STIPULATIO
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 夢を見た。

 それは獣の夢だった。舞台は自分にとって非常に馴染み深い場所、物心ついた頃から居る住まいだった。時刻は深夜を回っており、灯りの完全に落ちた城内を黒い影がうろついている。

 最初は誰かの犬なのだと思った。自身で鎖を解いたのか故意に解かれたのか、ともかく晴れて自由となった身の上を喜び、じゃれるようにあらゆる場所を探索している最中なのだと思った。

 けれど、彼は狼だった。犬とは比べ物にならない、豊かな毛並みと鋭い牙を持つ野生の獣だった。群れるを善しとせず、人に迎合せず敢えて孤高であろうとする黒毛の狼が一人、ザーフィアス城の中を彷徨っている。

 狼は外に棲む魔物の一種だ。それが何故、魔物の侵入を阻む結界を越えて中に入れたのか。加えて現れた場所が場所である。警備の厳重なはずの帝国の懐に、魔物が我が物顔で歩いているのだ。一体、夜警の兵は何を見ていたのかと彼女は城の兵士達の無能さに呆れた。

 息を潜めて様子を伺う皇女の目の前で、狼は静まり返った廊下をうろついている。磨き上げられた石の敷き詰めたられた床に、黒い姿が右へ左へ映り込む。狼は、明らかに迷っていた。出口を求めているのか、それとも何かを探しているのか。とにかく、思いあぐねている様が行動の全てに現れていた。今来たばかりの道を戻ったり、行き過ぎた場所を振り返って匂いを嗅いだり、かと思えば突然急に立ち止まったり、とても目的あっての行為には見えなかった。

 人に頭を垂れるを良しとせず、権力に決して膝を屈しない孤高の獣。そんな彼が、何故帝国の心臓部にやってきたのだろう。ここは己の信条と相反する場所だ。きっと訳があってのことなのに、当の本人は気づいていない。敢えて考えないようにしていたのかもしれないが、どうやら無意識のうちに因縁の地へやってきてしまったようだ。

 踊り場で鼻を鳴らし、床を嗅ぎまわっている彼に、皇女はそっと近づいた。獣が耳をぴくりと蠢かし、低く唸る。だが彼女は構わず狼に向かい、手を伸べた。相手は魔物なのに、彼女の柔らかい肉など一瞬で引き裂く爪と牙を持っているというのに、皇女は不思議と怖いと感じなかった。

 それだけ、彼女は目の前の獣に知性を感じていた。黒い毛並みに黒い瞳。人に飼われる犬よりも精悍で、野に巣食う魔物より理知溢れる面立ちをしている。だから無闇に人へ危害を加えたり、吼えたりすることはないと思えたのだ。

 この狼は自分を傷つけたりはしない。理由なく噛み付いたりしない。そうでしょう、と心の中で黒い瞳に問いかけた時、目が覚めた。

 

 

 

 砂漠は暑い。マンタイクは泉を中心に作られた街であるが、日中の日差しは故郷と比べ物にならないくらいに強かった。けれどもこの日の熱気は嫌なものではない。街が圧制から解放され、自由の歓喜に沸き返る人々の息吹だからだ。宿の外から聞こえてくる喧騒に目を細めつつ、エステルは本を閉じる。一息ついてふと上げた視線の向こうに、外へと続く宿の扉が目に入った。

(そういえばさっき、ユーリが出て行きましたっけ。フレンに挨拶してくる、と言ってましたけど……)

 何が起きても動じたところを見せない、フレンの幼馴染みにして元帝国の騎士。だが傍で耳にした皇女でさえ、挨拶に行くと言った声の硬さが引っかかった程である。だが、と彼女は改めて周囲を見回す。

 ここは街中。それに、あの二人のことだ。世間を知らぬ自分が心配すること、心配できることは何もない。仮に何かあったとしても、駆けつける前に全て片がついている光景が目に浮かぶようで、彼女は思わず苦笑しまった。

 彼が別行動を取ったことを皮切りに、皆は散開していた。外はお祭り騒ぎである。踊り足りないリタは再び外に出てゆき、ジュディスは酒を求めて宵闇へ消えていった。完全に熟睡しているレイヴンを、カロルが宿の主人と一緒になって寝台へ運んでいる。

 特に用事もなかったエステルは、先に休んでいようと宛がわれた寝台に手を掛けた。その足元を、青い影がすり抜ける。

「ラピード?」

 声を掛けると少し行った先で立ち止まった。そして、首だけを僅かに曲げてこちらを見てくる。無言で人を誘う仕草は、飼い主に良く似ていた。

 皇女は迷ったが、結局犬の後を追うことにした。ラピードがこんな風に誘うのは珍しい。戦闘が終わった後でも皆にはじゃれ付くのに、自分にはとことん素っ気無いから、尚更奇異に映った。あのラピードが自分を呼んでいる。よほど、意味のあることに違いないと皇女は考えたのだ。

 街外れに向かう小道の脇へ、獣が迂回する。星の瞬く夜空を遮るように葉を伸ばす木陰の下で、皇女はラピードと共にしゃがみ込んだ。茂みの向こうに直ぐ二人の姿がある。

「盗み聞きは、良くない、と思いますが……」

 何となく窘めるように語り掛けるものの、獣は頑として動こうとしない。見つかったら何て言い訳をすればいいのやらと、内心肝を冷やしていた皇女だったが、聞こえてきた会話が全てを吹き飛ばした。

「何故、キュモールを殺した。人が人を裁くなど許されない」

 エステルは思わず口元を覆った。塞がなければ、悲鳴を上げているところであった。

(殺し、た? ユーリが?)

 指先が震える。

(そんな、まさか)

 嘘だ、と。嘘だと言ってくれと、エステルはユーリに、そんなことしていないと否定して欲しかった。

だが。

「なら、法はキュモールを裁けたっていうのか!? ラゴウを捌けなかった法が?」

 冗談言うなとせせら笑う彼は、彼女の知らない男のようだった。

 だが最初の衝撃が過ぎると、エステルの記憶の中で腑に落ちることが多くなっていった。

 キュモールが行方不明になったことが話題に上った時の、妙な空々しさ。僅かに泳いだ視線。瞳の暗さ。

 光のない黒の瞳を見開いたまま、男は吐き捨てる。

「いつだって、法は権力を握る奴の味方じゃねえか」

「だからといって」

 反論するフレンの声はかすかに震えていた。

「個人の感覚で善悪を決め、人が人を裁いていいはずがない!法が間違っているなら、まずは法を正すことが大切だ」

 そのために、彼は騎士団に属しているのだと言い切った。騎士の叫びは、等しく皇女の叫びでもあった。

 法は施行されてこそ効力を発揮する代物である。故に法律を公布する側に自然と力が集中してしまうのだが、その現実に為政者は気づかず、あるいは無視してしまう。民の中には法の不公平さ憤りを覚える者も現れるが、歴代の為政者により塗り固められた体制の壁の前に結局は膝を突く。そんな体制の中にあって、尚も改革の意志を持ち続けるフレンは帝国でも稀有な人間であった。

 フレンの言い分は正しい。人は人を裁けない。何が正しく、何が間違っているかを判断することは個の手に余るからである。善悪の判断は難解だが、社会にとって必要不可欠な要素だ。だからこそ、万人に共通の概念として法が生まれた。故に悪と判断された者に裁きを下すのは法の役割である。故に善悪を個人で決めてしまうことは、法を侵すことと同義だった。

 けれど、と少女は胸を押さえる。背後から聞こえてくる酔いの混じった喧騒が、目の前の会話の深さをより一層際立たせた。

「あいつらが今死んで、救われた奴がいるのも事実だ」

 明るい歓声。解放感に満ち溢れた祭の音。手拍子と鈴と、鳴り止むことの無い太鼓と、笑い声。キュモールが居た頃は欠片も見られなかった光景だ。法が事実であるのと同様、この祭囃子もまた事実であった。

 男の声は冷ややかだった。つっけんどんで、どこか突き放すような鋭さがあった。

「お前は助かった命に、いつか法を正すから、今は我慢して死ねって言うのか」

 騎士は一瞬詰まったが、それでも断固として否定した。それはそうだろう。彼が今まで訴えてきた言葉はそういう意味で発せられたものではないのだから。けれど、フレンもまた気づいているはずだ。皇女と同じように、法を施行する側にいるからこそ気づかざるを得ない矛盾が存在することを。

「いるんだよ、世の中には」

 男は苛立たしそうに言葉をぶつけた。どこまでも頑なに法を、帝国を守り抜こうとする友に対し、それでも理解を求めるように。自分の行為が葛藤の末に下された決断故なのだと、それだけでも理解してもらえるように。

「死ぬまで人を傷つける悪党が。そんな悪党に、弱い連中は一方的に虐げられるだけだ」

 少女の胸に鈍い痛みが走る。ああ、確かにそうだとエステルは心から男に同意した。

 沢山、見てきた。これまでに立ち寄った街で、港で、大勢の人が苦しみ、もがき、息絶えていく様をこの目で見てきた。目を背けたくなるような事実も、城の中では知り得なかった残酷な現実も、彼と一緒に見てきた。

 だから分かる。力とは、弱き者を守るために存在するのだと。権力も武力も自分を守るためではなく、弱者を救い、守り抜くために与えられているのだと。

 だから、男は剣を抜いたのだ。己が力ある者と自覚していたから。保身を棄て、他者を守り、救う使命に目覚めたから。

 だが帝国の騎士は、あくまで騎士としての立場を貫こうとしていた。

「それでも、ユーリのやり方は間違っている。そうやって、君の価値観だけで、悪人を全て裁くつもりか。それは、もう」

 少女は思わず目をきつく閉ざした。続く言葉を聞きたくなかった。フレン、もうやめて。これ以上ユーリを追い詰めないで。お願いだから。

「罪人の行いだ」

 そう断じた彼の言葉が、少女の心を容赦なく抉った。打ち込まれた楔の先端から生じた日々は瞬く間に四方へと広がり、やがてそのものを破壊した。破片となって瓦解する物音が耳元で響く。

 だが騎士の言葉を受けても、男は全く動じなかった。まるで最初から相手の答えが分かっていたかのように、逃げもせず、逆上すらせず、ただ淡々と肯定したのである。

「わかってるさ。わかった上で、選んだんだ。――人殺しは罪だ」

 静かな声。穏やかな声。宵凪ぎの渡るだけだった空に、一筋の風が吹く。己の肩を抱き締めるしかないエステルの目の前に、桃色の髪がひと房、煽りを受けて舞い上がる。

「わかっていながら、君は手を汚す道を選ぶのか」

「選ぶんじゃねえ」

 わざと嫌な物言いをする騎士の言葉には哀しみが溢れていた。相手を煽るような言い方をすることで、意見の翻ることを期待しているのだ。だが、対する男の返答は短かった。僅かに笑いを含んでもいた。

「もう、選んだんだよ」

 諦めににも似た口調。それは、覚悟を決めた者だけが発せられる雰囲気だった。死に際の母がそうだったように。

「それが、君のやり方か」

 長い沈黙の後、騎士がぽつりと呟いた。 

「腹を決めた、と言ったよな」

「ああ、でも、その意味を正しく理解できていなかったみたいだ……」

 そう嘆息してフレンは空を仰いだ。月明かりに伸びた二人の影が、砂にくっきりと描かれている。満天の星の元、語り合う二人の距離は近いのに、とても遠かった。

 耳障りな金属音が、ふいに轟く。鎧が鳴る音だ。思わず見ると、騎士が剣把に手を掛けていた。

「……騎士として、君の罪を見過ごすことはできない」

 押し殺すように、自分に言い聞かせるようにフレンはそう断言した。流石のユーリも相手の本気に身構えている。片足を引き、何時抜かれるとも知れない騎士剣を凝視する。これ以上見ていられなくなって、エステルは腰を浮かした。

 その時、小道を駆けてくる軽い足音がした。慌てて頭を引っ込めた茂みの隙間から見えたのは、赤茶の髪の軍服であった。副官のソディアは一言二言伝言をフレンに告げ、ついでにユーリをひと睨みした後、元来た道を立ち去った。

 騎士の手は既に柄から離れていた。ソディアの登場は話の腰を折った格好になったものの、男に背を向け小道を帰る彼は、寧ろどこか安堵の表情を浮かべていた。

 男は再び独りになった。友もなく、敵もなく、彼の心の内を知る者、知ろうとする者は誰もいなくなった。そんな孤独な男の側に、エステルは無性に行きたいと思った。彼の側にありたいと思った。孤独を強く感じているであろう今だからこそ、側にいたいと。決して独りではないことを伝えたくて堪らなかったのだ。

 だが、このまま駆け寄ってよいものかどうか実際問題悩むところである。何故なら今、ここで姿を見せてしまったら、それは立ち聞きしていたと自ら明かすようなものだからだ。一刻も早く隣に行きたいのは山々なのだが、気まずい状態で傍らに立つのも別の勇気がいる。

 エステルがどうしたものか悩んでいると、ふいに隣のラピードが立ち上がった。獣の動作に淀みも迷いも全くない。物音一つ立てずに四肢を伸ばすと、そのまま茂みの向こうへ突っ込んでいった。

「あ、だめ、ラピード」

 エステルは咄嗟に手を伸ばすが、それで止まるようなラピ―ドではない。少女の制止を物ともせずに、犬は青年に駆け寄り、そのまま足元にじゃれ付く。

 茂みの中で思わず立ち上がってしまったエステルを見て、男はひどく驚いていた。黒い瞳がまん丸に見開かれているのが、夜目にも分かる。

「ユーリ……」

 言いたいことがあった。でも、何と告げればいいのかわからなかったから、近くに歩み寄るしかできなかった。

「全部、聞いてたのか」

 静かな叱責に返す言葉が見つからない。だから彼女は項垂れ、頭を下げるしかなかった。

「ごめんなさい」

 軽く息をついて、男が近づく。エステルは身を僅かに竦ませた。

「俺のこと、怖いか?」

 怖い、のだろうか。男に言われるまでもなくエステルは自問する。果たして自分はこの人が怖いのだろうか。この人の背負う罪の禍々しさに怯えたから息を呑んだのか。この人の血塗られた手に汚されるのを恐れて、身を引いたのか。

「嫌なら、ここまでにすればいい。フレンと一緒に帰れ」

 違う、と少女は思った。そうじゃない。自分がユーリに過剰反応したのは、そんな理由からなんかじゃない。

「帰りません」

 ここにきて、幼少の頃より叩き込まれた礼儀作法が役に立った。この世界を統治する唯一無二の帝国、その玉座に近しい者として相応しくある態度がどのようなものであるかを彼女は熟知していたのである。

 エステルは顎を引き、胸を張って堂々とそう宣言した。予想通り、男がいきり立つ。

「おまえ」

「ユーリのやったことは、法を犯しています。でもわたし、わからないんです。ユーリのやったことで、救われた人がいるのは確かなのだから」

 ここにも宴の声が流れてくる。どの顔も生き生きと輝き、怯えや絶望はもう、どこにもない。彼らを苦しめていた元凶を、彼が排除したからだ。法の執行を待たず、また法を盾に圧制を敷き続けたキュモールに対して法自体が意味を持たぬことを知った上での、行いだった。彼の取った行動で、一体どれだけの人が救われたことか。どれだけの命が助かったことか。

「いつか、お前にも刃を向けるかもしれないぜ?」

 誰に向けての皮肉なのか、微かに笑みを浮かべて男は言う。だが少女は軽く首を振った。

「ユーリは意味もなくそんなことをする人じゃない。……もし」

 そう、もしも。そんな事態に陥ったなら、それはきっと。

「もし、ユーリがわたしに刃を向けるなら、きっとわたしが悪いんです」

 この人は、とエステルは改めて思う。衝動で剣を抜いたわけではない。感情だけで死に追いやったわけではない。人々が苦しんでいるのを見、悪政を敷く人間を見、正す方法を法に求め、そして法に裏切られた。けれどだからといって見捨てて置けるはずもなく、助ける方法は武力排除以外に無いのかと悩みに悩んで、考え抜いた末、行動を起こしたのだ。

 誰もが仕返しに怯え、圧制が当たり前のようになる中、唯一人彼だけが立ち上がった。誰かが手を汚すのを待つのではない。泥なら自分が被ろうと。たとえ非合法の報いを受けたとしても、受け止めるだけの覚悟も剣術も持ち合わせているから。

 少女は尊敬と親愛を込めて手を差し出した。これからも旅の道中、この人の背中を見続けられるように。あわよくば側にいられるように。彼が自分のことを、そんな風に求めてくれるように。

 もう何も怖いことは何もなかった。怯えも萎縮も彼に対して覚えなかった。ラゴウとキュモールの殺害に至る、苦悩の道のりを知ったように思ったからだ。

 彼は躊躇っていた。覚悟していたとはいえ他者の血で穢れた己の手を見、果たして彼女の手を取っていいのか迷っているように見えた。だからエステルは笑みを深くする。大丈夫だと、これからもどうか宜しくと、促すように笑った。

 男は少女の手を握り返した。おざなりなものではない、しっかりとした握力に何故だか嬉しさを覚える。思わず頬を緩めるエステルに、相手は不思議そうな顔で訊ねてきた。

「あんた、自分が殺されるかもしれないってのに、よく俺に触れるな。人殺しが怖くないのか」

 エステルは呆れて、思わず肩を竦めてしまう。

 人殺し。確かにユーリは殺人者なのだが、それは事実の一元的な解釈に過ぎない。真実を把握するためには、人のとった行動の裏づけを取り事実をより多角的に判断すべきなのだ。彼女はそのことを、この一件でよく理解することができていた。

「さっきも言いましたでしょう? ユーリはむやみやたらに人を傷つけるようなことは絶対にしないって。……それに」

 怖いわけがない。恐ろしくなんかない。人殺しだとか、そんなものは関係がない。何故なら自分にとってこの手は。

 彼女は握っていた男の手を広げさせ、自分の頬に宛がう。

「この手はわたしを、城から連れ出してくれた手です。世界の広さと、現実を教えてくれた手です。それをどうして恐れることがありますか」

 成り行きのようなものでしたけれど、と当時の遣り取りを思い出してエステルは微笑む。

 馴染みの騎士フレンの身が危ないとの極秘情報を得た彼女が、単身彼の元へ向かおうとした時のことだ。皇女である彼女を城から出すまいとする騎士に行く手を阻まれ、武力行使も已むなしと剣を抜いた矢先、偶然彼と遭遇した。彼の正体がフレンの友ユーリだと知れて、ならば共に行こうと半ば強引に同行を願い出たのが始まりだった。

 今にして思い返せば、いかに自分のとった行動が無謀で無計画だったかが分かる。城の中から出たことのない、世間知らずの姫君の世話を焼くのは大変なことだったろうに、大人な彼は嫌な顔一つせず付き合ってくれた。駄目な時はきちんと叱ってくれたし、教えてくれと願い出れば、どんな些細な事も教えてくれた。お陰でエステルは文字通り路頭に迷わなくて済んだのだし、無事にフレンにも巡り合う事ができた。

「あなたを恐れることはユーリ、それはあなたを侮辱することです。あなたと出会った当時のわたしは、何も知らない皇女でした。世間を知らず、帝国の闇を知らず、騎士の横暴を知らずに外へ向かおうとした、無謀な貴族でした。そんなわたしを、ユーリはここまで連れてきてくれた。途中で愛想を尽かされ、投げ出されても文句など言えない、我侭放題だったわたしを、ユーリはここまで連れてきてくださった。本当に感謝の言葉もありません。その恩人が、たとえ咎人だったとしても、むやみやたらと怯えたり恐れたりすることは、それこそ人の道に悖るのではないかと、わたしは思うんです」

 全ては彼の助力の賜物。ここまでの道中、見捨てたりせず付き合ってくれたからこそ、今、彼女はここにいる。ここにこうして、彼の目の前に立っていられる。苦労と手間を惜しまず自分を連れてきてくれた人を、どうして恐れることができるだろう。

「……ま、一理だな」

 男は笑ってそう言い、そっと自分の手を取り返した。真面目な話をしていたつもりなのに、何だか茶化されている気がしてエステルはむきになる。

「一理じゃありません。真理です」

「分かった分かった」

 ぞんざいに手を振られるものの、男の目は優しかった。少女はひとしきりむくれた後、ふいに自分の手に視線を落とした。つい先程まで触れていた、大きな甲の温もりが蘇る。何て小さい、と唐突に彼女は思った。彼とは違う、小さく華奢な手である。男のように屈強な握力を持たず、仮に剣を振るっても遠く及ばない。唯一秀でているとすれば、治癒能力を備えていることくらいか。それも、今となっては怪しいものであるが。

 世界の毒。そう呼ばれた時、途方もない衝撃を受けた。他者を癒すと思っていた力を毒と呼ばれたのである。使えば使うほど、誰かを傷つけ汚し、死に至らしめるなど思いもしなかった。

 自分のことなのに、知らないことが沢山あった。世界が本で知るより多くの知識で溢れているように、自分の力には様々な意味が隠されていた。その片鱗でも知れたら良い。いや、是が非でも知らなければならない。今後の身の振り方を考える意味でも、彼女は彼女自身のことを、もっと良く知らねばならないのだ。

「わたしの力って、一体何なのでしょうね」

「治癒能力だろ」

 あっさり男が答える。だがエステルが言いたいことはそういう意味ではない。

「それだけでないことは、ユーリも知っているでしょう。世界の毒――癒しとは正反対の言葉です。それが一体何を意味するのか……。それに、これは前々から感じていたことなんですが、わたし以外に、わたしと同じような力を持った人間がいないというのも不自然すぎるように思えるんです。もしかしたら、癒しや毒以外にも、何か別の効力があるのかも知れません。そう考えなければ辻褄が合わないことが多すぎます」

 考え考え疑問を口にする少女に、剣士も思わず胸の前で腕を組んだ。

「確かに、治癒術としちゃあ強力無比だもんな。お陰で助かってるけど、あのリタが目をつけるくらいだ。ぶっちゃけた話、あんたの力は魔導器として見ても相当なもんなんだろう。万が一制御できなくなった時が、ちっと怖いな」

「でも、そうなったらユーリが止めに来てくれるでしょう?」

 確たる証拠もなかったが、エステルは不思議な自信を持ってそう言っていた。この人は、きっとそうする。彼女には妙な確信があった。

「だから、安心して……という言い方はおかしいですけれど、わたしは力を使うことが出来るんです」

 エステルは胸元で、くすぐったそうに己の指を絡める。足元ではラピードが語る彼女のことを見上げていた。その青毛を優しく撫でてやりながら少女は続ける。

「もし、わたしが人の道を失ってしまったら、止めに来てください。ラゴウやキュモールと同じように」

 エステルは犬と戯れていた手を膝に乗せ、しゃがみ込んだままにっこりと笑った。

「必ず止めてくださいね、ユーリ」

 何故あの時の自分は、ふいに不謹慎な話題を持ち出したのだろう。何か予感でもあったのか。いつかこうなるのではないかと、薄々感づいていたからなのか。今となっては、もう確かめようがない過去である。

説明
ユリエス本「STIPULATIO」冒頭部。
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