れい65
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【警視庁警備部警護課第四課】

 

 彼女は装備品を机に集め、淡々と装備していく。

 腕時計、無線機、拳銃。防刃ベスト。

 下は黒のパンツ、上はジャケットを羽織る。

 襟章は、桜を太陽と月で挟んだマーク。

 伊武れいは装備品を装着し、時計を見た。

 9時5分前。

「伊武さん、仕事、慣れてきたかな?」

 自分のすぐ上の先輩に当たる青山裕二が声をかけてきた。20代後半の好青年だ。

「大丈夫です」

「行こうか」

 ブリーフィングの会議室へ向かう。

 青山と並ぶと、伊武の身長は肩くらいまでしかない。彼女も165センチあるので女性では比較的大きい方だが、それでも、最低身長が173センチ以上を求められるこの係内では小さな部類に入る。もっとも、女性に身長制限はない。

 今日は政治家の講演会の警護だ。会議室に担当の5人が集まる。

 青山裕二、伊武れい、藤野輝夫、石川修、田口海斗が今日のメンバーだ。

 戸田係長も参加する。

「今日のリーダーは藤野さんでしたっけ?」

 青山が聞いた。

「そうだ、もんくあっか」

 藤野はむっとして返した。40代半ばにもなるかという、この第4係で一番脂が乗っている男だ。

 伊武が笑いながら青山を見て、言った。

「分かっていることは聞かない方がいいですよ」

「確認ですよ、確認!」

 藤野がプリントを全員に配る。

「本日の警護対象は、大塚恵美子衆議院議員だ。3日前、講演会を妨害する予告の手紙が事務所宛に届いた」

 藤野は脅迫状の拡大コピーをホワイトボードに貼り出した。

「脅迫があってもなお、講演会開催の理由は?」

 藤野が質問する。

「このような手紙は日常茶飯事だそうだ。まともに取り合っていたら、全く動けなくなるそうだ」

「ですが、我々が出動するからには、それ相当の理由がありますよね?」

 石川が疑問を口にする。

「大塚議員は野党第一党の人気議員だ。党首から警備部に依頼があったそうだ」

「バックグランドの話はもういいですから、今日の会場の警備概要を」

 田口が話を遮る。質実剛健。職人気質の30代なかばの男だ。

「そのプリントを見てくれ。会場はCCレモンホール。なんどか行ったことがあると思うので、詳細は省く」

 藤野がホワイトボードに見取り図を拡大したものを貼り出した。

「今回はここ、タレントメイク室が議員の控え室になる。議員は裏の動線から会場入りし、オケピ下のピアノ搬入エレベーターのそばの部屋に向かう。入り口からは直線で50メートル。半地下で窓はない。トイレは室内にある。自動販売機はここ」

 藤野は次々と説明していく。全員メモも取らずに地図を眺める。

「舞台にあがるは上手のタレント動線を使う。階段は1階分、すぐに舞台上手に出る。舞台横の動線に出られる一般通路は施錠するので、必要がある場合は舞台に登っておりてくるように。スケジュールは書いてある通り。何か質問は?」

 青山が手をあげながら言う。

「昼食は出ますか?」

「主催者側が用意した弁当があるはずだ。議員の側近ということで5名分申請してある。しかし、おまえは飯のことしか考えないのか」

「昼食代はバカにならないです。そんなに良い給料じゃないし」

「よし、給料分の働きはしっかりしてもらうからな。本日は議員会館から出て、議員会館に帰るまでが警備任務となる。では、役割分担だが」

「伊武、青山両名は議員会館から議員会館までの張り付き」

「うわ、弁当を食べるタイミングが・・」

「聞こえんな。田口、石川両名で控え室までの動線と控え室から舞台までの動線の事前チェックと到着時のサポートを。会場入り後は控え室張り付きを田口、石川で。伊武、青山はそのままステージ横にスタンバイ。私と合流だ。講演会終了後は、一旦控え室に戻る予定なので、そこで田口、石川にスイッチし、伊武、青山は議員の車でスタンバイ。議員送り出しは私と田口、石川で処理し、議員会館までは伊武、青山乗り込み。私と田口、石川は議員会館に先回りしスタンバイし、降車をサポート。以上で今日の任務は終了。ひとななまるまる、解散予定。本日使用のVHFは、会場がけいよん163。移動車がけいよん164。業務シーバーはチャンネル3を開けておけ」

「ほら、おたのしみの弁当タイムがないじゃん」

 青山が伊武にささやいた。

「青山さんは不便ですね。ご飯がないと動けないんですか?」

 伊武もささやきかえす。

「っつうかさ、ごはんを食べるために仕事しているのに、ご飯食べられないってのはおかしいでしょ」

「青山、質問か?」

「あ、いえ、特にありません」

「では、行動開始。伊武、現地でな」

「はい、よろしくお願いします」

 青山はデスクに戻り、車の予約表を見た。自分たちが使えるのは4係の5号車。赤色回転灯も何も無い、ただの黒いだけのセダンだ。

「はずれ。たまには赤色回転灯付きに乗りたいねぇ」

「いきなりそんな車を割り当てられても、危険度が高いという認識だけじゃないですか。この車ということは、そんなに危険度の高くない仕事ということでは?」

「せっかくSPになったんだからさ、なんかこう、歴史の裏舞台に立っているな、って実感のできいるような警護がしてみたいね」

「裏舞台ですか・・。とにかく、何も無いのが一番」

「1000に出ようか。月末が近いのでちょっと締めが溜まっているから」

「了解しました」

 伊武も自分に割り当てられたデスクに戻った。

 特に仕事もないので、みんなの住所録を覚えることにした。

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【議員会館へ】

 

 青山がハンドルを握る車で移動を開始した。目的地はとりあえずは議員会館。そこで車を乗り換える予定だ。

「伊武さんは、なんでSPになろうと思ったの?」

 伊武はちょっと間をおいた。

「青山さんはなんで?」

 車で議員会館に向かいながら青山はちょっと考えた。

「SPそのものが目標だったからかな?」

 青山は続ける。

「選抜試験がとても厳しいじゃん。SPって。選抜されてもどんどん篩にかけられて、選ばれたもののみがなれる、そんな仕事だから、ある意味、なることが目標だったのかもね?。伊武さんは?」

「私は、人の役に立てる仕事がしたかったので、この仕事を選びました」

「そんな理由?他にも色々あるじゃん」

「青山さんは・・・」

 伊武は青山の目を見た。

 ガラス玉のような、それでいて少し茶色い瞳。彼女の目は硬質な光を放つ。

「私が研修でここにいる理由、聞いていますか?」

「いや?一年間の研修としか聞いていないけど」

 伊武はその言葉を聞いて、慎重に言葉を選びながら続けた。

「私は人を傷つけたくないので、この仕事を選びました」

「なんか、変わった理由だね。ま、いいか。ところで、伊武さんは当然免許持っているんだよね?」

「はい。殆どの車両の免許を所持しています」

「じゃあ、帰りは運転よろしく!」

 

 議員会館に着くと、大塚議員の部屋前で待機となった。地方からの陳情や、取り巻きで部屋前はいつもごった返している。

 青山はスーツケースを持っている。というか、スーツケースに模した防弾盾だ。いざという時はこれで要人を守ったり、これを盾にしての格闘戦などに用いる。

 ふたりとも今日は防弾チョッキは着ていないが、そのかわりスーツの下に防刃ベストを着ている。これは、ナイフで刺されても、致命傷にならない程度の防刃力しか無い代わりに、蒸れずに軽い着こなしができる。

 暫く待つと、部屋に通された。

「大塚議員、警備部の方が到着されました」

 秘書が大塚議員に声をかける。彼女は書類から目を上げた。

「ああ、おつかれさま。今日一日よろしくお願いします」

 元はグラビアアイドルとかだったタレント議員の走りだ。齢を重ねたが、美人であることに変わりはなかった。

「警視庁警備部警護課第四課 青山です」

「同じく伊武です」

 二人共礼をした。

「あら、女の方は珍しいわね。気を遣ってくれて感謝するわ」

「本日議員会館を出て、議員会館に戻るまで、私たちがお供します。現場は3名の担当者が事前のチェックや警備を行っています。所轄の警察と連携し、本日警備部は5人体制で警備を敷いています」

「ありがとうね。幹事長が心配性でね、こんなことに気を揉んでいたら、何もできなくなってしまうでしょうに。何も起きないでしょうけど、よろしくお願いします」

「では我々は会館の出口で待機していますので」

 二人は部屋をあとにした。

 

 議員は11時ちょっと過ぎに降りてきた。概ね時間通りだった。

 移動用の車が横付される。青山も伊武も周辺警戒を続ける。議員会館出口、まずは第一関門だ。周辺に人影はない。日本では狙撃もそれほど気にする必要はない。この会館周辺に地理は完全に頭に入っていた。今日は、新聞記者やTVレポーターもそれほど多くいなかった。

 大塚議員を無事車に乗せると、そのまま、伊武が議員の左側に乗り込む。助手席は青山だ。

 センチュリーは滑るように走りだした。

 

「伊武さん、だったかしら?下の名前は?」

「れいです」

「伊武れいさんね。今日一日よろしくね」

「こちらこそ」

「青山さんも、二人共若いわね。おいくつ?」

「自分は26です」

 青山が答える。伊武はいくつだろうか?女性に人れいを聞くのは失礼なので今まで聞いたことがなかった。

「私は24です。ですが、大塚議員、年齢は関係ありませんのでご安心ください」

「伊武さん、そういう心配をしているんじゃないわ。若いってことは、それだけでいろいろ可能性を持つエネルギーがあるのよ。私も昔そんな時期があったなと」

 警護する要人によっては、この大塚議員のように、積極的に話しかけてくる人もいれば、ずっと黙ったままの人もいる。

 二人共、話しながらも警備の効率が落ちないように、頭を切り替える練習は積んでいる。ある程度、上の空のような話になってしまうが、警備に油断するよりかはよかった。

「伊武さん、あなたいい匂いね」

「はい?」

「何の香水かしら?上品で素敵な匂いね。そうね、この香りは・・」

 大塚議員は鼻から大きく息を吸った。

 青山も彼女に近づいたときに常に感じていた仄かな匂い。甘いような、それでいて、何か懐かしいような匂い。彼女に聞いたこともなかったが、どんな香水のメーカーだろうか?

「パロマ・ピカソのミノタウルス?どう?」

 大塚議員が顔を覗き込んだ。

「いえ、特に付けていません。シャンプーの匂いかもしれません」

 伊武は窓の外を見たまま答えた。

「あ、お仕事中だったわね。ごめんなさいね」

 伊武は時計を見た。

 まもなく12時だった。

 青山がVHFを取り出した。

「けいよん163、けいよん163、こちらけいよん164、けいよん163、感ありますか?」

 トランシーバーからガッガッと短いノイズが2回。

「けいよん163、こちらまもなく到達。けいよん163待機してください」

 再びトランシーバーからは2回ノイズが鳴った。

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【会場到達】

 

 会場の楽屋口に車が滑るようについた。

「マルタイ、楽屋口に到着」

 田口の声がイヤーレシーバーから聞こえた。青山はミラー越しにちらりと伊武を見る。伊武はイヤフォンを押さえ、目で頷いた。

 先発の田口と石川が迎え位置についた。

 車のドアを開け、まずは伊武が出る。議員に背を向けて、周辺に目を凝らせる位置に立つ。青山も同様だ。田口はそのまま議員をエスコートして建物に入った。

 第二段階クリア。

「車両を誘導してください」

 青山は現場の係員にてきぱきと指示を下す。

 そのまま議員の後ろをカバーするように移動する。伊武はさらにその後ろをガードする。

 議員はそのまま控え室に入った。

 田口、石川が入り口を挟むようにして警護する。打ち合わせ通りに青山、伊武はタレント動線を通って舞台上手に上がる。緞帳は上がっている。すぐに舞台袖の藤野と合流した。

「一応、大事をとって、聴衆の簡単な持ち物検査はやっているが、素人のような係員がやっているからな、完全とは言い切れん。講演開始は13時だ。おまえたちは先に飯を食って、終わったら田口、石川と交代してやれ。我々は控え室5を自由に使える」

「了解しました」

 青山は目礼をして、伊武と一緒に階段を降りた。

「すみません、ちょっと食欲が無いので、先に田口さんと食べてください」

 青山はちょっと心配そうな顔をした。

「この仕事、無理しても食べておいたほうがいいよ」

 伊武は田口と交代し、入り口の警護は伊武、石川になった。

「食欲ないのか?」

 石川が正面を見たまま聞いた。

「夏バテですかね?」

 伊武は力なく笑う。

「この仕事は無理してでも食べておいたほうがいいぞ」

「ですよねぇ・・・」

 この後、田口が戻り、石川が食事をし、石川が戻った段階で予定通りの配置についた。

 12時50分。

 講演会は13時開演だ。

 青山、伊武は舞台下手袖に移動。藤野は舞台が見渡せる最前列のセンターの座席についた。

 控え室をでた議員を田口、石川が誘導、そのまま舞台上手袖で待機。不審者が舞台に近づいたらそのまま飛び出せるスタンバイをする。

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【講演会、そして・・・】

 

 講演会は、単独の講演から、パネルセッション、対話、質疑応答と進み、順調に進んでいった。

 青山は時計を見た。

 15時。間もなく講演会の終わる時刻だ。

 予定通り講演会終了。舞台上手からハケる議員。エスコートは田口、石川。伊武、青山はそのまま舞台下手から奈落を通って議員の控え室前を通過、車両の乗車位置へと向かう。

「講演が終わりましたので、車両を楽屋口にお願いします」

 青山が警備に指示を出した。

 まもなく議員の車が横付された。

 伊武は来た車両の運転手を確認。後部座席、前部座席を確認。扉を開けた。

「車両準備完了」

 青山が無線で言う。

「控え室、了解。まもなく出る」

 田口の声がした。

 議員がやってきた。

 まもなく出口というときに、警備室の正面の受付台の影から、人影が飛び出すのが見えた。

 とっさに伊武がダッシュし、議員との間に入る。青山も議員をカバーに入る。

 若い男だった。

 サバイバルナイフを腰だめにしてのダッシュだった。

 田口が議員を抱き抱えるように走る。青山はそれをサポートする。

 

 伊武は突進してくる男に両手を広げて立ちふさがった。

 男はそのまま肩から伊武の胴体めがけて突っ込んだ。伊武はその体に覆いかぶさるようにして男のベルトをつかみ、男の腹に膝蹴りを入れる。二人もろとも弾き飛ばされ、反対側の壁まで滑っていく。

 青山の横で、伊武が盾となって暴漢を食い止めたのがみえた。

 そのまま田口は議員を車に押し込み、青山は助手席に乗り込み、藤野は車のトランクをバンバンと手で叩いた。

 車はそれを合図に猛スピードでダッシュ、現場を離れる。

 藤野が振り返ると、気絶した暴漢と、上半身を起こしている伊武が見えた。

「伊武!大丈夫か?」

「大丈夫です!」

 そばに、大型のサバイバルナイフが落ちている。よく見ると、伊武のジャケットの腹部のところに穴が開いている。

 伊武はジャケットをめくってみせた。

「防刃ベスト、役立ちました」

 防刃ベストは少しほつれた感じだったが、血は出ていなかった。

「どれ、見せてみろ!」

 石川が伊武の服をめくろうとした。

「ちょっと!えっち!」

 伊武は大声で言って服を押さえた。

「大丈夫ですってば!」

 騒然としていた現場の空気が、一瞬にして変わった。

 

「議員、おケガはありませんか?」

 議員は怯えて震えていたが、気丈に振舞っていた。

「大丈夫です。それよりも、伊武さんは?」

「確認します。藤野さん、取れますか?」

 青山が無線で確認する。まだ会場から近いので、VHFでなくてもつながるはずだ。

「青山、そっちはどうだ?」

「問題ありません。伊武はどうですか?」

「・・・了解しました。議員、ご安心ください。防刃ベストを着ていたので、大丈夫だそうです」

「・・・よかった・・」

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【試験評価ガイノイド 伊武れい 65】

 

「石川、お前は議員の降車サポートに回れ、私は伊武と此処に残り、後処理をする」

「了解、伊武、ご苦労!」

 石川は暴漢に馬乗りになり、押さえこんでいる伊武の肩をポンと叩くと、警備用の車で赤色回転灯を回しながら会場を去った。

 所轄の警察が駆けつけたところで、暴漢の身柄を拘束。SPは逮捕権は持つものの、逮捕具を持ちあわせていないのでこれは所轄におかませである。

 現場は一時騒然としたものの、今は落ち着きを取り戻している。事件を聞きつけ、報道各社がばらばらとやってきた。

 それを横目で見ながら、二人は控え室5に一度戻った。

「伊武、本当に大丈夫か?」

 藤野の問いかけに伊武は小さく首を横に振った。

 伊武はジャケットとシャツをめくった。シャツはぐっしょりと濡れていた。黒いスラックスにもしみ出している。

「第4腹筋が切断されました。歩行、上半身の動きに制約が出ます」

 彼女はそう言うと、シャツを脱いで下着だけになった。

 彼女の真っ白な腹部へその横くらいに小さな裂け目がある。サバイバルナイフの先端が刺さったようだ。

 そこから白い液体がにじみ出ていた。

「どうすればいい?」

「低粘着テープを探してきてください。簡易修理キットは私のデスクにあるので」

 舞台だけあって、低粘着テープはすぐに見つかった。彼女は体液を拭うと、すぐにテープを張った。

「これでひとまず大丈夫です。あとは私のデスクの修理キットで簡易修理して、明日の朝、ラボで本格的な修理をしたいのですが、遅刻してもいいですか?」

「問題ないよ。とにかく直しておいで」

 彼女はシャツに袖を通した。

 その後の連絡で、議員は無事会館に戻り、メンバーは庁舎に戻ったという連絡が入った。

 

「おかえり?」

 石川、青山、田口がデスクで迎えた。

「お見事!よくやった!」

 田口も伊武の肩を叩く。

「今日は早く帰って休みな!」

 石川も肩に手を載せた。

「みなさん、ありがとうございます。心配おかけしました」

「伊武さん、ほんとうに大丈夫?顔色がいつにもまして悪いよ」

 青山が心配そうに言う。

「やっぱり、思い出すとちょっとドキドキします。今夜は眠れないかも?」

 伊武は笑顔で言った。

「伊武の報告書は明日でいいから、今日は早く家に帰ってやすめ」

 藤野が言った。

「なんか、困ったことがあったら、いつでも電話してな!話し相手になるよ!」

 青山が携帯電話を手に持って振った。

 

 伊武は自分のデスクから小さな可愛らしいバッグを取り出すと、トイレに向かった。

 トイレの個室に入ると、鍵を閉め、上半身裸になる。

 傷口を広げて覗く。腹筋が切れている。傷は内臓を守る膜までは到達していないようなので、ラボですぐに直せるだろう。それにしても、防刃ベストの性能はあの程度なのか。

 まあ、70キロ近い男が全力でタックルをかけてくる切っ先を受け止めたのだから、無理はないかもしれない。確かに致命傷ではない。

 バッグから赤いスプレー缶を取り出し、よく振る。

 滲んでくる白い人工血液を拭う。タイミングを見計らって、スプレーを傷口に吹きかける。すぐに傷をくっつける。いち、に、さん、し、ご・・・手を離すと、くっつく。流出も止まる。

 違う薬剤を布に染み込ませ、傷周辺を拭う。さらに、傷口をバッグに入っているテープで張った。ほとんど見えなくなる。ちょっと引っ張ると、少し引きつった感じにはなるが、せいぜい昔の火傷の傷、といった感じだ。

 上半身を様々に動かしてみる。大丈夫そうだ。

 脚の引き上げ、上半身の動きに制約がでる。普段の動きに関しては他の筋肉でカバーできそうだった。

 シャツは傷周辺が人工血液でベタベタになってしまった。幸い着替えはある。防刃ベストは廃棄処分だ。ジャケットとパンツはクリーニングだ。

 伊武は下着姿で服を抱えて、人目のないタイミングを見計らって廊下をダッシュして10メートルほど先の更衣室に入った。

 自分の人工血液で汚れた服をバッグに詰めた。

 ジーンズとTシャツを着る。

 

 デスクに戻ると、皆が書類をまとめていた。

「伊武さん、今度一緒に飲みにいきませんか?」

 青山が伊武を誘う。

「ごめんなさい」

「じゃあ、食事だけでも・・・」

「おつかれさまでした」

 伊武は礼をすると、燃えないゴミに防刃ベストを捨てると4課をあとにした。

「ふられてやんの」

 石川がはやし立てた。

「彼女、綺麗でかわいいもんなぁ。頭もいいし」

 田口が珍しく女性を評論した。

「そんなんじゃないっすよ。ただ・・・気になるというか」

 青山はよく整頓された彼女の机を見つめた。

 飲んでいたペットボトルを捨てに行く途中、なんとなく燃えないゴミを覗くと、彼女が着ていた防刃ベストが捨ててあった。よく見ると、腹部には大きな穴がある。ちょうどサバイバルナイフが通るくらいの穴だった。

 青山は怪訝そうに防刃ベストを拾い上げた。傷を中心にずっしりと濡れている。

 水?

 いやちがう。青山は本能的に指で触り、鼻を近づけた。

 伊武の付けているコロンの強い香りがした。少しベタベタする。

「なんだ・・・?」

 

 れい65は都内のワンルームマンションに戻ると、まずはクリーニングの手配をした。明日の夕方までには上がるそうだ。幸い明日は通常勤務なので、デスク業務だ。どんな格好で行っても構わない。

 服を脱ぐと、シャワーを浴びた。傷口から下がヌルヌルした。よく洗う。今日は傷口を補修している都合で、いつもの専用洗剤は使えない。人間のボディーソープを使う。

 れいは湯温を42度に設定し、丹念に全身を清掃した。

 頭を洗い、顔を洗う。普通の人間と違って、目も指でごしごしあらう。目を開けたまま顔を泡だらけにしてあらう姿を見られたら、みんな仰天するだろう。

 鼻にお湯を入れて洗う。くちから出す。よく吐き出しておかないと、あとで文字通りの鼻水がドバっと出る。

 耳にお湯を流し込み、あらう。そんなに穴は深くできていないので、ここは適当。耳たぶは汚れがたまるのでよく洗う。

 うがいは胃くらいまでの深いところまでお湯を入れて、おえっと吐き出す。

 人間で言うところの肺にあたる、熱交換器と、二酸化炭素排出機は水濡れNGなので、気を付ける。

 徐々に下のほうへ洗っていく。

 体がやわらかいので手が届かないところはどこにもない。

 外装は適当で大丈夫。

 日常生活防水7級相当。普通の人間と同じような感じでくらせる。

 

 シャワーから出ると、バスタオルをまいたまま、砂糖水を作ってちびちび飲んだ。今日は濃いめ、量も多めだ。失われた人工血液の代用にも回さないと。

 砂糖水を飲み終わると、電気を消して、バスタオルを外して全裸になった。

 伊武れいシリーズは、暑さ、寒さは特に感じない。データとしては計測しているが。

 れい65は、寝る前は基本全裸だった。服を着る意味が特にない。そのままベッドに横になる。足元からシーツを引っ張ると体に巻く。右肩を下に、腕を枕のようにして、少し体を丸くする。

 そのまま目を閉じると、スリープモードに入った。

 

 今日一日を振り返る。

 この仕事は自分に向いているかもしれない。

 三原則のほぼどこにも抵触しない。こんな仕事があるだろうか?

 人間を守る、なんと基本的な仕事なことか。

 

 それにしても、青山さんは、自分に興味があるようだが、理由がわからない。

 一応、課内で、自分がガイノイドであるというのは伏せている。知っているのは課長の藤野さん以上だ。人間世界でどの程度生活が送れるかの実験もかねているからだ。

 

 自分は飲食ができない。そもそも、胃に相当するものがない。砂糖水だって、透過膜とかいろいろな触媒や酵素を経てやっと自分の体に使えるものになる。食べ物の複雑に絡み合ったタンパク質など、全くもって分解できない。そんなものを口に入れたら、たちまち故障だ。

 アルコールは微妙だ。糖類に近いといえば言えなくもない。挑戦してみる価値はあるが、出来ればエタノールがいい。蒸留酒だったら大丈夫かもしれない。ラボでドクターに聞いてみよう。

 今日あったことを時系列で色々ファイリングしていく。

 青山さんは自分のことをとても心配してくれた。

 自分がガイノイドだと知っても心配してくれるだろうか?

 いや、それはないだろう。誰も機械ことを心配なんかしないだろう。

 しかし、日本人の考え方には物にも魂が宿るというものがある。一神教の欧米諸国にはない考え方だ。

 ひょっとしたら、私にも魂が宿るかもしれない。

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【メンテナンス】

 

 伊武れいは8時丁度に起動開始。

 目が開き、眼球が上下左右に素早く動く。眼球の位置のリセットが完了すると、瞳が中央に戻った。閉じていた瞳孔が適正に開き、瞳に生気がさした。

 昨夜横になった時のままの姿勢だ。

 8時5分に起動完了。

  手を付き、ゆっくり起き上がる。ベッドに腰掛け、両手を前に突き出す。手のひらを下に向け上に向け、手を開き、親指から小指まで閉じ、小指から親指まで開 き、そのまま肘を曲げ、肩を回す。ベッドに仰向けになり、脚を上げる。膝を曲げ、足首を回す。足をおろし立ち上がり、前屈。体を左右にねじり、最後に首の 可動範囲を全て確認する。第四腹筋損傷確認。他の機能診断異状なし。ベッドから降りると鏡に向かい、足を肩幅に。両手はだらんと下げる。つま先立ち、かかとを床につけ、つま先立ち、を数回繰り返し、リラックス。全身の角度、位置情報をキャリブレーションする。異常なし。

 完全に無表情で作業をこなしていく。

 パツンと何かが切れたように急に体に揺らぎが出て、張り詰めていたような無表情が柔和になる。

 下着類は新しいものを用意。人間の女性は最低限この行為は行う。

 服は、昨日の帰宅時のものでいいだろう。

 れいはそのまま出勤準備をし、家をでた。

 地下鉄で数駅のところにラボ行きのシャトルバス乗り場がある。

 研究員に混じって乗り込む。

 始発のシャトルバスなので結構混んでいる。

 915、ラボ到着。人間がみんな降りるのを待ち、最後に降りる。

 と、覚えのある陽電子頭脳のパターンを感じた。それはれい70の陽電子頭脳の力場だ。すぐさま通信開始した。

 と、バス停にれい70とひとりの女性が見えた。その女性が釼持りさだとすぐに理解した。

「あ、ななまる。剣持さんも」

 れい65はバスのステップの最後の一段をぴょんと飛び降りた。

「あ、ろくごう、早いね」

 お互いの身に起きたことの情報交換が一瞬にして行われた。

 れい70の方が大破だった。

「大丈夫そうだけど?」

 れい65は聞いた。

「今日一日でなんとかなると思う」

 じゃあと、れい70と別れた。

 朝帰りとは、人間にはきついだろう。

 釼持りさのどことなくよそよそしい反応が気がかりだった。

 まあ、無理もないだろう。

 70と65は瓜二つだ。自衛隊納品モデルと警視庁納品モデルは非常に似通った仕様だ。顔もほぼ同じ、髪型もほとんど同じ。体型もそっくりだった。60や55、50とは基本的に違う。

 伊武れいがガイノイドだと、人間の手によって作られたものだと実感した瞬間だろう。

 

 申し訳ないけど、自分たちは人の手による作り物なのよ。

 

 れい65は出発するバスを見送った。

 

「65、腹筋破損だって?どうしたの?」

「ナイフで刺されました」

 日勤のドクターが目を丸くした。ラボには珍しい女性だ。

「うーん、警察ってのは恐ろしいところだねぇ。まあ、とにかく上半身脱いで横になって」

 れいは言われるままに上半身下着だけになってベッドに横になった。

 ドクターは簡易修理した傷口をさすった。

「上手に出来たね。どれどれ」

 開腹機で傷口を開く。腹筋が縮んで奥に捲れ上がっていた。鉗子を突っ込みそれを引き戻す。かなり力がいる。

 反対の腹筋も同様に鉗子を使って引き戻す。二つを重ねた。

「65、ちょっと押さえて」

 れい65は鉗子を受け取り、自分の傷口から人工筋肉を力任せに引き出す。それに合わせて上半身が少し起き上がる。鉗子がしなった。

 この光景は何も知らない人間が見ると、ぞっとするものがある。

 ドクターは、人工筋肉を超音波接着機で結合させた。神経回路を数本つなぐ。メインの血管をつないで作業終了。

「おっけー、離して良いよ」

 ばちんと音がするかのように、ゴムが皮膚の切れ目に引き込まれるように戻る。

「ちょっと短くなったけど、大丈夫かな?」

 れいは上半身を起こしたり、ひねったりした。

「補正範囲です。大丈夫そうです。神経の接続、血流も確認しました」

「次のA仕様のメンテの時にまるごと交換するとして、今はこれで大丈夫でしょ?」

「95%元通りです」

 傷口を接着すると、作業は完了した。わずか10分だった。

 

「先生に質問があります」

 れい65はシャツを着ながら聞いた。

「なになに?」

「私たちは基本、食事はできませんが、お酒は飲めますか? この前、仕事仲間に誘われたんですが、どうだかわからないので、無視して帰りました」

「蒸留酒と言われるお酒であれば、大丈夫よ。分解が早いから、砂糖よりも直接栄養源になるからね」

「では、問題ないと?」

「蒸留酒に限るよ。ビールとか日本酒はダメ。焼酎とかウイスキーでギリ。本当は、砂糖水よりもエタノールの方が手っ取り早いんだけど、ドランカーっぽく見えるのは人間の心証が良くないということで見送られた経緯があるの。しかも酔っ払わないので、重症のアルコール依存症に見える可能性ありだしね」

「わかりました。今度、彼と一緒に行ってみたいとおもいます」

「彼が・・・できたの?」

 ドクターはちょっと影のある顔をした。

 65は首をかしげた。

「よくわかりませんが、仲がいい人間はどんどん増えています」

「とにかく、人間と暮らすことは刺激的なことよ。いっぱい人間と過ごして、どんどん成長しなさいね」

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【青山と伊武】

 

 ラボをあとにすると、そのまま警視庁の四科に出勤した。一応11時だ。

「伊武さん、大丈夫?」

 青山が伊武の出勤を見つけるとすぐにデスクに来た。

「大丈夫です。ちょっと病院へ、ああ、定期検診なので、昨日の件ではありません」

「昨日の防刃ベスト見たけど、結構切れていたから」

「心配してくれてありがとう。全然大丈夫ですよ、ほら」

 伊武は無造作にTシャツをめくった。真っ白な腹がブラジャーのしたギリギリまで見える。程良い腹筋とスリムな腰回り。

「うわ、ちょっと、わかったわかった」

 青山はどぎまぎして、伊武の手をつかみシャツを戻した。

 伊武は青山の挙動を見逃さない。

「心配しているので、見て確認すれば安心するだろうと思ったんですが」

 わざと不機嫌な感じで言う。

「安心した安心した。よかったよかった」

 青山は自分のデスクに戻った。

 これはまずい。彼女の綺麗なへそがしばらく頭から離れそうになかった。

 女性らしく細い腰、白い肌。そこそこ鍛えているであろううっすらと浮き出た腹筋やその上に浮いて見える肋骨。胸は見えなかったが着痩せするタイプかも知れなかった。

 伊武を改めて女性として意識した。

 

 時間があるので、伊武は射撃訓練の申請を出し、自分のシグザウエルP230を整備する。上半分がステンレスのSLというモデルで、手入れの手間を半減させている。

 射撃場で32ACPを30発もらう。

 ゴーグル、イヤープロテクターを装着し、弾丸をマガジンに詰める。銃が小さいので8発の装弾数しかない。

 日本の警察の制式採用拳銃の一つだ。女性の手でも握りやすい大きさは、男性隊員からの評判はいまいち、威力も控えめだ。しかし、SPの仕事の特性上、大出力の火器である必要もなく、隊員の判断によって、9ミリパラベラムを使えるシグザウエルP220シリーズとの使い分けができる。

 スライドを引き、一発目を薬室に送り込んだ。

 目標は20m先。直径10センチ。

 右手片手保持。標準的な体制。

 狙いをつける。

 安全装置を外す。

 指を引き金にかける。

 そのまま絞り込む。

「ばん」

 勢い良く排莢し、遊底が下がり、二発目が装填される。

 真中に命中。手入れを頑張ったら、それに答えてくれる銃だ。

 左手に持ち替え、立て続けに3発。

 左手片手でも命中精度は変わらない。

 両手保持に切り替え、立て続けに4発。

 どれもど真ん中に命中する。

 すべてを撃ち尽くして、ブローバックしたまま遊底がロックする。

 SPではこれくらいの腕前は珍しくない。しかし、れいの正確さは正しく機械のようだった。

 と、肩を叩かれ振り返ると、青山がいた。

「ずいぶん上手だよね、射撃。右手も左手も変わらないなんて、なんか負けそう」

 伊武はイヤープロテクターを外す。

「前の職場でも慣れていますし、何よりもP230を長く使っていますから」

「シグが正式採用になっているのって、こことあと自衛隊しか無いじゃん」

「私が自衛隊の人間だということはご存じなかったですか?」

「いや初耳」

「そこで、特殊車両や乗用車、戦車や大型トラック、クレーン等の重機の免許もどんどん取りました」

「そっかー。陸上?海上?それとも航空?」

「これ、言っていいのかな?」

 伊武はちょっと考えて、青山に耳打ちした。

「言っていいかわからないので、内緒にしてください。私は統合幕僚監部情報本部所属です。カッコよく言うと、日本最高の諜報機関です。研修目的は要人警護のノウハウの取得です。絶対内緒にしてくださいね」

「なんだかよくわからないけど、他言無用で」

「ありがとうございます。もっとも、藤野課長以上はみんな知っていますけどね」

 青山は聞いたことがある。陸幕情報部や、海上幕僚の情報部、航空の情報部などを統合する、日本最強の諜報機関が、彼女が属する統合幕僚監部情報本部のはずだ。

「青山さん、耳、つけてください。射撃練習、続けます」

 青山も射撃練習に加わった。

 青山の拳銃は標準的なシグザウエルP220だった。

 腕前は伊武と互角。確かにSPは射撃の腕前もピカイチの人間が揃うだけのことはあった。

「青山さんも、やりますね。心臓の鼓動、どうしているんですか?」

「考えたこともない質問するね。なんか、天性の勘のようなものだよ、射撃は」

「あ、そういえば、この前は誘ってくださったのにすみません。ちょっと予定があったもので」

「ん?何のこと?」

「昨日の食事のことです」

「ああ、あれ、そんなに気にしないで」

「今夜、時間があるので、お酒だけなら付き合えますが?どうです?」

「お、女の子から誘われていかないわけ無いじゃん!行く!行かせてもらいます」

「じゃ、終業後、出口で待ち合わせで決まりですね」

 伊武はエタノールに興味津々、青山は伊武をもっとよく知る機会になると、お互い違う目的だが、それぞれテンションが上がっていた。

-8ページ-

【お酒への好奇心】

 

 17時きっかりに上がれるところは、やはり現場の人間の特権だ。予定通りの警備活動、予定通りのデスクワーク。

 青山が待っていると、伊武がちょっと走ってきた。

「すみません、お待たせしました。ちょっと着替えてきました」

「さっきと変わらないような気がするけど?」

「Tシャツを新しくしました。行きましょう!」

 

 伊武はとてもうれしそうだった。

 ロビーをどんどん先に歩いていく。時々歩みの遅い青山を振り返る。

 

 エタノール。どんなものだろうか?人間が飲むと、脳が酩酊状態になり、酔うという現象が起きる。残念ながら、ポジトロニックブレインでは起きない。しかし、砂糖水とは違う、何かしらの現象が起きる可能性は否定出来ない。

 

 青山は、浮き足立っている伊武を見るのが意外だった。仕事をしてる時とはまるで違う。好奇心旺盛な女の子という感じが丸出しだった。

 お酒が大好きなのだろうか?

 

「何が飲みたいかな?」

「あまり持ち合わせがないので、安くて量のあるところがいいです。そういえば、駅前で配っていたこんなものがあります」

 伊武はたすきがけにしているメッセンジャーバッグから居酒屋のチラシを取り出した。

「二人で行くと通常60分飲み放題が、なんと90分飲み放題になるそうです」

 青山はもう少し雰囲気のあるところで、二人でいい感じで飲みたかったが、彼女はさらさらそんな気がなさそうだった。彼女は確かに無地の白いTシャツにジーンズだし。スーツの自分に違和感を感じる。

少しあてが外れたが、ま、いいか。初回のデートは居酒屋で、というのもまんざらではない。・・・か?

「おっけー。二軒目に期待だな」

「二件も行くお金、ありませんよ」

 伊武は何言っているんですか!と言わんばかりのリアクションだ。

「普通は男がおごるもんだよ」

「どうしてですか?」

「君よりも、僕の方が稼ぎがいいからさ」

「おお?自信たっぷりですね。どうですかね?ではまずは一軒目から」

 

 伊武は地図を頭に入れて、店を探す。すぐに見つかった。

 有名なチェーン店だ。

 個室が空いていたらしく、幸運にも個室に通された。

 伊武には全てが初めての体験だ。

 暗い店内、体温よりもやや高めの温度のおしぼり。頼んでもいないのに置いてある食べ物。無料だろうか?全く未知の世界だ。どんどん経験値が上がっていく。

 幸い、青山が主導権を握りたそうなので、任せることにする。

「まずはビールでいい?」

 青山の言葉に伊武は首を横に振る。穀物酒はダメだとドクターに言われている。

「もっと熱量の高い蒸留酒を・・・えっと」

 メニューで目に止まったものは、焼酎。これだ。

「まずは焼酎ロック。飲み放題だから、ボトル入れます?」

「い?いいけど?」

 青山は伊武の意外な一面を見て少し引いた。

「ひょっとして、ざる?・・・」

 青山は呼び鈴を押した。

 伊武は見逃さない。

 あれを押すと、係員が来て、注文をとるシステムのようだ。

 外食の経験もない伊武にとってはすべてが新鮮だ。

「焼酎ボトル。あと氷と水。グラスは二つで」

 店員が入力する端末は電波でメニューを飛ばしているようだ。POS的なものだろうか?

 青山が注文して、伊武を見ると、いつにもまして彼女の目が輝いている。

「そ、そんなに嬉しい?」

「居酒屋、初めてなんです。この年で恥ずかしいですが」

「あ、そ、そう」

 青山はだんだん不安になってきた。

 伊武れい。この子は大丈夫なのか?

 いきなりオフィスで服をめくって自分の腹を見せたかと思えば、射撃の腕は抜群、ナイフを持って向かってくる暴漢に躊躇せずに立ちふさがる。色々ちぐはぐな印象を受ける。

 ボトルが来た。

 青山が酒を作る。

「本当にロックでいいの?」

 伊武は頷く。

「原液でも」

 青山はとりあえず、ロックを作り、自分は水割りを作る。

「では、今日一日お疲れ様でした」

「おつかれさまでした!乾杯!」

 伊武はちびちびと飲み始めた。何かを警戒しているような飲み方に、青山は拍子抜けした。もっとぐいっといくかと思っていたのだが。

 

 これが焼酎か!砂糖水に比べると、エネルギーがとてもある。すぐに吸収される。人工血液にも大量に溶ける。人工筋肉に到達すると、急に力がみなぎってくる感じがする。

 これは、まずいかも?

 伊武は直感した。

 目に止まったスプーンを握り、親指で押した。いきよいよく曲がる。

 何事かと思って見ていた青山は水割りを吹き出しそうになった。

「な?な?」

「あらあら!」

 伊武も青山もびっくりだ。

「リミッターが効いてない・・・」

 伊武は手のひらを開いたり閉じたりした。

 人工筋肉が本来の力を発揮している。

 もともと人間らしい生活を送るために、人工筋肉の出力にはリミッターが設けられている。任意で外すことができるものだが、それが意識せずに外れてしまった。エタノール、恐るべし。

 というか、ドクターの説明にもなかったから、バグかも知れない。

 筋肉への電気刺激の量を調節して、力をコントロールする。コントロールできる範囲だ。

 エタノールは体を活性化させるような気がした。

 むちゃむちゃたのしい。計算外のことが次々起きる。自然と笑っていた。

「だから、あまり濃いのを最初に飲むと・・・」

 青山は伊武が挙動不審になっていくのを見て心配した。まさか片手で握ったステンレスのスプーンをへし折り、笑顔になるとは思ってもいなかったので度肝を抜かれた。

「青山さんも飲むと、リミッターが外れるのかな?」

 青山はドキッとした。伊武の声はアルコールの影響か、少し低くなっている。妙に色っぽい。

 伊武も自分の声に驚いた。声帯を制御する筋肉にもエタノール成分は到達しているらしい。ゆるんでいるのか、ぐっと低い声が出ている。

「伊武さん、もう酔ったの?」

「頭は正常だけど、体がおかしい。これはとても楽しい現象です。青山さんもリミッター外れます?」

 何を言っているのかよく分からなかったが、完全に伊武に振り回されている気がした。

 こうなったらやけくそだ。

 青山も一気に水割りを煽った。

-9ページ-

【二人の朝】

 

 アラームが遠くで鳴っている。

 青山は目を覚ましたが、頭が割れるように痛い。

 目覚ましを止める。

 自分の部屋。自分のベッドだ。

 Tシャツとパンツだけにタオルケットをかけて寝ていた。

 どうやって帰ってきたのだろうか?全く記憶がない。

 ふと、横を見ると、背を向けて横になっている人がいて、腰が抜けた。

 胸元までシーツを掛けているが、どう見ても女性だった。

 心臓が止まりそうになった。次の瞬間、止まりそうになった心臓が、早鐘のように打つ。同時に頭が割れるように板脈打つ。

 後ろからだが、真っ白な背中とやや広い肩、ショーットカットに切りそろえた髪。

 間違いない。

 伊武れいだ。

 やばい、全く記憶にないし、何も覚えていない。

 まてよまてよ。

 なぜ彼女がここに?なぜ裸で寝ている?

 最悪だ。

 彼女と、安い居酒屋で、酒を飲んでいたところまでは記憶にある。

 まさかまさか?

 青山は痛む頭を抱えた。

 もし、そうだったとしたら、最低な男だ。

 酔って女の子に?

 アラームは毎日同じ時間に動作する。今起きないと、出勤に間に合わない。

 どうしたらいい?どうしたらいい?

 とりあえず、青山は恐る恐る、彼女の方に手をかけた。

 びっくりするほど冷たかった。

 生きているのか?

 不安になってよく見ると、呼吸はしている。ただ、とても深い呼吸だ。熟睡しているようだ。

「伊武・・・さん?伊武れいさん?」

 彼女に声をかけて、冷たい肩を揺すった。呼吸のリズムがすぐに変わり、何かが絡んだような咳を一つすると、彼女は目を開いた。

 彼女はゆっくりした動作で、上半身を起こそうとした。

「わ!とと」

 青山は顔を背け、彼女に素早くシーツを掛ける。間違いなく全裸だった。

「青山さん、おはようございます」

 とても今起きた人間とは思えない声だった。全く感情のない、事務的な響きだった。

 怒っているのか?感情を押し殺しているのか?

 彼女は青山に渡されたシーツと青山の顔を見比べ、意味を悟ったようにシーツを巻きつけ、そのままベッドの上に座った。

 何が起きたのか全くわからないが、とりあえず、謝ろうう。

「伊武さん!ごめんなさい!本当にごめんなさい!」

 青山はベッドの上で土下座した。

「なにがですか?」

 ベッドに頭を擦り付ける彼に聞こえてきたのは、いつもの伊武のホンワカした声だった。

 何だ、伊武のこの余裕は?自分は何も憶えていないので、全くわからない。

 記憶が飛ぶ恐怖は学生の時以来だ。

「全然覚えていません!僕は、何をしてしまったのでしょうか?」

 青山が顔を上げると、伊武が見下ろしている。伊武は驚いたような顔をしていた。

「何って?」

 一瞬、不思議そうな顔をしたが、急にびっくりしたような表情になる。

「ひょっとして、ぜんっぜん憶えていないんですか?」

 青山の気持ちの持ちようのせいか、咎められているような響きがあった。

「・・・はい」

「昨晩のことはどこまで覚えていますか?」

「伊武さんと、飲んでて、店にいたところまで」

 伊武は少し考えた。

 彼女の説明によると、こうだ。

 伊武との飲み比べの様相を呈してしまい、青山は意識不明に。おそらく寝不足だったからだろう、熟睡してしまった。

 仕方が無いので伊武が背負い、なけなしのタクシー代を出し、本庁の住所録で覚えていた住所まで送ってもらい、朦朧としている青山から部屋の鍵をゲット、住所録通りの場所に住んでいたので、鍵を開け青山をおろした。

 そのまま帰るつもりだったが、青山が水が欲しいとか、ベッドまで運んでほしいと言うので、言うとおりに、水を飲ませ、ベッドまで連れていき、ズボンを脱がせ、シャツを脱がせして、寝かせたそうである。

 うわ言のように、泊まっていっていいとか、自分の家と同じようにくつろいで、と言われたので、それに従ったと。

「でも、何故に裸?」

 れいは笑って答えた。

「自分の家と同じようにくつろぎました。私、家ではいつもこうです」

 れいは続ける。

「シャワーも借りました。砂糖も借りました。水もコップも」

 青山の耳には彼女の話ほとんど入らなかった。

「じゃ、じゃあ、何もなかったんだよね?二人の・・その・・・間には」

 れいは笑う。

「青山さんが心配するようなことは何も起きませんでした。青山さん、泥酔状態で、満足に歩けもしない状態でしたからね」

 青山は大きなため息を付いた。

「よかった。本当によかった」

 青山は完全に脱力した。泣きたい気持ちだった。

 酔って女の子となんて、最低だ。

「そろそろ出社準備をしないと。先に洗面所使ってもいいですか?」

「ああ、いいよ・・・」

「ではお言葉に甘えて」

 れいが青山に背を向けて立ち上がった。巻きつけていたシーツがベッドに落ちる。

 やはり全裸だった。

 真っ白な体、女の子にしては比較的広い肩幅、そのせいか、腰が余計細く見える。張りのある尻から伸びるまっすぐな脚。肉感的という表現は当てはまらないが、運動選手のような、バランスの良い体つきだ。裸足でフローリングをピタピタと歩き、すぐに廊下を曲がり、視界から消える。

 青山は、生唾を飲み込んだが、それをゆっくり鑑賞できないような、激しい頭痛に襲われた。

 

 ガンガンする頭の片隅で、彼女の立てる音が響く。

 伊武が洗面所を使っている。水の音。

 顔を洗っているのだろうか?他の音。

 髪の毛を梳かしているのだろうか?

 突如、数回飛び跳ねるような音がした。何をしているのか分からないが、頭に響く。

 

「青山さん、お待たせしました」

 ジーンズにスポーツブラだけで洗面所から出てきた。

 やはり彼女は着痩せするようだ。肩幅がある分、胸の大きさが目立たなのかもしれない。

 青山は完全に二日酔で正常な判断ができない自分を恨めしく思った。

「Tシャツだけそこでした」

 彼女は椅子にあったTシャツに首を通した。

 彼女は昨日と同じ服を着て出勤スタンバイ完了だった。

「青山さん、具合が悪そうなので、午前中だけでも休んだらどうですか?」

 伊武はメッセンジャーバッグをたすきがけにする。

「二日酔いで遅刻は論外」

 青山は無理やり体を引きずって、身支度を整える。

 伊武はそのままベッドに座って待つ。

 なんとか体裁を整えたが、顔色は土気色だ。

「やっぱ、酒臭いよね?」

 青山は伊武に聞く。

「多分」

 伊武に嗅覚はない。ごまかすために、鼻を摘んだ。

 青山は一気に水を飲む。

「よし、出発だ」

 バス、電車を乗り継ぐが、時々気持ち悪くなって、下車、駅のトイレで吐く。

 伊武は甲斐甲斐しく介抱する。

 青山はもう、当分伊武には頭があがらないだろう。

 本当に近所なのに、なかなか前に進まない。

 それでもなんとか時間前に本庁に到着。

 まずは4係のある階へ向かう。青山はそのまま、トイレへダッシュだ。エレベーターの動きが気持ち悪いのかもしれない。

 伊武は青山をおいて一足早く自分のデスクに荷物を置く。そのまま男子トイレの前で青山を待つ。

 周りはまだ誰も来て居ない。この課の人たちは時間ギリギリにやってくる。大概9時25分ごろになるとぞろぞろとやってくる。みんなある意味時間に正確だ。

 青山がトイレから出てきた。

「つらそうですね」

 伊武は心配そうに言う。

「大丈夫、死にやしないよ」

「何かできること有りますか?」

「ありがとう、もう大丈夫」

 伊武は青山の荷物を持つ。

「悪いね」

 青山はそのまま自分のデスクに座り込み、突っ伏した。

「何か有ったら呼んでくださいね」

 伊武は心配そうに青山のデスクを離れた。

 

 他のメンバーはやはり時間通り925頃にぞろぞろとやってくる。

「お、青山、二日酔いか?」

 石川が声をかける。

「あまり大きな声を・・・」

 青山は弱々しく答える。

 石川は鼻を鳴らした。

「石川さん、そっとしておいてあげてください」

 伊武が自分のデスクから小さな声をかける。

「飲み過ぎだなんて、自分の責任だろうが。学生じゃあるまいし」

「すみません、私が悪いんです」

 伊武がひたすら謝る。

 石川が伊武と青山を交互にみる。

「お、ひょっとして飲みに行った?」

 石川が興味津々という感じで言う。

「はい。昨日二人で飲み過ぎました」

 伊武が正直に答える。

「伊武さんはなんとも無いじゃん。青山、そんなに弱かったっけ?」

「彼女・・・ざるです。完全に負けました」

「青山やったじゃん、手応えは?」

 石川がデスクに半分突っ伏している青山と肩を組むと、青山はすぐに立ち上がりトイレにダッシュした。

 それを見た伊武も、デスクから立ち上がり、青山を追った。

「おお?」

 その様子を見ていた一同。

「二人、何か有ったな?」

 石川が他のメンバーの顔を見回した。

説明
 れい65は、試作ガイノイド。試験評価の納品先は警視庁のSP。人間を守る本能が彼女を突き動かします。VIva!Girls!外伝シリーズ、完全読み切り作品。70シリーズとも少しリンクしています。

 この作品の使用許諾条件を見るには、http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/2.1/jp/をチェックしてください。
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