に、誰かが倒れているのがうっすらと見えた。体の半分が瓦礫に埋もれているようだ。
「アンジェリカ?!」
ジークはその人影に駆け寄り屈み込んだ。しかし、それはアンジェリカではなくセリカだった。
「しっかりしろ!」
声を掛けながら、彼女の上に乗ったコンクリート片を取り除いていく。あとから駆けつけた生徒たちもそれを手伝った。
「こっちにもいるぞ!」
誰かが奥の方から叫んだ。ジークは「頼む」と言い残すと、声のする方へ飛んでいった。
「アンジェリカ!」
今度は確かにアンジェリカだった。体をくの字に折り曲げ、右の脇腹を両手で押さえている。そして、その指の間から鮮血が流れ、彼女のまわりに赤い水たまりを作っていた。
突然の出来事に、ジークは頭の中が真っ白になった。何が起こっているのかわからなかった。何をすればいいのかわからなかった。世界が遠く離れていくようだった。誰かが「止血!」と叫ぶ声も遥か遠くに聞こえた。
「先生が来たよ! 通して!」
人だかりの後ろで、リックが声を張り上げた。ラウルは生徒たちを強引に押しのけて現場に向かった。まずアンジェリカの元へ行き、傷口、脈などを、素早く診ていった。そして、勢いよく立ち上がると、持っていた担架のひとつをジークに投げてよこした。
「それでアンジェリカを私のところへ運べ」
ラウルはそう命令しながら、もうひとりの患者のもとへ向かった。
「ジーク、行こう」
リックに促されて、ジークは我にかえった。慌てて担架を広げた。
ジークとリックは、ラウルの医務室へアンジェリカを運び込んだ。セリカも他の生徒によって、ここに運び込まれた。
ジークたちは片隅で黙って突っ立っていた。クリーム色の薄いカーテンで仕切られた向こう側に、ふたつのベッドとラウルの影が見えた。ラウルは忙しく動きまわり、手際よくふたりの処置をしているようだった。
──ガラガラガシャン。
激しい音がして扉が開き、そこからサイファとレイチェルが姿を現した。それと同時に、仕切りの向こうからラウルが出てきた。
「アンジェリカは?! 無事か?!」
サイファはラウルを目にすると、一目散に駆け寄った。
「ああ、命に別状はない。そのうち意識は戻るだろう」
ラウルは冷静にそう答えると、親指でカーテンの方を指した。サイファは急いでカーテンの内側へ入っていった。レイチェルはラウルをじっと見つめていた。その大きな瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。ラウルがその細い肩に手をのせると、彼女はこくりと頷いた。ゆっくりとカーテンをくぐり、アンジェリカのベッド際へ歩いていった。
「しばらく待っていてくれ」
ラウルはカーテン越しに声を掛け、医務室から出ていった。
ジークは、わずかに開いたカーテンの隙間から、ベッドに横たわるアンジェリカの姿を見た。もとより白い肌が、血の気を失い、よりいっそう白さを増していた。まるで人形のようで、まったく生気が感じられなかった。ジークの鼓動が不安でどんどん大きくなっていった。
──ラウルが大丈夫だと言っていた、大丈夫だ、大丈夫なんだ……。
懸命に自分にそう言い聞かせた。そうしなければ自分を保つことができなかった。
長い沈黙が続いた。
ジークには、外のざわめきが別世界のことのように聞こえていた。
「どうしてこんなことに……」
ふいに沈黙が破られた。サイファは胸の奥から絞り出すように言った。やり場のないくやしさと悲しさをその言葉に込めた。
ジークは現実に引き戻された。そして、ある考えが彼を支配し始めた。こぶしに力を入れ、固く握りしめる。うつむいたその額に汗がにじんだ。
「俺のせい……、かも、しれない」
こらえきれなくなって、途切れ途切れに言葉を吐いた。
「君のせいだとは思っていないよ。いつでもどこでも一緒というわけにはいかないだろう」
カーテンごしに聞こえたサイファの声は、いたって冷静だった。しかし、反対にジークの感情は高ぶっていた。胃の中で何かが暴れまわるような気持ち悪さを感じ、少し前かがみになった。
「俺がセリカを怒らせたからだ。だから……」
「まさか! いくらなんでもそんなムチャクチャなこと……」
リックは言葉を詰まらせた。「ありえない」と断定することができなかった。ただ「あってほしくない」と願うだけで精一杯だった。
「どうやらおまえのせいではないようだ」
ジークは驚いて顔を上げた。いつの間にかラウルが戻ってきていた。
シャッと軽い音を立ててカーテンが開いた。そこからサイファとレイチェルが姿を現した。
サイファが何かを言いかけたが、ラウルがそれを遮った。ふたりにソファを勧め、自分自身も椅子に腰を下ろした。そして、腕を組み、静かに説明を始めた。
「状況から判断するとふたつのことがわかる。セリカがアンジェリカを刺したこと、それに抵抗するためにアンジェリカがとっさに魔導の力を暴発させたこと。このふたつはほぼ間違いないだろう」
サイファは、食い入るようにラウルを凝視しながら、努めて冷静に尋ねた。
「状況というのは?」
「ひとつは、セリカがナイフを握っていたこと。そしてそのナイフが著しく黒く焦げていたこと。もうひとつは、アンジェリカの足場だけ残し、まわりの床がえぐれていたこと。アンジェリカ自身もナイフの傷以外は受けていない。最後に、セリカの損傷は体の前面のみだということ。それも主に腕だ」
サイファは納得したように頷いた。
「でも、どうしてセリカさんは……」
レイチェルは、今にも泣き出しそうな震える声でつぶやいた。ラウルはそれに答えるように、話を続けた。
「今しがた、彼女の家に連絡を入れたのだが、彼女の祖父の様子が普通ではなかった。連絡を受けても驚きもせず、まっさきにアンジェリカの生死を確認してきたのだ。そして無事だとわかると、明らかに落胆したような返事をしていた」
「じゃあ、セリカはおじいさんの命令で……?」
信じられない気持ちを含みながら、リックはおそるおそる尋ねた。
「事態は、それよりももっと深刻かもしれない」
ラウルは不吉な言葉を返した。
「今さっき、ざっと調べてみたのだが、彼女の祖父は催眠術が使えるらしいな。ふたりきりになったとき、何らかのアクションを起こすようにインプットするというのは常套手段だ」
リックはその話を聞きながら、わずかに首をかしげた。
「もしそうだとして、セリカのおじいさんが、アンジェリカに何の恨みがあるんですか?」
ラウルはまっすぐサイファを見た。ふたりの視線が絡み合う。サイファはその視線に何かを感じとった。
「話してくれ。彼らには、私たちのことはだいたい話してある。心配は無用だ」
サイファに促され、ラウルは視線を落としてから口を開いた。
「セリカの父親は十年前に亡くなっている。アンジェリカが生まれた3日後だ」
「それって、まさか……」
レイチェルは目を見開いて、ラウルを見た。そして、そのままの姿勢で硬直した。彼女の顔から徐々に血の気が引き、小さな唇が小刻みに震え始めた。
サイファは、横にだらりと放り出された彼女の手を取り、自分の膝の上に乗せた。そしてその上に、自らの手を重ねた。彼女を落ち着かせたかったのと同時に、そうすることで彼自身も心を鎮めたかったのだ。
「まだ私の憶測でしかない。あとで彼女の祖父に直接聞いてみるが、そうだとしても素直に答えるとは思えないな」
ラウルはやや前かがみになり、まっすぐにサイファを見た。そして、重い声でつけ加えた。
「長い一日になるかもしれない」
サイファもまっすぐに視線を返し、表情を引き締め目で頷いた。それと同時に、膝に乗ったレイチェルの手に、微かな力が入るのを感じた。彼は、無言で彼女を抱き寄せ、その頭に頬を寄せた。
ジークとリックは、三人の間に入り込む余地を見つけることができず、ただその場に立ちつくした。
24. 10年前の傷跡
応急処置の後、セリカは別室に移された。アンジェリカと同じ部屋に置いておくのは危険だというラウルの判断だった。
ジークは、セリカのことも心配ではあったが、やはりアンジェリカのそばを離れることはできなかった。リックとともに、医務室の隅で立ったまま彼女を見守っていた。近くに行きたい気持ちはあったが、彼女の家族に遠慮してした。
コンコン──。
医務室の扉をノックする弱い音が聞こえた。ラウルが扉を開けると、そこにはくたびれた白衣を身にまとった、年配の医者らしき人物が立っていた。小柄で白髪、背中もやや丸くなっている。医者にしては頼りなく見えるとジークは思った。
ラウルはその男に、二、三の言葉をかけると、持っていたカルテを手渡した。男はカルテに目を通すと、小さく二度うなずいた。そして、ラウルに短く何かを言うと、その場を立ち去った。
ラウルは静かに扉を閉めた。
「ああ見えても優秀な医者だ。セリカの方は彼に任せることにした」
それでもジークとリックに安堵の表情はなかった。
サイファはアンジェリカのベッド脇に座り、彼女をじっと見守っていた。レイチェルも彼と並んで座り、アンジェリカの手を優しく握っていた。心配そうに顔を曇らせ、祈るように右手を胸に当てている。
「サイファ」
ラウルは後ろから呼びかけた。サイファは表情を引き締め、振り向いた。ラウルは腕を組み、目でこちらに来るよう合図をした。サイファはそれに応じ、大きな足どりでラウルへと向かった。レイチェルは、不安げにサイファの背中を目で追った。
ラウルとサイファは互いに顔を近づけ、小声で言葉を交わした。その話の途中、サイファは何度か小さく頷いていた。そして、ふたりで連れ立って足早に出ていった。
「お役所仕事があるのよ。ごめんなさい」
レイチェルはジークたちに説明した。ふたりに心配させまいとしてか、無理に笑顔を作っている。
「いえ……」
ジークはそう返事をするだけで精一杯だった。彼女の健気な様子に、胸が詰まる思いだった。
彼女のいう「お役所」とは、サイファの勤めている魔導省保安課のことだった。アカデミー内で起こったこととはいえ、これほど大きな事件を放置しておくわけにはいかないのだろう。サイファも責任ある立場として、また関係者として、顔を出さざるをえない状況であることは想像がついた。
レイチェルは、アンジェリカの手を両手で包み込んだ。沈痛な面持ちで、血の気のない顔を見つめている。レイチェルの顔色もショックと疲れで、かなり白くなっている。ジークはレイチェルの方も心配になってきた。
ふと気がついて、レイチェルはジークたちに振り返った。
「おふたりとも、もう帰ってもいいのよ。いろいろとありがとうございました」
そう言って、丁寧に深々と頭を下げた。ジークはあわてた。
「いえ、あの、俺たち、ここにいたいんです」
「そうです。このまま帰るなんて出来ません!」
リックも懸命に力を込めて言った。レイチェルの表情が柔らかく緩んだ。
「では、せめて座ってください」
ふたりは促されるままに、アンジェリカのベッドの隣に腰を下ろした。
近くで見るアンジェリカは、ますます人形のようだった。肌だけではなく、唇さえも色をなくしていた。顔も体も、微動すら感じられない。息をしているのかさえわからなかった。そして、透明な管につながった針が、彼女の左腕の内側に刺されたまま、テープで固定されていた。その部分は赤紫に変色し、やや腫れているように見えた。それがあまりにも痛々しくて、ジークは思わず目をそらした。そして、爪が食い込むくらいにこぶしを強く握りしめ、奥歯を噛みしめた。
そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。その場にいた誰も口を開かなかった。時が止まったかのように続く沈黙。ときどき聞こえる衣擦れの音だけが、かろうじて三人を現実世界につなぎ止めていた。
ガラガラガラ──。
ゆっくりと入口の扉が開いた。
ラウル、続いてサイファが入ってきた。サイファはレイチェルのそばまで来ると、片膝をつき、彼女と目線を合わせた。
「相手のご家族の方が見えたそうだ」
静かに、しかしはっきりとした口調で言った。その目はまっすぐレイチェルを捉えていた。
レイチェルは小さく頷いて立ち上がった。その張りつめた表情には、先ほどまでの弱々しさは感じられなかった。
「すまないが」
レイチェルに見とれていたふたりに、サイファは重々しく声を掛けた。ふたりははっとしてサイファに振り向いた。
「私たちが戻るまで、アンジェリカについていてやってくれないか」
「はい! 任せてください!」
リックは力を込めて返事をした。ジークは真剣な表情で、こくりと首を縦に振った。
「ありがとう」
サイファはにっこりと笑いかけた。だが、すぐにけわしい表情に戻った。
「行くか」
ラウルを見上げ、レイチェルの肩に手をまわした。三人は互いに顔を見合わせると、連れ立って医務室をあとにした。
王宮の地下へと続く長い階段を下り、三人は大きく重厚な扉へと辿り着いた。ラウルはその中央に両手をあて、ゆっくりと押し開けた。その向こう側には薄明かりが灯っていた。
「娘は?!」
セリカの母親と思われる女性が、ソファから勢いよく立ち上がった。
「まだ会わせることはできない」
ラウルは静かに言った。
部屋にいたもうひとりの人物??セリカの祖父は、座ったまま上目遣いにラウルを睨みつけた。そして、順に入ってきたサイファ、レイチェルへと視線を移していった。
サイファとレイチェルは、セリカ側の家族に一礼すると、向かいのソファに腰を下ろした。セリカの母親もそれにつられて、崩れるように腰を下ろした。
「今回の事件は、セリカ本人の意思で起こしたものではないと、私は考えている」
ラウルは、ソファに座っている老人を目だけで見下ろした。老人は、頭を斜めに持ち上げ、鋭い視線を返した。
「ウォーレン=グレイス。数少ない催眠術師のひとりだな」
「もう引退したがな」
静かな言葉のやりとりの間、セリカの母親はただひとり、落ち着きのない表情を浮かべていた。訝しげな顔を、ラウル、そして義父のウォーレンへと向けた。
「おまえがセリカに催眠術をかけ、アンジェリカを襲わせた」
ラウルはウォーレンを冷たく見下ろして言った。
「ふっ」
ウォーレンは小さく鼻で笑った。
「言い掛かりも甚だしい」
「動機は十年前」
ラウルはウォーレンの言葉をさえぎるように、声を大きくして続けた。
「息子のリカルド=グレイスをラグランジェ家へ刺客として差し向けた。目的は生後間もないアンジェリカ=ナール=ラグランジェ抹殺のためだ。しかし、目的を遂げる前に、レイチェル=エアリ=ラグランジェに見つかってしまい、彼女の逆襲を受けた。リカルドはなんとか家へ辿り着いたが、そのときの傷がもとで三日後に死亡」
セリカの母親は、ラウルに顔を向けたまま凍りついた。その目は大きく見開かれ、膝の上にのせられた手は小刻みに震えていた。
「今回の事件は、十年前の復讐のために企てられたのだろう」
ラウルはウォーレンをじっと見据えて言った。しかし、彼はどっしりと腰を下ろしたまま、まったく動揺した様子を見せない。
「息子は事故で死んだ。おまえが何を言っているのか、さっぱりわからんな」
「おまえが認めなければ、セリカが罰を受けることになるが」
「脅しか。だが、どう言われても、違うものは認めようがない。だからといって、あの子が自分の意思でやったとは限らんだろう。誰か、他の催眠術師に操られていたのかもしれん」
ウォーレンがわずかに口の端を吊り上げたのを、ラウルは見逃さなかった。
「他の人間には動機がない」
「動機ならワシにもない。息子が死んだのは事故だ」
??ガタン!
今まで黙って座っていたレイチェルが立ち上がり、ローテーブルの上に右ひざをのせた。
「私が、殺したのよ」
冷たく虚ろな目でウォーレンを見下ろした。そして、今度は左ひざをのせた。そのままドレスを引きずりながら、彼の目の前まで進んでいく。
「あなたの息子さんを殺したのは、私です」
そう言って、右手を自らの胸に当てた。口を真一文字に結ぶウォーレンに、覆いかぶさるように屈みこみ、顔を近づけた。
「レイチェル! もういい!」
サイファはしばらく成り行きを見守っていたが、耐えかねて声を上げた。手を伸ばし、彼女を引き戻そうとする。しかし、その手をラウルが強く掴んで止めた。サイファはキッと彼を睨みつけた。ラウルは彼女を利用してウォーレンから真実を引き出そうとしている。そのことはわかっていた。だが、このままではレイチェルがどうなるかわからない。それでも、これしか方法がないとしたら……。サイファは唇を噛みしめた。そして、すぐにでも行動を起こせるよう構えると、彼女とウォーレンの一挙手一投足を凝視した。
「私が憎いのでしょう?」
レイチェルは無表情のまま、さらに煽った。彼女の口から漏れた息が、ウォーレンの立派な口ひげを揺らした。
「娘を傷つけただけでは、満足なんて出来ないでしょう?」
ウォーレンの肩が小さく揺れた。
「詳しく話して差し上げましょうか。あの日あの部屋で起こったことを」
冷たい声と挑発するような視線が、ウォーレンの脳を凍らせた。瞬きすら忘れ、眼前のレイチェルをその瞳に映し続けた。
───パサッ。
レイチェルの髪が、肩からはらりと落ち、ウォーレンの頬をかすめた。その感触が、彼を現実に引き戻した。同時に、心の留め金が弾け飛んだ。
ウォーレンは顔を歪めると、勢いよく引いた右手に、白い光球を作った。間髪入れず、レイチェルに向けて放とうとする。その瞬間、横からの光が、彼を弾き飛ばし、壁に叩きつけた。その光はサイファとラウルが同時に放ったものだった。
ウォーレンは小さくうめき声を上げると、その場に倒れ込んだ。レイチェルは、糸が切れたマリオネットのように、テーブルの上に崩れ落ちた。
「レイチェル!」
サイファはテーブルに飛び乗り、彼女の上半身を抱き起こした。頬に手を当て、心配そうに覗き込む。レイチェルはぼんやりと天井を見つめていた。その瞳から一筋の涙が流れ落ちた。サイファは親指で彼女の目尻を拭った。そして、彼女を強く、優しく抱きしめた。
ラウルはウォーレンへと歩み寄った。
「もう、言い逃れは出来ないな」
ウォーレンはよろよろと体を起こし、ラウルを睨みつけた。ラウルは腕を組み、冷たい目で見下ろした。
「知っていると思うが、催眠術を使っての犯罪は重罪だ」
「……化け物め」
ウォーレンがそう吐き捨てたのと同時に、重厚な扉がゆっくりと開いた。そこから三人の男が入ってきた。彼らはサイファに一礼すると、ウォーレンへと歩いていった。そのうちのふたりがウォーレンを両側から抱えて立ち上がらせると、もうひとりは正面から呪文を唱えた。指先から現れた白い光の糸が、ウォーレンの両手を縛り上げた。三人は、そのまま彼を取り囲み、連行していった。
残されたセリカの母親は、凍りついた表情でウォーレンの後ろ姿を見送っていた。
「何も知らなかったのだな」
ラウルの言葉に、彼女は眉根を寄せて頷いた。
「十年前のことは、事故でないとは思っていました。お義父さまが何かを隠していることも感じていました。ただ、いくら聞いても答えてはくれなかった……」
言葉の最後がかすれた。彼女は涙をこらえ、肩を小刻みに震わせた。
「来い。セリカに会わせる」
ラウルは開け放たれた扉へ足を進めた。彼女も立ち上がり、弱々しい足どりでその後に続いた。
ラウルは追い越しぎわに、サイファの背中を軽く叩いた。
続きは下記にて掲載しています。
よろしければご覧くださいませ。
遠くの光に踵を上げて(本編94話+番外編)
http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html
説明 | ||
アカデミーに通う18歳の少年と10歳の少女の、出会いから始まる物語。 少年は、まだ幼いその少女に出会うまで敗北を知らなかった。名門ラグランジェ家に生まれた少女は、自分の存在を認めさせるため、誰にも負けるわけにはいかなかった。 反発するふたりだが、緩やかにその関係は変化していく。 http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html |
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