遠くの光に踵を上げて - 第41話?第43話
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41. 迷走

 

「どうして?!」

 アンジェリカはそう叫んで一歩前へ踏み出した。

「当たり前だ。そう決まっている」

 ラウルは彼女を見ようともせず、机に向かったまま書類にペンを走らせていた。窓からの赤みがかった光が、彼の端整な横顔を照らす。何の感情もない表情。ユールベルは眉をひそめた。その後ろで、ジークとリックは曇った顔を見合わせた。

 しかし、アンジェリカは、これくらいでは諦めなかった。

「そんなのわかっているわよ。だからラウルにお願いしているの」

 強い視線を向け、強い口調で食い下がる。ラウルは横目で彼女を一瞥すると、あきれたようにため息をついた。

「おまえたち親子は、よほど私をクビにしたいらしいな」

「ラウルならうまくやってくれるって信じているわ」

 アンジェリカはにっこりと満面の笑みを浮かべた。ラウルの手が止まった。机に向かったまま、再び小さくため息をついた。

「サイファに似てきたな」

 アンジェリカはきょとんとして瞬きをした。だが、再びにっこりと笑って、照れたように肩をすくめた。

「使わせてくれるわよね、VRM」

 彼女の口調は、ほとんど確信しているかのようだった。だが、ラウルの返答によって、その確信はあっさりと打ち砕かれた。

「駄目だ」

 彼は迷いなくきっぱりと言い放った。

 アンジェリカは口をとがらせ、不満げに彼を睨みつけた。しかし、やがてその瞳は決意を秘めた鋭いものへと変わっていった。

「だったらリアルで戦うまでよ」

「リアルって、おまえ何いってんだ!」

 後ろからジークがうろたえながら叫んだ。リックも同様に驚き、大きく見開いた目を彼女に向けた。ユールベルは少しうつむいて、不敵にふっと笑った。

 しかし、肝心のラウルは何の反応も示さなかった。アンジェリカは彼を覗き込むと、さらに畳み掛けた。

「私は本気よ。どちらかが死ぬかもしれないわ」

 冷静に、重々しく言葉をつなげた。

「いいのね?」

 それでもラウルが動じることはなかった。

「私には関係のないことだ」

 冷たく突き放した言葉。机に向かったまま、アンジェリカに視線を向けもしない。

 アンジェリカは目を閉じ、唇をかみしめた。

「わかったわ」

 かすかに揺らぐ声。抑え込んだ怒りがにじんでいる。彼女はくるりと背を向けると、ジークとリックの間をすり抜け、大股で戸口へと歩いていった。引き戸を怒りまかせにガシャンと開け、そのまま医務室をあとにした。

 ユールベルもそのあとに続き、静かに外へと出ていった。

 ジークはけわしい目つきで、ラウルをじっと睨んでいた。

「おい、アンジェリカは本気だぜ」

 低く、静かな声でうなった。

「おまえに言われなくてもわかっている」

 ラウルは相変わらず書類に向かったまま、そっけなく答えた。

「だったらなんとかしろよ!」

 ジークはそう言うと同時に、机にこぶしを叩きつけた。ゴッ、とスチールの机が鈍い音を立てる。机との接点から腕へと一気に痺れが駆け抜けた。ジークの目にうっすら涙が浮かんだ。しかし、歯を食いしばり必死でこらえた。ここで痛がっては格好がつかない。

 ラウルはゆっくり腕から顔へとジークを見上げた。彼は怒りと痛みをすべて瞳に込め、まっすぐにぶつけてきていた。ラウルも逃げることなく、鋭く凍りつくような視線を返した。

「おまえは他人に頼るだけか」

 ジークはカッと頭に血が上った。

「見損なったぜ!」

「それは元からだろう」

 ラウルの冷静な態度と反比例するかのように、ジークはますます熱を帯びていった。

「今までよりもっと見損なったってことだ!!」

 大声でそう叫び、足早に医務室を飛び出した。

「ジーク!!」

 リックは慌てて彼のあとを追っていった。

「待ってよ、ジーク!」

 ジークはリックの呼びかけを無視し、逃げるように足を進めた。彼には自らの逆上の理由がわかっていた。もちろんラウルは腹立たしい。しかし、それ以上に、何も出来ない自分自身に腹を立てているのだ。ラウルの指摘でそのことに気づかされたことが、さらに許せなかった。奥歯をかみしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめる。

「アンジェリカとユールベルがどこへ行ったかわかってるの?!」

「……あ」

 背後からのリックの問いかけに、ジークははっとして足を止めた。

 

 アンジェリカとユールベルは並んで廊下を歩いていた。

「リアルでの戦いに変更するけど、異存はないわね」

 アンジェリカは前を向いたまま、はっきりとした声で尋ねた。

「ヴァーチャルでは物足りないと思っていたくらいよ」

 ユールベルは目を細め、遠くを見つめると小さく笑った。

「いつのまにか、ずいぶん笑うようになったじゃない」

 隣の彼女をちらりと盗み見ると、アンジェリカはつんとして言った。しかし、ユールベルはにっこりと顔いっぱいで笑ってみせた。

「ジークのおかげよ」

 アンジェリカは目を見開いて足を止めた。動けなかった。言葉が出なかった。

 ユールベルも少し先で足を止め、振り返った。そのときにはすでにいつもの冷たい顔に戻っていた。

「だから、私にはジークが必要なの」

 淡々とそう言うと、再び前を向いて歩き出した。

 アンジェリカの額には生ぬるい汗がにじんでいた。

 

 渡り廊下を歩ききると、白い立方体状の建物に辿り着いた。側面に窓はなく、一面コンクリートで覆われている。

 アンジェリカは白い扉にかけられた古びた南京錠を手にとった。小さく呪文を唱える。手の内側が光り、一瞬でその錠は砕け落ちた。

 重量感のある両開きの扉を、アンジェリカ、ユールベルが片方づつ手にとり、ゆっくりと開いた。さらに内扉を押し開くと、まぶしいくらいの真っ白な空間があらわれた。白い壁、白い床、白い天井、それ以外は何もない。

「この道場なら心置きなく戦えるでしょう」

「そうね」

 道場と呼ばれたこの建物は内側に強い結界が張ってあり、魔導の力が外にもれない仕組みになっている。また、そもそもが特別に丈夫に作られているため、物理的な力にも極めて強いという特性も持ち合わせている。まさに道場と呼ぶにふさわしい建物なのだ。

 だがここは、教師の監視下でなければ使用してはならない。アンジェリカとユールベルも当然そのことは知っていた。しかし、今の彼女たちには、そのような規則を気にかける余裕などなかった。

「決着は、降参かテンカウントでどう?」

 アンジェリカはまっすぐユールベルを見据えた。彼女は頭の後ろで包帯を固結びにしながら、けだるく答えた。

「誰がカウントをとるの? それに降参する気なんてないでしょう?」

「気絶するか、死ぬまでね」

 アンジェリカはユールベルの言葉に被せるように訂正した。ユールベルは口端を上げ、挑むような目を向けた。

 

 ガタン!

 大きな音を立て、内扉が弾けるように開いた。

「やっぱりここか!」

 ジークは入り口でけつまづきながら、慌ててアンジェリカに駆け寄った。そして、彼女の両手首をきつく掴み上げると、覆いかぶさるように顔を近づけにじり寄った。

「なによ!」

 アンジェリカは手を振り払おうと力を入れたがびくともしない。視線を上げると、ぶつかりそうなくらい近くに、ジークのけわしい顔があった。

「俺が認めるのは VRMまでだ。現実世界での決闘なんて絶対やらせねぇ。力づくでも止めてやる」

 アンジェリカは大きな瞳を見開き、顔を上げ首を伸ばした。お互いのひたいが髪の毛ごしに触れ合った。ジークは少し身をひいた。

「ジークに止められる?」

 静かだが凛とした声。そして冷たく鋭い表情。ジークの背中に痺れが走った。その一瞬をつかれ、アンジェリカに手を振りほどかれた。彼女は手が放れると素早く後方に飛び退き、ジークから離れた。

「始めるわよ、ユールベル!」

 ユールベルはその声に呼応するかのように、両手を高々と上げ、呪文を紡ぎ始めた。それとほぼ同時に、アンジェリカも両手を前方に突き出し、口を開いた。

「くそっ!」

 ジークは短く叫ぶと、早口で呪文を唱え始めた。

「ちょっと、三人とも!」

 もはやリックに為すすべはなかった。ただそう叫ぶのが精一杯だった。

 三つ巴の戦いが始まる??。

 緊張が高まったその瞬間、三人はそれぞれ呪文をフェードアウトさせた。静寂があたりに広がる。怪訝な表情で、かわるがわる視線を合わせた。リックの制止を受け入れたわけではなさそうだった。

「どうしたの?」

 リックは後ろからおそるおそるジークに声を掛けた。

「……全然、使えねぇんだ、魔導の力が」

 ジークはわけがわからないといった様子で手のひらを見つめ、ひたすら首を傾げていた。

「どうやらこの空間は魔導を無効化するみたいね」

 アンジェリカがまわりを大きく見渡しながら、ジークとリックの元に戻ってきた。

「そんなことできんのかよ」

 ジークは眉をひそめた。

「実際ここがそうなんだから、できるんでしょうね。すべての魔導を無効にするなんて、ただのおとぎ話かと思っていたけど……」

「食えない男ね」

 ユールベルもそう言いながら、ジークたちのところへ歩いてきた。

「え?」

 アンジェリカが振り向いた。

「こんなことができるのはラウルくらいよ。どうりで落ち着きはらっていたわけだわ」

 ユールベルの声は淡々としていたが、どこか楽しんでいるかのようにも聞こえた。

 ジークは、ラウルの態度と言葉を思い出すにつけ、ふつふつと怒りが沸き上がってきた。

「あいつ……ふざけやがって……。ホントに食えねえヤツだぜ」

 うつむいて歯ぎしりをしながら小さくうなり、こぶしを強く握りしめた。

「どうするの?」

 ユールベルは腕を組み、アンジェリカに向き直った。

「とりあえず、ここを出ましょう。なんだか落ち着かないわ」

 アンジェリカはひじを抱え、肩をすくめた。

「もう決闘はあきらめた方がいいんじゃない?」

 リックが後ろから声を掛けた。しかし、ふたりの少女は彼を一瞥しただけで、扉に向かって歩き始めた。彼の寂しげな背中に、ジークはため息をつきながら手を置いた。

 

 空は道場に入る前より赤みを増していた。ジークとリックは顔を上げ、大きく腕を伸ばし深呼吸した。しかし、アンジェリカとユールベルは、気を緩めることなく話し始めた。

「結界なんかなくても外で戦えばいいでしょう。他に被害が及ぶことを恐れているわけ?」

「すぐにばれるからダメね。あっさり止められて、こってりお説教よ」

「じゃあ、やっぱり VRMしかないのかしら」

「ええ」

 ふたりの意見が一致したところで、そろって足を踏み出した。その後ろを、ジークとリックはついて歩いた。

 

 四人はヴァーチャルマシンルームにやってきた。対戦用ではない、通常の VRMがずらりと並んでいる。そのうちいくつかはコクピットが閉じられ、実際に作動しているようだった。

 その部屋を突っ切り、奥の古びた扉へと足を進めた。この向こう側に、対戦用 VRMが置かれている。

「当たり前だけど、鍵がかかってるよ」

 リックはそう言ったあとで、道場の壊されていた鍵を思い出した。嫌な予感がした。だが、止める間もなくユールベルが呪文を唱え、鍵を砕いてしまった。壊れた鍵を床に落とし、ぽつりと言った。

「これでおあいこね」

「え……ああ」

 アンジェリカは生返事をした。おそらくはアンジェリカが道場の鍵を壊したことに対して言っているのだろうとは思ったが、彼女にはユールベルがそんなことにこだわる理由がよくわからなかった。

 ギィ??。

 アンジェリカはそろりと扉を開いた。そのとたん、顔をしかめて激しく咳き込んだ。他の三人も思わず後ずさりをした。

 その部屋が長い間使われていないことは一目瞭然だった。つんとカビくさい匂い、床やマシンを覆うほこり、天井からぶら下がる蜘蛛の巣の残骸、虫の死骸……。部屋の中央に置かれているふたつのコクピットは、まるで骨董品のように見える。

「一年も経ってねぇのにこれかよ! いくらなんでもたまりすぎだろ、ほこり!」

 ジークはやけになり、勢いよくどかどかと踏み入った。足を下ろすたび、白いものが床から舞い上がった。

「ジーク、やめてよ!」

 アンジェリカは両手で鼻と口をふさぎ、眉根にしわをよせた。窓のないこの部屋では、簡単に換気もできない。

 ジーク以外の三人も、彼に続きこわごわと部屋に入っていった。アンジェリカはずっと口をふさいだままである。目にはうっすら涙さえ浮かんでいた。

「本当に動くのかよ。腐ってんじゃねぇのか?」

 ジークはコクピットの外側をバンと平手打ちした。すると再びあたりにほこりが舞い上がった。アンジェリカは無言で彼をうらめしそうに睨んだ。

 ユールベルはふたつのコクピットのまわりを、ゆっくりとまわって観察していた。

「このコードをここにさして、そっちのコードはそこ」

 指をさしながら、誰にともなく指示を送る。しかし、誰も反応しない。ジークとリックはゆっくり顔を見合わせると、同時にため息をついた。ふたりはしぶしぶしゃがみこみ、言われたとおり配線していった。ほこりだらけの床に這いつくばっての作業で、手もひざも白く汚れてしまった。

「ふたつのコクピットをつなげるメインケーブルがないんじゃない?」

 アンジェリカが口を手で覆いながら、コクピットの下方を覗き込んで言った。

「どこかにあるはずよ、探して」

 ユールベルは腕を組み、命令口調で言った。

「はいはい」

 ジークは投げやりに答えた。コクピットの下に手を伸ばしまさぐる。

「これ、そうかなぁ」

 ジークの反対側で、リックが声を上げた。彼が掲げた手には丸めた太いケーブルが握られていた。

「ちょっと切れてるみたいだけど」

 彼の言うとおり、被覆部が破れ導線がむき出しになり、切れかかっている部分がある。アンジェリカはコネクタ部分を手にとり、コクピットのそれと見比べた。

「形状的にはピッタリね。他にないならこれでやってみましょう」

「大丈夫なのかよ」

 ジークは文句を言いながらもケーブルを受け取り、リックとともにふたつのコクピットに差し込んでいった。

「いいかしら?」

 ユールベルが確認をとり、電源ボタンに手を伸ばした。

 

「そのボタンを押したら爆発するぞ」

「ラウル?!」

 戸口から腕組みをしたラウルがあらわれた。

「あれで諦めるわけはないと思ったが」

「だったら協力して!」

 アンジェリカはラウルへと駆け寄った。

「これ以上、物を壊されても困るからな」

 ラウルは足元の砕けた南京錠に目を落とした。

「じゃあ!」

 アンジェリカはぱっと顔を輝かせた。

「メインケーブルは私の部屋にある」

「部屋のどこ?!」

 アンジェリカはすぐにでも飛び出していきそうな勢いで、返事を急かした。

「私がとってくる」

 ラウルはアンジェリカの肩に手を置き、落ち着かせた。そして、奥にいる、ほこりまみれのジークに目を移した。

「その間にここをなんとかしておけ」

「なんとかって、どうすんだよ」

 ジークは彼を睨みつけながら、いつもの調子で食ってかかった。ラウルは涼しい顔で廊下を指さした。

「清掃道具はあっちだ」

 

 ラウルが出ていったあと、四人は言われたとおり素直に掃除を始めた。ユールベルとアンジェリカがほうきで掃き、ジークとリックはぞうきんがけをする。

「なんか、うまくこき使われてるような気がする……」

 ジークは納得がいかない表情で、ぶつぶつと独り言を口にした。

「文句を言ってないで手を動かしてよ。ラウルの機嫌を損ねたら終わりなんだから」

 アンジェリカにたしなめられると、ムッとして、むきになって床を拭き始めた。そんな彼の様子をリックはにこにこ笑いながら見ていた。

「いいんじゃないの? 掃除くらい」

「俺はあいつのやり方が気にいらねぇんだよ!」

 ジークはぞうきんを持つ手に怒りを込め、ますます勢いよく拭いていった。

 

 アンジェリカとユールベルは、ほうきをぞうきんに持ち替えた。アンジェリカは右側の、ユールベルは左側のコクピット内部を拭き始めた。

 ここが自分の戦場になる??。アンジェリカは手に力を込めた。

 ふいに顔を上げると、コクピットの向こう側のユールベルと目が合った。彼女は何も言わなかったが、負けないという強い意志がその瞳から感じられた。しかし、アンジェリカも負けるわけにはいかない。その思いを瞳に込め、強い視線を返した。

 

 扉を開けラウルが入ってきた。ケーブルとキーボード、そしてヘッドセットを小脇に抱えている。

「てめぇ、わざとのんびりしてたんじゃねぇだろうな!」

 ジークは黒く汚れたぞうきんを握りしめて立ち上がった。

「まだ隅の方にほこりが残っているぞ」

 ラウルは彼に顔を向けることなく、まっすぐ正面の VRMへ向かった。ジークはラウルの背中を睨みつけた。

「しばらく調整をする。その間、掃除を続けていろ」

 ラウルはメインケーブルを繋ぎ替え、電源を入れた。キーボードを本体に繋ぎ、軽快にキーを叩く。前方の大型ディスプレイに、見たこともない画面があらわれた。ラウルの指に連動して画面に文字が表示され、ウィンドウが次々と開いては閉じていった。

「見てないで手を動かせ」

 ラウルはディスプレイを見たままで、後ろの四人に言った。四人は慌てて掃除を再開した。

 狭い部屋にカタカタとキーボードの音が響く。

「完了だ」

「本当?!」

 アンジェリカはぞうきんを間に両手を組んだ。

「対戦は私のルールに従ってもらう。それが条件だ」

 ラウルはアンジェリカに振り向き、無表情でそう言った。彼女はあごを引き、表情を引き締めた。ユールベルも後ろでじっと彼を見つめていた。

 ラウルは言葉を続けた。

「決着がつくのは以下の三つのとき」

 リックは張りつめた空気を感じ、ごくりと喉を鳴らした。

「一つ目は、どちらかが降参の意思を示したとき。二つ目はスリーカウントダウン。カウントは私がとる。三つ目はリミッターが働いたとき」

 ユールベルの眉がぴくりと動いた。

 VRMでは仮想空間で受けた刺激を、神経信号として脳に送る仕組みになっている。リミッターは制限値を超える信号がきたときに、超過分をカットする役割を担う。すなわち、一度の攻撃で強いダメージを受け、この装置が働いたとき負けとするというのが、ラウルのルールだった。

「制限値はどのくらいにセットしてあるの?」

 ユールベルは上目遣いでラウルを睨んだ。ラウルは彼女の視線を真正面から受け止めた。

「適正値だ。現実世界で受ければ間違いなく意識をなくす」

 その回答を聞きしばらく考えていたが、やがて彼女は強気な微笑みを浮かべた。

「リミッターなんて納得いかないけど、仕方ないわね」

 そう言って、アンジェリカに振り向いた。

「私もそれでいいわ」

 アンジェリカはラウルを見上げて、真剣な表情を見せた。

「よし、準備だ」

 ラウルの声を合図に、ふたりはコクピットに乗り込んだ。

 ジークはアンジェリカのコクピットに駆け寄った。

「頑張れよ! アンジェリカ!」

 白い歯を見せ、ガッツポーズを送る。アンジェリカも勝ち気な笑顔でガッツポーズを作り、ジークのこぶしとコツンと合わせた。

 ユールベルは隣のコクピットからその様子をじっと見ていた。無表情でただ見つめるだけ。リックにはそれが無性に悲しく映った。しかし、彼女に「頑張って」などと声をかけるわけにもいかない。彼は、ただ見送ることしか出来なかった。

 コクピットのふたが閉まり、ディスプレイにふたりの姿が映し出された。ラウルはヘッドセットを手にとった。

「ラウル……。それ、もうひとつないのか?」

 ジークはめずらしく穏やかに尋ねた。

「ない」

 ラウルはそっけなく返事をすると、ヘッドセットを装着した。仮想空間への音声入出力ができるのは、このヘッドセットだけである。ジークは諦めずにしつこく詰め寄った。

「せめて外部スピーカーとかねぇのか?」

「ない」

 再びそっけない返事。ジークは目の前の大きな背中を、突き刺さんばかりに睨みつけた。

 ラウルはヘッドセットのマイクを口元に固定した。

「始め!」

 短い掛け声が狭い部屋に響いた。ジークとリックは息を呑み、複雑な気持ちで大きなディスプレイを見上げた。

 

 

 

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42. 騙し合い、そして

 

「始め!」

 ラウルのその声と同時に、アンジェリカとユールベルは距離をとって身構えた。白い空に果てなく広がる薄茶色の地面。他には何もない。

 

 ユールベルは短く呪文を唱えると、両手を揃えて前に突き出した。手のひらが白く光り、そこから頭くらいの大きさの光球が飛び出した。アンジェリカは後ろに飛びのきながら、両手を前へと伸ばし、同じ呪文で応戦した。

 ??ドン!

 ふたりの真ん中で、互いの光球がぶつかった。爆発が起こったかのように、あたり一面を白い光が飲み込んだ。

 その光に乗じて、アンジェリカは素早くユールベルの後ろに回り込んだ。気を集中させると、小さな声で長い呪文を唱え始めた。ユールベルはまだ無防備な背中を見せている。

 ??勝てる!

 アンジェリカがそう思ったとき、ユールベルは左脇下から右手を突き出し、白い光を放射した。後ろ向きだったにもかかわらず、その光は少しのずれもなくまっすぐ目標へと突き進んだ。思いがけない攻撃に、呪文詠唱中だったアンジェリカは反応が遅れた。とっさに結界を張ることができなかった。両腕で身をかばったが、体ごとはじきとばされ宙を舞った。数メートル後方の地面に背中から叩きつけられると、そこからさらに数メートル、砂ぼこりを巻き上げながら滑っていった。アンジェリカの顔が苦痛に歪んだ。

「ワン、ツー」

 ラウルはすかさずカウントを取り始めた。

「おいっ!」

 彼女に聞こえないとは知りつつも、ジークは思わず声を上げた。

 ラウルが三つ目のカウントを口にするより早く、アンジェリカは勢いよく飛び起きた。そして、その勢いのまま即座に反撃をしかけた。しかし、ユールベルは余裕だった。予測していたかのように、青白く光る結界を張り、向かってくる赤い炎を消滅させた。

 アンジェリカに驚きと焦りの色が浮かんだ。まだしびれる左腕を押さえながら、息を荒くしていた。

 

「なに押されてんだよ、おまえ!」

 ジークはディスプレイに向かってわめき立てた。だが、もちろん彼女には届かない。

「スリーカウントなんて短すぎるじゃねえか!」

 今度はラウルに食ってかかった。しかし、ラウルはディスプレイに目を向けたままで、ジークのことなど完全に無視していた。

「ユールベル、かなり手強そうだね」

 リックはなぜか声をひそめてジークに近寄った。

「ああ……。アンジェリカの行動がまるきり読まれているみたいだったぜ」

「うん、頭が良さそうだし、耳もいいんだろうね」

 ふたりの口から出た言葉は、さらに自分たちを不安の深みへと落とし入れた。ジークは下唇を噛みしめ、祈るような気持ちでディスプレイを見上げた。

「俺はまだ、信じてるぜ」

 その言葉はリックに向けられたものであり、アンジェリカに向けられたものであり、同時にジーク自身に言い聞かせるものでもあった。

 

 ユールベルは青白い光に守られたまま、その内側で呪文を唱え始めた。指先までピンと伸ばした左手をまっすぐアンジェリカに向け、右手は大きく弧を描きながら後方へと引いた。

 あれは??。

 アンジェリカはピンときた。ユールベルの声は聞き取れなかったが、彼女のポーズには見覚えがある。アンジェリカもすぐに呪文を唱え始めた。両手を上空に向け、高々と掲げる。静かな緊迫感が一面に張りつめた。ジークもリックも、ディスプレイを見上げながら固唾を飲んだ。

 先に唱え終わったのはアンジェリカだった。掲げた手の上に集めた魔導の力を、ゆっくりとユールベルに向け、勢いよく放った。白い帯がすさまじい速度で伸びる。だが彼女に届く一歩手前で結界にはじきとばされた。しかし、同時に結界も消滅した。

 ユールベルは右目を見開き、明らかに驚きの表情を見せた。それでも呪文の詠唱を止めることはなかった。

 アンジェリカはもう次の呪文の詠唱に入っていた。今度はさらに短い呪文だった。またしてもユールベルより早く唱え終わり、再び彼女に向けて放った。

 しかし、どういうわけかユールベルはよけようとも防ごうともせず、目を閉じ呪文を唱え続けていた。白い光球が彼女に迫る。それでも動かない。ついに無防備な状態のユールベルに直撃した。白い光に飲み込まれ、はじきとばされるのが見えた。が、それと同時に砂ぼこりが巻き上がり、その後の彼女の姿は見えなくなった。だが直撃したことは間違いない。防ぐこともなくまともに受けたのでは、無事であるはずはない。アンジェリカは目を凝らして、砂ぼこりの奥を見つめた。

 薄曇りの向こう側で、何かが光った。

 ??何?

 アンジェリカが目を細めたその瞬間。薄茶色に濁った空間から、彼女の胸を目がけ、白い光の矢が飛び出してきた。とっさに上体をねじり、間一髪でかわした。??かに見えたが、完全にはよけきれず、白い閃光は彼女の左肩をかすめていった。

「ぅうああぁあーーー!!!」

 アンジェリカは絞り出すような悲鳴を上げ、肩を押さえてうずくまった。

 

「アンジェリカ!!」

 ジークとリックは同時に叫んだ。ふたりの顔から一気に血の気が引いていった。彼らにアンジェリカの声は聞こえない。しかし、彼女の表情や様子を見ているだけで、つんざくような叫び声が聞こえてくるようだった。

 ジークは居ても立ってもいられず、後ろからラウルに突進し、ヘッドセットに手を伸ばした。どうにかしてアンジェリカに声を届かせたい、その一心だった。しかし、あと少しというところで、ラウルのひじがジークのみぞおちにめり込んだ。

「うっ……」

 ジークは冷や汗をにじませうずくまった。ラウルに一撃をくらわされたところを押さえ、歯を食いしばる。

「おとなしく見ていろ」

 ラウルはディスプレイに目を向けたまま、振り返ることもなく、冷たく言い放った。

「大丈夫?」

 リックはジークを心配そうに覗き込み、彼の背中に手を置いた。ジークはリックの顔を目にすると、徐々に落ち着きを取り戻した。

「俺よりもアンジェリカだ。やばいかもしれねぇな」

 ジークは声をひそめた。リックは重々しくうつむいた。

「アンジェリカの攻撃をまともに受けて、それでも呪文を唱え続けるなんて、普通できないよ。それにユールベルのあの呪文て……」

「通常レベルの結界なら簡単に貫くほど強大な威力はあるが、その分、バカ長い呪文と、半端ねぇ集中力と、強大な魔導力に耐えられるだけの身体がいるとかいう、あんまり使えねぇヤツだな」

 ジークは言葉にすればするほど絶望が近づいてくるように感じ、それ以上は何も言えなくなった。リックも同じように感じたのか、口をつぐんで黙りこくってしまった。ジークはみぞおちを押さえながら立ち上がり、再びディスプレイを見上げた。

 

 砂ぼこりがおさまり、ユールベルの姿が次第にあらわになった。彼女もまったく平気というわけではなさそうだった。足元はふらつき、息もあらい。

 ユールベルはこわばった表情で、茶色い靄にうっすらと浮かんだ人影をじっと見つめた。それがアンジェリカと判別できるようになるまで、そう時間はかからなかった。アンジェリカは片膝をつき、左肩を押さえ、頭をガクンと垂れ下げていた。肩を上下に揺らしているところから察すると、まだ意識はなくしていないらしい。

 外した??。

 ユールベルは右目を細め、焦りの色を見せた。

 アンジェリカはその表情を見逃さなかった。痛みをこらえて立ち上がり、強気にユールベルに挑みかけるようににやりと笑ってみせた。

「あてが外れて残念そうね」

 息苦しさをごまかすように、早口で一気に言った。彼女の額から頬へと、幾筋もの汗が伝った。

「あなたこそ」

 ユールベルはあごを上げ、目一杯の余裕を装った。実際アンジェリカより、かなり余裕はあったのだろう。

 アンジェリカはあごを引き、ユールベルを上目遣いで一睨みすると、自分のまわりに白く光る結界を張った。そして、その内側で攻撃呪文を唱え始めた。ユールベルも同じように結界を張り、呪文を唱え始めた。

 ガクン。

 アンジェリカはその途中で膝を折り、前のめりに倒れると、地面に手をついた。集まりかけていた魔導力も拡散し、結界も消滅した。

「アンジェリカ!!」

 ジークは声の限り叫んだ。しかし、どんなに叫んでも彼女には届かない。

 ユールベルは勝ち誇ったように口角を上げると、目を閉じ、よりいっそう魔導に集中した。彼女の両手の中の光球がぐんぐん大きくなっていく。

 アンジェリカは片膝を立て、地面に手をつき、前傾姿勢でユールベルの様子をうかがっていた。彼女が目を閉じているのを確認すると、突然、地面を強く蹴って駆け出し、一気に加速した。一瞬のうちに結界をすり抜け、ユールベルの懐まで入り込む。そして、右手を彼女の脇腹に押し当て、短く呪文を唱えた。アンジェリカの指の間から白い閃光がもれる。

 ユールベルは目を見開いて息を止めた。だが、その攻撃を防ごうとはしなかった。ぎゅっと唇を噛みしめると、すぐに呪文の続きを唱え始めた。

 ??効かない?!

 アンジェリカは焦った。手を離さず、もういちど同じ呪文を口にした。ユールベルの腹部に、再び白い閃光が押しつけられる。同時に、ユールベルは両手を振り上げ、白い光球をアンジェリカの背中に勢いよく振り下ろした。アンジェリカは間一髪で薄く結界を張ったものの、それも弾き飛ばされ、光球ごと地面に叩きつけられた。

「アンジェリカ!!」

 ジークが叫ぶと同時に、ラウルはカウントを取り始めた。

「ワン、ツー」

 ユールベルは容赦なく二発目を撃ち込んだ。だがアンジェリカは地面を転がり、ぎりぎりでかわした。その勢いで立ち上がると、後ろへ飛び下がって身構えた。

 ユールベルは脇腹の痛みをこらえながら、鼻先で軽く笑った。

「わかったかしら。私の体は人並み外れて魔導を受け付けにくいのよ。あなたの何倍もね」

「目に見えない薄い結界でもまとっているのかと思ったけど、なるほど、種も仕掛けもなかったわけね」

 アンジェリカも余裕の笑顔で返そうと思ったが、その瞬間、背中に痛みが走り、逆に顔をしかめることになってしまった。深呼吸をして息を整えると、今度はかすかに笑ってみせた。

「だったら話は早いわ」

 アンジェリカはユールベルに背を向けた。

「どういうつもり?!」

 ユールベルはきつい口調で問いつめた。それは戸惑いからきているということは明らかだった。アンジェリカが降参するとはとても思えない。だとしたらなぜ背中を見せるのか。何か彼女に考えがあるのだろうか。でもそれがなんなのか、わからない……。ユールベルは次第に手のひらが湿ってくるのを感じた。

 アンジェリカは自分の目の前、すなわちユールベルとは反対側に四角い板状の結界を作った。結界は通常、対象物(自分であることが多い)のまわりを囲うように張るものである。こんな奇妙な結界はあまり見ない。

 ユールベルは、アンジェリカの挙動のすべてに目を奪われていた。それでも冷静さは失っていなかった。彼女の後ろ姿を見ながら、自分のまわりに静かに結界を張った。

 アンジェリカはユールベルに向き直った。彼女の目をまっすぐ見据えながら、腕を伸ばし、呪文を唱え始めた。向かい合わせた手のひらが白く光り、その間に魔導力が集まる。かなり大きい。

 ユールベルは内側にもう一つ結界を張り二重化した。アンジェリカの背後の四角い結界が不気味に白く光る。ユールベルの額に汗がにじんだ。これだけ念を入れても落ち着かない。

 アンジェリカは頭よりも大きくなった光球を、自分の体に引きつけた。

 ??来る!

 ユールベルの緊張が高まったそのとき、アンジェリカは地面を蹴り、体を半回転させた。そして、結界で作った四角い壁に向かって全魔導力を放射する。白い光はアンジェリカと結界の間で大きく膨張し、その反動で彼女の小さな体は弾丸のように吹き飛んだ。まっすぐ、ユールベルへと向かう。アンジェリカは彼女に体ごとぶつかり、腹部にひじを突き立てた。

 

 その瞬間、ヒューンという音とともにディスプレイがブラックアウトした。続いて静電気がパチパチと軽い音を立てた。

 

「て……停電か?」

 ジークは自信なさげにそう言って、あたりを見渡した。しかし、部屋の明かりは消えていない。

 ラウルはヘッドセットを外し、振り返った。

 両側のコクピットのふたがウィーンと機械音を立てながら、ゆっくりと開いていった。中から姿を現したアンジェリカとユールベルは、ポカンとした顔でラウルを見ている。

「ユールベル側のリミッターが働いて、システムが停止した」

 ラウルの説明に反応する者は誰もいなかった。全員がきょとんとして彼を見つめている。ラウルは言葉を付け足した。

「つまり、アンジェリカの勝ちだ」

 

 ジークの表情がパッと輝いた。

「やったな!」

 ゆっくりと身を起こそうとしているアンジェリカに駆け寄り、コクピットから抱え上げると外に降ろした。

「ヒヤヒヤさせやがって!」

 その言葉とはうらはらの思いきりの笑顔。ジークはアンジェリカの額に、軽くこぶしをねじ込んだ。

「もう! けっこう体中痛いんだから、ちょっとはいたわってよ」

 そう言って頬をふくらませたアンジェリカも、やはり笑っていた。

「……納得いかない」

 ユールベルはコクピットのふちに手を掛け、体を起こしながら声を震わせた。

「あんなの……魔導じゃないじゃない!」

 彼女はラウルを見上げ、必死に訴えた。

「戦いにルールはない」

 ラウルは腕を組み、冷めた声で言った。

「魔導以外の要素を軽視したのが、おまえの敗因だ。魔導耐性は高いが、身体的な能力は低い。その自覚があるのなら、魔導のみを遮る通常結界ではなく、あらゆる物質を遮断する高度な結界を使うべきだった」

 ユールベルに返す言葉はなかった。それでも、やはり納得はできない。身をかがめ腹部を押さえながら、よろよろとコクピットから降りると、アンジェリカを鋭く睨み上げた。

「えっ?!」

 リックはユールベルのポーズを見て、驚きの声を上げた。彼女は両手を前に突き出していた。そして、リックの懸念どおり、呪文を唱え始めた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、後ろで結ばれた白い包帯が、空気の対流を受けて舞い上がる。

「やめろ!」

 ジークとリックはアンジェリカをかばうように立ちはだかった。ふたりは同時に結界を張り、さらにアンジェリカも結界を張り、三人のまわりに三重化した結界ができた。

 ユールベルの手に魔導の力が集まり、白い光を放つ光球がふくらんでいく。

「大丈夫なの?」

 リックは不安げに尋ねた。

「部屋までは守れねぇな」

 ジークは前を向いたまま、いたずらっぽくニッと笑ってみせた。

 ラウルは無表情でユールベルへと近づいていった。無言で彼女を冷たく見下ろした。そして、右手で光球を握りつぶし消滅させると、左手で彼女の腕をひねり上げた。

 あっというまの出来事に、ジークとリックは呆気にとられた。

「……ぅ……ぁあああーーー!!!」

 ユールベルはラウルに腕をつかまれたまま、うつむき、絶叫して泣いた。喉の奥から絞り出すような激しい慟哭が、ジークたちを揺さぶった。

「おまえたちは行け」

 ラウルは後ろで立ち尽くす三人に言った。しかし、誰も動かない。

「行け!」

 今度は振り向き、凄みをきかせた低音で命令した。

 ジークはアンジェリカの肩に手をまわすと、渋る彼女を促し、三人で連れ立って部屋から出た。ユールベルの泣き叫ぶ声が、次第に遠くなっていった。

 

 ユールベルの号泣は、徐々にすすり泣きへと変わっていった。そして、膝から崩れ落ちるようにぺたんと床に座り込んだ。ラウルは彼女を抱き上げ、ヴァーチャルマシンルームをあとにした。

 

 ラウルは自分の医務室に戻ると、ユールベルをパイプベッドの白いシーツの上に降ろした。

「落ち着いたら帰れ」

 ユールベルはうなだれたまま、首を小さく横に振った。肩から髪が落ち、合間から折れそうな白い首筋がのぞいた。

「勝手にしろ」

 ラウルは無表情でそう言って立ち去ろうとした。だが、ユールベルの細い腕が、彼の長い髪をつかみ、引き止めた。

「……私を……救って……」

 消え入りそうな儚い声。ラウルは彼女の腕を、肩を、首筋を、背中を、じっと見つめた。

「私におまえは救えない」

 ユールベルの手から力が抜け、ぱたんとベッドの上に落ちた。それきり彼女は動かなかった。

 ラウルは背中を向け、後ろ手で仕切りの白いカーテンを閉めた。そして、立ち止まることなく奥へと消えていった。

 

 

 

-3ページ-

43. 過去への扉

 

「いつまで寝ているつもりだ」

 すっかり身支度を整えたラウルが、奥の部屋から出てきた。そのまま足を止めず窓ぎわまで進むと、ガラス戸をガラガラと開ける。ひんやりした空気が、柔らかな光をかきわけ流れ込んできた。ふわりと揺らめいた白い仕切りカーテンには薄い影が映っていた。返事はなかったが、ユールベルがそのベッドで寝ていることは間違いない。

 シャッ??。

 ラウルはカーテンを半分だけ開いた。ユールベルは布団も掛けず、髪も服も乱したままで横たわっていた。両手両足は無造作に投げ出され、まくれ上がった白いワンピースから、白い上腿があらわになっている。そして、虚ろに開かれた右目は、何も映していないかのように生気をなくしていた。

 ラウルは彼女の体の上に、大きな白いタオルを落とした。冷たくなった肌を包み込む、暖かく柔らかな感触。ユールベルはゆっくりとラウルに顔を向けた。

 チャリン。

 彼の手から枕元に何かが投げ置かれた。ユールベルはラウルを見つめたまま、そろそろと手を伸ばす。冷たく固い、小さなもの。それは輪につながれた鍵ふたつだった。

「私はアカデミーへ行く。食事をとるなり、シャワーを浴びるなり好きにしろ。出るときは鍵を閉めていけ」

 ラウルはそれだけ言うと、医務室の扉を開け出ていった。

 ユールベルは手にした二つの鍵をじっと見つめた。ひとつは医務室の鍵、もうひとつは……ラウルの部屋の鍵? ラウルの部屋は医務室の奥にある。ほとんど壁と同化している目立たない扉が入口らしい。ラウルがそこから出入りするのを何度か見かけたことがあった。しかし、一度も入ったことはない。

 ユールベルは鍵を軽く握り、気だるそうに身を起こした。そして奥の扉をじっと見つめた。

 

 キーン、コーン??。

「午前はここまでだ」

 ラウルは教本を閉じ、机の上でトンとそろえると、小脇に抱え教室をあとにした。彼が歩く間にも、次第に廊下は賑やかになっていく。喧噪から逃れるように角を曲がると、そこにはユールベルが待ちかまえていたかのように立っていた。

 ラウルは彼女を一瞥し、そのまま通り過ぎようとした。だが、ユールベルは彼の前に飛び出し、行く手を阻んだ。顔を上げ、深い茶色の瞳をじっと見つめる。そして、チャランと小さな音をさせながら、二つの鍵をラウルの鼻先に掲げた。

「机の上のサンドイッチ、食べてしまったわよ」

「好きにしろと言った」

 ラウルは目の前の鍵をひったくるように奪い取った。

「もしかして、私のために作っておいてくれたの?」

 ユールベルは無表情で尋ねた。ラウルも無表情で彼女を見下ろした。

「用がないのならもう行くぞ」

 冷たくそう言うと、左足を横に踏み出し、彼女を通り過ぎようとした。

 その瞬間、白いワンピースが風を受けふわりと舞い上がる。ユールベルはラウルに飛び込んでいた。彼の胸に顔をうずめ、背中に手をまわす。そのとき、彼女の長い髪が、ラウルの手に触れた。冷たい。まだ生乾きだった。

「やっぱりあなたのことは嫌い」

 ユールベルはラウルの胸元で、淡々とつぶやくように言った。

「そうか」

 ラウルは感情のない声で短く返した。

 

 ふたりのまわりがざわつき始めた。遠まきに見ている生徒たちは、興奮しつつ声をひそめて話し合ったりしている。ここはアカデミーの廊下、ふたりは教師と生徒。騒がれるのも当然である。

 しかし、ユールベルはまったく意に介していないように見えた。顔を上げ、ラウルを見つめる。そのまま焦茶の長い横髪をぐいと下にひっぱり、彼の顔をすぐ近くまで引き寄せた。甘い匂いがラウルの鼻をくすぐる。それでも彼はまるで表情を変えない。

 ユールベルはわずかに眉をぴくりと動かし睨みつけた。そして、つま先立ちして首を伸ばすと、唇を触れ合わせた。

 まわりからどよめきが起こった。

 彼女はすぐに顔を離し、今度は平手打ちをくらわせた。パンと軽い音が響く。それと同時にあたりは静まった。

 しかし、ラウルはまったく動じていなかった。

 ユールベルは手の甲で口を拭いながら後ずさりし、彼を睨みつけた。

「さようなら」

 小さな声でそう言うと、踵を返し去っていった。

 

「なんか外が騒がしくねぇか?」

 ジークはざわめく廊下に目を向けた。しかし、席に座ったままでは、ほとんど外は見えず、何が起こったのか確認することは出来なかった。

「ちょっと話をそらさないでよ!」

 アンジェリカはジークの机に両手をつき、身を乗り出した。軽く口をとがらせた顔を、ぐいっと近づける。

「あ、ああ、ユールベル、な」

 ジークは体を引き、背もたれに寄りかかりながら、しどろもどろに言葉を返した。

「負けを認めてなかったみたいだし、難しいかもしれないね」

 言葉の続かないジークの代わりに、リックが横から冷静に答えた。

 アンジェリカは彼に顔を向け、小さく首をかしげた。

「悔しいのはわかるけど、いきなり暴走したり泣き出したり、わけがわからないわ、彼女」

「……きっと」

 リックは目を伏せた。

「寂しくて、情緒不安定、なんじゃないかな。なんか……わかるんだ」

 ぽつり、ぽつりと言葉を落とし繋いでいく。感情を押し隠したような表情。しかし、すぐに我にかえったように微笑みを作ってみせた。

 ジークは腕を組んでうつむいた。

「ふーん」

 アンジェリカはあまり納得していないような薄い返事をした。

「でも!」

 一転、今度は力を込めて切り出した。腰のあたりで握りこぶしを作り、気合いを入れる。

「何がなんでも約束は守ってもらうんだから」

「…………」

 ジークはうつむいたまま考え込んだ。彼女とユールベルの間に何があったのかは知らない。彼自身も気にはなる。だが、サイファがひた隠しにしていることを考えると、やはり知らない方がいいのではないか。いや、知ってはいけないのではないか。そんなふうに思えてくる。しかし、それではアンジェリカが納得するはずはない。今までもさんざん止めようとしてきたが、すべて無駄に終わった。頑固で、強情で、言い出したらきかない。ただ、今回の件に関しては、彼女の気持ちもわかる。だから、つらい。

「私は守るわよ、約束」

 アンジェリカの弾んだ声が、ジークを現実に引き戻した。とっさに顔を上げると、彼女はにっこりと笑いかけてきた。

「約束?」

 ジークが聞き返すと、アンジェリカは目を丸くした。

「忘れたの? ほら、ジークのいうことをなんでもきくって言ったでしょう?」

「ああ、あれか」

 ジークは気の抜けた声で返事をした。そんなことはすっかり忘れていた。

「俺はおまえに頼みたいことなんて何もねえって」

「だめよ! 私はちゃんと約束を守りたいの」

 アンジェリカは腰に手をあて、前かがみにジークを覗き込むと、少し怒ったように口をとがらせてみせた。

「約束っておまえが勝手に決めただけだろ!」

 ジークは食ってかかった。

 またふたりの言い合いが始まる??リックはそわそわし始めた。だが、アンジェリカは反論することなく、再びにっこりと笑いかけた。

「考えておいてね」

 ジークの胸はドクンと強く打った。少し耳を赤くしながら、腕を組んで、困ったようにうつむいた。

「さ、食堂へ行きましょう」

 アンジェリカは背筋を伸ばして明るくそう言うと、扉に向かって歩き始めた。ジークも立ち上がり、リックとともにあとを追った。

 

「あっ……」

 アンジェリカは教室を出たところで、小さく声を上げ足を止めた。続いて出てきたふたりも、はっとして足を止めた。三人の視線の先には、壁に寄りかかり、じっとこちらを見つめるユールベルがいた。あいかわらず左目は包帯で覆われている。彼女は壁から背を離すと、そっと歩み寄ってきた。ジークは右足をわずかに後ろに引き、小さく身構えた。

「きのうは取り乱してしまってごめんなさい」

 ユールベルは無表情で詫びの言葉を口にした。だが、アンジェリカはそれを信じようとしなかった。疑いのまなざしを彼女に向けた。

「約束は守ってくれるんでしょうね」

「ええ、負けは負けだもの。仕方ないわ」

 意外なほどあっさりしていた。あっさりしすぎている。

「そう、良かった」

 アンジェリカは固い声で返事をした。疑いはまだ拭えない。

「ついて来て。見せたいものがあるの。それから話をするわ」

 ユールベルは踵を返そうとした。

「今から?」

 驚きを含んだアンジェリカの問いに、ユールベルは足を止め、彼女を見つめた。

「そうよ」

 素っ気なく答えると、背中を向け歩き始めた。アンジェリカは彼女の後ろ姿を見つめていたが、やがて黙って足を踏み出した。

「午後の授業はどうすんだよ」

 ジークが後ろから声を掛けたが、何の反応もなかった。無視をして歩き続けている。こうなったらもう止められない。

「しょうがねぇなぁ」

 困ったように眉根を寄せ、ため息をつく。そして、リックとともに彼女についていこうとした。

 すると、ユールベルが振り返り、ふたりに鋭い視線を向けた。

「あなたたちは駄目よ」

「は?」

 ジークとリックは顔を見合わせた。

「私が約束したのはアンジェリカだけ。あなたたちに話すとは言ってないわ」

「なっ……」

 ジークは口を開けたまま、カクカクと震わせた。

「じゃ、アンジェリカも行かせねぇぞ! 一人だなんて危険だ。行かせられるか!」

 大声でまくし立てるジークに、アンジェリカはむっとして振り返った。

「勝手なこと言わないでよ! せっかく手に入れたチャンスなのよ。ふいになんてしないわ」

 彼女は強気に言い放った。ジークはますます頭に血がのぼった。

「少しは自覚しろ! 今までどれだけ危険な目に遭ってきたと思ってんだ!」

 アンジェリカを指さしながら、怒り顔をつきつける。しかし、彼女は引くどころか、さらに顔を近づけた。

「わかってるわよ。それでも行かなきゃならないの。絶対にゆずれない」

 強い意志を秘めた目を彼に向ける。ジークはその漆黒の瞳をじっと見つめると、何かをこらえるように奥歯を食いしばった。彼女は微動だにしない。

「勝手にしろ!」

 ジークは吐き捨てるようにそう言うと、背を向け腕を組んだ。

「ジーク!」

 はらはらしながら二人のやりとりを聞いていたリックは、投げやりになったジークを見て、たまらず叫んだ。しかし、彼に反応はない。

「アンジェリカ!」

 今度は彼女に振り向き、声を掛けた。アンジェリカは微笑みを浮かべた。

「大丈夫よ。心配しないで」

 その言葉を残し、ユールベルとともに歩き去っていった。

「行かせちゃっていいの?!」

 リックはジークに詰め寄った。彼は腕を組んでうつむき、唇を噛みしめていた。

「俺には、止められねぇよ」

 ジークの声には、隠せない悔しさがにじんでいた。

 

 午後の始まりを告げるベルが鳴った。

 ふたりは暗い顔で席についていた。ジークは無意識に、アンジェリカの席に目を向ける。しかし、何度見ても、そこは空いたままだった。

 ラウルがガラガラと引き戸を開け入ってきた。教壇に立ち、教本を机に置くと、無言で教室を見渡した。

「自習にする」

 唐突にそう言うと教壇を降り、まっすぐジークのもとへ歩いてきた。彼にはその理由がわかった。体中に緊張が走る。

「来い」

 そして、今度は反対側のリックに顔を向けた。

「おまえもだ」

 ふたりはこわばった顔を見合わせて、立ち上がった。

 

 教室から目の届かないところまで来ると、ラウルは足を止め振り返った。

「アンジェリカはどこへ行った」

 腕を組み、ふたりを見下ろす。

「知らねぇよ」

 ジークは顔をそむけ、ふてくされながら言った。リックは慌てて一歩前へ出た。

「ユールベルと一緒に出ていきました。でも行き先は知りません」

「なぜ止めなかった」

 ラウルの低い声に、リックはびくっと体を震わせた。

「と……止めました。でも……」

「俺らのいうことをきくようなヤツじゃねぇよ」

 ジークは後ろから吐き捨てるように言った。だが、その奥には自嘲の色が滲んでいた。

 ラウルは陰の落ちたジークの横顔を見て、軽くため息をついた。

「何か手がかりになるようなことは言っていなかったか」

 リックはうつむいて考え込んだ。

「……あ、なんか、見せたいものがあるとか」

 ラウルの目が鋭く光った。

「ユールベルがそう言ったのか?」

「はい、多分……」

 迫力に押され、自信なく答える。

「わかった。おまえたちは戻れ」

 ふたりは何も言えず、黙ってとぼとぼと戻っていった。

 

 アンジェリカとユールベルは並んで歩いていた。お互い何も言葉を交わそうとしない。広めの道だが、人通りは少なく、ただふたりの単調な足音だけが耳に響いていた。

「どこへ行くの? けっこう歩いたけど」

 アンジェリカが沈黙を破った。不安を悟られないようにまっすぐ前を向き、平静を装っている。

「私の家よ」

 ユールベルも前を向いたままで静かに答えた。アンジェリカは彼女の横顔をちらりと見て、すぐに前に向き直った。

「私とあなたが友達だったって、本当なの?」

 小さいが凛とした声で尋ねる。

「しつこいわね、あなたも」

 ユールベルは淡々と返した。アンジェリカはわずかに眉をひそめた。

「ピンと来ないのよ」

 ユールベルは目を閉じうつむくと、小さく笑った。

「そうね」

 ゆっくりと顔を上げ、遠くを見つめる。

「最初にあなたに近づいたのは、あなたが『呪われた子』だったから。両親を困らせたかったというところかしら」

「……そう」

 別に何かを期待していたわけではない。だが、そんなことに利用されたのだとは思いもしなかった。やりきれない気持ちが胸にわだかまる。

「それからあなたの家にたびたび遊びに行くようになったわ。あなたの家に行けば、おじさまに会えたもの」

 ユールベルはあごを上げ、遠くを見たまま微笑んだ。

「なるほど、そういうことだったのね」

 アンジェリカは精一杯、強気に答えた。

 

「さあ、ここよ」

 そこには、二階建ての屋敷があった。アンジェリカの家と比べると、はるかに小さいが、それでも世間一般からすれば大きい方である。

 ユールベルは門を開き、中へと進んでいった。アンジェリカもあとに続く。小鳥のさえずり、草の匂い、風の音、ふたりの足音。外界とは切り離された場所に来てしまったようで、彼女は落ち着かない気持ちになった。

 石畳を歩き、玄関まで来ると、ユールベルは鍵を取り出した。鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。ガチャリという音を確認すると、扉を引き開けた。重量感のある扉が、ギィと音を立てる。

「どうぞ」

 ユールベルは右手を家の中に向け、アンジェリカを促した。アンジェリカは緊張しながら、足を踏み入れた。

「お茶でも飲む?」

 ユールベルは扉を閉めながら尋ねた。しかし、アンジェリカにそんな余裕はなかった。

「私に見せたいものって何?」

 顎を引き、上目づかいで睨みながら、抑えた声で尋ね返した。

「急かすわね。まあいいわ」

 無表情でそう言うと、家の中へと進んでいく。そして、脇の階段を数段上がると、顔だけ振り向いた。

「こっちよ」

 アンジェリカは喉が渇いていくのを感じながら、ユールベルに続き、階段をのぼっていった。薄暗く、空気は湿っている。おまけに妙な匂いもする。息がつまりそうだ。嫌な予感が胸をよぎった。

 階段を上がりきり、そのまままっすぐ歩いて、突き当たりの部屋の前までやってきた。部屋といっても扉はない。元々はあったと思われるが、その付近がまわりの壁もろとも崩れ、あたり一面に瓦礫が散乱している。中は暗くてよく見えない。

「入って」

 ユールベルの声に押され、アンジェリカは足元を見ながら、おそるおそる歩み入った。

「……っ」

 つんと鼻をつく匂い。思わず鼻と口を手でふさいだ。窓はすべて厚手の遮光カーテンで覆われ、さらにその内側には、鉄格子がはめられている。床には、本や服らしきものが一面に散乱していた。他には小さなテレビと本棚、ボロボロに破れた布団くらいだ。

 アンジェリカは絶句した。

「ようこそ私の部屋へ」

 ユールベルの冷たい声が、後ろから突き刺さる。

「私は7年間、ずっとここにいた。閉じ込められていたのよ」

 瓦礫を踏みしめ、部屋の中へ歩み入ると、隅にひっそりと置かれていたぬいぐるみを手にとった。

 アンジェリカははっとした。薄茶色の柔らかな毛並み、愛らしい表情、足裏の刺繍。薄汚れてはいるが、自分が持っているものと同じテディベアに間違いない。

「おじさまにもらったものよ。これだけが私の心の支えだった」

 ユールベルは愛おしげに抱きしめた。

「閉じ込められていたって、どうして……」

 アンジェリカは混乱する頭から言葉を探る。

 ユールベルはテディベアのほこりを軽くはらうと、壁を背にして座らせた。

「きっかけは7年前。私とあなたの間に起きたこと」

 屈めた上体をゆっくり起こし、アンジェリカに顔を向ける。そして一歩、二歩、静かに近づいていった。

 アンジェリカは息をひそめた。額に汗がにじむ。

 ユールベルは頭の後ろに手を回し、包帯をほどき始めた。頭のまわりでくるくると手をまわす。やがて、はらりと白い布が床に落ち、左目があらわになった。

 アンジェリカは息をのみ、引きつった顔であとずさった。

「こわい? あなたがやったのよ」

 焦点の合わない蒼い瞳、まぶたから目尻にかけての焼けただれたような痕。ユールベルは見せつけるように、さらに間をつめた。

「わ、たし……が? うそ、そんな、こと……」

 アンジェリカはとぎれとぎれに言葉を絞り出した。渇いた喉に、声がつっかえる。

「事実よ」

 ユールベルは感情のない声で言った。

「そんな……私が……どう、して……」

 アンジェリカは瓦礫に蹴つまずきながら後ずさり、部屋から出ていった。しかし、ユールベルは手を後ろで組み、軽いステップで瓦礫を踏み越え、あっというまに距離を縮めた。

「あなた馬鹿? 考えてもみなさいよ。どうしておじさまがそんなに隠したがっていたのか」

 彼女はさらににじり寄った。

「おじさまは、毎月、律儀に謝りに来ていたわよ」

 アンジェリカは目を見開いた。

「……うそ」

 額からにじんだ汗が、頬を伝い流れ落ちる。

「嘘だと思うなら、おじさまにきいてみれば」

 ユールベルは足を踏み出した。アンジェリカはさらに後ずさる。その足は、ガクガクと震えていた。

「私もおじさまも苦しんできたのに、当のあなただけ、全部忘れて楽しく生きている。いい気なものね」

 淡々とした口調だが、右の瞳は鋭く光り、アンジェリカをとらえていた。

「ラグランジェ本家の娘が、他人に一生消えない傷を負わせた。そんな醜聞、公にすることなんて出来ない。私はその証拠となるもの。だから、隠された」

 ユールベルは顔を突き出し、アンジェリカを覗き込んだ。

「わかる? 私はあなたの犠牲になったのよ」

 アンジェリカの体は小刻みに震えていた。うっすらと開かれた口からは、何の言葉も出てこない。浅く息をするのが精一杯だった。

「返して、私の7年、私の目、私の顔……」

 ユールベルは両手を伸ばし、アンジェリカの首に指を這わせた。細く冷たい感触。背筋に痺れが走る。もう何も考えられない。アンジェリカは本能だけで、ほとんど無意識に、足を後ろに引いた。

 しかし、そこには床は続いていなかった。

 足を踏み外し、後ろに倒れていく。ユールベルはとっさに手を伸ばした。しかし、それも間に合わず、アンジェリカの体は、頭や体を打ちつけながら、階下へと落ちていった。彼女はピクリとも動かない。

 ユールベルは呆然として、その場にへたりこんだ。焦点の合わない虚ろな瞳が、空をさまよう。

「あなたが、悪いのよ……」

 彼女はうわごとのようにつぶやいた。

 

 

 

-4ページ-

続きは下記にて掲載しています。

よろしければご覧くださいませ。

 

遠くの光に踵を上げて(本編94話+番外編)

http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html

 

説明
アカデミーに通う18歳の少年と10歳の少女の、出会いから始まる物語。

少年は、まだ幼いその少女に出会うまで敗北を知らなかった。名門ラグランジェ家に生まれた少女は、自分の存在を認めさせるため、誰にも負けるわけにはいかなかった。

反発するふたりだが、緩やかにその関係は変化していく。

http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html
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