ネガティブ虫を育てた男の話
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ネガティブ虫、ネガ虫を飼育している男の名前は

吉上嬉(よしがみうれし)と言った

嬉は私の同僚で

少し陰気で少し優しいような、そんな男だった

よく酒を飲みながら、俺は迷っているから、

生まれながらに迷っているから、というようなことを言っていた

 

嬉はなぜか私にだけは心を開いていて、

誰にも内緒だぜといいながら、愚にもつかないような

浮かされたような話をした

ネガ虫を飼っている、といったのも、

酒をのみながら、夕暮れが来る。

そんな時のことだった

 

「誰もないしょだぜ」

嬉は必ず最初にこういう

「俺は今、ネガ虫を飼ってるんだ」

「ネガ虫?そりゃ違反じゃないか。よしたまえよ」

「まぁきけよ、」

ごくりと嬉は赤いルビーのような酒を飲んだ

「俺は無理矢理あいつをかっているわけじゃない、

あいつが俺を好きだと言うんだ、一緒にいたいというんだ」

「そりゃ奇妙な話だ」

ネガ虫は人になつかない

「妙だろう、でも俺もあいつが結構好きなんだ、そうきづいちまったんだ

だから飼うことにしたんだよ」

けたけたけたと、嬉は笑った

自嘲しているかのような、どこか寂びた笑いだった。

 

私は嬉がまるで童話のような

へたくそなうそを付くときも、

しらじらしい真実をつげるときも、

なにも疑わないことにしている

それは嬉に限らず、誰に対してもそうだった

疑いを知らない訳じゃないが、

疑うということをするほど、私は元気じゃなかった

 

嬉と同じ様に、私も疲れていたのだ

 

嬉の家に行くと鍵が開けっ放しだった

それでも礼儀として、きんこんと鈴を鳴らした

ちょこちょこと、奥から何かがでてくる、

それがネガ虫だった。

 

「かわいいだろう」

いつ吸うようになったのか、

嬉はたばこの煙を吐いてそういった

けほんけほんとそいつがせき込む

「ああ、悪いな」

嬉がたばこを消す

けほっけほっと小さい咳をしつつ、

そいつはちょこちょこと台所へ消えていった

「イノさん、怒ってるぜ」

「ああ」

昨日も電話が来た。

嬉はほそぼそと何かを考えるように、瞳を細めた

満足しているような、そんな表情をした

「無断欠勤、何日目だ」

「無断じゃない、毎日電話してるじゃないか」

「してるんじゃない、私からしてやっと応えるんだろう」

どっちだっていいじゃないか

嬉がひらひらと手を振った

「かまうこたぁない」

「嬉」

「俺は会社を辞めるよ」

「嬉、辞めてどうするってんだ」

私はかっと血が上るのを感じた

怒りじゃない、もっと何か、源流的な感情だ

興奮に近い?

「辞めてなにかあてがあるってのか」

「こいつを研究する」

ちょこちょことそいつが戻ってきた

薄い黄色いチェリービーンズのような、ネガ虫が。

頭の上に重いお盆を持って、ふらふらと歩いてくる

そのお盆には二つ、湯飲みがのっていた

 

嬉はそれから三日後に会社を辞めた

会社はほっとしたようだった

送別会も、見送りも、なにもなかった

 

「研究だって?」

「ネガ虫がすみついてんのは俺ンとこだけだろう、

これはちょっとしたもんだぜ

フィールブルー虫が人の友獣になったって話は聞いたことがあるが、

ネガ虫は人になつかないって言われているぜ」

私はネガ虫を見た

分かっているのかいないのか、

お盆を下に敷いて、その上にちょこんと正座しているネガ虫を

「つまり研究できるのは俺だけって事になる」

嬉はさも嬉しそうに、まゆをあげてみせた

うちわでぱたぱたと服の中をあおぐその姿は、

なんだか全てをさとりきった−あきらめきった?老人のようだった

さもなければ、何かを得ようともがいている、少年…………

 

嬉の想い人を知ったのは、

ちょっと前のことになる、

もう1年は経つのではないだろうか

その人はやっぱりこんなに暑い日に、白い帽子をかぶって、

道をゆうゆうと歩いていた

美しい、少女だった

嬉はその姿を認めて、

土の埃だつ道の片隅に、そっと自転車を止めた

後ろから必死についていこうとしていた私はあわててブレーキをかけた

「なんだよ」

「俺の、好きな人」

嬉はまっすぐ手を挙げて、その人の後ろ姿を指した

その人が気づかずに、ゆっくり去って行くまで、

私たちはそれを見ていた

嬉はなにも言わなかった

どこか憂いを含んだその横顔を、私はずっと見ていた

 

その人には想い人がいるのだ、

だから俺は戦う前から失恋ということになる

嬉がそういっていた

俺の名も、知らないだろう

 

嬉が会社に来なくなって5日たった

金曜日、

ふと気が付くと、消えてしまったように、

嬉は会社から消えた

誰も彼を覚えてないように、

話題にもでなかった

誰かが消えても、残酷なほど、世の中はまわっていく

そういうもんだと、嬉も私も知っていた

金曜日

嬉には会ってなかった

仕事が忙しかったのもあるし―嬉の仕事は全部私のものになってしまった

なんとなく、会いたくなかった

 

帰りがけのことを思いだした

嬉の家から出るとき、玄関をふと振り返ると、

嬉がそっとネガ虫を手に持って、接吻をしていた

どこか奇妙な、それでいて安堵できるような、

不思議な光景だった

ネガ虫はいやがることもなく、細い手で、嬉の頬を支えていた

 

夜の11時を少しすぎたあたりで、

ああ、嬉に会いに行かねば、とふと気が付いた

会いに行かねば

もうそれは義務のように私の胸に巣を食った

嬉は私にだけは心を開いていた

私も、

嬉にだけしか、

心を開いてなかった

それに気づいた

嬉以外に、話す人などいなかったのだ

 

嬉の部屋はやっぱり鍵が開いていた

ちがっていたのは、きんこんとならしても、

誰もでてこなかったところだ

私は10分待っていい加減あきあききて、

玄関に足を踏み入れた

「嬉、いるんだろう」

いなかった

どこにも

トイレにも

台所にも

風呂場にも、

部屋の中にもいなかった

私は不意にまざまざと恐怖がわき上がってくるのを感じた

嬉がいない?こんな夜中に

嬉がいない?

なぜ、どうしたのだろう、なにかあったんだろうか

 

それは不安となって心に居座った

何かが変だった

とてもなにか、どこかが食い違っている

なにはともあれ、嬉がいない

 

「嬉」

私はふるふると声を震わせて、

あたりを探した

「嬉」

不安から泣きそうだった

その時、小さな声で、誰かが口笛を吹いた

もの悲しい音だった

はっとなって振り返ると、いっぴきのネガ虫が机の上にいた

ちがう、嬉のネガ虫ではない、

色が薄い青い色で、さめざめと悲しい目をしている

「嬉」

ああ、私はなぜその時分かったのだろう

それは嬉だった

私のたった一人の親友だった

 

  ねぇ僕らはとても孤独で

  頼りない世界を歩んでいる

  たまにそういうことが起こって

  とても無力に流される

  誰かが変質したり、消えていったり、そういうとき

 

私は嬉を手のひらにのせて、

よくよく泣いた

声はでなかった

痛いような鼻水がでて、心がつんつん絶望していた

嬉は困ったように私の手のひらをぽんぽんと撫でた

嬉の瞳も、ゆるゆると潤んでいた

 

「親友だった」

 

嬉は頷いた

 

「これからもずっとそうだろう?」

 

嬉はもういっぺん頷いた

 

誰かがまた口笛を吹いた

机の上に、あのときの−嬉になついていたネガ虫がいた

嬉がぴょんと机に降りる

 

「いっちゃうのかい」

 

嬉が手を振る

私はそっとかがんだ

嬉がちょっと躊躇して、傍に来た

接吻をした

嬉はつるんとしていて、卵のようなものだった

一瞬だけ重なってすぐ離れた

 

  さようなら

 

確かにそう聞こえた

泣きながら私は手を振った

 

あれ以来、嬉には会ってない

世の中は忽然と消えた世捨て人に少し騒いだけど、

すぐに落ち着いた

私は仕事をしながら、

ふだんと変わらぬ毎日を過ごしている

 

たまに道を歩くと、

ちょこちょこと何かの足音がして、

振り返ると見知らぬネガ虫がいたりする

どこかで口笛が聞こえ、

振り返るとネガ虫がいたりする

そうか、と思う

 

私も君らの、君たちの、仲間、なんだね

 

いつか私はそっちに行くだろう

嬉に会おうと決めた、あの瞬間のように、

沸騰し、決まったときに、

一匹のネガ虫を側に置いて、

変質していくのを待つだろう

 

それまで、ずっと人間として過ごすのだ

 

 

ネガ虫になったら、

嬉に会えるだろうか

また親友になれるだろうか

 

今のところ、それが心配だ

説明
「ネガティブ虫」という架空の虫を育てた男の話。BoysLoveです。
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