遠くの光に踵を上げて - 第25話?第28話
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25. 新しい傷

 

「遅いよな」

 ジークが長い沈黙を破った。向かいのリックは、彼の表情を盗み見ると、すぐに目を伏せた。

「心配ないよ。ラウルもいるんだし」

 前向きな言葉とは裏腹に、その声は弱々しく説得力がなかった。

 ジークはアンジェリカの寝顔に目をやった。もう何度目だろうか。アンジェリカを見て、下を向いて??ずっとその繰り返しだった。彼はぼんやりと思った。彼女の顔をこんなにしっかり眺めたのは今日が初めてかもしれないと。

「このままずっと起きないなんてこと、ないよね」

 さっきよりもいっそう力のない声で、リックがつぶやいた。ジークはカッとしてその声に振り向いた。

「ラウルが言ったこと聞いてなかったのかよ。大丈夫だって言ってただろうが」

 腹の奥から低い声を絞り出し、怒りを抑えながら、その言葉を噛みしめた。眉間にしわを寄せると、うつむいたリックを睨みつける。

 リックは少し顔を上げると、不安げに眉をひそめた。

「そうじゃなくて……。前にサイファさんが言ってたこと。眠ったままなかなか起きなくなるって……」

 ジークは小さく息をのみ、動きを止めた。あのときの、息を詰まらせたサイファの表情が頭をよぎった。顔をこわばらせ下唇を噛むと、再びアンジェリカに目を向けた。

 

 ──ガガガッ。

 静寂の中、突如、濁った音が響き渡った。ジークのビクリとして振り向いた。それは、隣のリックが立てた音だった。彼は椅子から立ち上がり、ジークに笑いかけていた。

「何か食べるものを買ってくるよ。朝から何も食べてなかったよね」

 ジークは、そう言われて初めて自分の空腹感に気がついた。リックはカーテンをくぐろうとして動きを止めた。

「そういえばさ。言葉をかけるとか、手を握ってあげるとか、そういうことがいいらしいよ」

「は?」

 唐突なリックの言葉に驚き、ジークは振り返った。それと同時に、リックの手から落ちたカーテンが、ふたりの間を仕切った。揺れるクリーム色の布の向こうで扉の開閉する音がして、リックは医務室を出ていった。

 ジークは口を開けたまま呆然としていた。ふと我にかえり、ついさっきの記憶を反芻する。頭の中で、リックの言葉が再び流れた。

「……わけわかんねぇやつ」

 そうつぶやくと、背もたれに体を預けた。その動作の中、視界の端にアンジェリカが映った。彼は、自分の顔が熱くなるのを感じた。ジークは彼女の閉じられたまぶたを横目で見つめた。

「いつまでも寝てると、すぐに追い越すからな」

 小さな声でそう言うと、手の甲でアンジェリカの頬を優しく二回たたいた。彼女の頬は少し冷たかった。

 

 しばらくしてリックが戻ってきた。

「どう?」

 カーテンをくぐり椅子に座ると、買ってきたサンドイッチのひとつをジークに手渡した。

「いや、なんとも……」

 ジークはリックと目を合わせずに、サンドイッチを受け取った。そして袋を開けると、勢いよくかぶりついた。リックもそれに続いてサンドイッチを口にした。

 ふたりは無言で食べ続けた。

 

「パンくず、こぼしてる」

 微かに聞こえたかぼそい高音。ふたりはパンを口に入れたままで、すべての動きを止めた。そして、同時に声のした方へ振り向いた。

「アンジェリカ!! 目が覚めたか!! 大丈夫か!! 平気か!!」

 ジークは身を乗り出して、黒い瞳を確認しながら一気にまくしたてた。

「ちょっと、口から食べかけのものを飛ばさないでよ」

 声こそ弱かったが、彼女の口調はいつもと変わらなかった。

 リックは慌てて口の中のサンドイッチを流し込んだ。

「でも、ホント大丈夫? 痛む?」

 そう言って、少し覗き込むようにして、彼女の表情を窺った。

「私、刺されたんだっけ」

 アンジェリカは抑揚のない声でそう言うと、ベッドに横たわったまま頭だけを動かした。ジーク、リック、点滴、そしてベッドまわりをゆっくりと見渡していく。

「ラウルの医務室ね、ここ。……ラウルは?」

 ジークは答えに詰まり、難しい顔をした。だが、リックはすぐに明るい声で答えた。

「ちょっと前までいたんだけど、何か用があったみたいで出ていったんだ。ご両親も一緒だよ。ご両親、ずっと付き添ってくれてたよ」

「リックも、ジークも、ずっといてくれてたんだ」

 アンジェリカは天井をじっと見ながら、無表情でつぶやくように言った。

「……ありがとう」

 彼女はリック、ジークへと、順番に目を移した。そして、微かに笑顔を見せた。

 ジークはほっとすると同時に、胸が締めつけられるように感じた。

 

 ガラガラガラ──。

 扉が開く音。続いて複数の足音が聞こえた。

 リックは椅子から飛び上がるように立ち上がると、カーテンの切れ目から飛び出した。

「アンジェリカが目を覚ましました!」

 リックのその声のあと、小走りに駆ける音が近づいてきた。そして、シャッと軽い音とともに、カーテンが勢いよく開いた。

 そこに姿を現したのは、サイファとレイチェルだった。ふたりの表情には、焦りと不安が入り混じっていた。しかし、アンジェリカの目が開いているのを確認すると、安堵の息をもらし、そこでようやく柔らかい表情を見せた。

 アンジェリカは両親と目を合わせると、少しためらうように笑った。

「よかっ……た……」

 レイチェルは言葉を詰まらせ、瞳を潤ませた。

 ジークは椅子から立ち上がり席を譲った。サイファとレイチェルは、両側からアンジェリカの枕元に進むと、腰を下ろし、それぞれ彼女の手を取った。

「ごめんね」

 レイチェルは、アンジェリカの手を両手で強く包み、それを額につけると目を閉じた。その姿は祈っているようにも見えた。サイファはアンジェリカの前髪をそっとかき上げ、にっこりと微笑んだ。

「彼らを送ってくるよ」

 柔らかい声でそう言って立ち上がった。アンジェリカもにっこり微笑み、こくりと小さく頷いた。

「すっかり遅くなってすまない。門のあたりまで送るよ」

 サイファはジークたちに振り返って言った。ふたりは無言で頷いた。

「またあしたね」

 リックは軽く右手を上げ、アンジェリカに明るい声を投げかけた。アンジェリカは、レイチェルの助けを借りて、上半身をわずかに起こした。そして、にっこりと右手を上げて応えた。ジークも少し照れくさそうに視線を外しつつも、同じく右手を上げた。

 

「やはり、セリカの祖父が仕組んだことだったよ」

 暗く静まり返った廊下に足音を響かせながら、サイファが声をひそめて言った。

「セリカはどうなるんですか?」

 リックもまわりを気にしながら、小声で尋ねた。

「彼女も被害者だ。罪に問われることはないだろう」

 それを聞いたふたりは、同時に軽く息をもらし表情を緩めた。

「君たちには本当に申しわけないと思っている。我々のことに巻き込んでしまった」

「巻き込まれたなんて、思っていません」

 リックは即座に切り返した。いつになく、強くはっきりとした口調だった。ジークは少し驚きながらも、それに同意して頷いた。

「アンジェリカは大切な友人です」

 リックはそうつけ加えた。きっぱりと言い放たれたその言葉に、ジークはただ頷くことしか出来なかった。彼はそんな自分を少し情けなく思った。

「君たちのような友人がいて、本当に良かった」

 サイファはふたりに微笑んだ。

 

 三人は王宮からアカデミーを通り、外へと出た。ひんやりした風が、頬を撫で、髪を揺らした。

 ジャッ、ジャッ??。

 校庭の薄い砂の上を、音を立てて歩いていく。門のところまで来ると、サイファは足を止め、ふたりに振り向いた。

「申しわけないが、私は戻らなければならない。ここで失礼するよ」

 サイファは笑顔を作った。そして、少し真剣な顔になり、ふたりをじっと見つめた。ジークも、リックも、その瞳の強さに気おされ、一言も発することが出来なかった。

「これから、私はアンジェリカに事件の顛末を伝えなければならない」

 重い言葉だった。

「あした、また来てもらえるか?」

「……はい!」

 少しの間のあと、ふたりは同時に返事をした。サイファはわずかに口元を緩め、目を細めた。

「ありがとう」

 そして、ジークとリックを両脇から抱きしめた。

 

 魔導省の塔。その最上階の一室にあるサイファの部屋。ラウルは明かりもつけずに、窓際に立ち外を眺めていた。

 ガチャ──。

 扉が開き、そこからサイファが無言で歩み入ってきた。奥まで進むと椅子に座り、背もたれに身を預けた。椅子の軋む音が、静まり返った部屋に響いた。

「すまなかったな。席を外してもらって」

 サイファは、ラウルに背を向けたまま静かに言った。ラウルも振り返ることなく口を開いた。

「アンジェリカの様子はどうだった」

「泣くでもなく、動揺するでもなく、ただ無表情で聞いていたよ。……だからこそ、怖いよ」

 サイファは目を伏せた。そして、軽く息を吐くと、再び視線を上げた。

「レイチェルはどうだ」

 ラウルは腕を組み、外を眺めながら、低い声で言った。サイファは上を向いたまま目を閉じた。

「アンジェリカの前では気丈に振る舞っていた。だが、自分を責めているよ。すべては自分のせいだと思っているようだ」

 そして、ゆっくりと目を開くと眉根を寄せた。

「十年前、か……」

 そうつぶやき、遠くを見やった。

「だが、まだすべては明らかになってはいない」

 ラウルのその言葉に、サイファは息を止めた。ラウルは淡々と続けた。

「あれもウォーレンが催眠術を使い、息子を仕向けたとも考えられる」

「……そうだな。そして、ウォーレンにそれを命じたのはラグランジェ家の人間だろう」

 そう言い終わるや否や、サイファは椅子を半回転させた。そして、ラウルの大きな背中に、鋭い視線を投げつけた。

「今さら蒸し返す気か? レイチェルを傷つけるだけだ」

「そのつもりはない。安心しろ」

 ラウルはサイファに振り返った。窓枠にもたれかかり、まっすぐに彼の目を見つめた。サイファも負けじと強く見つめ返した。いや、見つめ返すというよりは、睨んでいるという方が近かった。

「私は時折、おまえのことがたまらなく憎くなる」

 サイファは低い声で言った。その顔には複雑な表情を浮かべている。しかし、ラウルは表情ひとつ変えなかった。

「そうか」

 その一言だけ口にすると、扉へと足を進めた。そして、ドアノブに手をかけたところで動きを止めた。

「アンジェリカの傷だが」

 ラウルは背を向けたまま、静かに口を切った。サイファはアームレストをぐっと掴んだ。けわしい顔で次の言葉を待つ。

「多少、跡が残る」

 ラウルは淡々と言った。しばらくそのままで待ったが、サイファは何の反応も返さなかった。ただ、沈黙が続くだけだった。ラウルはちらりと振り返り、椅子に座る彼の横顔を一瞥した。そして、扉を開けると部屋を出ていった。

 サイファは奥歯を食いしばり、右足で床を蹴った。

 

 

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26. 後味の悪い別れ

 

 あれから 十日が経った。

 

 アンジェリカはまだアカデミーへは来ていない。ジークとリックは毎日アカデミー帰りに、そしてアカデミーのない日もわざわざ出かけ、彼女の家へ様子を窺いに行っていた。

「今日も来てくれたんだ」

 淡々とした声。アンジェリカは上半身をベッドから起こした。そして、薄いレースのカーテン越しに、ふたりに微かな笑顔を見せた。

「おまえが来ないからだろ」

 ジークはぶっきらぼうにそう言うと、乱暴にカーテンを捲し上げた。仏頂面で中に入り、ベッドの隣の椅子にどっかりと腰を下ろす。その隣に、リックも静かに座った。

 初めは何もかもに面くらった。だが、無駄に広い部屋も、天蓋つきのベッドも、十日もすればすっかり見なれる。もうふたりとも、そわそわしたり緊張したりはしていなかった。

「おまえ、いくつ持ってるんだ。パジャマ」

 ジークはアンジェリカをじっと見ていたかと思うと、唐突にそんな質問を投げかけた。

「うん。毎日違うもの着てるよね」

 リックも興味ありげに少し身を乗り出した。

「さあ。もともとはそんなになかったはずなんだけど。最近は毎日新しいものなの」

 アンジェリカは顔を下に向け、自分が身につけているものをじっと見つめた。今日はフリルのついたピンクのネグリジェだった。

「気を遣ってくれているのかしら」

 ふと寂しそうに笑い、小さな声でつぶやいた。

「あのなあ。そういうのは気を遣ってるとは言わねぇんだよ」

 ジークは少し眉根を寄せて、強い調子で言った。アンジェリカは目を丸くしてジークに顔を向けた。ジークは真剣な、少し怒ったような顔で、まっすぐにアンジェリカを見つめていた。

「おまえの方が気を遣ってるんじゃないのか」

「そうそう。素直にありがとうって思えばいいんだよ。ご両親だってアンジェリカに喜んでほしいんだから、ね」

 リックは横からにっこりと笑いかけた。

 アンジェリカは少し驚いたような顔で聞いていたが、やがて恥ずかしそうにはにかんだ。

 

 アンジェリカはアカデミーの出来事やラウルの様子を聞きたがった。リックは彼女の知りたいことをひとつひとつ丁寧に話した。ジークはときどき割って入るものの、ほとんど聞いているだけだった。こういう状況説明を伴う話をすることは苦手なのだ。

 

「……まだ、来られねぇのか」

 ふたりの会話の切れ目に、ジークは少しためらいがちに口を開いた。リックは何か言いたげな顔で眉をひそめると、ジークの脇腹をひじでつついた。そして、今そんなことを言わなくても、と表情と口の動きで合図を送った。しかし、ジークはアンジェリカを見つめたまま、リックの腕をこっそり払いのけた。そんなふたりのやりとりを見て、アンジェリカはこらえきれずに吹き出した。

「来週から行っていいって、お許しが出たわ」

 リックは当のアンジェリカ以上に、嬉しそうに顔を輝かせた。

「良かった! アンジェリカがいないと、ジークがつまらなそうなんだよね」

「おい! 俺のことを言うなよ!」

 ジークは慌てふためいてがなり立てた。次第に彼の耳は赤くなっていった。しかし、否定はしなかった。

 

「そういえば、試験の結果が出たんじゃない? どうだったの?」

 アンジェリカは、思い出したようにふたりに尋ねた。

 ジークは横目でちらりと彼女を見たが、すぐに視線をそらした。

「おまえには関係ないだろ」

 その表情にわずかに陰を落とし、低い声で言った。

「なによそれ」

 アンジェリカは不愉快さをあらわにして口をとがらせた。リックはジークに振り向き、驚いて大きな声を上げた。

「なんで?! 一番だったのに!」

「不戦勝なんて意味ねぇんだよ!」

 ジークは間髪入れずに切り返した。

「不戦勝?」

 アンジェリカがきょとんとしながら尋ねた。一方のリックは、にっこりと彼に笑いかけていた。

 ジークはふたりの視線から逃れるように下を向き、奥歯を噛みしめた。そして、再び耳が熱くなっていくのを感じた。

「ねぇ、不戦勝って?」

 アンジェリカは少し首をかしげた。

「あ、そうだ。今日のノートのコピー」

 ジークはわざとらしく話題をそらすと、リックの太ももを手の甲で軽く二度たたいた。リックは促されるまま、鞄の中を探し始めた。

「ちょっとごまかさないでよ」

「はい、これ」

 ジークに食って掛かろうとしたアンジェリカに、リックは紙の束を手渡した。

「……ありがとう」

 アンジェリカは小さな声でお礼を言った。話の腰を折られ、勢いを削がれてしまった。ごまかされたような気もしたが、それ以上ジークを追求することをやめた。

「アンジェリカなら、これくらいの遅れなんてすぐに取り戻せるよね。頑張って! 本当、嬉しいよ。アンジェリカだけでも戻ってきてくれるんだから」

 リックはにっこりと笑った。

「だけでも?」

 ジークとアンジェリカが同時に同じ言葉を発した。

「それってどういう意味だよ」

 ジークは眉をひそめて尋ねた。

「ああ、セリカはやめちゃうんだよね」

 リックはあっさりと言った。

 

 ジークもアンジェリカも声が出なかった。

 

 ジークはごくりと唾を飲み込むと、ようやく口を開いた。

「やめるって……。アカデミーをか?」

「そう」

「バカかおまえ! そんな大事なことは早く言えっつーの!!」

「あ、ごめん」

 ジークのあまりの勢いに気おされ、リックは目をぱちくりさせ体を後ろに引いた。

「くそっ」

 ジークは小さく舌打ちすると、勢いよく立ち上がり、走って部屋を出ていった。アンジェリカとリックは呆然と彼の後ろ姿を見送った。

 

「リック、本当なの?」

 アンジェリカの声には、驚きと疑いの色が含まれていた。

「うん、本人から聞いたから。もう決意を固めてるみたいだったよ」

「そう……。ジークは止めに行ったのよね」

「多分ね」

 アンジェリカは目を伏せた。そしてゆっくりと長い瞬きをした。

「止められるのかしら」

「アンジェリカはどっちがいいの?」

「やめるべきじゃないと思うわ。でも……」

 アンジェリカはベッドの上で膝を抱えた。そして、無表情で淡々と続けた。

「やめるって聞いて、私は少しほっとした」

 感情を押し込めたアンジェリカの横顔を見ながら、リックは穏やかに微笑んだ。

「自分を責めることはないよ」

 

 ジークはアンジェリカの家を飛び出し、全速力でアカデミーの前までやってきた。

「くそ、まだ遠いぜ」

 息をきらせながら、アカデミーの奥に目をやった。セリカが入院しているのは、アカデミーを抜けた王宮側の一室だ。ジークは深呼吸をして息を整えると、再び走り出した。

 薄暗く長い廊下の遠くに、ふたつの人影が表れた。そのうちのひとつはセリカだった。ジークは彼女の少し手前で足を止めた。肩を大きく上下させる彼を見て、セリカは目を丸くした。

「どうしたの? 恐い顔をして」

 彼女は自分の胸元に手をやった。その袖口からは白い包帯がのぞいた。

「アカデミーをやめるって、本当か?」

 ジークはまっすぐセリカを見据えた。セリカもまっすぐに視線を返した。

「お母さん、先に行って。門のところで待ってて」

 彼女はジークの方を向いたまま、隣の母親に言った。母親は少し不安げにセリカを見上げたが、彼女の言う通りにその場を立ち去った。

 足音が十分に小さくなったのを確認すると、セリカは大きく深呼吸した。

「今日で退学することにしたわ」

 五歩先のジークに届かせるように、はっきりとした声で答えた。そして、にっこりと笑って見せた。

「逃げんのかよ。四大結界師になりたいっていう夢はどうしたんだよ」

 怒りを含ませた低い声。ジークは彼女を睨みつけた。しかし、セリカは笑顔を崩さなかった。

「そうね。もう逃げることにしたの。私の夢なんて、その程度のものだったってことね」

「…………」

 ジークが返す言葉に詰まっていると、セリカがくすくすと笑い出した。彼は呆気にとられた。

「ごめんなさい。あなたが引き止めに来てくれるなんて思わなかったから。嬉しくてつい……」

 セリカは笑いながら、目尻を濡らしていた。ジークは彼女から目をそらした。

「俺はライバルが減ってくれてありがたいけどな」

 セリカは精一杯の笑顔を見せた。

「良かった。最後にあなたの役に立てて」

 ジークは下唇を噛んでうつむいた。

「やめんなよ。後味悪いだろ」

「ごめんなさい。もう決めたことなのよ」

 セリカは少し真面目な顔になり、それから寂しそうに笑った。

「今度どこかでばったり会ったら声かけてよね」

 ジークは返事も出来ず、ただうつむいたままだった。

「それじゃ」

 セリカは表情を堅くすると、一歩一歩、踏みしめるように歩き出した。ひとけのない廊下に、彼女の足音だけが響く。ジークの左手とセリカの左手が、かすめるぎりぎりですれ違った。触れてはいなかったが、ジークはその手の甲に確実に彼女を感じ取った。次第に遠のく足音を聞きながら、言葉にならないもやもやしたものが募っていった。

「おい!」

 こらえきれなくなったジークは、自分でもわけのわからないまま、ありったけの声を張り上げセリカを呼び止めた。そして、勢いをつけ振り返った。

 セリカは歩みを止めた。右足を踏み出したまま、固まったように動かない。

 ジークは彼女を呼び止めておきながら、次の言葉が出てこなかった。

 

 長い、長い沈黙が流れる。時間が止まったように、ふたりとも微動だにしない。

 

「あ……」

 沈黙を破ったのは、ジークのかすれた声だった。

「アンジェリカに、会っていかねぇのかよ」

 冷たい廊下に精一杯の声が響いた。セリカは目を閉じ、まぶたを震わせた。

「会えない……。会えるわけがない!」

 背中を向けたままで叫び、走り出した。止まることなく廊下の角を曲がると、そのまま見えなくなった。足音も次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 

 ジークは薄暗い廊下にひとり残され、後味の悪さを噛みしめていた。

 

 

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27. 狂宴

 

 アンジェリカが再びアカデミーへ行くようになって数日が過ぎた。以前と変わらず、ジークと言い合ってみたり、三人で笑ってみたり、そんな日々を過ごしていた。ただ、三人とも、なんとなくセリカの話題だけは避けていた。

 

「ったくラウルのやつ、あれで教えてるつもりか?」

 アカデミーから門に向かいながら、ジークは大声で不満をわめき散らした。並んで歩いていたリックとアンジェリカは、顔を見合わせて苦笑いをした。

 校庭の中ほどまで来たところで、ジークは怪訝な顔を見せた。ふいに後ろを振り返る。だが、近くには誰もいない。

「何?」

 アンジェリカもつられて後ろを見た。

「いや、アイツら、誰を見てんのかと思ってよ。どうもこっちを見ているような気がするんだけど、気のせいだよな」

 ジークは門の方に目を向けて言った。そこには男が三人立っていた。いずれも、鮮やかな金髪だった。中央の少年は、ジークと同じくらいの歳だろうか。残りのふたりはそれよりやや幼く見える。中央のリーダーらしき少年に、付き従うように立っていた。

 アンジェリカは彼らを見ると顔をこわばらせた。

 

「お久しぶりです、お嬢さま」

 前に立っていた少年が、含みのある微笑みを浮かべた。

「何しに来たのよ」

 アンジェリカは彼らと目を合わそうとせず、突き放すように言った。

「そんなつれない返事はないんじゃないですか。明日は楽しみにしてますよ」

 少年は、アンジェリカの正面に回り込み、腰を屈めて覗き込んだ。アンジェリカの目の前で、彼の柔らかい金髪が風になびいた。彼女はさらに顔をそむけた。

「まさかとは思いますが、アカデミーを理由に出てこない、なんてことはないですよね。ゆっくり話をする機会なんて、こんなとき以外ありませんから」

 優しい口調とは裏腹に、その表情には意味ありげな下卑た笑いが浮かんでいた。

「それでは明日、会いましょう」

 彼はそう言うと、隣のジークに振り向いた。あごをしゃくり見下すような視線を向ける。ジークがムッとすると、彼は片方の口の端を上げにやりと笑った。そして、ふたりの少年を従え、その場を去っていった。

 

 ジークは激しい嫌悪感と苛立ちを感じた。腕を組み、眉をひそめる。

「なんだあいつら。知り合いか?」

 小さくなった三人の後ろ姿を睨みつけながら、アンジェリカに尋ねた。

「親戚よ。ラグランジェ家の分家の人。私の婚約者になる予定」

「なにっ!!」

「……だった人。お爺さまが勝手に話を進めてたらしいんだけど、今はその話もなくなったから」

 アンジェリカは淡々と話した。ジークは少し恨めしそうに彼女を睨んだ。

「おまえ、あんまり驚かせるなよ」

「え?」

「いや、なんでもない」

 ジークは噴きだした額の汗を拭おうと手を上げかけた。だが、ふいに手を止め、静かに下ろした。

 

「明日は何があるの?」

 リックはアンジェリカの横顔を見つめながら、心配そうに尋ねた。

「年に一度のラグランジェ家の集まり」

「……それ、行かない方がいいんじゃねえのか?」

 ジークはサイファの話を思い出していた。アンジェリカはショックを受けると眠ったまま目を覚まさなくなる、彼はそう言っていた。親戚たちに蔑まれている彼女た。そんな集まりに行けば、きっとまた酷いことを言われるに違いない。そうすれば、また??。

「どうして? 私は出るわよ」

 アンジェリカは事も無げに言った。ジークはむっとした表情をアンジェリカに向けた。

「おまえ、本当は弱いくせにどうしてそう強がるんだよ! そのせいでどれだけみんなが心配してるかわかってんのか?!」

 今度はアンジェリカが怒りをあらわにした。眉を吊り上げ、ジークに詰め寄る。

「なによそれ。弱いってどういうこと? どうしてジークにそんなことが言えるの?!」

 ジークはサイファから聞いたとは言い出せず、ただ押し黙るしかなかった。

 

「じゃあ、なんかあったらこの言葉を思い出せ」

 しばしの沈黙のあと、ジークは唐突に切り出した。そして、不思議そうに見上げるアンジェリカの鼻先に、人差し指をビシッと突き当てた。

「勝ち逃げは許さねぇ!」

「……はぁ?」

 アンジェリカは一瞬、目をぱちくりさせて驚いたが、そのあとしだいに怪訝な表情に変わっていった。リックは少し呆れてため息をついた。

「ジーク、もっと気の利いた言葉とか、ないの?」

「うるせえな! なら自分が言えばいいだろう」

 アンジェリカはふたりの言い合いを聞きながら、小さく首を傾げた。

 

 その夜、アンジェリカは早めにベッドに入った。

「アンジェリカ、何度も言ったけど、今年は学校に行っているという理由もあるし、無理に出なくてもいいのよ」

 レイチェルはベッドサイドに座り、布団を掛け直しながら優しく言った。しかし、アンジェリカはゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、出るわ」

 レイチェルはそんなアンジェリカを見て、つらそうに少しだけ笑い、彼女の前髪を掻きあげた。

「私たちのことなら気にしなくていいのよ」

 アンジェリカは再び首を振った。そして、まっすぐレイチェルを見つめた。

「そうじゃないの。私は逃げたくないだけ」

 レイチェルはもう何を言っても無駄だと悟った。

「それじゃ、明日のためにゆっくり休んで」

 精一杯の笑顔でアンジェリカの頬を撫でると、ゆっくりと立ち上がり、明かりを消して部屋をあとにした。

 

 翌日。ラグランジェ家は朝から準備でバタバタしていた。

 料理などはほとんど雇いの者が行っていたが、それでもサイファとレイチェルは指示を出さなければならなかったし、自分たちの身支度もしなければならなかった。

 夕方になり、次々とゲストが訪れ始めた。みなラグランジェ家の一族である。やはり、アンジェリカに対する態度は一様に冷たかった。あからさまに侮蔑の態度を向ける者、冷ややかな眼差しを向ける者、視界に入れようともしない者……。

 ??こんなこと、もう慣れっこだわ。

 アンジェリカは何度も自分にそう言い聞かせた。そして、次第に感情の扉を閉ざしていった。

 

 宴が始まると、ホール内は宝石箱のようにきらめいた。色とりどりのドレス、胸元や指で光を放つダイヤモンド、そしてそのダイヤモンドさえくすませるほどの鮮やかな金の髪。それらがホール中を舞い、さまざまな光の乱反射を作り出していた。

 そこかしこで談笑が聞こえる中、アンジェリカは刺すような視線と中傷の言葉を避け、隅でひっそりと立っていた。今の彼女にとって、そこがいちばん落ち着ける場所だった。オレンジジュースの入ったグラスを両手で握りしめ、ただひたすら時が過ぎるのを待った。

 

「私はおまえたちが不憫で仕方がない。十年もの間、こんな……」

「いくらお父さまでも、アンジェリカの前でそのようなことを口にしたら許さないわよ」

 レイチェルは、サイファを交えて自分の父親と話をしていた。会話の内容は自然とアンジェリカのことになっていた。

「アンジェリカもそろそろ 11になる。いいかげんに決めたらどうかね、許婚を」

 サイファは少し困ったように肩をすくめた。

「その話は無駄だとわかっているでしょう」

「君らも強情だな」

 笑顔をたたえる娘夫婦を見て、半ば諦めるようにため息をついた。

「あの子の意思を尊重してやるのが私たちの教育方針です。あの子はいずれ自分で選びますよ」

 サイファとレイチェルは目を見合わせてくすりと笑った。

「それならどうだ。ふたりともまだ若いんだ。もうひとりくらい……」

「お父さま、この場にふさわしくない話題ですわ」

 レイチェルは軽く怒ったような表情を作り、父親をたしなめた。サイファはカクテルを一口流し込んだ。そして、微笑みを浮かべながら、きっぱりとした口調で言った。

「それはアンジェリカを傷つけることになります。私にそのつもりはありません」

 レイチェルは手にしていたカクテルに視線を落とした。微かに揺れる表面を見つめながら小さく頷く。口元に浮かべた笑顔は、どこか寂しげに見えた。

 

 レイチェルは彼女の母親に呼ばれ、ホールをあとにした。残されたサイファはガラスの扉を開け、義父をバルコニーへ誘った。外はもうすっかり暗くなっていた。生ぬるい風が頬を撫で、髪をなびかせた。

「伝統あるラグランジェ家をここで途絶えさせる気か」

 娘の前では見せなかった厳格な表情で、義父は話の続きを切り出した。しかし、サイファはその雰囲気に飲まれることなく、柔らかい笑顔で返した。

「悪い風習や形だけにしがみつくくらいなら、それも悪くないと思っています」

 義父は柵に背を向け、そこに体重を預けた。そして、空を見上げて目を閉じ、ゆっくり鼻から息を吐いた。

「君はもっと分別のある男だと思っていたよ」

 サイファは柵に両ひじを乗せ、目を細めて遠くを見やった。

「私はただ、私たちが幸せになる方法を選択しているだけです」

 義父は無言でうつむいた。サイファは真剣な顔を彼に向け、さらに淡々と続けた。

「あなたは娘の幸せを望まない父親ではないはずです。ただ、あなたにも立場というものがある。もしかするとあなたが一番おつらいのかもしれません」

「なんの話だ」

 義父は唸るような低い声でそう言うと、横目でサイファを刺すように睨んだ。しかし、彼はその視線を軽く受け流し、穏やかな笑顔を浮かべた。

「心当たりがなければ聞き流してください」

 義父は何か言いたげな表情を見せたが、こらえるように顔をそむけた。

 

「さすがに目立つな、黒づくめは」

 その声に反応し、アンジェリカは顔を上げた。少し離れたところに立っていたのは、昨日の三人組だった。

「おっとそれ以上寄るなよ。こっちまで呪いがうつってしまうからな」

 三人とも、にやにやと意地悪く笑っていた。アンジェリカは彼らを一瞥すると、黙ったまま再びうつむいた。

「おまえの周りでは次々と事件が起こるな。それが呪われてる何よりの証拠だろう。おまえ自身もそろそろ気がついてるんじゃないのか。だからそんな喪服みたいな黒い服を選んでるんだろう」

 近くにいた大人たちには、そのセリフは耳に届いていた。だが、誰も止めるものはいなかった。大半は聞こえない振りをしていた。そして、残りは下卑た好奇のまなざしでその様子を見ていた。

「これは喪服じゃない。痛みを忘れないためよ」

 アンジェリカは、静かに、ささやかに反論をした。

「恨みがましいお嬢さまだな。アカデミーに入ったからっていい気になるなよ。あんなものコネに決まってるだろう。そもそもアカデミーってやつもたいしたことないのかもな」

 アンジェリカの反論が、少年をさらに饒舌にした。離れたまま上半身をかがめ、覗き込むように顔を突き出した。

「昨日いっしょにいたお友達も冴えないヤツらだったよな。まあ、おまえのような穢れたヤツには、ああいう低俗な輩が似合っているがな」

 アンジェリカは目を閉じ、ひたすら耐えていた。彼女のまぶたは細かく震え、身体の中で熱いものが暴れ始めていた。

 少年は調子に乗り、次第に音量を上げていった。

「なんとか言ったらどうだ。おまえみたいな穢れた血は、ラグランジェ家にいる資格はないんだよ。みんな言ってるさ。おまえが呪われているのは……」

 ??ガラガラガラガシャン! ゴン!!

 彼の頭上から銀食器が降り注いだ。そして、最後に大きな銀製のプレートに頭を打たれ、膝から崩れた。ぬめりのある黄色いかけらとべとついた液体が彼を伝った。それはプリンだった。隣のふたりは驚いて、後ずさりした。

「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」

 あたりが静まり返ったところに、レイチェルの声が響いた。その声は少し弾んでいるようにも聞こえた。

「あなたわざとやったわね!」

 色白で痩せた年配の女性が、レイチェルに近づきながらヒステリックに叫んだ。その女性は少年の母親だった。

 しかし、レイチェルが臆することはなかった。

「いいえ、手が滑っただけですわ」

 笑顔のままで、きっぱりと言いきった。あまりに堂々としていたので、逆に少年の母親の方が怯んだ。

 レイチェルはしゃがんで膝をつくと、ハンカチを取り出し、彼の顔をそっと拭った。薄い布を通して、彼女の細く柔らかい手の感触が伝わってきた。彼の鼓動はドクンと大きく打った。レイチェルはさらに顔を近づけ、彼を下から覗き込んだ。彼の鼓動はもっと大きく早く、心臓が破れんばかりに打ち始めた。顔が上気していく。彼女に目を向けることすら出来ない。

 レイチェルはにっこりと微笑み掛け、穏やかに言った。

「熱々のシチューでなくて、本当に良かったわね」

 少年は背筋に氷水を流し込まれたように、体の芯から震えが走った。レイチェルはすっと立ち上がると、少年に手を差し出した。

「替えの服をお貸しします。どうしたの? さあ行きましょう」

「触るなっ!」

 少年はレイチェルの手を払いのけ、よろけながら立ち上がると扉の方へ駆け出した。熱湯と氷水を同時に浴びせられたように感覚が麻痺していた。体中に鳥肌を立てながら、顔からは汗を滴らせていた。

 取り残されたふたりの少年も慌てて彼を追って走り出した。

 

 レイチェルはアンジェリカにこっそりとウインクした。

 

「まったく、品のないこと。子が子なら親も親ですわ。親からして穢れているようね」

 少年の母親はこめかみに青筋を立て、早口でまくしたてた。しかし、レイチェルは涼しい顔でまったく気にも留めていない。彼女はそれがなおのこと気にくわなかった。

「私の娘を悪く言わんでくれるか」

 背後から低い声が聞こえた。彼女は口をへの字に折り曲げ、肩ごしにその男を睨んだ。

「でしたら、もっときちんと教育なさったらどうです」

「おまえの子供の方がよっぽど品がないと思うがな。幼な子をいじめて楽しんでいるようでは将来が思いやられる」

「それは……」

 彼女は言葉を詰まらせた。そして、思いきり顔をしかめると、身を翻しその場をあとにした。

 

「ありがとう、お父さま」

 レイチェルは父親に近づきながら、にっこりと微笑んだ。

「おまえには私の助けなど必要なかっただろうがな」

 そう言い無愛想に娘を一瞥すると、彼女に背を向けた。彼女は父のその大きな背中に額をつけた。

「お父さまが庇ってくださったことが、何より嬉しいわ」

 レイチェルは囁くように言った。彼は背中に熱い吐息を感じた。ふいに、振り返って娘の頬を両手で包み込みたい衝動に駆られた。しかし、彼は前を向いたまま微動だにしなかった。

「おまえに触発されたのかもしれん」

 彼はその言葉を残し、再び人の群れへと消えていった。

 

 アンジェリカは息苦しさに耐えかねてホールの外へ出た。中に比べると幾分ひんやりとしていて、ほてりを冷ますにはちょうど良い。しばらくそこで休憩をとったらまた戻るつもりでいた。しかし??。

「おい、逃げるのか?」

 いちばん聞きたくなかった声が、耳を貫いた。アンジェリカはゆっくりと声のした方へ顔を向けた。

「プリンまみれですごんだって迫力ないわよ」

 濡れタオルを手にプリンのかけらと格闘していた少年に、冷ややかな視線を浴びせた。彼の目に、怒りの炎が冷たく燃えた。

「ちょっとこっちへ来い」

 低い声でそう言うと、顎をしゃくった。しかし、アンジェリカは冷たく見ているだけで、動こうとはしなかった。

「近づいたら呪いがうつるんじゃなかったの?」

 少年は口の端をわずかに上げた。

「その減らず口も今にきけなくしてやるさ」

 少し楽しそうな色を含ませそう言うと、隣のふたりに顎をしゃくり、横柄に指示を出した。ふたりは小走りでアンジェリカの両隣まで来ると、彼女の上腕をつかみ、少年の前まで引きずってきた。

 アンジェリカは感情のない瞳で彼を見上げた。

 少年は彼女の首に手をかけると、そのまま壁に叩きつけた。アンジェリカは後頭部を殴打した痛みと、喉を押さえつけられた苦しさに、思いきり顔をゆがめた。

 ??ビリビリビリッ。

 耳障りな音が耳をつんざいた。少年はアンジェリカの左の袖を引きちぎっていた。そして、その袖を彼女の前に掲げると、見せつけるように彼女の眼前で手を放して落とした。

「兄上、ちょっと趣味が悪いんじゃない?」

 少年に付き従っていた弟のひとりが、驚いて引きぎみに言った。

「こんなガキに興味はないさ。ただちょっとおしおきをするだけだ」

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべそう言うと、そのままの表情でアンジェリカに向き直った。

「安心しろ、お嬢さま。俺もバカじゃない。法律に引っかからない程度……いや、揉み消せる程度のことまでしかやらない」

 アンジェリカは怖れるでもなく怯えるでもなく、ただ無表情で少年をその瞳に映していた。そして、ふいに口を開き、平らな声で言った。

「まだ甘ったるい匂いがするわよ」

 少年はカッとなり頬を紅潮させた。ほとんど反射的に、彼女の頬を手の甲で殴りつける。

「チッ、泣けばまだかわいいものを」

 アンジェリカは殴られたまま横を向いてうなだれていた。少年はそれを嫌悪の表情で睨みつけた。

「こうなったら泣くまでやってやる」

 彼は意地になっていた。あらわになった彼女の細い左肩を乱暴に掴むと、小さくこもった声で呪文を唱え始めた。その手と肩の間から白い光が漏れる。それは次第に熱を帯びていった。アンジェリカの額から幾筋もの汗が滴り落ちた。目をつぶり、歯を食いしばり、灼ける痛みに耐えた。

「くっ……」

 アンジェリカは小さく声を漏らした。

 その途端、肩から手が離れた。少年の体はアンジェリカから引き離され、対壁の大きなステンドグラスにガシャンと打ちつけられた。

 それはサイファの仕業だった。

「何をしている、おまえ」

 サイファは喉の奥から声を絞り出し、少年の胸ぐらを乱暴に掴み押し上げた。爪が食い込むくらいに右手を固く握りしめ、今にも振り上げんばかりに震わせていた。

「やるのか? やりたければやれよ。魔導省のお偉いさんが無抵抗の若者に暴行したとなれば、ただでは済まないぜ」

 少年は気持ち悪いくらい冷静に言うと、意地悪く挑むような目で笑った。

 ??ガシャン!

 サイファのこぶしは彼の頬と耳をかすめ、背後のステンドグラスにめり込んでいた。そこから亀裂が広がり、いくつものかけらがカラカラと崩れ落ちた。サイファは彼にくっつかんばかりに顔を近づけた。その瞳にみなぎる激しい憎悪に、少年は一瞬で凍りついた。

「あまり頭にくると、何もかもどうでもよくなるかもしれない」

 本気だ??。

 彼は本能的にそう思った。そして、同時にかつてないほどの激しい恐怖を感じた。

 サイファはゆっくりとこぶしを引くと、彼に背を向け歩き出した。そして、呆然としていたアンジェリカを抱え上げた。

「今日のことは忘れない。レオナルド=ロイ=ラグランジェ」

 背中を向けたまま、サイファは静かに言った。少年は膝を折り、ガラスのかけらの上へへたり込んだ。

 

 

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28. 踏み出した一歩

 

「幸い、軽いやけどだけだったよ。跡も残りそうもない。今は部屋で眠っている」

 サイファはそう言うと、軽く息を吐きながら、疲れたようにソファに腰を落とした。

「良かった……といっていいのかわからないけど」

 レイチェルの顔にも疲労の色が浮かんでいた。安堵の息をつき、少しだけ笑うと、すぐに複雑な表情に戻った。

「どうして自分の身を守ろうとしないのかしら」

 サイファの向かいにレイチェルも腰を下ろした。彼女は目を伏せ考え込んだ。サイファはちらりと彼女に目をやると、前屈みにうつむいた。両膝の上で肘をつき、額の前でその手を組んだ。

「この前の事件が、彼女に悪影響を与えているのかもしれない」

「セリカさんの?」

 レイチェルはまっすぐにサイファを見た。サイファも顔を上げレイチェルと視線を合わせた。

「ああ、似ているだろう。六年前のあの事件と。自分の身を守ろうとして、魔導の力を暴発させ相手を傷つけてしまった。そのショックで、相手を傷つけることを必要以上に恐れるようになり、何をされてもひたすら耐えることしかできなくなる」

 レイチェルはその話を聞きながら、顔から徐々に血の気が引いていった。ただでさえ白い彼女の肌は、今や青みがかっているようにさえ見えた。

「……どうするの?」

 こわばった声でようやくそれだけ言った。彼女は湧き上がる湧き上がる恐怖心を鎮め、冷静に振る舞おうとしていた。

「今のところ、あくまで私の推測にすぎない。あれこれ言ってみたところで、私たちは医者ではないからね。ラウルに相談してみるよ。できればあのときのようなことは避けたいのだが……」

 サイファは口元で両手を組み、目を伏せ深く考え込んだ。

 

 夜が明けた。リビングにはいつも通りの風景が広がっていた。窓からは光が差し込み、光沢のある白いテーブルをよりいっそう輝かせていた。赤いティーポットからはほのかに甘い香りが漂う。いつもと違うことはただひとつ。そこにはアンジェリカがいなかった??。

 

「来ないね、アンジェリカ。ラグランジェ家の集まりってきのうだけのはずだけど」

 一時間目が終わっても、教室の中にアンジェリカの姿はなかった。リックはアンジェリカの屋敷のある方角に顔を向けながら、心配そうに言った。

「だからやめろって言ったのに。くそっ……」

 ジークは肘をつき、眉間にしわを寄せうつむいた。リックもつられて目を伏せた。沈黙が流れ、ふたりに重い空気がのしかかった。

「もしかしたら、アイツだったら何か聞いてるかもな」

 ジークは視線だけを上げ、教室から出て行こうとしているラウルの後ろ姿を目で追った。リックはジークの視線をたどり、ラウルを目にすると小さく頷いた。

「そうだね。ラウルってラグランジェ家のホームドクターみたいな感じだし」

 ジークは頬を膨らませ、難しい顔をした。

「あんまりヤツとは関わりたくねぇけど……」

 そう言いながらも、意を決したように立ち上がり、ラウルを追って走っていった。リックも少し遅れて後を追った。

「おい! ラウル」

 呼ばれたラウルは足を止め、顔だけわずかに声の方へ向けた。そして、走り寄るジークを一瞥すると、再び背を向け歩き始めた。

 ジークはむっとしながらも小走りでラウルについていき、背中越しに声を投げかけた。

「アンジェリカのこと、何か聞いてねぇか?」

「さあな」

 ラウルは短く一言だけ答えた。ジークは怪訝な表情で、さらに問い詰めた。

「ホントに知らねぇのか。知らないんだったら『何の話だ』とか聞いてくるのが普通じゃねぇか?」

「万が一知っていたとしても、それをおまえに話す義務はない」

 ラウルは大股で歩きながら、振り返ることなく冷たく言い放った。

 ジークは足を止めた。両こぶしをきつく握り締める。そして、だんだんと離れていくラウルの背中を睨みつけた。

「やっぱりおまえなんかに聞かなきゃよかったぜ!」

 大きな声で捨てゼリフを吐くと、床を思いきり蹴りつけた。奥歯を噛みしめ、踵を返し、肩をいからせながら教室へと戻って行った。

「へらへら笑ってんじゃねーよ!」

 扉付近で談笑していたグループに、すれ違いざまに当たり散らしながら自分の席まで行くと、その椅子に乱暴に身を投げた。とばっちりを受けた三人は、突然のことに目を丸くしていた。

「ごめん、ちょっとカリカリしてるから」

 リックは顔の前に右手を立て、肩をすくめて申しわけなさそうな表情を見せた。そして、少し遅れて席に着こうとした。だが、そのときジークがふいに立ち上がり、再び教室を出て行った。リックも慌てて後を追った。

 ジークは両手をジーンズのポケットに突っ込み、ずんずんと進んでいく。

「どこ行くの?」

 ジークを小走りで追いかけながら、リックは短く尋ねた。

「トイレだ」

「トイレならあっちだよ」

 リックは進行方向と反対側を指差した。ジークは無視して歩き続けた。

「……どこまでついてくる気だ」

「僕もトイレ」

 リックはジークの横に並ぶとにっこり笑った。

 

「やっぱり起きてこないわね」

 レイチェルは不安な表情で、アンジェリカの部屋のある二階に顔を向けた。

「ああ」

 サイファは重い声で短く返事をした。その一言だけで、彼が心配していることは容易に読み取れた。

「当然よね。あんなことがあったんだもの」

 レイチェルはサイファに背中を向け、寂し気にうっすら自嘲の笑みを浮かべた。

「私、もう一度アンジェリカの様子を見てくるわ」

 彼女は一転して明るい声を作ると、サイファに振り返り、にっこり笑って見せた。しかし、無理をしている彼女の姿はなおさら痛々しい??。サイファはそう感じた。

「私も行くよ」

 すっと立ち上がると、レイチェルの後ろからついて行った。

 ??パタパタパタ。

 ふたりが玄関ホールまで来ると、階上から軽い足音が聞こえた。そして、すぐにその足音の主が姿を現し、大きな階段を駆け降りてきた。

「アンジェリカ!」

 レイチェルは目を見開いて娘の名を呼んだ。

「どうして起こしてくれなかったの? 完全に遅刻だわ」

 アンジェリカは冷静にそう言うと、驚いている両親とすれ違い、リビングへと小走りで向かった。残されたふたりは互いに顔を見合わせると、はっとして彼女の後を追った。

 アンジェリカは鞄を開け、その中を確認していた。

「大丈夫なの?」

 レイチェルは、恐る恐る、彼女の顔を覗き込んだ。彼女はそんな母親を不思議そうに見ると、自分の肩に手を当てて、落ち着いた声で言った。

「こんなの怪我のうちにも入らないわよ」

 レイチェルはますます困惑した。

「そうじゃなくて……」

「え?」

 アンジェリカは首をかしげ、きょとんとしていた。レイチェルはそれを見て、短く息を吐き、表情を緩めた。そして、彼女の頭を優しく撫でた。

「朝ごはんだけは食べていきなさいね」

 

 アンジェリカは大急ぎでトーストを口に運んだ。サイファはほおづえをつき、微笑みながらその様子を見ていた。彼女はどういうわけか軽やかな明るい表情をしていた。まるで、何かを吹っ切ったかのようだった。

「なんだかご機嫌だね。いい夢でも見たのかな」

 サイファにそう問われて、アンジェリカは手を止めた。そして、トーストを見つめたままわずかに頬を緩めた。

「内緒」

 サイファとレイチェルは顔を見合わせた。しかし、アンジェリカは両親のそんな様子を気にする素振りも見せず、黙々とトーストを食べた。

「行ってきます」

 最後のひとかけらを口に放り込むと、早口でそう言い、鞄をつかんで椅子から立ち上がった。そして、軽快な足音を立て、ふたりの間を走り抜けた。

「あ、いってらっしゃい!」

 レイチェルは慌てて彼女の背中に声を投げかけた。部屋の外に出ると、すぐに彼女の姿は見えなくなり、やがて扉の軋む音が聞こえた。

「これって、どう考えればいいのかしら。あんなことがあったばかりなのに」

 レイチェルはいったん首をかしげると、うつむいて視線を落とした。

「私たちに心配をかけまいとして、無理をして振る舞っていると考えられなくもないが……」

 サイファはそう言いながら、アンジェリカの座っていた席を見つめた。そして、ふいに優しい顔を見せた。

「私は信じたいよ。今日のあの子の嬉しそうな表情は」

 レイチェルも穏やかに笑って頷いた。

「ええ、そうね。そうよね。ラウルには楽観的すぎるって怒られそうだけど」

 そう言って、首をすくめておどけて見せた。

 

 アンジェリカは緩いペースで走りながらアカデミーへ向かっていた。生ぬるい向い風を受け、少し息苦しさを感じた。しかし、それでも走ることをやめなかった。彼女の気持ちはアカデミーへと焦っていた。

 ふと前を見やったとき、長くまっすぐな道の遠くにふたつの影を見つけた。彼女はまさかと思いながら、走るスピードを上げ、そのふたつの影に近づいていった。

「ジーク、リック!」

 アンジェリカは少し息を切らして言った。目の前には仏頂面のジークと笑顔のリックが立っていた。リックは軽く右手を上げ「おはよう」といつもの挨拶で迎えた。彼女は何度か深く息を吸って吐いて呼吸を整えると、ふたりの顔を交互に見て付け加えた。

「アカデミーは?」

「あーっと、えーと……」

 ジークは彼女から目をそらしながら、いいわけを考えていた。ここまで来てトイレなどといういいわけは通じない。焦れば焦るほど頭の中が真っ白になっていく。

「もしかして、私を迎えにきてくれたの?」

 アンジェリカがさらに追いうちをかけた。ジークは「ばっ……」と何かを言いかけて、口をつぐんだ。彼の耳は次第に赤くなっていった。

 リックは後ろから楽しむようにジークの様子を見ていた。

「行くんだろ、アカデミー」

 ジークはあさっての方に目をやったまま早口でそう言うと、踵を返し歩き始めた。アンジェリカは下を向いて小さく笑うと、小走りでジークに駆け寄り並んで歩いた。

「ジークの言ってたこと、少しわかった気がしたわ」

「え?」

 ジークはアンジェリカの方に顔を向けかけたが、慌てて前へ向き直った。まだ彼の顔はほんのり熱を帯びていた。しかし、アンジェリカはそんな彼の様子に気がついていなかった。前を向いたまま、淡々と言葉を続けた。

「迷惑、かけてたのかなって」

「そんなこと言ったか?」

 アンジェリカはジークの問いに答えるかわりに、にっこりと満面の笑みを向けた。それは、レイチェルがよく見せる表情だった。ジークはとまどった。彼女のこんな顔は今まで見たことがなかった。

「だからって、逃げるのはやっぱり嫌だけど」

 彼女は少し硬い顔に戻り、ひとことひとこと噛み締めるように言葉をつなげた。そして、ふいに足を止めた。ジークは怪訝に振り返った。

 アンジェリカは両足を少し開いて、しっかりと大地を踏みしめるように直立していた。胸元で鞄を抱え、まっすぐにジークを見つめた。

「だから、もっと、強くなるわ」

 静かな声に強い決意を秘めた真剣な表情。ジークの鼓動は大きく強く打った。

「それから……」

 アンジェリカは口ごもりながら、はにかんで視線を外した。しかし、すぐにジークに目を戻して言った。

「ありがとう」

「ん、ああ……?」

 何に対する「ありがとう」かわからないまま、ジークは反射的に返事をしてしまった。そんなジークを見て、リックは隣でにこにこ笑っていた。

「早く行きましょう!」

 アンジェリカは照れをごまかすように早口で言うと、白いミニスカートをはためかせながらジークの隣を駆けていった。

「おい、待てよ!」

 ジークも慌てて駆け出し、全速力で彼女を追いかけた。

 

 

 

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続きは下記にて掲載しています。

よろしければご覧くださいませ。

 

遠くの光に踵を上げて(本編94話+番外編)

http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html

 

 

説明
アカデミーに通う18歳の少年と10歳の少女の、出会いから始まる物語。

少年は、まだ幼いその少女に出会うまで敗北を知らなかった。名門ラグランジェ家に生まれた少女は、自分の存在を認めさせるため、誰にも負けるわけにはいかなかった。

反発するふたりだが、緩やかにその関係は変化していく。
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