義帝暗殺の真相を探る その4
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【班固による呉?擁護】

 さて楯身氏が述べる項羽による侵奪とは次の文のことを指す。これは漢帝国成立後の分封の際に記されている部分である。

 

「故衡山王呉?与子二人兄子一人従百粤之兵以佐諸侯誅暴秦有大功諸侯立以為王項羽侵奪之地謂之番君(故衡山王呉?、子二人兄の子一人と百粤の兵を従え、以て諸侯を佐け暴秦を誅す。大功有りて諸侯立てるるに以て王と為す。項羽之が地を侵奪し、之を番君と謂う)」(『漢書』高帝紀下)

 

確かに項羽が領地を侵奪したとあり、しかも故衡山王となっておりこの文章中だと呉?は以前衡山王だったものという扱いである。ここにおいて『史記』と『漢書』での呉?の扱いを比べてみたい。

 まず先にあるように漢帝国成立時の封建の場面での表記である。『史記』では「衡山王」だが『漢書』では「故衡山王」とある。興味深いのは韓王信はこれと全く逆で『史記』には「故韓王信」と書き『漢書』では「韓王信」と作っている。今ひとつは伝があることだ。上述したように『史記』には呉?を描く列伝がないが、『漢書』には韓彭英盧呉伝が存在する。呉?以外の四人は皆それぞれ『史記』にも列伝がある人物だ(韓信、彭越、英布、盧綰を指す)。

 何故にこのような相違が生まれているのであろうか。大木康氏の言葉を借りれば、『史記』と『漢書』の歴史叙述への意識の違いは

 

「「あるがままの歴史」から、あるべき姿に合わせて叙述される「あるべき歴史」への転換」4

 

である。つまり『漢書』の方が『史記』よりも漢王朝側にとってのあるべき視点から歴史を記しているのだ。このことが呉?に対する扱いを変えているように見受けられる。

 どういうことかというと、この呉?は異姓諸侯王として天寿を全うした。これは異例のことであり、異姓諸侯王は後に彼が封建された長沙国を除いて全て粛清され、劉氏一族が代わりに諸侯王として封ぜられてしまうのである。更には

 

「高祖末年非劉氏而王者若無功上所不置而侯者天下共誅之(高祖の末年、劉氏に非ずして王たる者、若しくは功無くして上の置かざる所にして侯たる者、天下共に之を誅す)」(史記』漢興以来諸侯王年表)

 

という約束が功臣たちとなされている。これは「白馬之盟」といわれるもので、つまり劉氏以外の王は認めないということだ。だがこの盟ができた後でも長沙国のみは例外として呉?の子孫が王になり、前157年に跡継ぎがいなくなるまで続いたという。加えて劉邦は呉?の死後文王と諡し、その忠節を律令に記しているのである。漢の建国自体に大きな功績は見られないが、このような、漢王朝の権威に忠であったという理由から呉?は『漢書』では伝を立てられたのではないだろうか。その証拠に韓彭英盧呉伝を見ても秦楚戦争以外での功績は何一つ書かれていないし、逆に謀叛を起こした臧荼は相変わらず伝が立てられていない。

 以上の点を踏まえるに、やはり筆者は呉?が衡山王であった状態からそのまま劉邦に降り、王位に就いた状態のまま長沙王に遷されたと考えるのである。その忠節を高祖から評価されたはずの呉?が元々従っていた項羽に寝返りを打ったことを書くのは忍びないので、項羽から領土を侵奪されたことにしたのではないかと考察する。

 そもそも項羽の侵奪は『史記』に記されておらず、『漢書』の中でもその時期が不明瞭であることは非常にひっかかる。秦楚之際月表にも衡山王に関する記事は他国まで調べても何も書かれておらず、項羽が侵奪した形跡は見られない。「項羽侵奪之地」を踏まえると封建時の「衡山王」という表記に「故」の字を加える必要があったので、この部分の表記には違いが見られるのであろう。

 韓王信については「故」がついてしまうと劉邦が一度楚の猛攻の前に?陽から逃げ出して、韓王信が捕らえられたことが浮き彫りになってしまうという点から除かれたのではないかと考える。この?陽からの脱出を見比べると、『史記』項羽本紀では「漢王逃」と書くが、高祖本紀では「漢王跳」と書く。『漢書』では高帝紀上においても項籍伝においても「跳」が使われている。

 

「つまり班固は『史記』「項羽本紀」にもとづいて『漢書』「項籍伝」を書いているのに、わざわざ「逃」を「跳」に直しているのである」。5

 

これはやはり劉邦が命からがら逃げ出す、というみっともないニュアンスをぼかすための措置と見られ、この韓王信の表記も同じ思考から「故」の文字が省かれたのだろう。

 こうして見てみれば、やはり『漢書』では「故衡山王」と書き直されたのも、班固による漢王朝視点での歴史改竄の一端ではないだろうか。つまり項羽による領地侵奪は捏造と推測する。このような理由から筆者は呉?が王への復位を目的に劉邦についていたのではないかという楯身氏の意見には反対である。「項羽侵奪之地」の表記を怪しむことと、封建の功績が秦楚戦争によるものであったことから、やはり呉?は臧荼と同様に、楚漢戦争時に王位を保ったまま劉邦による再分封に漕ぎ着けられたのではないかと考える。では次でいよいよ義帝暗殺の犯人をはっきりとさせようと思う。班固による呉?擁護が、このような表記の乱れを後世に残すことになったのである。

 

 

 

4)大木康 『『史記』と『漢書』』 岩波書店 2008年 p21

5)大木 p171

 

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項羽と劉邦 古代中国 楚漢戦争 秦楚戦争 

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