刻限 -2
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 私は病院の診察室の前、待合室のソファーに座っていた。ここには多くの病人たちがいる。総

合病院だったから、ここでも毎日のように末期の患者が死を迎え、私の同僚達が出入りしてい

る。

 

 しかし私がここに来るのは珍しい事だった。末期の患者が自殺を選ぶような事はあまりない。

むしろもっと日常的な場所が私の活動範囲だ。

 

 だから病院に来ると言うのは久しぶりだった。

 

 緑色の書類を手に持ったまま、私はある人物を待っている。

 

 緑色の書類に名前が記されるという事。それはそのまま死を意味している。上司の言葉通り、

死は管理されており、その名前は刻印される。

 

 そうなってしまったらもはや逃れる事はできない。否応なしに死は訪れ、それが訪れる時刻さえ

も正確に書類には記されているのだ。

 

 これは運命でもある。運命というものが、何か巨大なものに支配されているというように思われ

ているが、私が手にしているのは一枚の紙切れでしかない。

 

 それに人の最大の運命が記されている。私とてそれも同じことで、ここに名前が載れば死が訪

れる事になる。

 

 書類に記されていた人物は、思ったよりも平静を装った姿で診察室から出てきた。

 

 彼は封筒らしきものを持っている初老の男だった。年齢は外見からすると50代くらいに見える

が実際はそんな事はない。彼の年齢は69歳である。書類にしっかりと生年月日から年齢まで記

されているからすぐに分かる。

 

 私は彼の後についた。尾行するような素ぶりではない。私達はそんなにこっそりと、書類に記さ

れた人物達についていくような事はしない。

 

 あくまで堂々と彼らについていく。そして、彼らも私達の存在に気が付く時が来る。

 

 

 

 

 

 

 

 彼は病院での支払いを済ませ、薬を受け取るために調剤薬局まで来ていた。もちろん私もそれ

についていく。

 

 薬局で出される薬。それは二週間分だと話が聞こえてくる。何に対しての薬かは私も知ってい

る。そしてその薬をこの初老の男が、二週間も飲み続ける事はないと言う事も私は知っている。

 

 薬を受け取って振り向いた時に、彼は私の存在に気が付いたようだった。

 

 調剤薬局にいる真っ黒なスーツを着た私の姿は、あまりに不釣り合いだろうか。だが彼は何か

を悟ったように私の存在に、思わず立ち止まっていた。

 

 私は目線を合わせた。彼の眼が揺らいでいるのが分かる。それは恐怖、畏怖、あらゆる感情

が込められた目だった。

 

 普通の人間ならばこんな顔はしてこない。だが彼は、資格を得たからこそ、私の存在に気が付

いているのだ。

 

 彼が踵を返して調剤薬局を出ていっても、私はその後をつけた。

 

 どうやら、彼は私がつけていく事に気が付いたらしい。

 

 彼は調剤薬局まで、タクシーを呼びつけていた。外見は若く見えても、私は彼が体の内に秘め

ているものを知っている。タクシーで家に帰る方が無難だろう。

 

「緑が丘の四丁目七番地まで」

 

 そのように言ってタクシーに乗り込む。そしてそのタクシーの前には私もいた。

 

 初老の男は少し戸惑ったような表情をして私を見てくる。しかし、すぐに何かを悟ったかのよう

に、私に促してきた。

 

「乗るかね?」

 

 私は何も答えずに、そのタクシーに乗った。

 

 タクシーは走りだす。運転手と、彼と、そして私がいる。

 

「皆、見えるのかね?」

 

 彼は後部座席に共に乗った私にそう言って来た。

 

「お客さん何か言った?」

 

 彼よりはずっと若いタクシーのドライバーは、そのように尋ねる。しかし彼は、

 

「いいや、何でもない」

 

 とそのように言って、座席に身をうずめた。そしてそれからは、運転手に聞こえないような小声

で私に向かって話しかけてきた。

 

「質問を繰り返すかもしれないが、皆、君が見えるのかね?」

 

 私は彼に顔を近づけて小声で答えた。そうする必要は、私の方にとってはないのだが、彼と調

子を合わせるためだ。

 

「条件さえそろえば、誰でも」

 

「では、私もその条件に当てはまってしまったと言うのかね?」

 

 それに対してどう答えたらよいのだろうか。私は迷う。だが、隠した所でどうしようもないだろう。

彼はすでに自分の運命を知っているのだから。

 

「それは大変残念で、受け入れがたい事かもしれませんが、そうです」

 

 なるべく相手の感情に刺激を与えないようにして私は答える。すると、

 

「わたしが思っていたよりも、随分かしこまった言葉づかいをするものだね。君は」

 

 彼はそう言った。

 

 周りの人間が私達の事をどのように想像しているかという事は私も知っている。彼も同じように

私の事を思っていたのだろう。だが、それは不快ではないし、仕事なのだから、私は文句も言わ

ない。

 

「それで、これからずっと君はついてくるのかね?」

 

 彼がそのように尋ねてくるので、私は頷いた。何しろ、それがこの私の仕事だった。

 

 今までは自殺をする者達が専門だったが、彼はそうではない。どのような事になろうと、彼は自

殺をしたりはしない。それだけは分かっている。

 

 

 

 

 

 

 

 彼は私を家へと招き入れてくれ、そこで、わざわざお茶を出してくれる。願ってもいない気づか

いだった。

 

 他人の、それも仕事先で出会った人物にお茶を出してもらうなんて、とても久しぶりだ。自殺が

担当ではそんな事をしてくれる人間はいない。

 

 だが彼は違った。彼は一人暮らしであって他に同居している人はいない。その割には住宅地の

中に広い家を構えているものだと思った。

 

 だからこそ、彼が孤独であるのではないかと思うようになってしまう。

 

 そして茶を飲みながら、彼は私にあるものを見せてくれた。それは病院の診断書だった。彼が

封筒に入れて持ってきているものだ。

 

「わたしは心臓に爆弾を抱えていてね」

 

 そのように切り出してきた。どうやら彼の心臓は長年動いてきた事によって心筋梗塞の可能性

が示唆されていた。

 

「以前にもその爆弾が爆発した事があった。その時は命は助かったのだがね、どうやら死の宣告

も同時に受けてしまっていたようなのだよ。あの時は、わたしは死に時ではなかったようだ。何よ

りも、君が現れなかったのだからね」

 

 そう言ってお茶を飲んでいる姿は、とても心臓に疾患のある老人には思えない。まだ何年も生

きていく事ができるような、元気な中年の男性であるように見える。

 

 だが外見はどうあれ、心筋梗塞が起こってしまえば、どんなに若々しくあったとしてもその命に

終わりを迎えてしまう事には変わりは無い。

 

「君が現れたと言う事は、どうやら私も終わりが近づいている。爆弾の刻限が迫っていると考えて

良いのかね?」

 

 彼は尋ねてきた。どう答えるべきだろうか。病気による死は私にとっては専門外だったから、ど

う答えたらよいかが分からない。

 

「具体的な日時も、君は知っているのかね?」

 

 嘘をつくわけにはいかない。私は頷いた。

 

「では、それはいつか分かるかね?」

 

 彼は更に尋ねてきた。目は真剣だ。

 

「長くはありません」

 

 私は彼の死の正確な日時を知っている。だが、それを具体的に答える事はできない。だからそ

のように答えるしか無かった。

 

「そうか、やはりそうか」

 

 彼の気持ちは沈んだようだった。無理もない。むしろ落ちついている方だ。何しろ今私は死の宣

告をしたようなものだから、もっと動揺してしまっても不思議ではないはず。

 

「この気持ちを理解してくれと言っても、できないだろう。戸惑いも、恐れも、何だか全てが無に帰

してしまったような感情だよ。不思議とそうなってしまうんだ。怖くないかと言ったら嘘になる。

 

 私が自分の体の異変に気が付いたのは、前に倒れた時からだが、医者からは次に発作が起

これば命は無い事はすでに伝えられてある」

 

 私は茶を飲みつつ、彼の診断書を見ているふりをする。彼がどのように死ぬかは、この診断書

ではなく、上司から渡された紙に書かれているのだ。だから彼の最後がどのようになるかは、私

はすでに知っている。

 

 診断書を読んだふりをして、私は彼にそれを返し、再び茶を飲んだ。

 

「君がその存在だという事はすぐに気が付いたが、どのくらいの猶予があるのだね?それを1年

や10年に延ばしてくれなんて言うものは、おそらく君には通用しないんだろう?だから私も無理

は言わないさ」

 

 彼の方が私に次々と話しかけて来ている。まるで私と言う存在が好奇の対象であるかのよう

だ。

 

 だから私は口を開いた。

 

「具体的な猶予は明かせません。確かに長くない事は確かです」

 

 私からはそれしか言う事ができない。彼は何かに焦っているのだろうか。

 

「しておかなければならない事がある。遺書ならもう、前に倒れた後に書いたよ。わたしの人生も

残り短いのだという事を悟ってね。妻もいたが他界した。子供は独立している。しかしわたしには

やりたい事がまだあるのだ」

 

「それはどのような事ですか?」

 

 彼はやはり焦っているかのように、せわしなく動く。心臓に爆弾を抱えていると言うのに、あまり

激しく動くと体に触る。だが、私は彼の最後の時間を知っている。

 

「行くべきところがあるんだよ。わたしは今住んでいるこの家も、病院のベッドをも死に場所にする

つもりはないんだ」

 

 行くべきところ。それは死を間際にした人間が選ぶもの。彼にはどのような人生があって、どの

ような行くべきところがあるというのだろうか。

 

 私は彼の最後の時間を知っている。それまでに辿りつける場所なのだろうか。もし、地球の辺

境の地だったりしたら、辿りつく前に彼は死んでしまう。

 

「どちらに行かれたいのですか?」

 

 真剣な顔をして尋ねる。もしそれが途方もなく遠い場所であったら、そこに辿りつけないという事

を彼に教えておかなければならないだろうか。

 

「遠い場所では無い。だが、大切な思い出がある。何。都内から1時間、いや、2時間もあれば行

く事ができるところだ」

 

 それを聞いて私も安心した。そのくらいの時間であれば、彼にはまだ猶予が残されている。

 

「わたしはそこへと行かなければならない。死ぬ前に、もう一度行かなければならないのだ」

 

 彼はどことなく焦っている。しかしながらその顔は使命感を持った、また、硬い決意をしている表

情のようにも見えた。

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 東京、新宿駅には多くの列車が到着する。それは通勤列車がほとんどを占めているが、中に

は特急列車もやってくる。東京近郊には様々な観光地域があって、この新宿駅から出る特急列

車はそんな観光地を目指すものばかりだ。

 

 私は彼と一緒にそんな特急列車の一つに乗った。特急列車などに乗るのはどれくらいぶりだろ

うか、私は仕事ではほとんど通勤電車ばかり使っているから、特急列車には乗った事がほとんど

ない。仕事では乗る必要が無いのだ。都内の中でも限られた場所しか担当していない我々は、

わざわざ遠方まで出向くような事は無い。

 

 だが、今回の様な場合は特別だ。担当に回された人物が、死ぬ場所を求めて列車に乗るので

あれば、私もそれに同行しなければならない。

 

 私は彼を止める気はないし、私達も彼らの最後の行いを止めるような事はしない。それは自殺

が良い例だろう。自殺をしようとしている者達を私達は止める事はせず、ただその最後を見届け

にいくのだ。

 

 だから今回も、私は彼の最後を見届けにやってきた。

 

 自宅から私鉄で数駅。新宿駅の窓口にやってきた彼は、関東地方の北部へと向かう切符を購

入した。わざわざ二枚分も購入する。そんな必要はないと言うのに。

 

「もう、私が高い財産を残すような相手もいないのでね」

 

 そのように彼は言っていた。だが、私の分の切符は別に必要無いのだ。

 

 新宿駅の特急ホームから特急列車に乗った私達は、そのまま北の地へと向かい出した。だ

が、昼間に観光地へと向かう特急に乗るような人々は非常に少なく、席はがらがらだった。

 

 だから私と彼は、席を向かい合わせにして座った。

 

「これでひとまずは安心だ。さっきホテルに電話をしたらね、まだ部屋は空いているという事だっ

たよ」

 

「そのホテルとは、とても大切な所なのですか?」

 

 私は気になっていた事を尋ねる。死期を間近にしてわざわざ列車で遠出をするからには、そこ

は彼にとって、非常に重要な所なのだろう。

 

「5年前に妻が死んだ」

 

 彼はそのように打ち明ける。書類を渡された時、彼の家族構成を見たが、息子と孫がいる。だ

が、妻はすでに死去しているという情報が書かれていた。それだけだ。重要なのは彼自身の事な

のだから。

 

「君は良く知っているのかな?人が死ぬというのはあっという間なものだね。その1年前までは、

まだ妻も元気に生きていた。一緒に100歳まで生きようなんて言い合っていたものだ。

 

 だが、癌には勝てなかった。あっという間に転移した妻の癌は、彼女を1年とかからずに天国へ

と連れていったよ。

 

 私は、高度経済成長とか、バブルとか言われていた時代は、家族も忘れそうなほどに仕事に熱

中したよ。それで、世田谷に家を買えたし、子供たちを大学に出す事もできた。同僚には仕事の

しすぎで離婚してしまったという者もいたな。

 

 だが、私の妻はとても私の事を理解してくれていた。仕事で出張に行き、1カ月以上も帰らない

事もあった。だがそれでも、辛抱強く私を待っていた。

 

 あそこに行くのは、妻が死んでからぶりになる」

 

 彼は話を明かしていく。私も死期が近づいてきている、自殺以外の人間を聞くのは初めてだ。と

ても興味深い。

 

「この列車の終点にあるホテルですか?」

 

「温泉郷の一つだよ。まあ、最初は新婚旅行よりも前に、私達が交際していた時に思いつきで行

った場所なんだがね。プロポーズをしたのもそのホテルなんだ。

 

 結婚してからは、私達がどんなに忙しくても、毎年そのホテルにいくようにしていたんだ。温泉に

ももちろん入った。私にとっての思い出の場所といったらそこになるんだ」

 

 彼は窓の外の移りゆく景色を見つめつつそのように語る。私はその温泉郷に行った事は無い

し、どのような場所かもわからない。

 

 だが、彼は外の景色を眺めつつ、思い出にふけっているようだった。彼が今、見ている景色

は、もう二度と見る事はできない。それは私も分かっている。だから彼をそっとしてあげるつもりだ

った。

 

「車内で売られている駅弁を食べるかな?列車の旅には駅弁は欠かせないと思うがね」

 

 彼は申し出てくる。私の様な存在に対して、随分と友好的なものだ。中には嫌悪さえする人間も

いると言うのに。

 

「いえ、私は結構」

 

 さすがにそこまでは、お金を出してもらうのは忍びない。そう思った私は断る。

 

「じゃあ、酒だけでも付き合いなさい。遠慮はいらんよ、わたしがお金を出すのだから」

 

 

 

 

 

 

 

 結局、私は彼が車内販売の女性から買った、日本酒だけをおごってもらう事になった。

 

 彼は駅弁を注文する。それはこの列車が目的地としている温泉郷の名物を使っているらしい駅

弁であり、彼はそれに舌鼓をしていた。

 

「駅弁と言っても色々と変わる。だから毎年、楽しむ事が出来た。この列車に乗るのも、あそこに

いくのも5年ぶりだから、これはわたしにとって全く新しい駅弁になるかな?」

 

 彼はそのように頼もしげに言ったが、自分の膝の上に弁当箱を置き、まるで黙祷をするかのよ

うに、じっと箸を揃えて目を閉じた。

 

 彼が目を閉じていた時間は、異様に長いかのように思えた。誰に対して黙祷をしているのだろう

か。列車の揺れに合わせて、彼の体が振動している。

 

 彼の妻に対してなのだろうか。それとも、自分自身に対しての黙祷なのだろうか。

 

 しばらく後に、彼は目を開いた。

 

「これは、わたしにとって、最後の食事になるのかな?」

 

 それは私にとっては答えられない質問だった。もし彼がまたどこかで何かを食べるのならば、そ

ちらの方が後の食事になる。

 

「まあ、答えられないんだろうがね」

 

 彼も段々と、私という存在を理解する事ができていたようだ。

 

 私は酒を彼と共に仰ぐ。酔いは心地よい具合に私を満たしていってくれる。

 

「医者に酒は止められていたが、どうやら君の様子だと、この酒を飲んでも大丈夫なようだから、

頂くよ」

 

 そう言い、彼もカップに入れられた日本酒を進めるのだった。

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 午後も5時を過ぎてしまっていたが、彼の思いつきで始まった列車での旅行は、私が思ってい

たよりもあっという間だった。

 

 私は彼の刻限を知っている。しかしながら彼は知らない。彼は平静さを装っているが、彼が心

臓に抱えている爆弾が、いつ火を吹くかという事については私しか知らないのだ。

 

「無事に着けて良かったよ。私自身の身体が持つかどうかという事はしかりとして、今日中につけ

て本当に良かった」

 

 平静さを装うとしている中に、彼の中の焦りを感じる。もし今日中にこの地につけなかったら、彼

は永遠に奥さんとの思い出の場所に来る事はできなかったのだから、それは無理も無い。

 

 駅から外に出てみると、すでに夕日が傾きつつあった。西日がまぶしいほどに照りつけて来て

いる。そのまぶしさは一日の中でも強烈なものだ。しかしながら、それはやがて光を失っていき、

夜の闇へと消え去っていく。

 

 一日の日の動きは、あたかも人の寿命の様な存在だ。

 

 温泉郷の駅は両脇を山々に囲まれており、ここが関東地方の中でも辺境の地に位置している

という事が良く分かった。温泉があるとなると、周囲に硫黄の匂いが立ちこめているような事があ

るが、ここはそうではない。

 

 そして駅前には公共の足湯も用意されていた。無料で誰でも入る事ができる足湯が解放されて

いるのだ。誰でも出入りする事ができるにもかかわらず、きちんとした清潔さが保たれていた。湯

気が上がる温泉の湯も決して汚れてはいない。

 

「入っていかれますか?」

 

 私はそのように彼に尋ねた。

 

「いや、先を急いだ方が良いかもしれない。昔は良く入ったがね」

 

 彼はそのように言って、さっさと行こうとしてしまった。もう日暮れも近い。彼の時間も迫って来て

いるのだ。

 

 私達は周囲のホテルを循環しているというバスに乗り込み、目的地へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ホテルまではあっという間だった。温泉郷とは言っても賑やかなものとはなっておらず、閑静な

住宅地、そして所々にホテルが点在している程度だった。

 

 すでに彼がそのホテルへの予約を済ませている。私達は日が暮れかかっている頃に、ようやく

そのホテルの中へと入っていく。

 

 高級温泉旅館という趣では無かった。むしろ、コンクリートで出来た建物であって、大きなマンシ

ョンのようにも見える。しかしながら中は落ちついた雰囲気のホテルになっており、ここであれば

何日過ごしていても落ち着いて過ごしていく事ができるだろう。

 

 チェックインを済ませた彼、どうやら連れがいるという事をチェックイン用の用紙に書く事を戸惑

ったようだった。

 

 私は自分の事は構わないで良いからと彼に何度も言っている。そろそろ彼も気がついてきてい

る頃だろう。なのに、私の事をいちいち気遣ってくれるとは。

 

 ホテルの部屋は二人分の部屋だった。しかしながら彼が支払った料金は一人分でしかない。私

の料金は支払わなくて良いのだ。

 

 何故ならば、ホテルのフロント係にも、従業員にも、彼らがもうすぐ刻限が迫ってきていない限り

は、私の存在を認識する事はできないからだ。

 

「やはり、わたしが思っていた通りだね。そして、世間で言われている噂通りだね」

 

 ホテルの部屋に入ってくるなり、彼は私にそう言って来た。

 

 自殺をする人間も、彼のように寿命で命が尽きる者も、私達の存在についてはすぐに理解でき

る。しかしながら、彼はまるで私の事を何度も確認しているかのようだった。

 

「お気づきになられましたか?」

 

 彼と私が部屋の中に入り、部屋の扉を閉めたのは私の方だった。

 

「君は、他の人には見えていないんだろう?そうだ、君は死期の迫っている人間にしか見る事は

できない。そう言う存在なんだろう?」

 

 あれは私の存在を確かめるかのような目をして言って来た。

 

「ええ、その通りです。だから、私は気づかいは無用だと」

 

 彼はその事に気がつかなかったのか、何度も確認を取りたかったのだろうか。

 

「でも、列車の中では、君は酒を飲んでいたぞ。もし君が幽霊のような存在ならば…」

 

 彼は立ったまま次々と話を重ねてくる。だが、私は彼を制止させて、ホテルの部屋に設けられて

いるソファーへと促した。

 

「話せば長くなる話です。座って、ゆっくりとしませんか?」

 

 そのように促すと、彼は慌てているような態度を止め、一息つくために部屋に設けられているソ

ファーへと座った。

 

 ソファーの座り心地はなかなか良い。すでに淹れられた茶も用意されていた。この座り心地は

なかなか実現できない。私のいつも出入りしているあのビルだって、実用性を重視しており、しっ

かりとしたソファーの一つも無いのだ。列車の座席でも実現する事ができない、ゆったりとした空

間がここにある。

 

 近くに川が流れているらしく、そのせせらぎの音が聞こえてきていた。

 

 しかしそれ以外は無音である。全くもって静かな空間がここにはあった。ホテルの部屋も広すぎ

ず、また狭すぎず。居心地の良い空間がある。

 

 もしこのホテルに長い期間滞在する事ができるのであれば、私達は完全に他の世界から隔離

されてしまうのではないのか、そう思った。

 

「では、質問を繰り返すようだが、君は本当に、死期が迫っていないと見る事ができないのか

ね?」

 

 彼は茶に手を付ける事も無くそのように言って来た。

 

「お互い同士は見る事はできますが、まあ、元気に生活している人からは、正確に言えば、認識

する事ができません。私自身はきちんとここに存在していますし、お酒を飲む事もできるのです」

 

 そう言って私は茶を飲んだ。私はそこに芳醇な味わいを味わう事ができるし、喉を通る感触も

味わえる。

 

「じゃあ、幽霊のようなものじゃあないのかね?」

 

 彼が尋ねてくる。その質問に答えはある。

 

「幽霊とはまた違います」

 

「では、君はわたしが死んだ後に、わたしがどのようになるのかという事も、知っているのかね?」

 

 彼は何から何まで私が知っていると思うのだろうか。

 

「いいえ、知りません。私が知っているのは、その、あなたの最期だけです」

 

 私はそのように言った。そう、実際に死後の世界がどのようになっているのかとかそういった事

は私の知りえない事なのだ。

 

 そこに担当になる者がいるのかどうか、そもそも死後の世界が存在するのかどうかという事さ

え、私には知りえない事だ。

 

「そうか。だが、聞けたところで、安心する事ができたとは思えないがね」

 

 彼は私にそのように言うのだった。

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 彼と私は特に外出する事も無く、ただホテルの部屋にいた。

 

 彼は平静さを装っているようだったが、じっとソファーの上に座ったまま動こうとしない。彼は自

分の心を落ち着かせようとしているのだろうか。それとも、たまりかねないような緊張に襲われて

いるのだろうか。

 

 ホテルの部屋に差し込んでくる西日が消えていった。外は静寂の夜に包まれる。

 

 彼はホテルを1泊2日で予約した。その間、夕食と朝食が出る。しかしながらそれ以外に何をし

ていようとも自由だ。

 

 ただこのようにして、静寂の時を過ごしていても良い。だが、彼は最期のひと時までこのままで

満足できるのだろうか。

 

 やがて彼は口を開いた。

 

「君は、今までにもわたしと同じような人達を看取って来たのかね?」

 

 ソファーの方から声がしてきた。その時、私は窓際に立ち、じっとホテルの下を流れている川の

せせらぎを聞いていた。

 

「ええ。最期は看取ってきました」

 

 そのように答える私。だが私が見取って来たのは全て自殺であって、彼の様な病死の最期を送

る人間は初めて扱う。

 

「わたしにはとても人の最期を何度も見取る気にはなれないがね」

 

 彼が続いてそのように言って来た。

 

 私はゆっくりとソファーのある元へと戻っていき、彼と向かいの位置のソファーに座る。そこには

すでに何杯目かの茶が淹れられていた。

 

「実は、私が今まで見取って来たのは全て自殺なのです」

 

 そのように私が言うと、彼は顔を青ざめさせかかったが、

 

「だからあなたも自殺をするというわけではありません。今回、私に与えられた仕事は特別なもの

であって、私にとっても初めての経験となります」

 

 私はそう言いつつ、茶を再び口に含んだ。そろそろこのホテルの客室に常備されているお茶の

味も飽きてきてしまった。

 

「いや、しかし。わたしは自殺など一度も考えた事が無かったからね」

 

 彼はそう答えた。今回私が扱うのはそんな人間なのだ。

 

「ええ、考える人の方が少ないでしょう」

 

 それが私が答えられる答えだった。

 

「それじゃあ、君は、何かね。今まで、散々悲惨な死を目の当たりにしてきた。そのような事なの

かね?」

 

「自殺というものの全てが悲惨な死と言えるのならば、そうなのかもしれません」

 

 私がそのように答えるが、

 

「わたしにとってはそれは見ていられない事だよ。それじゃあ、君は、その自殺を止めようともせ

ず、今までずっと見過ごしてきたという事かね?」

 

 彼は身を乗り出して私にそのように言ってくる。だが、私も好きで今まで自殺を見逃してきたと

いうわけではないのだ。

 

「決まりがあります。人の死というものは管理されており、それを無闇に乱す事をしてはならないと

いう決まりなのです。もしそれを無闇に乱すような事があるならば、世の中のバランスが崩れま

す。

 

 自殺を選ぶ人間は数日前から確かな兆候があり、私達はその兆候を見極めて現れます。そし

て彼らの死を見届ける事によって管理するのです」

 

 私がそこまで言ったところで、彼は茶を飲んだ。お互い、もうどれだけの茶を飲んできただろう

か。

 

「じゃあ君達が無理に、その、自殺しようとしている人間を死に引きずり込んでいるわけではない

と言う事だね?」

 

 彼はそう言って来た。世間一般にとっての、私達の存在の見られ方は、多分そんなものなのだ

ろう。

 

「ええ。死を選ぶのは彼ら自身の選択であり、また時によるものです。私達とてそれは例外では

ありません。私にもいずれ死がやってくるでしょう。まあ少なくとも、いくら死と隣り合わせの立場に

いるとは言え、すぐに死を選ぶつもりはありませんが」

 

 私はそのように言うのだった。

 

 一呼吸置いて、彼はテーブルの上に設置されている時計の方を見た。

 

「どうやら、大分時間が経ってきてしまったようだ。そろそろ、ひと風呂浴びたいような気分だよ。

それに酒も切れて来てしまったようだ」

 

 彼はそう言ってソファーから立ち上がるのだった。

 

「ええ、そうですね。ではご一緒しましょう」

 

 私も彼が見た時計をちらりと横目で見た。その時は迫って来ている。

 

 

 

 

 

 

 

 温泉街だけあって、このホテルにも露天風呂がついていた。この辺りのホテルではもう露天風

呂はどこにでもついているようである。

 

 彼は酒と共に風呂に入る事をした。

 

 だが、風呂の入り口の案内にもあったが、酒を飲んでいる状態で風呂に入る事は禁止されてい

る。まして、日本酒のカップを片手に風呂に入る事も禁止されているようだ。

 

 とは言っても、露天風呂には誰もいないようだった。今はシーズンオフである事もあるのか、風

呂には私達以外誰もいないようだった。

 

 だから彼の違法行為を誰も止める事はできなかった。私もそれを止めるつもりは無い。

 

 私は彼のやる事もなす事も干渉できないからだ。

 

 私は彼と一緒に風呂に入った。だが他の人間からは、彼がただ一人で風呂に入っているように

見えるだろう。

 

「医者からは長風呂を禁じられているのだがね。もちろん、酒も禁じられているが、私の人生の楽

しみの一つが酒なんだ。煙草は大分前に止めてしまったが、そんな私から楽しみを奪う事などで

きるかね?」

 

 風呂の熱いお湯に浸かりながら彼がそのように言って来た。温泉と言うだけはある。ただの風

呂とは違って、お湯自体から芳醇な香りが漂ってくるのが分かる。そして、それが身体の中に染

み込んでくるのもはっきりと分かる。

 

 私は温泉と言うものに入った事が無かった。現代の生活水準があれば、公衆浴場に入るような

必要もない。

 

 だが私は身体全体で感じる。この心地よさ、香り、そして身体を包みこんでくる全てが生を感じ

させてくれるものだった。

 

 彼はそんな中、酒を進めている。しかも大分その進みが速い。

 

「若い時は、もっと酒を仰いで無茶をしたものさ。妻からは止められる事もあったが、こんなに幸

せな事は無い。温泉と酒というものは良く合うんだよ」

 

 彼の顔はすでに真っ赤になって来ていた。それはただ温泉で温まっているからではない。それ

だけではそんなに顔は赤くならない。

 

 明らかに酒が回っているせいだろう。

 

 心臓に爆弾を抱えていると言う彼が、そんなに酒を一気に仰いだらどうなるのか、それは私の

ような存在でなくてもはっきりと分かる。

 

「酒はいい。大昔からの人間の偉大な発明だ。いや、皆が求めていたからこそ、酒というものが

できたんだ。温泉も同じだ。人間が幸せになれると思ったからこそ、これを見つけたんだ」

 

 だんだんと彼の言葉が饒舌になって来ている。

 

 だが、私に彼の酒を止める事はできない。

 

「私は、幸せだ。幸せになるためにここに来たんだ。もう、思い残す事など何も無い。心臓がどう

なったって構わん」

 

 そう言い放つなり、彼は酒を一気に仰ぐ。そしてカップ瓶の中に入っていた酒を全て飲みほして

しまった。

 

「君は、本当の、幸せを見た事が、あるか?」

 

 彼の手から酒瓶がこぼれおち、それが温泉の湯の上に浮かんだ。

 

 唐突な質問だった。そんな質問をされた事など無い。私は今まで人の不幸ばかり見てきた。そ

れは自殺と言う最も残酷な形で現されるものだった。

 

 私は本当の幸せなど見た事が無い。

 

 私は今まで、そんな幸せとはかけ離れた世界にいたのだ。

 

 私が見ている死を目前にした彼は一体、何を見ているのだろうか。ここに果たして幸せはある

のだろうか?

 

 彼の目線がだんだん私から外れてきた。そして天を仰ぐかのような姿勢になる。そして彼はそ

のまま温泉の湯の上にあおむけになってしまった。

 

 異常なまでに顔や全身が赤い色となっている。体温が急激に上昇しているというのは明らかだ

った。

 

 おかしい、まだ早すぎる。私は彼の最期の時刻を知っていた。それにはまだ間があるのだ。

 

 しかしながら、温泉に浮かんでいる彼の姿は何とも幸福そうな顔をしていた。顔色は真っ赤にな

っていたが、彼は幸福の境地に辿りついてしまったのかもしれない。

 

 だが、このまま放っておけば、彼は死んでしまう事だろう。酒を大分飲んでいる状態で熱い温泉

に随分長い時間入っているのだから、心臓が弱い彼にとっては酷な状態になっている。

 

 この温泉には、温泉内で非常事態が起こった時に、フロントの係に知らせる事ができるインター

ホンがある。私は即座にその場所へと向かった。

 

 インターホンの受話器を外す。それだけでフロントには繋がる。そして私が何も言わなくても、フ

ロントでは非常事態が浴場で起こった事を知らせられるはずだ。

 

 このまま彼を放っておくわけにはいかない。風呂に入ったままの姿ではあったが、熱い湯船か

ら彼の身体を外へと出して横にしておいてやった。

 

 私ができるのはここまでだ。

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 結局、彼は高齢であったという事もあって、ホテルが呼んだ救急車によって近くの病院へと運ば

れた。

 

 少し危険な状態にまで陥っていたようだが、どうやら彼の心臓には今のところ問題は無いらし

い。だが、彼の体温は急上昇していたらしく、身体を冷まさなければならなかった。点滴も備え付

けられ、あたかも急病で倒れたかのようである。

 

 私はそうした事故で死亡する者達の担当ではないから、細かな事までは知らないが、熱い風呂

に長く入っている事によって体温が急上昇し、それによって死亡するという例も少なくない事は知

っている。そしてそれは高齢者に多い最期の迎え方だ。

 

 彼も救急車で運ばれるほどまで危険な状態へと陥った。彼自身も自分の最期が近い事を知っ

ていての行為だが、それは無謀な事であった。

 

 彼の事を心配してという意味もある。私も、救急車に乗って病院まで同行した。

 

 病院でようやく彼は意識を取り戻した。真っ赤になっていた顔も元通りになり、念のため点滴は

されていたが、落ちついてきたようだった。

 

 私も彼が運ばれた病室の側まで行き、その傍らで彼を見守っていた。

 

「ここは、天国かな?」

 

 目覚めたばかりの彼が発した言葉はそれだった。危うく死にかけて、その淵から戻って来た割

にははっきりとした言葉だと私は思った。

 

「いいえ、そうではありません。あなたはまだ生きています」

 

 私はそのように彼に向けて言った。

 

 そうすると、彼はベッドの寝台の上で、大きく手を伸ばして仰いだ。

 

「ああ、どうやら君の言う通りだ。まだ全くもって現実的な感覚を感じるよ。これが天国だったら、

何とも拍子抜けをしてしまうものだったかもしれない」

 

 そう言って、彼は再び寝台の上に横になった。

 

 天国というものがあるのかどうか、私には分からないが、彼はそれをどのように思っているのだ

ろうか。だが、確かに天国と言うものが、この病院のような世界だったら、あまりにも拍子抜けし

てしまうものだっただろう。

 

「無茶をしてしまったと、思うだろう?」

 

 そのように彼は尋ねてくる。

 

「確かに、一般的な感覚で言えば、無理をし過ぎでしょう。あれだけ熱い温泉の中で、一気にお酒

を飲めば…」

 

 そのように私は言ったが、彼は言葉を遮った。

 

「いい、いいんだ。分かっているさ。だが、自分の最期が迫っているとなると、少しくらい無茶をし

てしまうものなんだよ」

 

 そう言った彼の顔は安らかなものだった。無茶をしたばかりのものとは思えない。

 

「まあ、その気持ちは分かります。私が見てきた多くの人も」

 

「それは自殺をしようとしていた者達の話かな?」

 

「ええ、そうです」

 

 その言葉を言った後で、私は自分が言った言葉を間違えたという気がした。彼は自殺をしようと

しているわけではない。私が今まで取り扱っていった者達とは違うのだ」

 

「まあ、少なくとも私は自殺をしようと考えているわけじゃあないからね」

 

 そう答えた彼の言葉はとても穏やかなものだった。

 

 そして、私は再び言葉を噤んでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく時間が経った。夜もどんどん更けていこうとしている。時刻を見れば、すでに午後11時を

回っている時間だった。

 

 午後11時。それはすでに今日の時間が残り1時間も経っていない事を示している。

 

 私は彼の時間が今日までしか無いと言う事を知っている。彼にもその事はすでに伝えた。

 

 病院のベッドの上で横たわる彼の姿はとても穏やかだったが、どうやら時間が迫って来てしまっ

ているようだ。私は頻繁に自分の腕時計を見ている。

 

「時が近づいている事は、私も知っているよ」

 

 彼は私の方に手を伸ばしてそのように言って来た。

 

「不思議なものだ。こうして時が迫って来ている事を、身体の感覚として感じる事ができるのだ」

 

 それは初めて聞く言葉だった。今まで私は突然、彼らの目の前に現れて、その自殺を見届けて

きた。彼の様な最期と迎える人物の前に現れるのは初めてだった。

 

「どうやら、その時が近づいてきたようだ。さっき、思い切り羽目を外しておいて正解だったのかも

しれない。だが残念なのは、最期の時をあのホテルで迎える事ができないという事だ」

 

「ええ、それは残念かもしれません」

 

 彼が手を伸ばしてきたので、私は彼の手を握ってやった。

 

「だが、自分で招いた事だ。それに、私があのホテルで最期を迎える事ができないという事は、君

も知っていたのだろう?」

 

 どう答えるべきだろうか。しかしながら彼はすでに全てを悟ったかのような表情をしている。だか

ら、教えてしまっても良いだろう。

 

「知っています」

 

 彼の手を握り締めながら、私はまだ元気に動かす事ができる手をそのように握った。

 

「なるほど、残念だ」

 

 不思議だった。この温泉郷にやって来た時は、まだ元気な初老の男程度にしか見えなかった

が、今ではとても老けこんだような顔をして見える。病院のベッドの上と言う事がそう見せてしまっ

ているのだろうか。

 

「向こうに行ったら、妻に会えるかな?」

 

 彼はそう言った。その声がどことなく掠れて来ている事が私には分かる。

 

「さあ、それは私にも分かりません」

 

「そうだったね…」

 

 その言葉の後、再び沈黙。それ以上私は言葉が見つからない。自殺を前にした人間相手に

も、私は口を滑らしたりしないようにと、なるべく沈黙をしたまま見届けるが、彼の様な最後を迎え

る人物にはどうしたら良いのだろう。

 

 時刻は既に午後11時54分。私はそれを腕時計で確認した。

 

「何も言わなくていい、何もしなくてもいい。ただ、彼方からやってくることが分かった」

 

 まるで独り言のように彼はそのように言うのだった。念仏を唱えるかのような声で、ただ静かに

彼は言っていた。

 

 私は黙って彼の姿を見ている。再び彼がベッドの上から手を伸ばしてきて、私の手を握ってくる

のだった。

 

「ありがとう」

 

 彼の最後の言葉は私に対しての感謝だった。ただ今日一日会っていた。そして彼自身が認識

する上では行動を共にしていた私に、彼は感謝していたようだ。

 

 腕時計の秒針は何も変わらないリズムで、ただ過ぎ去っていく。そして私が例の書類で確認し

ていた時刻、午後11時55分を過ぎ去った。

 

 彼の腕の力はまだ残っているかのように思えた。本当にこの人は逝ってしまったのだろうか。だ

が彼は静かに目を閉じ、そのまま眠っているかのようだった。

 

 私は彼の手からゆっくりと手を離した。彼の手はベッドから出て、そのままの状態となった。

 

 どうやら、時間が来てしまったようだった。彼と過ごした最後のひと時が過ぎてしまうと、時刻が

過ぎ去り、午前0時、日が変わる時間になってしまった。今日は昨日になり、彼は故人となったの

だ。

 

 私が感謝されるなど、自分でもまだ実感がわかない事だった。私はただ彼と一緒の時を過ごし

ただけに過ぎないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 彼の事は、病院の看護師か医師が見つけてくれるだろう。私は彼の最期を見届けた。そこで仕

事は終わっている。

 

 私の意志で温泉郷にやってきたのではないし、私のすべきことは全てしてしまった。

 

 また、私のすべき仕事が明日から待ち構えているのだ。

 

 彼からの感謝の辞を受け止めた私は病院を後にし、新たな地へと向かう。また死を待っている

人間がどこかにいるのだ。

 

 私はそれを見届けにいく。

 

 

説明
自殺や事故死などを見届ける主人公が、様々な、死というものに直面した人達に出会っていく話です。
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オリジナル 短編 自殺 

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