Ashes of Dreams
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 嗚呼。

 声にならない声が、音も無く漏れた。

 いったい、どこで間違えたのか。問う声を聞くものなどはない。だからこそ、アレクセイは問うた。何を、目指したのだろう。何を、求めたのだろう。

 この世界、世界、帝国、騎士団、貴族、平民、民草、多くの、否、あらゆる人々の、求めるものの先にあるものを、ただ見てみたかっただけなのか。手繰るように求めたものの残滓などそこにはない。が、アレクセイは刻一刻と弱まる意識の中で、懸命にもがき、手を伸ばそうとしていた。

 この世の理を変じても尚、否、変じねばそのような世界などは決して訪れぬという絶望、そうだ、その絶望を知ってしまったからなのか。手繰り寄せんとする先に在るものは、漠然とした光だ。長く暗い夜を抜けた先に在る夜明けだ。

 この世界に平等という言葉などはない。力なきものは死ぬだけだ。弱者は強者に喰らわれる定めなのだ。そうならぬための帝国の法はいつしか強者の強者による強者のためのものに成り果てていた。それを、変えたかった。アレクセイ・ディノイアという男として、ただひとりの男として変えたかった。

 変えたかった、その結果が欲しかったのか。ふと、胸の内に宿るものの残滓に触れる。ひやりとしたものしか、そこにはなかった。アレクセイは愕然とした。かつてはこの胸に赤々と燃えていたものは、では、どこに。握り締めたところで、かつて在りし日そこに燃えていた熱は、既に尽きている。

 

 

 二人の、ただそこにある眼差しは、アレクセイという男が滅びに足を踏み出すその瞬間までを、見て取っていた。

 そこに確固たる魂もない、空虚な入れ物でしかなくなった一人の、憐れな男の末路を、ただ、じっと見据えていた。熾火のように翻る光が、そこに在るではないか。

 

 ああそうか。

 そういうことか。

 

 死に行くものの唇に、ふと笑みが加わる。ひゅうと吐息が漏れて、唇の端からつと血が滲み落ちた。見据える眼は、決してたじろがない。強い眼が抱く感情の揺れすら、既にアレクセイには見て取れるわけもなかった。

 

 そうか。お前たちが。

 心にひたひたと満ちるものは、何だろう。

 久しぶりにこんな気分になった。晴れ晴れとした――実に、心は晴れ晴れとしていた。ごろりと、アレクセイは顔を蒼天へと向ける。清涼な風は、尚空を舞う。空は、抜けるように蒼い。

 

 罪人の魂を癒すほどに、天空とはかくも広く美しい。嗚呼、と溜息のように零して、アレクセイは重い瞼を落とした。

 

 それが、救いになったとは思わなかった。

 そういう判断すら、もう出来なくなっていた。

 

 思考という思考は、既にアレクセイの中には存在していなかった。ただ、自分はもう役目を奪われ退場するのだという切実な認識と空の青さだけが脳裏を占め、透き通る青空を求めるように、魂は、ゆっくりと肉体を離れていた。

 歓喜の声が、どこからか聞こえる。

 それは、確信を得た歓びだった。

 

 天意は、我がもとに。一瞬、貫く思考がアレクセイという魂を襲う。

 

 更なる絶望と諦観の末の二度目の確信は、恐らく間違いではないだろう。

 レイヴン。フレン・シーフォ。既に解き放たれた道具と傀儡は、間違いなく光を齎す存在たりえる。

 不思議な確信だった。

 若かりし頃に抱いていた、臓腑がせりあがってくるような、行動しなければならないという焦燥感を焚き付け只管に先に見た理想へと奔る、ただただ邁進している瞬間の高揚感のようなもの。

 夢心地のような、熱病のような、不安定でひどく心地のよい、我武者羅な、魂の歓喜だ。

 そうだ、この、どこまでも広がっている空にも似た憧憬だった―――――。

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「夢の残骸、とでもいうのかな」

 言う口ぶりは愉しげで、実際に笑っているようにも見える。何気に転がすグラスに注がれた琥珀がきらめき、一瞬視線を奪われてしまった――酒のよしあしなど、ろくにわかるわけもないにも関わらずだ。

「かつて燃えていた理想の、残骸、そういう言い方でもいいか」

 一瞥をくれてから煌く液体を唇に含み、ゆるやかに男は視線を向ける。卓上に置かれたグラスの音が静かに響き、騎士に成り立ての若者の心をぴしりと竦ませた。身体を大仰に強張らせ、こちらの出方をじっと伺う空色の瞳は怪訝そうに揺れている、そのことにアレクセイは気を好くしたのか唇に笑みを含んでいる。

「シュヴァーン。その名のことは、知っているかね」

「は、勿論です」無論だ。というよりも、かの存在を知ってより一層この道は無駄ではないと確信し、日々を励めたのだ。平民出がと陰口を叩かれ悪し様に罵られ、数え切れぬほどの些細な時に洒落にならない悪意の悪戯を重ねられても、定めし信念さえあればなんとかなる。それこそ、赤貧の暮らしを重ねても尚生き延びてきた下町者の強かさだ。

「フレン・シーフォの名は彼のものと同じであってはいけない。人にはそれぞれ役目というものがある。君が今抱く理想も、信念も、恐らく若々しく稚拙なものであろうとも、それは誰のものでもなくフレン・シーフォというひとりの人間のものなのだ」一瞬、騎士団長の重たい声がどのような意味であるのかをフレンは考え込んでしまった。そこにひたりと漂う仄暗さが、違和感になっている。そういう声、他者に羨望と同時に恨みを吐き出すような声とでもいうのか、似たようなものをフレンは幼い頃から耳にしてきていた。現状を嘆く声、不平を告げる口、理不尽さを罵り治世を恨む口ぶりだ。それにとても、よく似たものが、よもや騎士団長――花々しき帝国の改革者の口から飛び出すとは。

 じっと見詰めてくる深い色合いの瞳は、こちらの心の臓の奥までをも見透かそうとするかのように注がれている。恐ろしかった。背中をつと汗が流れて落ちた。歯を食いしばり、けれども、この場から逃れようとは思わなかった。なれば、ようやく騎士の剣と羽織を得たばかりにの若武者に直接会おうなどという戯れを言い出した騎士団長の真意が、自分でも気づかぬうちにフレンを捕えていたのかもしれなかった。

「よく、励み、帝都、帝国のためにも、その理想は潰えささないでくれたまえ」

 幾重にも鐘が鳴り響くような轟音、そうも聞こえたアレクセイの強い口調に秘められたもの。

 そのときはただ、立ち尽くし頭を垂れ、逸る心臓を抑えるので精一杯だった。

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 フレンを迎えにきたというルブラン一行が手配した船にちゃっかりと乗り込んで、レイヴンは帝都までの長くはない船旅の潮風に吹かれていた。春の午後の日差しのあたたかさの中に、ぽっかりと海上に浮かぶ白亜の異質な遺跡が遠ざかる。なるほど、こうして遠目に見てみれば、まさにそれは墓標だ。

「夢の跡、夢の燃えがら、……成る程ね、俺様にとっちゃあ、こいつぁとてつもなく重たい」

 袖に手を滑り込ませ掴んだ小さな、ひやりとした感触にレイヴンはぶるりと身震いをした。

「けど大将、あんたが見ていた青空はここにもある。あんたの残りかすは、空に散る前に土地に花を咲かせるさ。そりゃあ綺麗に、見事に」

 視界の先に見える蜂蜜色が空色に棚引いている。何かを祈るように、ふとそれが動いた。周囲をそそっかしげに動き、何やら例をするルブランに、いったいどんな言葉を告げたのか。畏まった小男がぴしりとした礼をして、走り去る。

 徐にレイヴンは宝玉をつまみ、視界の蜂蜜色にぴたりと重ね、片目をつむりそれを見据える。重なった色彩が、鮮やかに光を翻した。「なあ、大将。あんたも見たんだろ、夢を。いい、夢だ。ああ…とびきりの、愉快な夢だよ」

 船の縁に両肘と背でもたれ、ぐいと見上げた空は、どこまでも青く、ゆるく吹く海風とゆらめく船底の水音も、珍しく心地よい。既に中天を通り過ぎた太陽は柔らかい光をたたえ、視界を、一羽の鴎が通り過ぎた。

 レイヴンはそこではっとなり、飛び上がるように振り返る――かつてザウデ不落宮と呼ばれたそこ。その周辺の海域には、エアルの影響かよくよく生き物の姿も見なかった、その場所に、数羽の鴎が飛来している。「ははっ……!」レイヴンは思わず顔をくしゃりと歪め、笑っていた。

「は、はは……ははっ、……は、…はぁ、……大将…」

 無造作に手のひらを顔に押し付けて、どすんと船底に尻餅をつきながらレイヴンは尚も笑った。笑い続けていた。「はっ、……ははははははは」熱いものがこみ上げる。声にならぬ嗚咽が漏れ、鼻を鳴らしてぐいと熱を手のひらで押し込む。鼻を啜り、もう一度、その吸い込まれるような青空に、レイヴンは眼を向けた。

 ぽっかりと、空いてしまった穴はふさぎようもない。その空白を抱きながら眺める青空とは、かくも美しく遠く、眼に沁みるのだ。

説明
アレクセイ、フレン、レイヴンそれぞれの独白。アレクセイの死を巡る話になります。スパコミ新刊サンプル。通販受付中です http://pandora.nu/toya/hyne/off2.html
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