シティ・ブルース
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 エレベーターは最上階を目指して疾走していた。表示盤の数字は調子よく繰り上がっていたが、目的地まではまだ少し時間がかかりそうだった。床に敷かれた緑色の絨毯は厚く、足音一つ立たなかった。壁は艶のある木材で仕上げてあり、椅子が一つ、角にくっつけて置かれていた。天井にカメラが一台設けられている。

 私はしばしの間視線を丸いレンズ面に置いて、それから表示盤へと滑らせた。そろそろ着く頃だ。エレベーターは減速し、私は僅かに床に押し付けられていた身体がほぐれていくのを感じた。それと同調して表示盤の動きも緩やかになり、やがて三十階を指して止まった。扉が開いた。

 フロアには小さなロビーがあり、ドアが三つ、備えられていた。私は真ん中のドアに近づき、ベルを鳴らした。一瞬、ドアに付けられた覗き窓が濡れたように光った後、ロックが解除されたと思しき音がした。把手を押すと扉が開いた。私は中へ入った。

 薄暗く細い通路を歩き、奥へ進んで部屋に入った。天井の高い部屋だった。一面は全てガラス張りで下の街の様子が見て取れる。そのガラス面の側の籐製の安楽椅子に、女が一人、座っていた。年は二十過ぎだろうか。もっと若いかも知れない。小娘だった。

「何か用かしら」女は抑揚のない声で言った。

 私は少しの間、彼女を見つめていた。抜けるような白い肌と薄く茶色がかった緑の瞳には吸い寄せられたが、それに比べて口と鼻は小さくて目立たず、全体的にはのっぺりとした印象の顔だった。髪は黒く短めで、身体つきは良く言えば繊細、そうでなければ貧相な感じだった。

 観察は程々にして、私は口を開いた。「あなたがミアンさん?」鞄を降ろして名刺入れから一枚、自分の名刺を抜き取り、彼女の側へ行って差し出した。彼女は受け取らなかった。私はサイドテーブルの上に名刺を置いて下がった。「あなたのご両親のご依頼で参りました。今日からあなたのボディ・ガードを勤めさせていただきます。と言っても、そんな大したものではありません。あなたが外出される時にお供させていただくだけです。私のような人間が若い女性と四六時中べったり、という訳にはいきませんからね」

「ああ、そう」

「ここはセキュリティもしっかりしていますし、私は外の使用人の部屋にいますから、外出時はお声をかけてください。くれぐれも一人では出歩かないようにお願いします。面倒でしょうが、ご両親も心配されていますし、私も仕事ですから」

 彼女は無表情に私を眺めていた。

「とりあえず今日から一週間はご一緒させていただきます。そういう契約ですので。窮屈な思いもするかも知れませんが、どうぞ、よろしく」

 もう一度椅子に近付いて手を差し出したが、これにも反応は得られなかった。

「何かご不満でも?」私は引っ込めた腕を広げてみせた。

 壁にかかっている時計がかちかちと音を立てていた。誰も何も言わなかった。

「では、私から質問してもいいですか。この家には使用人は何人いるのですか」

「いないわ」彼女はそう言って窓の方を向いた。「ひとりで住んでるの」遥か下の地面で豆粒のような小さな点々が動き回っている。その様子を眺めて、続けた。

「あなた、両親が、て言ってたけど」

「はい?」

「私にはそう思えないわ」

 私は聞き返した。「と、言うと」

「両親が仕事じゃなくて、私のことを心配してるってことよ」

 私は黙って聞いていた。だが、それ以上は何も聞くことはなかった。

 彼女は窓から視線を戻し、椅子から立ち上がった。私が脇に避けると、そのまま奥の方へと歩いて行って、出てこなかった。

 私は部屋に一人、取り残された。静かで、殺風景な部屋だった。一人きりになると余計にそう感じた。少しだけ部屋を調べてみようかと思ったが、やめた。一人暮らしの娘の部屋を漁ることに気が咎めたわけではなかった。ここのセキュリティは万全だ。ボディ・ガードを名乗る人間に対しても、よく働くにちがいない。まだ仕事を手放す気にはならなかった。私は名刺をそのままにし、鞄を取り、来た時のように部屋を出て、通路を歩き、ドアを開けてロビーに出た。背後でロックがかかる音が響いた。

 

 

 

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 使用人詰所のモニタにエレベータの中と同じ、濃緑色の絨毯が映しだされている。私はそれをじっと見つめていた。ロビーに誰か来客があれば機械が知らせてくれるはずだったが、他にすることも無いので形ばかりの監視を続けていた。部屋は禁煙で、退屈だった。

「娘の警護をお願いしたい」私は彼女の両親、クレイル夫妻のことを思い出していた。彼らのオフィスでのことだ。ガラスのテーブルを挟んで、人生の分水嶺をとうに過ぎた男女が私の目を覗くように見ていた。二人とも身に着けている物は見紛う事無き一級品ばかりだが、それを着ている身体は枯れ木のようだった。金持ちという生き物は太っているばかりでは無いらしい。歳の割に皺も多く、肌の色も悪く見えた。私は何となくスーツを着た案山子を前にしているような気分になった。ただ、しゃべるのと金を払うという点で彼らと案山子は違っていた。

「既に知っていることだと思うが…昨日、大陪審でダリオ・アルティエリという男が起訴された。決め手になったのは証言…うちの娘が証言したんだ。ダリオは街のくだらない不良だが、背後に割と大きな組織がついているという噂が―奴が殺した市会議員にも、同様の噂があるんだが―とにかく、議会の汚職に関する疑惑を抱かせるには十分な事件だった。とはいえ、捕まったのはどこにでもいる街の不良だからね。娘も変な所には住まわせてはいない。しばらく大人しくさせて、様子をみようと考えた。そこで警察に相談してみたところ、君を紹介されたというわけなんだ」

 クレイル氏はそこまで一息で話した。テーブルの上のグラスを持ち上げ、これも一息で中身を飲み干した。その隣で夫人が心配そうな顔で主人を見ている。

「警護ということですが」私は口を開いた。「通常、一人でやるものではありません。どうして私に声がかかったのか分かりかねますが…ご心配なら、警察に直接頼むべきですよ。あなた方は成功している。警察に頼めば動いてくれるはずだ」

「勿論そうしたさ。しかし受け入れてもらえなかった。私としても、この街でひと身代築いたという自負があった。だが、受け入れてもらえなかった。割ける人員がいないとかで、外部の人間を紹介されたんだ」

「それが私だったんですね」

「そう」

「私を紹介したのは誰です」

「オガー警部補」

 オガーは話せる男だ。警察官としての義務以上に情報通でもある。

「彼が私に回した、ということは私で十分だと判断していいんでしょうね。複数人の警官と、どこかのホテルに缶詰にする必要は無いと判断したのでしょう」

「では、引き受けてくれるかね」

「その前に、もう一度私を雇うかどうか、考えたほうがいいと思いますよ」私は言った。「オガー警部補はそれなりに賢い警官です。彼が大きな探偵社ではなく、私を紹介するということは、危険性はその程度だということです。私を雇っても、ひったくりからハンドバックを盗られるのを防ぐくらいの事にしかならないでしょう」

 夫妻は顔を見合わせた。しかしすぐにこちらに向き直った。今度は婦人が口を開いた。「それでも構いません。私はただ、あの子の事が…昔から、あの子は何も欲しがらないような子でした。私達もそれに合わせて、学校も、服も、友達も…普通のものばかり与えてきました。本当に手がかからない子だったので…私達は夫婦とも忙しくしていましたし…あの子に頼ってしまっていた所がたくさん、あるんです。こういう時くらい親らしいことがしたいんです。どうか、引き受けてくださいませんか」

 婦人は涙ぐんでいた。今にもハンカチを取り出して顔を覆いかねない様子だった。クレイル氏が婦人の肩を抱き、なだめていた。

「そういうことでしたら、お引き受けします」私は一呼吸置いてから料金についての説明を始めた。彼らは私の話を聞くなり、すぐに承諾した。

 モニタに変化は無かった。映しだされるのは一面の濃緑色ばかりで、長い間見ていると実は故障しているのではないかという気になる。

 私はベッドルームへ行った。窓のないクリーム色の部屋で、簡素な造り付けのベッドと照明以外には何も無い部屋だった。なかなか快適そうな独房である。こんな部屋が三つほど、エレベータから向かって右側の使用人の詰所に設けられていた。

 鞄からフラスクを取り出して一口、飲んだ。熱い液体が喉を降りていくのを感じた。口を締めて鞄に戻し、詰所に戻った。一日目はこんな調子だった。娘はどうしているのだろう。私はあの殺風景な部屋で娘が時間を潰している様子を思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。

 夕方になり、夜になって、深夜になった。洗面台で歯を磨いた後、軽くシャワーを浴びて下着を換えた。ベッドルームに行って枕の形を整え、眠ろうとした。枕もベッドも硬かった。起き上がって詰所に戻り、椅子を二脚使って片方を足置きにした。もう片方の背もたれに頭を乗せ、毛布を被って首を出した。足はモニタに向けた。これで少し格好がついた。夕飯に食べた冷凍食品の残骸の匂いを嗅ぎながら、私はまどろんでいった。

 

 

 

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 ベルが鳴っていた。私はそれが目覚ましのベルだとわかっていた。朝にはまだ早過ぎるはずだ。誰かが間違えてセットしてしまったに違いなかった。私は腕を伸ばし、探った。ベッドサイドのテーブルに自分の携帯が置かれているはずだった。探し出して止めねばならないのだが、腕はむなしく空を切るばかりだった。おかしなことだった。思わず身を乗り出しても、掴むものは何も無かった。手を付く場所も無かった。そのまま身体は並行を失い、世界が反転し、どこかへ投げ出された。

 転がって天井を見上げていると意識がはっきりしてきた。電灯の明かりが私を見下ろしていた。目を拭って瞬き、手をついて床から立ち上がった。そこでやっと自分がわざわざ勝手に椅子の上で眠り、勝手に落ちたことに気が付いた。

 ベルはまだ鳴っていた。モニタが鳴らせていた。画面に人が映っているのが見えた。クレイルの娘だ。エレベータを待っている。

 ドアを開けてロビーに出た。娘はちょうど開いたドアに身を滑りこませるところだった。ドアが閉まる前に手を出し、私はエレベータを待たせることに成功した。

「お出かけですか」私は寝ぼけ眼でクレイルの娘を、ミアンを見た。

「ええ、ちょっと」ミアンは私を見つめていた。目を逸らさまいと努力しているようにも見えた。開いたエレベータのドアの中で、彼女は悪戯がばれて開き直りの準備を始めた子供のような顔をしていた。

「一人で出歩かれては困ります」私は尋ねた。「どちらまでですか」

「ちょっと買い物。すぐそこなんだから」

「私も行きますよ」

「平気よ。子供じゃないんだから」

 腕時計を見た。三時半だった。朝と言うには早い。

「こんな時間に出歩くなんて、子供じゃなくても危険だ。どういうつもりなんです」

「あら、教育係ってわけ?」ミアンは私を睨みつけた。「そんなことまで依頼されているだなんて、知らなかった」

「仕事の上で必要があれば教育もしますよ。あなたは自分の立場がわかってないんだ」

「わかってるわよ。あの人達が私に何かしたいのなら、とっととここへ来ればいいじゃない。私は一人きりで住んでいるんだし、マフィアなら何とでもできるでしょう」

「マフィア、か。マフィアはそんな事はしない」私は続けた。「いいですか。何でもできるということは、方法を選ばないという事ではない。彼らは事業家なんです。割りに合わないことはしない。もし私が彼らから君の口封じを頼まれたなら、こんな所へのこのこやって来るような事はしないでしょうね。あなたの家の玄関口を張って、あなたが通りに出てきたところで声をかけるんです。車からね。そしてあなたが振り向いたり立ち止まったりしたら、素早く銃弾を撃ち込んで逃げる。買収しておいた一般人に前を走らせて。それから先導車が他の車両…例えば警察車両なんか…に偶然、体当たりを食らわせて騒ぎを起こしているうちに、さっさと逃げる」

「よく物事を知っているのね」

「そうでなければ続けられない仕事なんです」

 ブザーが鳴った。下の階で誰かがエレベータを呼び出したらしい。

「鳴ってるわ」

「ええ」

「手、離した方がいいんじゃない」

「そうですね」私はドアを止めていた手を離した。代わりに彼女の腕を掴んで引き寄せた。私達の前でドアが閉まり、エレベータは下の階へと走っていった。彼女は暫しの間ドアを見ていたが、私の腕をほどくと黙って部屋へ入っていった。私は様子を見て詰所に戻った。備え付けのポットでコーヒーを作って飲んでいるうちに夜が明けた。彼女は出てこなかった。そうだろうとも思っていた。

 ラッシュ時になった頃に携帯が鳴った。相手はクレイル夫妻だった。かけてきたのは夫人だった。私が電話に出ると怒気の篭ったヒステリックな声がスピーカーから漏れ出してきた。娘が告げ口したようだ。私は昨夜の経緯を説明した。夫人の声が日照りのような熱さを失い、湿っぽくなるまで私は辛抱強く説明を繰り返した。何度目かの釈明で電話が切れた後、丸一日こんな人間たちと付き合うのと頑固なお巡りの相手をするのと、どちらがましだろうかと考えてみたが、結論は出なかった。出る前に次が来たからだ。娘が部屋から出てきた。

 私は立ち上がってドアへ向かった。把手に手をかけようとすると、その前にドアが勝手に開いた。開けたのはミアンだった。外に出ようと急いでいたので、開くドアに身体をぶつけそうになった。

「あら、失礼」彼女は白いシングルのライダースに茶色い皮のショートパンツ、ブーツといった姿で立っていた。粗野な街の娘が着ているような格好だが、値段の方はそうではなさそうだった。少々寝不足らしいが、化粧でうまく隠そうとした痕跡がある。少し、最初に会ったときの雰囲気が戻っていた。金持ち風の、無関心を装ったような態度。妙な余裕らしきものが感じられた。

「ノックくらいはして欲しかったな。どうかしたんですか」

「もういい時間だし、何か食べようかと思って。部屋に篭ってるのも飽きちゃうし」

「外出ですか」

「そう。ここで食べる気にはならないもの」彼女はちらっと私の脇から部屋の奥へと目をやった。テーブルの上にはまだ昨夜の残骸が残っている。

「車はありますか」

「あるわよ。ポンティアックだけど」

「それはしまっておいてタクシーを使いましょう」

「どうして?買ったばかりなのよ。使ってもいいでしょ。それとも、アメリカ車は嫌いだったのかしら?」

「細工がされていたらどうするんです」

「そんな事まで気にしなきゃいけないの。ガレージだって、ここと同じくらいセキュリティは厳しいのよ」

「今回はこういう事が大事なんです」

 特に、あの母親を納得させるには必要だと思われた。

「ふうん。じゃあ少なくとも一週間は乗っちゃ駄目ってこと」

「私がいなくなるまでは」

「あら、自分が助かるならいいってこと?せっかくこっちから申告しに来てあげたのに、酷い言い方ね」

「残念ですが、あなたとお友達になることは依頼に含まれていないんです。さぁ、早く行きましょう。これでも私は外出には賛成なんですよ。番号は登録されてますよね?ここの電話で呼べばタクシーもすぐに来るでしょう」たぶん、間違えたとしたらこの時だったと思う。

 私は奥へ行って壁の受話器を取り上げた。寝不足で調子は良くなかったが、あまりここにはいたくなかった。

 

 

 

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 エレベータで下に降りた。玄関前のロビーはひんやりとしていて広大で、ここも分厚いカーペットが敷かれていた。懐かしの高級ホテルといった趣だ。そこを突っ切って玄関から表に出ると、石段の下にタクシーが停まっているのが見えた。黒い車体に黄色のラインが入っている。呼んでおいた会社の物だ。近寄って私が合図すると後部座席のドアが自動で開かれた。私はミアンを先に乗せて後に続いた。行き先はミアンにまかせた。

 タクシーは車の流れに乗って走った。運転手は若い小柄な男で、あまり口をきくような質ではなかった。多くの運転手がそうであるように、彼も短髪のブラシのような頭をしていた。ミアンは窓の外を見ていた。私の方からは表情は見えないが、退屈しているのはわかった。私も退屈していた。あの萎びた両親に安心を売るために私は働いているのだが、本当に役に立っているとは思えなかった。そもそも娘が心配なら証言などさせねばよかったのだ。私は腹の中で不満を漏らすことで眠気を散らしていた。

 大通りを北へと走った。念のためそれとなく後続車を気にしてはみたが、つけられている感じはなかった。

 タクシーはそこからマッキ通りに入った。比較的新しい道で、けちな市長に因んだ名前がつけられている。どんな街もそうだが、道路には大物政治家や歴代市長の名前がつけられるものだ。やがてそれを使い切ったら他の著名人、それも無くなったら番号だけになって、その頃にはナビ無しでは自分が何処にいるのかわからなくなる。

 徐々に建物が低くなり、やがてまばらになって道の名前も変わり、タクシーは街を出た。廃業したと思しきスタンドやひっそりした家屋の前を通り過ぎ、道はくねくねと曲がって緑の丘の上へ続いた。

 ミアンが運転手に告げた店はその丘の上にあった。森の中の砂利道を少し入った先に、避暑地でよく見られるような田舎風の木造家屋が建っていた。崖の上に建てられているような格好で、きっとバルコニーからは海を背負った街が見下ろせるのだろう。やって来た道路からは木々が目隠しになっていてよく見えない。

「つきましたよ、お客さん」運転手が言った。ミアンはさっさと降りて店の中へ消えて行った。私は自分の財布から札を取り出して払った。こうやって男を見せることも私の仕事に含まれているらしかった。私を降ろすとタクシーは足早に去っていった。

 店の脇に砂利の敷かれた駐車場があって、品の良さそうなクーペやセダンが数台、明らかに商用車らしきバンと仲良く停められていた。

 私はその中に一際目立つ、ぺかぺかの白いコンバーチブルを見た。そのドアが開き、身なりの良い若そうな男が降りてくるのを見た。男は車の側に立つと辺りの木々を見まわした。それから森の新鮮な空気をうまそうに吸い込み、内ポケットから煙草を取り出してライターで火を着け、これもうまそうに吸った。身長は平均より少し高いくらい。鼻筋の通った精悍な顔と身体つき。日に焼けた肌が健康的な印象を与えていた。身体にぴたりと合ったグレイのスーツを着ていて、テレビで見る青年実業家のようだった。私はその様子を横目で見ながら店の入り口へ歩いて行った。玄関の扉へ続く木の階段を音を鳴らして登った。その心地良く響く音の中に鋭く小さな足音が混ざった。私は振り向こうとしたが、遅かった。首筋に衝撃を感じ、真っ暗になって、それっきり後は何も分からなかった。

 

 

 

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 最初に感じたのは湿った土の匂いだった。それから身体が震えているということだった。どうも冷えているらしい。首の裏が痛い。

 私は地面に手をついて身体を起こした。衝撃を受けたところに手をやると、こぶになっていた。血は出ていなかった。辺りは真っ暗になっていたが、森の中だということはわかった。

 私は森の中に倒れていた。頭を殴られて。誰が殴ったのかはわからなかった。

 立ち上がって、身体を確かめた。服はそのままだ。ポケットを叩いてみて、何も盗られていないことを知った。財布の中身も無事だった。

 無事でないものもあった。私の携帯端末だ。タッチパネル状になっている前面が砕かれていた。これではナビも連絡もできない。

 月のない夜だった。空は曇っていた。仕事柄持ち歩いている、上着の内ポケットに入れておいたペンライトが役にたった。その小さな明かりを頼りに、木々の間の低い雑草の生える地面を歩いた。

 青臭い匂いを吸い込んでしばらく歩き、砂利道に出た。そこから道なりに行って、車道に合流した。車は走っていなかった。走って来そうもなかった。私はくねくねと曲がる丘の道を歩きはじめた。

 随分歩いて大分丘を下ったとき、道路沿いに明かりが見えてきた。オレンジ色の街灯にトラックも止められそうな駐車場が照らされている。その先にドラッグストアが一軒、添え物のように建っていた。 

 車のない駐車場を横切って店に入り、湿布を買った。それから夕刊とサンドイッチとコーヒーとハーフパイント瓶のウィスキーを買った。カウンターに腰掛けて頼んだ物が出てくるのを待つ間、新聞を広げて目を通した。私に関わりの有りそうな事は何もなかった。サンドイッチが出てきた。よくわからない味だった。それからコーヒーにウィスキーをたっぷり入れて飲んだ。とても熱いコーヒーだった。熱さが身体にいきわたって震えを止めてくれるのを待って、それから公衆電話を借りた。

 最初にミアンのマンションにかけた。次にミアンにかけた。どちらも誰も出なかった。私はクレイル氏に電話した。すぐに電話が繋り、受話器から切羽づまった声が聞こえてきた。

「クレイルさんですか」

「はい、そうですが―まさか、君か?」

「君って誰です」

 クレイル氏は構わなかった。「娘に連絡がつかないんだ。君にも連絡がつかなかった。一体どうなってるんだ。説明してくれ。娘は無事なのか」

 彼は既に娘がいなくなっていることに気付いていた。私はなんだか誘拐犯にされたような気分になった。「こちらにもわかりません。連絡が取れなかったのは私の携帯が壊れたからです。正確には壊されました。誰かに襲われたんです。私は殴られて、気が付いたら森の中に転がっていました。さっきやっと這い出して来たところです」受話器の向こうで息を飲む気配がした。

「なんてことだ…娘は…娘は一緒じゃないのか。無事なのか。どうしてそんな事になってるんだ」

「それも、わかりません。さっき彼女の家と本人にも電話をかけました。誰も出ませんでした」私は尋ねた。「その様子だと、娘さんに関しての何らかの脅迫などは受けていないようですね」

「脅迫だって?」

「身代金なんかの話ですよ。犯人らしき人間からの連絡がありませんでしたか」

「いや、何もなかった」

「そうですか」脅迫も無かった。最悪の事態を考えるべきかも知れない。

 長い間があって、クレイル氏が口を開いた。「一体どうして…君がついていながらどうして…こんなことになったんだ。おかしいじゃないか。私達は警察の言う通りにしたのに…」

「わかっていることは」私は言った。「これは既に私達の手に負える問題ではないということです、クレイルさん。警察を使いましょう」

「警察だって?どうして今更、警察なんか…」

「今更だからです。事件があった時は警察も動きます。私達だけで捜し回るよりもいくらかマシでしょう」

「そうかも知れないが…そうすれば、娘は見つかるのか。戻って来てくれるのか」

「とにかく、あなたは警察に事情を説明してください。私もこれから出頭します。娘さんの事が心配なら、少しでも早く動いたほうがいい」

「わ…わかった。すぐにやる」私は簡単な経緯を話してから、電話を切った。そしてもう一度、受話器を取ってタクシーを呼んだ。

 店員がこちらの方を気にしていた。私はそれが気に入らなかった。外に出て、ポケットから取り出した瓶に口を着けて中身を飲んだ。それからくしゃくしゃに潰れた箱から煙草を取り出して、ライターで火を着けて吸った。

 タクシーがやって来た。中央署へ行くように頼んだ。走りだした車内で、運転手はちらちらと私をミラーで盗み見ていた。

「心配しなくても料金を踏み倒したりはしない」

「いえ」ぎくりとして運転手は答えた。「そんなつもりじゃなかったんです」

「警察署に行くように頼むような客は少ないんだろうな」

「いやあ、まあ。お客さん、刑事さんなんですか」

「そんなところさ」

 タクシーは夜の道を飛ばした。街路灯から街路灯へ、闇から闇へと渡るように走った。やがて少しづつ闇が薄くなり、窓に明かりが増えた。街の中に入ったらしい。中心街へ近付いたとき、街頭のモニタで下らない情報番組をやっているのが見えた。信号待ちをしている車の列から眺めていたが、内容は金の捨て方に関するものばかりで、いなくなった娘の情報は手に入らなかった。画面の中で若い女が新しい化粧品の宣伝をしていた。

「お客さん、ああいう子が好みなんですか」

「まさか。ちょっと見てただけさ」

 運転手はにやにや笑いを浮かべた。「最近、ああいう若い子が人気らしくてね。私はどちらかというと、少し若すぎるような気がするんだけども」

「そうなのかい」

「ええ。あたしの会社でも、あれの父親くらいのいい年した男達が休み時間に夢中になってるんだから。情けないもんだよ。売春とかに手を出さなきゃいいんだけどね。まったく、見てて心配になるよ」

「警察の厄介にはなるな、と言っておいてくれ」

「ああ。伝えとくよ。今日だって客の女の子の事をストーカーみたいに気にしてる奴がいてさ。真面目そうな奴だったんだがなあ。そいつの標的ってのが、いい所のお嬢さんでさ。大きいマンションに住んでるんだわ。よくうちを使ってくれてるんだけどさ。そこから電話がかかってきた途端、眼の色変えてすぐ飛んでったよ」

「へえ。どんな奴なんだい」

「無口で小柄な、私みたいな頭のやつだよ。割と新しく入ったんだけど、まあまあ仕事ができてさ。昔、結構悪さしてたらしいんだけど、今はそんな様子もないけどね。いや、そんなんじゃ説明にならないかな。そんなの、この業界にはいくらでもいるからね」

「そうか…」たしかに、いくらでもいる。

 中央署が近づいてきた。運転手は車をすぐ前に止めた。私は料金を払って腰を上げた。すると運転手が後ろを振り返って名刺を渡してきた。

「何かあったら、またお願いしますよ」

 受け取って礼を言った。私を降ろしたタクシーは滑るように発進して去っていった。車体のペイントは昼間のタクシーと同じ模様だった。

 中央署に入った。

 ミアンが遺体で見つかったと聞いたのは、そのすぐ後だった。

 

 

 

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 階段を上がって短い廊下を抜け、事務所のドアを開けた。しばらく放ったらかしにしていたせいか、少し埃っぽい臭いがした。部屋全体が幾分白くなっているような気もする。ソファの上に鞄を落とした後、窓を開けた。表通りに面した窓から、裏庭の窓へ、昼前の日差しで温まった、柔らかい風が通り抜けた。カーテンが震えるように揺れている。

 あれから二週間が過ぎた。その間に季節は動き、嵐が来ては去り、私は何度か警察で尋問され、葬式に出席して殴られ、いくつかの酒場で金を落とし、バーテンを喜ばせた。

 顎を撫でると、ズキズキした。前より弱くはなったが、まだ鋭い痛みを感じた。首の後のこぶはほぼ治って何ともないが、代わりにこいつの方は痛んだ。殴ったやつはまだほんの小僧にしか見えなかったが、腕はなかなかだった。

 私はミアンの葬式に参列した。斎場には警察関係者も出席していた。彼らも私と同様に非難の標的にされていたが、立場は私のほうが弱かった。クレイルは私を見て何ともわからぬ表情をしていた。それ以外の親族は文字通り、娘の仇を見るような目で私を見ていた。夫人はいなかった。遺体は損壊状況が激しく、親族でもない私はミアンに会うことはなかった。

 私が帰ろうとすると、クレイルが追いかけてきた。金の話だった。彼は経費を含めての料金の支払いを申し出た。私は辞退した。頭を揺さぶられたのはその直後だった。

 突然、誰かの右フックが飛んできた。避ける間もなかった。よろけながら踏ん張り、首を振って前を見据えると、中学生くらいの喪服を着た子供がいっちょ前にファイティングポーズをとっていた。銀色の髪を短く刈り揃えた少年だった。すぐに他の参列者が取り押さえたが、私を気遣うものは誰もいなかった。少年は何も言わなかった。ただ、貫くような視線を私に送っていた。あまりにも真っ直ぐで、私はうまく目を合わせることが出来なかった。

 それからしばらくは、夕方に酒場に出かけ、知らぬうちに帰り、昼過ぎに自分の部屋で目を覚ますという生活を過ごした。

 私はもう一度、顎を撫でた。記憶は曖昧だったが、確かなこともあった。

 それは私が仕事に失敗し、そして、その失敗が二度と取り返せない類のものだった、ということだった。

 ロッカーから掃除用具を取り出して床を掃いた。固く絞った雑巾で机とソファを拭いた。それから道具を片付けて階段下のポストを覗きにいった。溜まった郵便物を仕事机の上でかき回していると、人の気配がした。

 開け放っていた入口のドアの脇に背の低い人影が見えた。中の様子を伺っているようだ。私は声をかけた。

「誰だ。用があるなら入ってきてくれないか。そこに立たれると風通しが悪くなる」

 一瞬、間があった。見つかったことに驚き、戸惑っていたのかも知れない。が、覚悟を決めたのか、中へ入ってきた。顔を出したのはミアンの葬式で私を殴った、あの少年だった。

 少年は品のいい白いポロシャツを紺色のスラックスの中に入れ、地味なベルトで締め付けていた。靴は茶色の革靴。学校指定のもののようだ。胸ポケットには校章らしきワッペンが貼りつけられていて、私が普段来ているシャツよりも上等に見えた。銀色の髪をアスリートがするように刈り揃えているのは前と変わらなかった。

 少年は私の座っている机の前まで来て、止まった。少しおどおどしていて、両手を固く握り締めたり、乾かすように開いたりしている。

「何か用か」私は言った。少年は下を向いて黙っていた。何かを言おうとしているのだが、うまく言えずに考えている、という風だった。

「何も用が無いなら帰ってくれ。これでも仕事中なんだ」私は続けた。「それとも、また私に八つ当たりしに来たのか」

 少年は赤くなった。そして顔を上げ私の顔の下の方を見て、何か思い出したようにはっとして目を開いた。それから口をぱくぱくさせて、やっと声を出した。

「あの時のことは、悪かったと思ってるよ」ばつの悪そうな声が聞こえた。

「あの時ってどの時だ」私は机の上に目を落とした。また電気代が値上がりしたようだった。「お前が赤ん坊の頃、母親の顔に小便をかけた時のことか」

「姉さんのお葬式の時だよ」彼は言った。「突然殴りかかったりして、悪かった」

 私は顔を上げて少年を見た。袖から覗く腕や手、身体つきは明らかに運動部所属と見えたが、とても私をよろけさせた男には見えなかった。午後に入ったばかりの日差しが事務所に差し込んでいた。その中で彼は随分、子供に見えた。

「その時のことなら、謝罪は必要ない。子供なら無理も無いことだ」

「いや、俺は…」

「子供だろう。それは制服だな?学校はどうした。給食を食い損ねるんじゃないのか。いや、お坊ちゃんはそんな事は気にもしないのかな」

「うちは給食なんかないよ。大体、もう高校生だし。そりゃ、お坊ちゃん…ではあるかも知れないけどさ」

「そうか、そうか」私はわざと適当に聞こえるように相槌をうった。正直、あの事件の関係者には会いたくなかった。うんざりしていた。「とりあえず、お前が口をきけるということはわかった。それで何しに来たんだ。さっきも言ったが、謝罪なら必要ない」

「違うって。謝りに来たってのも嘘じゃないけど、それだけじゃない」少年は言った。「俺は…俺は、姉さんを殺した犯人を捕まえて欲しいんだ」

 私は少年を観察した。こちらを見つめる少年の目に曇はなかった。とはいえ、病気でもなければ目に曇など現れるわけもないのだ。何の判断材料にもならない。

「お前、来るところを間違えているんじゃないのか」私は言った。「犯罪の捜査をするのは警察の仕事だ。私の仕事じゃない。事件の捜査なら中央署でやってるはずだ。そっちに言いに行け。向こうの方が余程人も技術も優れているだろうよ」

「でも、捜査は全然進んでないみたいじゃないか」少年は食い下がった。「金だってあるんだぜ。無一文で来たわけじゃない。なぁ、俺は本気で言ってるんだよ」

 私は応えなかった。彼はそれが気に入らなかった。

「あんた、直前まで姉さんと一緒にいたんだろ。ボディ・ガードの仕事引き受けて失敗して、死なせて、悔しくないのかよ!」

「黙ってろ!」私は怒鳴りつけていた。「高校生だと言ったな。まったく子供もいいところだ。少し金の使い方を覚えたからっていい気になるな。お買い物とは違うんだぞ。何が犯人を捕まえて欲しい、だ。お前のような間抜けな訪問者は初めてだ。映画と現実を区別できるようになるまで、二度とここには来るな!」立ち上がって少年の襟を掴み、外へ放り出してドアを閉めた。大人げないやり方だった。こういう時に限って大人は大人らしくなれないのだ。

 ドア越しに階段を降りていく音が聞こえた。少年は外へ出てくると歩道の上に立ち、建物の二階の私の事務所を見上げた。群れからはぐれて迷子になった羊のような、頼りない姿だった。私はそれを認めて窓を閉め、カーテンを引いた。残った郵便物を整理して、公共料金の支払を済ませに外に出た。ついでに遅い昼食を食べた。胃がむかむかした。

 戻って来るとドアの隙間に茶色い封筒がねじ込まれていた。嫌な予感がした。机の上で開けると、札が十二枚と手紙が入っていた。

「さっきはすみませんでした。大変失礼なことをしてしまったと思います。ですが、お願いします。ミアン姉さんを死なせた犯人を捕まえてください。あなただけが頼りなんです」

 手紙に書かれてあったのはこれだけだった。

 こんなに恐ろしい金の使い方をする依頼人は初めてだった。

 私は自動販売機でジュースを買うように雇われてしまっていた。

 

 

 

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大通りに面したビルの一階が抉れて、地下まで続く車置きになっていた。その脇の鉄製の外階段を登ってドアを開けた。中は事務所で、背広の事務員たちが汚れた空気の中で机に向かっている。世間では禁煙があらゆる面で推し進められているが、ここは今でもスモーキーマウンテンさながらだった。

 来客は珍しいのか、彼らのうち何人かは仕事から私へと意識を移していた。一人の男が席を立って私の方へ近寄ってきた。小太りに眼鏡で頭は薄く、少々脂ぎっていた。わかりやすい中年男だった。

「何かご用ですか」

「運転手の松鯉さんはいるかな?今日ちょっと話ができるように連絡していたんだけど」

「松鯉なら休憩所にいるはずですよ。ちょっと待ってください」

 男は私を残して事務所の奥まで行き、ほんの少しドアを開けて首を突っ込んだ。それから二言三言、何かを言ってドアを完全に開け放ち、机へと戻って行った。その後に続くように制服の男が出てきた。中央署まで私を乗せて行った、あの男だった。人懐っこい笑みを浮かべている。後ろ手でドアを閉めて、こちらにやって来た。

「おや、刑事さん、久しぶりだね」

「時間を取らせてすまないね」

「いいんだよ。アフターサービスってやつさ」

「ちょっと場所を変えたいんだが、いいかな」

「ああ。平気平気」

 松鯉は近くの女性社員にちょっと出てくる、とだけ言っていた。そういう振る舞いが許される男らしかった。刑事、という言葉も効いたのかも知れない。

 私達は近所の喫茶店に移動した。昼時だったので客が多かったが、店員は松鯉を見るとすぐにボックス席を用意した。常連のようだ。私はパストラミのサンド、松鯉はミートローフをそれぞれセットで注文した。

「この前は災難だったね」松鯉は私の顎を見て言った。

「知ってたのかい」

「ああ。あたしもあの場にいたんだよ。お得意様だったからね。まったく、若い仏さんってのは嫌だ」

「見苦しいところを見せてしまったな」

 私は顎をさすった。少し沈黙があった。

「それより、聞きたいことがあるんだろう?」

「ああ」

 女の子が盆に料理を乗っけてやって来た。慣れた手つきで私達の前に皿を置いた後、松鯉に目配せして帰っていった。私達は手をつけながら話した。

「被害者の事を気にしてる若い運転手がいると言っていた。彼のことが知りたい。できれば会って話がしたいんだが」

「あいつの事か。あいつならやめちまったよ」

「やめた?」

「ああ。この前、電話で辞めるって言ったそうだ。相当ショックだったのか、新聞で報道されたとたん、会社にも来なくなった。葬式にも来なかったよ。一応、声をかけたんだがなあ」

「そいつがどこに住んでいるか、わかるか」

「ああ。ネデリーの、市電の駅の近くだよ。辞める前に様子を見に行ってやったんだが、呼び鈴を鳴らしても出てこなかった。ありゃ相当だな」

「それはいつ頃?」

「一週間前だな。ちょうど嵐が来た時だ。すぐ後にひどい天気になったもんで、よく覚えてるよ。駅までにずぶ濡れになっちまって、風邪をひくところだった」

「一週間前か。それからは見かけてないのか?」

「ああ。さっぱりだね」

「そうか…」

 少し食べるのに集中した。男が事件に関わりがあったとして、一週間もあればどこへでも行けるだろう。出遅れた感は否めなかった。だが、希望を捨てるにはまだ早かった。

すっかり平らげてから、話を切り出した。

「おたくの会社じゃ一日貸し切りを頼むといくらかかる?」

「何だって?」

「その男の家まで案内して欲しい」

 皿が下げられて、コーヒーが出てきた。一口、飲んだ。

「何、乗せていってくれるだけいいんだ。仕事の話だよ」

「それだけなら通常料金でいいよ。一日貸し切りだって?この不景気に。金婚式記念に田舎から出てきたお上りさんだって、そんなことは言わないよ」松鯉は私の目を見て念を押すように言った。「危ないことを考えてるんじゃないだろうね。危ないのはご免だよ」

「わかってるさ。聞いてみただけだ」

 私達はさっさとコーヒーを飲んで勘定を済ませた。「恩を着せようったって駄目だよ」そう言って松鯉は金を出した。店と松鯉の巧みな連携プレーに、私は財布を開く暇も無かった。店員が笑っていた。その笑顔に見送られて、私達は店を後にした。

 

 

 

 

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 中央大通りを真っ直ぐ南へ下ると、やがて左側から市電の線路が合流した。しばらく並走し、線路がまた左側の建物の間の僅かな隙間へ吸い込まれていくのを見送った後、我々も左折して後を追った。幹線道路を外れると途端に住宅が増えた。道路沿いに雑居ビル風の住宅が立ち並び、あちこちから漏れだした香辛料の匂いが車内にも流れてくる。路地では子供達が遊んでいた。移民の子だ。よくあるネデリーの風景だった。

 そのアパートは駅のすぐ隣で、他の建物に肩を預けるようにして建っていた。外壁を見るとまだ古そうには見えないが、かと言って新しいとも言えない造りをしていた。階段の付いた側面を道路に向けていた。

 松鯉は車を線路脇の道路に止めた。私はここで待っているように頼んで車を降りた。

 階段下に共同で使う一般的なポストが設けられていた。私はその中にチャダシュ・カレリの名前を見つけた。郵便物が溜まっている気配はない。

 気にせず音を立てて階段を登り、二階の三号室のドアを叩いた。反応は無かった。私は隣の二号室のドアを叩いた。こちらも反応は無かった。

 私は三号室の前に戻った。もう一度ドアを叩いた時、音がした。ドアの向こう側で何かが動いたようだった。それを聞いたか聞かないか、ドアが凄まじい勢いで開いた。

 私は開くドアに弾き飛ばされ、背後の転落防止柵に叩きつけられた。危うくひっくり返って落ちるところだった。とっさに柵を掴んで踏ん張り、耐えた。

 開いたドアから男が飛び出してきた。私は男を見た。髪はセットされておらず髭も二日以上剃っていないようだが、間違いなく私とミアンを乗せた運転手だった。

男は私を見てほんの一瞬、動きを止めた。私はその一瞬を有効に使った。腕と柵を使い身体をてこのようにしならせ、勢いをつけた。そして走り出そうとする男の足にヘッドスライディングの要領で飛びかかり、がっちりと掴んだ。足の自由を奪われた男はつんのめり、逃げ出す勢いそのままに倒れ、廊下のコンクリートに顔面を叩きつけた。

 私は立ち上がった。男は転がって呻いていた。

「随分急ぐじゃないか」

 私は低い声で言った。

「親分のとこへでも行くつもりだったのか?」

 男は答えなかった。ただ、鼻を押さえてうずくまっていた。返事がないので脇腹を蹴り上げた。短い悲鳴が上がった。

 誰一人としてドアを開ける住民はいなかった。私は嬉しかった。男を引きずり、三号室の中へ入った。

 中にはおおよそ、一人暮らしの男の持つべき物が揃っていた。意外と片付いた玄関を抜け、寝室兼書斎兼リビングに踏み入り、男を床に放って、机と対になった椅子に腰を掛けた。男は立ち上がろうともしなかった。

「いつまでそうしているんだ」私は言った。「さっき私を見ていたな。おかげでお前を捕まえるのに助かった。いい間抜け面だったぞ。チャダシュ」

「何を言ったって無駄だ」チャダシュが言った。「俺は何もしゃべらない」

 チャダシュは口元に意地の悪い笑みを浮かべ、私を見上げた。

「そうか。だがそれを決めるのはお前じゃない。私だ」私は煙草に火を着けた。灰は構わずに床に落とした。部屋に灰皿はなかった。チャダシュが恨めしい目で煙草の煙を見つめていた。

「あれから二週間、ここで暮らしてたみたいだな」

「ここは俺の家だ。ここで暮らして何が悪いんだ」

「何だ。しゃべるじゃないか。で、ここから逃げようとは思わなかったのか」

「あんたの言っていることはおかしいぜ。まるで支離滅裂だ。どうして俺が逃げる必要があるんだ?」

「組織に守られてるから逃げる必要はない、か?残念だが、それは勘違いだ。お前は守られているんじゃなくて無視されてるんだよ。いなくなってもいい人間なんだ。お前の親分が本当にお前を守りたいなら、どこか遠くへ逃がすだろうよ。だがお前はそうされなかった。どうせ警察にも話が付いてるから普段通りにしてればいいとか聞かされていたんだろう?確かに警察の動きは鈍い。だが、警察だけがお前らを狙っているというわけじゃないんだぜ」

 チャダシュの顔に汗が浮かんでいた。部屋が暑いとは思わなかった。

「なあ、お前も本当はわかってたんだろう?でないと俺が来た時に逃げ出そうとするはずがない。お前は自分の仕事を与えられた時点でこうなる運命だったのさ」

「俺は何も知らない」

「まだ何も聞いてないぜ」

 チャダシュはいきなり立ち上がった。私は煙草を捨てた。火の着いたまま、向かってくるチャダシュの顔に放った。それから椅子から腰を上げて、思いっきり喉を殴りつけた。チャダシュはよろけ、ベッドの上に倒れこんだ。ごほごほと咳き込んでいた。私はそれを黙って見下ろしていた。

 ずいぶん時間をかけて呼吸を整え、チャダシュはゆっくり立ち上がった。それから何の前触れもなく、右腕を振った。私はそれを捕まえて、正しくない方向に曲げた。チャダシュの残った左腕が必死に私を殴りつけていたが、私が絡めた腕に徐々に力を込めていくと、それもなくなり、ただ呻き声を上げるだけになった。ほどほどにして腕を離した。チャダシュはまたも床にうずくまった。その鼻先を蹴り上げ、私はチャダシュをベッドの上に戻してやった。白いシーツに赤黒い染みが落ちた。

 そんなやり取りを三回ほど繰り返して、やっとチャダシュは私の知りたかった事を教えてくれた。

 私はお礼に首の後を思いっきり蹴飛ばして寝かし付けてやった。土の上ではなく床の上にしてやったのは、私のちょっとした親切心だった。ドアに鍵をかけて車に戻った。

 

 

 

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 マードックのクラブは街の外れの崖の上にあった。化粧漆喰の白い大きな建物で、柔らかな黄色い明かりに照らされていた。周りには霧が立ち込め、潮の匂いが充満している。

 松鯉は駐車場に空きを見つけて、車を止めた。

「結局貸切になってしまった」私は言った。「一日貸し切りはいくらだったかな」

「一日じゃない。七時間だよ」松鯉は言った。「一日分も取ったら詐欺になっちまう」

 私は笑った。松鯉は奇妙な顔をした。それから勘定を済ませた。

 車を降りると松鯉が窓を開けて言った。

「なあ、お客さん。私の名前は松鯉って言うんだ。ショウリだよ」

 私は黙って聞いていた。

「私の故郷では勝利の事もショウリって言うんだ。あんたにはきっと勝利の幸運が訪れるよ。じゃあな。探偵さん」

 窓が閉まり、車は走っていった。

 それを見送ってから、私は建物の入口へと歩いた。

 アーチ状の入り口を抜けると、背の高い坊主の、肌の黒い男が立っていた。ぴしっとしたスーツを着ていて、胸のホルダーにカードを挟んでいる。

「お客様、会員証をお願いします」

 私は彼の胸ポケットに札を一枚ねじ込んだ。彼の腕がドアを半分ほど開けた。もう一枚取り出して今度は空いている方の手に握らせた。ドアは完全に開いた。

「お気遣い、ありがとうございます」彼は私の耳にささやいた。「新しいマネージャーには気をつけてください」そう言って私の上着の胸ポケットに、金色のプレートを差してくれた。

「ありがとう。だが大丈夫だ。悪党には慣れてるんでね」私は彼の前を通り抜けて中へと入った。

 天井の高い、広大な玄関を抜け、ダイニング・ルームへ入った。ウェイターやウェイトレスが忙しく動き回っている。みんな世間で言うところの美男美女ばかりだった。一人だけメニューを抱えてつっ立っているウェイターがいた。その男がチーフだということは、賢い鶏のような顔を見ればわかった。

 深い緑色のカーペットを踏みしめて奥へと向かった。廊下を抜けた先にバー・カウンターが見えた。私は乗ったこともない豪華客船を思い浮かべた。途中、クローク係の女が私の上着を与ろうと出てきたが、服装を見るなり、すぐに顔をしかめて戻って行った。

 私は暗がりの方へ向かった。低いささやき声の間を縫って歩いた。ステージでは肩から背中へ大きく開いたドレスを着た女が、煌く赤毛を揺らして歌っていた。ちぢれ髪のバンドマン達がそれに合わせて熱っぽく演奏しているが、聞いている者は誰もいなかった。

 私は開いているテーブルに座り、ビールを注文した。出てきたグラスの中身を一口、飲んだ。隅っこの方の暗い席だった。周りが良く見える席だった。遠い壁にあるドアが開くのもよく見えた。そこからがっしりとした強面の男が出てくるのも見えた。

 男は私の待つテーブルに近づくと、太くて短い首を振って合図した。私は中身をもう一口飲んでから、グラスを押しのけて立ち上がった。それから男の後をついて行った。バーのあるフロアの隅に劇場でスターが降りてくるような螺旋階段があった。そこを登ると関係者以外立ち入り禁止のドアがあり、私達はそこを抜けて廊下を進んだ。外とは打って変わって殺風景で事務的な空間だった。行き止まりにオフィスがあった。

 書類用のキャビネットに金庫、大きなマホガニーの机に椅子が数脚、壁際に大きめのベルベットのソファが置いてあり、その上に値札としての価値ならありそうな抽象画らしきものがかかっている。典型的なオフィスだった。羊皮紙の傘のフロアランプが部屋を照らしていた。悪者が銭勘定をするのにお誂え向きの部屋だった。

 机の端に腰を預けてオフィスの主は待っていた。白い遊び人風のスーツを着ているが、いやらしさを感じさせない男だった。場の雰囲気に似合わず身体は細く締まっていて健康的だ。肌はよく焼けていて若々しく、青年実業家の雰囲気がある。白いコンパーチブルがとてもよく似合いそうだった。

「マードックっていうのはあんたか」主よりも早く、私は口を開いた。「素敵なクラブを持ってるじゃないか。随分と儲けてるんだろうな」

 マードックは私を気に入らなかったのか、眉間や口を小さく動かしていた。大儀そうに腰を浮かせて机の後ろに回り、椅子に座った。

「ああ、おかげ様でね。うちはまともな市民の来る店だが、それでも偉そうな客の扱いには四苦八苦しているよ」マードックは言った。見た目に似合った声だった。これを暗がりで女に聞かせれば、きっと繁殖期の小鳥のさえずりのような効果を発揮することだろう。

「市民は善良なものだ。だから悪党より偉いのは当然だ。知らないのか」

 マードックは優雅に聞き流した。そして気が付いたようにドアの脇に立っている男に向かって言った。「いつまでいるんだ、スパイヴィ。私は仕事中なんだ。お前も持ち場に戻れ」スパイヴィと呼ばれた男は黙って出て行った。その仕草にどことなく腹立たしさが滲んでいるのを、私は見逃さなかった。

「さて、探偵さん。あんたは私に用があるそうだね。いきなり電話で予定を空けさせて、一体どんな用事なのかな」

「別に空けずにいてもよかったのに、そうしなかったのはあんただろう」私は答えた。「聞きたいことがあってね。人を探しているんだけど」

 マードックは目を細めた。目尻に皺が寄った。「ほう。誰を探しているんだい。相手によっては協力してやらないこともないが」

「ミアン・クレイルという娘を探している。あんたなら知っていると思ったんだが」

 私は息の漏れ出す音を聞いた。誰かがコーラを飲んで噎せたような音だった。それは徐々に大きくなり、マードックが笑い出した。スタジアムの端から端まで届くような声で、まったく楽しくて仕方がないといった風だった。ただ、目はちっとも笑っていなかった。「誰かと思ったら、あの資産家の娘だって?ああ、知っているよ。デシカヒルの霊園にいるはずだ。私も新聞で読んだからね。それ以上は知らない。これ以上は精神科医かカウンセラーの仕事になるだろうね」

「デシカヒル以外は知らないか」

「いや、まったく」

「そうか。では次を当たることにしよう。差し当たってコートウェイの別荘でも訪ねることにする」

 それだけ言って私はドアへ向かおうとした。しかし、できなかった。予想しなかったわけではないが、マードックが机の引き出しから素早くオートマティックを取り出し、私に向けていた。

「さすが悪党だ。悪党は意味もなく銃を撃ちたがるものだったな」

「コートウェイの別荘に誰が居るのか、聞かせてくれないか」

「知り合いがいるのさ。事情通の知り合いがね」

「どんな事情通だ?そこで何の話を聞く」

 マードックは立ち上がり、拳銃を腰に当てて構えた。銃口はこちらをしっかり狙い続けている。私は口の中が乾いていくのを感じた。

「ある娘の嫁入り話さ。資産家の娘でありながら、けちなチンピラと関係してしまった娘のね」

「話してみろ」

「よくある話さ。ろくでもない金持ちの娘が、ろくでなしに育ったというだけのことだ。娘はおかしな稼業の男と付き合い始めた。親は自分の商売に泥を塗られたくなかった。スキャンダルを嫌ったんだな。となると別れるしかない。ところが困ったことに血の繋がった家族というのは死ぬまで別れることができない。とはいえ、殺すのは賢い方法じゃない。間違っても自分でやることではない。そこで両親は専門家に頼むことにした。幸いにして娘の交際相手がその専門家だった。ただ一つ問題があった。専門家は娘のことを悪党ながらに愛していたので失うわけにはいかなかった。そこで替え玉の死体を用意した。おそらく街の娼婦か何かだろうが、殺したくないから、代わりを見つけて殺すってところがやはり悪党の考え方だな。専門家は子分に命令を出して、子分は下請けに仕事を任せることにした。専門家は事前に娘に計画のことを告げ、ちょうど街で起こった事件の犯人として警察に売られた男について証言させた。その上で警察に根回しをし、格好だけの護衛を娘につけさせた。こうすれば両親は娘を危険な状況に置いて何もせずに死なせたということにはならない。あとは適当につけた護衛の探偵を黙らせて、娘を安全で人目のつかない場所に連れていき、可哀想な替え玉の死体を適当な場所に転がしておけば問題解決。検死官だって悪党のお仲間だ。顔さえ潰して誰だかわからなくしておけば文句も言うまい」

「おもしろい話じゃないか。で、あんたは誰にその話を聞いたんだ」

「あんたは間違いを犯した。殺し屋は仕事を終えたら殺されねばならないのが決まりだ。下請けを処分しておくべきだったな」

 一瞬、マードックは間抜けな顔をした。それから真っ赤になって唸り、吼えた。怒りのために歪んだ顔は絵本に出てくるゴブリンのようだった。「スパイヴィの子分か!あの野郎は前から気に入らない奴だった!子分の口封じもろくにできないとはな!」マードックは泡を飛ばして怒鳴った。怒鳴るだけ怒鳴って怒りをまき散らしていた。そうして喚いて落ち着きを取り戻し、冷静になって、言った。

「だが、まあいい。いいんだ。処分すればいいだけだ。あいつも、その子分も。それからお前も」マードックの銃を握る手に力が篭った。

「いいのか?あんたの店でそんな派手な音をたてて。銃は黙らせておいた方がいいと思うんだが」

「なに、撃ち合いにならなければ問題ない。ご忠告、ありがとうよ。お前は良いアドバイザーだった。わざわざ仕事の不備を報告しに来てくれたんだからな。なるべく苦しまないようにしてやる」

 引き金に指がかけられた。私は身を固くした。その時、突然ドアが開き、同時に数回、破壊的な音が響いた。それらは混じり合ってほとんど一回に聞こえた。

 私は左腕に衝撃を感じた。弾かれて激痛が走り、棒のようになった。

 マードックは机に突っ伏していた。天板に血が広がっている。振り向くと開かれたドアからスパイヴィが銃を出していた。

「何が気に入らない野郎、だ」スパイヴィは言った。「気に入らないのはこっちだ。俺はお前を上司だと思った事は一度も無かったぜ」それから私に銃を向けて続けた。

「よう、探偵さん。話は聞かせてもらったぜ。大体の話は合ってるが、一つ気になることがあるんだ。あんた、誰にその話を聞いた。あんたがその話を聞ける相手はたぶん、二人しかいねえ。そのうち一人はあんたに会えない。残った一人は俺の親友だ。あんたも一度は顔を合わせてるはずだぜ。あいつが俺のことを他人に話すなんてことがあるわけない。あんた、誰にどうやって聞いたんだ。まさか、ちょっとした交渉術を使ったりはしなかっただろうな。あいつに、こんな風によ」

 スパイヴィは中に入り後ろ手でドアを閉めた。そのまま近寄ってきて、私の左腕を銃の尻で殴りつけた。たまらなかった。うずくまり、喘いだ。

「痛いか?痛いよな。よかったぜ。マードックの野郎があんたを殺しちまわなくて。うんともすんとも言わないのはつまらないからな」

 私は黙っていた。黙ってスパイヴィを見上げ、睨んだ。スパイヴィはすぐ近くにいた。これだけ近ければ銃に手をかけることもできるだろう。とはいえ、穴の開けられた左腕を庇いながらできるかどうか。私は注意深くチャンスを待っていた。口の中はからからで、汗が止まらなかった。

「本当だったらこんなもんじゃ気は済まねえ。だが仕事でもあるんでな。とっとと終わらせてもらうよ」

 銃声が一回、響いた。私に向けて発射されたものでは無かった。スパイヴィの動きが止まった。そして無表情になって、ぜんまい仕掛けの人形のようにぎこちなく首を動かし、机の方を向いた。机の上のマードックが首と腕だけを動かしていた。自分の血で汚れた顔に憤怒の形相が浮かんでんいた。銃口はスパイヴィを狙っていた。その銃口がもう一度火を吹いた。スパイヴィは銃を落とした。脱力して、床に尻餅をつくように倒れた。それきり、もう動かなかった。

 私はスパイヴィの顔を見た。何が起こったのかわからないと言っているように、目を開いたまま死んでいた。眉間に見事な射撃の証がついていた。マードックもまた机に突っ伏し動かなくなっていた。私は何とか立ち上がり、脇から近付いて、手から銃を払いのけた。首に手を当ててみたが、脈はなかった。

 部屋の中に血のむせ返るような匂いが充満していた。窓を探したが、どうやって開ければいいのかもわからなくなっていた。ふらつく足で壁に手をついて歩き、ソファを見つけて座り込んだ。気が遠くなってきた。警察に通報しようとしたが、何を使えばいいのか思いつかなかった。酷く疲れていた。身体も瞼も重い。

 ドアが開いた。帽子をかぶった制服の男達が入ってきた。胸に白地で大きく字の書かれたベストを着け、手には銃を構えていた。私に向かって何か言っているが、聞こえない。何も聞こえなかった。視界はあやふやで、全てが幻のように揺らいでいた。あるいは、この部屋で起こったことも幻だったのかも知れないと、私は思った。

 

 

 

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「久々のお手柄だったな。たまには悪者をとっ捕まえるのも悪くないもんだろう」

 私は病院の診察室にあるような丸い小さなスツールに腰掛け、オガーと話していた。他に人のいない会議室には折りたたみのテーブルと椅子が数脚、並べられていた。オガーは折りたたみの椅子に座り、テーブルに片肘をついて身体を私の方に向けていた。

「警察もたまには犯罪者を取り締まらないとな。市民の血税で食っているんだから」

「あまり嫌味を言うな」オガーの鋭い目が光った。盛り上がった上半身と彫りの深い彫刻像のような顔面が厳つい印象を与えた。「お前は現場で二人の男の殺害に関わっている。立場をわきまえろ」

「おいおい、私は銃には触れていないんだ。少なくとも握っちゃいない。そのことはあんただって知ってるはずだ」私は付け足した。「ま、あんた達に少しでも誠実さが残っていれば、の話だが」

「わかった。もうその話はいい」オガーは一度顔を背け、仕切りなおした。「それよりもマードックのことだ。供述書には連中が見せしめの意味を込めてミアン・クレイルを殺害したとある。お前は関係者の顔を見ていたために連中に拉致されたと。本当か」

「今回は嘘を言ってもいいことはないんでね。裏を取りたきゃ勝手にやればいい。やれる範囲で」

「やれる範囲でな。上はこの事件に関しては露骨にとっとと終わらせたがってる。殺人犯や薬の密売組織よりも駐車違反者の方が儲けになるという算段なんだろう。儲けになるようなことは民間に任せればいいというのに」

「あまり儲けすぎるのも考えものだ」

「まったくだ」

 今日、初めての合意が得られた。私達は満足した。

「お前、これからどうするつもりだ」

「どうするって?仕事があれば仕事をするさ。これまでと同じだ」

「マードックがいた組織は再編が活発になっているそうだ。マードックとスパイヴィが占めていたパイの取り合いで大変な争いなる。関係のありそうな奴は手当たりしだいにやられるかも知れない」

「そうしたら、私に護衛をつけてくれるか?」

「望むなら、そうする。ホテルで缶詰もあるし、しばらく街を出るのもいい」

「そうか。では遠慮する」

「なぜだ。今回はさすがにマズいぞ。お前も今度は左腕だけでは済まされないかも知れない」オガーは指さした。私の左腕はギプスで固められ、首から吊られていた。

「仕事があれば続けると言っただろう。まだ私の仕事は終っていないんだ」

「なんだと?どういうことだ」

「詳しいことは言えない。守秘義務がある。依頼人の信頼には応えねばならない」

「またそれか。お前達はいつもそれだ。法で守られてるわけでもないのに、どこでもそれを押し通そうとする。そう言うならもういい。せっかくこっちで手配してやろうと思ったんだが、そうも無下にされては手を差し伸べてやる義理もない」

「もとより守ってもらう義理などない。私もそこまで期待していない」

 そう言って私は腰を上げた。それから立ち上がって廊下へ出るドアに手をかけ、一つ大事なことを思い出した。

「なあ、一つ聞きたいことがあるんだが」

「何だ」

「何で警察はあんなに早くやって来たんだ?」

「そんな事か。通報があったからだ。匿名のタクシードライバーから、自分の降ろした客が店の入口で揉めているのを見た、とか何とかでな。通報を受けたら一応は動かなければならない。職務怠慢の巡査達がようやくパトカーで店に乗り付けると、銃声らしきものが数回聞こえたそうだ。それで無視して帰るわけにはいかなくなったというわけだ」

「そうか」私は少し考えて、続けた。「なあ、一つ頼みがあるんだが」

「またか。今度は何だ」

「私の知り合いに松鯉という男がいるんだ。私に護衛を付けさせるくらいなら、そいつの事を気にかけてやってくれないか」私は机の側まで戻り、紙を取り出して松鯉の名前と連絡先を書き付けた。

「断っておくが、彼は事件には何の関わりもない。ただ、私が仕事を進める上で少々借りができてしまった。できれば、頼む」

「考えておく」オガーは無表情のまま、そう言った。

 私は中央署を後にした。そして残っている仕事を片付けるために、事務所へ戻った。

 

 

 

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 空は朱に染まり、街灯のオレンジ色の灯りが街路を照らしていた。一階入り口のポストを覗いてから、事務所の入っているビルの階段を登った。短い廊下の奥、私の事務所のドアの前に人がいた。女性のようだった。清潔で地味なスーツを着て、どこにでもあるようなハンドバッグを持ち、目立たない形のヒールを履いていた。身体つきは若く、細い。暗がりで帽子を目深に被っているため、顔はわからなかった。

 彼女は私を認めると、帽子を脱いで胸の前で持った。私の方に向き直ったその顔は、奇妙な懐かしさを感じさせた。近づくと彼女は脇にそれて、私がドアの鍵を開けるのをじっと待っていた。ドアを開けて彼女を招き入れた。

 彼女をソファに座らせ、机の引き出しからグラス二つとスコッチの瓶を取り出して少量注ぎ、一方をソファの前のテーブルに置いた。彼女は手を付けなかった。

 私は机に戻ってグラスの中身を一気に飲み干した。それからスタンドの灯りを着け、封筒と便箋とペンを取り出して、手紙を書き始めた。

「あなた、こんな所で暮らしていたのね」彼女がぼそりと言った。

「ここで暮らしているわけではない。ここは仕事場だ。家は別にある」

「そう。でも、そこも、こことはあまり変わらないような気がするわ」

「なんで来た。コートウェイの別荘はどうした」

「何でも知ってるのね。あそこにはもういられないわ。彼が死んで、周りの様子もおかしな感じだし、お金だけ持って逃げ出してきたの」

 私は手紙を書いていた。彼女は私の方へ哀れっぽい視線を投げかけた。視界の端でそれを認めつつ、腕を動かした。

「ねえ、ここでもいいから、匿ってくれない?お金はあるのよ。多分、あなたの一生分の稼ぎよりはずっと多いと思うわ」

「断る」私は言った。顔を上げて彼女を見た。カーテンの隙間から入り込む街灯の灯りと、スタンドの光に照らされた彼女の顔に呆然とした表情が浮かんでいた。

「どうして?悪い提案じゃないはずでしょ?」

「私には仕事がある」

「じゃあ、私があなたを雇うわ」

「それも断る。現在、既に受けている仕事がある」

「ちょっと待ってよ。何でそんな事を言うの?私、親に捨てられて恋人にも死なれたのよ。そんな私に、どうしてそんな事が言えるの?」瞳に涙が浮かんだ。少し瞼に溜まって、流れ落ちていった。彼女は涙声になって訴えた。「私、どうすればいいの?これから、どこへ行けばいいのよ」

「まずはそのグラスを干すことだ」私は言った。「話はそれからだ」

 彼女は子供のように頷いて、一息に干した。生のままには慣れていなかったのか、少々むせていた。落ち着き始めた彼女に、私は尋ねた。

「働いたことはあるか?」

「ないわ。アルバイトもしたことない」

「そうか、では少し働いてもらおう。君を雇うことにする」

「どういうこと?」

 彼女の質問を無視して、私は続けた。

「君には弟はいないか?」

「いないわ」

「では、従兄弟か何かで、高校生で銀髪の男の子の知り合いはいないか」

「一人いるけど、その子がどうかしたの?」

「名前と住所を教えて欲しい」

「ねえ、意味がわからないんだけど、一体なんなの?あの子がどうかしたの?」

「早く、教えてくれ。早さが重要な案件なんだ。助かりたければそうするんだ」

 私の様子を見て、彼女は戸惑いながらも了解した。すぐに携帯を出してアドレス帳を呼び出し、登録された情報を読み上げた。私はそれを聞いて封筒に少年の名前と住所を書き付けた。差出人の欄は空欄にした。便箋をなるべく丁寧に折って、封筒の中にいれ、糊で封をした。それから立ち上がって金庫の方へ行き、似たような封筒を取り出し、中身の紙切れを抜いて札だけを残した。それらの封筒を彼女に見せて言った。

「この宛名の書いてある封筒を君に渡す。それをポストに投函して欲しい。理由は聞くな。守秘義務がある。それと、こっちの何も書かれていない封筒の中身は今回の仕事の必要経費と報酬だ。これを使って可能なかぎり街を離れろ。そして封筒を投函しろ。ついでに携帯も壊して捨てておけ。名前もだ。それで今回の君の仕事は完了だ」

「なによ、それ。全然わからない」

「わからなくていい。ただ、君がここにいるのに比べたら安全だとは言える」

「あなた、私を守ってくれないの?ボディ・ガードの仕事を続けてよ」

「だめだ。君が狙われていたとして、私が狙われないわけがないと、どうして言える」

「じゃあ、私と一緒に逃げればいいじゃない」

「だめだ。仕事がある。それに、ああいう連中には餌が必要なんだ。ボウズじゃ帰ってはくれないだろう。なに、こういうことは初めてじゃない」

「もしかして、その腕のこと?」

「それもあるが、もう話している時間はない。本来なら君はこんな場所へ来るべきではなかった。私と君が会ったということは問題だ。もし君が連中に後をつけられていて、私と会ったのを知られていたら、連中は君と私が結託してマードックを出し抜いたと考えるかも知れない。そしてその財産の一部をくすねたと考えるかも知れない。君がさっき言った金は自分で稼いだものではないだろう。一部はマードックのものだったんじゃないか」

 私の話を聞いて、彼女は青ざめていった。また落ち着きを失ってしまう前に彼女を追い出したかった。

「これで自分がどれだけ危険な状況にいるか、わかっただろう。そして、何と愚かな事をしたのかも。わかったら、さっさと初仕事を済ませてこい。そしてもう二度とここへは来るな」

「ちょっと待ってよ。愚かって何よ。あなたの方が愚かじゃない。どうして逃げないのよ」

「餌が必要だと言っただろう。愚かな小娘を逃がすには対価が必要なんだ。君は危険に気付かず私に近づき、さらに信用できる相手かどうかも確かめずに大金をちらつかせた。これだけでも十分に愚かじゃないか。さあ、とっとと出て行くんだ!」

 私は彼女の腕を掴んでソファから立ち上がらせた。封筒をハンドバックに突っ込み、帽子を元のように目深にかぶせた。ドアまで引っ張って行き、外をちらと確かめてから耳元で小声で言った。

「音を立てないようにヒールを脱いで、この階段を上まで上がるんだ。下には降りるな。二つ上の階まで行けば、窓から隣のアパートの屋上に飛び移れる。そうしたら非常階段で下に降りて、裏口から出て、なるべく大通りまで行くんだ。もう一度ヒールを履くのはその後だ」

 彼女は何か言おうと口を開いたが、私がそれを押さえると、静かに頷いてヒールを脱ぎ、廊下へ出て階段を上がっていった。

 その姿を見送ったあと、ドアを閉めてスタンドの灯りを消し、窓のカーテンを少し開けた。それからポケットから煙草を取り出して咥え、ライターで火を着けた。いつもより難儀した。煙を深く深く吸って、吐いた。先っぽの小さなオレンジ色の灯りが明滅した。

 もうすっかり日は暮れていた。通りの向かい側に青の目立たないセダンが停まっていた。じっと眺めていると、商社マン風の二人組が車を降りて通りを横切ってくるのが見えた。行き先はわかっていた。

 私は自分が愚かだと感じた。失敗する宿命とも知らずに仕事を受けて失敗し、名前も知らない少年に喝を入れられた上にその依頼を引き受け、おせっかいなタクシードライバーに助けられて借りを作り、今は私と同じかそれ以上に愚かな娘のために自らの身を危険に晒している。全て賢い選択ではなかった。馬鹿な事をしたとも思った。世間知らずな少年の頼みも、たまたま出会っただけの運転手の話も忘れるべきだった。下らないプライドのためにチンピラ達の面を拝みに行く必要も無かった。娘が追われるのも自業自得だった。彼女を売るという選択肢もあったはずだ。だが、これ以外の他の結末を選ぶ気にもなれなかった。

 階段で音がした。ドア越しでも気がつくような。特に何の意味も感じさせない、素っ気ない革靴の音だった。それは予想された通り二人分で、予想された通り私の事務所の前で止まった。

 ドアがノックされた。私はいっそう、深く煙を吸った。オレンジ色の小さな光が、呼吸に合わせて強く燃えた。

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知り合いの紹介で富豪の娘の警護を引き受けた「私」
楽な仕事と思われたが…
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