ひそやかに
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「馬鹿、あんたなんか大嫌いっ」

 私が投げたぬいぐるみから逃れるように、彼は部屋から出て行った。

 どうして今更あんなことを言うのか、私には分からない。彼と結婚して後悔なんてしていないし、そんなことを今更疑われるのは辛かった。

 不意に伝えそびれてしまったことを思い出し、小さく溜息を吐いた。

 

 結婚して二年が過ぎた。

 高校の頃に付き合っていた彼とは、高校を卒業して彼が東京に上京した時に別れた。というよりも、付き合っていた頃から女癖が悪かった彼を、私から見限った。

 それから数年間、私は私の人生を歩んできた。就職したセレクトショップの仕事に遣り甲斐を感じていたし、結婚を前提として付き合っていた男性もいた。その男性は同じファッション関係の大きな会社で課長をしていたから、良縁だと両親も喜んでいた。

 そんなある日、突然彼が私の働いていたショップに姿を見せた。高校の頃と全く違う、とても落ち着いた優しい雰囲気を纏って。

「久しぶり」

「うわあ、久しぶりね、本当に」

 きっと彼も、別に私を口説こうとは考えていなかったんだろうと思う。ただ久しぶりの帰郷だから会いに来た、その程度だったはずだ。

 仕事の後、ショップの近くのバーで「あの頃のあんたは最低だった」とか、「お前はとても気が強かった」とか、思い出話に花を咲かせて。でもそれだけだった。ううん、違う、それだけのはずだった。

 きっと携帯の番号とメールアドレスを交換したのがいけなかったんだと思う。翌々日には東京に戻る、そんな話をしていたのが忘れられなくて、思わず彼の携帯を鳴らしてしまった。

 残りの二日間で、私は彼の何が変わってしまったのか、そして何が変わっていないのかを知った。

 彼が東京に戻った翌日、私は付き合っていた男性に別れを告げた。理由を問われたけれど、「自分でも分からない」と答えるしかなかった。だって、本当に理由が分からなかった。高校の頃に感じていた淡くて強い気持ちを思い出してしまった、それだけのはずなのに。どうしても、その男性と付き合い続けることができなかった。

 それから毎日、彼と携帯やメールで話した。彼はその頃、東京でイタリアンのシェフとして修行していたらしくて、今度初めてデザートを担当すると張り切っていた。

 彼に彼女がいるのか、それは怖くて訊けなかった。はっきりさせた方がいいと自分でも分かっていたけれど、どうしてもそれを切り出すことはできなかった。

 付き合っていた頃、彼はかなり女癖が悪かった。彼がもし「そんな女はいないよ」と言ってくれたとしても、それを信じる自信がなかった。

 東京はあまりにも遠すぎたから。

 一月、二月、三月と月日が流れて、交わす小さな言葉の数々の中で、彼の変化を何度も実感した。数年という月日は、彼を大人の男性に変えていた。

 そしてその年の暮れ、彼がまた帰郷した。

 会いたいような、会いたくないような複雑な気持ちに苛まれながら駅に迎えに行くと、改札口から出てきた彼は私を見つけてとても嬉しそうに笑ってくれた。その瞬間、私は実感してしまった。ああ、私はやっぱり、このひとのことが好きなんだと。

 不意に会えなかったこの数ヶ月が苦しくなった。それでもどこかで彼を疑っている自分がいる。彼女がいるのかいないのか、それすら分からないのに疑っている。涙を堪えようと唇を噛み締めた。

「お前、弱くなったな」

 顔を伏せて立ち尽くす私を、彼は優しく抱き締めてくれた。

 それから一年という時間を掛けて、私達は互いの想いをあたため合って、それから結婚をした。両親は高校の頃に付き合っていたあの彼だと知って、最初は眉を顰めたけれど、何度か話す内に彼を信頼してくれるようになった。

 結婚を機に私も東京に上京した。周囲に友達がいない寂しさはあったけれど、彼は仕事が終わったら寄り道もせずに帰ってきてくれたし、休日は必ず一緒にいてくれたから紛らわすことができた。

 二年の月日が過ぎ、ある嬉しい知らせを彼に伝えようとしていたその時、彼が突然こう問うたのだ。

「どうして俺と結婚したんだ」

 彼が真剣にそれを言っていることは、彼の目を見れば分かった。でもそんなことを今更私に答えさせてどうしようというのだろう。会えなかったあの数ヶ月、私がどんな想いを抱いていたのか、きっと考えてもいないに違いないと思った。

「どうして今更、そんなこと言うのよ……」

 溢れそうになる涙を堪えて、私は逆に問い返した。それから何を言ったのかはよく覚えていない。泣きながら喚き散らして、最後にはクッションやらぬいぐるみやらを投げつけていた。

 彼はどうして、あんなことを問うたのだろう。

 

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 小さく溜息を吐いて、玄関先に転がっているクッションとぬいぐるみを拾った。それをソファに置いて、私は部屋の中を見渡した。

 ここで彼ともう二年を過ごした。その間にこの部屋は、二人それぞれの色が重なり合った、二人がとても落ち着く空間になった。

 結婚した理由なんて、今でもよく分からない。彼と再会するまで付き合っていた男性との間に、愛情がなかった訳ではないけれど、どこか打算的な自分がいた。「このひととなら結婚しても仕事が続けられる」とか、「このひととならば生活に困ることはなさそうだ」とか、そんなことをどこかで考えていた。

 彼と再会して、ふと気付く。好きだとか愛しているだとか、本当はそういう想いの中で、純粋に相手を求めるべきじゃないのかということに。

 ううん、本当は分かっていた。そんなのただの乙女チックなロマンチシズムで、結婚はもっと現実的なものだってこと。結婚したら綺麗な部分だけじゃなくて、汚い部分も見えてしまう。それは好きとか愛しているとか、それだけで補えるものじゃないって。

 でも、それが分かっていても、私はどこかで彼を求めてしまっていた。

 もう一度小さく溜息を吐く。不意に、棚に飾っている写真が目に入った。それは高校の頃の写真でやんちゃそうな彼が、つんと澄ましている私の肩を抱いていた。

 そういえばこの頃、授業中によく手紙を交換していたっけ。ノートの切れ端を使った小さな手紙で、「好きだよ」とか「愛してる」とか、本当はそんな言葉の意味なんてまるで分かっていなかったのに、心をくすぐられるような感覚に浸っていたっけ。

 その頃が懐かしくなり、私は高校の卒業アルバムを開いた。すると、アルバムから何枚もの手紙が落ちた。手に取ってみると、それは彼からのノートの切れ端の手紙だった。

 そういえば、卒業してからずっと、このアルバムを開いたことがなかったように思う。でもこの手紙、こんなことろに挿んでいたっけ……。

 綺麗に折り畳んである古い手紙、そのひとつを開いてみる。

「お前のこと、大好きだよ」

 手紙には短く、そう記してあった。

 というかこの頃って確か、彼には私の他に下級生にも彼女がいたよね。まあ、その子のことがあったからこそ、卒業して彼が東京に上京した時に別れたんだけど。考えてみたら本当に酷い男だよね。別れる前に引っ叩いてやればよかった。

 腹立たしげに鼻息を吐いて、別の手紙を手に取る。

「ずっと一緒にいような、絶対」

 とか何とか書いてて卒業したら上京したじゃない。本当に適当なことばっかり書くんだから。

 ……いや違う、適当でも何でもないって、本当は知っていた。ご両親が事業に失敗して、それを助ける為に少しでも実入りのいい仕事を求めたからこそ、東京に行ったことも。

 何ともいえない想いに苛まれて、私はその手紙を置いた。そしてまた別の手紙を開く。

「今度のお前の誕生日、ホテルのフレンチに行こう。モチ、俺のオゴリだ」

 ホテルのフレンチがラブホテルのカップ麺に変わったよね、確か。約束が違うって私は思いっきり不貞腐れて。プレゼントも安物のネックレスで。

 下級生の子のこともあったから、誕生日くらい私を大切にして欲しかった。バイトもしていてお金もそれなりにあったはずなのに、こんな扱いだったから苛々しちゃったっけ……。

 あっ、そうか、彼の両親は事業失敗していたんだから、もしかして――

 私、とんでもなく悪いことを彼にしていたのかもしれない。視線を落としてその手紙を置いた。

 その時、一通の手紙が目に留まる。その手紙は私の記憶の中にはっきりと残っていた。それを手に取り開くと、そこには短く「結婚しような」と記されていた。

 おままごとみたいな言葉だけれど、私はこの手紙を貰った時、とても嬉しかった。けれど反面で彼の女癖の悪さや、今までの私に対する扱いを忘れられずに、「お断りよ」と返事を書いた。

 何だか私達って、めちゃくちゃ遠回りしてるなあ。高校の頃の私は素直じゃないし、彼は女癖が悪いし家庭の事情もあったし。

 でももしかしたら、卒業したからの数年間があったからこそ、私達は一緒になれたのかもしれない。

 お互い少し大人になって、その頃とは別の視点で相手を見て。だからまた付き合いたいって、一緒にいたいって思えたのかもしれない。

 彼も不安だったのかな。再会してからの会えなかった数ヶ月、もしかしたら結婚してからの今までも。

「お断りよ」と書いていたのに、私は彼と結婚しているのだから、結局私の負けよね。負けを認めるのは悔しいけれど、でも今更否定なんてできっこない。

 その時、携帯がメールの着信を告げた。携帯を開いて確認すると彼からで、「カニクリームコロッケとブリ大根、どっちがいい?」と書いてあった。

 思わず笑ってしまう。どっちも私が好物だ。きっと手料理で誤魔化そうって魂胆だ。

「どっちも食べたい。早く帰ってきて」と返信して、私は自分の両手を下腹に当てた。彼に伝えなくてはならないことがある。私に宿った新しい命について。

 私は彼と交わした大切な手紙達を卒業アルバムにまた挿んで、それを本棚にしまった。

 こんな赤面しそうなほど子供じみた純粋すぎる想いは、ひそやかに隠しておいた方がいいはずだから。

説明
古いアルバムに隠れていた想い。原稿用紙十二枚。
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現代 アルバム 恋愛 

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