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「いやー、暑い暑い」

 僕は熱気に歪む空に、非生産的な言葉を投げかけた。

 夏は、暑い。わかりきったことだ。

 しかしながら、言葉にしなければやりきれないほどに暑い。いや、実際言葉にしたところでやりきれるはずもなく、ギラギラと光を吐き出す太陽は真上から僕を焼く。

 頭が熱を持ち始めていた。寝てしまえばだいぶ楽なんだろうけど、目を閉じても一向に寝られやしない。茹だる様な熱気が部屋に鎮座しているからだ。

 風鈴がチリと音を鳴らす。ほんのかすかな風に揺られた硝子の繊細な音が、暑さを少しの間だけ忘れさせるけど、次の瞬間にはもう夢。音の幻想に酔っていられる時間は刹那、なんて。

「はぁあ」

 大きく溜息を吐き、寝がえりを打つ。腹にかけていたタオルケットが翻り、畳の上に。僕はそいつをつまみあげ、むこうへぽいっと投げ捨てた。

「暑い。もういっそ熱い」

 文句をくれたところで、お天道様は許しちゃくれない。それどころか、さらに焼けつく光を押しつけてくるようで実に憎らしい。

 陽の当らない場所に逃げる。

 軒下に溜まった陽の欠片を避け、指先で汗を拭う。

 一度拭っただけで手はぐっしょりと濡れていた。慌てて投げ捨てたタオルケットを探して視線をさ迷わせる。タオルケットはどこにもない。僕の視界から消えてしまっていた。

 立ち上がるのが億劫なので、仕方がないから服に擦り付ける。それからもう一度溜息をひとつ。寝転がった。

 

 遠くで蝉の鳴き声が幾重にも重なって聞こえる。

 真夏の午後。僕は扇風機もクーラーもない部屋で、いつまでたってもきやしない涼とした風を求めている。

 吸う空気も熱い。吐く息も熱い。なんとなく息苦しい。

 ふっと、体を転がして、縁側の陰から空を仰ぎ見る。

 抜けるような、田舎の青空がそこにはあった。その中を、雲の大群が泳いでいる。いかにも涼しそうでうらやましいかぎりだ。

 もし今、空の青よりも青い海に居たならば、どんなにか涼しげだろう。そんなことを考えながら、僕はひたすらに雲の数を数えた。

 途中でちぎれるものもある。ひとつだったと思ったら、ふたつだったものもある。僕は何度も何度も数え直した。気が遠くなりそうだった。

 そうしているうちに、巨大な雲がどこからか流れてきて、僕の視界一杯の空を覆ってしまった。影が軒下の陽の欠片を消す。熱気がすっ、と蒸発したように思える。

 大きな雲をずっと眺めていたら、そいつに小さな穴がぽっかりと空いた。それは小さな小さな窓だ。丸い小さな窓から、青い空がちょこりと顔をのぞかせている。

 僕は空の窓をずっと見ている。相変わらず大きな雲は太陽を隠していた。ただ偶然できた隙間から光が洩れでていた。

 なにか期待しているように、僕は視線を注ぎ続ける。と、空が落ちてきた。

「えっ」

 至極間抜けに、口から空気を吐き出す。

 音もなく、空の窓から空が溢れだしたのだ。まるで穴のあいた桶から水が逃げて行くように。あざやかな青が地上にむかってどっとあふれ出した。

 落ちてきた青は地上にぶつかってしぶきを上げながら、僕の視界が及ばない場所で渦を巻き、飛び、跳ね、大きな奔流を作り出す。見えないのにどうしてわかるのだろう。

 空は海になった。

 どぉどぉと水の唸る音は聞こえない。ただ、そいつは怪物が両手をぐわぁと上げて襲いかかってくるように津波となって押し寄せてきた。

 ついに僕の家の生け垣を遥か見下ろすほどに背の高い大津波となった空は、狙い澄ましたかのように僕に向かって突き進んでくる。

 僕は縁側で飛び起きて―― なすすべもなく、その大きな力を見ていることしかできなかった。

 まず、生け垣が呑まれる。庭木が呑まれる。祖父の大切にしている盆栽もあわや。

 小さな池に住んでいる年寄りの鯉も瞬く間に姿を消す。風鈴は音を立てる間もなくどこかに失せた。

 空は、もうすぐそこまで迫っている。軒を呑みこみ、縁側をも飲み込み、そして僕を呑みこんだ。

 衝撃はなかった。幼いころ本物の海の津波に呑まれた時は、しょっぱくて苦しくて痛かったけれど、空の津波は痛くも苦しくもしょっぱくもなかった。ただざざ、っと僕の体を浚って押し流すのだ。

 僕は両腕を前に突き出した姿勢のまま、無茶苦茶遮二無二にぐるぐると体を回転させた。

不思議な感覚だ。上も下もない。左も右もわからない。息もできた。一面の青は綺麗でとても映えていたけれど――

 体全体が冷やされた。

 巻き起こる感情によって。

 それは僕が求めた涼≠ニはまったくことなるものであって、つまり、

「うわあああぁぁぁぁぁぁ!」

 冷や汗による、うすら寒さだった。

 

「あ、あれ?」

 気付けば僕は、縁側に大の字になって寝ころんでいた。腹にはタオルケット。小さく風鈴が鳴っている。そして、手にはうちわ。

 そろそろと起き上った僕は、うちわに目を落とした。波の絵。その中心に「涼」の一文字。僕は思わず笑ってしまった。

 いつから夢で、どこまでが現実なのか。よくわからない。

 もう外は夕暮れに沈んでいる。ちぎれた雲がところどころ、斜陽を受けてオレンジ色に染まっていた。

 昼間の熱気が嘘のように、静かで涼やかな空気が吹き抜けた。風に背中の汗も渇くようだ。

「そういえば、今日は夏まつりだったかな」

 あくびをしながら呟く。今から行く分に、ちょうどいいだろう。

 のっそりと立ち上がった僕は、押し入れにふらふらと歩いて行った。

 夏まつりには浴衣。それから、うちわも忘れちゃいけないね。

 

説明
去年の夏に書いたオリジナル作品です。
……なんというか、文章が若いなあw

涼しさをイメージしました。
すぐに読みきれると思います。
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