ねこまたたび
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 今となっては記憶が曖昧になってしまっているけれど、小学生、それも低学年のころ、秋のことだと記憶している。

 道路のあちらこちらに散らばった、赤かったり黄色かったりする葉っぱが無暗に目に痛いなかで、黒毛の子猫が茶色い段ボールの中で、にゃあにゃあ鳴きながら鎮座していた。

 幼い自分は愛嬌に負け、それを家に持ち帰り、すったもんだの議論の末に、子猫の飼育権を獲得した。

 自分が何らかの事柄を継続して始めるようになったのは、ひとえにこの「テン」のおかげだと思う。

 彼女――雌猫だった――の世話のために、使ったこともなかった図書室で本を読んだり、よさそうな餌を買ってやるために、週に一度の駄菓子屋を我慢したこともあった。

 それらの行動は、間違いなく幼い自分にとって、基調で有益な経験となったし、高校生となった今でも感謝している。

 家族の反対はもともと弱く、気づけば数カ月もたたぬうちに、テンは家族の一員となっていた。

 一人っ子の自分にとっては兄妹のようで、両親にとっては娘のようだった。

 

 テンは昔から聡明な猫であった。

 何が聡明かと言われれば、トイレはすぐに覚え、教えられたことは必ず守り、親戚の子供に撫でまわされても、暴れることなくじっとしていたくらいだ。

 同じく猫を飼っていた同級生からは「こいつ犬じゃないの?」という愚痴を受けたほどである。

 なるほど確かに猫じゃらしに反応せず、おもちゃの類にも興味を示さない点では、ひどく愛嬌のないペットである。

 それでも見ていればかわいらしいではないか、といった発言にはその同級生も同意してくれたが。

 

「考えてみれば、去勢してないんだよな」

 

 そんなことを言いながら、自分はテンの背を撫でた。

 

「……にゃ」

 

 こたつの中はさすがに暑過ぎるのか、いつも布団の外側で香箱座りをしているテンは、尻尾を軽く立てながら、まんざらでもない顔をしたように見えた。

 生まれた年は正確にはわからないけれど、恐らく十才は超えているだろう彼女は、人間の十倍と言われるほどの年を重ねてなお、つややかで美しい毛並みを保っている。

 これといった病気もしておらず、家猫であることもあり、仔を孕んだためしもない。

 

「お前も子供がほしいかー?」

 

「にゃあ……」

 

 黄色い目を少し細めながら、まるで軽く受け流すように鳴く。

 こんなどうしようもない時間は、ずいぶんと長続きするものだ。

 

 いかんせん冬休みというのは暇で仕方がない。

 そう思いながらも、今ここにあるコップの中のコーヒーが尽きるまでは、こたつの温かさに浸っていたいと思ってしまう。

 こたつの中で丸くなるのは自分のほうだな、と一人で少しだけ笑った。

 

 

 昔から、テンにはよくわからないことができた。

 それは賢いからとか、そういった条理を超えていて、自分以外は親さえ知らない。

 彼女は影に触れることができた。

 その真っ黒い前脚を、地面を這う二次元的な薄い黒にひたすようにぶつけると、その影はぐにゃりと形を動かされる。

 そしてその影を作り出す物体に目線を移せば、ある種の前衛芸術のごとく、反らされたように捻じ曲げられていた。

 

 時折テンの尻尾が二つに割れて見えるのは、気のせいではないと思う。

 

 今日両親は親戚の家に行っている。

 昔はよく一緒に付いていくことが多かったけれど、ここ最近は部活が忙しかったりしてタイミングが合わず、行き損ねている。

 今日も午前中の部活が邪魔をして、明日の昼までテンと二人……いや、一人と一匹きりであった。

 こういった日は、なかなか無い。

 

 がしゃがしゃとコップを洗い、軽くふきんで拭いて棚に戻すとき、テンがこちらにやってくるのが見えた。

 彼女はいつも足音をたてず、気づけば後ろに居たりするので、心臓に悪いことがある。

 

「どうした、腹減ったか?」

 

「んにゃー」

 

 どうやら違うようだ。

 確かにまだ七時前で、夕飯の時間には早い。

 母がチンして食べるようにと残しておいてくれた夕飯はあるけれど、まだ自分もお腹は空いていない。

 

「にゃー」

 

 テンはその尻尾を左右に揺らしながら、台所を出ていく。

 あちらにあるのは風呂場である。

 

「……風呂?」

 

 自分が呟くようにそう言うと、向こうの部屋から肯定するように、短い鳴き声が聞こえた。

 

 

 テンと一緒にお風呂に入るだなんて、本当に何年振りだろうか。

 そもそも猫は水嫌いだと聞いていたし、テン自体も毛嫌いこそしていないけれど、そう水場を好んでいるようには思えなかった。

 

 自分が運動疲れの溜まった体を、温かい風呂の中に横たえる。

 冬の寒さに凍えた毎日の中で、入浴というイベントの心地よさは犯罪的だ。

 ちらと横を見ると、テンは洗面器の水を使って水遊びをしている。

 前脚でちょんちょんと水面を揺らして、それに移るぼんやりとしたオレンジ色の電灯のあかりが、千切れたりくっついたりするのが面白いらしい。

 

 そのさまを、笑みを隠しきれずに眺めていた自分は、気づけばずいぶんと長湯をしてしまっていた。

 だいぶ時間が経ってしまったと、風呂桶のふちに手を付き、ぐいと体を持ち上げようとする。

 

 ぐらり、と傾く風景。

 

「おぉ……っと」

 

 あわてて壁に手を付く。

 思っていた以上にのぼせてしまっているようだ。

 気づけばテンも、風呂場のドアを開けてもらいたがっている。

 

「ごめんなー、暑かったよな」

 

 少しふらつく足をなんとか踏みしめて、風呂場のきぃきぃ音のする扉を開く。

 冷たい風が一気に吹き込み、あわててバスタオルを取ろうと手を伸ばす。

 

「……げっ」

 

 そこまで来てようやく、バスタオルを風呂場の近くに置き忘れてしまった事に気づいた。

 こういった細かいことを、いつも親にばかり頼んでおいた自分の浅ましさを恨まずにはいられない。

 

 考えてもみれば、二階のベランダに干してあるバスタオルを取りこめるのは、親が出払っている以上、自分一人だ。

 思わず悪態を付きそうになる自分を抑え、フェイスタオルで軽く足の水を拭き取る。

 体を濡らしたまま、服を着られるほど自分は無神経ではない。

 

 ぶるぶると震える体を動かし、何も持たずに急いで階段を上る。

 布団も敷かれていない親の部屋に入るころには、すっかり体が冷え切ってしまっていた。

 この上、外気漂うベランダへの窓を開けようというのだから、風邪を引いてしまわないか心配だ。

 

 寝室の電気を付ける。

 かち、かちんとひもを引っ張れば、それはあっけなく人工的な光を灯す。

 少しだけ目がくらむ。

 

 深呼吸をし、意を決してベランダへ通じる窓を開けた。

 びゅう、という風が拭きこむとともに、足に冷たい水が滴った。

 

「……なんとか、無事か」

 

 雨が降っていたのは知っていた。

 雨自体は数時間前に止んでいたが、すっかり取りこむことを忘れていたバスタオルは、幸い屋根によって守られたようだ。

 代わりにベランダがびしょびしょである。

 

 一安心したけれど、これ以上冷たい風を体に浴びせたくないと言った気持ちで、目線をバスタオルに釘づけにしたまま、ベランダに足を踏み入れた。

 

 そして、不注意だった足はあっけなくつるりと滑り、体重はそのまま前方へ向かって、頭がベランダの床に激突した。

 激痛が頭部から体全体を走り抜け、寒さで体中が自分の体でないように思えるほど震える。

 

 真っ暗で民家の後方ばかりに面しているベランダで倒れこんでいる自分に気づいてくれる人はいなかいだろう。

 なぜか冷静にそんなことが頭に浮かぶ。

 ぬるりとまぶたに垂れてきたのは、どうやら自分の血らしかった。

 

 うぅ、とうめき声を上げながら、なんとか体を起こそうとするが、ぐわんぐわんと耳鳴りが続き、思うように手が動かない。

 がたがたと震える体では、体を温めることも無理だった。

 腰がベランダと部屋の床との間の段差にあたっていて、動かそうとしても、ふやけた皮膚をさらす裸体が擦れ、痛みが走る。

 

「にゃあ! にゃああ!」

 

 ちょうど顔の近くで、テンが鳴いているのに気が付いた。

 すぐ傍で必死に鳴いているのに、なぜだか壁一枚挟んだところから聞こえるように思える。

 その顔つきは見たこともないほどに必死で、尻尾から顔まで、体中の獣毛をそばだてている。

 

 黄金色をしたその目と、自分の目があった。

 彼女が心から、自分のことを心配してくれているように思えた。

 頭の傷口ばかりが熱く、一方で手足の感覚は冷たさによって奪われている。

 

 ごめんな、と言えるほどの体力は、既に自分にはないようだった

 ただ意識だけがぼんやりと残っているだけで、少しずつ体が動かなくなっていくのがわかるばかりだ。

 

 途中でテンの鳴き声が聞こえなくなったのは、単に耳が聞こえなくなっただけなのかと思った。

 揺らぐ視界の中に、テンはいない。

 顔を動かすこともできず、彼女がどこに行ったのかはわからなかった。

 

 視線を動かしているうちに、寝室から漏れる蛍光灯の光に照らされて、影が出来ていることに気が付いた。

 

 その影の上。

 テンの黒い前脚が触れている。

 

 ぐにゅり。

 

 テンはどこかを潰したようだった。

 急に足が生温かく感じられる。

 

 ぎゅうう。

 

 腰も温かい。

 

 ぎゅううう。

 

 お腹も、下からどんどん温まっていく。

 

 ぎゅうううう。

 

 どんどん体が温かくなっていく。

 あたたかい毛布に包まれるのにそっくりだった。

 でも、一緒に何かが、違う。

 

 ぎゅううううう。

 

 何が違うのか、足を動かそうとしてみる。

 すると、違うものがくっついていることに気が付いた。

 

 これはなんだろう?

 ふらりと揺れる

 

 ぎゅうううううう。

 

 手が温かくなっていく。

 でも、なんだかうまく動かない。

 がくりと、体がベランダに落ちる。

 

 動いてもいないのに、なぜ?

 

 ぎゅううううううう。

 

 頭も何か温かく包まれていくようだった。

 でも、同時に頭の焼けるような暑さは、すっかり消えていく。

 

 すっかりベランダの上で寝ころんでいた自分がいた。

 まだぼんやりとしていたが、痛みが消えた体をなんとか動かそうと試みる。

 

 自分はその時になってようやく、自分が二本足で立てなくなっていることに気が付いた。

 

 手だったはずの震えるそれは、既に指すらも存在せず、代わりに何か短いものがくっついているだけのように思える。

 足に力が入らないのは確かだが、つま先の伸び切った奇妙な形のそれは、恐らくそれだけで立ち上がることに適していない。

 股の間で尻尾が揺れる。

 

 体中を温めてくれたそれは、毛布どころかまさしく毛皮だった。

 夜のように黒く雨に濡れて光沢を見せるそれは、テンの毛皮と瓜二つの、薄く伸びた影のような獣毛。

 心地の良さは一級品だ。

 

 どうやら自分は雄猫となり果ててしまったようだった。

 前脚で軽く頭をかいてみれば、ピンとたった耳が確認できる。

 傷痕はなかった。

 

 まじまじと自分のやわらかい体を物珍しげに見つめていると、テンが申し訳なさそうな顔をして自分を見ていることに気が付いた。

 それを「申し訳なさそうな顔」だとわかったのも、いつもより彼女がかわいらしく、いや……美しく見えたのも、たぶん彼女と存在が近寄ったからだと思う。

 

 言葉(というか鳴き声)が交わされることはなかったが、表情と細かな仕草が彼女の言わんとすることを思い浮かべさせた。

 きっとこのほかに方法がなかったのだろうとは思う。

 

 今となってははっきり見える彼女の二本の尻尾を眺める。

 

 震えの残る前脚と後脚をなんとか駆使して立ち上がり、自分の鼻を彼女の鼻に、ちょんとぶつけてみる。

 昔見たテレビの見よう見まねだけれど、きっとこういう仕方が正しいはずだ。

 

 彼女は少しだけ驚いたようだったけれど、彼女はすこしうれしそうな顔をした。

 

 しばらくして、彼女はこの家を出たがっていることがわかった。

 きっとベランダの空いている今なら、逃げ出すことも容易だろう。

 自分もこのまま家にいるわけにはいかない。

 

 彼女がベランダの手すりの隙間から屋根に飛び降りる。

 そして、屋根の上から自分を見つめた。

 黄金色の瞳がきらりと光る。

 

 だいぶ落ち着いて、少しは動かすのを慣れたこの体で、自分は彼女の元へと降り立った。

 これから、二匹っきりの毎日が待っている。

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