鉄獅子の軌跡 1章 一九三九年 六月
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一九三九年 六月

 

 

空は青く澄み渡り、雲もほとんどない好天に恵まれていた。

 

六月に入ったばかりだが日差しは強く、初夏とは思えない暑さだった。時折吹いてくる海風が心地よく感じる。

 

空を仰ぐ姫野樹少佐は、額から流れ落ちる汗を手で拭い、前方の海へと眼を向けた。

 

沖合いよりやってくる船は、近づくに連れて徐々にその姿を大きくさせていた。

 

それほど大きい船ではなかった。排水量はだいたい八〇〇トン未満といったところであろうか。

 

白い飛沫を上げて航行する船は、速度を落とす気配もなく、浜辺までの間の距離を縮めていく。

 

船底が砂地に接地しはじめたのか動きが鈍りだすが、それでもなお船は突き進み、波打ち際に達したところで

 

船体をつんのめるようにしてようやく動きを止めた。そのまま座礁した船は、何事もなかったかのように次の作業へと移る。

 

姫野樹少佐は停止した船の細部をまじまじと確認してみた。SB艇と称されるこの船は海軍の輸送艦を参考に作られたという

 

陸軍の戦車輸送船だった。民間用の船を改造して作られたため、船体の形や構造物の配置など外見は、

 

元となった海上トラックと呼ばれる小型貨物船とほとんど同じに見えた。ただ、船橋の脇や船首部に備え付けた

 

高射機関砲や迫撃砲といった武装からなんとか軍用船だと判別できた。

 

海軍の輸送艦と比べると大分小型だが、それでも重戦車級の車輌を四両ほど収容して運べる能力があると

 

設計者からは聞かされていた。

 

やがて船首部の扉が観音開きで開かれ、中から渡り板が下ろされた。

 

注意深く様子を見守っていると、甲板上に立つ船員が確認を済ませ、準備完了の合図を出す。程なくして浜辺の端に

 

待機していた戦車が発動機を一斉に始動させた。戦車の数は三両あった。どれもかなりの大きさを持つ重戦車だ。

 

その内の一両がゆっくりと動き出し、輸送船を目指して進んでゆく。

 

轟音を響かせる重戦車は安定した走りをみせ、排気口からガソリンエンジン特有の黒い煙を吐き出しながら

 

難なく渡り板を踏み輸送船の中へと乗り込む。最初の重戦車が船内に入るとすぐに二両目の重戦車が走り出し、

 

浜辺に残った履帯の跡を辿っていった。

 

「作業の様子はどうかね?」

 

後ろからの声に気付き姫野樹少佐が振り向くと、背後には上司である渡良瀬中佐の姿があった。

 

渡良瀬中佐はにこやかな表情で大尉のすぐそばに立っていた。それなのに大尉は全然気付けなかった。

 

どうやら作業の光景を眺める事に夢中になっていたらしい。姫野樹大尉が気まずさを感じて黙っていると、

 

渡良瀬中佐は笑いながらいった。

 

「いやいや、気にする事はないよ。あんまり熱心に見ているものだから、邪魔をしては悪いと思ってね。

 

それで作業は進んでいるのかな?」

 

「はい、見ての通り九九式重戦車の搭載作業はうまく終わりそうです。最初見た時は、海軍の輸送艦に比べて

 

随分小柄で頼りない船だと思いましたが、意外と使えそうですよ。あのSB艇という船は」

 

姫野樹少佐がそう返答すると、渡良瀬中佐は満足そうに頷き、細目で作業光景を見やった。

 

「そうか、それは何よりだ。しかしこうして見ると、陸軍も随分と変わったものだな……日華事変が終わった頃は、

 

こうなるとは思いもしなかったよ」

 

―――あれから一年半経ったのか……

 

渡良瀬中佐の言葉を聞き、姫野樹少佐は記憶を呼び起こした。

 

二年前の昭和十二年七月、北京郊外の盧溝橋で起きた銃撃事件は、日本と中国の全面衝突にまで発展した。

 

きっかけは夜間演習中の支邦駐屯軍部隊に向かって、何者かが発砲した事からだった。

 

事件の経緯には未だに不鮮明な部分が多く、中国共産党の謀略ともいわれている。

 

だが関東軍や参謀本部の強硬派は、これを好機とばかりに政府の不拡大方針に反して、

 

派兵を行い華北全域を制圧するべきと声を強め、陸軍は引きずられる形で内地の数個師団の派遣に踏み切ってしまう。

 

ところが短期間で戦闘は終結するという強硬派の予測に反して、戦況は思うように進展しなかった。

 

ドイツやソ連、アメリカといった国々の支援を受けていた中国軍は、以前とは比べ物にならないほどの充実した装備と、

 

錬度を向上させていたのだ。そのため華北へ侵攻した北支邦方面軍は、優秀な中国軍部隊を相手に各地で苦戦を続け、

 

一部の戦線では後退を余儀なくされた。

 

丁度その頃、姫野樹大尉も完成したばかりの試製九七式重戦車と共に大陸へと渡っていた。

 

そこで独立混成第一旅団に配属された大尉と試作重戦車は、元々運用試験が目的だったにも関わらず

 

北支邦方面軍の反撃作戦の一翼を担い、石家荘郊外の戦闘で国民党軍第二〇〇師団や、

 

ロンメル旅団と呼ばれたドイツ義勇兵装甲旅団の戦車部隊相手に戦いを繰り広げてこれを退け、

 

その後の済南へと至る追撃戦でも、退却する中国軍部隊に大打撃を与える活躍を見せた。

 

この間に二両の重戦車が撃破した敵車輌の数は一〇〇両以上にも達した。

 

中国軍との戦闘は翌年に入っても続き、長期化の兆しを見せ始める中、一月十七日、宇垣首相の声明により停戦を迎えた。

 

こうして日華事変と呼ばれる半年に及んだ戦争は終結したが、陸軍が受けた衝撃は大きかった。

 

国民党政府との和平締結後、陸軍は占領地からの撤退を早々に完了すると、大規模な粛軍を断行し、

 

事変拡大に積極的に加担したと見なされる者を予備役か閉職へと追いやると共に、大規模な軍備の改革を始めた。

 

参謀本部第一部長である石原莞爾少将の主導の下、日華事変の戦闘で得られた数多くの戦訓を元に、

 

戦車師団の創設や航空戦力の拡充等がなされ、また対戦車装備や装甲車輌の開発も急速に推し進められていった。

 

内地に戻った姫野樹大尉も試作重戦車の有効性を認められて、新たな重戦車の開発に従事し、完成させたのが、

 

目の前にある九九式重戦車だった。

 

姫野樹大尉が以前より温めていた草案に加え、実戦における試製九七式重戦車の問題点の改善を取り入れた九九式重戦車は、

 

連日連夜の突貫作業で短期間の内に完成して、一定の成果を収めるとすぐさま生産を開始した。

 

今回のSS艇への収容作業も、そうした重戦車の部隊配備も兼ねた緊急移送試験でもあった。

 

気がつくと、重戦車の収容作業は終わろうとしていた。重戦車を含む全ての車両がSS艇の中に乗り入れ、

 

SS艇は離床準備に入ろうとしている。搬入扉が閉じられて船体の後方が白く波立ち始めた。

 

「さて、これで戦車第一師団への配備は予定通り済ませそうだな。まず送れるのは増加試作車三両、

 

一個小隊分だけだが、来月には量産車も完成する。すぐに送るからそれまではこれで色々試してみてくれ。

 

後、他の車輌も完成次第、順次そちらに配属する」

 

「了解しました」

 

「まあ今回は日華事変の時みたいに前線に投入される事もないだろう。公主嶺に着いたら気楽に記録をとってきてくれたまえ。

 

まさか匪賊の討伐や国境の小競り合いに、戦車を駆り出す事もしないだろうからね」

 

そういって愉快な表情をする渡良瀬中佐は、鷹揚に笑いながら歩き始めた。

 

姫野樹少佐は戸惑いつつも、すぐさま渡良瀬中佐の後を追う。

 

作業が完了した後も姫野樹少佐の仕事は続いた。

 

SS艇や重戦車の乗組員達と演習の内容について話し合わなければならなかったし、

 

降車する際の作業についても打ち合わせておかないといけない。まだまだやるべき事は多く残っていた。

 

 

手に持っていた書類を読み終えて胤田少佐は一息ついた。

 

気がつくとすでに日も暮れるような時間となっており、部屋の中にはもう誰もいなくなっていた。

 

胤田少佐は書類を机の上に置き、背筋を大きく伸ばして疲れた体をほぐしそのまま椅子によりかかる。

 

そして目を閉じて、書類に書かれた内容を思い返す。

 

先の満州とモンゴルの国境付近で発生した紛争における日本軍の被害は、あまりに惨憺たるものだった。

 

事の始まりは先月の上旬、国境線となるハルハ河を越えてきたモンゴル軍の騎兵数十騎と、

 

警備中の満州国軍部隊との間に起きた戦闘からだ。僅かな期間の内に戦闘は拡大し、

 

モンゴル軍は再びハルハ河東岸に進出し、部隊の展開をはじめた。

 

この状況に、警備を担当する第二十三師団は、師団捜索隊と六四連隊の一部部隊を出動させて

 

事態の収拾を図ろうとしたが、モンゴル軍とそれを支援するソ連軍は、日本軍の数倍に及ぶ兵力と

 

火砲を展開しており、日本軍側の連絡の不手際も相まって、師団捜索隊の全滅という結果に終わる。

 

報告では、敵陣地に突入した師団捜索隊は健闘したとされるも、日本側西岸からの砲撃と戦車や装甲車を含む

 

機械化部隊などを中心とする多数の敵部隊に包囲されて退路を立たれ、衆寡敵せず最後はなすすべもなく

 

やられていったようである。報告からはそう見て取れた。

 

こうなった原因は日本軍側にもあった。情報分析の甘さによる敵の過小評価に加え、部隊間の連絡に不備を残したまま

 

攻勢を仕掛けていたのだ。無論、その責任は胤田少佐の所属する関東軍作戦課にもある。

 

幸いにも師団捜索隊の遺体収容後、モンゴル軍とソ連軍の両軍が西岸へと撤退していったため、

 

事態はなし崩しに沈静化したが、もしあのまま戦闘が続いていれば、犠牲はさらに増えていたであろう。

 

―――しかし本当にこれで紛争は終わったのだろうか?

 

胤田少佐が懸念しているのはその点だった。

 

関東軍司令部はモンゴル軍の撤収で、今回の紛争は収束したと結論付けていたが、

 

少佐はその言葉にいまひとつ納得できなかった。

 

先の戦闘で終始優勢だったモンゴル、ソ連軍が素直に退いたというのも腑に落ちない部分が多い。

 

そもそも紛争の原因は国境線が非常に曖昧だったことだ。元々ノモンハンの地域は、

 

砂地と草原が広がるだけで国境の目印となる物は何もない。満州の建国以来、満蒙の国境線も明確にされないままでいた。

 

現在のハルハ河に沿った国境線が定められたのも、二年前に突如関東軍がそう主張しはじめたからだ。

 

その根拠というのも、大正時代に入手していたソ連製の地図にそう記されていたからというだけに過ぎない。

 

一方でモンゴル側は、それ以前よりハルハ河の東岸、十数キロの地点を国境線として主張していた。

 

現在の国境線を設定する以前に満州国外交部が行った調査でも、モンゴルの主張する国境線が確認されている。

 

そうした経緯があるだけに、ここ一年、二年の間は小規模な衝突が増加の一方を辿っていた。

 

モンゴル側からすれば、満州国軍と日本軍の方が勝手に国境線を改竄し、自国の領土を不法占拠

 

している侵入者という解釈になるだろう。そして今回の様子を見た限り、モンゴル軍はソ連の介入も

 

手伝い本腰を入れてかかってきているように思えた。おそらく後退は一時的なもので、

 

体勢を立て直してまた侵攻してくるのではないか。

 

実際にその兆候はみられた。特務機関筋からの情報ではソ連軍は相当数の人員と物資を

 

モンゴルに送り込んでいるらしい。詳しい数は不明とはいえ、前回を上回る戦力を集結させていることは想像に容易い。

 

―――もし再度進出してきた場合、二十三師団と満州国軍だけで対処するのは無理だろう。

 

そう考えながら胤田少佐は手で頭をかき乱した。

 

ノモンハン方面の防備を担当する二十三師団は、北満州の警備任務を主体として日華事変以降に

 

急遽増設された師団の一つだ。師団は臨時編成で組まれているため、平時編成の師団に比べ連隊の数も少なく、

 

装備も旧式の物を占めている。しかも創設されてからの期間もそれほど長くないので、

 

師団長を始めとする司令部と各部隊間による連帯感も希薄だ。

 

本来ならばノモンハン方面の警備には、優良師団である第八師団を充てるはずだったのだが、

 

自動車化師団への改変が遅延したために、二十三師団が回さざるを得なかった事情があった。

 

満州国軍に関しても、装備と錬度の差は日本軍よりもさらに劣る。もし再びソ蒙軍が攻勢に出てくれば、

 

こちらもさらなる部隊を投入しなければ対処しきれないだろう。

 

だがそれによって戦闘が拡大するのはできるだけ避けたかった。下手をすればソ連との全面戦争に発展する

 

可能性もあるのだ。第一参謀本部の指示もなく、関東軍がこれ以上勝手に部隊を動かすわけにはいかない。

 

ただでさえ先月の独断専行で、参謀本部は神経質になっている。

 

どの道、胤田少佐にはどうする事もできなかった。今できるのは作戦課長にそれとなく提言するくらいだろう。

 

胤田少佐はそこで思考を止め、椅子から起き上がり窓の方を見る。外はすっかり暗くなっていた。

 

いい加減帰る準備をした方がよさそうだ。

 

書類を机の引き出しの中にしまうと、少佐は鞄を手に取りドアへ向かった。部屋から出る前にもう一度机の方を見る。

 

―――杞憂に終わればいいのだが……

 

内心に不安を抱えたまま胤田少佐は部屋を後にする。

 

だが数日後、少佐の願いに反して予想は悪い方向へ的中する。

 

関東軍司令部に入った緊急電報は、ノモンハン一帯がソ連軍機による空襲を受けた事を告げていた。

説明
遅くなりましたが一話全編の投稿完了しました。
序章に続いて説明文ばかりになってしまった感があります。
描写的に物足りない部分が多いので、もっと精進したいです。
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