遠くの光に踵を上げて - 第32話?第34話 |
32. 友の思い、親の思い
「本当にごめんなさい! わざとじゃない……のよ?」
アンジェリカは顔の前で両手を合わせると、申しわけなさそうに、上目づかいでジークとリックを見た。
「てっきりジークが怒らせたからだと思ってた」
リックはちらりとジークを見ると、何か言いたげに目に笑いを含ませた。それから、アンジェリカに向き直るとにっこり笑いかけた。
ジークは顔を伏せ、耳を赤くしていた。
昨日の夕方、アンジェリカはジークの制止を振り切り、ラウルの後を追っていった。そしてその途中、自分たちが解除した結界を元に戻していった。いや、新たに結界を張り直したといった方が正しいだろう。そして、それは元のものとは比べものにならないほど強力なものだった。
彼女が意識をしてやったというわけではない。何気なく扉を閉めるくらいのつもりで張った結界だった。しかし、ジークとリックを屋上に締め出すには十分な強さを持っていた。ふたりがかりでもなかなか破ることができず、悪戦苦闘していたところへ二年の担任が通りかかり、助けられたというわけだ。
ついでに大目玉をくらってしまったことは言うまでもない。
それでも、どんなに問い詰められても、ふたりはアンジェリカのことは一言も口にはしなかった。
「ほとんど無意識だったのよ」
アンジェリカは肩をすくめた。
「多分、ラウルが元に戻しておけって言ってたことが、頭に残っていたからだと思うけど」
「これもアイツの計算だったんじゃねぇかと疑っちまうくらいだな」
ジークは小声でぼそぼそと言うと、乾いた笑いを浮かべた。
三人は食堂の隅のテーブルに席をとった。
「それで、ユールベルとかいう子のことは何か聞けたの?」
昼食をのせたトレイを机に置きながら、リックが尋ねた。
アンジェリカは椅子に腰を降ろすと、ほおづえをついた。
「それが全然。少し診察して、よくわからない質問をいくつかされて、それだけ。いくら聞いても答えてくれなかったわ」
不機嫌にそう言うと、コップを手に取り、水をひとくち飲んだ。ジークは勢いよくパンを頬張り、スープを流し込んだ。
「あんな気になることを言っといて、どういうつもりなんだかな」
「うん……」
さすがにアンジェリカも、これには同意せざるをえなかった。言葉を呑み込み、フォークでサラダをつつきながら、目を伏せていた。
「そのラウルの質問って、どんな質問だったの?」
リックはスープを片手に、少し頭を低くしてアンジェリカを覗き込んだ。
彼女は瞬きをしながら小首を傾げた。
「小さい頃のこととか……憶えているかどうか確かめたかったみたいだけど、よくわからないわ」
「ラグランジェ家のことなら、サイファさんかレイチェルさんに聞けばいいんじゃねぇのか?」
ジークは名案を思いついたといわんばかりにパッと顔を輝かせ、プチトマトを突き刺したフォークでアンジェリカを指した。
「もちろん聞いたわよ」
彼女は当然のことのように言った。しかし、その声からは明らかに不満が感じとれた。さらに顔を曇らせ、頬をふくらませると、背もたれに身を預けた。
「でも全然。昔に何度か顔を見かけただけであまり知らないとか言っていたけど、絶対にあやしいわ。何かを隠してるみたいだったし……」
フォークを握りしめたまま、しばらく考え込んでいたかと思うと、突然机に手を置き、身を乗り出した。
「ねぇ」
「ん?」
ジークとリックは口にパンを頬張ったまま、アンジェリカを見た。
「ふたりから聞いてくれないかしら。私には言わなくても、ふたりになら話してくれるかもしれない」
アンジェリカの思いつめた表情に、ふたりは言葉を発することができなかった。そもそも彼女が人に何かを頼むということ自体がめったにないことだ。どれほど彼女が必死であるかは察して余りある。
「ね?」
彼女は不安げに言葉をつけ加えると、返事のないふたりをじっと見つめた。
「あ……ああ」
ジークはぎこちなく頷いた。
授業が終わり、皆それぞれ帰り支度を始めていた。ジークも鞄を開け、本をしまおうとしていた。そこへ??。
「ジーク」
教壇からの無愛想な声が彼を呼んだ。ジークは顔を上げ、声の主に対抗するかのように、精一杯の仏頂面を見せた。
ラウルはそれ以上、何も言わなかった。教壇からただ無表情でジークを見ていた。その目が彼を呼んでいた。ジークはしぶしぶ立ち上がり、教壇へと歩いていった。ラウルは二つ折にされた紙切れを、人さし指と中指の間に挟んで差し出した。
「サイファからの預かりものだ」
ジークは少し眉をひそめると、それをそっと引き抜いた。
「アンジェリカに悟られぬように、ということだ」
言うことだけ言うと、ラウルは教本を脇に抱え、さっさと出ていってしまった。
ジークはしばらく怪訝な顔でラウルの姿を目で追っていたが、ふいに自分の手元に視線を戻し、渡された紙を広げてみた。
??本日、リックと二人で例の酒場へ。
中央に短くそれだけ書かれていた。そしてその右下にはサイファのサインが入っていた。ジークはそれを一握りすると、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「どうしたの?」
振り返ると、アンジェリカが大きな瞳で不安げにじっと見つめていた。
「ああ……。きのうのお小言だ。心配するな」
うつむき加減で少し早口にそう言うと、ジークは帰り支度の続きを始めた。
三人は並んで歩き、外に出た。
正門の隣にはまだ合格発表の紙が張ってあった。ちらほらと見に来ている人もいる。
その中にひときわ目を引く、鮮やかな金の髪の少女がいた。アンジェリカよりやや年上くらいだろうか。半そでの白いワンピースから伸びた腕と脚は、折れそうに細い。緩くウェーブを描いたブロンドは腰まで達している。右の瞳は深い森の湖を思わせる蒼色、そして左目は白い包帯で覆い隠されていた。
??ユールベル……か?
ジークはなぜだかそう直感した。そして、隣のふたりも同じように直感していた。
気配を察したのか、少女がゆっくりと三人の方へ振り向いた。長いブロンドが風になびき、光を受け、きらきらと輝いた。
アンジェリカは息を呑んだ。
「あら、アンジェリカ。今から帰るの?」
背後からの声。調子が狂うくらいに明るい。アンジェリカが目を丸くして振り返ると、そこには優しく微笑むレイチェルが立っていた。
「どうしたの?!」
アンジェリカは驚いて、思わず語気を強くした。アカデミーの正門からレイチェルが出てくるなど、思いもしなかった。
「今日はこちらに来る用事があったのよ」
レイチェルはにっこり笑った。
「一緒に帰りましょう」
アンジェリカはこくんと頷いた。レイチェルはジークとリックに一礼し、「それでは」と屈託のない笑顔で言った。そして、アンジェリカの背中に手をまわすと、歩みを促した。
そのとき、アンジェリカは向かいの包帯少女がじっとこちらを見ていることに気がついた。いや、そんな気がしただけかもしれない。少女は無表情で、目の焦点もはっきりとは合っていない様子だった。
アンジェリカは落ち着かない気持ちになった。言いしれぬ不安、恐怖にも似た感情が湧き上がる。なぜだか、ふいに母親の表情をうかがった。
レイチェルは穏やかに笑みを浮かべていた。
アンジェリカはようやく安堵して表情を緩めた。
そのとき、少女の口元が微かに笑ったことには、誰も気がつかなかった。
「僕たちも帰ろうか」
ふたりの背中を見送ったあと、リックはジークに振り向いて言った。ジークは無言でズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「呼ばれてんだ」
ポケットからくしゃくしゃに丸まったままの紙を取り出し、リックに手渡した。彼は丁寧にそれを広げ、そこに書かれている文字を目で追った。そして顔を上げると、ジークと視線を合わせた。
「ユールベル……のことかな」
「さあな。とりあえず行ってみるか」
ジークは狭い路地に足を向けた。
次第に寂しくなる道を、ふたりは黙って進んでいった。しばらく歩き続け、看板も出ていない古びた建物に辿り着いた。外からはわかりづらいが、その地階が『例の酒場』である。
以前、サイファに連れられてここに来た。王宮で働く者たちの隠れ家的な場所であることはそのときに知った。
ジークは少しこわばった面持ちで、扉を押し開けた。
「いらっしゃい」
長い黒髪の女主人フェイが、カウンターから気だるく声を掛けた。ふたりは店に入ると軽く会釈をした。そして狭い店内をぐるりと見渡した。
「サイファなら個室で待ってるよ」
ニッと悪戯っぽく、そしてどこか艶っぽく笑うと、フェイはカウンターの奥を親指で指した。
「ほら、ぼーっとしてないで。おいで」
まるで母親が子供をたしなめるような口調で言うと、笑ってふたりを手招きした。
カウンターの奥に『個室』はある。
しかし本来そこは店ではなく、フェイの応接間兼リビングルームなのだ。サイファが重要な話をするとき、無理をいって使わせてもらっているらしい。
そして、今回も個室である??。
「少年ふたりのお届けー」
抑揚のない声でそう言うと、フェイはジークとリックの背中を軽く押した。サイファはソファに座っていたが、ふたりの姿を見ると立ち上がり、にっこり微笑みかけた。
「ごゆっくり」
フェイは目を細めてサイファを一瞥すると、カウンターへと消えていった。
「突然、呼び出してしまってすまない」
サイファはにっこり笑って、手を向かいのソファに差し出し、ふたりに座るよう促した。
「いえ……」
リックが重い声で答え、ふたりはソファに腰を降ろした。続いてサイファも静かに座った。
「察しはついていると思うが……」
ふたつのグラスに氷を入れ、ウィスキーを注ぐと、ふたりに差し出した。
「アンジェリカのことだ」
サイファをじっと見つめたまま、ジークはわずかに頷いた。
「単刀直入に言おう」
サイファはいったん目を閉じ、深く息を吐くと、まっすぐにジークとリックを見つめた。
「アカデミーをやめさせようと思っている」
予想を超えたその言葉に、ふたりは凍りついた。逆に、心臓は口から飛び出さんばかりに激しく打っていた。
「アカデミーをやめたからといって、君たちとの縁が切れるわけではないよ」
ふたりの様子を察して、サイファは優しくつけ加えた。
「でも、アンジェリカの……」
リックが身を乗り出して何かを言いかけたが、ジークの手がそれを制した。
「わけを、聞かせてもらえますか?」
ジークは努めて冷静に言った。だが、その声は少しうわずっていた。
サイファは前を向いたまま、視線だけを落とした。
「申しわけないが、それはできない」
そのにべもない答えにも、ジークは怯まなかった。
「きのうラウルが言ってました。ユールベルには気をつけろと。それと関係があるんじゃないですか?」
「ラウル……。そんなことを言ったのか」
サイファは前のめりにうつむくと、目を閉じ、深くため息をついた。
「しかし、これ以上は教えるわけにはいかない。なにがなんでもアンジェリカに悟られるわけにはいかないのだ。君たちを信用していないわけではないが、アンジェリカがしつこく食い下がってきたら、つい言ってしまうことも考えられるだろう」
ジークは今日の昼のことを思い出していた。サイファから聞き出してほしいと頼んだアンジェリカの必死の表情が頭をよぎった。確かに、それに関してはサイファの言うとおりかもしれない。しかし……。
「アンジェリカにはどう説明するんですか? 何の説明もないのでは、納得しないと思いますけど」
ジークが言おうとしていたことを、先にリックが口にした。
「納得か……。納得しないのなら、それはそれで仕方がない」
サイファは自らに言い聞かせるように、そう言った。リックは膝の上にのせた両こぶしを強く握りしめた。
「サイファさんはさっき言いましたよね。アンジェリカがアカデミーをやめても、僕たちとの縁が切れるわけではないと。それはユールベルという子にも当てはまるのではないですか? アカデミーをやめたからといって、逃げられるものなんですか? それともずっとアンジェリカを家に閉じ込めておくつもりですか?」
リックは一気にまくしたてた。彼にしてはめずらしく語気が荒く、少し怒っているようにも聞こえた。ジークでさえ、こんなリックを見ることはほとんどなかった。
サイファは目を細めて、それをじっと聞いていた。リックの言葉が途切れると、彼はゆっくり口を開いた。
「もしそれしか手立てがないのなら、私はそうするだろう」
「俺が守ります」
ジークがサイファの言葉をさえぎるように、きっぱりと言った。口を堅く結んで、まっすぐにサイファの瞳に視線を送った。
リックは目を見開いて、隣のジークに振り向いた。
「アカデミーにいる間は、俺が守ります」
ジークはもう一度、噛みしめるように繰り返した。
サイファはふっと表情を緩めた。
「ありがとう。気持ちはとても嬉しいよ」
そう言ってうつむき、少し寂しそうに笑った。
「しかし、アンジェリカの記憶までは、守ることはできないだろう」
「記憶?」
ジークは怪訝に尋ね返した。サイファは顔を上げ、鋭い目つきで、まっすぐにふたりに向き直った。
「私たちは、アンジェリカの記憶の一部を消した」
「……え?」
ジークとリックは、彼の言ったことが、とっさに理解できなかった。
「正確にいえば、記憶そのものを消したわけではない。思い出すためのルートを断ったというところだな」
サイファは淡々と説明を続けた。ふたりは口を半開きにしたまま、呆然として彼を見つめた。
「だから、記憶がよみがえる可能性は十分にある。ユールベルに関われば関わるほど、その危険性は大きくなるだろう」
「そこまでして隠しておきたい事実って……」
リックはそこで言葉を詰まらせた。そして、尋ねかけるような目をサイファに向ける。
「少ししゃべりすぎたようだ」
サイファはグラスを取り、半分ほど残っていたウィスキーを一気に飲み干した。グラスの中の氷がカランと音を立てて回った。ジークもその音に誘われ、グラスを手にとった。冷たい感触。今が現実であることを、あらためて思い知らされた気がした。
「君たちの話は意見としてもらっておく。もう一度、レイチェルともよく相談してみるよ」
サイファはにっこりと笑ってみせた。今までの話がすべて嘘ではないかと思えるほど、暗い陰などみじんも感じさせなかった。しかし、次の瞬間、彼は遠くを見やり、どことなく寂しげな表情を見せた。
「今度は楽しい話をしながら飲みたいものだな」
リックはわずかに笑顔を作って頷いた。しかし、ジークは手にしたグラスに目を落とし、思いつめた顔で考え込んだ。琥珀色の表面には、彼の不安げな瞳が映し出されていた。
33. 説得
「おはよう、アンジェリカ……ってその荷物どうしたの?」
非常識に大きなリュックサックを背負ったアンジェリカを見て、リックは目をぱちくりさせて尋ねた。まるで山登りにでも行くかのような格好である。
「家出、するの」
彼女はうつむいたまま、不機嫌に低い声で言った。そして、ずり落ちそうになったストラップをつかみ、肩を揺らして背負い直した。
「家出?」
ジークはきょとんとして聞き返した。アンジェリカは顔を少しだけ上げると、上目づかいでじっと彼を見つめた。
「アカデミーをやめろって言うのよ」
「あ……」
ジークは小さく声をもらすと、隣のリックと顔を見合わせた。
サイファからその話を聞かされたのが数日前。ふたりの説得により、もう一度考えると言っていたが、やはり結論は変わらなかったらしい。
「驚かないのね。もしかして、知ってたの?」
アンジェリカは訝しげに眉をひそめた。下から覗き込むようにして、ふたりを睨み上げる。リックはたじろぎ、半歩下がった。
「驚きすぎて声が出なかっただけだよ」
額に冷や汗をにじませながらも、なんとか取り繕った。ジークも調子を合わせて頷いた。
しかし、アンジェリカは疑いのまなざしをやめなかった。腰に手を当て、下から顔をつきつけた。それでも、ふたりは何も答えようとしなかった。リックは微笑み、ジークは仏頂面を見せている。
やがて彼女は「まあいいわ」とつぶやき、アカデミーへと歩き始めた。ジークとリックも、ほっとしながら、彼女の両側に並んだ。
「そうだわ。どちらかの家に泊めてほしいんだけど」
彼女は両脇のふたりを交互に見た。
「あー、僕のところはダメかな。親がうるさいし」
リックは焦りを笑顔で隠し、すばやく言い逃れた。
「それじゃ、ジークの家にするわ」
アンジェリカは、さも当然のことのように言った。ジークは疲れたようにため息をついた。
「『するわ』って言われても困るんだよ。俺んち狭いの知ってるだろ? 布団だってねぇよ」
「気にしないで。ソファで寝るから」
ジークの迷惑顔を無視して、アンジェリカは話を進めた。ジークは再び大きくため息をついた。
「あのなぁ、ソファなんて贅沢品、ウチにはねぇよ」
アンジェリカはそれでも引かなかった。
「じゃ、ジークの隣で寝かせてもらうわ」
「ばっ、バカか!!」
ジークは顔を一気に上気させた。その隣でリックは声を殺して笑っていた。
「なによ、意地悪!」
アンジェリカは思いきり頬をふくらませた。そして、まっすぐ前を見ながら腕を組むと、再び口を開いた。
「いいわ。ラウルのところに泊めてもらうことにする」
ジークは一気に熱が引いていくのを感じた。
「ていうか、そういう問題じゃねぇ。家出なんてダメだ」
急に真剣な表情になると、アンジェリカに人さし指を向け、彼女をたしなめた。しかし、それはかえって火に油を注ぐ形になってしまった。
「私がアカデミーをやめさせられてもいいっていうの?!」
アンジェリカは感情を高ぶらせ、ジークに噛みついた。
「そうよね、ジークにとってはしょせん他人事ですものね!」
??バン!!
突き放したようにアンジェリカがそう言い終わると同時に、ジークは持っていた自分の鞄を地面に叩きつけていた。
アンジェリカは驚いて彼を見上げた。
「なんにも知らねぇで、勝手なことを言ってんじゃねぇ。俺は……」
ジークはうつむいたまま、かすれがすれに言葉を吐いた。叫びたい衝動を、喉の奥で必死に押さえつけていた。
アンジェリカは動揺しながらも、反論をやめなかった。
「私の知らないことって何よ。この間からみんな、誰も、私になんにも教えてくれなくて……。それで何をわかれっていうのよ!! 勝手なのはどっちよ!!」
今度はジークが驚き、アンジェリカを見た。彼女の、何かに耐えているような悲痛な表情。それは触れるだけで崩れ落ちそうな、そんな脆さを感じさせた。ジークの胸は激しく締めつけられた。
「悪かった」
静かにそう言うと、彼は叩きつけた鞄を拾い上げた。そしてアンジェリカの背負っているリュックサックを後ろから持ち上げた。
「え?」
「重いだろ。持つよ」
少しとまどいながらも、彼女は素直にリュックサックから腕を抜いた。
「でも、家出はダメだ。逃げたって何の解決にもならねぇだろ」
ジークはリュックサックを左肩に掛けながら言った。アンジェリカは無言でうつむき、暗い顔で考え込んだ。
「もう一度よく話し合ってみようぜ。俺たちも一緒に行くから、な」
めずらしく優しい口調でそう言うと、ジークはアンジェリカの肩に手をのせた。リックもうなずいて、反対側から彼女の肩に手を置いた。アンジェリカは硬い表情で小さくうなずいた。
「しかしこれ、本気で重いな。よくこんなものを背負ってここまで……」
驚き半分、呆れ半分でジークはつぶやいた。
終業を告げるベルが鳴った。
「今日はここまでだ」
教壇のラウルは手に持っていた教本を閉じ、バンと机の上に叩きつけるように置いた。それを合図に、生徒たちは帰り支度やおしゃべりを始める。教室はざわめきで満たされていった。
「さあ、気合い入れるか」
小さく独り言をつぶやいて、ジークは自らを奮い立たせた。その勢いで、教本を鞄の中へ乱暴に放り込むと、急いで席を立った。
「アンジェリカ」
ジークは彼女に駆け寄った。だが、彼女は椅子から立ち上がり、教壇をじっと見つめていた。そこにいるのは、もちろんラウルである。
「俺たちじゃ頼りにならねぇか?」
ジークは少しムッとしながら尋ねた。アンジェリカはそれでもラウルから目を離さなかった。
「簡単なことじゃないのよ」
前を向いたまま、彼女は小さな声で言った。
ラウルは視線を感じたのか、彼女の方へ歩き出した。ジークは向かってくるラウルを睨みつけた。しかし、彼は全く意に介していないようだった。
「私に何か用か」
ラウルはアンジェリカの前にひざまづき、彼女と目線を合わせた。アンジェリカは無表情で小さく首を横に振った。
「また、今度ね」
「……そうか」
ラウルは何か言いたげなアンジェリカの表情を察していたが、それ以上の追求はしなかった。彼は静かに立ち上がると、教室をあとにした。
「もし今日の説得が失敗したら、そのときはラウルに頼むけど……怒らないでね」
ラウルがいた辺りに視線を残したまま、アンジェリカは抑揚のない声で言った。ジークは何も言葉を返すことが出来なかった。
「さーて、乗り込むか」
アカデミーの門から出たところで、ジークは右のこぶしを左の手のひらにパチンと打ちつけて気合いを入れた。アンジェリカの大きなリュックサックをジークが背負い、そのかわりにジークの鞄をアンジェリカが持っていた。
ジークはストラップをぐいと引っ張り、背中を揺らして背負い直すと、口を真一文字に結び、アンジェリカの家の方角をきつく睨みつけた。ジークの迫力に圧倒され、リックは少し引きぎみに苦笑いした。
「今からそんなに張り切ってると、着く頃には疲れちゃうんじゃない?」
「なに言ってんだ。おまえも気合い入れろよ。そんなことじゃ勝てねぇぞ!」
ジークは眉間にしわを寄せ、弱気なリックの鼻先に人さし指を突きつけた。リックは笑顔を張りつかせたまま一歩下がった。勝ち負けの問題じゃないのにと思いながらも、あえて口には出さなかった。
「おまえもだぞ」
今度は少し穏やかな声で、後ろのアンジェリカに振り向いた。
「わかってるわ」
ジークと目を合わせることなく、アンジェリカは硬い表情で静かに言った。
「こんにちは」
明るい声が3人を不意打ちした。振り返ると、そこにはレイチェルが笑顔で立っていた。右手を顔の横で広げ、小さく左右に振っている。
彼女は合格発表の翌日から、毎日のように現われていた。初めは「用があった」という彼女の言葉を信じていたが、こんなにも続くのは不自然である。アンジェリカを迎えに来ているのだということは、もはや明らかだった。
しかし、ジークもリックも、そしてアンジェリカも、それについて尋ねることは出来ないでいた。
「一緒に帰りましょう」
レイチェルはにっこり笑いかけた。しかし、アンジェリカは目を伏せて、頬をふくらせた。
「家出するって言ったのに……」
「あら、本気だったの?」
レイチェルは笑顔で受け流した。
「あの」
ジークはとまどいながらも声を掛け、ふたりに割って入った。レイチェルは大きくまばたきをすると、にっこりとしてジークに顔を向けた。そして首を少し傾げ、話の続きを促した。ジークは頭に血がのぼっていくのを感じた。
「あ、え……と。今日は俺たちも一緒に行きます。サイファさんを説得、じゃなくて……えーと、話したいことがあるんです」
「とても大事なことなんです」
隣からリックがつけ加えた。
「サイファは今日は遅くなるかもしれないけど、それでも良いかしら」
「待ちます」
ジークは間髪入れずに答えた。
ジークとリックは、アンジェリカ、レイチェルとともに、彼女たちの家へ行った。サイファの帰りが遅いということで、レイチェルに勧められ、ふたりは夜ごはんをご馳走になった。
そのあと、サイファを待ちつつ、アンジェリカの部屋で勉強を始めた。丸いローテーブルに三人が等間隔に座り、それぞれ本やノートを広げ、無言で読み進めていた。ときおりページをめくる音だけが部屋に響く。ジークは落ち着かない気持ちになりながらも、ふたりの邪魔をしないように、なるべく本に集中しようとしていた。
しばらくそうやって勉強していたが、やがてリックがそわそわし始めた。こっそりと、だが何度も腕時計を目にしていた。
彼のそんな様子にジークが気づいた。
「帰ってもいいぜ」
リックは迷いながら目を伏せたが、少し考えて「うん」とうなずいた。そしてアンジェリカに目を向けると、申しわけなさそうに眉をひそめ「ごめんね」と謝り、慌てて机の上のものを鞄にしまい始めた。
ふたりはリックを見送ったあと、再び座って本を広げた。
「リック、どうしたの?」
アンジェリカが尋ねた。ジークは一瞬ためらったが、やがて口を開いた。
「……こないだ母親が倒れたらしいんだ。あいつはあいつでいろいろ大変みたいだぜ」
思いもしなかった言葉に驚き、アンジェリカは目を大きく見開いてジークを見た。しかしすぐに目を細めて気弱にうつむいた。
「おまえが気にすることはねぇよ。無理に連れてきたわけじゃないんだし」
「うん……でも、大丈夫なの? お母さんは」
彼女は不安そうに尋ねた。ジークは机にほおづえをつき、顎を上げると、どこか上の方を見やった。
「どうなんだろうな。俺、向こうの親とはあんまり親しくしてねぇんだ。俺のことあんまり良く思ってねぇみたいだし」
「どうして?」
アンジェリカはそう尋ねながら、気がついた。リックの両親のことが話題にのぼったことは、今までほとんどなかったということに??。
「俺、ガラが悪いし、不良だと思われてんだ」
ジークはほおづえをついたままアンジェリカを見ると、笑いながらそう言った。彼女にはその笑顔がどこか寂しげに見えた。
「ま、思い当たる節もいろいろあるんだけどな。あいつんちの窓ガラス三枚くらい割ったし、壁に穴も開けたな。あ、わざとじゃねぇぞ」
「……ウチは壊さないでよ」
アンジェリカは呆れ顔で言った。
そのとき、外でガタンと音が鳴った。続いて、話し声がかすかに耳に届いた。アンジェリカとジークは顔を見合わせた。
「行くか」
「策はあるわけ?」
「気合いだ」
アンジェリカは不安を感じながらも、ジークとともに部屋をあとにした。
サイファは驚きもせず、ジークを暖かく迎えてくれた。
「来ると思っていたよ」
疲れも見せずにっこり笑って、ジークにソファを勧めた。その後ろでレイチェルも穏やかな微笑みを浮かべていた。ふたりの雰囲気に飲み込まれないよう、ジークは精一杯気持ちをとがらせた。
ジークとサイファはほぼ同時に腰を落とした。ふたりはテーブルを挟んで向かい合せになっている。アンジェリカはジークの隣にちょこんと座った。そして、空いていたサイファの隣に、レイチェルがゆっくりと腰を下ろした。
「さて、ジーク。察しはついているが、君の話を聞こうか」
一見、穏やかな表情に見えたが、その瞳は鋭く、真剣さをうかがわせた。ジークはまっすぐに見つめ返した。
「アンジェリカはアカデミーをやめたくないと言っています。家出までしようとしていました。それなのに、何の説明もなくやめさせるのはあんまりではないですか?」
これではこの前と同じことを繰り返しているだけだ……。ジークは歯がゆかった。しかし、口下手なジークに上手い説得の言葉など、そう簡単に出てくるわけもない。
「子供の危険をあらかじめ回避するのが親の役割なんだよ」
サイファは優しく、だがきっぱりと言った。
「それは……だから……俺がなんとか守ります」
ジークは隣を気にしながらも、サイファから目をそらさずに、まっすぐ言葉をぶつけた。
アンジェリカは驚いて隣のジークを見上げた。目をぱちくりさせながら、彼の真剣な横顔を見つめた。
「だが、君には君の本分がある」
サイファは静かに反論した。
「アンジェリカのボディガードではない。常にアンジェリカのまわりに気を配るというわけにもいかないだろう。例えば、女子トイレにまでついていくことは出来ない??」
「お父さん!!」
アンジェリカは叫んだ。サイファはセリカの事件を指して言っているのだ??そこにいる全員がすぐにわかった。ジークは何も返すことが出来ず、うつむいて押し黙った。
「すまない。君を責めているわけではないんだ。だが、事実だ」
サイファは短くとどめを刺した。ジークはまるで冷たい手で心臓を掴まれたかのように感じた。声などとても出なかった。
「私が自分で気をつけるわ。隙なんて見せない」
横からアンジェリカが強気に言い放った。強い光を込めた目で、サイファを挑むように見つめている。
「いいことを思いついたわ!」
突然、レイチェルが緊張感を融かすようなはしゃいだ声をあげた。
「ボディガードをつけるというのはどうかしら?」
「嫌よ! 私は普通に学園生活がおくりたいの!」
アンジェリカは即座に言い返した。レイチェルは娘の反撃にしゅんとしておとなしくなった。
「……ねぇ」
アンジェリカは一息つくと、再びサイファに顔を向けた。サイファはゆったり構え、彼女の次の言葉を待っていた。
「生きていくって、誰でも多少の危険は伴うものなんじゃないの? ふたりとも過保護だと思うわ」
「アンジェリカ、多少ではないよ。おまえの場合」
サイファは優しく諭すように言った。しかし、アンジェリカは納得しなかった。
「だから! それがなんなのかわからないのよ!!」
いらついて叫ぶアンジェリカを見て、サイファの表情は、一瞬、曇った。しかしすぐにポーカーフェイスを装うと、話を続けた。
「おまえは分家の連中に良く思われてはいない。わかるだろう?」
「……ユールベルって子なんでしょう?」
アンジェリカは静かにそう言うと、周りの反応をうかがった。しかし、誰も口を開かない。レイチェルはうつむき、ジークはサイファの様子をうかがっていた。そして、そのサイファはアンジェリカをまっすぐ見つめていた。
アンジェリカはごくりと唾を飲み込んだ。
「何を隠しているの……? 本当に、本当に、どうして……。もう、いいかげんにしてよ!!」
初めは静かに切り出したが、次第に感極まっていった。言葉もまともに出てこない。最後にはただわけもわからず叫ぶだけだった。
それでも他の三人には動きはなかった。
アンジェリカはふいに自分以外の世界が止まってしまったかのような感覚にとらわれた。
「アカデミーに入る前までは、私はほとんど部屋の中でひとりで過ごしていた」
彼女は独り言のようにつぶやいた。そして、虚ろにソファから立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
「それが私にとっては当たり前だったし、別に寂しいとは思っていなかった。……でも」
足を止め振り返り、大きな瞳でジークを見つめた。ジークの鼓動はドクンと強く打った。
「外の世界を知ってしまったから、もう今さらあんな孤独な生活に戻れない。お父さんとお母さんは優しいけれど、それだけじゃ駄目なの!」
アンジェリカは視線をレイチェルへ、それからサイファへと流した。
「どうしてもアカデミーをやめさせるっていうのなら……」
彼女はゆっくりと大きく呼吸をした。
「私、死ぬわ」
落ち着いた声。だが、決意を秘めた激しい瞳。それは、彼女が軽い気持ちで言っているのではないということを表していた。
「アンジェリカ! 落ち着いて! 別にアカデミーをやめたからって、ジークさんたちと会えなくなるわけでもないのよ。ジークさん、会いに来てくださいますよねっ?」
レイチェルは慌ててジークに同意を求めた。
「そ、そうだぞ! 早まるな! な?!」
「ちょっとジーク! 両親を説得しに来たんじゃなかったの?!」
アンジェリカは驚いた声をあげながら、半分呆れていた。
「あ、いや……その……。とにかく死ぬなんてダメだ。な?」
ジークはしどろもどろになりながら、それでもなんとか思いとどまらせようと必死に訴えかけた。
「わかった。私たちの負けだ」
冷静にことの成り行きを見守っていたサイファが、突然「負け」を宣言した。
「ここで頑固に突っぱねて、肝心のアンジェリカを不幸にしてしまっては、本末転倒だからね」
サイファはそう言うと、アンジェリカににっこり笑いかけた。
「サイファ……」
彼の唐突な方向転換に、レイチェルはとまどいを隠せなかった。
「もうこうする以外に術はないよ。誰に似たのか頑固だからね、あの子は」
サイファは笑って肩をすくめた。しかし、レイチェルはまだ不安そうに顔を曇らせている。
「それに、私たちの不安は単なる邪推かもしれない、だろう?」
サイファは彼女を安心させるように、優しく耳打ちをした。それから真剣な目になると、ジークに向き直った。
「頼んだよ」
ジークはずっしりとのしかかるものを感じながらも、それに負けないよう背筋を伸ばした。
アンジェリカはジークを玄関先まで見送るために、彼とともに外へ出た。外はすっかり暗くなっている。冷たい風がふたりの髪を揺らした。
「死ぬ気なんて、なかったんだろ」
「本気だったわよ」
お互い前を向き、視線を合わせないまま、淡々とした口調で言った。
「二度と言うなよ、あんなこと。……卑怯だぞ」
「卑怯?」
アンジェリカはジークの横顔を見上げた。しかし、ジークは無言で門に向かって足を進めた。アンジェリカもその横について歩いた。
「人質とって脅すヤツらと変わんねぇだろ」
ジークは歩きながらぼそりと言った。
アンジェリカはうつむいた。ジークの言うことはもっともだった。でも……じゃあ、どうすれば良かったの? やりきれない思いを抱え、沈んだ表情を見せた。
カラン??。
ジークは門の留め具を外すと、すぐに外へと出た。アンジェリカは内側から留め具を元に戻した。
「何の役にも立てなくて……悪かった」
ジークは彼女に背を向けたまま言った。
アンジェリカの胸に熱いものがよぎった。門の格子を両手で掴み、顔を近づけると、歩き去るジークに向かって叫んだ。
「私、嬉しかった! 私のことを守るって言ってくれて!!」
ジークは振り返ることなく、遠くで右手を上げた。次第に小さくなる彼の姿は、やがて闇に掻き消されていった。
アンジェリカは門に張りついたまま、ずっと彼の背中を見送っていた。
34. 友達だった
ガチャッ。
ラウルはノックもせずに扉を開け、蛍光灯の光が満ちた部屋へ足を踏み入れた。
魔導省の塔、その最上階の一室。サイファは中央の机につき、書類に目を通していたが、その音につられ、わずかに顔を上げた。しかし、ラウルの姿を確認すると、何もなかったかのように再び手元に視線を戻した。そして、羽ペンを手に取り、書類の上に走らせ始めた。
ラウルは後ろ手で扉の鍵を閉めた。
「おまえの欲しがっていたものだ」
サイファの方へ歩を進めながら、四つ折にされた紙をかざした。それを見て、サイファはようやくニッコリ笑った。
「恩に着るよ」
ラウルがそれを机に置くと、サイファは間髪入れず手に取って広げた。数枚にわたるその紙には、細かい文字や数字がびっしり書き込まれていた。左上には「極秘」と判が捺してある。本来、朱色で捺されているはずだが、その紙には黒く写っていた。どうやら原本ではなくコピーのようだ。
「ばれたら私はクビだ」
ラウルは腕を組み、食い入るように文字を追っているサイファを冷ややかに見下ろした。
「私もクビどころでは済まないだろうな」
サイファはさらりとそう言うと、顔を上げた。そして、ラウルに挑戦的な視線を投げかけ、小さくニッと笑った。
「でも、おまえなら上手くやってくれると思った」
「勝手なことばかり言うな。おまえはそういってすぐに私を利用する」
ラウルはむっとして言い返した。
「そうだな。なら今度はコーヒーでも入れてもらおうか」
サイファは冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、再び極秘文書に目を通し始めた。
「……用がないのなら帰るぞ」
「急ぐ必要はないのだろう? 久しぶりにここから朝焼けを見ていったらどうだ。椅子はそこだ」
サイファは紙から目を離さずに、部屋の隅に立て掛けられたパイプ椅子を指さした。
「それからコーヒーはその戸棚の中」
今度は返す手で反対側を指さした。
ラウルがコーヒーを淹れ終わる頃、サイファも最後の一枚を読み終えた。
「何かわかったか」
「いいや。だが、真実に近づくヒントにはなった」
そう言うと、サイファはくしゃっと紙を握って丸め、短く呪文を唱えた。手の中央から白い閃光が走り、その紙は一瞬にして細かな灰となり飛び散った。
「一度見ただけ、か。相変わらず覚えが早いな」
ラウルは淹れたてのコーヒーをふたつ持って歩いてきた。そのひとつをサイファへ差し出す。彼はにっこり笑ってそれを受け取った。
ラウルは蛍光灯を消し、カーテンを開けた。
大きな窓に映し出された空は、まだ深い紺色だった。しかし、地平に近い部分はだいぶ薄くなり始めていた。まもなく夜が明ける??。
サイファは薄暗がりの中でコーヒーを一口飲むと、ほっとして大きく息を吐いた。
「おまえの淹れるコーヒーは最高だ」
「話せ。気がついたことがあるのだろう」
ラウルは彼に振り向いた。暗がりの中にほんのりと浮かび上がったサイファの端整な横顔から、笑みはもう消えていた。
「いくつかある。最も気になったのは、おまえも気がついただろうが、魔導耐性値だ。この価のみが突出している。他の数値との差を考えたら異常だ。よほど片寄った訓練を行ったか、あるいは長年にわたって異常な状況下に置かれたか、だな」
サイファはひとことひとこと丁寧に述べていった。そして一区切りつくと、コーヒーを口に運んで、小さく息を吐いた。
「思い当たることがあるのか」
ラウルが尋ねると、一瞬、サイファの瞳に陰がさした。
「彼女の家の二階には、常に結界が張られていた。おまけに偽装されていたんだ。おかげで最近まで気がつかなかったよ」
冷静に答えたが、その中に若干の自責がにじんでいた。ラウルは無表情で彼を見つめ、パイプ椅子に腰を下ろした。ギシ、と安っぽい音が響いた。
「彼女はずっとその結界の中にいたということか」
「ああ、おそらく」
サイファは息を吐きながら、背もたれに身を預けた。目を細め、天井を見つめる。
「二階すべてに結界、しかも常時、そのうえ偽装となるとかなり厄介だろう」
「バルタスなら出来るよ。そこまでの労力を払って結界を張る理由、そして結界を悟られたくない理由として、考えられるのはふたつ」
サイファは淡々と言い、指を二本立てた。
「ひとつは家族ぐるみで秘密裏に特訓をしていた。もうひとつは、何らかの理由で彼女をそこに閉じ込めていた」
指折りながら可能性を上げる。ラウルは腕を組み、口を開いた。
「魔導耐性値のみが高いことを考慮すると、後者だろうな」
「私もそう思う。あれ以来、ずっと彼女を見かけなかったからね」
サイファは同意した。ラウルは彼にちらりと視線を走らせた。
「彼女の目的はおまえたちへの復讐か」
「私たちだけではないかもしれない」
サイファは眉根を寄せ、重々しい表情を見せた。
ラウルは立ち上がり、窓枠に手をついた。外はもうだいぶ明るくなっていた。東の空は赤く染まり、濃青色へとグラデーションが広がる。そして灰色の雲が相反する色を繋ぐ。夜明けのごく短い時間にだけ見せる、色鮮やかな光景だ。
サイファも椅子をまわし、ラウルの隣でその光景を眺めた。朝の光を浴び、柔らかく表情を緩める。
「これが夜勤の唯一の楽しみなんだ」
「所詮は作り物だ」
ラウルは目を細めて、遠く、空の果てのその向こうを見つめていた。
「故郷が恋しくなったか?」
サイファは挑発するように声を掛けた。ラウルはムッとして背を向け、大股で戸口に向かって歩き始めた。
「いつか見せてくれないか。作り物ではない、果てない空というやつを」
サイファは去りゆくラウルの背中に声を投げかけた。ラウルは扉に手を掛け、顔だけわずかに振り返った。眉をひそめサイファを睨みつける。
「あまり私をからかうな」
サイファは返事をする代わりに、にっこりと満面の笑顔を返した。
「……ジーク。気持ちは嬉しいけど、そんなのじゃ今日一日だってもたないわよ」
アンジェリカは、一歩前を歩くジークの背中に、少し困ったように声を掛けた。ジークはずっと左右をきょろきょろ見渡し、すぐにでも応戦できるよう少しも気を抜かないで構えている。
「いつ何があるかわからねぇだろ」
「それはそうだけど……」
アンジェリカはリックと顔を見合わせ肩をすくめた。リックも苦笑いしながら、同じポーズを返した。
今日がアカデミーの入学式である。すなわち、今日からユールベルやレオナルドが、このアカデミーに通ってくるということだ。ジークの過度の警戒はそのためだった。
「リック、後ろ見てるか?」
ジークは前を向いたまま、張りつめた声でリックに問いかけた。
「ちゃんと見てるから心配しないで」
リックはアンジェリカと並んで歩きながら、軽く答えた。ふたりは再び顔を見合わせて、声を立てずに笑いあった。
「お嬢さま」
背後からの声に、アンジェリカの笑顔が凍りついた。
「いいかげん、私につきまとうのはやめたら?」
思いきり顔をしかめて振り返ると、その声の主、レオナルドを睨みつけた。レオナルドは硬い表情で棒立ちになっていた。柔らかいブロンドだけが、風になびき揺れている。
前を歩いていたジークは、慌ててふたりの間に割って入った。右手でアンジェリカを庇い、レオナルドをキッと睨みつけた。
「リック! 見てたんじゃなかったのかよ!」
「平気よ」
リックが口を開くより先に、アンジェリカが冷たく言った。
「こいつはラグランジェ家の敷地内でしか強気に出られないんだから」
行く手を阻むジークの腕を静かに下ろし、彼女は一歩前に出た。顔を上げ、強い意志を秘めた瞳をレオナルドに向けた。
「もう、おまえをどうこうするつもりはない。この前おまえに謝ったのは本心だ」
レオナルドは静かに言った。
「どういう心境の変化?」
アンジェリカは腕を組み、疑わしげに眉をひそめた。
「子供じみたことは、もう卒業するってことさ」
「…………」
「同じラグランジェ家の者どうし、仲良くしよう」
あまりにも意外なレオナルドの言葉に、アンジェリカは動揺を隠せなかった。
「関係ないわ」
乾いた声でそれだけ言うと、踵を返そうとした。だが、ふとあることが頭をよぎり、再びレオナルドに顔を向けた。
「あなた、ユールベルって知ってる?」
隣のジークは驚いてアンジェリカに振り向いた。アンジェリカはまっすぐレオナルドを見上げ、彼の答えをじっと待っていた。レオナルドは怪訝な顔をしながらも、アンジェリカから目をそらさずに口を開いた。
「今年アカデミーに入る子だろう? でも、もう何年も見てないし、よく知らないな」
「そう」
アンジェリカは、これ以上何も聞きだせそうもないと判断し、レオナルドに背を向けようとした。そのとき??。
「でも、おまえたちは友達なんだろう?」
アンジェリカは唐突に脳と心臓をわしづかみにされたように感じた。額に汗がにじんで、目の前がかすみ、足がよろけた。
「アンジェリカ!」
ジークが崩れ落ちるアンジェリカを支えた。リックも反対側に回りこんで、彼女に手をまわした。
「大丈夫、軽いめまいよ」
アンジェリカはふたりを心配させまいと嘘をついた。しかし、ふたりはすぐに見破った。彼女の身に起こったことは、ただのめまいなんかではない。もしかしたら、サイファの言っていた「アンジェリカの記憶」に関係があるのかもしれない。
ジークはやりきれない思いを怒りに変え、レオナルドにぶつけた。
「テメエ、でたらめ言ってんじゃねぇ!」
胸ぐらをつかみ、額がくっつかんばかりに顔を近づけた。暴力的な行為に慣れていないレオナルドはたじろいだ。だが、すぐにジークの手を払いのけ、襟をビシッと引っ張り形を整えた。
「そう思うなら他の人に聞いてみればいいだろう」
そう言ったあと、ジークを流し見て、鼻先で小さく笑った。
「いい気なもんだ、ナイト気取りか。上手いこと取り入ったな。ラグランジェ家にひいきにされれば、なにかと都合がいいだろう?」
「な……に?」
ジークは固くこぶしを握りしめた。目の前の薄ら笑いの男に、このこぶしをめり込ませたい。その衝動を抑えるのに必死だった。
「いいかげんにして!」
アンジェリカがリックの手を振りほどき、ふたりの間に飛び出してきた。レオナルドと向かい合い、息の届く距離まで間をつめると、下から睨み上げた。
「これ以上、私たちに絡むようなら、私が平手打ちをおみまいするわ」
アンジェリカは低い声で言うと、勢いをつけて背を向けた。彼女の舞い上がった黒髪が、レオナルドの胸元をかすめた。
ジークとリックもレオナルドを一睨みした。ふたりはアンジェリカを追いかけ、三人で玄関へと歩いていった。
アンジェリカは授業もうわの空で、ずっと考え込んでいた。
ユールベルっていう子と私が友達? 本当なの? だとしたら、どうして私は何も覚えていないの? そして、あの痛みはなんだったの? あのときのレオナルドのセリフを思い出すたびに、頭に鈍痛が走る。頭の中に薄い靄がかかったように、何かが見えそうで、見えなくて、もどかしい。
ラウルはそんな彼女の様子に気がついていた。休憩時間になるとこっそりリックを呼び出した。ジークよりは素直に話してくれると踏んだのだろう。
「何かあったのか?」
人通りのなくなったところで、ラウルが切り出した。リックは話していいものか、少し迷っていた。ジークが知ったら怒りそうだ。だが、ラウルはラグランジェ家の事情にも詳しい。それに、アンジェリカの主治医でもある。彼は気持ちを決めた。今朝起きたことを、一通り要点をかいつまんでラウルに説明した。
「わかった。もう行っていい」
ラウルはそう言っただけで、リックの話について何もコメントはしなかった。
「……アンジェリカは大丈夫なんですか?」
リックはおずおずと尋ねた。それが、彼のもっとも気になることだった。
「おまえたちにできるのは、一緒にいてやることだけだ」
はぐらかされたと思ったが、それ以上の追求はしなかった。もういくら尋ねても無駄だと思ったからだ。答えなかったのが彼の意思なら、そう簡単に気持ちを変えたりはしない。
リックはラウルに一礼すると、教室へと戻っていった。
昼になり、三人は食堂へ向かった。
「もういいのか、その、体は」
ジークは言葉を選びながら尋ねた。
「ええ、ただの軽いめまいだもの」
アンジェリカは笑ってみせた。
角を曲ったところで、ジークは背の低い誰かとぶつかった。
「あっ……」
かぼそい声を出して、相手の子はよろけて横に崩れた。
「大丈夫か……あっ」
ジークは息を呑んだ。ウェーブを描いた鮮やかな金髪、右目を覆った包帯、折れそうに細い脚と腕??。これは、多分、ユールベルだ。
他のふたりもそのことに気がついたようだ。アンジェリカは息を呑み、顔をこわばらせていた。
ジークは自分の後ろにアンジェリカを隠した。
「ごめんなさい。片目がふさがっているから距離感がつかめなくて」
少女は弱々しい声でそう言うと、ほこりを払いながら立ち上がった。
「あ、アンジェリカじゃない」
彼女は、ジークの後ろのアンジェリカを目ざとく見つけた。ジークはアンジェリカを後ろにかばったまま、じりじりと後ずさった。
「私、ユールベルよ。忘れたの?」
アンジェリカを見つめ、平坦な声でそう言うと、一歩、また一歩と近づいてきた。
「どういうつもりだ」
ジークは低くうなった。
「どういうって……私はただ、久しぶりに会った友達と再会を祝いたいだけよ」
友達、という言葉に、三人は敏感に反応した。
アンジェリカは再び頭と胸に激しい痛みを感じた。そのうえ、頭の中をぐるぐる掻き回されているように気持ちが悪い。視界が狭まり、目を開いているのに真っ暗でなにも見えなくなった。ジークの背中をつかみ、寄りかかるように倒れこんだ。
「お、おい!」
ジークは後ろ手でアンジェリカを支えながら、ゆっくりと膝をつき、彼女をその場に座らせた。それから素早く振り向くと、ふらつく彼女の上半身を支えた。ジークの腕に身を預け、アンジェリカは息苦しそうに喘いだ。
「体調が芳しくないようね。積もる話はまた今度にしましょうか」
リックは呆然とユールベルを見つめた。彼女はさらに一方的に話を続けた。
「また昔みたいに楽しく笑いあえるといいわね」
ユールベルは白いワンピースのスカートを軽く持ち上げると、膝を曲げ、頭を垂れた。
「それではまた……小さな先輩」
その言葉を残し、彼女はその場を立ち去った。
ジークは遠ざかる軽い足音を後ろに聞きながら、くやしそうに歯を食いしばった。
「さっぱりわからねぇ。ユールベル……あいつは終始無表情で淡々としていた。言葉づかいは普通なのに、まったく感情がこもっていないみたいだ。なんかちぐはぐで調子を狂わされる」
「うん。本気なのか、冗談なのか、からかっているのか、全然わからないね」
リックは軽く握った手を口元にあて、深く考え込んだ。
ジークの腕の中で、アンジェリカが身をよじった。
「私は、なにか、大切なことを、忘れているのかもしれない……」
ほとんど声にならない声で、アンジェリカはつぶやいた。
「今はなにも考えるな」
ジークはアンジェリカの頭に優しく手を置いた。
アンジェリカは目を細め、まぶたを震わせ、白い天井を見つめていた。
続きは下記にて掲載しています。
よろしければご覧くださいませ。
遠くの光に踵を上げて(本編94話+番外編)
http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html
説明 | ||
アカデミーに通う18歳の少年と10歳の少女の、出会いから始まる物語。 少年は、まだ幼いその少女に出会うまで敗北を知らなかった。名門ラグランジェ家に生まれた少女は、自分の存在を認めさせるため、誰にも負けるわけにはいかなかった。 反発するふたりだが、緩やかにその関係は変化していく。 |
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