17本目のロウソク
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 真っ白な病院の中で一人のお婆さんが、ケーキの上に立った蝋燭に火を点けていた。その側には一人の看護婦が付き添っている。暫くして全ての、17本の蝋燭に火が点く事を確認すると、お婆さんはその鈴の鳴るような、少し高いソプラノのとても小さな声で、静かに歌い始めた。

 

ハッピーバースデー、トゥーユー。ハッピバースデー、トゥーユー。ハッピーバースデー…ディア、寿彦。ハッピーバースデー、トゥーユー…

 

 側に立っている看護婦はただそれを見ている。透き通ったような大きな瞳で。

 歌い終わって、お婆さんが「寿彦、17歳の誕生日おめでとう」と言うと、ゆっくりとその看護婦の方を見て話し掛けた。

 

「私の所に来るのは、初めてでしょう?」

 

 そう言われて、つい最近この病院に来た、新米看護婦の勝林来姫(かつばやし らいひめ)は、彼女もまた、ゆっくりと口を開いた。

 

「噂は聞いていました。ここの病院に居るお婆さんが、毎年とある人の誕生日を祝っているという話は」

「そう……」

「寿彦さんって、誰なんですか? 息子さんですか?」

 

 そう聞くと、寝たきりになっているお婆さんは黙ってしまった。来姫は「あ、まずったかな」と思ったが、あえて何も言わない事にした。

 もう夜の12時を過ぎていて、通常ならもう消灯の時間だ。だが、このお婆さんの話を来姫は少し聞いていたいと思った。なので、今日は夜の見回りを他の人に任せて、この誕生祝いをただ見ていた。

 暫くすると、お婆さんはまたゆっくりと口を開いた。

 

「あなた、私がこれから話す話を信じられるかしら?」

 

 来姫は少し考えてから、こう言った。

 

「私が信じられるような話であれば、信じたいと思います」

 

 病院の時計が十二時半を刻んだ音が聞こえた。来姫はそのお婆さんに言われて、その個室の電気を消した。それから、そのお婆さんのベッドの隣に置いてある椅子に腰掛けた。

 

「それじゃあ、話す事にしましょう」

 

 それから、お婆さんは話し始める事になる。この小さな物語の、小さな一部の話を。来姫は注意深く耳を傾けた。

 

「私が幽霊を見た、と言ったら疑うかもしれないんだけど」

 

 ベッドに寝ていたお婆さんは、随分若く感じられるその声で、これまたゆっくりと話し始めた。

 お婆さんが付けていた、妙によく似合う林檎のアクセサリーのついたヘアゴムが、ろうそくの明かりに照らされて、ほんの一瞬だったが、光った。

 

〜17本目のロウソク〜

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 学校からの帰り道の途中で、高校生の二人組が、なにやら騒々しく喚き立てるように、話し合っていた。

 片方は女子で、染めた茶色いセミロングの髪に白いワイシャツ、緑のベストで、制服のブレザーの下のスカートは紺色。マンガのように右だけ異常に長いモミアゲを、林檎の形をしたアクセサリーのついたヘアゴムで縛っている。女子高生にしては珍しく、その通学カバンには流行りのマスコット等の類のものは何もついていない。

 もう片方は男子で、透き通るような金髪に染めた髪の毛を若者っぽく、中途半端に立たせている。学校帰りだからなのか、彼もまた、白いワイシャツに灰色のズボンと、単調な服装をしている。耳につけた沢山のピアスが、彼が真面目な高校生ではないことを物語っている。

 

「ねぇ、新しい曲まだ出来ないの?」

 

 不満気にそう言った女の子――栗平 華音(くりひら かのん)は、彼――新橋 寿彦(しんばし としひこ)の方を見た。

 

「文句言うなって。いつまで経っても詩が浮かんでこねーんだよ」

 

 困ったように寿彦は華音を見た。

 木々が紅葉して、より一層秋の風格を表していた。行き掛けは地獄と言える程のきつい坂も、帰り道はそれほどきつい訳では無くて、道の双方に立ったいちょうの木が、帰りがけの二人を見下ろしていた。

 

「でも、今日中に歌詞は作っちゃわないと……大変だよ」

「分かってるって。ちょっと黙ってろよ、もう……」

 

 まるで喧嘩をするように言い合っているうちに、二人が一緒に帰れる道は終わってしまった。華音と寿彦は横断歩道で別れを交わし、別々の道を行く。

 真っ赤に染まった太陽が、紅の紅葉の葉をさらに赤く染め上げていた。寿彦は、それを暫く見上げてから――溜息を吐いた。もうすぐ自分の誕生日だというのに、こんな大変な事を任されているなんて……

 

 誕生日?

 

 ふいに、寿彦の足が歩行をやめ、その場に立ち止まった。

 

「誕生日……」

 

 そして、また寿彦の足は、今度はさっきよりもいくらか早足で家へと向かっていった。

 

「そうだ、誕生日……それがいい」

 

 寿彦は、何も見えなくなっていた。それは、新しい曲を作るのに必要な材料が集まった事による感動からだ。

 真っ赤に染まった太陽はますます赤く、夕焼けとして空を染めていく。恐らくそれが原因では無かったのだろうが、寿彦が今まさに立っている場所は危険だということに気が付くのが、これほど遅れた原因は一体何だったのだろう。

 

「これは、華音に捧げる歌だな」

 

 紅に染まった大地の上で一人そんなことを呟きながら、寿彦は考えていた。思えば、自分が誕生日を祝って貰えるようになったのは、華音に会ってからだった。華音に会ってからは、彼女が毎年祝ってくれるようになっていた。両親は、一度だって祝ってくれたことはないのに。

 だから、寿彦は誕生日を祝って貰えることがとても嬉しいものだということを、人一倍知っていた。

 

「『君に出会えた奇跡が、歌になって蘇る』……とかかな」

 

 そう言いかけた所で、ようやく自分が立っている場所に気が付いた。

 そこは横断歩道だった。隣はそれなりに背の高いビルで、曲がり角になっていて、車が飛び出す危険のある――何度もここで交通事故が起こっているので、寿彦も気を付けて渡るようにしている横断歩道だった。そして今自分が居るのはその横断歩道の上で、丁度今は赤信号だった。角から飛び出す車の音でようやく気が付いた寿彦には、その飛び出した車を避ける術を持っていなかった。

 

 瞬間、とても大きな音がした。

 

 その一線を越えた後は、寿彦の血と信号の赤を太陽が示すかのように、赤く照らしていた。

 

「うわっ! 何だ?」

「何で赤信号なのに人が居るんだよ!」

「救急車――」

 

 寿彦の意識は、そこで途切れた。

 

……

………

 

 ハッピーバースデー、トゥーユー。ハッピーバースデー、トゥーユー。

 

 最初に歌ってもらったのは家族ではなくて、親戚の人だった。

 

 「寿彦君、誕生日おめでとう!」

 

 そう言われても、嬉しくなかった。

 

 だって、俺は――

 

 一つずつ、ちゃんと毎年、ろうそくが立っていって欲しかった。

 

 甘いバースデーケーキの香りも、みんながくれる誕生日プレゼントも、全部いらないから。

 

 ただ、仕事に行っている親父とお袋に、誕生日を祝って欲しかった。

 

 そうしたら……俺を生んでくれた親父とお袋に、

 

 

 生きている価値を認めてもらえるって、きっとそう実感出来るから。

 

 

「寿彦!」

 

 ふいに夢から現実に引き戻され、寿彦は目を大きく見開いた。

 澄んだ朝の空気と、華音の顔がそこにはあった。

 

「おはよ」

「……おはよう」

 

 ゆっくりと、上体を起こす。華音が隣に居ることに違和感を感じて辺りを見回すと、寿彦の自宅の――ドアの前だった。寿彦は暫く、その光景を訳も分からずに眺めていたが……華音がそこに居るのを思い出して、顔だけ華音の方に向けた。

 

「……なんで、こんなとこに居るんだ?」

「私が聞きたいよ。寿彦、ずっと家の前で寝てたんだよ?」

「寝てた?」

「そう。来てみたら寝てるから、びっくりしちゃったよ」

 

 ……確かに、寿彦が今居るのは自宅のドアの前だ。だが自分は一体、何処で何をしていたのだろうか? 全く思い出せない。欠けた記憶は一向に戻る様子がなく、寿彦は溜め息をついた。

 

「……親父とお袋は中に居るのか?」

「分かんない。でも、家の中からは音はしないよ」

「じゃあどっか出かけてるのか……」

「うーん、分からないけど……それはそうと、今日は日曜日だよ?」

「日曜日?」

「うん」

「……じゃあ何でお前はここに居るんだ?」

「だから、昨日の続きで歌を作ろうと思って来たんだってば」

「そうなのか」

 

 ドアの前にいつまでも座っているのも、何だか不思議な感じがする。寿彦は立ち上がって、今度は体ごと華音に向けた。

 

「今日は何も予定無いよね?」

「あぁ」

「じゃあ、うちに招待するよ」

「華音の家?」

「うん。来た事無いでしょ?」

「……まぁ、いいけど」

 

 状況がよく飲み込めていないまま、寿彦は華音と共に歩き出した。全く何が起こっているのか、寿彦には見当もつかなかった。

 太陽が昇り始めて澄んだ朝の空気が少しずつその影を潜めていった時、二人は華音の家に着いた。家に着いて華音の部屋に入ると、華音は真っ先に寿彦に尋ねた。

 

「それで、完成したの?」

「……何が?」

「歌よ、歌。ってゆーか歌詞。ずっと考えてたんでしょ?」

「……あぁ、そうか。そういえばそんな予定だったんだっけ」

「しっかりしてよもう……それで、どうなったの?」

「おぅ、もちろんちゃんと考えてたよ。書き起こそうと思ってたんだけど……」

「いいよ、今言ってくれれば」

「そうだな。歌詞と同時にもうメロディーも考えてあるんだ」

「マジで? すごいじゃん!」

「まぁ、聞けよ。いくぞ――」

 

 寿彦の最新作、その曲は、寿彦のありのままの歌だった。

 一人ぼっちの、寂しい誕生日。そこに君が現れ、共に祝ってくれる……どんな言葉に表しても、その全ては表現出来ない、嬉しさと感動。孤独から救ってくれる愛おしさ。そんな寿彦の思いを、ありのままに、感じたままに告げる、歌。

 

「――すごいね」

 

 全てを聞き終えた時、華音は素直に、そう言っていた。

 

「これ、もしちゃんと作れたら、結構良い歌になると思うんだ」

「うん……すごいね、これ一人で考えたの?」

「あぁ、昨日の帰り道に――最初の方だけ」

「へぇ……」

「こんなもんで良かったか?」

「全然大丈夫だよ! じゃあ早速、始めよ」

「そうだな」

 

 華音はそう言いながら、パソコンの電源を入れた。

 

「ここって、半音上がるんだよね?」

「そう。そこが結構ポイントだから、アレンジよろしく」

「任せてよ!」

 

 色々な会話をしながら、歌が着実に組み上がっていく。日が落ちかけた所で、二人の作業は終了した。気が付くと、華音も寿彦もずっと作業しっぱなしだったために、疲れてヘトヘトになっていた。

 

「……んじゃあこれを後は私が、なんとかすればいい訳ね」

「あぁ、よろしく頼むよ……俺がなんとか出来れば良かったんだけど」

「仕方無いよ、楽譜がちゃんと読めないんじゃ」

「俺は歌えればいいからな」

「知識は必要だと思うよ?」

「大丈夫、歌う事に関してだけはちゃんと色々調べてるから」

「楽譜が読めないミュージシャンなんて……」

「結構居たみたいじゃないか! 大体こんなおたまじゃくしを共通の単位にする事自体なんか間違ってるんだよ!」

「まぁいいけどねぇ……」

「……ん? そういえば日が落ちて来たかな……うわ、やべー」

 

 寿彦が気が付く頃には既に時計は7時を廻っていた。ついさっきまで明るかったのに、と華音がこぼすと、寿彦は全くだ、という風に頷いた。

 暫くして、華音が切り出した。

 

「ねぇ……今日は、泊まっていかない?」

「……え?」

「今日、うち誰も帰って来ないからさ……なんか、寂しくて」

「いや、流石にまずいだろ……俺、一応男なんだからな?」

「いや、その辺はちゃんと信頼してるし。っていうかね、今日親戚のお葬式なんだよ」

「葬式……? 誰の?」

「私はよく知らないんだけど……」

 

 そう言う華音は所々言葉に詰まっていた。

 

「お前は行かなくて良かったのか?」

「うん……私は、行く必要無いから」

「ふーん?」

「ね、今日は……いいでしょ?」

「いや、俺もそろそろお袋が電話する頃だと思うからさ……携帯忘れちまったから」

「うー……」

「それじゃ、帰るぞ」

「あっ、待って!」

「何だよ」

 

 華音のしつこい引き止めに、寿彦は段々とイライラしてきた。声は徐々に荒っぽくなり、息は上がっていった。何時の間にか完全に夜は来て、太陽は落ち切った。

 残暑も終わり、これから冬になろうとしている秋の面影が、その『秋の日はつるべ落とし』と言わんばかりの夕方の短さを物語っていた。

 寿彦の怒りを察知したのか、華音は一瞬ビクっと震えた。……そして、そのままの状態で「……ううん、引き止めてごめん」と、そう呟いた。華音の気の落とし具合を見て、少し罪悪感を感じた寿彦は言った。

 

「……あのさ、流石に俺もずっと女の部屋に居る訳に行かないんだ。噂とか立てられたら厄介だし……だから、ごめん」

 

 それから、暫くの沈黙。お互いに全く喋る事が出来なくなった。数十秒の沈黙の末、先に言葉を切り出したのは寿彦だった。

 

「……それじゃ、俺、帰るわ。……ごめんな、本当に」

「あ、ううん! 無理して引き止めた私が悪いんだわ。私こそ、ごめん」

 

 捲くし立てるように喋る華音に、ますます寿彦は居心地が悪くなった。仕方なしに寿彦はぶっきらぼうに一言告げて、いつものように帰ろうとする。

 

「……それじゃ」

「あ、うん」

 

 玄関先まで見送ると、寿彦は少し心配そうにドアをゆっくりと閉めた。それが華音に対するささやかな配慮であることは、彼女も分かっていた。

 だが当の華音は、それとはまた違った不安を抱えて、寿彦の姿が見えなくなっても、ただそのドアを見詰めていた。それしか、彼女には出来なかったのだ。

 

 暫くして、寿彦は自分の家に着いた。寿彦もやはり、少し華音の様子がおかしかった事に心配をしていたのだろう。

 

「……ごめんな」

 

 一人小声で呟くと、寿彦は家の中に入った。だが、家には誰も居なかった。静寂が辺りに響いて、寿彦は疑問に思った。そういえば、朝も家の中から音がしないと華音は言っていなかったか?

 

「親父ー? お袋ー?」

 

 返事は無い。おそらく何処かに出かけているのだろう。何所に行っているのかはあえて考えないようにして、さっさと寝る事にした。自分の部屋に入ってベッドに倒れこむと、そのまま眠ってしまっていた。

 寿彦はまだ気付かなかった。自分がシャワーも浴びず、飯を食べる事も忘れて眠っていたことに。

 朝方、寿彦は両親が帰ってくるドアの音で目が覚めた。太陽はまだ登り始めた頃で、鳥達の歓喜のさえずりで寿彦は朝だという事を自覚した。そして朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで――吐く。その時に、窓が開いている事に気付く。

 暫くして、状況確認。親が帰って来ている。気付くなり、寿彦は一階のリビングへと降りてゆく。するとそこには、黒と白の服を来た両親が居た。

 

「おかえり……」

 

 そんな寿彦の言葉も気にかけず、母親はずっとリビングのソファーで泣いている。恐らく、葬式に行ってきたのだろう。いつも仏頂面の父親が、頑張って母親を慰めていた。

 

「……」

 

 それを見て寿彦は言葉を無くし、ただ二人の様子を見ていた。だが一向に何かが変わる気配は無く、朝の登り始めていた太陽がすっかり昇りきって時計が八時を刻むまで、寿彦は訳も分からずそこに佇んでいた。暫くして、学校に行く時間だと気付く。寿彦はそのまま行こうとして――振り返ると、

 

「俺、学校行くから」

 

 小声でそう伝え、家を後にした。

 

 登校途中も、ずっと寿彦は両親の事を考えていた。二人は一体誰の葬式に行ってきたのだろう。あれだけ泣く程ということは、とても惜しい人を無くしたのだろう。

 

「俺は……」

 

 そう言って、立ち止まる。寿彦がもし死んだら、両親はあのように泣いてくれるだろうか、と――。そう思いついた頭を、二、三回振ってから、

 

「……こんなこと考える意味なんてないよな」

 

 そう自分に言い聞かせ、声にまで出して何も考えないように注意しながら、学校へと向かったのだった。

 学校に行くと、寿彦は不気味な感覚に襲われた。いつもの爽やかな朝の感覚では無かった。クラスメイト達は、皆重い足取りで、どことなく寂しい空気を漂わせていた。寿彦が扉を開けると、全員がこっちを向いたが、すぐに各々の元の位置に視線を戻した。そして、寿彦は――自分の机の上にある、奇妙なものを発見する。

 

「……おい、これ何?」

 

 寿彦の机の上に置いてあるのは花瓶だった。寿彦が問い掛けるも、誰も何も言わない。

 

「……おい、これ、誰かの? 教室に飾るんならさっさとどけてくれ。邪魔だ」

 

 その言葉に、誰も――誰一人、目を向けようともしない。

 

「おいコラ、無視すんなー……」

 

 寿彦がそう言っても、まるで何事も無かったかのような顔をして、目の前を通り過ぎる。何度か声をかけてみたが、相当な至近距離だというのに寿彦の方を見てはくれなかった。寿彦は、段々とイライラしてきた。

 

「なぁ、冗談抜きでさ。これ、誰の?」

 

 何故、自分はこんなにも無視をされているのだろう。理不尽だ――そんな事ばかりが、頭に血が昇った寿彦の脳裏によぎる。そして、その事しか考えられなくなっていくと……感情が、高ぶってしまう。

 

「無視すんなって言ってんじゃん」

 

 誰一人、自分に目を向けようともしない。寿彦は怒って、花瓶を思いっきり下に投げ付けて、割った。教室にガラスの割れる音が木霊する。

 

「う、うわああぁ!」

「何? 今、誰か花瓶割った?」

「違う、花瓶が勝手に落ちて割れた!」

 

 騒ぎ立てるクラスの面々。その台詞を聞いて、完全に嫌がらせだと判断した寿彦は、より一層声を荒げた。

 

「おいてめーら、ふざけてんじゃねーぞ!? 一体何のつもりだ!」

 

 だがその声は、クラスの人々には届かない。

 

「ひょっとして、寿彦の霊が帰って来たんじゃねぇの?」

 

 その一言で、

 

 

 完全に、キレた。

 

「――お前等、覚えとけよ!!」

 

 そう言い残し、寿彦は勢いよくドアを開けて教室を後にした。一人を除いて、寿彦の声は……やはり、誰にも届かなかった。

 その光景をずっと見ていた、栗平華音を除いて。

 

 結局、寿彦はその日、一日中屋上に居た。何もすることは無く、かつ教室には行く気になれず、ただ屋上で太陽が登り、頂点に達してまた落ちて行く様や、鳥の羽ばたいている様子や、風の音色等を聞いて過ごした。その間もずっと寿彦は、クラスの連中の事を考えていた。

 寿彦の知る限りでは、寿彦のクラスはあんなくだらない事はしない筈だ。まして、クラス総出で無視し出すなんて――寿彦は、何かしただろうか。……覚えが無い。それなら、グループから阻害されたりしただろうか。――グループなんて、作って無い。

 結局訳が分からないまま、寿彦は部活の時間になって、いつもの軽音部へと足を運んだのだった。

 

 軽音部の部室のドアの前には、華音が立っていた。

 

「華音。もう部活、始まってんの?」

「ううん、今日は休みみたい」

「何で? ……今日、月曜日だよな? あるだろ、部活」

「……」

 

 そのおかしな華音の態度に寿彦は怒りを忘れ、少し不安に狩られた声で、言った。

 

「何かおかしいんだよ、クラスの奴も……みんなで、俺のこと無視するし」

「うん……」

「俺、何かしたかなぁ?」

「してないよ」

「中、入ってもいいか?」

 

 寿彦は、まだどうしてこんな事態に陥っているか分からず、だがこれから起こるであろう事を何とはなしに推測していた。それが分かっていて中に入るからなのか、華音は「うん」と頷くと、部室のドアを開けた。

 そこには、当然いつものバンドのメンバーが居た。だが、寿彦抜きで既に練習が始まっている。ボーカルは寿彦の筈だが、ギターをやっていた友達がボーカルもやっていた。そして、そこでバンド仲間が歌っていたのは――寿彦の、新作。

 

「なぁ、何で俺の歌を知ってるんだ?」

 

 その声は、やはり誰にも届かない。寿彦は怒らず、その曲が終わるのを待っていた。曲が終わると、バンド仲間は話し出した。……華音の隣に居る、寿彦に気付かずに。

 

「今、途中でメロディー、半音ズレたよな?」

「あぁ。それでそこから先全部狂っちまった」

「しっかりしろよ! 寿彦のためにも、俺達が頑張らないといけないんだから!」

 

 寿彦のためにも。

 

 さっぱり、意味が分からなかった。寿彦の作った歌を、寿彦抜きで完成させる事に何か意味があるのだろうか。

 何かがいい加減におかしいと思った寿彦は、華音の方を見た。華音は無言で頷くと、

 

「みんな! 私、今日はもう抜けるね」

「おう! お疲れ!」

「大丈夫か? 体調悪いんじゃ……」

「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだから。それじゃね」

 

 そう言うと、寿彦と共に学校を離れた。

 華音の家に着く頃には、夕暮れの明かりが部屋を照らしていた。部屋に入ると、寿彦は真っ先に華音に尋ねてきた。

 

「なぁ、何で皆俺に気が付かないんだ?」

「うん……」

「俺、どうにかなっちまったのかなぁ?」

「寿彦は、どうもなってないよ」

「じゃあ、何で……」

「……」

 

 それっきり、華音は黙ってしまった。寿彦は、華音が何か隠しているのが分かっていたが、あえて聞かなかった。

 

「あの歌、お前が教えたんだよな」

「うん」

「俺、ちゃんと書けてたかな」

「すごくよく、書けてると思う」

「だったらいいんだけど――」

「俺さ、誕生日、好きだから」

「うん」

「昔は、嫌いだったから」

「うん……」

 

 寿彦の言っている事は、第三者の目から捉えればよく分からないものだっただろう。だが、華音はその寿彦の言葉が、自分への感謝の気持ちであることが分かっていたので、何も言わずに頷いた。

 

「……全く。明日は、その誕生日だってのにな」

 

 寿彦はそう、苦笑いを浮かべながら言った。

 

「明日になったら、また誕生日会やろうね」

 

 華音はそう、含みのある笑顔で言った。

 寿彦は、溜息をついた。こんな中でも、華音だけは自分のことが分かっている。自分は一人じゃない。そう考えると、まだよく分からないこの状況の中でも、少しだけ不安が消えたからかもしれない。

 

「――こんなとき」

「ん?」

 

 寿彦は、その後の言葉に少し間を置いた。寿彦は、華音に伝えたいメッセージを頭の中で一つ一つ積み上げて確認してから、ようやく次の言葉を口にした。

 

「こんなとき、思うんだ」

「……何を?」

「俺って、生きてる価値、あるのかなぁ、って」

 

 言葉の一つ一つが区切られている。寿彦には、少し重い言葉なのだろう。華音はその言葉を聞き漏らさないようにして、寿彦の声に耳を傾けた。

 

「俺さ、誕生日をずっと、華音に会うまで、祝って貰った事、無かったんだよな」

「うん」

「親戚の人には祝ってもらってたけど。結局、両親にはまだ一度も祝って貰ってない」

 

 言いたい言葉はなかなか上手くまとまらないが、それを一つ一つ区切って丁寧に喋れば、ちゃんと喋る事が出来る。寿彦はそれを実践しながら、自分もそのことを考えていた。

 

「俺さ、一度だけ、聞いた事があるんだ」

「……何?」

「俺って、望まれて生まれた子供じゃないんだって。親父もお袋も生活が苦しいから、本当はもっと後の予定だったらしいんだ。それが偶然で出来ちゃったって」

「……そうなんだ?」

「そうらしい。それでも俺を生んでくれて、育ててくれた。すごく感謝してるんだけど……」

「うん」

 

 寿彦は、今までずっと誰にも話した事の無かった話を、華音にした。俯いた元気の無い、いつもの寿彦らしくない声で。

 

「俺は――別に裕福じゃなくてもいいから、もう少し親父とお袋に、笑っていて欲しかった」

「……うん」

「寂しかったんだ。いつも、家のドアを開けた先に、誰も居ないって分かってるのが。親父とお袋はいっつもてんやわんやで、俺を育てるために、俺を突き放してた」

 

 名前を呼んでも、誰も居ない。

 

「だから二人共いっつも疲れてて、御飯も別々で……俺はこんなワガママ言ったらいけないのかもしれないけど、やっぱり寂しかった」

 

 その苦しさを知っている。だから、周りに誰も居ない孤独を、いつだって寿彦は教えてくれた。口にこそ出さなかったが、態度がそう物語っていた。

 

「友達には……普通の友達には、言えなかった。あいつらは良い奴ばっかだけど……でもあいつらは、学校と部活からクタクタで帰って来て、ほかほかの晩御飯がある筈のテーブルに一万円札と置手紙があって、『晩飯は出前を頼んでくれ』って書いてある事の寂しさを、知らない」

「うん」

 

 華音もまた何を言うことも無く、ただ寿彦の紡ぐ言葉を聞いている。寿彦は格好良い男だと華音は思っている。端正な顔立ちをしている。一人で居る時は特にクールだけど……

 

「ドアを開けた先がいつも真っ暗である事の寂しさを、知らない」

「うん」

 

 特にクールだけど、いつも、とても寂しい顔をしていた事を華音は知っていた。

 

「それでも、それは自分が招いた悲劇だって思うとさ……どうにもやるせなくて、悲しくて……。俺、俺は――」

 

 寿彦は、華音の部屋で少し、泣いた。

 

 暫くして、寿彦が泣き止むと――とは言ってもそれ程長い時間では無かったが――寿彦は追いかけるようにして、また話し出した。とは言っても、内容は違うものであったが。

 

「俺、泣いたの久しぶりだ」

「あは、お疲れ」

「お疲れってちょっとニュアンスが違う気がするな」

「そうだね」

 

 気が付くと、二人共笑っていた。何か、重いものが一気に軽くなったような――そんな気分になっていたのかもしれない。例え現実は何も変わっていなかったとしても、二人の間には確かな信頼があったのだから。

 さっきまで泣いていたのに急におかしくなって笑い出してから、今度は沈黙が続いた。話し辛くなったのかもしれない。二人はそれぞれ違う部屋の隅を見詰めていたが――暫くして、華音が切り出した。

 

「ねえ、寿彦」

「ん?」

「人が生きる事の価値って、状況や出来事に左右されないと思う」

「んー……そうかな」

「きっと、おじさんもおばさんも、寿彦が生きているだけで良かったんじゃないのかな」

「……んん」

「寂しさを植え付ける事になっていたのは、二人も初めから分かってた事なんだと思うんだ。それでも、寿彦の命を優先して考えたって事は……それだけで、寿彦が生きて来た理由になると思わない?」

「……そうだな」

「愛なんて、表面上は分からないものなんだよ。でも注意深く見ていれば、人の行動には絶対に見え隠れするものなんだよね」

「愛、か……」

 

 現実を噛み締める訳でもなく、かといって浅くその言葉を受け止めた訳でもなく。寿彦はただ華音の言葉を聞いていた。

 

「生まれてきた事への、ただそれだけの愛しさは、ずっと、もう何百年、年千年も、ずっと――人間が感じてきた事だから。本能っていうか――きっと、寿彦が思っている程、おじさんもおばさんも、無情な人じゃないと思う。ただそれは、そうするしか無いからで――」

「分かってる。分かってるけど、でも、俺は」

 

 華音の手が寿彦の言葉に制止をかけた。何か大事な事を言おうとしていることに気が付いて、俊彦は言葉を引っ込めた。

 

「ごめん、続けさせて。寂しい気持ちっていうのは、そこに本物の孤独が無い限りは、感じたらいけないんだと思うの」

「本物の、孤独……」

 

 寿彦は、その言葉を噛み締めるようにして、呟いた。心当たりがあったのだろう、寿彦は華音に出会ったことでその寂しさを実感したのだから。

 

「きっと……二人が感じた寿彦への愛っていうのは、寿彦が実際に感じている、何百倍、何千倍も大きいんだと思うよ。寿彦がこの世に生まれてきただけで、もうこれほどの幸福は無いってくらいに」

「……そうだよな」

「分かるの。それが、どうしようも無いくらいに分かるの。私には、寿彦が生まれてきた理由なんて分からないけど。その、それに対する愛だけは、とても分かるの」

 

 華音が急に寿彦の親に感情移入したような気がして、寿彦はよく分からなくなった。だが、華音が言おうとしていたことは全く別の事だった。

 

「……そうなの?」

「だって私も短いけど、ずっと――ううん、おじさんやおばさんに負けないくらい、私も、寿彦が好きだから」

「……へ?」

 

 寿彦がその言葉を飲み込むまでに、それは長い時間がかかった。華音が何を言おうとしていたのかが唐突にはっきりして、寿彦は動揺したが――暫くして、寿彦は呼吸を整えた。

 

「……えぇと、それはー、なんだ、その」

「あーあ、言っちゃった」

 

 だが、そういう華音の表情には、ためらいは見られなかった。

 

「好きです。寿彦が、好き」

「……えーと」

「ずっと言おうと思ってたんだけどね。言えなくて、ごめん」

「んー……いや、俺も、気付かなくて、ごめん」

「なんか最近謝ってばっかだ、私達」

「そうだな」

 

 二人は、少し笑った。

 

「ねぇ、私じゃ、二人の代わりにはならないかもしれないけど……それでも、寿彦の心の支えくらいには、なれないかなぁ?」

 

 寿彦は、暫くそんな事を言う華音を見ていたが――暫くすると微笑んで、

 

「バカにすんな。もうとっくの昔から、支えになってるっつーの」

 

 そう、言った。

 緊張が解けたように、これまで蓄積されてきた張り詰めた空気が、散漫した。それから、また長い沈黙。それは会話が続かない事に対するものでは無いことは、二人共分かっていたが。

 それから、華音は語るように、寿彦に話し掛けた。

 

「……愛情」

「ん?」

「友情、同情、労わり、幸福感、満足感、責任感、冒涜、怒り、希望と絶望――私達がこれまでの人生の中で、いろんな感情を覚えてきたけど――何のためにあるのかは、誰も考えようとしないんだよね」

 

 寿彦には、何故華音がそんなことを言い出したのかが分からなかった。

 

「何の話?」

「ううん、ちょっと。走馬灯って、あるじゃない? 死ぬ前に自分の人生を振り返るってやつ。それは死んだって分かれば起こるけど、もし死んだ事に気が付かなかったら、どうなるのかなぁって」

「死んだ事に気が付かなかったら、ねぇ……」

「どうなると思う? もし走馬灯をとっくに見るべきだった人間が、何も気付かずに今この場で死んでいた事に始めて気が付いたとしたら」

「わっかんねー……死んだ後の人間の話はなー」

 

 そう言った時に、華音の口元が少し絞まるのを、寿彦は見ていなかった。

 

「私は、感情が溢れるんじゃないかと思うんだ。自分が生きて来た、それまでの感情が。走馬灯として見るべき過去は、死んだ人間には無いから。その場の念として留まったものは、きっと『まだ生きている』と信じている念がそうさせてるから、さ」

「……言ってる事がよくわかんねー」

「……うん、ごめん。よくわかんないこと言って」

 

 少しして、寿彦は家に帰る事にした。玄関の前まで進む少しの間、寿彦も華音も何も喋らなかったが、帰り際に華音が「明日、また誕生日会やろうね!」と言うと、寿彦は少し笑って、「おう!」と言った。寿彦が帰るのを、ドアが閉まるまで華音はずっと見ていた。

 

 そして、ついに寿彦は華音が涙を流していた事に気が付かなかった。

 

 そして、寿彦は家に帰った。家に着く頃には、夜は完全に更けていた。月明かりが寿彦を照らすと、寿彦もまた月を見上げ、少し微笑んだ。

 

「ただいまー」

 

 返事は無い。だが、向こうの台所からは音がする。明かりもある。寿彦が台所に行くと、両親が晩御飯を食べていた。母親は――よほど泣き疲れてしまったのだろう。目は真っ赤に腫れて、やつれて、見るに堪えない様子だった。

 寿彦の分の晩御飯は、無かった。

 

「親父、ただいま」

 

 その声は、やっぱり父親には届かなかった。

 

「……」

 

 よく分からないまま、だが確実に寿彦は悟っていた。自分の声は、もう華音以外には決して届かない、と。寿彦は自分の部屋に戻ると、不思議と空かないお腹を撫でた。

 窓から月明かりが顔を覗かせていた。寿彦は外に出ようと、家を離れようとした。玄関へと歩く。そして――

 

 気が付くと、家の外に居た。

 

 寿彦はその一瞬を逃さなかった。今まで、自分が普通にやってきたこと。それをやっていなかった事に、今の今まで気付かなかったこと。寿彦は驚いてその場に硬直してしまった。

 寿彦は、知らずのうちにドアをすり抜けていたのだ。

 

「俺……」

 

 恐る恐る、ドアへと近付いていく。ドアへと手を伸ばす。――すり抜ける。寿彦は、もう一度台所へと戻った。

 母親は、父親の作った御飯をほとんど食べずに、そのまま食卓で眠ってしまっていた。父親はそんな母親に毛布をかけてやり、その先のリビングの大きな窓を開け、煙草を吸っていた。

 

「……親父?」

 

 寿彦は、消えるようなか細い声で父親に声をかけた。

 父親は、振り向かなかった。

 

「……お袋?」

 

 寿彦は、寝ている母親にも声をかけた。

 母親は、目覚めなかった。

 

「……」

 

 寿彦は、寝ている母親がその細い腕で頑なに握り締めていた、何かが机の上に置いてあるのを確認しようとした。それは、写真だった。母親がアルバムに大切にしまっていた、一枚の写真。寿彦にも父親にも、一度も見せずに大切にしまっていた写真。

 それは、新橋寿彦の、生まれて一年目の、誕生日の写真だった。

 

「……」

 

 何も言わず寿彦は、それを大切に握り締めた。そして、鏡の前に行った。

 後ろを見ると、とても酷い傷があった。その瞬間、寿彦は全てを理解した。いや、もう分かっていたのかも知れない。分かっていて、それでも確認するまで信じられなかっただけだ。

 交通事故。自分はあの日、交通事故に遭ったのだ。柄にも無くはしゃいで、赤信号の横断歩道に自分から突っ込んでしまったのだ。

 寿彦は、もう死んでいたのだ。

 

「……親父」

 

 父親は、振り向かなかった。寿彦は母親から受け取ったその写真を見て、父親にこう言った。

 

「これ、貰って行くな」

 

 そして――

 父親は、寿彦の方を見た。父親は寿彦を見て、一瞬、これまで見せた事が無い程の驚きの表情を見せて――そして、いつもの仏頂面に戻った。だが、父親は微笑んでいた。

 寿彦は溢れる感情を押し殺すのに必死だった。そうしなければ、自分は泣いてしまうと思ったから。

 

「俺、誕生日、祝って貰ってたんだな」

 

 声は、届かなかった。だが、寿彦が写真を広げて見せると、父親は頷いた。

 

「俺、行かなきゃ――」

 

 そう言うと、寿彦は走り出した。もう父親に向かって、振り返ることは無かった。だがそれが全てを伝えた。伝わりきらなかったかもしれない。だが、もう後には引けない。

 父親は持っていた煙草がまだ半分以上残っているのに、火を消した。そして、母親の方に行くと、泣き疲れて眠った母親の頭を撫でた。

 

「寿彦、帰って来てたよ。良かったなあ、由里。寿彦、笑ってたよ」

 

 そう言うと、父親はリビングの電気を消した。そしてもう一本煙草に火を付けると、開いている窓の側に行った。そして、大きく煙を吸って、吐いた。

 

「あいつ、笑ってたよ――」

 

 

 華音は夢に出てきた寿彦の声で目が覚めた。寿彦が必死で何かを語りかける夢だった。華音は時計を見た。――夜中の三時。だが華音はパジャマの上に上着を羽織って、大急ぎで家を出た。

 

 寿彦は学校に来ていた。何故こんな場所に来たのかは分からなかったけれど、この場に華音が来てくれる気がして、暫くの間待つ事にした。

 寿彦は自分の体に変化がある事に気付く。少しづつ、まるで光るように、寿彦は『無くなって』いった。

 

 暗い夜に溶けるような光を辺りに包みながら、寿彦は華音の言葉を思い出していた。

 

『走馬灯って、あるじゃない? 死ぬ前に自分の人生を振り返るってやつ。それは死んだって分かれば起こるけど、もし死んだ事に気が付かなかったら、どうなるのかなぁって』

『どうなると思う? もし、走馬灯をとっくに見るべきだった人間が、何も気付かずに今この場で死んでいた事に始めて気が付いたとしたら』

『私は、感情が溢れるんじゃないかと思うんだ。自分が生きて来た、それまでの感情が。走馬灯として見るべき過去は、死んだ人間には無いから。その場の念として留まったものは、きっと『まだ生きている』と信じている念がそうさせてるから、さ。』

 

 死んだ人間は死んだと認識した時点で、初めて死ぬのだろうか。だとしたら自分は、今ここで初めて死ぬのだろうか。寿彦は、そんな事を考えていた。現実感は全く無かったが、溢れる光が現実感などいらない事を物語っていた。

 光が、少しづつ強くなっていた。

 

「……愛情、友情、同情、労わり、幸福感、満足感、責任感、冒涜、怒り、希望と絶望――俺達が今まで生きて来た中で、感じてきた感情。人生の中で、何度も感じ、学んでいくもの……」

「寿彦!」

 

 華音が、屋上に来た。

 

「華音」

「……寿彦?」

 

 華音が、ようやく寿彦の異変に気付いた。

 

「華音、俺さ……」

「寿彦!」

 

 華音は、泣いていた。

 

「もう、死んでたんだな――」

 

 

 瞬間。

 

 寿彦の生きて来た中で、今までに感じた感情が、津波のように押し寄せて来た。

 

 友情、同情、労わり、幸福感、満足感、責任感、冒涜、怒り、希望と絶望――

 

 

 どうしようも無いくらいの、愛情。

 

 

「寿彦、ごめんね、ごめんね……私、分かってたけど……寿彦が……だって分かってたけど……私……」

「華音、泣くなよ」

「だって……だって……」

 

 寿彦は、自分の目の前で赤ん坊のように泣きじゃくる女の子を優しく抱き締めた。

 

「華音、俺さ……」

「……うん?」

「祝って貰ってた。誕生日。……俺が、一歳の時に」

「……」

 

 華音の泣き声が、少し弱くなった。

 寿彦は、笑っていた。

 

「俺、祝って貰ってたんだよ。……俺、ちゃんと貰ってたよ、愛情。笑ってたんだ、二人共。俺、一人なんかじゃ、無かった」

 

 寿彦の光は一向に強くなるばかりだ。そして、寿彦は少しずつ、『無くなって』いった。

 

「寂しくなんか、無かったんだよな。本当は、親父もお袋も、クラスのみんなも、バンド仲間も、いつだって俺の事、大事にしてくれてたんだな」

「寿彦……」

「ここに来る前、親父が、俺に気付いたんだ。それでさ、笑ったんだ。いっつも仏頂面してる親父が、ほら、この写真みたいに。俺、すごく嬉しかったんだ」

「うん……うん」

 

 寿彦は、気が付くと涙を流していた。だが、寿彦のそれは、華音の流した涙とは違った。

 

「俺、華音が好きだ」

「……私も」

「一つだけ、約束しないか?」

「……何?」

 

 寿彦は、今にも消えそうなその体で笑いながら、言った。

 

「お前が死ぬまで――何でもいい。毎年、俺の誕生日を、祝って欲しい」

「……うん」

「もし、そうしたら――」

 

 寿彦の声が聞こえなくなっていった。

 

「……」

「聞こえない!そうしたら、どうなるの?」

「……必ず、迎えに行くから……」

 

 そして寿彦は、まるで元からそうだったように、『無くなって』しまった。

 

 後に残ったのは、澄んだような秋の夜の静けさ。雲一つ無い、きらきらと輝く星達だった。華音は、涙を拭うと、一人、呟いた。

 

「分かったよ、寿彦。約束、だからね――」

-3ページ-

 

 そしてお婆さんは、その話が終わってこう言った。

 

「それ以来……もう七十年くらいになるかしら。私はずっと寿彦の誕生日を祝い続けて来たわ」

 

 来姫は冷静に、しかし驚きを隠せない様子だった。

 

「それで――」

「来ていない。もしくは、私の寿命になったら来るのかもしれないけど」

「寿彦さんは、その後どうなったんですか?」

「分からない。でも、私の目の前から消えるその時まで、寿彦はずっと笑っていたわ」

 

 お婆さんは――栗平華音は、微笑んだ。

 

「分かってるわ。私ももう、長くないもの。こうやって寝たきりになってもまだ、私は生きて来たもの。そろそろ、来るのよ」

 

 勝林来姫は、そんなお婆さんの様子を見ていた。苦笑いでなく、また作った笑いでもない。天使のような素顔で語るきらきらの笑顔は、そのお婆さんを何十歳も若く見せた。来姫は、いつかこんな風に笑えるお婆さんになりたいと、強く願った。

 

「私の話を信じない人は沢山居たわ。でも、私はそれを悪い事だとは思わないわ」

「……」

「普通に考えたら、信じるような話では無いもの。冗談だって言って、その場をすぐに立ち去るような話だもの。八十を過ぎた婆さんの呆けのせいだと思うもの」

「私は、信じます」

「貴女のような人は珍しいわ」

 

 ふいに、来姫はお婆さんの上に掛かっている時計を見て、もうここにじっとしていられない事に気付いた。

 

「それじゃあ私、戻りますね」

「えぇ、話を聞いてくれてありがとう」

 

 来姫はそのままその場を立ち去ろうとした。だが、ふいに部屋を出て行くその前に、呼び止められた。

 

「勝林さん」

「はい?」

「それと、さようなら」

 

 来姫には、その言葉の正しい意味は分からなかった。軽く挨拶してその場を立ち去った。その後、来姫が色んな人に今の話を語り出した事は言うまでも無い。

 暫くして、華音は外の光景に意識を移した。

 

 あの頃と同じ、秋の日の夜の澄んだような空気。窓は開けて貰っていた。その方が、外の雰囲気を強く感じられるからだ。空は雲一つ無く、まるであの頃のような空だった。何度も何度も繰り返し鳴る、虫の声。そして、夜空一面に輝く星を見ていた。

 

「友情、同情、労わり、幸福感、満足感、責任感、冒涜、怒り、希望と絶望、それから愛情。私は覚えているわ。ずっと、今日まで。他の何を忘れてしまっても、それだけは忘れない」

 

 華音はそっと誰かに話し掛けるように、そう言った。

 

「長い間、寿彦の事をずっと考えていたから分かるわ。貴方が迎えに来る、と言っていた事の意味くらいは」

 

 

 瞬間、華音の視界は真っ白になった。同時に、体も数十年も若くなっていた。それがどういう意味であるかは、華音も分かっていた。そして、その前に――もう何十年も見ていない、彼の姿があった。

 

 そこには、新橋寿彦の姿があった。

 

「よう。元気だったかよ」

「遅い! もう何十年待ったと思ってるの?」

「悪い悪い。でも、楽しめたろ?」

「……うん、楽しかった」

「寿命が来たら、必ず迎えに行くって言っただろ?」

「その寿命が来たら、の部分が聞こえなかったんだよ」

「そうなのか……そりゃ悪かったな」

「でもちゃんと祝ったし、毎年」

「うん、ほんとサンキューな」

 

 二人は笑っていた。それがまるで何十年も前の、二人が学校の帰り道に歌を作ろうとしていた、生きている寿彦と最後に会ったあの日の延長線であるかのように。

 

「それじゃあ、行こうか」

「うん。ほんと頑張ったって私」

「はは、分かったから」

 

 そうして、二人は白い光の向こうへと消えていった。

 

 

 真っ白な病院の中で栗平華音はその日、寿彦の誕生日を祝ったその日に命日となった。彼女は、とても嬉しそうな、何十倍も若く見える天使のような微笑みをその顔に浮かべていたと言う。また、その話を聞いた勝林来姫は、嬉しそうにしていたようだ。最も、その意味は誰にも分からなかったが。

 

 人は生まれてからずっと、一つの決められた時間の中を生きているという。死んだ人間もこの世に残っていれば、その時間の中に入るのだろうか。だとしたら、事故で死んだ人達は私達の見えないところで生きている、ということになる。

 そんなバカげた話を信じる訳がない、と思うだろうか。また、ひょっとしたらそれはあるのかもしれない、と首を傾げるのだろうか。それは、実際にその光景を見た華音のような人物にしか真実は分からないのかもしれない。だがただ一つだけ変わることなく、それは誰の目にも確かにあったのだ。

 

 

 もう何度も立った事のある、新橋寿彦の17本目のろうそくが。

 

 

END

説明
誕生日を祝い続けたお婆さんの昔話。そこには、想像を越えた儚さと美しさがあった。

サクッと読める短編です。泣き系が好きな方にどうぞ。
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