天使達の祝福(前編)
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 地方新聞の一面に取り上げられていたとおり、淡紫色の房状に垂れ下がった藤の花が、見頃を迎えている。

 昨年三月にオープンしたばかりの横浜バラクライングリッシュガーデンの藤棚の下で、黒のTシャツにグレーのジャケットを重ね、濃紺のジーンズを履いた十八歳の卯月(うづき)逸人(はやと)は、A3版のスケッチブックにHBの鉛筆を走らせ、熱心に藤のスケッチを続けていた。

 東北東日本大震災から間もないゴールデンウィークで、首都圏のイベントは軒並み中止されていたが、横浜駅西口の繁華街に近い横浜バラクラは、住宅展示場の一角に造られた二千坪の英国式庭園で、都市生活者からは癒しと安らぎを与える空間として、賑わいを見せている。

 逸人は、低層棟は古代メソポタミアに多く見られたジグラットという階段状で、高層部は円形状の超高層ビルをみなとみらいに建設し、横浜本校としている京浜クリエイター学園グラフィック科イラストレーション専攻に入学して一か月が過ぎている。

 この横浜本校は、実現不可能な天に届く塔を建設しようとして崩れてしまった、と伝えられるバベルの塔をモチーフにするなど、業界からは縁起が悪いと眉を顰められたが、むしろこうした験の悪さを逆手に取り、「実現せよ!」のキャッチコピーでテナント入居者やクリエイターを目指す学生達を集めることに成功している。

 逸人は藤のスケッチを終えると、気忙しそうにばさりと音を立て、幼い女の子の笑顔をすらすらと描いたかと思うと、背に小さいながらも純白の翼を力強く羽ばたかせて空に舞う天使へと仕上げて行った。

 こうした天使のラフスケッチを四、五種類も描くと、垂れ下がった藤の花と重ねるにふさわしい作品を選ぶ。

 イベント開催を告知するポスターを描く、という課題の下ごしらえで、逸人が選んだのは、結婚式場オープンを知らせるポスターだった。

 絵を描くことが好きな若者が集まり、学校で用意された最新鋭のパソコンにインストールされた支持の高いデジタルイラスト制作ソフトのハイエンドモデルを活用して、次々と出される課題に取り組む日々は、夢のように楽しいと思われがちだが、実際にはクラスメートは友人ではなく、全員がライバルだった。

 卒業する二年後には、少しでも優れた企業に就職出来るよう、技能を身につけておかなければならない、という重圧と戦い続ける毎日とも言える。

 当然、脱落者が出ることを想定し、学校も定員の二割増しで入学させている。一学期を終える頃には一割が休学届を出し、三学期末には留年が確定した生徒が退学届を提出してしまう、という現実だった。

 こうした難関を乗り越え、二年制のカリキュラム全てを修了し、卒業した学生には、文部科学省認定による「専門士」の称号が付されるが、デザインの現場ではそんなものは何の役にも立たず、自分の創作に対する主義主張など二の次三の次で、とにかく依頼人が求める以上の仕事を、迅速に果たせる者だけが生き残って行かれる世界であった。

 天使達のラフを描き出すと、逸人はようやくに肩の力を抜き、芝生を主体としたナチュラルガーデンと四つのコンセプトガーデンからなる広大な英国式庭園のあちらこちらに置かれたエキゾチックなベンチに腰を下ろし、イメージに過ぎない走り書きを固めてしまおうと考え、歩いていると、ローズガーデンに入り込んだ。

 家族連れで賑わい、どのベンチもふさがっていたが、ようやくに誰も使っていない二人掛けのベンチを見つけると、逸人は座った。

 スケッチブックに鉛筆を滑らせ、わずかな時間が過ぎたとき、逸人の傍らに誰かが座り、スポーツ飲料が入った新品の五百ミリリットル入りのペットボトルを突き出した。

 逸人は怪訝に思い、顔を上げ、不意にペットボトルを突き出した人に目を向けると、京浜クリエイター学園のイラストレーション専攻のクラスで見覚えがある女子生徒だったが、名前は知らない。

 女子生徒は白いブラウスの上にピンクのパーカーを羽織り、擦り切れた濃紺のジーンズを履いている。逸人同様に貧乏学生の見本だった。

 女子生徒はもう一本のペットボトルをごくごくと飲み干すと、

「一本、君にあげよう。冷たいうちに飲んでしまいなさい」

 長い髪を五月初旬の快い風に揺らし、静かに頬笑んだ。

 ここ一か月、専門学校でのクラスメートなど全員が敵と思い込んでいただけに、女子生徒の笑顔は意外だった。逸人は、

「あ……ありがとう、丁度、のどが渇いていたんだ」

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 パキパキと音を立て、蓋を開けると、のどを鳴らせてスポーツ飲料を飲んだ。女子生徒は、

「もしかして、わたしの名前、知らない?」

 逸人はスポーツ飲料を一息で半分ほど飲み下して頷くと、女子生徒は、

「知らないことをはっきり知らないって言える誠実さがいいよね。津島(つしま)智絵理(ちえり)。よろしくね。画材店をやっているおとうさんが、絵を描く智恵を理解して、いい絵描きになれるように、っていう願いを込めてつけた名前なんだけど。全然、上手くなれなくて。卯月君みたいに、赤ちゃんだろうが、成人男女だろうが、すらすら描き出せる人って、うらやましいよ」

「慣れだよ、こんなの」

 逸人はぶっきらぼうに答えた。

 大型書店の美術書売り場の技法書の棚へ行けば、有象無象、山ほど関連書籍が並んでいる他に、家電量販店のパソコンのソフト売り場に置かれたデジタルイラスト制作ソフトには、3DCGデーター集が添えられ、複雑なポーズとパースであっても、一瞬にしてキャラや背景の下書きとして活用出来るようになっている。

 人体解剖学や建築学の透視図法をそれほど学ばずとも済む時代になっていた。

 しかし、それもパソコン操作を習得していての話で、普通高校を卒業するなど、今までパソコンに触れる機会がなかった者には、パソコンを起動させ、高性能のソフトを自在に使いこなして作品を仕上げて行くなど夢物語で、早速に挫折を味わされる。

 逸人は、智絵理に「だったら、辞めちまえ」とは言えない性格で、色々と言葉を探していると、智絵理が膝に乗せた紙袋の中から、バスケットを取り出し、蓋を開けると、

「卯月君、顔色悪いよ、ちゃんとご飯食べてる?」

「適当にコンビニ弁当をコンビニのレンジでチンだ」

 逸人は智絵理の手作りのタマゴサンドに手を伸ばしかけたが、

「大丈夫なんだろうな?」

 智絵理にとって逸人はクラスメートだろうが、逸人にとって智絵理は初対面も同然だった。その初対面の相手が、自分の健康を気遣い、食事を与えてくれるなど考えられず、思わず確かめると、智絵理は気を悪くするどころかけらけらと笑い出し、

「こんな人混みで暗殺なんて出来るわけないじゃない。それより何より、わたしが卯月君を殺す理由なんてないよ。あ……このセリフは涙目で言う方が男の子は萌えるんだっけ?」

 バスケットの中からハムサンドをつまみ上げ、嫌みたっぷりに言いながら食べた。毒など入っていない、という意味だが、智絵理は怒った様子も見せず、

「卯月君、兄弟とかいるの?」

「二つ年下の妹で、誓恵(ちかえ)というのが、母親と本牧にいるはずだ」

「はずって?」

 妙な言い方に、智絵理が思わず逸人に聞き返すと、

「一か月前に俺は家出をして、戸部本町にアパートを借りているから実家のことは知らない。恐らく母親も妹も俺が戸部本町にいるとは知らないはずだ」

 無表情に智絵理の手作りのハムサンドを食べながら答えた。智絵理は、

「おとうさんは?」

 紙パックのオレンジ果汁百パーセントのジュースを逸人に渡して尋ねると、

「三年前に仕事中の事故で死んでいる。こういうの労働災害っていうらしいな」

 またも他人事のように無表情に言った。智絵理は予め知っていたのか、逸人の不幸に驚いた様子もなく、興味深そうに身を乗り出し、

「ねぇ、卯月君、帝国大学の法学部に現役で合格出来るほどのエリートなのに、わざわざ専門学校を選んだんだって? 何で?」

 興味津々に聞いた。智絵理が逸人に興味をもったのは、日本で最大の難関校を平然と蹴ったことにあるようだった。逸人はクラスの中では、講師としか必要最低限の会話しかせず、自分の噂がささやかれていたことを意外に感じた。

説明
ゴールデンウィークの横浜バラクライングリッシュガーデンに訪れた専門学校生、卯月(うづき)逸人(はやと)が出会ったのは……ゴールデンウィークネタのなのに、五月ももう中旬。相変わらず、旬を逃している小市民の新作です。当初の予定ですと、舞台は京都府宇治市の平等院の藤棚の下、ということでしたが、取材が面倒になり、東京都・亀戸の亀戸天満宮の藤棚の下に変更になり、それすらも面倒になり、横浜バラクラになりました。まあ、身近なところが舞台の方が、構成しやすかったです。
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横浜バラクライングリッシュガーデン 英国式庭園 デジタルイラスト制作 専門学校 デザインの現場 

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